道中日記  5-146 甲州道中 ( 下初狩- 甲府柳町 ) 39.7km

 大月駅で乗り継ぎの待ち合わせ中、何気なく駅構内の展示品を見ていましたら、大月の桃太郎伝説と言う書物(かきもの)を見つけました面白いので写してきました。

 昔々、百蔵山はたくさんの桃が取れました。
この山から転がったすごく大きな桃が桂川を流れて、川下で洗濯をしていたおばあさんに拾われました。

 その桃から生まれた桃太郎は、犬目で犬、鳥沢で雉子(きじ)、猿橋で猿を家来にし、勇気いっぱいになったので、岩殿山に住み、イタズラなどの悪いことをして、里の人々を困らせていた鬼を退治に出かけました。

 桃太郎が岩殿山に鬼退治にきたことを知った鬼は、怒って左手に持っていた石の杖を投げつけました。
途中に落ちたその杖は地面に突き刺さり、すごい地震を起こしました。
これが石動(賑岡町強瀬石動 にぎおかまちこわぜいしどう)という地名の由来で、鬼の杖といわれる石も残っています。

 そして桃太郎が攻めると、今度は右手に持っていた杖を投げました。
これが笹子町にある立石と呼ばれる石です。

 鬼が岩殿山の東側にある大洞岩に足をかけたところを桃太郎に退治されました。
今でも大洞岩周辺では赤い土が出てくるそうです。

街道ウォーカーにとって何故か心ひかれますね。

今回も旧道検証の旅です、それも徹底検証です!

 平成19年05月04日 AM 7:05 下初狩宿出立 中初狩宿まで 1.0km

 快晴です、出立ポイントは
初狩駅前交差点です。

ここにあった
コンビニは廃業になっています。

 AM 7:16 中初狩宿着 白野宿まで 2.5km

 スグ先で宮川宮川橋で渡ると、早くも中初狩宿に到着です!

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると中初狩宿宿内家数は百八軒、うち本陣一、脇本陣一、問屋一、旅籠二十五軒(大八、中十、小七)で、宿内人口は四百五十九人(男二百二十八人、女二百三十一人)でした。

下初狩宿とは合宿で、問屋業務は月の内朔日から十五日までを勤めました。

往時の
宮川橋土橋でした、橋上から左の山間(やまあい)に富士の頂がわずかに望めます、宮川橋の一目富士と呼ばれる名所でした。
宮川橋 宮川橋の一目富士 今池家

 藤沢入口交差点を過ぎると、左手に
登録有形文化財今池家があります、元は医院でした。

 初狩小学校東交差点を越すと、大月市初狩町中初狩歩道橋の右手に明治二十九年(1896)建立の芭蕉句碑「山賊(やまがつ)の おとがいとずる 葎(むぐら)かな」があります。

貞亨二年(1685)
芭蕉四十三歳の時、野ざらし紀行の帰途、甲州谷村への道筋での句です、山賊(猟師)が葎(夏草)が茂る中をおとがい(下顎)をしっかり閉じて穂先が口の中に入らないように歩いてる様を詠んでいます。

芭蕉は天和二年(1682)八百屋お七の大火で焼け出され、初狩に住む実姉を頼り、半年間暮らしました。

側子バス停を過ぎると右手に
小林本陣があります、本陣門の前には明治天皇御小休遺跡碑があります、 明治十
芭蕉句碑 小林本陣跡 明治天皇碑

三年(1880)六月十八日
明治天皇は行幸の際、ここで休息しました。

本陣の向かい辺りが
脇本陣跡ですが、遺構は残されていません、天保七年(1836)脇本陣の小林伝兵衛は米価高騰に憤慨し、甲州騒動打ちこわしを指導し、翌年捕らわれ獄死しました。

 火の見ヤグラを右に見て進むと、唐沢橋手前の左手に首塚標識があります、踏み込んでみましょう。

右手の正徳元年(1711)造立の
地蔵尊を過ぎ、Y字路を右に進みます。

先を斜め右に下りJR中央本線架道橋をくぐり、先の石橋を渡ると
小山田左兵衛尉信茂顕彰碑首塚があります。

小山田信茂は主君の武田勝頼を裏切り信長に寝返ったが、信長は
首塚標識 架道橋 小山田信茂顕彰碑 小山田信茂首塚

主に弓引いたとして甲斐善光寺で
斬首となりました、従僕が密かに首を持ち帰り、瑞竜庵の住職がここに葬りました。

しかしここにあった
瑞竜庵は明治四十年(1907)の土石流で流失してしまいました。

 道中に戻り、唐沢橋を渡ると左手の段上に馬頭観音至音塔南無阿弥陀仏名号碑、正徳元年(1711)造立の地蔵尊、安永七年(1778)建立の秋葉山毎夜燈等が並んでいます。

向いには趣のある
赤レンガ造りがあります。

切通の道中を抜けて進み、
笹子川船石橋にて渡ると左手に船石碑銘があります、親鸞聖人船形の石に座って説法を行いました。

碑の傍らに
船石の所在を示す道標「御
石仏石塔群 赤レンガ蔵 船石碑銘 御舩石道標

舩石所在地ハ従是東三拾間余」があります、残念ながらこの
船石は明治四十年(1907)の水害で流失してしまいました。

それにしても下初狩の
山本周五郎生家といい、小山田信茂首塚の瑞竜庵といい、明治四十年(1907)の水害はこの地に甚大な被害をもたらしています。

 立河原バス停を過ぎると、正面に天神山が立ち塞がります、往時は山麓のシマダトレーディング脇から右に高巻いていましたが中央自動車道の敷設で消滅しました。

今は国道20号線にて
天神山の裾野を迂回します、国道に歩道がありませんからお気を付け下さい。

天神山を回り込むと
案内標識「悲しみの森・癒しの森」がありますここが天神山高巻旧道の西口です。

それでは踏み込んでみましょう、JR中央本線ガードをくぐった先の左手に
標柱「一
天神山 天神山旧道西口 JR中央本線 白野一里塚跡

里塚跡 白野」があります、
白野の一里塚跡です、両塚共白野宿地内で左(西)の塚木は、右(東)の塚木はでした、江戸日本橋より数えて二十六里目です、傍らには道祖神常夜燈があります。

 AM 7:45 白野宿着 阿弥陀海道宿まで 2.9km

 道中に戻り、スグ先を斜め右に入ります、ここが白野宿の東口です、白野宿に到着です!

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると白野宿宿内家数は八十四軒、うち本陣一、脇本陣一、問屋一、旅籠四軒(中三、小一)で、宿内人口は三百十八人(男百四十九人、女百六十九人)でした。

