昨日迄のウェアリングは最新アイテム編に記したデサント エクスプラスサーモの上下がアウターです、ジャケットの下はモンベル ジオライン EXP ハイネックスシャツ、ボトムは新庄のパンツのみです。 ソックスはSPORTS AUTHORITYのスポーツソックス、グローブはゴルフ用の手袋です。 以上の組合せで快適な街道ウォークが堪能出来ました。 それでは、防寒装備に取り掛かりましょう、防寒対策には二通りの方法が考えられます、ひとつはアウター側に振る方法です、これにはダウンジャケットやオーバーパンツが代表的なウェアーとして考えられます。 しかしこれらの組み立ては軽量且つコンパクトを旨とする当事務局のポリシーに反します。 ここはインナー側に振ります、サア実際の組み立てに取り架かりましょう。 ハイネックシャツの下にNORTH FACEのタンクトップ(ランニングシャツ タイプ)、ボトム側は同じくNORTH FACEのアンダー用タイツです。 フリースのネックゲーターを着用し、耳までカバーする、ひさしの付いたフリースのキャップを被り、ジャケットの襟からフードを取り出しすっぽり被ります、グローブはフリースの手袋にゴアテックスのアウターを重ねます、以上が私の寒冷地仕様です。 それでは出立しましょう、宿賃は前日に済ませてあります、勝手に玄関の扉を開け、フリザーの中に突入です!
社があります、 天竜川流域を中心に信仰された古い神といいます、境内には安永三年(1773)建立の二十二夜供養塔があります。
により欠けています(白州町指定天然記念物)。
奥に石祠が多数祀られています。
者はなく、松の影で野宿し、寂しく信濃の國に向いました、その時の心情を詠んだ歌ですが、妙に頓知(とんち)が効いています。 歌碑の傍らには石仏石塔が多数集められています。
尊神社の南口です。 常夜燈の向いには般若堂があります、大乗仏教の心髄を説いた般若心経(はんにゃしんぎょう)を安置しています。
塚木は有りませんでした、江戸日本橋より数えて四十四里目です。 鳥原の地名は朝廷に甲斐國の瑞兆として白鳥を捕え、献上したことに由来しています。
体道祖神が安置されています。
石(きょうらいし)となり、これが地名となりました。
国道20号線に沿って進むと左手に教慶寺の地蔵菩薩があります、蘭渓禅師が村人の難儀を取り除くために鎮座させたものです、並びには庚申塔、甲子塔、馬頭観音等があります。
二年(1717)七十五歳で没しました。
この番所の記録に残る大きな出来事は天保七年(1836)郡内に端を発した甲州騒動の暴徒がこの地に押し寄せた折、これを防がずして門扉を開いた判断を咎められ、番士が扶持召し上げられの処分を受けたことです。 番士の二宮氏は再び職に戻り、番所が廃止されるまで勤め、明治六年(1873)に設けられた台ケ原屯所の初代屯所長に起用されました。
黄色矢印は新国界(こっかい)橋を渡る迂回路です。
端が外れたら横に振って全体を外します。 それにしても害獣等の被害も甚大でしょうが、人がダメージを受けたら更に問題です。 ここの旧道や国界橋は偉大な文化遺産です、ここを通行する旅人にもう少し配慮があると助かります。 関係各位様には十分な説明標識と素手でも操作の出来る、安全な開閉システムの設置を切にお願い致します。 不安を感じる街道ウォーカーさんは新国界橋にて迂回して下さい。
後に日蓮上人の弟子となった日誘はこの高座石の傍らに堂を建立し、上人を祀りました、これが敬冠院です。
