道中日記 2-178 甲州道中 ( 台ケ原 - 下諏訪 ) 41.7km

朝食 早朝出立
 前日の内にコンビニで調達しておいたカップうどん握り飯2ケが朝食です、食事後、旅館供え付けのお茶で十分に給水し、体の中から暖を取ります。

昨日迄のウェアリングは最新アイテム編に記した
デサント エクスプラスサーモの上下がアウターです、ジャケットの下はモンベル ジオライン EXP ハイネックスシャツ、ボトムは新庄のパンツのみです。

ソックスはSPORTS AUTHORITYのスポーツソックス、グローブはゴルフ用の手袋です。

以上の組合せで快適な
街道ウォークが堪能出来ました。

それでは、防寒装備に取り掛かりましょう、防寒対策には二通りの方法が考えられます、ひとつはアウター側に振る方法です、これにはダウンジャケットやオーバーパンツが代表的なウェアーとして考えられます。

しかしこれらの組み立ては軽量且つコンパクトを旨とする当事務局のポリシーに反します。

ここは
インナー側に振ります、サア実際の組み立てに取り架かりましょう。

ハイネックシャツの下にNORTH FACEの
タンクトップ(ランニングシャツ タイプ)、ボトム側は同じくNORTH FACEのアンダー用タイツです。

フリースの
ネックゲーターを着用し、耳までカバーする、ひさしの付いたフリースのキャップを被り、ジャケットの襟からフードを取り出しすっぽり被ります、グローブはフリースの手袋にゴアテックスのアウターを重ねます、以上が私の寒冷地仕様です。

それでは出立しましょう、
宿賃は前日に済ませてあります、勝手に玄関の扉を開け、フリザーの中に突入です!

 平成22年01月07日 AM6:09 台ケ原宿出立 教来石宿まで 5.5km

 台ケ原の宿並は東西九町半(約1km)ですから、つる屋旅館の先辺りが西口になります。

スグ先に白州町消防団の
火の見ヤグラが聳えています、その足元には文化九年(1812)建立の秋葉山石塔があります。

この
火の見ヤグラの角を右折します。

先に進むと左手に大きななまこ壁土蔵の
旧家があります、旧名主宅です。

ここを左折すると、先の左手に
天白神
台ケ原分岐 秋葉山石塔 旧名主宅 天白神社

があります、 天竜川流域を中心に信仰された古い神といいます、境内には安永三年(1773)建立の二十二夜供養塔があります。

 道中に戻り、そのまま横断すると先に曹洞宗白砂山自元寺があります。、自元寺は武田二十四将馬場美濃守信房の開基で、位牌を残しています。

四脚門流造りの
総門は信房の屋敷から移築したもので、元は茅葺でした、 棟の前後には奥方家の家紋笹竜胆(ささりんどう)が配されています。

信房は
信虎信玄勝頼の三代に仕え、「一国の太守の器量人」「知恵の武将」といわれました。

信房は
長篠の合戦殿(しんがり)を勤め、味方の敗走を見届けると自身は反転し、追撃する織田軍と奮戦し、壮烈な戦死を遂げました享年六十一歳、信長公記ではその働き比類なしと称賛しています。
自元寺総門 馬場美濃守墓所 馬場美濃守墓

 道中に戻りましょう、緩い下り坂です、市立白州診療所を過ぎると、白須上に入ります。

左手の白州町消防団第二分団第三部の
火の見ヤグラの手前を左に入り、国道20号線を横断すると高台に白須若宮八幡神社が鎮座しています。

武田信玄の重臣
馬場美濃守信房と白須家の祖白須政義による再興です、武田家の武将達の必勝祈願所でした、白須村の産土神です。

慶長八年(1603)
徳川家康より黒印をもって三石斗六升の寄進を賜りました。

境内の
モミは推定樹齢三百年以上ですが、落雷
白須若宮八幡神社 社殿 境内のモミ

により欠けています(白州町指定天然記念物)。


 道中は案外急な下り坂になります、台盤の如くといわれた台ケ原の西の縁です、東の縁は国見坂です。

右手に髯文字で南無妙法蓮華経と刻まれた
題目碑があります、傍らには石祠道祖神が祀られています、石祠の中には男女双体像道祖神が安置されています。

道中の正面には
七里岩の景観が広がっています。

人家が途切れた、先の右手
ぶどう畑の中に武田神社があります、鳥居
題目碑 道祖神 七里岩 武田神社

奥に
石祠が多数祀られています。

 植原自動車看板を過ぎた、先の左手に石祠道祖神が祀られています、石祠内には丸石道祖神が納められています。

スグ先左手の土蔵には
武田菱が掲げられています。

右手の七里岩上には
八ケ岳の山容が望めます、八ケ岳は富士山と背比べをして勝利したが、富士山に蹴飛ばされて八つの峰になったという神話があります。

そして左手に
甲斐駒ケ岳を望む落ち着いた道中を進むと前沢ちびっこ広場前バス停があり、右手が竹中スポーツ広場です。
道祖神 武田菱の土蔵 八ケ岳 竹花スポーツ広場

 広場の奥に大きな石塔が二基あります。

右は
白須松林址碑です、平安時代から一里にわたって松原が続き白須松原と呼ばれ、(きのこ)の産地として都にまで知られていましたが、戦時中の昭和十年(1935)松根油採取の為に松原は伐採されてしまいました。

左手には
宗良親王歌碑「かりそめの 行きかいじ(甲斐路)とは ききしかど いざや志らす(白須)に まつ人もなし」があります、鎌倉時代末期の元徳三年(1331))から室町時代の明徳三年(1392)の間、日本には二人の天皇が在位し、南北朝に分かれ、相争っていました。

南朝方の征討将軍宗良(むねなが)親王は甲斐の國の武将達を味方に付けようと、この地に入ったものの、味方に付く
白須松林址碑 宗良親王歌碑 石仏石塔群

者はなく、松の影で野宿し、寂しく信濃の國に向いました、その時の心情を詠んだ歌ですが、妙に頓知(とんち)が効いています。

歌碑の傍らには
石仏石塔が多数集められています。

 道中は白須上から前沢に入ります。

先に進み左手の
の文字を掲げた土蔵の手前を左(黄色矢印)に入ると長光寺があります、寄ってみましょう。

国道20号線を
前沢交差点にて横断すると、 右手に玉斎吾七(山田玉斎)句碑「槍もちの おくれて通る 日長かな」があります。

句碑先の右手に文禄元年(1592)創建の曹洞宗
長光寺があります、北巨摩郡百番観音霊場其之三、そして武川筋三十三箇所第五番長光寺霊場です。

境内には寛政九年(1797)建立の
宝篋印塔七福神があります。
長光寺口 玉斎吾七句碑 長光寺宝篋印塔

 道中に戻ると左手に再び、玉斎吾七句碑「槍もちの おくれて通る 日長かな」があります、玉斎はこの地の人で徳が篤かったといいます。

先の右手木立の中に
石仏石塔群があります、天保十年(1839)建立の馬頭観音像や安政二年(1855)建立の馬頭観世音文字塔があります、その向いには髯文字の南無妙法蓮華経題目碑があります。

前沢上交差点手前の左手に
御嶽神社の鳥居があります、本殿の姿は見当たりません。
玉斎吾七句碑 石仏石塔群 題目碑 御嶽神社鳥居

 道中は国道20号線に突き当たります、前沢上交差点を右折します。

スグ先で
神宮川濁川橋で渡ります、元は濁川と呼ばれていました、なるほど濁っています、大正九年(1920)に創建された明治神宮の庭敷用として、この川で採集された玉砂利が献上されたところから神宮川と改名されました。

一説によると濁川下流に
サントリーのウイスキー工場があり、濁川ではイメージが悪いと変更に尽力したともいいます。

県営白州団地入口バス停先のY字路を、国道20号線から分岐して右(白色矢印)に進みます、下諏訪方面からは国道20号線に合流します、 この分岐点の左手には太平洋戦争戦没者の慰霊塔聖恩之碑等があります。
前沢上交差点 神宮川 白州団地入口分岐

 旧道に入ると赤松並木がわずかに残されています、地名も白州町松原に代わります、白須松原から続く、松原がありました。

先に進むと、左手のブロック塀の中に享保十年(1725)建立の南無妙法蓮華経七面大明神と刻まれた
題目碑があります、七面大明神(しちめんだいみょうじん)は七面天女とも呼ばれ、日蓮宗の法華経を守護する女神です。

松原公民館を過ぎると左手に
石尊大権現常夜燈があります、
赤松並木 七面大明神 石尊大権現常夜燈 般若堂

尊神社の南口です。

常夜燈の向いには
般若堂があります、大乗仏教の心髄を説いた般若心経(はんにゃしんぎょう)を安置しています。

 火の見ヤグラの先を左に入ると石尊神社鳥居があります、石尊神社の中央口です、ここから西に約2kmの所に鎮座しています。

石尊神社の創建は応永五年(1398)の勧請を始まりとしています、祭神は雨乞いの大山祇神(おおやまづみのかみ)そして日本武尊です。

武田家に崇敬され、家臣馬場美濃守信房が文禄三年(1594)社殿を再建し、寛文十二年(1672)徳川家は社領一反十七歩を寄進し庇護しました。

社殿は江戸時代末期の再建で、立川流の宮大工が手掛けたものです。

鳥居前の国道20号線を左折すると
サントリー白州工場があります、工場内の見学や試飲ができます。

鳥原村地内には
鳥原の一里塚が有りましたが、位置は不明です、片塚
石尊神社鳥居 サントリー白州工場

塚木は有りませんでした、江戸日本橋より数えて四十四里目です。

鳥原の地名は朝廷に甲斐國の瑞兆として白鳥を捕え、献上したことに由来しています。

 道中を進むと同じく石尊大権現常夜燈があります、ここは石尊神社北口です、傍らには文政十年(1827)建立供養塔馬頭観音が並んでいます。

左手の板塀の外れに
甲子塔(かしとう)があります、甲子(きのえね)の晩に、大黒天を祀り、豊作や商売繁盛を願う民間信仰を甲子待ちといいます。

松原から荒田に入り、松山沢川松山沢川橋で渡ります。

橋を渡った先の左手に
石祠道祖神が祀られています、石祠の中には男女双
常夜燈&石塔群 甲子塔 松山沢川 道祖神

体道祖神が安置されています。

 AM 7:34 教来石宿着 蔦木宿まで 4.8km

 流川流川橋で渡ります、往時は板橋でした。

橋を渡ると白州町
下教来石に入ります、ここが教来石宿東口(江戸口)で、往時は枡形がありました、教来石宿に到着です!

