大月駅で乗り継ぎの待ち合わせ中、何気なく駅構内の展示品を見ていましたら、大月の桃太郎伝説と言う書物(かきもの)を見つけました、面白いので写してきました。 昔々、百蔵山はたくさんの桃が取れました。 この山から転がったすごく大きな桃が桂川を流れて、川下で洗濯をしていたおばあさんに拾われました。 その桃から生まれた桃太郎は、犬目で犬、鳥沢で雉子(きじ)、猿橋で猿を家来にし、勇気いっぱいになったので、岩殿山に住み、イタズラなどの悪いことをして、里の人々を困らせていた鬼を退治に出かけました。 桃太郎が岩殿山に鬼退治にきたことを知った鬼は、怒って左手に持っていた石の杖を投げつけました。 途中に落ちたその杖は地面に突き刺さり、すごい地震を起こしました。 これが石動(賑岡町強瀬石動 にぎおかまちこわぜいしどう)という地名の由来で、鬼の杖といわれる石も残っています。 そして桃太郎が攻めると、今度は右手に持っていた杖を投げました。 これが笹子町にある立石と呼ばれる石です。 鬼が岩殿山の東側にある大洞岩に足をかけたところを桃太郎に退治されました。 今でも大洞岩周辺では赤い土が出てくるそうです。 街道ウォーカーにとって何故か心ひかれますね。 今回も旧道検証の旅です、それも徹底検証です!
快晴です、出立ポイントは初狩駅前交差点です。 ここにあったコンビニは廃業になっています。
藤沢入口交差点を過ぎると、左手に登録有形文化財の今池家があります、元は医院でした。
三年(1880)六月十八日明治天皇は行幸の際、ここで休息しました。 本陣の向かい辺りが脇本陣跡ですが、遺構は残されていません、天保七年(1836)脇本陣の小林伝兵衛は米価高騰に憤慨し、甲州騒動の打ちこわしを指導し、翌年捕らわれ獄死しました。
主に弓引いたとして甲斐善光寺で斬首となりました、従僕が密かに首を持ち帰り、瑞竜庵の住職がここに葬りました。 しかしここにあった瑞竜庵は明治四十年(1907)の土石流で流失してしまいました。
舩石所在地ハ従是東三拾間余」があります、残念ながらこの船石は明治四十年(1907)の水害で流失してしまいました。 それにしても下初狩の山本周五郎生家といい、小山田信茂首塚の瑞竜庵といい、明治四十年(1907)の水害はこの地に甚大な被害をもたらしています。
里塚跡 白野」があります、白野の一里塚跡です、両塚共白野宿地内で左(西)の塚木は榎、右(東)の塚木は松でした、江戸日本橋より数えて二十六里目です、傍らには道祖神や常夜燈があります。
白野中宿バス停を過ぎると、右手火の見ヤグラの背後に山の神、金毘羅、白山権現、天織姫等の石祠が祀られ、秋葉常夜燈と文化三年(1806)建立の廿三夜塔があります。
の頂部が望めます。
不能になっています。
国道20号線に合流します、国道20号線迂回路ともここで合流します。 下諏訪方面からは笹子電話交換局施設が旧道分岐ポイントです。
地頭小俣氏の娘が思いを寄せた僧とは、この阿弥陀堂の修行僧でした。
会の向いを斜め左の阿弥陀海道旧道に入ります。
安政二年(1855)の建立、天明天保の大飢饉による窮乏をこの地蔵に心願したものです、そう見ると重荷に耐えているように見えます。
います、右は黒野田橋です、ここは左に進み古色蒼然とした旧黒野田橋で笹子川を渡ります。
でした、江戸日本橋より数えて実質二十七里目です。
(1856)建立の常夜燈があります、竿石には秋葉山、愛宕山と刻まれています。
ここからの道筋が旧道と断定は出来ませんが、最も旧道に近いといえます。
です、サア、気合を入れて踏み込みましょう! ここは小田原沼津道の追分で、直進(黄色矢印)すると、右手に髯文字の南無妙法蓮華経題目碑があります。
通ったかと想像すると、ゾクゾクします、峠道にはわずかに踏み跡があるだけです、注意深く進みましょう!
