道中日記 1-177 甲州道中 ( 甲府柳町 - 台ケ原 ) 31.0km

 追 記 (H24/03/20 調査ウォーク)

 JR中央本線
甲府駅の北、およそ2.3kmの所に大正八年(1919)創建、武田信玄公を祀る武田神社があります、ここが躑躅ケ崎(つつじがさき)館跡です。

この地は前面に
甲府盆地を望み、背後に石翠寺要害山を控えた絶好の位置にあたります。

永正十六年(1519)
晴信(信玄)の父信虎石和川田より当地にを移し、天正九年(1581)信玄の子勝頼新府に移るまでの六十三年間、甲斐の中心でした。

武田神社の拝殿脇には
信玄公御使用井戸があります、ここが躑躅ケ崎館の中心部に掘られた井戸です。
武田神社 拝殿 信玄公御使用井戸

 館の周囲には
武田二十四将を始めとする諸将の屋敷が立ち並び、正に人は、人は石垣、人はを為していました。

 JR中央本線甲府駅南口を出ると右に武田信玄公之像があります、大永元年(1521)十一月三日、晴信(信玄)は甲斐武田家第十八代当主信虎の嫡男として誕生しました。

天文十年(1541)六月、
晴信は専横の振る舞い多い父信虎を放逐し、第十九代当主となりました、時に晴信二十一歳、信虎四十八歳でした。

晴信は
諏訪頼重を滅ぼし、次いで信濃守護小笠原長時を打ち破り、信濃國を制圧しました。

南下を開始した越後の
上杉謙信とは五度に渡り、川中島の合戦を繰り返し、南下を食い止めました。

永禄二年(1559)
晴信は出家し、信玄と号しました、今川氏真を追放し、駿河國を制圧、いよいよ上洛の途に着きました。
信玄像 晴信像

 
三方ケ原の合戦
徳川家康を撃破しましたが、この頃より信玄は体調を崩し、上洛を断念し、帰国の途につきましたが、信濃國駒場で陣没しました、享年五十三歳でした。

 追 記 (H24/03/20 調査ウォーク)

甲斐國は
武田氏が滅亡すると織田信長の領国となり、本能寺の変後は徳川家康の支配下になりました。

家康は腹心の
平岩親吉(ちかよし)に築城を命じ着手するも、豊臣秀吉の天下となると、その家臣が入城し、甲府城を完成させました。

関ケ原の合戦後は徳川一門が城主となり、のちに甲府が幕府直轄地になると甲府勤番が置かれました。
甲府城 稲荷櫓 天守台 天守台からの眺め

 城郭が
鶴が舞う姿に似ているところから舞鶴(ぶかく)とも呼ばれました。

幕末、官軍である
東山道軍が甲府城を包囲すると、旧幕臣は一戦も交えず、城を明け渡してしまいました。


 暖冬といわれていましたが、年が明けると日本海側は豪雪で悩まされています。

こうなると中山道
和田峠の厳冬期の踏破は無理でしょう、街道ウォークの領域を遥かに越えています。

街道ウォークで遭難したのでは洒落になりません、ひんしゅくモノです。

そこで新年第一弾の
街道ウォーク甲州道中、甲府柳町~下諏訪間の一泊二日コースです。

このコースは4回目です、勝手知ったるとはいえ、油断禁物です、それでは
街道検証ウォークの旅に出立しましょう。

 
松屋の豚丼
 例によって東神奈川駅近の松屋さんにて腹ごしらえです。

本朝はエネルギー効率の良い、
豚丼にしてみました。

ところが出発時間が切迫している為、お肉をサクッと食し、残ったご飯に味噌汁を掛けるという暴挙に及んでしまいました。

ところがこれが案外イケます、味噌汁が豚汁に変身してしまったのです。

そのような訳で本年もよろしくお願い致します。


  平成22年01月06日 AM 8:07 甲府柳町宿出立 韮崎宿まで 12.9km

 甲府柳町宿の起点は相生歩道橋です、空気は凍りついています、それでは出立しましょう。

美術館通りを進むと、 スグ先の丸の内郵便局東交差点が
身延道追分です。

横断すると左手に復元された
身延道道標「西志んしゅうみち」「南みのぶみち」があります。

志んしゅうみち(信州道)は甲州道中です、みのぶみち(身延道)は日蓮宗総本山身延山久遠寺への街道です、更には東海道の駿河岩淵に至るところから駿州往還とも呼ばれました。

右手の浄土宗青沼山
天然寺の境内には知恵仏の勢至
身延道追分 身延道道標 勢至菩薩

せいし)
菩薩像があります。

 天然寺と隣り合わせに臨済宗光明山法輪寺があります、本堂のガラス戸には武田菱の紋があしらわれています。

境内には
かんかん地蔵があります、当寺を開基した武田有義のお墓です。

有義(ありよし)は武田家の祖新羅三郎義光の四代孫で、甲斐源氏(武田氏)の第六代棟梁でした、平家全盛時代には平重盛(清盛嫡男)に仕え、兵衛尉(ひょうえのじょう)として活躍し、後に源頼朝平家追討に決起した際、有義は甲斐源氏軍の総大将として大功を立てました。

頼朝の死後、その側近
梶原景時が有義を総大将にして鎌倉の倒幕を図ったが失敗に終わる、有義は九州五島列島に逃れて五島家の始祖となりました。

有義は若い頃より深く仏教に帰依し、文治二年(1186)京都嵯峨野法輪寺を模して当寺を建立しました、有義は正治二年(1200)五島で逝去しまたが、
法輪寺 かんかん地蔵

首級を当寺に埋葬し、この石地蔵を安置しました、当初、叩けば金磬(きんけい)が鳴ったところからかんかん地蔵と呼ばれました。

 文化ホール北交差点を越し、御食事処富士屋の手前を右に入ると穴切(あなぎり)大神社があります。

その昔、甲府盆地は湖でしたが、
国造神に祈願したところ、湖の底に穴が開き盆地になったといいます、この国造神を祀ったのが穴切大明神です。

随神門は寛政六年(1794)建立の楼門です、随所に優美な彫刻が施されています。

本殿は一間社流造で桃山時代の建立といます、随所に彩色彫刻が施されています。

境内には
神楽殿や、道祖神神明社、そして安産の守り神である塩釜社が祀られています。
随神門 穴切大神社本殿 神楽殿

 寿交番前交差点を右に入ると浄土宗光雲寺があります、本尊は阿弥陀如来で境内に萬霊等があります。

寿交番前交差点を左に入ると
文珠神社があります、併せて金刀比羅神社の幟がはためいています。

境内には
芭蕉句碑「物言えば 唇寒し 秋の風」があります、人の短所をいった後は、後味が悪く、寂しい気持ちがする、転じて、何事につけても余計なことをいうと、災いを招くという戒めの句です。

境内には
素堂治水碑があります、「目には青葉 山ほととぎす 初がつお」で知られる山口素堂は甲府藩士で、近くを流れる濁川の治水事業に携わり、その業績を讃えた顕彰碑です。
文珠神社 芭蕉句碑 山口素堂治水碑

 道中が大きく左にカーブした先で荒川荒川橋で渡ります、荒川は金峰山国師(こくし)に源を発し、流末は笛吹川に落合います。

一旦、大雨になると水害をもたらすところから
荒川と呼ばれました、しかし止むと涸れてしまうところから忘川とも呼ばれました、四~九月は作場船による舟渡しで、翌四月までは仮橋が架橋されました。

橋上の左手に
裏富士、右手には南アルプスのパノラマが広がります。

スグ先で
貢川(くがわ)を貢川橋で渡り、渡詰
を右折します。
荒川 裏富士 南アルプス 貢川橋西詰分岐

 貢川は甲斐市大垈(おおぬた)に源を発し、流末は荒川に落合います、工川とも書かれました。

 上石田町バス停先で道中は緩いカーブの枡形になっています、本来の直角部分にカーブを付けて、今日の交通事情に対応させています。

この枡形内の右手には
上石田のサイカチ(推定樹齢三百年)があります、甲府市指定有形文化財天然記念物です。

サイカチは川岸の湿った所に生える樹木です、ここが貢川沿いであったことを証明しています。

大小二本揃って生えているところから地元では
夫婦サイカチと呼んで親しんでいますが、両樹とも雄木です。

サイカチの右奥には上石田の
秋葉神社があります。
上石田の枡形 サイカチ 秋葉神社

 貢川交差点を渡ると右手に貢川村役場貢川小学校址碑があります、 明治八年(1875)上石田、徳行、富竹、龍王、下河原が合併して貢川村となりました。

旧貢川村は明治維新以前は幕府の直轄地で市川代官の支配地でした。

前田橋南交差点を過ぎると、左手に山梨県立
芸術の森公園があります。

園内の
文学館には郷土の飯田蛇笏、芥川龍之介、太宰治、樋口一葉など山梨ゆかりの文学者の資料を展示しています。

隣接する
美術館にはミレーの「落ち穂拾い」「種をまく人」が常設展示されています。
貢川村碑 美術文学館 八幡宮

 貢川二丁目交差点先を左に入ると右手に貢川の八幡宮があります。

八幡宮から先に進み、左に入ると浄土宗桃日山
竜源寺があります、境内には筆塚石塔群六地蔵等があります。

道中に戻ると
中央自動車道の手前から、甲府市から甲斐市に入ります、平成十六年(2004)竜王町、敷島町、双葉町が合併して甲斐市になりました。

中央自動車道高架竜王高架橋でくぐります。

高架橋をくぐり、高架下を左に進むと、正面のY字路に文化十年(1813)建立の
道祖大神が祀られています、富竹新田の道祖神です。
龍源寺 中央自動車道高架 道祖大神