ここが思案の三つ辻でした、右手には馬頭観音が祀られています。
明治天皇は奥の上段の間で休息し、およそ一時間程で退出したといいます、有賀源六への御下賜品は白絹一疋と金十五円でした。
もとの 石の樋(ひ)が 秋の水吐く 蔦木宿かな」があります。
のものです。
明治十六年(1883)松尾芭蕉の回忌百九十年にちなんで地元の有志によって建碑されたものです。 「川上と この川下や 月の友」元禄五年(1692)の秋、芭蕉は五本松に舟を出して名月を楽しんでいます、月の友は山口素道といわれています。
やがて迂回路は国道に合流します、下諏訪方面からは道祖神先の一本目を斜め右に下ります。
ろから桜苧(さくらお)とも呼ばれました。
を概ね甲州道中としました。 ※ 手作りマップをご使用の方は修正して下さい。
て玉座としました。 明治天皇が出立すると、玉座跡の白砂を村人達が御守りとして持ち帰ったといいます。
この国道合流点に177kmポストがあります、下諏訪方面からの重要な分岐ポイントです。
鎮座しています、境内には宝篋印塔があります。
下諏訪方面からは瀬沢大橋交差点先の一本目を斜め左に入ります。
右折します、次いで突当りを右折すると旧瀬沢村に入ります。
瀬沢合戦の三回忌に符合します。
ら)から横吹におよぶ広い範囲と考えられています。
石祠道祖神が祀られています、とちの木村の西口です。 石祠道祖神の背後には男女双体道祖神が並んでいます。
ています、これによって坂を下って来る寒冷の北風を遮断しました。
813mですから、わずかな距離で137m登ったことになります。
富士見の地名は下諏訪方面からの旅人がこの地に来て、初めて富士を見たことに由来しています。 明治四十四年(1911)アララギ派の伊藤左千代等が、ここの風景に感激し、富士見公園を監修しました。
神 、庚申塔、百番供養塔、山燈籠等があります。
甲斐駒ケ岳、東には八ケ岳の全貌が望めるそうです!
の見ヤグラが現れます、Y字路になっています、左に進みます。 左手に赤松があり、奥に金山大権現が祀られています、鍛冶師の守護神です、槌のやり取りから夫婦和合の神ともいいます。
お味ですか、そうですね昔、映画館で東映の二本立てを観た後、喫茶店で食べたナポリタンスパゲッチーそのものです!!!
生誕之地碑があります、明治の政治家で、鉄道大臣在任中、 それまで左書きだった駅名標をすべて右書きに改めさせ国粋大臣の異名をとりました、しかし私鉄疑獄や売勲事件に連座して逮捕され入獄し、政界を引退しました。 碑の傍らには標高902m標識があります。
交差点に戻って国道20号線を進むと西枡形の痕跡がわずかに残されています。 先で斜め左の旧道に入ります、分岐点には馬頭観世音文字塔が祀られています。
宝鈴(さなぎの鈴)は銅鐸に似ているところから鉄鐸(てったく)とも呼ばれました、この神器はご神体であり、人と人の誓約の場に神が立ち会う証として鳴らされました。
塚上には標高917m標識があります。
江戸後期になると幕府の許可を得た大名が東海道や中山道を利用せず甲州道中を通行するようになり、金沢宿は大いに賑わったといいます。 天保十四年(1843)の甲州道中宿村大概帳によると金沢宿の宿内家数は百六十一軒、うち本陣一、問屋二、旅籠十七軒(大二、中七、小八)で、宿内人口は六百二十二人(男三百三十五人、女二百八十七人)でした。
墓地には金沢宿にとって、切っても切れない悲劇のヒーロー小松三郎左衛門の墓碑があります。
は止まし給うという、有難い神様です、それでは合掌!