阿弥陀海道宿黒野田宿の三宿で一宿とし、問屋業務は月のうち二十三日から晦日までを白野宿が勤めました。

宿並を進むと右手に
庚申塔常夜燈石仏等が祀られています。
白野宿東口 庚申塔&常夜燈 石祠群

 白野中宿バス停を過ぎると、右手火の見ヤグラの背後に
山の神金毘羅白山権現天織姫等の石祠が祀られ、秋葉常夜燈と文化三年(1806)建立の廿三夜塔があります。

 宿並左手の旧家は旅籠万屋跡です。

宝林寺参道口の右手が
天野脇本陣跡です、左手が今泉本陣跡です、共に標識等はありません。

臨済宗妙心寺派白野山
宝林寺は永正六年(1509)の開基で本尊は地蔵菩薩です。

ヤマザキショップの先で宿並は国道20号線に合流します、ここが
白野宿西口です。
旅籠万屋跡 本陣&脇本陣跡 宝林寺 白野宿西口

 白野宿を後にすると右手に(ね)神社があります、白野村の鎮守です、祭神の大国主命(おおくにぬしのみこと)の遣いが(ね、ネズミ)であるところに由来しています。

境内の
大杉は古くから知られた名木です、かつてはここから大鹿峠へ向かう裏街道がありました。

大鹿川大鹿川橋で渡り、スグ先の石井工業の手前を、道中は斜め(白色矢印)に入ります、ここが原口分岐です。

原口分岐を
直進(黄色矢印)すると右手の丘上に奉納四国西国関東秩父百八十八番供養塔や沢山の馬頭観音が祀られています。
子神社 原口分岐 八十八番供養塔

 供養塔の奥に進むとJR中央本線沿いに大月の桃太郎伝説に登場する立石があります。

鬼が右手に持っていた
で、桃太郎に投げつけた石杖です。

原口分岐に戻って道中を進むと、JR中央本線の
乙大鹿沢ガード下に伝説立石坂の立石標柱があります。

ガードをくぐり、正面の
Y字路を左に進みます。

左手にJR中央本線越しに先程の
立石
立石 乙大鹿沢ガード 立石坂の立石 立石

の頂部が望めます。


 JR中央本線に沿う旧道を進むと、右手の石垣上に萬霊塔があります。

あらゆる生ける物の霊を弔う
供養塔です、多くの場合、土石流や山崩れ等の自然災害による被害地に建立されます。

笹子町原公民館横の
火の見ヤグラを過ぎると旧道右手に稲村神社があります。

神社の向いには
親鸞上人念佛供養塚があります。

葦ケ窪の
地頭小俣氏が修行僧に心を寄せたが、悲恋に終わると、葦ケ池に身を投げ、毒蛇となり、里人を大いに悩ませました。

ここを通りかかった
親鸞上人が小石に南無阿弥陀仏の名号を書き、池に投げ入れると、の霊は済度され成仏しました。
萬霊塔 親鸞上人念佛供養塚

 向かいの稲村神社境内に入ってみましょう。

稲村神社の
祭神は国常立尊、素盞雄尊、日本武尊、稲田姫尊の四神です。

南北朝時代の嘉暦二年(1327)の創建で、宝暦十一年(1761)大鹿川の氾濫で荒廃したが、安永六年(1777)に再建されました。

境内の台上には
馬頭観音、廿三夜塔等が多数あります、その中でひと際大きい石塔は合体(男根女陰)道祖神です。

境内の中央には一つの根方から三本の幹が聳える見事な
大杉があります。
稲村神社本殿 合体道祖神 三本杉

 火の見ヤグラを過ぎると、右手に塀から突き出た異形の松があり、左手に五本のシュロがあります、ここを左折(黄色矢印)します、吉久保迂回路です。

直進(白色矢印)は
旧道です、折角ですから踏み込んでみましょう。

旧道を進むと右手に
葦ケ池伝説に登場する小俣家があります。

地頭
を勤める小俣左衛門の娘が毒蛇となったが、親鸞上人に済度されました、地頭はこの徳を慕って剃髪し、唯念と称して善福寺の二世となりました。

旧道は枕木の柵の所で、
JR中央本線に分断され、通行
吉久保迂回路 小俣家 東分断地点

不能になっています。


 線路越しに見える枕木の柵が西側の分断地点です、それでは迂回路に戻りましょう。

JR中央本線
吉久保ガード手前左手の間知石擁壁上に葦池碑葦ケ池標柱があります、毒蛇となった娘が棲みついた池跡です。

昔、
篠子川(笹子川)の本流が土石流に遮断され、泥土と湛水(たんすい)が流れ込み沼湖になり、葦草が群生し、低地であったため葦ケ窪の地名の由来となりました。

ここを通りかかった
親鸞上人が小石に南無阿弥陀仏名号を書き、池に投げ入れると、の霊は済度(成仏)しました。
西分断地点 迂回路 葦池碑 葦ケ池標柱

 JR中央本線吉久保ガードをくぐると二種類の迂回路があります。

左程旧道にこだわらない人は直進し、突当りの
国道20号線を右折します。

旧道にこだわる人は右折し、線路の
土手下を進みます。

枕木の柵が
西側分断地点です、ここから草道の旧道を進みます。

旧道は
草道から舗装路になり、
二種の迂回路 西分断地点 吉久保旧道 合流点

国道20号線に合流します、国道20号線迂回路ともここで合流します。

下諏訪方面からは
笹子電話交換局施設が旧道分岐ポイントです。

 国道20号線を進むとY字路になります。

左は
笹子川橋です、直進の右旧道に進みます。

正面の
笹子小学校は明治六年(1873)の創立ですが、平成二十二年(2010)閉校となりました。

旧笹子小学校の手前を左折し、
旧笹子橋笹子川を渡ります。

渡り詰めを
右折します。
笹子橋分岐 旧笹子橋分岐 旧笹子橋 旧笹子橋分岐

 AM 8:32 阿弥陀海道宿着 黒野田宿まで 0.9km

 笹子川を旧笹子川で渡ると阿弥陀海道宿に到着です!

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると阿弥陀海道宿宿内家数は六十五軒、うち本陣一、脇本陣一、問屋一、旅籠四軒(中三、小一)で、宿内人口は二百七十二人(男百二十七人、女百四十五人)でした。

白野宿黒野田宿の三宿で一宿とし、問屋業務は月のうち十六日から二十二日までを阿弥陀海道宿が勤めました。

旧笹子橋渡り詰め正面の
笹一酒造は大正八年(1919)の創業です、私のお気に入りはワンカップの武田二十四将です、スッキリした飲み口で、ネーミングが最高です!

平和大太鼓はギネスにも登録されている世界一の大太鼓です。
笹一酒造 世界一の大太鼓

 旧笹子橋の渡り詰めを左折(黄色矢印)し、国道20号線笹子橋袂を右に下り、 天野宅を右折し、突き当りの小山を右に回り込むと阿弥陀堂跡があります。

跡地には
阿弥陀堂跡碑本尊阿弥陀佛があります、この阿弥陀堂は阿弥陀海道の地名由来になっています。

奈良時代の名僧
行基笹子峠に跋扈(ばっこ)する悪霊を鎮めんとこの地に堂を建て、自ら彫った阿弥陀如来像を安置しました。

行基はこの地を
阿弥陀海と命名し、堂に通じる道を阿弥陀海道と呼びました。

この
阿弥陀仏は黒野田宿の普門院に移されています。
阿弥陀堂跡口 阿弥陀堂跡碑 本尊阿弥陀佛

 地頭小俣氏の娘が思いを寄せた僧とは、この阿弥陀堂の
修行僧でした。

 道中を進むと右手に名物笹子餅店があります、往時は難所笹子峠の茶屋で峠の力餅として商われ、名物でした。

JR中央本線高架脇右手の
歩行者専用ガードに入ります、阿弥陀海道旧道東口です。

ガードを抜けると
空気感が違います、しかしこの旧道もスグ先で再び国道20号線に吸収されます。

下諏訪方面からは
奈良電器商
名物笹子餅 阿弥陀海道旧道 旧道風情 阿弥陀海道旧道西口

の向いを斜め左の阿弥陀海道旧道に入ります。

 AM 8:41 黒野田宿着 駒飼宿まで 10.9km

 左手のJR中央本線笹子駅の広場に笹子隧道記念碑があります、明治三十五年(1902)に完成した笹子隧道は全長4656mで当時、東洋一の鉄道トンネルでした。

相模川水系の
辰巳沢を越すと黒野田宿に到着です!
黒野田宿は難所笹子峠を控え、大いに賑わいました。

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると黒野田宿宿内家数は七十九軒、うち本陣一、脇本陣一、問屋一、旅籠十四軒(大四、中六、小四)で、宿内人口は三百三十四人(男百七十人、女百六十四人)でした。

白野宿阿弥陀海道宿の三宿で一宿とし、問屋業務は月のうち朔日から十五日までを黒野田宿が勤めました。

緩い上り坂を進むと左手に愛嬌のある
笠懸地蔵が鎮座しています。
笹子隧道記念碑 笠懸地蔵

 安政二年(1855)の建立、天明天保の
大飢饉による窮乏をこの地蔵に心願したものです、そう見ると重荷に耐えているように見えます。

 笠懸地蔵先の左手に黒野田宿本陣跡があります、「御本陣との村茂助」で天野家が勤めました、本陣門関札等を残しています。

門脇に
明治天皇行在所趾碑があります、明治十三年(1880)山梨三重京都巡幸の際に宿所となりました。

本陣先の左手に嘉永七年(1854)建立の小さな
秋葉山常夜燈があります。

秋葉山常夜燈先が
Y字路になって
天野本陣跡 明治天皇碑 秋葉山常夜燈 旧黒野田橋

います、右は
黒野田橋です、ここは左に進み古色蒼然とした旧黒野田橋笹子川を渡ります。

 旧黒野田橋を渡ると右手に臨済宗黒埜山妙心寺派普明院があります、天正十一年(1583)遠江国乾城主の子天野宮内左衛門内尉景信(黒野田宿天野本陣の祖)が開基し、阿弥陀海道宿の阿弥陀堂にあった行基作の阿弥陀像をここに移して本尊としました。

又、この寺の
毘沙門天像は高さ3mの見事な造りで日本三大毘沙門天、又は関東三大毘沙門天の一つといわれ、その体内仏行基作と伝わっています。

境内に
芭蕉句碑「行くたびに いどころ変わる かたつむり」があります。

門脇には
江戸日本橋ヨリ二十五里碑があります、黒野田の一里塚跡です、両塚共黒野田宿地内で塚木は松
普明院 黒野田一里塚跡 芭蕉句碑

でした、江戸日本橋より数えて実質二十七里目です。


 緩やかな上り坂をグングン進み、笹子川屋影(やかげ)で渡ります。

右手の岩上には宝暦五年(1755)建立の
南無妙法蓮華経題目碑や近世の馬頭観音等が祀られています。

大衆食堂しらかばを過ぎると左手に
庚申塔馬頭観世音文字塔があります。

追分消防会館を過ぎると、富士急
公民館前バス停の所に安政三年
笹子川 石仏石塔群 庚申塔&馬頭観音 常夜燈

(1856)建立の
常夜燈があります、竿石には秋葉山愛宕山と刻まれています。

 笹子峠越え

 コンビニ跡の先で道筋はY字路になります、国道20号線から左の県道212号日影笹子線に入ります、分岐ポイントには標識「←笹子峠」があります。

国道20号線をそのまま進むと、昭和三十三年(1958)完成の
新笹子トンネルに入ります、当時は関門トンネルに次ぐ日本第2位の長さでした。

欄干の低い
中橋笹子川を渡ります。

スグ先左の
土道に入ります、この分岐点には金網のゴミ収集箱ホタルの一生標識があります、標識には「6月、7月が見頃になります、お楽しみに!川をきれいに、ホタルの住みよい環境づくりにご協力下さい。」と記されています。
中橋分岐 中橋 ホタル標識分岐

 ここからの
道筋が旧道と断定は出来ませんが、最も旧道に近いといえます。

 先のY字路は右手石垣の間の草道を進みます。 

立派な石垣のお宅の前で、迂回してきた
県道に再び合流します。

新田沢山口橋で渡ります、この先の峠道はこの新田沢に沿って進むことになります。

新田下バス停の先を右折(白色矢印)します、この分岐点には甲州街道道標「矢立の杉 笹子駅」があります、ここが甲州道中最大の難所笹子峠の実質上の登り口
石垣の間の草道 県道合流点 新田下分岐 題目碑

です、サア、
気合を入れて踏み込みましょう!

ここは
小田原沼津道追分で、直進(黄色矢印)すると、右手に髯文字の南無妙法蓮華経題目碑があります。

 笹子峠道は荒れた簡易舗装路から始まります、以前はここによく吠えるがいました。

舗装路から
土道に変わり、木立の中に入ります。

スグに新田沢の
砂防ダムに突き当たります、左に迂回します、道跡をトレースすれば問題ありません。

新田沢のせせらぎを聞きながら、林の中の峠道を進みます。

ここを参勤の
大名甲陽鎮撫隊
簡易舗装路 土道 砂防ダム 林道

通ったかと想像すると、ゾクゾクします、峠道にはわずかに
踏み跡があるだけです、注意深く進みましょう!