 一旦道中に戻り、高架下を右に入ると左手に道祖大神が祀られています、名取下の道祖神です、自然石の上に石祠石仏が祀られています。

道中に戻ると左手の土蔵脇に
南妙法蓮華経と髭文字で刻まれた題目碑が大小二基あります。

向って右は天明元年(1781)建立の
日蓮大菩薩五百遠忌碑です、左は天保二年(1831)建立の日蓮大菩薩五百五十遠忌碑です、遠忌(おんき)とは五十年毎に行う宗祖の回忌法要のことです。

名取交差点手前の左手に
山県神社社標があります、「従是九二三米」と刻まれています、それでは踏み込んでみましょう、左折(黄色矢印)します。
道祖大神 日蓮大菩薩遠忌 山縣神社社標

 大弐(だいに)学問通りを進みます、コンビニを過ぎると右手に神明神社があります。

寛永十六年(1639)代官
平岡次郎右衛門和由(かずよし)がこの地に用水を通し、二百九十石余の新田が開発され、富竹新田村が開村されました、その際、村の氏神として神明神社が勧請されました。

本殿は安永九年(1780)の建立、一間社流造り、屋根は檜皮葺(ひわだぶき)、軒は二軒繁垂木(ふたのきしげだるき)で甲斐市指定文化財です。

古社水神宮は享保四年(1719)の建立で竜王町指定史跡です、富竹新田村の人達が代官平岡次郎右衛門和由の功を水神として祀りました。
神明神社 神明神社社殿 古社水神宮

 甲府バイパスを山県神社北交差点にて横断した先の左手に山県神社があります。

山県大弐(やまがただいに)は甲斐武田氏の譜代家臣である山県昌景の子孫で、江戸時代中期の儒学者です、大弐は尊王攘夷を唱えたところ、幕府に捕らわれ明和四年(1767)処刑されました。

それから百年余を経て、幕末、討幕の大義名分になった
尊攘攘夷山県大弐の遺徳によるものといわれました。

これにより維新後
明治天皇山県大弐の偉業を讃え、正四位が下賜され、明治十年(1921)山県神社が創建されました。
山県神社 山県大弐像 山県大弐墓

 先に進むと右手に名取温泉があります、天然の湯で、泉質は単純温泉です、入湯料は500円です。

新福寺入口交差点を右に入ると右手に寛永五年(1628)創建の曹洞宗
真福寺があります、境内には享保五年(1720)造立の回國地蔵尊があります。

竜王郵便局の手前を右に入ると、簡素な
松尾神社があります、金刀比羅神社御嶽神社の二社が祀られています。

境内には文政元年(1818)建立の
名取の道祖神(石祠)が祀られています。
名取温泉 回國地蔵尊 松尾神社 名取の道祖神

 竜王駅前交差点の次、竜王新町交差点を右折(白色矢印)します。

スグ先の右手に文政七年(1824)建立の
丸石道祖神(道祖神場)があります、竜王新町下の道祖神です、ここは往時竜王新町下宿村の寄合場でした。

この道祖神の手前を右に入ると右手に
厄除不動尊を安置する民家風の新町不動堂があります。

この
厄除不動尊立像弘法大師四十二歳時の作で、元は光善寺(廃寺)の本尊であったといいます。
竜王新町分岐 丸石道祖神 新町不動堂 厄除不動尊

 スグ先右手のNFE山梨支店隣の民家の屋敷内に山縣斎宮宅阯碑があります。

山県大弐の兄昌樹の旧宅跡です、斎宮は号でした、農業を営んでいましたが、明和四年(1767)弟大弐の事件に連座し、駿河の地に追放されました。

先に進み、左手の消防用ホース格納箱1-2の手前を左に入ると右手の屋敷内に
明治天皇御小休所址碑があります。

明治十三年(1880)巡幸の際に、竜王村の
小宮山邸が休息所となりました、外塀から邸内まで菊の紋章入りのが張り廻らされ、屋
山縣斎宮宅趾 山縣斎宮宅趾碑 明治天皇御小休跡 明治天皇碑

内には
毛氈が敷かれました。

 次いで左手に慶長十一年(1606)創建の浄土宗必得山称念寺があります。

境内には
くり抜き石枠井戸があります、一枚岩をくり抜いた石枠の井戸で、甲州道中を往来する旅人が休憩したところからお休み井戸とも呼ばれました(甲斐市指定有形民俗文化財)。

本堂脇に
石造六地蔵尊(甲斐市指定有形文化財石造物)があります、江戸時代初期の造立で、寛永年間(1624~44)に赤坂諏訪神社辺りに創建された地蔵院本尊でした。

しかし明治初期に
廃寺となり、なんとこの六地蔵さん達は里中の石橋に使われたといいます。
称念寺 石枠井戸 六地蔵

大正時代に掘り出され、ここに無事安置されました。


 称稔寺を後にするとJR中央本線第一信州往還踏切で横断します、何と響きの良い踏切名でしょう!

踏切を横断した一軒先の左手に石祠の
道祖神が祀られています、竜王新町中の道祖神です、傍らには丸石道祖神が祀られています。

道中を進むと信号交差点の手前左手に明治三十二年(1899)建立の
道祖大神が祀られています、竜王新町上の道祖神です。

信号交差点を直進(白色矢印)します。
中央本線踏切 道祖神 道祖大神 赤坂

 左折(黄色矢印)すると曹洞宗有富山慈照寺があります、武田氏、徳川氏の崇敬が篤かったといいます。

山門は寛永十六年(1639)の建立で、桃山期の形式を伝えています。

本堂は桃山期の建立で、山門と共に山梨県指定有形文化財です。

境内に湧く
竜王水竜王の地名の由来となりました。

梵鐘は正保四年(1647)の鋳造で、時の鐘でした。
慈照寺山門 慈照寺本堂 龍王水 梵鐘

 この
梵鐘は由緒ある貴重な文化財として、戦時中の供出を免れました。

 信号交差点に戻ると、急な上り坂になります、赤坂です、長らく続いた甲府盆地外輪山になります。

赤坂をグングン登ると右手に赤坂供養塔(甲斐市指定有形民俗文化財)があります。

南無阿弥陀仏と刻まれた名号碑は無縁者供養の為に安政年間(1854~60)に建立されたものです。

赤坂はその名の如く赤土の坂で、一旦雨や雪が降ると泥濘(ぬかるみ)、行き倒れの旅人が多かったといいます。

赤坂供養塔のスグ先の左手には正徳元年(1711)建立の
馬頭観音像が祠の中に安置されています、赤坂を往来する人馬の安全を見守ってきました。
赤坂供養塔 馬頭観音

 右手の諏方大明神鳥居をくぐると、左手に諏訪神社があります、竜王新町の産土神です。

右隣りは
赤坂稲荷神社です。

境内には
東照宮武田宮や竜王新町諏訪神社秋季御柱大祭の御柱が立っています。

道中に戻り、後方を振り返ると
甲府盆地が眼下に望めます。

赤坂台病院辺りまで上ると道中正面の右手に
ニセ八(やつ、偽八ケ岳)と呼ばれる
諏訪神社 御柱 最後の甲府盆地 ニセ八

茅ケ岳が望めます。

 ホテルファンタジー手前の右手にトタン製の祠があり、中に道標を兼ねた地蔵尊「右江戸道 左五ケ村道」や供養塔等が安置されています。

セブンイレブンの向側には文政二年(1819)建立の
廿三夜塔があります、月待講です。

この辺りが
赤坂の頂上で、往時はここに三軒茶屋がありました、 一旦天候不順になると赤坂は難渋しました、特に厳冬期は想像を超える難所でした、ここの茶屋は旅人にとってある意味避難小屋であったのかもしれません。
簡易祠 石仏石塔群 石塔 廿三夜塔

 三軒茶屋辺りに
竜王の一里塚があったといいますが、位置は不明です、江戸日本橋より数えて三十七里目です。

 セブンイレブン前の変則十字路の信号交差点を直進し、先のY字路を左(白色矢印)に入ります、ここから下り坂になります。

右手に
ナイスが現れれば正解です。

坂をグングン下り、
坂上から横町に入ると、左手に堂々としたなまこ壁の土蔵があります。

先を道なりに左折(白色矢印)します。

スグ先の左手に寛政五年(1794)建立の
庚申供養碑(庚申塔)があります。
下今井分岐 なまこ壁の土蔵 左折 庚申塔

 突当りのT字路が市川駿河道追分(黄色矢印)です、駿州往還の脇道です。

このT字路手前の左手に
庚申塔を兼ねた道標が二基あります、共に下部が埋没しています。

左手の
道標は元禄六年(1693)の建立で「従是左甲 従是右市」と刻まれています。

右手の
道標は弘化三年(1846)の建立で「庚申右市川駿 左甲府江」と刻まれています。

赤字は埋没部分の類推です。

T字路手前の右手に下今井(横町)の
道祖神と呼ば
市川駿河道追分 庚申塔道標 男女双体道祖神

れる、風化が進んだ
男女双体道祖神があります。

 下今井(寺町)に入るとなまこ壁の旧家があります。

更に下ると左手に
火の見ヤグラがあり、右手に元亀元年(1570)開山の曹洞宗天真山自性院があります。

参道口には
丸石道祖神が祀られています、参道の石畳は明和二年(1765)の敷設で、車両の乗り入れ禁止になっています。

境内には
大森稲荷大明神が祀られています、安政時代に下今井の大半を焼失する大火があり、文久三年(1863)火
下今井の町並 参道石畳 自性院 大森稲荷大明神

防(ひぶせ)の為に
正一位大森福太夫稲荷大明神を勧請したものです。

 下今井(仲町)に入ると右手赤レンガ塀の外れに天保二年(1831)建立の男女双体道祖神が祀られています、大部風化が進んでいます。

下今井上町交差点が
穂坂道追分です、穂坂道(黄色矢印)は甲斐信濃を結んでいます。

天文十二年(1543)
武田信玄の信濃進攻の際、軍用路となりました。

JR中央本線手前の左手に
下今井(上町)の道祖神と呼ばれる新旧の丸石道祖神が祀られています。
男女双体道祖神 穂坂道追分 新旧丸石道祖神 中央本線ガード

 明治三十六年(1903)中央線敷設当初に架橋された
レンガ造架道橋をくぐります。

 ガード先のY字路は右のJR中央本線に沿う県道6号甲府韮崎線を進みます。

先に進むと右手に
泣石があります、天正十年(1582)高遠城が落城すると武田勝頼は完成したばかりの新府韮崎城に自ら火を放ち岩殿城に向けて落ち延びました。

勝頼夫人がここで振り返り、燃える城を見て、涙を流したといいます、これ以降、勝頼一行は死の彷徨となります。

富士川水系の
坊沢川を越すと、先の右手がJR中央本線塩崎駅です。

道中の左手には
鳳凰三山(地蔵岳、観音岳、薬師岳)や甲斐駒ケ岳の山並が広がります。
甲府韮崎線 泣石 鳳凰山&甲斐駒

 一級河川の東川(ひがしがわ)を渡ると下今井(新町)から志田(下志田)に入ります。

東川の上流には
茅ケ岳が望めます。

なまこ壁の
土蔵を過ぎると右手に文化十五年(1818)建立の丸石道祖神があります、並びには寛政五年(1793)建立の三界萬霊塔があります、南無観世音菩薩と刻まれています。