いますが、存在及び位置共に不明です、江戸日本橋より数えて二十八里目です。
左折(白色矢印)します、実質上の笹子峠道の終了です! 下諏訪方面からは笹子沢川を清水橋で渡り、右折して土道に入ります。
天狗橋手前の右手に津島大明神が祀られています、 古来より郷土を鎮める為の神として素盞鳴尊(すさのお)を祀ったものです。
ります、この分岐点には標識「←旧甲州街道」があります。
国道20号線に合流します、ここを右折するとJR中央本線甲斐大和駅です。 尚、甲斐大和駅から先におよそ2.4km行くと、武田勝頼終焉の地、景徳院があります、それでは寄り道しましょう。
同年七月、家康は田野の勝頼一族の自害地に景徳院を建立し、勝頼一族の菩提を弔いました、いずれも武田信玄に一目も二目もおいた証でしょう。 これには武田家遺臣団も感涙にむせび、忠誠を誓ったことでしょう、後に旧家臣団を千人同心として召抱え八王子に配備し、江戸城のライフラインを確保しました、さすが狸爺の面目躍如です! 墓域には将兵や侍女合わせて五十名の墓があります。
して富士川と名を変え、流末は駿河灘に注いでいます。
駒飼宿とは合宿で問屋業務は毎月朔日より二十日までは鶴瀬宿が勤めました。
先に進むと長柿(おさがき)洞門が現れます、洞門手前の横断歩道標識を渡って(黄色矢印)洞門に入るルートは迂回路ルートです、白色矢印は観音堂旧道ルートです。
観音堂旧道西口です、黄色矢印は長柿洞門からの迂回路です。
がくくり付けられています、ここから下を覗き込むと先程の史跡横吹一里塚跡標柱を眼下に確認できます。
しかし子の信元は逆心の疑いをかけられ、永禄三年(1560)信玄に滅ぼされました。 柵内には真新しい勝沼氏供養地蔵があります、勝沼信友の娘理慶尼(りけいに)は館跡に地蔵を造立しましたが、いつの日か失われてしまったといいます、これを復活したものです。
ています、大名や公家等が宿泊すると、その目印に槍を立て掛けた老松です。
ここが日蓮大菩薩御一宿の霊地です、弘安九年(1286)日蓮聖人は農家甚右衛門宅に宿泊し、直筆の曼荼羅を残しました。
の さとのあきかぜ さむくなるらし」があります、えびかつらはブドウのことです。 明治十三年(1880)山梨巡行の際、同年に新築落成した勝沼学校校舎が宿所となりました。
左手のかつぬま整骨院には地蔵尊が佇んでいます。
411号大菩薩ライン線に変わります。
甲斐の國でほうとうは定番でしょう、冷え込む時期は最高です!!! 等々力交差点を過ぎた辺りに等々力の一里塚があったともいいますが、存在及び位置共に不明です、江戸日本橋より数えて三十一里目です。
ます、以来萬福寺は杉御坊と呼ばれました、しかしこの大杉は寛延の火災で焼失してしまいました。
門の世話になり、その礼の句といいます。 境内の大椋(おおむく)は山梨の巨樹名木100選です。
す、 社伝によると推古天皇七年(599)の創祀で、白山建岡神社とも称されました。
蔵尊、十王尊が各々祀られています。
五年(1702)と天保二年(1831)建立の南無妙法蓮華経題目碑があります。
栗原信友は当初、信虎と対峙しましたが、後に臣従し、その後信玄に仕え武田軍団の一翼を担いました。
境内の老松(クロマツ)は山梨市指定天然記念物です。
※ 手作りマップは新日川橋の北詰を横断し、先の日川地区水防倉庫の前を右折になっています、修正して下さい。
中交差点です、旧道は左折(白矢印)します。
荷神社が祀られています、軒瓦には葵の紋が刻まれています。 境内には丸石道祖神や馬頭観音像が祀られ、文久三年(1863)建立の御神燈があります。
す。
南田中の一里塚は両塚共南田中村地内にありましたが位置は不明です、塚木は有りませんでした、江戸日本橋より数えて三十二里目です。
村人が栗女の節義に感銘し、墓を建立しました。
発する西沢渓谷を集め、南巨摩郡富士見町で釜無川(富士川)に落合います。
テアトル石和先右手の八田公民館の所にも丸石道祖神が祀られています。 ※ 手作りマップでは石和川中島簡易郵便局手前を左折するルートでしたが、上記の通りに修正して下さい。
形が書院内に飾られ、公開(有料)されます、圧巻です!
してしまい、今は土蔵を残すのみです。
それまでの代官所から陣屋になりました。
蔵されています。
甲運橋辺りに石和の一里塚があったともいいますが、存在及び位置共に不明です、江戸日本橋より数えて三十三里目です。
辞世「かりそめの 行き交い路(甲斐路)と 想いしに 今は限りの 門出なりけり」を残しました。
スグ先右手の山梨ダイハツの所に小さな一石六地蔵が祀られています、素朴な味わいを醸し出しています。
があります、休憩に最適です。
今はここから入らず、国道をそのまま直進(白色矢印)します。
酒折宮は連歌発祥の地となりました。
これがため酒折宮は多くの歌人、国学者の崇敬を集めています。
(1598)信濃善光寺に帰座しました、甲斐善光寺は、その後前立仏を本尊と定め今日に至っています。 武田信玄建立の七堂伽藍は宝暦四年(1754)の失火により焼失、現在の金堂、山門は寛政八年(1796)に再建されたもので、国重要文化財です。
、見事な顎疲れうどんです、これに赤唐辛子をベースにして胡麻や山椒を加えて油で炒めた薬味すりだねをタップリ入れます、絶品です、お奨めします!!! このうどんの対極にあるのが、伊勢街道名物伊勢うどんです、なんとコシは全く無くブヨブヨです、しかしこれはこれで絶品なのです。
任じられた武田家の遺臣大久保長安の金銀採掘成就祈願の為の屋敷神であったともいいます。 上一条一帯の鎮守で、一条町の金刀比羅さんと呼ばれ親しまれていました。
石山口の出身で甲府藩士でした。 墓所案内:墓地に入って鈴木家累代之墓を右折し、突当り手前を左折します、山口家累代之墓の中に小さな山口素堂墓所があります。
います。
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