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると教来石宿宿内家数は百四十四軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠七軒(大三、中二、小二)で、宿内人口は六百八十四人(男三百六十人、女三百二十四人)でした。

緩くうねる宿並を進むと右手に拡声器塔があり、その先で宿並が左に大きくカーブします、この手前の右手道下に
石塔が祀られています、不明です。
流川橋 流川 石塔

 先で下教来石交差点に突き当たります、右折(白色矢印)します。

宿並は直進(白色矢印)しますが、一本目を左折(黄色矢印)すると
経来石があります、踏み込んでみましょう。

火の見ヤグラを過ぎると、右手に宋から帰化した
蘭渓道隆禅師が開山した来福寺があります、境内には延命地蔵尊があります。

道なりに進むと左手に享保十四年(1729)建立の
九頭竜社があります、流川の水防の守護神です。
下教来石分岐 経来石入口 延命地蔵尊 九頭竜社

 墓地先の右手草地の中に経来石があります、 大石の上には馬頭観音が四体、そして男女双体道祖神が一体、計五体が祀られています。

文政十三年(1830)刊行の
甲駿道中之記に「村の西に教来石とて高さ七尺許(ばかり)、竪(たて)三間、横二間許の巨石あり」と著されています。

日本武尊酒折から信濃に向かう折、この地に立ち寄り、この石の上で休んだといいます。

村人はこの大石を日本武尊が酒折を
(へ)てて休んだから、経来石(へてこいし)と呼びました。

ところが後に
の字がと誤記され、これがため教来
経来石 経来石

(きょうらいし)となり、これが地名となりました。

 宿並に戻ると、左手段上に明治天皇小休所跡碑があります、ここが教来石宿河西本陣跡です、

明治十三年(1880)六月三重京都
巡幸の際に、元本陣にて休息しました。

教来石宿は当初
幕府領(旗本馬場氏の知行地)、後甲府藩領、享保九年(1724)以降は幕府領(甲府代官所)となりました、下教来石本宿上教来石加宿でした、甲州最後の宿です。

鳳来郵便局の手前を右折(白色矢印)します。

道中は左に大きくカーブすると、眼下に
田園風景が広がり、七里岩の上には八ケ岳が望めます。
明治天皇碑 鳳来郵便局分岐 眼下の田園風景

 左手の段上に諏訪神社があります、元和三年(1617)の創建で、古来より教来石村の産土神です。

本殿は天保十五年(1844)信州諏訪の宮大工棟梁立川和四朗富昌の手に依るものです、一間社流造で、屋根は柿葺、正面中央に軒唐破風付の向拝を取り付け、本殿全体には見事な彫刻が施されています、残念ながら本殿は覆われていて、垣間見るのが精一杯です。

先の左手段上に
明治天皇御田植御通覧之址碑があります、明治十三年(1880))巡幸の際、ここで眼下の田植風景を上覧しました。

道中を進むと教来石上バス停手前の右手にどっしりとした
庚申塔があります。
諏訪神社 明治天皇碑 庚申塔

 並びに文化元年(1804)建立の題目碑石塔があります。

道中は緩やかな下り坂になり、
加久保沢加久保沢橋で渡ります、ここを境に下教来石から上教来石に入ります。

緩やかな上り坂を進むと上教来石バス停の左手に
御膳水跡があります、解説に明治十三年(1880)明治天皇が巡幸の際に、この細入沢の湧水を飲み、誉めたと記されています。

御膳水跡碑の傍らには
馬頭観音像が祀られています。
題目碑&石塔 加久保沢 御膳水跡 馬頭観音

 上り坂を進むと国道20号線に合流します、下諏訪方面からは斜め左に入ります、この分岐点には上教来石標識があります。

この分岐点の向いに
教慶寺があります、中国の宋から帰化した蘭渓道隆禅師の開山です、元禄元年(1688)臨済宗から曹洞宗に改宗しています、本尊は聖観世立菩薩です。

境内に
教化石があります、蘭渓禅師がこの岩上で説法を行いました、岩上には元文二年(1737)建立の諏訪大明神石祠が祀られています。
上教来石分岐 教慶寺 諏訪大明神 教慶寺の地蔵菩薩

 国道20号線に沿って進むと左手に教慶寺の
地蔵菩薩があります、蘭渓禅師が村人の難儀を取り除くために鎮座させたものです、並びには庚申塔甲子塔馬頭観音等があります。

 教慶寺の地蔵菩薩の向いから、斜め右の旧道に入ります、この分岐点には案内標識「歓迎 清流と緑のふるさと白州 又のお越しをお待ちしています」があります。

右手の人家前に
順禮四國八拾八箇所供養塔があります、お遍路の達成記念碑です。

山口スクールバス停の所から左折(黄色矢印)して国道20号線に出ると、左側に山口素道句碑「目には青葉 山ほとゝぎす はつ松魚(はつかつお)」があります、碑には山口素道翁誕生ノ地と刻まれています。

素道はこの地の
農民俳句に薫風を与え享保
山口分岐 供養塔 素道句碑口 山口素道句碑

二年(1717)七十五歳で没しました。


 大目沢大目沢橋で渡ると、田の中の一本道になります。

右手に北杜市白州町上教来石標識が現れると、その先が
山口関所跡です。

右手には
鳳来山口関跡碑があります、武田信玄が設けた、甲州二十四ケ所口留番所のひとつで、信州口を見張った國境の関所跡です。

左手には
西番所跡碑があります、徳川幕府が設置した番所で、女改めの取り締まりが厳しく行われました、跡地裏には番所蔵を残しています。
大目沢 鳳来山口関跡碑 西番所跡碑 番所蔵

 この番所の記録に残る大きな出来事は天保七年(1836)郡内に端を発した甲州騒動の暴徒がこの地に押し寄せた折、これを防がずして門扉を開いた判断を咎められ、番士扶持召し上げられの処分を受けたことです。

番士の二宮氏は再び職に戻り、番所が廃止されるまで勤め、明治六年(1873)に設けられた台ケ原屯所の初代屯所長に起用されました。


 山口関所の先は縄手道になります、この筋に山口の一里塚があったといいますが、存在及び所在共に不明です、江戸日本橋より数えて四十五里目です。

やがて旧道は左にカーブし、
国道20号線に突き当たります、右手は七里岩北端です、永らくお付合いを願った七里岩とはここでお別れです。

国道を横断した左手に大きな
山口素道句碑「目には青葉 山ほとゝぎす 初かつお」があります、この山口素堂句碑と新国界橋南詰の白い二階建て建物の間の未舗装路旧道(白矢印)です。
山口の一里塚 七里岩北端 山口素道句碑 国界の旧道

 黄色矢印は
新国界(こっかい)を渡る迂回路です。

 土道(雪道)を進みます、この先通行止の標識がありますが、進みます。

旧道の左手には
馬頭観音像が祀られています。

釜無川のせせらぎを聞きながら進むと、時代を感じさせる昭和四年(1929)竣工の
国界(こっかい)に出ます。

国界橋で
釜無川を渡るといよいよ甲州(甲斐、山梨県)から信州(信濃、長野県)に入ります。

なにがしら気温がぐっと下がります。
国界橋旧道 馬頭観音 国界橋 釜無川

 橋を渡ると悪名高い害獣除けの電流ネットが行く手を阻んでいます、シッカリ検証しました。

ポール
が一本立ち、そのポールの上と、足元にリング(輪)があり、電流ネットを張った一本棒が両リングに納まっています。

開閉には厚手の手袋を着用しましょう、皮膚がネットに触れると感電をします。

体調によっては大事に至る可能性もあります、十分にお気を付け下さい。

開閉の
システムは至極単純です、電流ネットの張ってある一本棒を上に持ち上げ、下のリング(輪)から棒の先
電流ネット 電流ネットゲート 下蔦木分岐

端が外れたら横に振って全体を外します。

それにしても害獣等の被害も甚大でしょうが、人がダメージを受けたら更に問題です。

ここの
旧道国界橋は偉大な文化遺産です、ここを通行する旅人にもう少し配慮があると助かります。

関係各位様には十分な
説明標識素手でも操作の出来る、安全な開閉システムの設置を切にお願い致します。

不安を感じる街道ウォーカーさんは
新国界橋にて迂回して下さい。

 国界橋を渡った旧道は下蔦木交差点に突き当たります、左折して国道20号線を進みます、新国界橋迂回路はこの交差点に繫がっています。

一品香先を斜め右(白色矢印)の上りの
堂坂に入ります、この分岐点には大型車進入禁止交通標識があります。

堂坂を進むとスグ右手に南無妙法蓮華経
題目碑があります、踏み込むと敬冠院の境内に日蓮上人高座石があります。

文永十一年(1274)
流罪を赦免された日蓮上人身延に草庵を結び、甲斐の村々を回り布教につとめました。

当時、
下蔦木村では悪疫が流行り、村人は難渋していました、ここを通りかかった上人は高座石の上に立って、三日三晩説法と加持祈祷を行い、霊験により村人を悪疫から救いました。
下蔦木分岐 高座石

 後に日蓮上人の弟子となった
日誘はこの高座石の傍らに堂を建立し、上人を祀りました、これが敬冠院です。

 石仏石塔群が並ぶ敬冠院の先で堂坂は右に折れます、左手に三つ辻柳があります、下蔦木小唄の一節「川路下りょか逸見路にしよか いっそ蔦屋に泊まろうか ここが思案の三つ辻柳」と唄われました。 

この
三つ辻柳は情趣豊かな大木で、村民から親しまれていましたが、強風により倒伏してしまったといいます。

堂坂は案外の急な上り坂になり、左手の
牛舎を過ぎると、右手に草道がありますここが逸見路追分です。

釜無川沿いの
甲州道中川路であり、逸見路(へみじ)は七里岩の上を通行して韮崎に至る原路です、この逸見路は釜無川の氾濫により甲州道中が通行不能になった場合の迂回路でした。

追分の左手には
道標「みぎへみぢ にらさきまで むしゅく」があります、正に
三つ辻柳 逸見路追分

ここが
思案の三つ辻でした、右手には馬頭観音が祀られています。

 下蔦木集落センターには標高731m標識が設置されています。

坂を上ると
真福寺の前がY字路になっています、左に進みます。

往時、ここの住職は
日蓮上人の高徳に深く帰依し、真言宗から日蓮宗に改宗し、名を日誘と改めました。

境内に
芭蕉句碑「御命講や 油のような 酒五升」があります。

真福寺先の
Y字路は左に進みます、下諏訪方面からは右折になります。
真福寺東Y字路 真福寺 芭蕉句碑 真福寺西Y字路

 道中を進むと左手に石祠道祖神が祀られています、旧下蔦木村に入り込む悪霊を見張っています。

スグ先の右手に「富士見町指定史跡応安の古碑」と刻まれた御影石の碑があります、碑の後ろには
子乃神(ねのかみ)、九四天、 文化十年(1813))建立の馬頭観音像等があります。

応安の古碑は後方の四角形の石造物です、宝篋印塔の基礎石といわれています、応安五年(1372)の銘が刻まれています、諏訪郡内で年代確認ができる、石造物では最古のものです。
道祖神 石仏石塔群 馬頭観音 応安の古碑

 古碑の先で旧道はT字路に突き当たります、ここを右折(白色矢印)します、このT字路の左手(黄色矢印)には甲子塔庚申塔馬頭観世音文字塔馬頭観音像があります、下諏訪方面からは重要な分岐ポイントになります。

ここからは眼下の
国道20号線に沿った、緩やかな下り坂になります、右手の石段上には顕彰碑らしきものが二基あります。

スグ先右手の大岩上には
馬頭観音像が祀られています。
下蔦木T字路 石仏石塔群 顕彰碑 馬頭観音

 AM 9:26 蔦木宿着 金沢宿まで 12.7 km

 緩い下り坂を下り切ると正面に蔦木宿モニュメントが現れます、信州最初の蔦木宿に到着です、モニュメントは石置き屋根になっています、流石信州風です!