用水脇には天保五年(1835)建立の
二十二夜塔があります、女人による月待信仰の下組講中が建立したものです。
東川 丸石道祖神 三界萬霊塔 二十二夜塔

 石塔群向いの左手には豪壮な建物群があります、旧庄屋宅です、立派なもんですね。

双葉西小学校バス停先を斜め左に入ります、
志田旧道です。

旧道に入り、共同住宅手前の
一本目を右折します、下諏訪方面からは突当りを左折します。

旧道はスグ先で再び
県道6号線に合流します、下諏訪方面からは左手船形神社鳥居(黄色丸)の向いを斜め右に入ります。
旧庄屋宅 志田旧道東口 志田旧道内分岐 志田旧道西口

 志田村地内に
志田の一里塚が有りましたが、位置は不明です、塚木はありませんでした、江戸日本橋より数えて三十八里目です。

 丸石道祖神の奥に船形神社石鳥居があります山梨県指定有形文化財です。

応永四年(1397)建立の
明神鳥居です、柱は太く笠木島木なども真反りを見せ、全体の形も幅が広くて丈が低いので、安定感に富んでいます。

船形神社は甲斐国志によると、古来より釜無川沿いに崩壊した古墳があり、そこに諏訪神社が祀られていました、この崩れた古墳の石室が船形のように見えたところからいつしか船形神社と呼ばれるようになりました、その後釜無川の度重なる氾濫に見舞われ、江戸時代に現在地に移されました。

道中は
志田(上志田)から宇津谷(東部)に入ります。
丸石道祖神 船形神社石鳥居 船形神社本殿

 セブンイレブン手前の左手に宇津谷(うつや)東部の道祖神と呼ばれる、享和二年(1802)建立の石祠道祖神や傍らに丸石道祖神が祀られています。

宇津谷(
東部)から宇津谷(塩崎町)に入ります、宇津谷バス停先を右に入ると六反川の手前左手に芭蕉句碑「昼見れば 首すじ赤き 蛍哉 」があります、六反川はホタルの名所でした。

道中に戻り、六反川を渡った先を右折(黄色矢印)し、少し進むと右手に
一橋陣屋跡(解説)があります、延享三年(1746)徳川吉宗の四男一橋宗尹(むねただ)の巨摩
道祖神 芭蕉句碑 妙善寺口 一橋陣屋跡

郡三万石の所領を支配する
陣屋がここに七年間置かれました(甲斐市指定史跡)。

 一橋陣屋向いに臨済宗妙心寺派天香山妙善寺があります、永和四年(1378)の創建です。

妙善寺本堂厨子は本尊の十一面観世音菩薩像を安置し、室町時代の様式が残された貴重なものです(甲斐市指定有形文化財工芸品)。

妙善寺庭園上部に
安倍加賀守勝宝(かつとみ)の墓があります、武田家重臣使番十二人衆の一人で弓矢の巧者でした、主君勝頼と共に田野に落ち延び、討死しました。

首級を家臣が持ち帰り、菩提寺である当寺に葬りました、三基の宝篋印塔のうち、中央が勝宝の墓で、左右は息子の墓です。
妙善寺山門 妙善寺本堂 安倍加賀守墓

 道中に戻り県道を進み、田畑(たばた)交差点を右折(白色矢印)します。

右折すると右手民家の石垣の上に
田畑の道祖神と呼ばれる石祠が祀られています。

道中は上り坂になり、宇津谷(
田畑)から宇津谷(金剛地)に入ります。

上り詰めると
Y字路になります、ここに二基の二十三夜塔があります。

江戸方面からはY字路を左に進み、突当りを左折します。
田畑分岐 石祠道祖神 二十三夜塔分岐 二十三夜塔

下諏訪方面からはY字路を右に進み、二十三夜塔前の突当りを右折します。

 道中は下り坂になります、火の見ヤグラがある金剛地公民館先の路地を右に入ると高台に金山神社があります。

金山神社の祭神は鍛冶の神である金山猿田彦です、御神体はふいごを祀っています、金剛地には武田氏配下で刀剣等を製造していた鍛冶職人達が多数居住していました。

この金山神社は 鍛治の槌(つち)のやり取りから
夫婦和合の性神としても崇められています。

道中に戻り、スグ先のY字路を右(黄色矢印)に入ると曹洞宗
金剛寺があります、、応永十年(1403)武田信春(武田家第十二代当主)が創建し、寺宝の
金山神社 金剛寺分岐 金剛寺

戸の香炉は唐の玄宗の重器で信玄が寄贈したものといいます。

 坂を下ると田畑交差点で分岐した県道6号甲府韮崎線に再び合流します。

この
金剛地分岐の玉石擁壁上には金剛地の道祖神と呼ばれる石祠があります。

往時はここから直接
河原に出て、旧塩川橋を渡りましたが、今は上流の塩川橋を渡ります。

塩川は奥秩父山塊の主峰金峰山付近に源を発し、流末は釜無川に落合います。

橋上からは優美な
裏富士鳳凰三山そして甲斐駒ケ岳が望めます。
金剛地分岐 石祠道祖神 塩川橋 塩川

 塩川を渡ると
甲斐市から韮崎市に入ります。

 塩川橋西詰交差点から斜め右に進みます、道中はJR中央本線に沿って進みます。

小さな
黒沢橋を渡り、韮崎市立病院を過ぎると下宿交差点に至ります。

下宿交差点正面(白色矢印)が
韮崎宿です、左折(黄色矢印)し、船山橋の手前左手に船山河岸跡碑があります、天保六年(1835)釜無川の水を引き入れ、大岩で船山河岸が築かれました、この河岸は鰍沢(かじかさわ)河岸の上流にあたり、富士川舟運の終点として大いに賑わいました。

明治三十一年(1898)の
釜無川の大水害により、河岸は流失してしまいました。
塩川橋西詰分岐 船山河岸分岐 船山河岸跡碑

 船山河岸跡碑の奥に姫宮神社があります、境内には明治天皇駐蹕碑鏡石があります。

鏡石は宝暦七年(1757)の建立で、富士講の信者がこの穴を通して富士を遥拝しました。

下宿交差点に戻ると左手に
鰍沢横丁があります、下流に鰍沢河岸があり、東海道岩淵河岸に繋がっていました、これは江戸初期、幕命により京の豪商角倉了以が開いた舟運です。

この舟運は正に
江戸城の生命線でし
姫宮神社 境内 鏡石 鰍沢横丁

た、一朝有事の際、将軍は
服部半蔵の手引きにより、江戸城を脱出し、八王子の千人同心に守られ甲州道中を辿り、この河岸から舟で一気に駿府に至るライフラインだったのです。

 AM 11:10 韮崎宿着 台ケ原宿まで 18.1km

 鰍沢横丁を過ぎると歩道の電柱が取り払われ、スッキリした町並みになります、韮崎宿に到着です!

韮崎の地名は長く延びる七里岩がニラ(韮)の葉のように見え、その先端(崎)に位置するから、又はニラの群生地であったところから、そして七里岩の出崎船山が睨(ニラ)みあっているところ等を由来としています。

韮崎宿は北に
信州道(佐久往還)、南に身延道(駿州往還)を控え、交通の要衝、そして鰍沢河岸(幕末には船山河岸)には、峡北、信州諏訪や佐久の江戸城納めの年貢米や雑穀の下げ米や、食塩、干し魚などの上げ塩等の物資集散地として大いに賑わいました。

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると韮崎宿宿内家数は二百三十七軒、うち本陣一、問屋一、旅籠十七軒(大九、中五、小三)で、宿内人口は千百四十二人(男五百七十四人、女五百六十八人)でした。
韮崎宿

 宿並に入ると左手に日蓮宗大蓮寺があります、境内に縁切り地蔵(延命地蔵)があります、結びたい縁とは逆に病気、貧困、人間関係等の断ち切りたい縁にご利益があるといいます。

右手の
井筒屋醤油店は昭和五年(1930)の創業です、重厚な造りが宿並に彩りを添えています。

宿並を挟んだ向いの創業百年仏壇仏具の
喜月屋の所に馬つなぎ石が残されています、この石の穴に手綱を通して馬を繋ぎました、馬方の往来を物語っています。
縁切り地蔵 井筒屋醤油店 喜月屋 馬つなぎ石