 やがて左手頭上に県道の白いガードレールが現れます。

踏み跡を進むと
石垣が現れます、この石垣を上ると県道に合流します。

下諏訪方面からは
ガードレールの切れ目、そして笹子駅方面を示す甲州街道道標が分岐ポイントです、左手の峠道の下り坂に入ります。

滅多に車の通らない県道の上り坂を進みます。

新田沢美久保橋で渡ります。
石垣道 県道分岐 県道 美久保橋

 県道を左ヘアピン状にカーブして進むと先に矢立の杉入口があります、土道の入口には笹子峠自然遊歩道の案内標識があります。

小さな沢を
木橋で渡り、快適な峠道をモクモクと進みます。

スグに明るく開けた広場に出ます、ここが
三軒茶屋跡です、 三軒茶屋は笹子茶屋又は中ノ茶屋とも呼ばれました、草団子の峠の力餅が名物でした。

茶屋跡には
明治天皇御野立所跡碑があります、明治十三年(1880)六月十九日山梨県巡行に際し、天野治兵衛家で野立を行いました。
矢立の杉入口 木橋 明治天皇碑

 小さな沢を跨ぎながら進むと、千年の風雪を耐え抜いた矢立の杉が現れます。

根廻り14.8m、目通り9m、樹高26.5m、幹は地上約21.5mで折れ、樹幹中は空洞になっています(山梨県指定天然記念物)。

出陣の
武者がこの杉に矢を射立て武運長久を祈りました、今でも樹皮の中に矢じりを残しているかもしれません。

二代目
歌川広重は安政六年(1859)に諸国名所百景の中で甲州矢立杉を描いています。

矢立の杉辺りに
笹子峠の一里塚があったともい
木橋 矢立の杉 二代広重画 矢立杉

いますが、存在及び位置共に不明です、江戸日本橋より数えて二十八里目です。


 矢立の杉の先に身代り両面地蔵菩薩が新設されています。

この地蔵の手前が
Y字路になっています、左(白色矢印)が旧道です、右(黄色矢印)は県道に出てしまいます、ここには甲州街道道標「笹子新田 笹子トンネル」があります。

旧道は一旦、
深山幽谷の中に沈み込みます、丸太組の木橋で小さな沢を渡ります。

木立の中を縫うように進みます、やがて旧道は峻険な尾根道になります、この辺りが笹子峠最大の難所であったのかも知れません。
地蔵前分岐 木橋 尾根道

 まるで滑り台ような旧坂を下ると、県道に合流します、この分岐点には甲州街道道標「矢立の杉 笹子峠トンネル」があります。

葛籠折りの
県道をグングン進むと正面に洋風レンガ造りの笹子隧道(トンネル)が現れます。

この笹子隧道は昭和三十三年(1958)国道20号線
新笹子トンネルの開通により役目を終えました(登録有形文化財)。

笹子隧道の右が
笹子峠登り口です、登り口の右には笹子雁が腹摺山(ささごがんがはらすりやま)方面道標、左には笹子峠〜清八峠登山道案内があります。
矢立の杉分岐 笹子隧道 笹子峠登り口

 急な斜面を這うように登ります、以前はここにロープがありましたが、無くなっています、 アットいう間に県道が眼下になります。

スグに
笹子峠頂上(標高1096m)に到着です、ここには笹子峠道標があります。

笹子峠は江戸方面より上り一里十五町(約5.6km)、下り二十一町(約2.3km)の峠道です。

笹子山は篠籠嶺(ささごれい)板東山とも呼ばれ、北は大菩薩嶺より初鹿野山(はじかのやま)、南は黒駒山、御坂嶺片山に連なる一脈の大山です。

峠は
八代都留二郡の境でした、今は大月市甲州市の境です。

それでは
下りに取り掛かりましょう、道標「←大和村日影・かいやまと駅」方向に進みます、下諏訪方面からは道標「笹子駅→」方面に下ります。
笹子峠

 笹子峠道標から土道を下るとT字路に突き当たります、左折(白色矢印)します、右折(黄色矢印)すると天神祠があります。

小さな
赤鳥居があり、奥に享保十四年(1729)建立の常夜燈石祠(現在の祠は昭和五十六年の建立)があります、笹子峠を往来する人馬の無事を見守ってきました。

T字路に戻り旧道を下ります、
白杭「自然を守ろう」の先がY字路になっています。

ここを
(黄色矢印)に進むと、笹子隧道の左側に出てしまいます、甲州道中はY字路の(白色矢印)に進みます。
T字路 天神祠 Y字路

 土道を下ると、右手斜面に頭部が欠けた馬頭観音像が祀られています。

土道を下ると
県道に突き当たります、 ここで県道を横断し、向いのガードレールの切れ目から再び快適な峠道に入ります。

この峠道口には
甲州街道峠道標識があります。

峠道をグングン下ると
県道に接近します、ここに甘酒茶屋跡標柱があります、ここに甘酒を商う茶屋がありました、県道脇をすり抜けます。
馬頭観音 笹子峠西口 峠道標識 甘酒茶屋跡

 さらに下ると旧道は林道のT字路に突き当たります、左折してこの林道を進みます。

この分岐点には
甲州街道峠道標識があります。

林道をおよそ50m進むと右手に
甲州街道峠道標識が現れます、ここから再び旧道が復活します。

浅い沢を
丸太橋で渡り、先で笹子沢川丸太橋で渡ります、高所恐怖症の方にはちょっとヘビーかもしれません。
林道合流 峠道口 丸太橋 丸太橋

 峠道を進むと左手に馬頭観世音菩薩標柱があります、「江戸時代笹子峠道を往来しながら荷物を運ぶ馬の安泰を祈願しました」と記されています。

肝心な
馬頭観音は見当たりません!

峠道は
T字路に突き当たります、右折(白色矢印)し甲州街道峠道方面に進みます、左は自害沢天明水方面です。

フェンスに沿って下ると、左手に
笹子沢川砂防ダムがあります。

やがて峠道は
県道に突き当たります、
馬頭観音 T字路 フェンスの峠道 県道合流

左折(白色矢印)します、実質上の笹子峠道の終了です!

下諏訪方面からは
笹子沢川清水橋で渡り、右折して土道に入ります。

 ここからは県道をグングン下ります。

ヘアピンカーブを二ケ所やり過ごすと、右手に桃の木茶屋跡標柱があります、ここには三軒の茶屋がありました。

無事峠を越えた旅人はここで一息つき、これから峠を目指す旅人は精を付けたのでしょう。

大持沢大持沢橋で渡って下ると、笹子沢の渓谷に砂防ダムが望めます。

最後のヘアピンカーブをやり過ごすと
駒飼宿が望めます。
桃の木茶屋 笹子沢砂防ダム 駒飼宿遠望 津島大明神

 
天狗橋手前の右手に津島大明神が祀られています、 古来より郷土を鎮める為の神として素盞鳴尊(すさのお)を祀ったものです。

 笹子沢川に架かる天狗橋を渡ると、(白色矢印)に進みますが、(黄色矢印)の笹子沢川沿いに旧道が残されています。

入口には
有害獣対策用の扉がありますが、開閉は自由に行えます。

土道を進み、途中の
Y字路を右に進むと左手に甲州道中史跡「駒飼一里塚跡」があります、江戸日本橋より数えて二十九里目です。

旧道を更に進むと
砂防ダムに突当
ります、旧道はここまでです。
駒飼旧道口 駒飼旧道 駒飼一里塚跡 砂防ダム

 AM 11:35 駒飼宿着 鶴瀬宿まで 1.3km

 笹子沢川天狗橋で渡ると駒飼宿に到着です!

いにしえ駒飼には
甲斐源氏(牧場)がありました、駒飼宿は甲州道中最大の難所笹子峠を控え、大いに賑わいました。

甲州道中宿村大概帳によると駒飼宿宿内家数は六十四軒、うち本陣一、脇本陣一、問屋一、旅籠六軒(大一、中二、小三)で、宿内人口は二百七十四人(男百三十九人、女百三十五人)でした。

鶴瀬宿とは合宿で問屋業務は毎月二十一日より晦日までは駒飼宿が勤めました。

宿並に入ると右手に
芭蕉句碑「秣(まぐさ)負ふ 人を栞の(しおりの) 夏野哉」があります、「秣(まぐさ)を背負う農夫を道しるべとしてやって来ました」の意です。

明治四十五年(1912)の大出水にて流失した
句碑を再建したものです。
芭蕉句碑

 宿並を進むと左手に標柱「史跡 甲州道中 脇本陣跡」があります。

旅籠屋富屋陣左衛門跡です、跡地は更地になっています。

先の左手に
標柱「史跡 甲州道中 駒飼 本陣跡」があります、渡辺家が勤め、酒造業を兼ねました。

敷地は
更地になっています、敷地の奥に明治天皇御小休所址碑があります、明治十三年(1880)六月十九日山梨県巡行に際し、休息所となりました。
脇本陣跡 標柱 本陣跡標柱 明治天皇碑

 雪解けの笹子峠を越えた甲陽鎮撫隊の一行はこの駒飼宿に宿陣しました、ここで初めて甲府城が乾(板垣)退助が率いる東山道先鋒隊によって奪取されたとの情報が知らされました。

この情報が隊員に知れ渡ると
脱走が相次ぎ、一夜明けると総員は百二十一名に減少し、新撰組の古参約二十名以外は戦闘経験の無い烏合の衆であったといいます。

本陣の向いに
萬霊塔があります、ここから登ると浄土宗国宝山養真寺があります、慶長二年(1597)の創建で本尊は子安地蔵です。

宿並を進み
日影バス停の手前を左折して下り坂に入
萬霊塔 養真寺 駒飼分岐

ります、この分岐点には
標識「←旧甲州街道」があります。

 坂道を下ると左手に旧旅籠を再生した大黒屋・サンガム cafeがオープンしました。

素泊まり4,100円 二食付6250円です。

料理はインド人が作る本格
インドカレーです。

難所
笹子峠を控えた、ここに食事宿泊が出来るのは街道ウォーカーにとってはオアシスです。

0553(48)2555
大黒屋・サンガム 食堂 本格インドカレー 客 室

 サンガムの向いに甲州街道駒飼宿標柱があります、駒飼宿の西口です。

右手に幹が
枡形状に曲がった松があります、樹皮が亀甲に割れていますので黒松です。

坂をグングン下ると、右手に
城郭を思わせる石垣があります。

何なのでしょう、気になりますね、石垣の根方には
石塔があります、益々気になりますね!

笹子沢川古道橋で渡ります、長らくお付合いを願った笹子沢川はスグ先で日川に吸収されます。
異形の松 石垣&石塔 笹子沢川

 中央自動車道駒飼橋をくぐると、左手に石仏石塔があり、右端に巡礼供養地蔵が安置されています。

廻国巡礼僧(六部)が追剥に襲われ、胴体だけが残っていたのを村人が埋葬し、宝永五年(1708)供養のため地蔵尊を造立しました、首無し地蔵とも呼ばれました。

旧道は
県道212号線に突き当たります、左折します、この分岐点の擁壁上には旧甲州街道標識があります。

スグ先の
大和橋西詰交差点を左折し
中央自動車道 巡礼供養地蔵 日影分岐 旧甲州街道標識

国道20号線に合流します、ここを右折するとJR中央本線甲斐大和駅です。

尚、甲斐大和駅から先におよそ2.4km行くと、
武田勝頼終焉の地景徳院があります、それでは寄り道しましょう。

 天正十年(1582)三月三日新府城から落ち延びた武田勝頼一行は大月の岩殿城を目指したが、城主小山田信茂の謀反により、笹子峠手前でその進路を断たれてしまった。

三月十日、それまで踏みとどまっていた笹子峠の麓
駒郷(現在の日影)を出立し田野に入りました。

翌日、武田家の信望厚い天目山
栖雲寺(せいうんじ)に向かったが、織田徳川軍に行く手を阻まれ田野に引き返し、進退窮まった一族はここで自害をして果てました。

時に
武田勝頼三十七歳、夫人十九歳、嫡男信勝十六歳でした、
景徳院山門 景徳院本堂 武田勝頼の墓

 同年七月、
家康は田野の勝頼一族の自害地に景徳院を建立し、勝頼一族の菩提を弔いました、いずれも武田信玄に一目も二目もおいた証でしょう。

これには武田家遺臣団も感涙にむせび、忠誠を誓ったことでしょう、後に旧家臣団を
千人同心として召抱え八王子に配備し、江戸城のライフラインを確保しました、さすが狸爺の面目躍如です!