小川を越すと
庚申塔甲子塔があり、寛政三年(1791)建立の常夜燈の奥に、石祠道祖神が祀られています、宿口を守っています。

慶長九年(1604)江戸から甲府までの甲州道中が整備され、その後下諏訪まで延長された際に
蔦木宿が新設されました。

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると蔦木宿宿内家数は百五軒、うち本陣一、問屋二、旅籠十五軒(中十、小五)で、宿内人口は五百八人(男二百三十三人、女二百七十五人)でした。

宿長は四町半(約491m)で、宿並は六度、大火に見舞われています。
蔦木宿東口 道祖神

 宿並の家屋には旧屋号札が掲げられています。 

宿並を進むと右手に
桝形道路碑があります、蔦木宿は慶長十六年(1611)に新設された宿場で、東西に桝形が配されました。

本来は碑の所を左折しますが、
道路改良工事によって、約10m先に移動されました。

桝形道路碑(黄色○印)の先、半鐘ヤグラの所を左折し、突き当たりの国道20号線を右折します、この先宿並は国道20号線になります。

下諏訪方面からは
蔦木宿大黒屋看板が左折ポイントです。
旧屋号 桝形道路碑 現在の東桝形

 枡形先の右手に曹洞宗鹿島山三光寺があります、応永二十四年(1417)甲斐守護職となった武田家十一代目信重の創建です。

本堂の大棟には
武田菱が輝いています、本来、この地は甲斐の領地だったのです。

武田
信虎(信玄の父)は諏訪と和睦を結び、天正九年(1582)信虎の三女で、信玄の妹祢々(ねね、十四歳)を諏訪頼重(二十五歳)に嫁がせました。

その際、、祢々御料人は
化粧料として境方十八ケ村を結納し、この時から上蔦木も甲斐領から諏訪家に移りました。

その後、当寺は元禄七年(1694)諏訪高島藩初代藩主
諏訪頼水により再開基され、頼岳寺(らいがくじ)の末寺となりました。
三光寺山門 三光寺本堂

 三光寺のお隣に十五社大明神があります、石鳥居をくぐった先の段上に社殿が鎮座しています。

祭神は大国主神の御子神
建御名方命(たけみなかたのかみ)で、嘉禎(かてい)三年(1237)の祝詞段(のりとだん)に蔦木に十五社ありと記されている古社です。

古くから三月に
春祭り、七月に夏祭り、十月に秋祭りと何れも十九日に行われ、天保十年(1839)から毎年相撲が奉納されています。

又、当社は諏訪大社と同様に、七年に一度
御柱祭が執り行われます、社殿には、その際に使用するめどでこが奉納されています。

この
めでどこは棒に縄の輪をくくり付けたもので、御柱の先端に取り付けます、氏子はこの輪に足を入れて、体を安定させます。
十五社大明神 めでどこ

 上蔦木交差点を横断すると右手が大阪屋本陣跡です、本陣表門を残しています、本陣母屋は弘化三年(1846)の建築でしたが、他所に移築されその後、老朽化の為解体されました、本陣門は元治元年(1864)の大火後の建築といわれています。

本陣門の並びに
明治大帝駐輦跡碑があります、明治十三年(1880)六月二十三日巡幸に際し、明治天皇は旧本陣有賀源六宅で休息しました。

前日に宿泊した台ケ原の銘酒
七賢の蔵元北原家を発ち、午前十時に黒毛の馬二頭に引かれた馬車に乗り、藤村山梨県令と楢崎長野県令が交代して先導し、百六十人以上の警部巡査に警護されて到着しました、家並には国旗が翻り、道にはが敷かれました。
大阪屋本陣門 蔦木宿本陣跡碑 明治帝御駐輦跡

 明治天皇は奥の
上段の間で休息し、およそ一時間程で退出したといいます、有賀源六への御下賜品は白絹一疋と金十五円でした。

 本陣門の裏には与謝野晶子歌碑「本陣の 子のわが友と いにしえの 蔦木の宿を 歩む夕暮れ」があります。

明治十一年(1878)十二月七日堺市に生まれた
晶子は、蔦木宿本陣の最後の当主であった有賀源六の三男(つとむ)の案内で旧宿場を巡り、近くの古刹三光寺に宿泊し、二首を残しました。

後に
与謝野寛と結婚してみだれ髪を発表し、この歌集は切実な恋愛の体験と情熱を奔放に表現して、晶子の名を世に轟かせました。

宿並の家々には
旧屋号札が掲げられていますが、何故か、蔦木宿本陣跡に隣接する、桔梗屋跡だけが御影石の標石になっています。
本陣門裏 与謝野晶子歌碑 桔梗屋跡

 宿並の右手に宿並と旧屋号がシッカリと描かれた立派な造りのモニュメントがあります、有難いですね。

右手JA信州諏訪蔦木の手前に
御膳水があります、但し、この水は七里岩から出る湧水です、本来の御膳水は西裏の窪田定助の所有する土地の湧水でした。

この
御膳水と、あと二ケ所の湧水を利用して、明治三十九年(1906)頃、蔦木宿の街道筋に、十六ケ所の水道施設を造り、昭和二十六~七年頃まで使用されました。

当時の施設の
を用いて御膳水が復元されました。

御膳水の傍らには
与謝野晶子歌碑「白じらと 並木の
宿並と屋号 御膳水 与謝野晶子歌碑

もとの 石の樋(ひ)が 秋の水吐く 蔦木宿かな」があります。


 宿並の左手旧屋号鹿島屋、次いで扇屋の先を左折します西枡形跡です。

枡形に入ると右手に
枡形道址碑があります、それでは枡形トレースに取り掛かりましょう。

先を道なりに右折します、正面が
Y字路になっています。

枡形は左(白色矢印)に進みます、ここを右(黄色矢印)に入ると右手に宝暦十一年(1761)建立の
観音講供養塔、享和九年(1809)建立の廿三夜塔そして甲子塔等があります。
西枡形 枡形道址碑 枡形内Y字路 石塔群

 枡形を進むと右手に対の常夜燈があり、奥に石祠道祖神が祀られています、宿口に鎮座し、悪霊の侵入を見張っています、裏には石仏石塔群があります。

道祖神の前で
枡形は右折(白色矢印)します、ここを直進(黄色矢印)すると右手に不動明王像、文化六年(1809)建立の愛宕山大権現地蔵、安政七年(1860)建立の庚申塔甲子塔があります。

更に奥に進むと
信玄堤があります、草で覆われて、折角の石垣が見づらくなっています、この地が武田領であった頃に築かれた堤です、信玄堤とはいうものの、信虎以前
道祖神 枡形トレース 石仏石塔群 信玄堤

のものです。


 枡形に戻り、道祖神の前を右折すると、川除(かわよけ)古木が聳えています、信玄堤とセットのもので、富士見町指定天然記念物です。

釜無川の水害から蔦木の地を守るために植樹されたものです。

枡形を進むと旧道は
国道20号線に突き当たりますが、手前左の草道に入ります、ここが旧道痕跡です。

正面右手に石垣が現れたら、国道側に出てみましょう、
芭蕉の合同句碑があります。
川除古木 旧道痕跡 芭蕉句碑見学 芭蕉句碑

 明治十六年(1883)松尾芭蕉の回忌百九十年にちなんで地元の有志によって建碑されたものです。

「川上と この川下や 月の友」元禄五年(1692)の秋、芭蕉は五本松に舟を出して名月を楽しんでいます、月の友は山口素道といわれています。

 旧道に戻って進むと、左手に二本杉があります、根方に小さな石造物が見えます。

草地を進むと寛政十三年(1801)建立の
馬頭観音像があります。

微妙にうねる旧道を進むと、
国道20号線に吸収されます。

この合流ポイントには国道20号線東京から
175kmポストがあります、このポストは下諏訪方面からの重要な分岐ポイントになります。

ここからは
国道20号線の歩道を進みます。
二本杉 馬頭観音 国道合流 175kmポスト

 国道を進むと左手に岩田屋建材の二階建て事務所があります。

旧道はこの先を左(白色矢印)に入り、釜無川沿いに進みます、しかし途中で
電流ネットに行く手を阻まれてしまいます。

この旧道沿いには歴史的なものはありませんから、最初から
国道迂回路(黄色矢印)として進んでしまいましょう。

先に
岩田屋建材砕石工場があります、ここから左(黄色矢印)の下り坂に入ります、 左手の砂山を越えると一面の田園風景が広がります。
落合旧道口東 電流ネット 落合迂回路東 落合迂回路西

やがて迂回路は国道に合流します、下諏訪方面からは
道祖神先の一本目を斜め右に下ります。

 国道20号線を進むと左手に石祠道祖神庚申塔甲子塔があります、これらの後ろ側の砂利道が電流ネットからの旧道です。

道祖神向いの横断歩道で国道20号線を横断し、正面の砂利道を上ると
汀川生家住居跡碑があります、歌人森山汀川(ていせん)は明治十三年(1880)の生まれ、島木赤彦と共にひむろを創刊し、後にアラゝギに合流しました。

国道に戻り、スグ先を右に入ると神代集落センターの敷地内に多数の
石仏石塔が集められています。

神代村(じんだいむら)内に神代桜と呼ばれる古木がありました、花の咲く頃にを蒔く習わしがあったとこ
道祖神&石塔 汀川生家住居跡 石仏石塔群

ろから
桜苧(さくらお)とも呼ばれました。

 国道に沿う砂利道が旧道痕跡です、レストラン赤石前に出ます。

レストラン赤石の名物は
カツカレーです!

マズ、そのボリュームに圧倒されます、多めの
ご飯の上に、厚目の揚げたてのカツ、さらにその上にカレーがタップリです!!

添えられている
サラダもボリューム満点です!!!