 宿並右手のサイトー理容店と千野眼科医院の間の路地(黄色矢印)に入ると正面が一橋陣屋跡です。

巨摩郡三万四十四石余の
一橋領を治めるために宝暦三年(1753)宇津谷村からこの地に陣屋が移設されました。

その後寛政六年(1794)に
陣屋は駿河國榛原(はいばら)郡相楽町に移転しました。

千野眼科医院の所が
韮崎宿本陣跡です、建坪はおよそ百二十坪でした、本陣は問屋を兼ね、人足二十五人、馬二十五疋を常備し、継ぎ立て業務をこなしました。

甲州道中を通行する参勤の大名は
高島藩高遠藩飯田藩に限られていましたが、日程の関係上、韮崎宿本陣に
陣屋口 一橋陣屋跡 韮崎宿本陣跡

宿泊することは少なかったといいます。

韮崎宿(中町)地内には
韮崎の一里塚がありましたが、位置は不明です、塚木は有りませんでした、江戸日本橋より数えて三十九里目です。

 本陣跡の向いに旅人御宿清水屋があります、創業は弘化二年(1845)の老舗旅館です、今も現役です(0551-22-0024)。

韮崎宿の起点本町第二交差点手前右手の上田商店の所にも駒つなぎ石があります。

ここを右折するとJR中央本線
韮崎駅です、途中に蔵前寺梅天神社があります。

の本町交差点が信州道追分です、中山道岩村田宿へ十八里の佐久往還です。

岩村田宿の龍雲寺には伊那駒場で死去した武田信玄が埋葬されています。
清水屋旅館 馬つなぎ石 信州道追分

 本町交差点を右(黄色矢印)に入り、一本目を左折し、平和観音への坂道を上ると、左手に元は信州道追分にあった元禄八年(1695)建立の追分道標「右信州さくの郡みち 左信州すわ上みち」が移設されています。

本町交差点を過ぎると右手に
が現れます、釜無川の浸食により出来上がった七里岩の西端です。

ここに曹洞宗仏窟山
雲岸寺があります、寛正五年(1464)霊場窟観音を守るべく創建されました、慶長八年(1603)徳川家康は黒印地一石四斗四升余と屋敷百五坪を与え保護しました。

境内の七里岩の懸崖造り(けんがいづくり)の
窟観音堂は天長五年(828)弘法大師の開基です。
信州道追分道標 雲岸寺 窟観音堂

 石段を上ると窟観音堂内が拝観できます。

手前の窟室内には寛文七年(1667)に
千体仏(千体地蔵尊)が安置されました、必ず一体は参詣祈願者と目が合うと信仰されました。

中央の窟室内には天長五年(828)弘法大師作の
御尊像が安置されています。

奥の窟室は
窟観音本殿で、天長五年(828)弘法大師作の本尊聖観世音菩薩像が安置されています。
窟観音堂 千体仏 弘法大師御尊像 聖観世音菩薩像

 七里岩の上には白亜の平和観音が聳えています、昭和三十六年(1961)市民の平和や登山者らの安全を祈願して造立されたものです。

その優美な姿から
関東三観音(群馬県高崎観音、神奈川県大船観音)に数えられています。

雲岸寺先の左手に
にらさき文化村があります、小林一三翁生家跡です、小林一三阪急東宝グループの創業者で宝塚歌劇団の創始者です。

市役所東交差点を左に入ると韮崎市役所の敷地内に
武田太郎信義之騎乗像があります、武田橋を渡った釜無川対岸の地は武田氏発祥の地です、願成寺には新羅三郎義光から四代目で初めて武田姓を名乗った
平和観音 小林一三翁生家跡 武田太郎信義之像

の墓があります、武田八幡神社は武田家の氏神で本殿は信玄が寄進したものです。

信義は
源頼朝に従い、富士川の戦い平維盛(たいらのこれもり)率いる平家軍を敗走させました。

 ホテルルートインコート韮崎を過ぎると右手奥に白髯(しらひげ)神社があります、猿田彦大神を祀っています。

境内には花の大きさでは日本一といわれた通称
大花桜の名木があります。

社殿前の石段脇に
金井志雪句碑「暮おしむ 枝から明けし 桜かな」があります、大花桜を吟じた自筆の句碑です。

金井国治(俳号志雪)は諏訪藩士でしたが、廃藩置県により失業し、芭蕉の弟子曽良にならい諏訪を出て、韮崎を中心に漂白しつつ、天分に恵まれた俳諧の道に専念し、この地の俳諧隆盛に貢献しました。
白髯神社 金井志雪句碑 大花桜

 水神地区に入り、青坂バス停の手前左手に風化が進んだ馬頭観音像があります。

石仏の先が
Y字路になっています、左は甲州道中、右は原路(はらぢ、現七里岩ライン)の青坂です。

この先
甲州道中は、釜無川の流域を通行するところから河路(かわじ)と呼ばれましたが、しばしば釜無川の氾濫により通行不能となりました。

そこで七里岩上に迂回路として
原路(はらじ)が開削されました、甲州道中裏道とも呼ばれました。

道中を進むと右手の石垣上に
行人塚があります、祠には行人正人と記されています。
馬頭観音 原路追分 行人塚

 
行者が生きたまま埋葬され即身成仏したものです、祠の周囲には馬頭観音等の石仏石塔が集められています。

 一ツ谷交差点手前の三角地に安政四年(1857)建立の水神宮(すいじんぐう)が祀られています、石祠には九頭竜大権現講中と刻まれています、釜無川を鎮めています。

一ツ谷交差点にて国道20号線に合流します、下諏訪方面からは斜め左に入ります。

なまこ壁の建物を過ぎると、道下に
十六石標石があります、武田晴信(信玄)が天文十二~十三年(1543~44)頃、釜無川の水害から河原部村(現韮崎)を守るため、治水工事を行い堤防の根固めに並べ据えた巨石が十六石です。

先の
一ツ谷区公民館の敷地奥に石仏石塔が並んでいます、三体の地蔵尊があり、その右手には寛政四年(1792)建立の庚申塔、左手には安永九年(1780)建立の馬頭観
水神宮 十六石 石仏石塔

音像が祀られています。

 先の右手に寛政二年(1790)建立の秋葉大権現常夜燈があり、傍らには石祠が祀られています。

滝田建材㈱韮崎生コン工場の敷地内に
水神宮が三社祀られています、祖母石村は釜無川の氾濫に悩まされ、文化二年(1805)戸隠神社の祭神九頭竜権現の分霊を祀りました。

スグ先を
国道20号線から分岐して斜め右の下祖母石(しもうばいし)旧道に入ります、 この分岐点には水難供養塔があります。
秋葉常夜燈 水神宮 下祖母石口分岐 水難供養塔

 昭和三十四年(1959)八月十四日
台風七号の豪雨により釜無川が氾濫、これによる犠牲者を供養したものです。

 旧道に踏み込むと往時と同じ原風景に浸れます。

旧道の右手には
七里岩(しちりいわ)が聳え、この先信州との國境まで七里程連なっています。

七里岩は太古に
富士山程の高さがあった八ケ岳が大噴火し、八ケ岳泥流と呼ばれる火砕流が一帯に堆積しました、これを釜無川が浸食して出来上がったものです、何という悠久のスペタクルでしょうか。

目を左に転じると南アルプスの
鳳凰三山(地蔵岳、観音岳、薬師岳)が望めます。

地蔵岳の山頂部には地蔵仏(地蔵岳オベリスク)と呼ばれる巨大な尖塔が肉眼でも十分に確認できます。
七里岩 鳳凰三山 旧道風情

 そして旧道に目を戻すと
なまこ壁の旧家や長屋門の旧家が続いています、堪りません!

 旧道の右手には風情のある茅葺の武家門があります、当家は武田家に仕えた名家です。

次いで左手に
神明宮があります、享保九年(1724)この地に遷座し、旧祖母石村旧西岩下村の鎮守です。

境内の
金毘羅山常夜燈は釜無川の舟運に由来するものです。

境内には
観音堂があります。

祖母石村は幕府領で文化初年、
武家門 神明宮 金毘羅山常夜燈 観音堂

四十三戸の集落でした。


 旧道を進むと左手に韮崎消防団第三部の火の見ヤグラがあります、その向いに享保六年(1721)建立の南無阿弥陀佛名号碑があります、赤く塗られているところから、地元では赤地蔵と呼ばれています。

なまこ壁の土蔵を過ぎると和食処
佳幸(かこう)の案内看板があります。

追記(H24/05/26調査ウォーク)

ここが
新府城址への上り口(黄色矢印)です、案内標識に従って急坂を上り詰めると原路である県道17号線に突き当たります、左折して進むと左手に藤武(ふじたけ)神社鳥居があり、急な登り参道石段が上方にのびています、新府城址はこの石段から始まります。
赤地蔵 新府城口 藤武神社鳥居

 登り切ると新府城址です、藤武神社は新府城の守護神で、お新府さんと呼ばれています。

城址の一角には
武田勝頼公霊社があります、貞享元年(1684)領民が勝頼公の恩徳を追慕し、石祠を建立し、勝頼公の心霊を納め、これを祀り勝頼神社と称したものです。

新府城は天正九年(1581)勝頼の命により真田昌幸七里岩の台上に築城した武田氏最後の居城です、石垣を用いず、土塁と堀による平山城でした、新府韮崎城と命名されました。

七里岩の険を天然の要害とし、原路側には壕を掘り廻らした堅固な城でした。
藤武神社本殿 勝頼公霊社 新府城址

 天正三年(1575)武田勝頼長篠の戦い織田徳川方に大敗を喫してしまった。

これを機に
織田徳川の甲斐侵攻に備え、天然の要害である七里岩上に新府城を築き、躑躅ケ崎館から移転しました。

天正十年(1582)築城の翌年、頼りにしていた勝頼の弟、
仁科盛信が籠城する高遠城が落城すると、 たとえ堅固な城であっても、すでに家臣の求心力を失っていた勝頼はとても支え切れないと判断したのでしょう、もはやこれまでと自ら城に火を掛け、家臣小山田信茂の居城、大月の岩殿城に向けて落ち延びました、従う者は近臣、侍女等を合わせて百余名に過ぎませんでした。
本丸跡 新府城址&城前寺 城前寺