墓域には
将兵侍女合わせて五十名の墓があります。

 大和橋西詰交差点に戻って、国道20号線を進むと、右手に茶褐色の錆色をおびた甲州鞍馬石燈籠を商う塩野庭石店があります。

国道を挟んだ向かいの
上り坂をガードレールに沿って登り詰めると民家の裏に武田勝頼公腰掛石があります、武田家の家紋武田菱が浮いて見えるところから菱石とも呼ばれました、小山田信茂の裏切りを知り、苦渋の選択を迫られた所です。

国道20号線の歩道を進み、
日川立合橋で渡ります、日川三日川とも呼ばれました、武田勝頼勢の自刃による流血で流れが三日濁ったといいます。

笹子沢川を吸収した日川笛吹川となり、釜無川
甲州鞍馬石 武田勝頼公腰掛石 立合橋

して
富士川と名を変え、流末は駿河灘に注いでいます。

 PM 12:01 鶴瀬宿着 勝沼宿まで 3.9km

 先に進むと左手に古跡金岡自画地蔵尊碑があります、金岡なる大和絵の巨匠がここにあった岩に地蔵尊を描きました、時とともに消えてしまったが、水をかけると絵が浮かび上がったといいます。

残念ながらこの岩は明治四十年(1907)日川の
洪水で流失してしまいました。

鶴瀬交差点手前の右手に
鶴瀬関所跡標柱があります、甲州十二関の一つで、鶴瀬の口留番所とも呼ばれました、物資流通の警戒と入鉄砲に出女を厳しく取り締まりました。

関所を抜けると
鶴瀬宿に入ります、鶴瀬宿に到着です!

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると鶴瀬宿宿内家数は五十八軒、うち本陣一、脇本陣二、問屋一、旅籠四軒(大一、中一、小二)で、宿内人口は二百四十二人(男百二十五人、女百十七人)でした。
金岡地蔵尊碑 鶴瀬関所跡

 駒飼宿とは合宿で問屋業務は毎月朔日より二十日までは鶴瀬宿が勤めました。

 鶴瀬交差点を横断すると国道20号線沿いに、鶴瀬地区碑甲州道中鶴瀬宿標柱があります。

鶴瀬の地名は都留(つる)郡の背(瀬)に当たるところに由来しています。

宿並を回り込むと右手に享和三年(1803)建立の
常夜燈があります、竿石には秋葉大権現石尊大権現と刻まれています。

常夜燈先で宿並は
国道20号線に合流します。
鶴瀬交差点 鶴瀬宿標柱 常夜燈 鶴瀬宿西

 国道20号線を進み、矢久保沢手前右手の鶴瀬集落センター辺りが高札場跡です。

旧道(黄色矢印)は矢久保沢手前を右に入り、矢久保沢矢久保沢土橋で渡りましたが、今は通行不能です。

正面の
鶴瀬歩道橋矢久保沢を渡ります。

右手丘上の曹洞宗鶴瀬山
真竜寺の参道口の志々久保バス停先の擁壁手前に古跡血洗澤標柱があります。

武田勝頼が落延びる際、家臣の跡部大炊介が逃亡、土屋惣蔵が追尾し、これを討取り、この沢で血痕を洗い流したといいます、土屋惣蔵は田野で主君勝頼が自害する間の時を稼ぐ為、天目山で奮戦し、ついに討死にしました。
鶴瀬歩道橋 真竜寺 血洗澤

 右手の急傾斜上に旧中央線トンネルが望めます。

次いで右手の擁壁上に
古跡鞍懸標柱があります、武田勝頼が落延びる際、逃亡した家臣の長坂長閑土屋惣蔵に追われ、落とした馬の鞍が路傍のの木に掛かっていた所といわれます。

その後
長坂長閑は息子と共に織田方に捕縛され、処刑されました。

右手の民家を過ぎると、石段の奥に
小社が祀られています。
旧中央線トンネル 古跡鞍懸 小社 長柿洞門

 先に進むと
長柿(おさがき)洞門が現れます、洞門手前の横断歩道標識を渡って(黄色矢印)洞門に入るルートは迂回路ルートです、白色矢印は観音堂旧道ルートです。

 それでは観音堂旧道をトレースしてみましょう。

長柿洞門手前の横断歩道の所から右手の
登り坂に入ります。

上り始めると右手に大小の
観世音菩薩碑があります。

スロープを上り切ると
長柿洞門の上に出ます、ここには聖観音堂標柱があります。

この標柱の向いが上りの
Y字路になっています、左手の石段を上ります。

このY字路右のスロープを上ると
墓地経由になってしまいます。
観音堂ルート東口 観世音菩薩碑 Y字路

 石段から土道に変わると、対の御神燈が旅人を出迎えてくれます。

再び
石段になり、ここを上がると味わい深い横吹観音堂があります、本尊は聖観世音菩薩で京都清水より移したもので、養蚕の守護神として篤く信仰されました。

観音堂脇には
納藁堂(のうこうどう)があります、柵の中には夥しい数の藁沓(わらぐつ)が山積みになっています。

よく見ると丸い
馬の藁沓です、これは縁日馬の藁沓半足を借りて帰り、後日一足にして返すという風習によるものです。
御神燈 横吹観音堂 納藁堂

 境内からは甲府盆地が遥かに眺望できます、広重はここからの景を古今絶景也と評しています。

観音堂正面の
石燈籠から下ります、但し、砂利道急坂です、それこそ足を滑らせれば命がありません。

十分にお気を付け下さい、自信が無い方は元の道を戻り、
長柿洞門にて迂回しましょう。

砂利道から舗装されたスロープを下ると、
下道に合流します、ここが
古今絶景 観音堂旧道下り口 危険な急坂 観音堂旧道西口

観音堂旧道西口です、黄色矢印は長柿洞門からの迂回路です。

 それでは観音堂迂回路を進んでみましょう。

長柿洞門に入り、途中から左に出て道なりに進むと左手に芭蕉句碑「観音の 甍(いらか)見やりつ 花の雲」があります、貞享三年(1686)芭蕉四十三歳の時の句です。

渓谷には
大和十二景長柿の吊り橋が架橋されています。

国道20号線に合流し、
観音トンネル西を右折し、右に大きく回り込むと観音堂旧道西口に合流します。
長柿洞門 長柿洞門内出口 芭蕉句碑 長柿の吊り橋

 国道20号線をくぐると左手に古跡武田不動尊標柱石燈籠があります。

脇の急な石段を下ると
武田不動尊が祀られています、祠は昭和五十二年に復元されたものです。

標柱には「この地は勝頼公一行が瀧川勢に追迫せられ、我末路幾何もあらず、留めて後世に残さんと、奉持していた不動尊を里人に託した所と云われています」と記されています。

日川の渓谷に沿って進むと共和バス停の所に共和地区碑があります。
国道高架橋 古跡標柱 武田不動尊 共和地区碑

 旧道を進むと右手に旧甲州街道標柱があります、標柱には「甲州道中鶴瀬宿と勝沼宿を結ぶ、この横吹の古道は往時の面影を今に伝えています」と記されています。

面影を残す
横吹集落を進むと、右手の火の見ヤグラの所に丸石道祖神一石六地蔵尊等が祀られています。

奥には
横吹諏訪神社があります、諏訪神社の分社で、古来より横吹産土神として篤く信仰されてきました。
旧甲州街道 横吹集落 石仏石塔群 横吹諏訪神社

 横吹集落を抜けると急な上坂になり、国道20号線に合流します、この合流点の先に117kmポストがあります、下諏訪方面からの重要な分岐ポイントです。

スグ先の
117K1標識の先を斜め左に入ります、下った先右手の石垣上に史跡横吹一里塚跡標柱があります、初鹿野(はじかの)村枝郷横吹組地内で片塚、塚木はでした、江戸日本橋より数えて三十里目です。

国道20号線に戻ってわずかに進むと、
117K2標識手前、ガードレールの切れ目の所の木立に旧甲州街道一里塚跡標識
国道20号線合流 一里塚口 横吹一里塚跡 横吹一里塚跡

がくくり付けられています、ここから下を覗き込むと先程の
史跡横吹一里塚跡標柱を眼下に確認できます。

 国道20号線の歩道をモクモクと進むと、左手に大和町勝沼町境モニュメントがあります、大和町名産の赤味がかった甲州鞍馬石が組み合わされています。

スグ先が
深沢入口交差点です、ここには大善寺境内の東境を示す東神願(ひがしじんが)鳥居が戦後まで道中に跨っていました。

深沢入口交差点手前を右折し、右手のスロープを上ると擁壁上に
柏尾白山平経塚があります。

昭和三十七年柏尾発電所の送水管保護工事中に発見された
経塚です、出土品は重要文化財として東京国立博物館に保存されています。
大和町勝沼町境 東神願鳥居 経塚

 深沢川に架かる柏尾橋手前を右に下るころび石坂が旧道痕跡です。

旧道に踏み込むと右手に
馬頭観音があります、天保七年(1836)勝沼宿の脇本陣家が中心となって建立したもので、三面に馬頭観音像が陽刻されています。

明治柏尾橋跡、大正柏尾橋跡を過ぎ、ころび石坂を下り切った奥が、江戸時代の
柏尾橋跡です。

柏尾橋は両岸に橋脚をおろした幅十尺(約3m)、長さ十二間(約22m)の板橋でした。

この板橋はおよそ十七年ごとに架け替えが行われ、管理維持は
勝沼宿の役割であったといいます。
ころび石坂 馬頭観音 江戸柏尾橋跡

 現在の柏尾橋の袂には近藤勇之像があります、旧柏尾橋の両岸は柏尾古戦場跡です。

慶応四年(1868)
近藤勇率いる甲陽鎮撫隊(幕府軍)は一旦勝沼まで進出しましたが、官軍に圧倒され柏尾まで撤退し、東神願鳥居前に大砲二門を据え、ここを本陣としました。