ウマイ、これは堪りません、ご賞味あれ、お薦めです!!!!
(0266-64-2704 月曜定休日)
旧道痕跡 ドライブイン赤石 生ビール 名物カツカレー

 国道の右側にしかない歩道を歩きます、左側に火の見ヤグラが現れたらロックオンです。

火の見ヤグラの所で
国道を横断し、左側にシフトします。

スグ先の道下に
平岡の一里塚があります、根方に一里塚標石があります。

平岡村地内で
塚木は無く、片塚でした、江戸日本橋より数えて四十六里目です、現在の塚位置は耕地整理の際に、約10m国道沿いに移設されたものです。

山と渓谷社から
ちゃんと歩ける甲州街道の出版に際し、改めて甲州道中分間延絵図甲州道中宿村大概帳を調べ直し、この先の史跡等の繋がりから、これから説明する筋
火の見ヤグラ 平岡の一里塚 一里塚標石

を概ね
甲州道中としました。

※ 手作りマップをご使用の方は修正して下さい。


 一旦江戸方面に戻り、火の見ヤグラの所から用水に沿って下り、突当りを右折します。

長閑な旧道を進むと左手に
明治天皇巡幸御野立所跡碑があります。

蔦木旧本陣にて休息した明治天皇は、平岡村のここで
野立を行いました。

野立所は白砂を盛り、周囲に菊花紋の付いた紫の幔幕を張り巡らし、白木の机と椅子を据え
平岡旧道口東 平岡旧道 明治天皇巡幸御野立所跡

玉座としました。

明治天皇が出立すると、玉座跡の
白砂を村人達が御守りとして持ち帰ったといいます。

 旧道を進むと丹沢川に突当ります、左折(白色矢印)し、突当りの釜無川を右折します。

土手道を進み
大武川橋手前を右折します、長らくお付合いを願った釜無川とはこれにてお別れです。

舗装路の上り坂を進み、突当りの
国道20号線を左折(白色矢印)します。

国道合流点の左手に
金山彦命甲子塔や多数の馬頭観音等が祀られています。
丹沢川分岐 大武川橋分岐 平岡旧道口西 石仏石塔群

 この国道合流点に
177kmポストがあります、下諏訪方面からの重要な分岐ポイントです。

 机交差点を越して、国道20号線を進むと、右手にブロック塀が現れます。

このブロック塀の中に
金比羅山常夜燈があり、奥に明治天皇平岡御膳水碑があります、明治天皇の野立に供されました。

次いで右に入ると明王山竹林寺
机観音堂があります、境内にある六基の六地蔵石幢(せきどう)は富士見町指定有形文化財です。

境内の石段を上ると
三社明神社
ブロック塀 御膳水碑 六地蔵石幢 三社明神社

鎮座しています、境内には
宝篋印塔があります。

 国道を進むと右手人家の生垣に消防ホース格納庫があり、その裏手に漢詩碑らしきものがあります。

左手の赤く錆びた
火の見ヤグラの所には標高800m標識があります。

火の見ヤグラ右手の
矢の沢川手前を右折します、机旧道に入ると右手に消火栓とホース格納庫があり、石仏石塔群があります。

三面六臂の
馬頭観音像等が多数並び、御神燈奥の石垣上には石祠が祀られています。
漢詩碑 火の見ヤグラ 机旧道口東 石仏石塔群

 矢の沢川を渡って上り坂を進むと、左手の半鐘の下に馬頭観音像が二体祀られています。

下り坂になると、右手石垣上に
かぐら石があります、標柱が立っています、獅子頭に似た石で、下からきれいな清水が湧き出ていたところから清水の神楽石とも呼ばれ、旅人の休憩の場でした。

並びの石垣上には
馬頭観音像石塔があります。

スグ先で
国道20号線に合流します。
馬頭観音 かぐら石 馬頭観音&石塔 机旧道口西

 下諏訪方面からは瀬沢大橋交差点先の一本目を斜め左に入ります。


 一級河川の立場川瀬沢大橋で渡ります。

立場川は八ケ岳の立場峠に源を発し、流末は釜無川に落合います。

武田信虎の娘祢々(ねね)が諏訪頼重に嫁いだ際に、この地が化粧料として諏訪氏に結納されました、それ以前は瀬沢川(立場川)が甲斐信濃の國境であったところから境川と呼ばれました。

瀬沢大橋の渡り詰を左折します、この先は逆コ字に進みます、一本目を
立場川 瀬沢大橋 旧瀬沢村枡形 旧瀬沢村枡形

右折します、次いで突当りを右折すると
旧瀬沢村に入ります。

 上り坂を進むと左手の瀬沢郵便局の右隣に紅殻塗り(べんがらぬり)の旧家があります。

この
紅殻塗りの技法は古くから用いられた赤色顔料(土から採取する酸化鉄)で、十六世紀頃にインドのベンガル地方から渡来したところからベンガラと呼ばれ、木材の美装保護の為に施工されました。

その隣のお宅の軒下には大きな
めでどこが吊り下げられています、傍らには本宮御柱御用と記された木札が掲げられています。

坂を上ると左手に天保十三年(1842)建立の
諏訪神社常夜燈があります、常夜燈の後ろには男女双体道祖神が祀られています。
紅殻塗りの旧家 めでどこ 常夜燈

 微妙にうねる、趣のある石段を上ると諏訪神社の社殿があります、瀬沢村の鎮守です、社殿には子安大明神諏訪大明神二枚の扁額が掲げられています。

境内には質素な
西照寺があります、この地で行われた瀬沢合戦では勝利したものの武田軍も多数の戦死者を出しました。

戦死者の屍は九つの穴に埋めて塚を造ったと伝えられ、その一つがここであったといいます。

境内の高台に天文十三年(1544)建立の
笠塔婆があります、この建立年は丁度
諏訪神社参道石段 諏訪神社社殿 西照寺 笠塔婆

瀬沢合戦の
三回忌に符合します。

 諏訪神社の隣りに吉見屋があります、瀬沢村には立場がありました。 

吉見屋先がY字路になっています、この分岐点には
道標がありますが、残念ながら風化が進んでいる為、判読不明です、左に進みます。

ここを含めてこの先
三か所Y字路がありますが、全て方向に進みます。

スグ先に二つ目の
Y字路があります、左手に供養塔道標「左すワ 右山浦」があります、山浦は八ケ岳西山麓一帯を指します。
吉見屋 Y字路 道標 道標

 上り坂を進むと三つ目のY字路があります、道中は左(白色矢印)に進みます、右(黄色矢印)に入り、およそ100m進むと国道20号線に突き当たります、地下道にて横断すると瀬澤古戦場跡があります、解説があります。

天文十一年(1542)二月、信濃の
小笠原諏訪村上木曽の四大将は甲斐の武田晴信(信玄)を攻めるべく、甲信境の瀬沢に陣取りました。

しかしこの動きを、いち早く察知した
晴信は密かに軍勢を発し、三月九日朝、信濃勢の不意を突きました、戦いは辰の刻(午前八時)に始まり、未の刻(午後二時)に終わり、武田軍は信濃方千六百二十一人を討ち取る大勝利でした。

その戦場となったのは、
瀬沢を中心に新田原(しんでんは
三つ目のY字路 瀬澤古戦場跡 瀬澤古戦場跡碑

ら)から
横吹におよぶ広い範囲と考えられています。

 道中に戻り、上り坂を進み、小川を渡ります。

突当りのT字路を右折します、ここからは更に上りの
勾配が強くなります、道中の左手には文政元年(1818)建立の馬頭観音甲子塔等があります。

右手に目を転じると
八ケ岳の山容が大部近くに望めるようになりました。

次いで左手の擁壁上に享和二年(1802)建立の
観世音碑があります、傍らには馬頭観音像馬頭観世音文字塔等があります。
小川 T字路 石仏石塔群 観世音碑

 道中は大きく左にカーブすると、上り坂の林道になり、右手に享保二年(1717)造立の地蔵尊日本廻國妙経塔観世音菩薩塔等があります。

道中は下り坂になり、視界が開けてきます、右手には再び
八ケ岳の山容が望めます。

小川を渡ると
旧瀬澤村(落合)から旧とちの木村(富士見)に入ります。

とちの木村は高島藩領で、地名は村内にあったとちの木に由来していすが、このとちの木は不明です。

この村境の渡り詰めには
水神が祀られています、暴れ川であったのかもしれません。
石仏石塔群 村境の小川 水神

 本来のとちの木冠にと書きますが、フォントが無いので、平仮名表記にしてあります。

とちの木の村内は緩やかな上り坂になっています。

村外れの右手に
尾片瀬神社があります、祭神は瀬織津姫(せおりつひめ)で災厄抜除の女神です、境内には宝篋印塔繭玉神社石碑があり、福昌院跡碑があります、旧境内には多数の石仏石塔があります。

道中に戻ると尾片瀬神社の並びに
とちの木村内 尾片瀬神社 村口の道祖神 男女双体道祖神

石祠道祖神が祀られています、とちの木村の西口です。

石祠道祖神の背後には
男女双体道祖神が並んでいます。

 緩い上り坂を進むと右手に馬頭観音像馬頭観世音文字塔が一列に並んでいます。

並びに富士見町
上水道第一減圧槽があります、但し、施設内は雑草で覆われています、廃止になったのかもしれません。

スグ先に樹齢二百年以上の
とちの木風除林(かぜよけばやし)があります(富士見町指定天然記念物)。

この地は北風が強く、五穀は実らず無住の地でした、そこで寛政年間(1789~1801)に
とちの木の村民が高島藩へ願い出て防風林として赤松を植樹しました。

この
風除林は道中に対して、直交するように植樹され
馬頭観音群 上水道減圧槽 とちの木風除林

ています、これによって坂を下って来る寒冷の
北風を遮断しました。

 先の右手路傍に寛政三年(1791)建立の馬頭観音像が祀られています。

次いで右手に
塚平(つかだいら)の一里塚があります。

北塚を残しています、塚木はで、江戸日本橋より数えて四十七里目です。

塚脇には
重修一里塚碑があります、これは昭和十二年に諏訪中学校の教師と生徒が一里塚を補修したことを示したものです。

塚前には
道祖神が祀られ、傍らには標高950m標識があります、 瀬沢大橋の標高が
馬頭観音 塚平の一里塚 重修一里塚 道祖神

813mですから、わずかな距離で137m登ったことになります。


 一里塚先で道中はT字路に突き当たります、この先の塚平旧道三菱マテリアルに払い下げされ通行不可です。

ところが何度来ても手付かずのままです、もしかすると敷地内に
塚平旧道を残しているかも知れません、復活できたら素晴らしいですね。

このT字路を右折(黄色矢印)し270m進むと
和風レストラン勇があります、蕎麦と丼のセットが豊富です(0266-62-4254 月曜日定休)。

更におよそ1.4km進むとJR中央本線
富士見駅です。

迂回路は
T字路を左折し、一本目の舗装路を右折(白色矢印)します、この舗装路には電柱が並んでいます。
塚平迂回路東 迂回路口 舗装路

 途中から砂利道に変わり、右に大きくカーブすると舗装路の旧道に突き当たります、道中は左折(白色矢印)します。

この合流ポイントには
ここは富士見町原の茶屋標識があります、下諏訪方面からは重要な分岐ポイントになります、Y字路を右に進みます。

この分岐点の右(黄色矢印)が
旧道痕跡です、踏み込むと直ぐに通行不可となっています、この先は三菱マテリアルに払い下げされてしまいました。

この突当りを左(黄色矢印)に入ると貴重な
透関の馬頭観音像があります、当時、原の茶屋付近の道路状況は悪く、ことに春先にはぬかるみとなって人馬の通
塚平迂回路西 塚平旧道西 透関の馬頭観音

行が難渋しました。

そこで安永九年(1780)地元の
三井透関(とうかん)が高島藩から道路改修の許可を得て、私財を投じて着手し、塚平(つかだいら)から原の茶屋間に新道を開削しました、丁度三菱マテリアルに払い下げされた部分です。