 旧道に戻ると七里岩上の
新府城址下に曹洞宗姥石山城前寺があります、慶長十八年(1613)の創建です、元は新府城前の台地上にありましたが、後に現在地に移りました。

祖母石村地内に
祖母石の一里塚がありましたが、位置は不明です、塚木はでした、江戸日本橋より数えて四十里目です。

 旧道が国道20号線に近づくと左手に石塔群があります、蚕神(かいこがみ)、石尊神道祖神和氣大神九頭竜大神が並んでいます、昭和三十四年(1959)の水害で流失したものを復元したものです。

旧道はスグ先で
国道20号線に合流します、ここが祖母石分岐です、手作りマップはこの分岐点をUターン(黄色)し、桐沢橋を渡る徳島堰道甲州道中としました。

山と渓谷社から
ちゃんと歩ける甲州街道の出版に際し、改めて甲州道中分間延絵図甲州道中宿村大概帳を調べ直したところ、国道20号線を直進(白色矢印)し、穴山橋釜無川を渡る筋を甲州道中としました。

徳島堰道徳島堰の開削に際して、開発された道筋と見るのが順当でしょう、いずれにしても貴重な筋ですので、HPは残しておきます、街道は往復でワンセットです、通行をお奨めします!
石塔群 祖母石分岐

 甲州道中 穴山橋

 国道20号線に合流すると右手に白と緑色に塗り分けられた(株)ウインズの建物があります。

下諏訪方面からは先を国道20号線の
下道に入ります。

国道を挟んだ左手に
治水護郷碑があります、昭和三十四年(1959)二度の台風襲来で富士川(釜無川)と大武川が氾濫し、多数の被害者を出しました、碑は水害復興を記念したもので、水没者の冥福を祈り、治水郷土の発展を祈念したものです。

(株)ウインズの先を、再び国道20号線の
下道に入ります。

先を斜め右(黄色矢印)に入ると、突当りに
屏風岩が聳えています、足元には石祠があります。
治水護郷碑 屏風岩口 屏風岩&石祠

 石祠は文化二年(1805)建立の九頭竜社里宮です。

峻険な
屏風岩の頂には九頭竜社が鎮座しています、釜無川水防の神として篤く信仰されてきました、この屏風岩は甲州道中の名所でした、現在、七里岩屏風岩は国登録記念物名勝地指定です。

屏風岩から左に進むと、
祖母石の地名由来となった老婆石(うばいし)があります、岩上には弘化二年(1845)建立の石祠が祀られています。

昔、
釜無川の氾濫で家族を失った老婆
里宮 九頭竜社 姥婆石

悲しみの あまり石になったとか、田植えの最中に降ってきた
大岩の下敷きになり、老婆が死亡したともいいます、毎年八月二十日屏風岩の九頭竜社姥婆石を提灯で結ぶ提灯祭りが行われます。

 ヤマノーの所で国道に合流します、下諏訪方面からは斜め左の道下に入ります、上祖母石から穴山町に入ります。

国道20号線の歩道をモクモクと進むと、右手の内田建材手前の原野の中に
夕映渓流会が建立した川魚供養塔がポツネンとあります。

穴山三軒家バス停の所から右に入り、葛籠折りに七里岩を越すとJR中央本線
穴山駅です。

左手の村松石材工業を左に見て進み、右手のコンビニを過ぎると、左手に
復興之碑があります。

昭和三十四年(1959)の
台風七号は未曽有の被害をもたらし穴山橋を押し流しました、碑は岸信介の書です。
ヤマノー前分岐 川魚供養塔 復興之碑

 釜無川穴山橋で渡ります、釜無川は甲斐と信濃の國境に位置する鋸岳(のこぎりだけ)に源を発し、八ケ岳を源流とする立場川を吸収し、笛吹川と落合い、富士川となり駿河灘に注いでいます、川名は「水量が豊富で流れが速い為、釜を洗う際、流されて無くなってしまうから」とか、絶え間なく流れる様子を表した隈無(くまなし)に由来しています。

往時は長さ十間(約18m)、横幅八尺(約2.4m)の
穴山橋が架橋されていましたが、流失すると舟渡しとなりました。

円野(まるの)郵便局前交差点に架かる
韮崎円野町(まるのまち)歩道橋をくぐり、みどりや食堂先を斜め右の上円井(かみつぶらい)旧道に入ります。
釜無川 上円井分岐 徳島堰道分岐

 旧道を進むと
徳島堰の流れに突き当たります、この徳島堰に沿う左手(黄色矢印)からの筋が徳島堰道です。

徳島堰道をカットする方は先の甲州道中上円井へジャンプして下さい。

 徳島堰道 桐沢橋

 祖母石分岐をUターン(黄色矢印)し、国道20号線を進みます。

桐沢橋東詰交差点を右折して、桐沢橋釜無川を渡ります、橋の正面には鳳凰三山がクッキリと望めます、左に目を転じると釜無川の延長線上に裏富士が望めます。

釜無川は甲斐と信濃の國堺に位置する鋸岳(のこぎりだけ)に源を発し、八ケ岳を源流とする立場川を吸収し、流末は笛吹川と落合い、富士川となります。

川名は「水量が豊富で流れが速い為、釜を洗う際、流されて無くなってしまうから」とか、絶え間なく流れる様子を表した隈無(くまなし)に由来しています。
祖母石分岐 桐沢橋東詰交差点 釜無川

 桐沢橋を渡り切るとT字路に突き当たります、ここを右折します。

この右折ポイントには「鳳凰三山ドンドコ沢登山口 青木鉱泉」
案内や「清哲町 ←仲谷青木 折居→」標識があります、折居方向に進みます。

山梨県立射撃場は閉鎖になりました。

道なりに進み新道の
ガードをくぐると、左手に石仏石塔群があります、中には嘉永元年(1848)建立の馬頭観音があります。

先の左段上に
原山神社が鎮座しています。
清哲町分岐 新道ガード 石仏石塔群 原山神社

 旧道はT字路に突き当たります、ここを右折します。

この
分岐には清哲町(せいてつまち)青木標識があります、下諏訪方面からはこの標識が分岐ポイントになります。

左(黄色矢印)に入ると
原山神社があります、甲斐国志によると諏訪の御射山社と同じく日月星を祀っています、往時は武川逸見の総鎮守でした、境内には天保十一年(1840)建立の水鉢があります。

高川南沢川小桐橋の歩道橋で渡ります。
清哲町分岐 原山神社 小桐橋 清哲町折居分岐

 功刀商店の先、青哲町折居標識があるY字路を県道から分岐して斜め左(白色矢印)に進みます。

 旧道に入ると左手に男女双体道祖神があります、道祖神は村境等に置かれ、悪霊の侵入を阻止しています。

仲睦まじい男女が陽刻されている道祖神は
夫婦仲が良ければ悪霊の付け入る余地が無いことを意味しています、心してお聞き下さい。

道祖神先の
Y字路内藤宅に入ります。

赤い
折居区7消防設備があるY字路を右に進みます、正面に雨宮寺(うぐうじ)が見えたら正解です。

突き当たりのT字路を右折し、
徳島堰に沿う旧道を進みます。
道祖神 内藤宅分岐 Y字路分岐 T字路分岐

 ここからしばらくは今日も滔々と流れる徳島堰(とくしませぎ)に沿って進みます、この堰は古くから日本三大堰(柳川堰、箱根堰)中随一といわれています。

江戸深川の商人
徳島兵左衛門が身延詣での際、この地の荒野を憂い、幕府(甲府藩)の許可を得て、寛文五年(1655)開発に着手し、同七年に上円井(韮崎市円野町)より曲輪田の大輪沢(櫛形町)まで約17kmの堰を造りました。

その後甲府藩では有野村(白根町)の郷士
矢崎又右衛門に命じ、不良箇所の修復をさせ同年十月に完成し、徳島堰と命名されました、これにより多数の新田が開発され、今日に至っています。

現在の堰は
農林省によって改良工事が加えられたものです。

徳島堰に沿って進むと、左手に
雨宮寺があります、文禄元年(1593年)雨宮勘兵衛の開基により創建されたお寺です、雨宮家は武田家に仕えています、本堂
徳島堰 雨宮寺

の窓は武田菱になっています。

 旧道を進むと右手の七里岩の先に茅ケ岳(かやがたけ)が遥かに望めます。

山容が余りにも
八ケ岳に似ているため、古くからにせ八つと呼ばれています、当人にとっては大変不名誉であって、迷惑な比喩です、誠にお気の毒さまです。

ところが近年、
日本百名山を著した深田久弥(きゅうや)氏が当山を登山中に脳出血で亡くなり、今は百名山ファンのメッカになっています。

旧道の左手に
木製鳥居が現れます、急な参道石段を上ると八幡神社があります。

境内の
御神燈は天保二年(1831)の建立です。
茅ケ岳 八幡神社 御神燈

 徳島堰の流れに沿って進むと、旧道は消滅します、舗装路に従って右(白色矢印)に下ります。

街道は県道の
T字路に突き当たります、ここを左折(白色矢印)します。

合流ポイントのスグ先で
唐沢唐沢橋で跨ぐと、円野町(まるのまち)入戸野(にっとの)に入ります。

すぐ先が
Y字路になっています、右の筋は新道です、旧道は左に入ります。

この分岐ポイントの手前(黄色矢印)
折居分岐ポイント 県道T字路 入戸野入口 宝蔵寺石仏石塔群

宝蔵寺があります、参道脇には夥しい数の石仏石塔が並んでいます。

 宝蔵寺の本尊は地蔵菩薩です、文和三年(1354)北巨摩郡逸見上黒澤の地に建立され、武田信玄の頃、武川筋入戸野村半縄田に移転、この時真言宗から曹洞宗に改宗しています。