これに対して
板垣退助率いる東山道軍(官軍)は三手に分かれて柏尾に迫りました。

この戦を一目見ようと
見物人が集まり、屋台まで出たといいます。

剣で鳴らした
新撰組は、近代装備官軍の前には歯が立ちませんでした、総崩れです。

柏尾の
茶屋に火を放ち、柏尾橋を焼き払い、ころび石坂に木を切り倒し、江戸に向けて敗走しました、一時間程の戦いでした。

勝沼町には
柏尾戦争で戦死した、官軍側一名の墓があります。
近藤勇之像

 今は昭和の柏尾橋にて深沢川を渡ります、深沢川は高宕山(たかごやま)に源を発し、流末は日川に落合います。

右手の柏尾山甲州高尾山登山口に
柏尾山薬師如来碑があります、薬師堂への裏参道です。

大善寺前に
旧道痕跡があります、大善寺手前から左国道下に入り、先で再び国道に合流します、ブドウ畑で作業をしていたお年寄に聞いたところ、 間違いなく取り残された旧道でした。
深沢川 柏尾山薬師如来 大善寺旧道東口 大善寺旧道西口

 右手の真言宗智山派柏尾山大善寺ぶどう寺と呼ばれています。

養老二年(718)
行基がこの地で修行し、満願の日に右手にぶどうを持った薬師如来が現れ、これと同じ像を造り安置したのが始りです。

以来
ぶどうは法薬としてこの地で広く栽培されるようになりました。

本尊の
薬師如来像は国重要文化財で、安置している薬師堂は弘安九年(1286)の建立で国宝です。

落延びる
武田勝頼の一行は薬師堂で一夜を過ごしました。

当初、
近藤勇は当寺を本陣にと主張しましたが、武田家所縁の名刹を血で穢したのでは畏れ多いとの意見により断念し、東神願鳥居本陣を置きました。
大善寺山門 薬師堂

 大善寺先の柏尾交差点がY字路になっています、国道20号線は左に大きく反れて行きます、甲州道中は右の県道38号塩山勝沼線を進みます。

このY字路の左手に
御御影岩標柱があります、行基がこの盤石上で修行を行い、満願の日に葡萄薬師如来御身影を見たといいます。

荻浜園先の右手に
国見坂標柱があります、元和七年(1621)に甲州道中の往還筋地名と定められました。

標柱の並びに
馬頭観音や宝暦三年(1753)建立の南無妙法蓮華経題目碑があります。

スグ先の左手には
ワイン民宿鈴木園があります。
柏尾交差点 御身影岩標柱 国見坂標柱

 県立ワインセンター案内標識に従って左に入ると右手に勝沼氏屋敷跡家臣屋敷が復元されています。

忠玉園向いのスロープを上ると
雀宮神宮の境内に芭蕉句碑「山里は 万歳遅し 梅の花」があります。

日蓮宗長遠山
上行寺の寺標には日蓮聖人投宿之地と刻まれています。

国道を挟んだ向いが
勝沼氏館跡です、 勝沼氏は信玄の父である武田信虎の弟信友の家系で、御親類衆として武田軍団の一翼を担っていました。
勝沼氏家臣屋敷 芭蕉句碑 上行寺 勝沼氏供養地蔵

 しかし子の
信元は逆心の疑いをかけられ、永禄三年(1560)信玄に滅ぼされました。

柵内には真新しい
勝沼氏供養地蔵があります、勝沼信友の娘理慶尼(りけいに)は館跡に地蔵を造立しましたが、いつの日か失われてしまったといいます、これを復活したものです。

 PM 1:08 勝沼宿着 栗原宿まで 3.4km

 上行寺と勝沼氏館跡の辺りが枡形跡です、ここが勝沼宿の東口です、勝沼宿に到着です!

元和四年(1618)に
勝沼宿が開設されました、甲府盆地の東端に位置し、峡東地方の物資集積の地として栄え、万治元年(1658)よりが立ち大いに賑わいました。

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると勝沼宿宿内家数は百九十二軒、うち本陣一、脇本陣二、問屋一、旅籠二十三軒(大五、中七、小十一)で、宿内人口は七百八十六人(男三百九十四人、女三百九十二人)でした。

上町に入るとENEOSの向かいが脇本陣跡です、標柱があります。

上町交差点を越すと右手に
池田本陣跡があります、槍掛けの松を残し
脇本陣跡 勝沼宿本陣槍掛けの松

ています、
大名公家等が宿泊すると、その目印にを立て掛けた老松です。

 本陣脇の横道は小佐手小路(おさでこうじ)
です、
勝沼氏館の大手門から真っ直ぐ北に延びる道筋で、小路の両側には家臣団の屋敷が建ち並び城下町を形成していました。

小路正面の
泉勝院勝沼信友夫人が母の菩提を弔う為に創建し、勝沼氏の菩提寺でした。

宿並に戻り、中町(現仲町)に入ると左手に
勝沼宿仲松屋があります、萩野家は質屋業で財をなした豪商でした、江戸時代後期の主屋を中心とした東屋敷と明治前期の建築を中心とした西屋敷の二軒分の商家建築を残しています。

中町には
高札場がありました。
小佐手小路 泉勝院 仲松屋

 宿並の右手に三階建ての土蔵があります、明治二十年頃(1887)の大火後、自己所有の山林(大和村)の木材にて造った、地下一階、地上三階の土蔵です、大部老朽化が進んでいますが勝沼町にて保存予定だそうです。

次いで右手に
旧田中銀行社屋があります、国登録有形文化財で、経済産業省近代化産業遺産です、明治三十年代前半に勝沼郵便電信局舎として建てられ、大正九年(1920)より昭和七年(1932)頃まで山梨田中銀行の社屋として利用された藤村式洋風建築の建物です。

若尾果樹園手前を左に入ると
題目碑や文化八年(1811)建立の日蓮聖人所縁の碑があります。
三階建ての土蔵 旧田中銀行社屋 日蓮大菩薩霊所

 ここが
日蓮大菩薩御一宿の霊地です、弘安九年(1286)日蓮聖人は農家甚右衛門宅に宿泊し、直筆の曼荼羅を残しました。

 右手の甲州市立勝沼小学校校門の右手にようあん坂標柱があります、標柱には「勝沼宿内で最も急な坂。名は、用有と呼び止めたことからとも天野養庵の家が近くにあったためとも伝えられる。」と記されています。

並びには
標石「海抜四〇〇米」があります。

校門の左手には
勝沼学校跡碑があります、明治十三年(1880)築の藤村式学校建築はその後の学校や庁舎建築に大きな影響を与えたといいます。

並びに
明治天皇勝沼行在所碑明治天皇歌碑「えびかつら いろつきそめぬ やまなし
ようあん坂標柱 勝沼学校跡碑 明治天皇碑 明治天皇歌碑

の さとのあきかぜ さむくなるらし」があります、
えびかつらはブドウのことです。

明治十三年(1880)山梨巡行の際、同年に新築落成した
勝沼学校校舎が宿所となりました。

 中央公園バス停を過ぎると左手に浄土宗一行山護念寺があります。

墓地に
柏尾戦争で戦死した官軍方ただ一人の戦死者因幡藩士木村伊助武則の墓があります、土佐藩士板垣退助率いる東山道軍(官軍)は因幡藩、諏訪藩、土佐藩で構成されていました。

勝沼地域総合局入口交差点手前の右手に
丸石道祖神が祀られています。
護念寺 木村伊助墓 丸石道祖神 地蔵尊

 左手のかつぬま整骨院には
地蔵尊が佇んでいます。

 大雅園を過ぎると左手に常夜燈があります。

勝沼から等々力に入ると、右手奥に
諏訪神社があります、等々力の産土神です。

境内の
ケヤキは目通り4.8m、樹高30m、樹齢三百年と推定される勝沼町最大のケヤキです(勝沼町天然記念物指定)、境内には丸石道祖神が祀られています。

等々力交差点手前の右手に自然石と組み合せた文化六年(1809)建立の
秋葉山常夜燈があります、傍らには丸石道祖神が祀られています。

県道34号白井甲州線は等々力交差点から国道
常夜燈 諏訪神社 常夜燈&道祖神

411号大菩薩ライン線に変わります。

 等々力交差点先のコンビニの向いに築百三十年、ケヤキ造りの古民家を利用したほうとう店の皆吉(みなき)があります。

くぐり戸をかがんで店内に入ると、そこは異次元の世界です!

地ビールは
甲州ドラフトビールKAIです、コクが奥深い一品です!!

肝心のほうとうは
野菜ほうとうが基本で1,260円です、これにきのこ鶏肉豚肉等を追加し、加算されるシステムです。
皆吉 店内 地ビール ほうとう

 甲斐の國で
ほうとうは定番でしょう、冷え込む時期は最高です!!!

等々力交差点を過ぎた辺りに
等々力の一里塚があったともいいますが、存在及び位置共に不明です、江戸日本橋より数えて三十一里目です。

 皆吉の先に地蔵堂があります、延命地蔵尊が安置されています。

生まれた子を守り、その寿命を延ばすという、有難いお地蔵様です、それでは合掌!

地蔵堂の前には文政十三年(1830)建立の
常夜燈丸石道祖神があります。

地蔵堂先の
萬福寺参道口に杉御坊碑があります、親鸞聖人が当寺に逗留した折、使用した杉箸を地面に刺したところ杉の大木になったといいい
道祖神 常夜燈 延命地蔵尊 杉御坊碑

ます、以来
萬福寺杉御坊と呼ばれました、しかしこの大杉寛延の火災で焼失してしまいました。

 杉御坊碑から右(黄色矢印)に入ると正面に浄土真宗本願寺派杉之御坊萬福寺があります、推古天皇十二年(604)聖徳太子の命により創建された古刹です。

聖徳太子を祀る太子堂の向いに
馬蹄石があります、太子が甲斐の黒駒に乗って飛来した時の馬蹄跡が残されています。

安貞二年(1244)
親鸞聖人の教えに従い、寛元二年(1244)浄土真宗に改宗しました。

境内に
芭蕉句碑「行駒の 麦に慰む やどりかな」があります、 天和七年(1683)江戸の大火で焼け出された芭蕉は甲斐の谷村藩家老高山伝右衛
萬福寺 太子堂&馬蹄石 芭蕉句碑

の世話になり、その礼の句といいます。

境内の
大椋(おおむく)は山梨の巨樹名木100選です。

 国道411号線を進むと右手に白百合醸造ロリアンワインがあります、ワイン工場の見学や試飲が出来ます。

甲州市から山梨市に入ります。

コメリを過ぎると右手に
旧甲州道中標柱があります。

左に中華料理
大連があります、過去に三度立寄っています、いつもラーメン高菜丼セットです。

先の右手奥に
白山神社がありま
白百合醸造 旧甲州道中標柱 中華料理大連 白山神社

す、 社伝によると推古天皇七年(599)の創祀で、
白山建岡神社とも称されました。

 白山神社は拝殿本殿共に再建され真新しくなっています。

社殿脇の
白山神社のフジは山梨県指定天然記念物です、解説には「樹種はマメ科のフジで、市内でもまれに見る棚造りの古樹」と記されています。

次いで右手に曹洞宗金龍山
光善寺があります、栗原信遠の開基です、本堂脇の祠には秋葉山不動尊厄除地
白山神社本殿 白山神社のフジ 光善寺 本堂脇祠

蔵尊十王尊が各々祀られています。

 PM 2:14 栗原宿着 石和宿まで 6.2km

 上栗原交差点辺りから栗原宿に入ります、栗原宿に到着です!