改修工事は翌天明元年(1781)に完成、透関は竣工にあたり、道中の安全を祈願し、
三面六臂忿怒(さんめんろっぴふんぬ)の馬頭観音像を安置しました。

傍らの
馬頭観音像は文化五年(1808)の建立です、それでは元に戻りましょう。

旧原之茶屋村を進むと右手に富士見公園があります。
透関馬頭観音 馬頭観音 富士見公園

 
富士見の地名は下諏訪方面からの旅人がこの地に来て、初めて富士を見たことに由来しています。

明治四十四年(1911)アララギ派の
伊藤左千代等が、ここの風景に感激し、富士見公園を監修しました。

 園内に入ると芭蕉句碑「眼にかゝる ときや殊更(ことさら) 五月不二(さつきふじ)」があります、元禄七年(1694)の句です。

芭蕉最後の
上方帰郷の際、箱根を越えた辺りで、ちょうど富士山の全貌が見え、俳聖の最期を気遣ったか、富士は五月晴れとなり、その姿をことさら美しく現したの意です。

芭蕉句碑の後ろには
庚申塔が並んでいます。

園内には
松丘句碑伊藤左千夫歌碑斉藤茂吉歌碑ゝ山歌碑島木赤彦歌碑等があり、高尾神社が祀られています。
芭蕉句碑 松丘句碑 伊藤左千夫歌碑 斎藤茂吉歌碑

 往時とちの木村御射山神戸の間には人家が無く何かと不便でした、そこで明和九年(1772)松目新田の名取与兵衛がここに茶屋を出店しました。

これにより
原之茶屋村の集落が形成されました、しかし周囲の村との紛争が起きたので、高島藩が四十間四方の築地(つきじ)を築かせ、その中で茶屋を営ませたといいます。

十字路を越すと右手に原の茶屋公民館があります、敷地内に
明治天皇駐驛之處碑があります、明治十三年(1880)甲信地方巡幸の際、ここで休息しました。

スグ先の右手には
明治天皇御膳水碑があります。

明治天皇は平岡村の
野立所までは二頭立ての馬車でしたが、瀬沢坂とちの木坂が難路の為、四人担ぎの板輿(いたごし)に乗り換え、原之茶屋村に到着しました。
明治天皇碑 御膳水碑

 左手に雀踊りと呼ばれる諏訪地方特有の棟飾りをあげた旧家があります、ここが名取与兵衛茶屋跡であり、有名な旅館桔梗屋跡です。

富士見小学校初代校長を務めた
小池晴豊はここに下宿をしたところ、短歌の友であった島木赤彦が訪れるようになったといいます。

これをきっかけに
伊藤左千夫土屋文明竹久夢二斎藤茂吉田山花袋(かたい)等多くの歌人、文人が訪れるようになりました。

桔梗屋はサロン的な役割を果たしたといいます、 屋内には歌会が開かれた囲炉裏も残り、多くの書簡掛け軸等を残しています。
旅館桔梗屋跡 金毘羅常夜燈 金毘羅神社

 桔梗屋の向いに文化八年(1811)建立の金毘羅神社常夜燈があります、脇道に入ると石鳥居があり、段上に金毘羅神社が鎮座しています。

桔梗屋の並びに
句碑があります。

次いで右手に
如意輪観世音菩薩守屋貞治作標石があります、名取家の庭内に安置されています、本来は街道沿いに祀られていましたが、子供が悪戯するのでここに移したといいます。

隣りの
大柳屋の屋号を掲げる蔵脇に男女双体道祖神百番供養塔道祖
句碑 標石 如意輪観世音菩薩 石仏石塔群

庚申塔百番供養塔山燈籠等があります。

 並びの奥には筆塚があります。

原の茶屋村を後にすると、道中は
Y字路になります、右(白色矢印)に進みます。

左手の木立の中に
旧道痕跡を残しています、感動ものです!

道中の左手には
田園風景が広がっています、その中にポツネンと石碑が望めます、農魂之碑です。

山側には
富士見パノラマスキー場があります、その名の如く南には富士山
筆塚 Y字路 旧道痕跡 農魂之碑

甲斐駒ケ岳、東には八ケ岳の全貌が望めるそうです!

 道中はカゴメ富士見工場の高い擁壁下を進みます、事前に申し込めばソースの醸熟工程を見学することができるそうです。

左手には
奉納念仏供養塔があります、左甲州道と刻まれています。

カゴメ工場を過ぎると右手の電柱背後の段上に
三崎三方功神が祀られています、(かまど)の神で三崎三方荒神とも呼ばれます、人の生命力となる食事を作る神聖な竃を守る神です。

緩い下り坂をグングン進むと正面に
念仏供養塔 三崎三方功神 Y字路 金山大権現

の見ヤグラが現れます、Y字路になっています、左に進みます。

左手に
赤松があり、奥に金山大権現が祀られています、鍛冶師の守護神です、槌のやり取りから夫婦和合の神ともいいます。

 次いで左手に夥しい数の石仏石塔群が現れます、馬頭観音群の奥には真那以址碑南無阿弥陀仏名号碑一億百萬遍供養塔等があります。

道中は下り勾配の強い
洗坂になります。

左手の石垣上には
庚申塔千庚申塔、嘉永六年(1853)建立の筆塚碑があります。

洗坂は右にヘアピン状にカーブして下ります、右手の石垣上には明治十五年(1882)建立の
富蔵山碑があります、富蔵山(とくらさん)は信濃三十三観音霊場十五番札所の岩殿寺(がんでんじ)の山号です。
石仏石塔群 石塔群 富蔵山碑

 洗坂を下り切ると国道20号線に突き当たります、道中は(白色矢印)にヘアピン状に曲がります。

ここを右折(黄色矢印)し、およそ400m進むと、
レストランかぶとがあります、洋食屋さんです(0266−62−5073 定休木曜日)。

このお店の名物は何といっても
ナポリタン鉄板焼(930円)です!

薄焼きの玉子の上にナポリタンが大盛り、ウインナーが添えられて、ジュージューと弾けています!!
国道20号線合流 レストランかぶと 生ビール ナポリタン鉄板焼

 お味ですか、そうですね昔、映画館で東映の二本立てを観た後、喫茶店で食べた
ナポリタンスパゲッチーそのものです!!!

 それでは元に戻りましょう、国道20号線をUターン する所が旧御射山神戸村の東枡形跡です、御射山神戸(みさやまごうど)村は間の宿でした。

この地に鎮座する
御射山社では毎年御狩りの祭事である御射山祭が行われます、諏訪大社上社から二神を迎え、捕えた獲物を供え、豊作を祈願しました、この狩りを行うのが御射山です、そしてこの地は諏訪大社の入口(戸口)であるところから神戸となり、御射山神戸となりました。

スグに
富士見パノラマリゾート入口交差点になります、この交差点を右に入ると突き当たりが天神ノ森金毘羅宮です、参道階段脇には景慕之碑等があります。

国道20号線を進み
思沢川を越すと右手に小川平吉先生
東枡形跡 天神ノ森 小川平吉碑

生誕之地碑があります、明治の政治家で、鉄道大臣在任中、 それまで左書きだった駅名標をすべて右書きに改めさせ国粋大臣の異名をとりました、しかし私鉄疑獄売勲事件に連座して逮捕され入獄し、政界を引退しました。

碑の傍らには
標高902m標識があります。

 御射山神戸交差点を左に入ると鐘楼門の曹洞宗神澤山瑞雲寺があります、厄除十一面観音像を安置する薬師堂は文政八年(1825)の再建です、境内には開運招福の大黒天を祀っています。

御射山神戸交差点を横断すると左手に堂々たる
冠木門の旧家があります、旧御射山神戸村庄屋名主を勤めたお宅かも知れません。

先の神戸八幡交差点の左が
神戸八幡社です、社殿は宝暦十二年(1762)の建立です(富士見町指定有形文化財)。

社殿脇のケヤキは樹高30mで推定樹齢三百九十年です(富士見町指定天然記念物)。
瑞雲寺 冠木門の旧家 神戸八幡社&ケヤキ

 境内には芭蕉句碑雪ちるや 穂屋のすゝきの 苅のこし」があります、 元禄三年(1690)芭蕉四十八歳の句で、天保十四年(1843)の建碑です。

穂屋(ほや)はすすきの穂で作った御座所で御射山祭の際、諏訪大社上社から二神をここに迎えます、芭蕉はこの穂屋を作るためにすすきを刈り取り、刈り残したすすきの原に雪が舞っている様を詠んだものです。

神戸八幡交差点を右に少し入ると右手に
筆塚があります、この先にはJR中央本線すずらんの里駅があります。
芭蕉句碑 筆塚 御射山神戸西分岐 馬頭観音

 交差点に戻って国道20号線を進むと
西枡形の痕跡がわずかに残されています。

先で斜め左の
旧道に入ります、分岐点には馬頭観世音文字塔が祀られています。

 上り坂を進むと右手に石仏石塔群があり、この手前を左に入り、突き当たりのY字路を左に進むと畑に出ます。

この辺り一帯が
神戸合戦跡です、畑奥左手の樹木の下に五輪塔が並んでいます、戦死者の供養塔です。

享禄元年(1528) 甲斐を統一した
武田信虎(信玄の父)は信濃に進出し、この地で諏訪頼満と激突したが、諏訪方が勝利を納めました。

天文四年(1538)
信虎頼満の両雄は堺川の地に会して和議を行いました、この際、諏訪大社上社の神長官守矢頼真(もりやよりざね)は、宝鈴(鉄鐸)を担がせて供をし、堺川の北の端にて宝鈴を鳴らし、神の前で和議を誓う証としました。
神戸合戦跡口 神戸合戦跡 五輪塔

 宝鈴(さなぎの鈴)は銅鐸に似ているところから鉄鐸(てったく)とも呼ばれました、この神器はご神体であり、人と人の誓約の場に神が立ち会う証として鳴らされました。

 元に戻ると右手に石仏石塔群があります、奉拝百番供養塔道祖神そして馬頭観音等が多数集められています。

次いで右手の消防用ホース格納庫脇に
片瀬明神跡碑があります。

更に坂を上ると
御射山神戸の一里塚があります、江戸日本橋より数えて四十八里目です。

両塚を残しています、西(左)塚の
ケヤキは往時のもので樹齢四百年です、見事の一言に尽きます!
石仏石塔群 片瀬明神跡 御射山神戸一里塚 東塚

 塚上には
標高917m標識があります。

 一里塚を後にすると木立が繁る長閑な道中を進みます。

時より右手に姿を現す
八ケ岳の山容も小さくなり、後方になってきました。

左手にセイコーエプソン社の
富士見ハウスが現れます、これ以降はエプソンの施設が連なっています、あたかもエプソン村のようです。

右手の赤松林を過ぎると急な下り坂になります、エプソンテニスコートの先に右に下る坂があります、越した道下の中腹に
赤茶色の大石があります、道中名物のゆるぎ石です、触ると揺れたといいますが、今は微動だにしません。
エプソン施設 中腹のゆるぎ石 ゆるぎ石

 エプソン精和荘を過ぎると道中は下り坂になります、右手に袈裟切り状に欠けた馬頭観音像が祀られています。 

先の左手には
庚申塔男女双体道祖神馬頭観音像、寛政七年(1795)建立の供養塔等があります。

道中をグングン下ると、左手の用水脇に今度は逆袈裟切り状に欠けた
馬頭観音像が祀られています。

スグ先の左手にも
馬頭観音像があります。

坂を下り切ると
金沢宿です。
馬頭観音 石仏石塔群 馬頭観音 馬頭観音

 PM 1:14 金沢宿着 上諏訪宿まで 12.8km

 道中は国道20号線に突き当たります、ここを左折します、この辺りが金沢宿東口です、この合流点には金澤区上々町常会所があります、下諏訪方面からは重要な分岐ポイントになります、金沢宿に到着です!