寛永三年(1626)火災により
焼失し、寛文八年(1668)現在地に移転しました。

旧道は再び
徳島堰に沿って進み、旧入戸野村に入ります。

火の見やぐらの所に入戸野バス停そして北西小スクールバス停待合所があり、隣に石仏二体と石祠が祀られています。
宝蔵寺 入戸野村 石仏&石社 黒松碑

  川を跨ぐと右手に名称松(くろまつ)碑があります、昭和拾参年七月弐拾六日建立の碑には「當地方ノ一銘木ナリ」と刻まれています、今は小振りな二代目が植栽されています。

 なまこ壁の蔵辺りが入戸野(にっとの)の外れです。

旧道筋には
道祖神でしょうか、石祠が鎮座しています、村に入り込む悪霊を見張っています。

旧道を進むと
Y字路が現れます、いずれの筋も再び県道に突き当たります、但し、左(白色矢印)の筋が徳島堰に沿っていますから、こちらの方が旧道です。

県道に合流した、スグで
戸沢橋手前を円井逆断層案内標識に従って左折します、この筋は戸沢川高巻道です。
入戸野村 石 祠 県道合流点 円井逆断層案内

 旧道を進むと舗装路から砂利道に変わります。

砂利道は先で
Y字路になります、この分岐点には戸沢林道の標識があります、右(白色矢印)に進みます。

砂利道を進み、右に
戸沢川を越す筋が現れたら右折(白色矢印)します。

戸沢川徒歩渡りします、普段はわずかな水量しかありませんから問題ありません、無論増水している場合は、一旦県道に戻って戸沢橋で迂回します。

川を越えたら突き当たりの
舗装路を左折します。
戸沢林道Y字路 戸沢川横断 戸沢川 下円井旧道

 坂を上りUターン(白色矢印)、更に坂を上ります。

坂を上ると堂々とした石垣の旧家があります、よく見ると石垣は
武者返しになっています。

坂を上り詰めると、道なりに左折(白色矢印)します。

石垣上にあったのは豪壮な
長屋門でした。

このお宅が旧
下円井村(つぶらい)の東外れです。
Uターン 石垣上の旧家 下円井村口 長屋門

 村内を進むと円野分団第二部の火の見ヤグラがあり、その先が枡形になっています。

枡形内には寛政九年(1797)建立の
秋葉山常夜燈があります。

枡形の正面には
なまこ壁長屋門の旧家があります。

竜王を越した辺りから、
なまこ壁の文化圏が続いています。

村内には豪壮な造りの旧家を多数残しています、往時の
道幅を残す村内の旧道を淡々と進みます。
村内の枡形 秋葉山常夜燈 なまこ壁の長屋門 村内の旧道

 土石流危険渓流と記された下円井沢を超すとT字路に突き当たります。

正面の筋(黄色矢印)が
旧道ですが、先で通行不能です、右折(白色矢印)して坂を下ります。

このT字路には
石祠道祖神があります、小さな丸石道祖神も添えられています、ここが旧下円井村西口です。

県道12号線に合流する手前、下円井地区多目的集会施設の所を(白色矢印)左に回り込みます。

この分岐点の左手には
資源物リサイクルセンターがあります。
右折ポイント 道祖神 下円井の旧道トレース

 この分岐点から左手に徳島堰が再び復活し、以降この堰に沿って進みます。

街道は大きく右に曲がると、徳島堰に
小橋が架かっています、そこに草道が繫がっています、この草道は先程、道祖神の所から入った、旧道に本来は繫がっていました。

徳島堰に沿ってグングン進むと、
かかしの里のモニュメントがあります、ここでは毎年かかしカーニバル実行委員会による、かかしイベントが行われます。

徳島堰を横切るがあると、堰は沢の
下円井旧道口 下円井旧道 かかしの里 サイホン

手前で、一旦沢の下に潜り込み、沢を超えた所で再び浮かび上がります、これを
サイホンといます。

 つぶら野会館の所には、大きな徳島堰由来解説があります。

やがて街道は
桜並木になり、先で国道20号線を横断します、但し、ここには円野横断地下道が右下(黄色矢印)に設置されています。

スグ先で上円井(かみつぶらい)の
変速十字路を左折(黄色矢印)して、徳島堰を渡ります。

ここが
徳島堰道分岐です、右からの白色矢印は穴山橋を経由した甲州道中です。

下諏訪方面からは
徳島堰を渡り、甲州道中は直進します、徳島堰道は右折します。
桜並木 円野横断地下道 徳島堰道分岐

 甲州道中 上円井

 徳島堰を渡ります、徳島堰は江戸深川の商人徳島兵左衛門が身延詣での際、この地の荒野を憂い幕府の許可を得て、寛文五年(1665)開削に着手し、同七年に上円井(韮崎市円野町)から曲輪田の大輪沢(櫛形町)まで約17kmの堰を造り上げました、これにより荒野は肥沃な土地となり、多数の新田が開発されました、流れの右手が釜無川の取水口です。

徳島堰を渡ると、左手に
望月宅、右手に内藤建築の看板があれば正解です。

落ち着いた旧円野(まるの)村を進むと、左手に
徳島翁のおはかみちと刻まれた道標があります。

ここが(黄色矢印)が
妙浄寺の参道口です。
徳島堰 妙浄寺参道口 徳島翁道標

 路地を左(黄色矢印)に入ると徳島堰を造った徳島翁の墓がある日蓮宗清水山妙浄寺があります。

南無妙法蓮華経と刻まれた
題目碑の脇の石段を登ると妙浄寺の本堂があります。

本堂脇の奥に高島翁と妻の
があります、その脇には徳島翁供養塔があります。 

翁は堰開削にあたり、深川の法華山浄心寺第二世日通上人の開眼による
七面大明神をその守護神としました。

夫の死後、妻は出家し
妙浄尼と号し、夫の菩提を弔いました。
妙浄寺 徳島翁墓 徳島翁供養塔

  円野分団第一部の火の見ヤグラを過ぎると右手に内藤家の堂々としたなまこ壁の長屋門があります。

引戸の柵から敷地内を覗くと、庭に
明治天皇圓野御小休所碑があります、明治天皇は 明治十三年(1880)巡行の際に、ここ内藤家で休息しました。

上円井村は韮崎宿へ二里八町、台ケ原宿へ二里の位置にあたり、村内に立場がありました。

明治七年(1874)上円井(つぶらい)村、下円井村、入戸野(にっとの)村が合併して
円野村になりました。

旧道は
上円井交差点にて国道20号線に合流します、下諏訪方面からは斜め左の上円井旧道に入ります。
内藤家 明治天皇小休碑 上円井分岐

 上円井村地内に上円井の一里塚がありましたが、位置は不明です、塚木は有りませんでした、江戸日本橋より数えて四十一里目です。

 上円井交差点の右手には天明三年(1783)建立の秋葉山常夜燈があります。

国道20号線左手の自販機の前に
旧道の名残りがあります、 国道21号線の敷設で残された旧道痕跡です。

旧道痕跡先の左手に
児童公園があります、公園奥には大樹が聳え、その根方には鹿嶋大神(かしまのおおかみ)が祀られています。

鹿嶋大神は常陸國(茨城県)鹿島
秋葉山常夜燈 上円井の旧道痕跡 児童公園の大樹 鹿嶋大神

神宮の祭神です、鹿嶋大神は武道の神ですが、古来より旅立ちを鹿島立ちといい、旅の守護神ともいわれました。

 公園の一角には石仏石塔群があります、馬頭観音地蔵尊、享保十六年(1731)建立の南無阿弥陀仏と刻まれた名号碑等があります。

国道20号線を進むと左手にセブンイレブンがあります、次いでダンボール梱包資材の内藤を過ぎると左手奥に
稲荷神社が鎮座しています。

国道を挟んだ
稲荷神社の向いの道下に安政七年(1860)建立の南無阿弥陀佛名号碑があります、旧宮脇村との境にあるところから境界石とも呼ばれました、今は韮崎市北杜市の境です。

親鸞南無阿弥陀仏と唱えれば、誰でも極楽往生出来ると説きました。
石仏石塔群 稲荷神社 名号碑

 スグ先で小武川小武川橋で渡ります。

小武川(こむかわ)は鳳凰山の乗鞍ケ岳に源を発し、流末は釜無川に落合います、往時は土橋が架橋されていました。

小武川橋の渡り詰めを右折し、小武川に沿って進み、人家の前を道なりに左折します。

旧宮脇村内を進み、一級河川の
黒沢川黒沢橋で渡ります、宮脇村はここまでです。
小武川 小武川橋渡詰 人家前左折 黒沢川

 先の左手に馬頭観音が四体並んでいます、大分風化が進み建立年は判読できません。

国道20号線合流手前の右手に
旧甲州街道一里塚跡標石があります、標石には「甲府ヨリ六里ナノデ、六里塚トモ云ウ」と刻まれています。

下諏訪方面からは
コメリ先を斜め左に入ります。

国道を進み
武川町農産物直売センターの所から右に分岐します、ここのしそジュースは絶品です!
馬頭観音群 六里塚 国道20号線合流 牧原東分岐

 旧牧原村に入ります、 明治八年(1875)牧原村、宮脇村、新奥村が合併して武里村となり、昭和八年(1933)新富村と合併して武川(むかわ)が発足しました。

旧道を進むと
変則T字路に突き当たります、ここを左折します、下諏訪方面からは重要なY字路になります、お気を付け下さい、この分岐点には文政五年(1822)建立の庚申塔があります。