栗原の地名はこの地を治めた栗原氏に由来しています、毎月四と九のつく日に市が立ち、この辺り一帯の農産物織物などが集り、大いに賑わいました。

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると栗原宿宿内家数は二百四十軒、うち本陣一、脇本陣一、問屋一、旅籠二十軒(大八、中五、小七)で、宿内人口は千五十七人(男五百三十八人、女五百十九人)でした。

宿並を進むと右手奥に曹洞宗龍厳山
海島寺があります、武田信玄勝頼の古文書を残しています。

次いで右手に日蓮宗真浄宇山
大法寺があります、参道口に元禄十
海島寺 大法寺

五年(1702)と天保二年(1831)建立の
南無妙法蓮華経題目碑があります。

 スグ先を右に入ると曹洞宗香陽山妙善寺があります、鐘楼門をくぐると、本堂前に妙善寺殿があります。

当寺の庇護者であった武田の家臣
安倍加賀守勝宝(かつとみ)が田野において勝頼と共に自害、その法名から寺名を妙善寺と改めました。

宿並に戻って進み、鉄骨造りのスピーカー塔の手前を右に入ると右手に曹洞宗栗原山
大翁寺があります、この辺り一帯は栗原氏館跡です。

栗原一族はこの地の豪族でした、戦国の世になると武田信虎(武田信玄の父)は甲斐國の統一に着手しました。
妙善寺鐘楼門 妙善寺殿 大翁寺

 栗原信友は当初、信虎と対峙しましたが、後に臣従し、その後信玄に仕え武田軍団の一翼を担いました。

 宿並に戻ると、右手のスピーカ塔の所に天神社が祀られています、栗原宿の宿並に残る唯一の遺構です。

境内左手の
御神燈は明和二年(1765)の建立、右手の御神燈は宝暦二年(1752)の建立です。

境内には甲斐特有の
丸石道祖神が祀られています。

ごちそうぐれいぷはうす
侍ほうとう店先のY字路を右に進みます、このY字路の分岐ポイントは三角州のきぬ川ウレタンです。
天神社 御神燈 丸石道祖神 栗原旧道トレース

 旧道に入ると左手に郷社大宮五所大神参道と刻まれた社標があります。

ここを
(黄色矢印)に入ると古い木造銅板葺鳥居があり、次いで新しい石造鳥居があります、その先には右大臣左大臣像を祀り、悪霊の侵入を見張っている随神門をくぐると境内に入ります。

大宮五所大神は栗原筋五十五ケ村の総鎮守でした。

社殿は
歌舞伎造りになっています、往時歌舞伎興行の一座はここで芝居を打ち、評判を確認してから甲府に入りました。
大宮五所大神社標 大宮五所大神 クロマツ

 境内の
老松(クロマツ)は山梨市指定天然記念物です。

 社標先は枡形になっています。

旧道は
源屋園に突き当たります、旅籠源屋跡です、敷地には名残りの松を残しています、左折します。 

国道411号線を横断します。

道なりに進み、突き当りの
日川の土手道を右に進みます。

正面には
南アルプスの山並みがパノラマ状に広がっています。

新日川橋の北詰を右折します。
源屋園前 国道横断 日川土手道 新日川橋北詰

手作りマップ新日川橋の北詰を横断し、先の日川地区水防倉庫の前を右折になっています、修正して下さい。

 下栗原交差点を左折し、国道411号線を進みます。

この分岐点には
旧甲州街道標柱があります。

日川警察官駐在所の右脇に
明治天皇御小休所趾碑があります。

スグ先を左に回り込むと
駐蹕碑(ちゅうひつひ)があります。

明治十三年(1880)六月十九日の巡幸の折り、明治天皇は日川村の
志村勘兵衛宅で休息しました。
下栗原交差点 標柱 明治天皇碑 駐蹕碑

 日川高校を過ぎると、右手に豪壮な旧家があります、屋根には養蚕農家特有の煙出し屋根を乗せています。

スグ先の左手に石鳥居があり、奥に
秋葉大権現山神宮石尊大権現の石塔が祀られています。

日川郵便局手前の右手に
異形の松があります、見事な芸をしています。

日川郵便局を過ぎると
一町田
豪壮な旧家 石塔群 芸する松 一町田中交差点

中交差点です、旧道左折(白矢印)します。

 交差点の右には浄土宗光雲山称名院があります、武田勝頼が岩殿城に落ち延びる際、父信玄水晶の数珠をここに託したといいます。

本堂の外壁には不気味な
餓鬼像二体がくくり付けられています、圧巻です!

交差点を
(黄色矢印)に進むと水上稲荷神社があります、田安陣屋跡です。

第八代将軍
徳川吉宗の次男田安宗武には延享三年(1746)甲斐山梨郡二十八ケ村が領地として与えられ、ここに陣屋が置かれました。

陣屋跡の
石垣の上には守護神の水上(みずかみ)
称名院餓鬼像 田安陣屋跡 丸石道祖神

荷神社が祀られています、軒瓦には葵の紋が刻まれています。

境内には
丸石道祖神馬頭観音像が祀られ、文久三年(1863)建立の御神燈があります。

 旧道に戻り、一町田中交差点左折(白色矢印)します。

左に豪壮な
旧家門を残しています、旧一町田中村の名主庄屋だったのでしょうか。

日川に突き当たります、この先は架橋であったか、渡しであったかは不明です。

土手道を右に進み、日川日川橋で渡ります。

渡り詰めの
土手道を左折しま
旧家門 日川土手道 日川橋 日川土手道

す。


 橋詰の土手道を左折すると右手(黄色丸囲み)に節婦之碑があります。

旧南田中村の百姓
安兵衛の妻栗女は寝たきりの老婆の世話をしながら、けな気に働いていました。

享保十三年(1728)豪雨で
日川が氾濫すると、妻はまず老婆を避難させ、次いで夫を背負って家を出たが濁流にのまれてしまった、これを讃えた碑です。

土手道を進み、土手下に下る狭い
石段が旧道復帰点です。

用水脇の一間(約1.8m)幅に満たない
旧道を進みます。
節婦之碑 旧道復帰点 南田中旧道

 国道411号線を横断し、向かいの旧道に進みます。

旧道に入ると右手に
白山神社があります、南田中村の鎮守です。

この辺りは
日川重川笛吹川の三河川が落合う所で、古来より河川の氾濫に悩まされた所です。

白山神社は明治四十年(1907)の水害後に再建されたものです。

社殿脇には
水天宮が祀られ、境内には丸石道祖神があります。
国道横断 白山神社 水天宮 丸石道祖神

 
南田中の一里塚は両塚共南田中村地内にありましたが位置は不明です、塚木は有りませんでした、江戸日本橋より数えて三十二里目です。

 旧道を進み右手のカーブミラーの所を左折し、国道411号線を横断した先に浄土宗紫金山台応院瑞蓮寺(知恩院末)があります。

天正九年(1581)
武田信玄の創建で、本尊の阿弥陀三尊は武田家累代の持仏です。

境内の参道には信徒が寄進した
石臼が敷き詰められています。

本堂前に
鶴亀の松があります、信玄が幼少の頃石和の館で大切にしていた盆栽松を落慶の祝いに移植したものといいます。

山門脇には
節婦栗女之墓碑があります。
瑞蓮寺口 瑞蓮寺 節婦栗女之墓

 村人が
栗女の節義に感銘し、墓を建立しました。

 旧道は一旦日川の土手に沿って進みます。

スグ先の
果樹園の所から斜め左に入ると、旧一宮町田中村に入ります。

旧道を進むと右手の奥に
不動尊山口白峰句碑「妻よ子よ おやすみと書く 旅日記」があります。

次いで右手に
宮下翁頌徳碑と優美ながあります。

旧道は
笛吹川の土手道に突当ります、ここを(白色矢印)に進みます。

下諏訪方面からは重要な分岐点になります、
RIVER SIDE HOTEL W が分岐ポイントです。
不動尊&句碑 土蔵&頌徳碑 笛吹川土手道

 先に進むと土手道は左からの国道411号線に吸収されます。

この分岐点には
甲州桃太郎街道標柱があります、下諏訪方面からは斜め左に入ります。

国道411号線には
歩道がありません、十分にお気を付け下さい。

笛吹川笛吹橋で渡ります、笛吹川は日本三大急流(球磨川、最上川)の一つで、富士川水系の一級河川です。

山梨県山梨市北部の甲武信ケ岳、国師ケ岳に源を発する
東沢渓谷と、国師ケ岳、奥千丈岳に源を
国道合流点 笛吹橋 笛吹川

発する
西沢渓谷を集め、南巨摩郡富士見町で釜無川(富士川)に落合います。

 笛吹川の河川敷には聖牛(ひじりうし、せいぎゅう)が再現されています。

笛吹川の氾濫に悩まされた信玄が考案した治水工法です、丸太を組み蛇籠(じゃかご)で固定させる構造で、水勢を和らげる効果があります。

笛吹橋を渡り、
石和温泉郷東入口交差点にて国道411号線を横断し、正面の歩道を左折します。

国道に沿う歩道を進むと、笛吹川を挟んで
裏富士の頂(いただき)が望めます。

正面
松並木の右から下道に下ります、下諏訪方面からは松並木の終了点右の坂道を上ります。
聖牛 石和温泉郷東入口 川中島旧道口

 松並木下の旧道を進むと、左手に笛吹権三郎像水天宮丸石道祖神があります。

笛の名手であった
権三郎石和川の洪水で流されたを日夜探し求め、母の好きだった曲を吹きながらさまよい歩きました。

しかし
権三郎は疲労困憊の極みに達し、ついに深みにはまり亡くなってしまいました。

その後、夜になると権三郎の
笛の音が河原に響き渡り、いつからか石和川を笛吹川と呼ぶようになりました。

下諏訪方面からは
松並木下を進みます。
笛吹権三郎像 水天宮 丸石道祖神

 石和川中島簡易郵便局を過ぎると右手に曹洞宗宇賀山長昌院があります、落ち延びる武田勝頼が座った勝頼公腰掛けの石がありましたが、明治四十年(1907)の水害で流失しました。

お堂前の
常夜燈は文政四年(1821)の建立です。

下諏訪方面からは長昌院先の
Y字路は右に進みます。

小林精肉店先の左手に
丸石道祖神が祀られています。
長昌院 常夜燈 丸石道祖神 丸石道祖神

 テアトル石和先右手の
八田公民館の所にも丸石道祖神が祀られています。

手作りマップでは石和川中島簡易郵便局手前を左折するルートでしたが、上記の通りに修正して下さい。

 先に進み、かどや食堂の所を右に入ると先に八田家があります。

表門は寛文元年(1661)石和代官所創建の際、代官平岡勘三郎良辰石和陣屋表門として建立したものを、明治七年(1874)に払い下げを受けて、当家の表門としてここに移築したものです。

八田家は武田家に仕え、天正十年(1582)織田軍の兵火で焼失しました、その後八田家は徳川家に隷属し、慶長六年(1601)材木を賜り書院を建築しました。

毎年、
節句になると当家所蔵歴代の雛人
八田家門 八田家書院 八田家雛人形

が書院内に飾られ、公開(有料)されます、圧巻です!