甲州道中の開設に伴い
権現の森の西辺りに青柳宿が新設されたが、度重なる宮川の氾濫や慶安三年(1650)大火に見舞われ、翌四年高所の現在地に移転し、金沢宿と改称されました。

新設された
宿並は計画的に造られ、大火の教訓から幅員は五間(約9m)と広くとり、宿並の中央及び両側の家屋の裏に各三尺(約90cm)幅の用水が設けられました。

宿並は
上町中町下町で構成され、京方が下町になっています、 宿長は八町(約873m)でした、この長さは東口から西の枡形間にピッタリ符合します。

金沢宿高遠飯田に通じる追分を控え、交通や物資流通の要衝として栄えました、 当初、甲州道中を通行する参勤大名は高島藩飯田藩高遠藩の三藩のみに限定されていましたが、
金沢宿東口

江戸後期になると幕府の許可を得た大名が
東海道中山道を利用せず甲州道中を通行するようになり、金沢宿は大いに賑わったといいます。

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると金沢宿宿内家数は百六十一軒、うち本陣一、問屋二、旅籠十七軒(大二、中七、小八)で、宿内人口は六百二十二人(男三百三十五人、女二百八十七人)でした。

 宿内を横切る川を渡ると中町に入ります、左手の丘上には金比羅神社が鎮座しています、金沢宿の守護神です。

宿並の左手には今流行の鹿、猪のジビエ料理で知られる
カントリーレストラン匠亭があります、惹かれますね、今度寄ってみましょう!

宿並を進むと左手に金沢上町バス停があります、ここに
の文字を掲げた土蔵があります、庭の斜面に石仏石塔群が垣間見えます、踏込は遠慮しました。

小さな流れを越すと左手の住宅の玄関脇に
御柱祭で御柱に取り付けるめどでこを飾っています、めでどこはこの地の人々にとっては神聖でステータスなのでしょう。
金比羅神社 石仏石塔群 めでどこ

 先の左手に曹洞宗金鶏山泉長寺があります、山号の金鶏山は武田信玄所縁の金鶏金山に由来します。

参道口にあらゆる生物の霊を供養する
萬霊等(塔)、聖観音菩薩碑、そして地蔵尊座像が安置されています。

参道を進むと正面の山門の右手に
おてつき石があります、参勤大名藩主の通行の際に、宿役人がこの石に手を付いて口上を述べたといます、本来は東西の宿口に置かれていたものです、この石は上町にあったものです。
泉長寺参道口 泉長寺 おてつき石 小松三郎左衛門墓

墓地には
金沢宿にとって、切っても切れない悲劇のヒーロー小松三郎左衛門の墓碑があります。

 金沢交差点を渡ると、左手の火の見ヤグラの所に明治天皇金澤行在所趾碑があります、ここが金沢本陣跡です、敷地は約四反歩、建坪百十六坪で玄関付き、門構えは無しでした。

金沢宿本陣は当初、
小松家が勤め下の問屋を兼ね、名字帯刀が許され代々世襲し、敷地内には高島藩や松本藩の米蔵がありました。

三代目
小松三郎左衛門の時、 隣の千野村(茅野)と、山の所有地や金沢山の入会権をめぐる争いで、高島藩千野村の権利を認める裁定を下しました。

三郎左衛門は一村の荒廃に関する一大事と、敢然として立ち上がり、幕府に直訴も辞せじと、控訴抗弁し、人馬継立の駅務を自ら遅滞させ抵抗しました、藩はこれを不届きとして、延宝六年(1678)十月二十五日三郎左衛門をの極刑に処し、一族と駅肝煎年寄りを厳罰に処し、金沢山を没収し藩有としました。

これ以降、本陣問屋は
白川嘉右衛門が勤めました。
明治天皇行在所趾碑

 本陣の向い、金沢交差点の渡り詰めが下の問屋場跡です、樋口家が問屋業務を本陣問屋と月の半分を交互に勤め、臨時の脇本陣を兼ねました。

そのまま進むと右手に信州本手打そば勝山そば店があります、過去に二度ここで上諏訪の銘酒
真澄の熱燗、かつ丼かけそばのセットで暖をとりました。

更に先に進むと金沢温泉
金鶏の湯があります、これまた武田信玄所縁の金鶏金山に因んでいます、泉質はアルカリ性単純温泉で、効能は神経症、冷え性、疲労回復、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、打ち身、関節のこわばり、痔疾、慢性消化器病によろしいようです、毎週水曜日休館、入浴料金は大人600円です。
下の問屋場跡 勝山そば店 金鶏の湯

 金沢交差点に戻り、そのまま直進すると金沢小学校に突き当たります、このT字路を右折すると、左手に金沢区コミュニティセンターがあります。

敷地内に
独鈷石(とっこいし)が保存されています、この石は金沢峠頂上付近の道路改修の時に出土したものです、東日本の縄文晩期の磨製石器で、仏具の独鈷杵(とっこしょ)に類似しているところから、独鈷石と名づけられました。

金沢峠は飯田藩、高遠藩の参勤交代や物資輸送の交通の要衝です、古東山道は京から恵那山を越え、信州飯田へ入り、高遠を経て杖衝峠を越して諏訪へ出て、佐久へ抜けたとする説がありますが、この石の出現によって金沢峠説も有力視されるようになったという貴重な石です。

金沢区コミュニティセンターを左に回り込むと、正面に
青柳神社があります、雨を司る神を祀っています、日照りの時には雨を降らせ、大雨の時に
独鈷石 青柳神社

は止まし給うという、有難い神様です、それでは合掌!


 参道階段の左手に金沢村の権益を守るために、一身一族を犠牲にした小松三郎左衛門を讃えた頌徳碑があります、事件以来、二百有余年に渡り、村民は苦渋を舐め続けましたが、 明治十七年(1884)の裁判によって金沢村の権利が認めら、村民の悲願はようやく成就したといいます。

頌徳碑の並びに小
松三郎左衛門地蔵尊立像が安置されています。寛延二年(1749)磔の刑に処せられた小松三郎左衛門の霊を弔う地蔵尊が、刑場跡に安置されました、この地蔵尊はみょうり様と呼ばれ敬愛されました。

しかし
宮川の氾濫によってこの地蔵は流失し、行方不明となっていましたが、明治三十一年(1898)水害の復旧工事の時、台石だけが河原より見つかり、やはり台石を失った青面金剛像がその台石上に祀られました。

昭和六十二年(1987)宮川の川底より首を失った
小松三郎左衛門地蔵尊が発見され、この地蔵尊の首を復元しここに安置しました。
頌徳碑 三郎左衛門地蔵

 宿並に戻って進むと左手に木鼻(きばな)や持ち送りに彫刻を施した旧家があります、茶屋を営んだ近江屋跡です。

信濃金沢郵便局の先に二階連子格子の旧家があります、
旅籠松坂屋跡です、HOTEL松坂屋の看板を掲げています、明治に入っても旅籠を営んでいたのでしょう、味わい深いです。

松坂屋の向いにも、
木鼻に彫刻を施した旧家があります、やはり旅籠跡でしょう。
近江屋跡 松坂屋跡 松坂屋看板 木鼻彫刻の旧家

 宿並には民家が並び、単調な佇まいになっています。

右手に大きな明治中期建築の
横棟造りの旧家があります、馬方と馬が共に宿泊できた馬方宿跡です、建物前には馬つなぎ石があります。

向いにも
馬つなぎ石が残されています、人馬の往来が盛んであった証を今に伝えています。

金沢下町バス停先の左手に近世の
秋葉常夜燈があります、頂部に電灯が組み込まれた街燈になっています。
馬方宿跡 馬つなぎ石 馬つなぎ石 秋葉常夜燈

 秋葉常夜燈先の火の見ヤグラが聳える右手の小路に入ります、ここが下町旧道です。

スグに
Y字路が現れます、ここが高遠道追分です、左(黄色矢印)方向が高遠道です、この追分には宝暦八年(1758)建立の道標「左 たかとう道」があります。

旧道先の左手に
如意輪観音を安置した祠があります、ここが小松三郎左衛門が磔にされた刑場跡です、三郎左衛門は村民が涙で見守る中、刑場の露と消えました、時に三十四歳でした。
下町旧道 高遠道追分 追分道標 如意輪観音

 寛延二年(1749)町民は刑場跡に三郎左衛門を供養する地蔵を安置し、みょうり様と呼び崇敬しました。

しかしこの地蔵は
宮川の氾濫で流失した為(前述)、寛政十二年(1800)新たに如意輪観音が安置されました、今でも花が供えられ大事にされています。

先に進むと旧道は
宮川に突き当たります、左折して宮川沿いに進みます。宮川は入笠山に源を発し、流末は諏訪湖に注いでいます。

突き当たりに
石仏石塔群があります、道祖神地蔵魚供養塔等があります、ひと際大きい石塔が水神明王です、宮川は度々氾濫し甚大な被害をもたらしてきました、この宮川を鎮める為に、祀られています。

下諏訪方面からは
金沢橋を渡り、石仏石塔群の所を左折し、宮川沿いに進み、一本目を右折します。
石仏石塔群 水神明王

 今は金沢橋宮川を渡ります。

渡り詰から左(黄色矢印)に伸びる筋は
高遠道です、高遠藩の参勤の道筋でした、高遠の地を出ると、金沢峠を越えて、ここで甲州道中に合流しました。

道中は渡り詰を右折(白色矢印)します、これが金沢宿の
西枡形です。

突き当たりを左折します、次いで突き当たりのY字路を左折します。

これにて
枡形トレースの完了です。
金沢橋渡り詰 高遠道 枡形トレース 枡形トレース

 枡形から真っ直ぐに進むと矢ノ口交差点に出て、旧道は国道20号線に吸収されます。

この右手にあるのが茅野市史跡
権現の森です、サワラの古木を残しています。

森の中には承応三年(1654)建立の
金山大権現を祀る石祠が鎮座しています。

武田信玄が開発した
金鶏金山は南アルプスの北端にあり、金鉱脈がちょうど鶏が羽を広げた姿に似ているところから金鶏と命名されました。

武田家が滅亡すると、鉱夫達は
青柳宿に定着し、金山の守護神であった金山権現をこの地に遷座させました。
矢ノ口交差点 権現の森 金山権現

 境内には摩利支天、不動明王、御獄座王大権現、大六天、甲子、津島牛頭天王、坂東四国巡礼供養塔、如意輪観音、蚕玉大神、道祖神等、夥しい数の
石仏石塔があります、さながら神仏混合の森です。

 権現の森の先、森の口バス停の所から斜め左に入ります、青柳旧道です、この筋が旧道と断定はできませんが、最も旧道に近いといえます。

江戸から
甲府までの甲州道中が、下諏訪まで延長されたのは慶長十五年(1610)頃でした、この時に設立されたのが青柳宿です、この宿場は権現の森から北西に伸びた、この筋に符合します。

