館の周囲には武田二十四将を始めとする諸将の屋敷が立ち並び、正に人は城、人は石垣、人は堀を為していました。
三方ケ原の合戦で徳川家康を撃破しましたが、この頃より信玄は体調を崩し、上洛を断念し、帰国の途につきましたが、信濃國駒場で陣没しました、享年五十三歳でした。
城郭が鶴が舞う姿に似ているところから舞鶴(ぶかく)城とも呼ばれました。 幕末、官軍である東山道軍が甲府城を包囲すると、旧幕臣は一戦も交えず、城を明け渡してしまいました。 暖冬といわれていましたが、年が明けると日本海側は豪雪で悩まされています。 こうなると中山道和田峠の厳冬期の踏破は無理でしょう、街道ウォークの領域を遥かに越えています。 街道ウォークで遭難したのでは洒落になりません、ひんしゅくモノです。 そこで新年第一弾の街道ウォークは甲州道中、甲府柳町~下諏訪間の一泊二日コースです。 このコースは4回目です、勝手知ったるとはいえ、油断禁物です、それでは街道検証ウォークの旅に出立しましょう。
本朝はエネルギー効率の良い、豚丼にしてみました。 ところが出発時間が切迫している為、お肉をサクッと食し、残ったご飯に味噌汁を掛けるという暴挙に及んでしまいました。 ところがこれが案外イケます、味噌汁が豚汁に変身してしまったのです。 そのような訳で本年もよろしくお願い致します。
せいし)菩薩像があります。
首級を当寺に埋葬し、この石地蔵を安置しました、当初、叩けば金磬(きんけい)が鳴ったところからかんかん地蔵と呼ばれました。
貢川は甲斐市大垈(おおぬた)に源を発し、流末は荒川に落合います、工川とも書かれました。
内には毛氈が敷かれました。
大正時代に掘り出され、ここに無事安置されました。
この梵鐘は由緒ある貴重な文化財として、戦時中の供出を免れました。
茅ケ岳が望めます。
三軒茶屋辺りに竜王の一里塚があったといいますが、位置は不明です、江戸日本橋より数えて三十七里目です。
れる、風化が進んだ男女双体道祖神があります。
防(ひぶせ)の為に正一位大森福太夫稲荷大明神を勧請したものです。
明治三十六年(1903)中央線敷設当初に架橋されたレンガ造架道橋をくぐります。
志田村地内に志田の一里塚が有りましたが、位置は不明です、塚木はありませんでした、江戸日本橋より数えて三十八里目です。
郡三万石の所領を支配する陣屋がここに七年間置かれました(甲斐市指定史跡)。
下諏訪方面からはY字路を右に進み、二十三夜塔前の突当りを右折します。
戸の香炉は唐の玄宗の重器で信玄が寄贈したものといいます。
塩川を渡ると甲斐市から韮崎市に入ります。
た、一朝有事の際、将軍は服部半蔵の手引きにより、江戸城を脱出し、八王子の千人同心に守られ甲州道中を辿り、この河岸から舟で一気に駿府に至るライフラインだったのです。
宿泊することは少なかったといいます。 韮崎宿(中町)地内には韮崎の一里塚がありましたが、位置は不明です、塚木は有りませんでした、江戸日本橋より数えて三十九里目です。
義の墓があります、武田八幡神社は武田家の氏神で本殿は信玄が寄進したものです。 信義は源頼朝に従い、富士川の戦いで平維盛(たいらのこれもり)率いる平家軍を敗走させました。
行者が生きたまま埋葬され即身成仏したものです、祠の周囲には馬頭観音等の石仏石塔が集められています。
音像が祀られています。
昭和三十四年(1959)八月十四日台風七号の豪雨により釜無川が氾濫、これによる犠牲者を供養したものです。
そして旧道に目を戻すとなまこ壁の旧家や長屋門の旧家が続いています、堪りません!
四十三戸の集落でした。
旧道に戻ると七里岩上の新府城址下に曹洞宗姥石山城前寺があります、慶長十八年(1613)の創建です、元は新府城前の台地上にありましたが、後に現在地に移りました。 祖母石村地内に祖母石の一里塚がありましたが、位置は不明です、塚木は榎でした、江戸日本橋より数えて四十里目です。
悲しみの あまり石になったとか、田植えの最中に降ってきた大岩の下敷きになり、老婆が死亡したともいいます、毎年八月二十日屏風岩の九頭竜社と姥婆石を提灯で結ぶ提灯祭りが行われます。
旧道を進むと徳島堰の流れに突き当たります、この徳島堰に沿う左手(黄色矢印)からの筋が徳島堰道です。 徳島堰道をカットする方は先の甲州道中上円井へジャンプして下さい。
功刀商店の先、青哲町折居標識があるY字路を県道から分岐して斜め左(白色矢印)に進みます。
の窓は武田菱になっています。
に宝蔵寺があります、参道脇には夥しい数の石仏石塔が並んでいます。
川を跨ぐと右手に名称松(くろまつ)碑があります、昭和拾参年七月弐拾六日建立の碑には「當地方ノ一銘木ナリ」と刻まれています、今は小振りな二代目が植栽されています。
手前で、一旦沢の下に潜り込み、沢を超えた所で再び浮かび上がります、これをサイホンといます。
上円井村地内に上円井の一里塚がありましたが、位置は不明です、塚木は有りませんでした、江戸日本橋より数えて四十一里目です。
神宮の祭神です、鹿嶋大神は武道の神ですが、古来より旅立ちを鹿島立ちといい、旅の守護神ともいわれました。
の初代組合長を勤めました。
の道標には「左はらみち」と刻まれています。
天保十四年(1843)の甲州道中宿村大概帳によると台ケ原宿の宿内家数は百五十三軒、うち本陣一、問屋一、旅籠十四軒(大一、中六、小七)で、宿内人口は六百七十人(男三百四十人、女三百三十人)でした、宿並は建設省日本の道百選に選ばれています。
大権現常夜燈が旧小松家(本陣)屋敷跡に建立されました。 本陣の向いが脇本陣跡です、宿開設当初は脇本陣は無く、宿役人の家が代用されたといいます。
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