 PM 4:02 石和宿着 甲府宿まで 6.7km

 旧道は突当りの国道411号線を右折(白色矢印)します、石和宿に到着です!
下諏訪方面からは
依田石材店の左に入ります。

石和は複雑に河川が流れる荒地にて、藺(い)が一面に生い茂っていたところから藺の沢と呼ばれ、いつしか転化し石和となりました。

石和は
武田氏の故地、五代信光は石和の地に館を構え、十八代信虎が館を甲府躑躅ケ崎(つつじがさき)に移すまでは、ここ地が武田氏の本拠地でした。

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると石和宿宿内家数は百六十六軒、うち本陣一、脇本陣二、問屋一、旅籠十八軒(大六、中五、小七)で、宿内人口は千百四十三人(男五百七十八人、女五百六十五人)でした。

宿内には
鎌倉道とも呼ばれる、相州小田原へ通じる脇往還小田原沼津道の追分を控え、大いに賑わいました。
石和宿東口

 宿並の右手に日蓮宗鵜飼山遠妙寺(おんみょうじ)があります、日蓮宗身延五ケ寺の一つで、本尊は十界曼荼羅です。

山門は高麗門、仁王門は寛政元年(1789)の再建で市指定文化財建造物です。

境内に
鵜飼勘助の墓と供養塔を納めた漁翁堂があります。

勘助は殺生禁断の流域で密漁し、簀巻き(すまき)の刑で沈殺され石和川の亡霊となりました。
文永十一年(1274)
日蓮聖人がこれを済度し成仏させました。
遠妙寺山門 仁王門 漁翁堂&墓

 遠妙寺の隣に願生稲荷神社があります、願生(がんしょう)稲荷大明神の幟の奥に覆屋(おおいや)があり、この屋内に嘉永三年(1850)建立の本殿が祀られています。

武田館跡地に祀られていた古城稲荷を勧請したものといいます。

次いで右手に
史跡石和本陣跡碑があります、宝暦十一年(1761)信州高遠城主内藤大和守が参勤交代の為、初めて石和を通行するにあたり仲町の後藤甚兵衛に本陣を命じました。

明治十三年(1880)六月十九日
明治天皇巡幸の際、休息の予定でしたが、同月六日の大火で焼失
願生稲荷神社 願生稲荷本殿 石和本陣跡

してしまい、今は
土蔵を残すのみです。

 本陣先の左手に小林公園があります、本町出身の実業家小林中(あたる)の旧邸宅跡です。

小林公園は
由学館(ゆうがくかん)でもあります、文政六年(1823)石和代官山本大善がつくった学舎で漢学を教え、町人にも聴講を許しました。

公園の片隅には
足湯があります、昭和三十六年(1961)一月、葡萄畑の中に突如温泉が湧き出し、以後石和は温泉地として発展しました。

この公園を奥に突っ切ると、石和南小学校正門脇に石和町指定史跡
石和陣屋跡碑があります。

享保九年(1724)甲州が幕府領になった以降は
小林公園 足湯 石和陣屋跡

それまでの
代官所から陣屋になりました。

 石和南小学校を左に回り込むと臨済宗妙心寺派法城山観音寺があります。

元正天皇養老年間(717〜23)行基の創建で七堂伽藍を備えていました、八代目
武田信成が再興し、信成の位牌が安置されています。

宿並に戻ると右手に
石和八幡宮があります、武田信光が建久三年(1192)鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請し、武田家の氏神としました、天正十年(1582)織田軍の兵火で焼失、翌年徳川家康が再建し、以降甲斐歴代国主や甲府勤番は参拝を例としました。

境内の
絵馬殿には奉納された、貴重な絵馬が収
観音寺 石和八幡宮 絵馬殿

蔵されています。


 石和温泉駅入口交差点、次いで笛吹警察署北交差点を過ぎると、第二平等川甲運橋で渡ります、笛吹市から甲府市に入ります。

この第二平等川が往時の
笛吹川の流れです、明治四十年(1907)の大水害で現在の笛吹川の流れに変わりました。

往時は
川田の渡しがあり、夏は舟渡し、冬は仮橋でした、ここには川田河岸があり、駿州岩淵までの舟運がありました。

渡り詰の右手に、万延元年(1860)建立の
川田道標があります、正面「左甲府 甲運橋 身延道」左面「右富士山 大山 東京道」裏面「左三峰山 大嶽山」と刻まれています。

左面の
東京道は、本来江戸道と刻まれていたものを彫り直したものです。
第二平等川 川田道標

 甲運橋辺りに
石和の一里塚があったともいいますが、存在及び位置共に不明です、江戸日本橋より数えて三十三里目です。

 次いで平等川平等橋で渡ります、 京宇治川に匹敵するくらいに蛍が見事だったところから、平等院にちなみ平等川と呼ばれました。

先の川田町交差点を右折し、突当りのT字路を左折すると右手一帯が
川田館跡(解説板がある)です。

信虎の祖父信昌(のぶまさ)がここに館を構えました。

武田信虎が永正十六年(1519)館を躑躅ケ崎に移すまで、ここが甲斐國統治の本拠地でした。
平等川 川田町交差点 T字路 川田館跡

 アリア ディ フィレンツェという、山梨のファッションメーカーの企業団地に通じるアリア入口交差点を過ぎると、右手の県立青少年センター前に川田町由来標柱があります。

川田の名の起こりは河原に由来します、この地には武田家の川田館があり、御所曲輪の地名を残しています。

先を右に入ると奥に、曹洞宗医王山
東勝寺があります、境内に芝増上寺の徳川家墓所から移設された石灯籠が二基あります。

徳川六代将軍
家宣(甲府徳川家)
徳川九代将軍
家重(紀州徳川家)

道中に戻ると左手に旧家の
長屋門があります。
川田町由来 徳川家石燈籠 旧家長屋門

 スグ先右手甲運小学校入口バス停の所に和戸町由来標柱があります。

和戸(わど)は平安期に、この付近を中心として栄えた表門郷(うわとのごう)を由来としています、とは奈良時代に五十戸をもって編成された行政村落のことでです、古くから集落が発達していたことが知られています。

地内には
在原塚琵琶塚太神さん塚などが点在しています。

ここには
石仏石塔丸石道祖神が祀られています。

先の左手に堂々たる
旧家門を残しています。
和戸町由来 石仏石塔群 旧家門

 甲運小入口信号を右に入ると藤建神社があります、表門庄(うわとのしょう)の鎮守です。

古くは
白山権現と称し、毎年九月十七日の夜藤建の森というところへ、神幸があったところから藤建の神と呼ばれました。

次いで和戸町交差点を左に入り、先の信号交差点を左折して用水に沿って進み、右手小池家の手前を右に入ると
在原塚があります。

平安の歌人
在原業平(ありわらのなりひら)の次男滋春(しげはる)が旅の途中この地で亡くなりました、その墓といわれる宝篋印塔五輪塔があります。
藤建神社 在原塚口 在原塚

 
辞世「かりそめの 行き交い路(甲斐路)と 想いしに 今は限りの 門出なりけり」を残しました。

 道中に戻り、横根跨線橋南交差点を過ぎると、山梨中央自動車教習所手前の右手に二宮金次郎像があります。

この
金次郎像は最近はあまり見る機会が無くなったような気がします、もしかすると読書しながらの歩行は危険だからでしょう、最近ではさしずめ歩きスマホは止めましょう」でしょう。

金次郎像の奥には
御神燈赤鳥居そして小社が祀られています。

松原交差点を過ぎると
十郎川十郎大橋で渡ります、和戸町から酒折に入ります、十郎川は川下で濁川に吸収され、流末は笛吹川に落合います。
二宮金次郎像 十郎川 六地蔵尊

 スグ先右手の
山梨ダイハツの所に小さな一石六地蔵が祀られています、素朴な味わいを醸し出しています。

 山崎三差路交差点は青梅街道追分です、青梅街道内藤新宿で甲州道中から分かれ、青梅、大菩薩峠を経て、再びここで甲州道中に合流します、評判の悪い鶴川の渡しを避ける旅人で賑わいました。

青梅街道に入ってみましょう、JR中央本線第四青梅街道踏切を渡ると左手に
摩利支天尊堂があります、武士の守護神として崇拝されてきました。

昔、この辺りに
疫病がはやった時、力丞(りきじょう)なる者が二十一日間の祈祷を行い、疫病が納まったところから、ここに堂を建て、江戸深川からご本尊を貰い受け安置したといいます。

青梅街道追分を過ぎると、右手に酒折ボランティア庭園
青梅街道追分 摩利支天堂 酒折庭園

があります、休憩に最適です。


 山崎三差路交差点先の右手に南無妙法蓮華経題目碑六地蔵無縫塔墓塔等があります、ここが山崎刑場跡です。

ここには
斬首場二ケ所、首洗い井戸四ケ所、骨捨て井戸一ケ所がありました。

明治五年(1872)
信玄公以来、農民に有利な年貢率(大小切)を新政府が一方的に廃止した為、農民は大小切騒動を起しました、これを指導した者二名がここで処刑され、これを最後に刑場は廃止されました。