先の右手宅内に
南無妙法蓮華経題目碑があります、天明元年(1781)の建立、三千箇寺参詣成就と日蓮聖人五百遠忌を記念したものです。

次いで右手に
長坂勘三郎先生之碑があります、長坂勘三郎氏は武川小学校の初代校長、そして旧武川村森林組合
庚申塔 題目碑 長坂勘三郎碑

の初代組合長を勤めました。

 中野屋商店の所を左に入ると、突当りの国道20号線手前の右手に明和七年(1770)建立の石祠馬頭観音像があり、路地を挟んで石仏石塔群があります。

旧道の右手に日蓮宗妙円山
本法寺があります、天文九年(1540)の創建です、境内の題目碑には天下泰平五穀成就と刻まれています。

本法寺の先で旧道は一旦
国道20号線に合流します、下諏訪方面からは武川歩道橋をくぐり、斜め左の旧道に入ります。
石祠&馬頭観音 石仏石塔群
本法寺 武川村牧原歩道橋

 武川村牧原歩道橋交差点を左に入ると、右手に萬霊塔馬頭観音があり、その先に牧原八幡神社があります、この地の国司が朝廷に神馬を献上したところ、聖武天皇はこれを瑞兆と褒め称えました、国司はこれを徳として天平五年(733)男山八幡宮を勧請しました、牧原総鎮守です。

甲斐の國は古代から名馬の産地として知られ、朝廷直轄の官営牧場である御牧(みまき)が置かれ、貢馬(くめ、こうば)は鎌倉時代初期まで続けられました。

甲斐には
三牧ありました、穂坂牧(ほさかのまき、韮崎市穂坂町)、柏前牧(かしまえのまき、高根町)、それに今の武川村を中心とした鳳凰山、甲斐駒ケ岳山麓一帯の真衣野牧(まいののまき、牧原の村名の由来)です。

甲斐の
黒駒は武田の騎馬軍団を支え、信州の木曽駒、陸奥の南部馬と並び称されました。
萬霊塔&馬頭観音 牧原八幡神社

 武川村牧原歩道橋先のY字路を右に入ります。

スグ先に
十字路が現れます、道中は直進します。

この
十字路を左折(黄色矢印)すると牧原交差点に出ます、交差点を渡った左手に食堂中村屋があります。

愛嬌のある
女将さんがお一人で切り盛りしている食堂でです、過去に二度ほど立寄っています。
牧原の旧道トレース 牧原Y字路 牧原十字路 食堂中村屋

 お品書きを見ると、直観でピーンときます、カツ丼煮込みカツ丼の二種類があります。

信州が近づくと必ず現れる現象です、中山道でもそうです、上州に入り信州が近づくとこの現象が現れます。

前置きが長くなりました、カツ丼は
ソースカツ丼を意味しています、煮込みカツ丼は普通の玉子でとじたカツ丼です。

信州ではカツ丼とは
ソースカツ丼を指します、当初、これが理解できず驚きました。

ご飯の上に千切りの
キャベツが敷き詰められ、その上にウスターソースをくぐらせたカツが乗っているだけです。

これが案外はまります!揚げたてのカツにソースが絡み合い堪りません!!口に入れるとほんのりと
信州の香りがします!!!お奨めです、御食事処中村屋(0551-26-2057)
カツ丼

それでは旧道に戻りましょう。

十字路に戻って直進します、左手に
山梨県北杜警察署武川警察官駐在所があります。

更に
直進(白色矢印)すると旧道は大武川(おむかわ)に突き当たります、この先は通行不可です。

手前を
左折(黄色矢印)し、突き当たりの国道20号線を右折します。

下諏訪方面からは
大武川橋を渡り、一本目を左折し、突当りを右折します。

大武川大武川橋で渡ります。
武川駐在所 牧原西分岐 大武川橋分岐

 大武川甲斐駒ケ岳に源を発し、流末は釜無川に落合います。

国道20号線を進むと左手に
下三吹バス停があります、手作りマップはこの分岐点を左折(黄色矢印)する万休院(ばんきゅういん)甲州道中としました。

山と渓谷社から
ちゃんと歩ける甲州街道の出版に際し、改めて甲州道中分間延絵図甲州道中宿村大概帳を調べ直したところ、直進(白色矢印)する国道20号線が甲州道中であると判断しました。

万休院は武田氏ゆかりの古刹です、いずれにしても貴重な街道ですので、HPは残しておきます、街道は往復でワンセットです、通行をお奨めします!
大武川橋 大武川 万休院道分岐

 甲州道中 三吹

 国道20号線を進むと左手中華屋さん大源の駐車場内に中山家第十五代目法橋中山立平の墓があります。

中山家初代の
中山主衛頭義基は武田家の家臣で、天文十七年(1548)武田晴信(信玄)が松本城主小笠原長時塩尻峠の戦いで破りし時の功は抜群と称賛されました。

しかしこの戦いで足に三ケ所の傷を負い、
歩行困難となり、中山烽火陣地の台長を命じられました、その後、傷の癒えぬままこの地に土着し帰農しました。

中山家第十五代
中山立平蘭方医を志し、三年の修行を終え、郷里への帰途、京に宿泊したところ懇請され、重病の北白川宮妃を治療し、全快させました、これにより宮から法橋の称号と白馬を頂戴しました。

立平は弘化三年(1846)二十四才の若さで病没しました、墓の傍らには弘法大
法橋中山立平墓 弘法碑

師霊感所碑があります、墓前に弘法大師が現れ、衆生を救えとのお告げがあったといいます。

台ケ原宿加宿三吹村地内に
三吹の一里塚がありましたが位置は不明です、塚木は有りませんでした、江戸日本橋より数えて四十二里目です。

国道20号線を進み、大阪運輸倉庫の所から左に入ると
三冨貴神社があります、諏訪大明神を祀っています、武田家代々の祈願所として崇敬が篤く、武田家没後は徳川家の崇敬をあつめました。

お食事処舞鶴を過ぎて、
国道20号線をモクモクと進むと上三吹交差点に到着します、ここを右折(白色矢印)します、左(黄色矢印)からの筋は万休院道です。

下諏訪方面からは左折します、正面は
万休院道です。
三冨喜神社 上三吹分岐

 万休院道

 国道20号線左手の下三吹バス停手前を万休院道は左折(黄色矢印)します、直進(白色矢印)は甲州道中です。

街道は大きく右に曲がり、緩やかな
上り坂になります。

下三吹バス停を越して進み、
下三吹区公民館分室火の見ヤグラの間を左に入ると右手に石祠道祖神が祀られています、石祠の傍らには丸石道祖神が添えられています。

先の
十字路を右折します、十字路左手のカーブミラーと右手の消火栓が唯一の分岐ポイントです、ご注意下さい。
万休院道分岐 下三吹村道祖神 重要な右折ポイント

 先で十字路になります、左手の歩道(黄色矢印)が万休院東口です、ここには庚申塔等の石塔群があります。

万休院迄はかなりの急な上り坂です。

曹洞宗
万休院は元亀二年(1571)武田四天王の一人馬場美濃守信春の子馬場民部少輔の開基です、民部は父が長篠合戦で戦死した後に馬場家を継ぎました、本尊は観世音菩薩です、本堂には武田菱があしらわれています。

手水舎(ちょうずや)にはドキッとする標語が掲げられています、「子どもは親のいうとおりにはならないが 親のするとおりになる」如何ですか!
万休院東口 万休院東口石塔群 万休院

 サア、境内には余りにも有名な舞鶴松がありました、樹形が傘状に広がり鶴が舞う姿に似ているところから舞鶴松と呼ばれました。

樹齢四百五十年の
赤松で国天然記念物指定でした。

平成十八年(2006)
松くい虫の被害により枯死し、平成二十年(2008)供養祭の後に伐採されました。

万休院の敷地内には大型バス数台の駐車場があり、隆勢を誇りましたが、今は隔世の感を禁じ得ません。
在りし日の舞鶴松 枯れてしまった舞鶴松

 それでは街道に戻りましょう、下り坂は歩幅を狭め、カカト着地でブレーキを掛けながら下りましょう。

ツマ先ベタ足で着地すると、が前に出てしまい、ダメージを受けやすくなります。

街道に戻って先に進むと、左手奥にかなり大きな
馬頭観世音文字塔石塔があります。

街道の右手には相変わらず、
七里岩の景観が広がっています。

次いで
万休院の西口があります、ここには南無阿弥陀仏名号碑甲子塔地蔵尊一石六地蔵馬頭観音像等が安置されています。
馬頭観音 万休院西口 西口石塔群

 街道が右にカーブする手前の左手、ブロック塀の中に御影石の句碑があります。

これこそ
芭蕉句碑「見ぬ人に 見せばや松の 初みとり」と思いきや、よく見ると違う句が二句刻まれています、七里岩赤松の文字は解りますが、他は達筆過ぎて私には読めません!