しかし度重なる
宮川の氾濫や慶安三年(1650)大火に見舞われ、翌年高所の現在地に移転し、金沢宿と改称されました。

青柳旧道に入ると御柱祭があしらわれたマンホールの蓋があります、 旧道を進むとT字路に突き当たります。
青柳旧道口 御柱マンホール蓋 T字路

 このT字路を右折(黄色矢印)すると、右手に諏訪社に因む御社宮司社(みしゃぐじ)が祀られています、諏訪大社の神長官守屋家の守護神です。 

国道20号線沿いに
食堂フジカ(0266-72-6601)があります、食堂が少ない道中ですから要チェックです。

道中は
T字路を左折(白色矢印)し、先を右折(白色矢印)します。

この先の筋が
旧道とは断定できませんが、この先にある金沢の一里塚跡との位置関係から判断しますと、かなり濃厚です。

車がほとんど通らない長閑な
田園の中を進みます。
御社宮司社 食堂フジカ 右折ポイント

 左手の奥に寒天の里大看板があります、海藻(かいそう)のテングサを煮た汁を固めたものが心太(ところてん)です、これを凍結乾燥させたものが寒天です。

この地は冬になると夜間の気温は零度以下に下がり、日中は晴朗な為、
寒天作りに適していました、以来農家の副業として盛んになりました。

旧道は
T字路に突き当たります、本来は直進し、金沢の一里塚前に通じていましたが、今は通行不可です。

それでは孤立した
金沢の一里塚を検証してみましょう、T字路を左折(黄色矢印)します、右折すると国道に出ます。

宮川万年橋で渡り、先のHOTEL虹色のメルヘンの先を右
寒天の里 T字路 虹色のメルヘン

折し、次いで一本目を右折します、要はホテルを回り込みます。


 正面にホテルの付属施設である三棟の二階建が望めたら正解です、一里塚跡碑はこの建物の裏にあります。

付属施設を過ぎると右手段上に
稚児神社が鎮座しています、稚児の霊を慰めています。

稚児神社先の右手高台に
一里塚跡碑があります、碑には「一里塚江戸日本橋より四十九里」と刻まれています。

金沢の一里塚は金沢宿地内で片塚でした、塚木は有りませんでした、江戸日本橋より数えて四十九里目です。

当時の
宮川は大きく蛇行し、道中も屈曲していました、 明治十八年(1855)の道路改修や明治三十八年(1905))の中央線の路線敷設工事等で、塚は取り壊されてしま
一里塚跡迂回路 稚児神社 一里塚跡

いました。


 それでは元に戻りましょう、今辿った道筋を素直に戻ります、先程のT字路を過ぎると、国道20号線に突き当たります、左折(白色矢印)し、国道に合流します。

この分岐点には
清水橋バス停があります、下諏訪方面からの重要な右折ポイントです。

国道20号線をモクモクと進むと左手に
石祠道祖神が祀られています、旧木舟(きぶね)に入り込む悪霊を見張っています、傍らの常夜燈は天保四年(1833)の建立です、 一里塚跡からの旧道は、この辺りに通じていたといいます。

木舟交差点を越すと、右手に浮彫の
地蔵尊が安置
国道20号線合流 道祖神&常夜燈 地蔵尊

されています。

地蔵尊の奥には、路地を跨ぐ火の見ヤグラが望めます。

木舟入口バス停を過ぎると、右手に
SUZUKIがあります、この手前をUターンして上り坂に入ります。

上り坂に入ると左手斜面に
庚申塔石倉大六天道祖神、正徳二年(1712)建立の馬頭観音像等が祀られています。

先をヘアピン状に回り込むと右手に御柱に囲まれた
石塔があります、不明です。
火の見ヤグラ 木舟分岐点 石仏石塔群 御柱&石塔

 坂を上り詰めると、跨線橋中央本線を越します。

道中は跨線橋を渡り、橋詰を左折(白色矢印)します、ここを右折(黄色矢印)して、草道を上ると貴船神社が鎮座しています。

貴船神社は
の神様ですから、濁らずにきふねと読みます、水を取扱う商の人々の信仰を集めています。

貴船木舟村との語呂合わせのような気もします。

旧道は中央本線に沿って進み、
阿久川宮澤橋で渡ると斜め右に進みます。

次いで
のぞみ大橋の高架下をくぐります。
中央本線跨線橋 貴船神社 宮澤橋

 道中は宮川に沿って進みます。

小早川を
小早川橋で渡ります。

先の左手には南無阿弥陀仏と刻まれた
名号碑と小さな馬頭観音像が安置されています。

早川早川橋で渡ると、宮川に沿う県道197号線払沢茅野線に突き当たります、ここを左折します。

この分岐点には
原村・向ケ丘案内表識があります、下諏訪方面からは十字路を右折し、早川橋を渡ります。
宮川 名号碑&馬頭尊 早川橋 中央本線ガード

 旧道は一旦
宮川から右に離れ、先でJR中央本線ガードをくぐります。

 再び宮川に沿って進むと、宮川坂室交差点に突き当たります、右折して国道20号線に合流します。

この交差点の右手には
秋葉山常夜燈出羽三山(羽黒山・湯殿山・月山大権現)三十三夜塔そして多数の馬頭観音等があります。

秋葉山常夜燈奥の急な石段を上ると、
石祠が二社鎮座しています、一方の石祠には御柱が四方に立っています。

更に坂道を上ると
三十七八年戦捷
宮川坂室交差点 石仏石塔群&常夜燈 石祠 戦捷記念碑

記念碑
があります、日露戦争の戦勝記念碑です。 当時は日露戦争とはいわず、明治三十七・三十八年戦役といいました。

 国道20号線を進むと、右手の斜面に掘り込まれた祠の中に石仏が三体安置されています。

弓振川建倉橋の歩道橋で渡ります、弓振(ゆみふり)川の流末は宮川に落合います。

御射山祭の神事である、御射山で狩りを行う一行は、この川で弓を清めました。

先の
酒室交差点から左に入ると丘上に観音堂がありましたが廃寺になりました、右(黄色矢印)に入ると
三体の石仏 建倉橋 弓振川 酒室交差点

室神社があります。

 酒室神社の祭神は酒解子(さけとくね)之神酒造の守護神です、御射山祭の際に濁酒(どぶろく)を造り、山の神に供える前夜祭が行われます。

本殿は文政八年(1825)大隅流による建築で、見事な彫刻が施されています。

境内の東隅には明治三十四年(1901)に発掘された
雨降り塚と呼ばれる古墳があります。

境内の倉庫には
めでどこが収納さ
酒室神社 酒室神社本殿 雨降り塚 めでどこ

れています。

 国道20号線をしばらくモクモクと歩きます、正面に中央自動車道高架が現れます。

手前右手の格子状コンクリート擁壁の升目の中に大正四年(1915)建立の
馬頭観世音文字塔が安置されています。

中央自動車道の茅
野橋をくぐって進むと、右手に東京から192kmポストがあります。

このポスト先右手の擁壁上の
草道を登ります。
中央自動車道 馬頭観音 192kmポスト 宮川古道口東

 草道を登り詰めると庚申塔不動明王馬頭観音、明和二年(1765)建立の奉納百番供養塔、そして中央にはひと際大きな月山羽黒山湯殿山大権現があります。

出羽三山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神です。

これらの石仏石塔群の裏に貴重な
甲州古道の痕跡を今に残しています。

江戸方面(黄色矢印)は行き止まりになっています、この先は
中央線の敷設で消滅しました。
石仏石塔群 宮川古道分岐 宮川古道(草道) 宮川古道(舗装路)

 それでは下諏訪方面に進んでみましょう、JR中央本線下の
草道を進みます、途中から舗装路になります。

 右手の丸石擁壁脇の石段の奥に茅野の一里塚跡標石があります。

両塚共茅野村地内で塚木は松でした、江戸日本橋より数えて五十里目です、
一里塚は明治十八年(1885)に民間に払い下げられ、取り壊されてしまいました。

甲州古道は元禄年間(1688~1704)頃に廃止となり、甲州道中が新設され一里塚は取り残されました。

古道を進むと左手に大小の
男女双体道祖神が祀られています。
一里塚跡口 一里塚跡標石 男女双体道祖神 宮川古道口西

 
古道は突当りの道中(県道)を右折(白色矢印)します、下諏訪方面からは4階建マンションの角に設置されている赤いホース格納庫4-2-A茅野区を左折し、甲州古道に入ります。

 右手宮川茅野区公民館の敷地に隣接する民家の庭内に善光寺如来五十度供養塔西國順礼供養塔があります。

宮川交差点は
三差路になっています、中央の県道197号払沢茅野線に入ります、下諏訪方面からは国道20号線韮崎富士見方向に進みます。

道中が右に大きくカーブすると左手に三輪神社があります、久寿年間(1154~55)の創建で、大和國三輪村三輪神社をこの地に迎えたものと伝えられています、宮川茅野、西茅野両区の
産土神です。

本殿は文化元年(1804)の建立、見事な彫刻が施されています、拝殿は文政三年(1820)の建立です。
供養塔 宮川交差点 三輪神社

 三輪神社の向いに細目(おかめ)神社が鎮座しています、祭神は天照大神が天岩戸に隠れたとき、岩戸の前で舞を舞った天鈿女命(あまのうずめ)です福の神といわれています。

鈿女の字を分けてみると金田女(かねため)となるため、貯金の神ともいわれます。

三輪神社社殿の裏手に
男女双体道祖神が祀られています、これは天鈿女命猿田彦神の組合せによるものといいます。

広場を挟んだ向かいに豪壮な三階建ての
宮川寒天蔵があります、地場産業として定着した寒天の保管庫でした。
鈿女神社 男女双体道祖神 宮川寒天蔵

 この地に慶長の頃、千野村が形成され、延宝六年(1678)に茅野村と改称され、間の宿として大いに栄えました。

駐車場は
名主を勤めた五味家跡です、敷地内と道中に面して明治天皇茅野御小休跡碑があります。

明治十三年(1880)明治天皇巡幸に際し、
五味家で一時間ほど休息しました。

この巡幸には
伏見宮、太政大臣三條実美、参議伊藤博文、同寺島宗則等が随行していました。

五味家門(H14/01/06撮影)はいずれかに移築されたのでしょうか、跡形もなく消え失せています。
明治天皇碑 五味家門 御小休跡碑

 五味家跡向いの丸井伊藤商店は創業百年の信州味噌醸造販売元です。

味噌の香りが充満する味噌蔵の奥に
貧乏神神社が鎮座しています、ここで厄を払い鈿女神社で福を授かります、先に鈿女神社をお参りしてしまうと、折角授かった福を貧乏神神社で落してしまいます、お気を付け下さい!