刑場先に斜め
(黄色矢印)に入る筋があります、酒折宮への旧参道口です、この分岐点には酒折宮日本武尊御舊跡と刻まれた社標があります。
山崎刑場跡 酒折宮旧参道口 酒折宮社標

 今はここから入らず、国道をそのまま
直進(白色矢印)します。

 道中の左手には山梨学院大学があります、正月恒例箱根駅伝の常連校です。

酒折駅前を過ぎると酒折宮入口交差点があります、右(黄色矢印)に入ると左手に、先程と同じ酒折宮 日本武尊御舊跡と刻まれた社標があります。

JR中央本線宮前踏切を横断すると
八人山(標高572m)の麓に酒折宮があります。

日本武尊(やまとたけるのみこと)は東夷征伐後、この地に立寄り宴を張り、「新治(にいばり) 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」と詠んだところ、御火焚(おひたき)が「かがなべて 夜には九夜 日には十日を」と見事に返歌しました、これが連歌の起源とされ、
山梨学院大学 酒折宮参道口 酒折宮

酒折宮連歌発祥の地となりました。

 日本武尊は旅立の時、火打石を入れていた火打嚢(ひうちぶくろ)を翁に授け甲斐國を託しました。

この
火打嚢は日本武尊が東夷征伐出立の際、伊勢神宮倭姫命(やまとひめのみこと)から草薙剣(くさなぎのつるぎ)と共に授かったもので、東征の途中、駿河国で火攻めに遭った折に、で草をなぎ払い、火打石で向え火を放ち、難を免れたことで知られています。

翁はこの
火打嚢を御神体として宮を建て、日本武尊を守護神として祀ったのが、酒折宮の起源です。

境内には
本居宣長酒折宮寿詞碑山縣大貮酒折祠碑があります、これらの国学者は幕末の尊皇攘夷論に理論武装を与えました。
連歌の碑 本居宣長碑 山縣大貮碑

 これがため酒折宮は多くの歌人国学者の崇敬を集めています。

 大円川大円新橋で渡ります、この辺りに板垣の一里塚があったともいいますが、位置は不明です、両塚共板垣村地内で塚木はでした、江戸日本橋より数えて三十四里目です。

先の
善光寺入口交差点を右に入り、JR中央本線ガードをくぐった先の正面に甲斐善光寺があります。

甲斐善光寺武田信玄が、上杉兼信との川中島の合戦を控え、信濃善光寺の焼失を恐れ、永禄元年(1558)本尊善光寺如来像をはじめ、諸仏寺宝類を奉還したことに始まります。

その後武田氏が滅亡すると、本尊は
織田徳川豊臣と時の権力者に翻弄されましたが、慶長三年
大円川 善光寺山門 善光寺金堂

(1598)
信濃善光寺に帰座しました甲斐善光寺は、その後前立仏を本尊と定め今日に至っています。

武田信玄建立の
七堂伽藍は宝暦四年(1754)の失火により焼失、現在の金堂山門は寛政八年(1796)に再建されたもので、国重要文化財です。

 甲斐善光寺の手前に吉田うどんの名物店手打うどんとだがあります、昼時には駐車場は満杯です、但し、座席数が多く、回転効率がスムーズですから、左程待されません。

肉天わかめうどん(550円)に、トッピングとしていなり(20円)とねぎ(20円)をオーダーしました。

私し、
吉田うどんなるものを食するのは初めてです、見て驚き、食して更に驚きでした、目の前にドンと置かれた器から、あふれるような具の量に、マズ圧倒されます、どっさり乗せられた豚肉は柔らかく、甘い味付けがされています、ワカメどっさり、そして茹でキャベツ満載です!

汁は
煮干し系です、これに肉の旨味が混ざり合い、堪りません!!

脅威は
うどんです、断面は真四角、かつ太い、そして強烈にがある
手打うどん とだ 肉天わかめうどん

、見事な
顎疲れうどんです、これに赤唐辛子をベースにして胡麻や山椒を加えて油で炒めた薬味すりだねをタップリ入れます、絶品です、お奨めします!!!

このうどんの対極にあるのが、伊勢街道名物
伊勢うどんです、なんとコシは全く無くブヨブヨです、しかしこれはこれで絶品なのです。

 JR身延線善光寺架道橋をくぐると、城東5丁目に入ります。

スグ先の突当りを
左折(白色矢印)します、甲府城下八曲りのトレース開始です。

城下町を複雑に曲げるのは敵軍の侵攻を防衛する為です、そして城下町を長くすることによって、商家の数を増やす意味もあります。

この地ではこの
曲り枡形とはいわず、金手(かねんて)といいます、これは大工道具の直角定規の金尺(かねじゃく)に由来しています。

スグ先の突当りを
右折(白色矢印)します。
JR身延線 @金手左折 A金手右折

 二つ目の金手(枡形)を右折すると、高倉川高倉橋で渡ります、右手高倉川沿いに重厚な塗籠土蔵造りの旧商家(市文化財指定)石川家住宅があります、屋号を河内屋といい、糸繭(いとまゆ)の問屋でした。

屋敷を取り巻く塀の隅がくり貫かれ、
道祖神が祀られています。

藤川藤川橋で跨ぎます、右に見える山容は大笠山(標高518.9m)です。

城東一丁目交差点を右に入ると、JR中央本線の手前左手に
金刀比羅神社があります、徳川家康によって佐渡、伊豆、石見等の鉱山奉行に
石川家住宅 道祖神 金比羅神社

任じられた武田家の遺臣
大久保長安の金銀採掘成就祈願の為の屋敷神であったともいいます。

上一条一帯の鎮守で、
一条町の金刀比羅さんと呼ばれ親しまれていました。

 城東通りを進み、突き当りのGS ENEOSの手前を左折します、三つ目の金手(枡形)です。

スグ先の左手に
天尊躰寺があります、大永年間(1521〜28)武田信虎の創建です。

境内には武田信玄の遺臣
大久保長安の墓があります、家康に見出され金山奉行等を勤めました。

長安が死去すると
不正蓄財の容疑がかけられ、遺体は掘り起こされ、駿府城下の安部川で斬首となり、晒し首となりました。

墓地には「目には青葉 山ほととぎす 初がつお」で知られる
山口素堂の墓があります、素堂は上教来
B金手左折 大久保長安墓 山口素道墓

石山口の出身で
甲府藩士でした。

墓所案内:墓地に入って鈴木家累代之墓を右折し、突当り手前を左折します、山口家累代之墓の中に小さな
山口素堂墓所があります。

 天尊躰寺の先を右折(白色矢印)します、四つ目の金手(枡形)です。

この金手を
直進(黄色矢印)すると、右手に浄土宗甲福山教安寺があります、境内には徳川家康第八子仙千代(せんちよ)の高岳院廟所があります。

平岩親吉(ちかよし)は幼少より家康に仕え、甲府城六万三千石の領主となったが子がなく、平岩家の断絶を惜しんだ家康は仙千代を養子としました。

しかし
仙千代は慶長五年(1600)に亡くなってしまった、享年六歳でした。

本堂前には城下に時を告げた
時の鐘が保存されて
C金手右折 高岳院廟所 時の鐘

います。


 スグ先の瑞泉寺入口交差点を右に入ると青龍山瑞泉寺があります、浄土宗府中五ケ寺(誓願寺、天尊躰寺、教安寺、来迎寺)の一つとして知られた名刹です。

隣には
甲斐奈(かいな)神社があります、元は甲斐奈山に鎮座していましたが、武田信虎が甲府の守護神としてここに遷座させました。

道中に戻ると右手にに
印傳屋上原勇七があります、印伝は甲府に伝わる鹿革工芸で、名の由来はインデアとも来ともいいます。

鹿革を藁と松根(しょうこん)の煙でいぶす(ふす)技法、一色ごとに型紙を替えて色を重ね
瑞泉寺 甲斐奈神社 印傳屋

更紗(さらさ)技法、そして漆で模様をつける漆付け技法等があります。

甲州印伝は遠祖上原勇七の創案に始まり、この独特の技法は、門外不出の秘法として印傳屋の家長勇七のみに代々口伝されたものといいます。

仏国の
〇イトンなど、はるかに凌駕する代物です、女性街道ウォーカーさん必見です!

中央交差点先の右手に日蓮宗
身延山別院があります、境内には髭文字で刻まれた南妙法蓮華経題目碑があります。

次いで左手に
新聞発祥之地碑があります、峡中新聞(現山梨日日新聞)は明治五年(1872)の創刊で、現存最古の地方紙です、昭和四十七年(1972)創刊百周年記念に建碑されました。
身延山別院 新聞発祥之地碑

 甲府柳町宿到着

 NTT甲府支店西交差点を左折します、五つ目の金手です、甲府柳町宿場通りに入ります。

甲府の地名は甲斐國の府中であったところを由来としています。

永正十六年(1519)
武田信玄の父信虎石和からこの地の躑躅ケ崎(つつじがさき)に居館を構え、秀吉の代に甲府城が築かれ、以降城下町として発展しました。

宿場機能が
柳町に集中している所から甲府柳町宿と呼ばれました。

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると甲府柳町宿宿内家数は二百九軒、うち本陣一、脇本陣一、問屋一、旅籠二十一軒で、宿内人口は九百五人(男四百八十六人、女四百十九人)でした。

残念ながら
柳町の町名は消え、今は中央に変わっています、そして宿並には宿場機能を示す標識等はありません。
D金手左折

 宿並の左手に柳町大神宮(だいじんぐう)があります、やっと旧町名に出会えました、この大神宮は大神(だいじん)さんと呼ばれ、親しまれています。

毎年二月三日の
節分には参拝者が赤鬼青鬼に向かって豆まきを行います、この祭りは三百年以上続く伝統行事として知られ、甲府三大祭りのひとつに数えられています、甲府盆地に春の訪れを告げる祭りです。

境内には
お伊勢の森跡地碑があります、伊勢大神宮跡です。

先の
問屋街入口交差点を右折します、六つ目の金手(枡形)です。
大神宮 お伊勢の森跡 E金手右折

 PM 5:43 甲府柳町宿起点着

 突当りのうなぎ若荒井を左折します、七つ目の金手(枡形)です。

スグ先の突当り、
桜町南交差点を右折します、八つ目の金手(枡形)です、これにて甲府城下八曲りトレースは終了です。

正面の
相生歩道橋甲府柳町宿の起点です、そして本日の終点です。

ここから右に進むとJR中央本線
甲府駅です。

それでは乾杯!
F金手左折 G金手右折 相生歩道橋 缶チューハイ



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