この句は敷地主(あるじ)によるものです。

先で国道20号線を
上三吹交差点にて横断(黄色矢印)します、この交差点には武川村消防団第二部の火の見ヤグラが聳えています。

右からの筋(白色矢印)は
甲州道中です。

下諏訪方面からは正面が
万休院道で、左折が甲州道中です。
句碑 上三吹分岐

 甲州道中 上三吹

 三吹村は台ケ原宿の助郷を勤めましたが、困窮のため寛政八年(1796)より免除されました。

落ち着いた佇まいの村内を進むと、村外れの右手に浄土宗
無量院(廃寺)跡があります、供養塔庚申塔、安永六年(1777)造立の地蔵尊等があります。

境内には
水災紀念碑があります、明治三十一年(1898)の台風で釜無川が氾濫し、上三吹村七十四戸が砂石に埋まってしまいました、境内奥には神明社ともう一社が祀られています。

旧道は国道20号線に突き当たります、この手前右手に
旧甲州街道一里塚跡碑があります、碑には「甲府ヨリ七里ナノデ七里塚トモ云ウ」と刻まれています。
無量院跡 水災紀念碑 一里塚跡

 突当りの国道20号線を右折します、下諏訪方面からは尾白橋を渡り、一本目を斜め左に入ります。

尾白川(おじらがわ)を尾白橋で渡ります。

尾白川甲斐駒ケ岳に源を発し、流末は釜無川に落合います、川名は花崗岩で河原が白いところに由来しています、往時は長さ六間(約11m)、幅三尺(約0.9m)の橋が架かっていました。

尾白川を渡ると武川町三吹から
白州町(はくしゅうまち)台ケ原に入ります。

スグ先に
甲州街道古道入口はらぢみち碑があります、左(白色矢印)の草道に入ります。
上三吹西分岐 尾白川 古道入口

 古道入口を直進(黄色矢印)し、スグ先の花水坂入口交差点を右折し、花水坂橋釜無川を渡り、葛籠折りの坂を上ると花水坂之碑があります。

花水坂は七里岩上の原路(はらぢ)と台ケ原を繋いでいました、ここからの富士の景観は御坂峠西行坂(富沢町)と並んで富士見三景といわれました。

この
原路古道入口に繫がっていました、それでは草道に踏み込んでみましょう。

スグ先の右手に
道標を兼ねた馬頭観音が三体祀られています、横町の道標と呼ばれ、台ケ原宿に現存する唯一の道標です、安永五年(1776)建立の道標には「右かうふみち 左はらぢ通」、寛政四年(1792)建立
花水坂之碑 草道 横山の道標

の道標には「左はらみち」と刻まれています。

 横山の道標先右手小山の頂に無名の大石塔があります、花水坂橋供養宝塔ないしは日蓮遠忌碑を造るために台ケ原の山中より引き出したものといいます。

木立の中に入ると
小川が右側に沿って流れています。

先でこの
小川を横断(白色矢印)します、この分岐点には手作りの甲州街道台ケ原宿古道の木製標識があります、有り難いですね!

木立の中を抜けると、古道は
ブドウ畑の脇に出ます。
無名の大石塔 分岐点 古道標識 ブドウ畑

 やがて尾白川沿いの土手道になります、尾白川は白砂に丸い大岩を配した、見事な景観になっています。

尾白川に架かる曲足橋の手前から舗装路になります、ここには甲州街道台ケ原宿古道標石があります。

緩やかな上り坂の
国見坂になります。

国見坂の左手には
馬頭観音庚申塔が並んでいます。
尾白川沿い 古道標石 曲足橋 石仏石塔群

 PM 4:21 台ケ原宿着

 国見坂は国道20号線に突き当たります、ここに古道入口標石があります、これは当然、下諏訪方面からの街道ウォーカー用です、親切ですね!

往時、この辺りに
道祖神がありました、宿口に置かれ、悪霊の侵入を阻止していました、文化三年(1806)の記録に、一月四日の道祖神祭の際に虎頭の舞が奉納されたと記されています。

台ケ原下交差点にて国道20号線を横断すると、日本の道百選甲州街道 台ケ原宿標識があります、標識の右に入ります、台ケ原宿に到着です!

この地は高く平らにして、台盤の如くであったところから
台ケ原と呼ばれるようになりました。
古道入口 台ケ原下交差点 台ケ原宿東口

 天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると台ケ原宿宿内家数は百五十三軒、うち本陣一、問屋一、旅籠十四軒(大一、中六、小七)で、宿内人口は六百七十人(男三百四十人、女三百三十人)でした、宿並は建設省日本の道百選に選ばれています。

 台ケ原の宿並みは下宿から始まります、左手に石祠道祖神が祀られています、宿口に置かれ、悪霊の侵入を阻止しています。

中宿に入ると右手に白州味噌の永楽屋、 そして杉玉(酒林)を吊り下げた岡村酒店があります。

白州手打ち蕎麦くぼ田の手前右手に
立場跡と共同井戸跡解説板があります、ここには建坪四十二坪の掛茶屋があり、井戸がありました、井戸は共同で維持管理し、数戸から十数戸で利用しました。
道祖神 白州味噌 酒屋 立場跡

 十字路が台ケ原宿の起点です、十字路手前の左手には台ケ原宿解説や甲州台ケ原宿名水百選の里水飲み場があります。

十字路を越すと
上宿に入ります、宿場機能はこの上宿に集中していました。

十字路を越した右手に
常夜燈があります、ここが御本陣小松屋伝右衛門跡です、天明二年(1782)の記録によると、敷地は間口十八間、奥行き十九間で坪数は三百五十一坪、建坪は九十二坪でした。

甲州道中の
参勤交代の大名は高島藩(諏訪伊勢守)、高遠藩(内藤大和守)、飯田藩(堀大和守)の三藩に限られていました、ところが天明三年(1783)浅間山の大噴火によって中山道浅間三宿(軽井沢、沓掛、追分)が壊滅すると、甲州道中が迂回路となり、大いに賑わったといいます。

台ケ原宿は度々火災に見舞われ、慶応三年(1867)防火を念願して秋葉
名水百選 本陣跡&常夜燈

大権現常夜燈が旧小松家(本陣)屋敷跡に建立されました。

本陣の向いが
脇本陣跡です、宿開設当初は脇本陣は無く、宿役人の家が代用されたといいます。

 宿並を進むと右手に白州町消防団の火の見ヤグラが聳えています、ヤグラの裏は甲州街道台ケ原宿ふれあい休憩所になっています。

この向いが
高札場跡です、文化三年(1806)の記録によると、その規模は高さ二間余り、長さ三間、横七尺でした。

その隣が
問屋場跡です、天明六年(1786)の記録によると敷地は間口七間、奥行き二十八間の百九十六坪、建坪五十六坪でした。

問屋場には二十五人の人足と二十五疋のが用意され、内五人及び五疋は囲い人馬といい火急に備えていました、大通行に際しては、加宿三吹村や十四ケ村の助郷が動員されました。

問屋場の隣が
郷倉跡です、非常時に備えて囲い籾(もみ)を備蓄した倉庫です、古い籾は絶えず、新しいものに取り換えられたといいます。
ふれあい休憩所 問屋場跡

 向いの大きな杉玉(酒林)が吊り下る山梨銘醸(北原家)は寛延二年(1749)の創業、銘酒七賢の蔵元です。

当家は
脇本陣も兼ね、幕末には高遠藩御用商人を勤め、明治十三年(1880)には明治天皇本県巡幸の際には行在所になりました。

天保六年(1835)建替えの際、高遠城主より
竹林七賢(ちくりんしちけん)の欄間を拝領し、以来銘酒を七賢と称しました、七賢とは三国志末期の頃、中国河内郡山陽の竹林で、酒を飲みながら政談を行った七人の賢人のことです。

小さなグラスですが、一杯だけ
試飲ができます。
銘酒七賢 明治天皇菅原行在所 奥座敷(行在所)

 七賢の向いには女性街道ウォーカーに絶大な人気を誇る、明治三十五年(1902)創業の元祖信玄餅の老舗金精軒があります、建物は宿場時代の旅籠です。

店内には和菓子の
木型が並べられ、歴史を感じさせます、試食品有り!

先右手の
旧家は元禄十三年(1700)の建築です。

次いで石垣と石段があります、
登記所跡です、この登記所は明治二十四年(1891)に開庁されました、それまでは龍福寺の庫裏を庁舎としていました。

昭和五十年(1975)韮崎出張所に統合され廃所になりました。
金精軒 旧 家 登記所跡

 右手の一段高い所にお茶壺道中所縁の田中神社があります。

お茶壺道中は江戸幕府三代将軍家光の寛永十年(1633)から毎年四月中旬、京都の宇治に採茶使を派遣して、将軍家御用達の新茶を茶壷に納封して、江戸城へ運んだ行列です。

行列の往路は
東海道でしたが、帰路は中山道を経て甲州道中へ入り、谷村勝山城の茶壷蔵に収蔵して、熟成後の秋に江戸城に搬入されました。

この茶壷行列は権威が高く、
御三家の大名行列さえも道を譲らなければならないほど格式の高い行列でした、庶民は「ずいずいずっころばし ごまみそずい 茶壺に追われて とっぴんしゃん」でした。

下諏訪宿から甲州道中に入った
お茶壺道中は当社の拝殿に宿泊したと記録に残っています。
田中神社 田中神社拝殿

 宿並と田中神社本殿の間が修験智拳寺跡です、修験道(しゅげんどう)は山岳宗教と仏教が習合されたものですが明治四年(1871)神仏分離令により廃寺になりました。

先の右手民家前に小さな
男女双体道祖神と甲州街道台ケ原宿碑があります。

宿並の左手に
旧甲州街道一里塚跡碑があります、台ケ原の一里塚跡です、塚木は有りませんでした、江戸日本橋より数えて四十三里目です。

先で
白州町白須下に入ります。
修験智拳寺跡 道祖神 台ケ原宿碑 一里塚跡

 少し先の左手に元旅籠津留や諸国旅人御宿鶴屋があります、往時の佇まいをそのまま残しています、建物前には講札が三枚掲げられています。

今宵の宿泊は元旅籠鶴屋の隣に新築された
つるや旅館(0551-35-2028)です。

素泊り4,000円です、今回で4度目の宿泊になります、お世話になります。

本日の
街道ウォークはここまでです!

チェックインを済ませ、飯ダー!

国道20号線に出ると
ひさの食堂(0551-35-243
元旅籠鶴屋 講札 つるや旅館

4)があります、酒類をオーダーすると、お通しに中華風の湯豆腐が出ます、ラー油と醤油をチョッピリ掛けて頂きます、イケマス、軽く食事を済ませます!!

この食堂の向に
コンビニがあります、今宵の宴セットはこちらで調達します。

気温はグングン下がっています、宿屋の部屋は無論、廊下も脱衣場にも
暖房が効いていますが、肝心の風呂場が盲点になっています、震え上がった体で入湯です、地獄から一気に天国です、ユッタリ体を伸ばし、ユックリ温まります。

浴衣に着替え、羽織を着用して、なにはさて置きマズは
一杯です、旅はこれだナー!!!

軽くストレッチを行い、テレビの
天気予報を確認します、上々です!!!!

明日はシバレルぞー!!!!!
ひさの食堂 宴セット



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