境内には摩利支天、不動明王、御獄座王大権現、大六天、甲子、津島牛頭天王、坂東四国巡礼供養塔、如意輪観音、蚕玉大神、道祖神等、夥しい数の石仏石塔があります、さながら神仏混合の森です。
折し、次いで一本目を右折します、要はホテルを回り込みます。
いました。
されています。
旧道は一旦宮川から右に離れ、先でJR中央本線ガードをくぐります。
記念碑があります、日露戦争の戦勝記念碑です。 当時は日露戦争とはいわず、明治三十七・三十八年戦役といいました。
室神社があります。
れています。
それでは下諏訪方面に進んでみましょう、JR中央本線下の草道を進みます、途中から舗装路になります。
古道は突当りの道中(県道)を右折(白色矢印)します、下諏訪方面からは4階建マンションの角に設置されている赤いホース格納庫4-2-A茅野区を左折し、甲州古道に入ります。
宗湖寺(そうこじ)の山門は諏訪藩家老の邸門を移築したものです。
で休息した明治天皇に献上した御膳水です。 道路を挟んだ向かいに原祝神社が鎮座していますが、由緒は不明です。
茅野駅前広場に姥塚(うばづか)古墳碑があります、明治三十八年(1905)十一月、中央東線の開通にともなって、茅野停車場が設けられ、古墳は取り崩されました。 この古墳は水田の中にあった円墳で、築造年代はおよそ八世紀末と推測されています。
て国道20号線に合流します、下諏訪方面からは三又路になっています、中央の筋が甲州道中です。
境内の千本欅は葛井神社の御神木です、生きていれば推定樹齢七~八百年で、市内一の巨樹です。 再三に渡る落雷や失火等により、危険な状態となり、昭和四十九年(1974)に現在の高さで切り倒されました。
ります、グングン登ると開けた所に出ます。
武田家が滅亡すると、上原城は廃城となりました。
しています。
大きな道標には右江戸道、小さな道標には右江戸道 左山浦道、常夜燈には右東京迄 左大門道と刻まれています。
藩に封じられ、諏訪の地に戻り、明治維新まで存続しました。
泉寺にあります。
頼重院があります。
があります。
ています。
おどり)と呼ばれる棟飾りの旧家があります。
の御神燈が対で配されています。
次いで赤津川を渡ると、同様に男女双体道祖神と秋葉山石塔が祀られています、いずれも旧村境だったのでしょう。
いつしか武津(たけつ)となりました。 この石は舟の舫石(もやいいし)でした、漁に出た親を子供達がこの石の所で、帰りを待っていたところからこんぼっこ石と呼ばれました。
出て、再び国道20号線に合流します。 下諏訪方面からは清水1・2丁目交差点から火の見ヤグラ左の清水旧道に入ります。
向かって左から不詳、石尊大権現、秋葉大権現、妙義大権現です。
天神社の向いが銘酒真澄の蔵元宮坂酒造です、寛文二年(1662)の創業で高島藩の御用酒屋を勤めました。 真澄の名は諏訪大社の宝物の真澄の鏡を由来としています。
姫は嫁ぎ先で書状を下男に託したところ、日頃から折り合いの悪い下男は書状を川に捨て、永明寺に駆け込みました、頼水は下男の引渡しを寺に要求しましたが、寺がこれを拒否したため寺を焼き払い下男の首を刎ね、ここに捨てました。 町人達は祟りを恐れ、お堂を建立して亡者の裁きをする十王をここに祀りました。
当社はこの諏訪湖御渡神事(みわたりしんじ)を担っています、御神渡りが生じると八釼神社の神職が検分し、その結果御神渡りの生じた方向により、農作物の作柄や世の中の吉兆等が占われ、諏訪大社上社に注進されます。 諏訪大社はこの内容を朝廷(現宮内庁)と幕府(現気象庁)に報告するのが恒例です。
宿並に戻ると宝暦六年(1765)創業の銘酒本金の蔵元酒ぬのや本金酒造があります。
寛政元年(1789)の創業です。
)の一つです、先にある手長神社の参拝者が、この湯で潔斎したところから精進湯と呼ばれました。 ※ 残念ながら精進湯は平成二十九年三月三十一日を以って営業終了となります!
明治八年(1875)廃藩置県によって天守閣は撤去されましたが、昭和四十五年(1970)に復興されました。
て知られ、近世には高島城の鬼門の鎮護神として崇敬されました。
湯で入浴潔斎し、ここを休憩所としました、庭は諏訪市文化財指定庭園です。
あった能舞台を移築したものです。
神社があります、日本三霊山の一つ白山に対する山岳信仰です。 急な参道階段を登ると全快地蔵尊があります、病平癒に御利益がある、有難いお地蔵様です、それでは合掌!
道祖神脇の路地を山側に入ると、突き当たりの筋は旧鎌倉街道との解説があります、興味深いですね。
理が名物で、高島藩主もここまで出向き賞味したといいます。 建物左手の門は高島城三の丸門を移築したものです。
そして甲州道中最後の一里塚です、下諏訪宿迄は残り十一町(約1.1km)です。
右手の久保海道公会所の擁壁に旧承知橋の一枚岩が組み込まれ、保管されています。 この一枚岩の煉瓦模様は滑り止めとも、又信玄の埋蔵金の隠し図ともいわれています。
781)の建立です。
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