スグ先の
食事処やまとの所を右折(黄色矢印)すると右手に曹洞宗園通山宗湖寺があります。
丸井伊藤商店 貧乏神神社 宗湖寺 宗湖寺山門

 宗湖寺(そうこじ)の山門は
諏訪藩家老の邸門を移築したものです。

 宗湖寺は諏訪家の藩祖諏訪頼忠の菩提寺です、いよいよ諏訪氏の登場です。

天文十一年(1542)惣領家諏訪氏第十九代当主の
諏訪頼重武田信玄に捕らわれの身となり自害して果てました、これにより諏訪家は断絶となりました。

頼重の従兄弟
諏訪頼忠は武田家が滅亡すると挙兵し 諏訪の地を奪還しましたが、徳川家康に仕えると関東に移封となりました。

その後、
関ケ原の戦功により、諏訪の地を賜り、見事再興を果たしました。

境内には
明治天皇茅野御膳水碑があります、五味家
宗湖寺本堂 明治天皇御膳水碑 原祝神社

で休息した
明治天皇に献上した御膳水です。

道路を挟んだ向かいに
原祝神社が鎮座していますが、由緒は不明です。

 先の右手JA農産物直売所宮川店向いの左小路に入ると左手に国枝神社があります、由緒は不明です。

次いで浅川菓子店を左に入ると、桧皮葺の
稲荷神社が鎮座しています、実に味わい深い造りです。

スグ先が喰い違い十字路の
上川橋交差点です、手前を右手(黄色矢印)に入ってみましょう。

小路をグングン進み、JR中央本線ガードをくぐり、坂を上ると左手に
木落し公園があります。
国枝神社 稲荷神社 上川橋交差点 木落し

 信濃國一之宮と呼ばれる諏訪大社上社の本宮、前宮、下社の春宮、秋宮の二社四宮からなっています。

この
諏訪大社の最も勇壮で熱狂的な神事が御柱祭で、天下の大祭、奇祭として知られています。

御柱祭は申と寅の年にあたる七年毎に行われます。

ここは上社の
木落しが行われる木落し坂です、坂の長さは約37mで、最大斜度は27度の急傾斜です、めでどこに大勢の氏子を乗せて、木遣り一声、一気に急坂を下り「男見るなら七年一度 諏訪の木落とし坂落し」と唄われました。

その後、御柱は
上川川越しを行います。
木落し坂 川越し場 川越し

 上川橋交差点を左折(黄色矢印)する筋は、西街道と呼ばれ、上川橋が流失した時の迂回路でした。

上川交差点を直進(白色矢印)し、
上川上川橋で渡ります、上川は八ケ岳の丸山に源を発し、流末は諏訪湖に注ぎます、往時は茅野川と呼ばれました。

武田信玄は諏訪侵攻の際、この木落し場に陣を構え、対する諏訪頼重は上川を挟んで犬射原(いぬいばら)に陣を構えました、しかし圧倒的な軍事力の違いから退き、ついに桑原城で敗れて囚われの身となり、、甲府に送られ自害して果てました。

ちのの道中からは電柱が取り払われて、スッキリとした街並みになっています。
上川(かみがわ) ちのの街並み 姥塚古墳

 茅野駅前広場に
姥塚(うばづか)古墳碑があります、明治三十八年(1905)十一月、中央東線の開通にともなって、茅野停車場が設けられ、古墳は取り崩されました。

この古墳は水田の中にあった
円墳で、築造年代はおよそ八世紀末と推測されています。

 茅野駅前交差点には諏訪大社上社大鳥居が聳えています、鳥居の足元には官幣諏訪神社参拝道社標があります。

諏訪大社上社は諏訪湖の南西に位置し、本宮(ほんみや)と前宮(まえみや)の二社が鎮座しています。

大鳥居先の
茅野駅西口交差点Y字路になっています、道中は左(白色矢印)に進みます。

道中を進み、一本目を右折し、県道192号線を越えると
左手に大年社(おおとししゃ)があります、この神社は諏訪大社上社の末社で、四月二十七日御座石神社矢ケ崎祭りの日に濁酒(どぶろく)が奉納されます、鳥居は七年毎に建て替えられます。
上社大鳥居 茅野駅西口交差点 大年社

 道中に戻り、左(黄色矢印)の坂を下ると達屋酢蔵(たつやすくら)神社があります、この神社も諏訪大社上社の末社です、達屋社は大工の神、酢蔵社は酒造の神で、横内の産土神です。

当社の
御柱は、八ケ岳御小屋神林より曳き出す特権を有しています。

境内のケヤキは
上原葛井神社のケヤキに次いで市内で二番目の巨樹です。

道中に戻って進むと
上原交差点
達屋酢蔵神社口 達屋酢蔵神社 達屋酢蔵神社社殿 上原交差点分岐

国道20号線に合流します、下諏訪方面からは三又路になっています、中央の筋が甲州道中です。

 上原の地は鎌倉時代における上原城城下町で、諏訪信満以降、頼重の代まで、諏訪氏の居城として政治、経済、文化の中心地でした。

国道の右手には
ビーナスライン地下道のコンクリート製換気口があります。

上原八幡交差点を越すと、左手に
上原八幡宮が鎮座しています、当社は諏訪盛重鎌倉鶴岡八幡宮を勧請したものです。

江戸時代になると
高島藩主諏訪家の崇敬が篤く、参勤の際、藩主は当社までは騎馬、ここで下馬し道中安全祈願後、旅支度を整え、駕籠にて出府し、帰城の際も当社にて駕籠から騎馬に乗り換えたといわれています。

境内には
男女双体道祖神奉納六部供養塔、嘉永元年(1624)建立の秋葉山常夜燈等があります。
換気口 上原八幡宮

 上原八幡神社左手に光明寺跡碑が有ります、光明寺は上原八幡神社の別当寺でした、別当寺とは、神仏習合が許されていた江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺院のことです。

城下町には
鎌倉五山になぞらえて上原五山(光明寺、極楽寺、金剛寺、永明寺、法明寺)が建立されました。

上原八幡宮のスグ先の右手に上原五山真言宗智山派八幡山
極楽寺があります、上原五山で唯一現存している寺院です、当山も上原八幡宮の別当寺でした、境内には享和三年(1803)建立の南無阿弥陀仏名号碑があります。

先に進むと右手JA信州諏訪生活部の手前に
原田通り標石があります、城下町であった名残を今に伝えています。
光明寺跡 極楽寺 原田通り

 ENEOSを過ぎると右手に鍛冶小路標石があります。

小路に入ると右手に
金剛寺跡碑があります、実際の位置は碑から約50m東でした、上原五山の一つです。

そのまま直進し、JR中央本線を越して進むと正面に
千鹿頭(ちかとう)神社があります、狩の守護神で、上社御頭祭に奉納される鹿を供しています。

元に戻って、そのまま国道20号線を横断すると葛井神社社標があります、坂を下ると
葛井神社があります。
鍛冶小路 金剛寺跡 千鹿頭神社 葛井神社口

 葛井神社代々の神主であった九頭井太夫家には武田信玄の寄進状や朱印状を残しています、信玄の諏訪統治の貴重な資料です。

境内には
葛井の神池があります、古来諏訪七不思議の一つに数えられ、池に棲む魚は全て片目であるといわれています。

当社は古くから
諏訪大社の末社であり、前宮との関係は深く、諏訪大社上社の年中行事の最後の葛井の御手幣(みてぐら)送りの神事が行われます、 上社で一年間用いた、幣帛、榊、柳、柏等をいったん当社の御宝殿に納め、早朝(寅の刻)、葛井の神池に投げ込むと、翌朝には、遠州のさなぎの池に浮き上がるという伝承があります。
葛井神社 葛井の神池 千本欅(けやき)

 境内の
千本欅は葛井神社の御神木です、生きていれば推定樹齢七~八百年で、市内一の巨樹です。

再三に渡る
落雷失火等により、危険な状態となり、昭和四十九年(1974)に現在の高さで切り倒されました。

 道中に戻って進みます、上原公民館を過ぎると右手に茅野市消防團ちの分團第一部屯所の火の見ヤグラがあります。

そして新井バス停脇の石垣上に
塔所小路標石があります、足元には男女双体道祖神が祀られています。

この小路が
上原城址口です、それでは踏み込んでみましょう。

JR中央本線の
六区小路踏切を横断すると筆塚があります。

更に進むと
土道となり、案外の山道にな
上原城址口 塔所小路 男女双体道祖神 筆塚

ります、グングン登ると開けた所に出ます。


 上原城諏訪氏館跡碑があります、碑から南の平坦地一帯は諏訪氏の館跡です。

車道を越えると土道の登り坂先に
鳥居があります、ここが上原城址口です。

室町時代の文正元年(1466)頃、
諏訪信満が築城した山城です。

天文十一年(1542)
諏訪頼重武田信玄の猛攻を支え切れず、支城の桑原城に落ち延びました。

上原城が落城すると信玄の譜代家老の
板垣信方が諏訪郡代として入城し、武田家の信濃領国支配の拠点になりました。
上原城跡 諏訪氏館跡 上原城址口

 武田家が滅亡すると、
上原城は廃城となりました。

 塔所小路口に戻り、国道をそのまま横断して階段を下った先の左手に法明寺跡碑があります。

いわずと知れた
上原五山の一つです、碑の傍らには清水地蔵が鎮座しています。

道中を進むと上原北交差点の十字路になります、左手が
片羽通りで右手が播磨小路です。

先の左手に
上ノ御社宮神(みしゃぐち)があります、御社宮司社は諏訪大社の神長官守屋家の守護神です。
法明寺跡 片羽通り 播磨小路 上ノ御社宮神

 境内には天然記念物土橋祝殿大欅之跡碑があります。

頼岳寺下バス停を過ぎると
上原頼岳寺交差点の変則十字路になります。

この十字路を右折(黄色矢印)すると
頼岳寺ですが、この先から入りますのでやり過ごします。

変則十字路の左手には
番匠川通り標石があります。

スグ先の左手奥に
ケヤキが聳えています、根方に下ノ御社宮神が鎮座
大欅之跡碑 頼岳寺口 番匠川通り 下ノ御社宮神

しています。


 スグ先を右折(白色矢印)します、この分岐点にはスバル自動車販売店及び甲州街道渋沢小路標石があります。

渋沢小路に入り右手に
茅野上原郵便局があれば正解です。

JR中央本線ガードをくぐります。

旧道は次第に上り坂になり、大きく左にカーブし
、大門追分のT字路に突き当たります。

追分には
道標常夜燈があります。
渋沢小路分岐 渋沢小路 大門道追分 道標&常夜燈

 大きな道標には
右江戸道、小さな道標には右江戸道 左山浦道、常夜燈には右東京迄 左大門道と刻まれています。

 大門追分の左(白色矢印)が道中です、ここを右(黄色矢印)の大門道を進むと頼岳寺があります。

山門をくぐると参道は重厚な杉並木になっています、杉並木を進むと左手の池の上に芭蕉句碑「名月や 池を巡りて 終夜(よもすがら)」があります。

曹洞宗少林山
頼岳寺は寛永八年(1631)高島藩の初代藩主諏訪頼水の開基で、諏訪家の菩提寺です。

諏訪頼重が死去すると諏訪氏宗家は断絶してしまいました、頼重の従兄弟諏訪頼忠徳川家康に仕え大名として復権し、諏訪氏を再興しました。

そして頼忠の子諏訪
頼水は関ケ原の戦功により高島
頼岳寺山門 芭蕉句碑 頼岳寺本堂

に封じられ、諏訪の地に戻り、明治維新まで存続しました。

 本堂の裏山に諏訪氏頼岳寺廟所があります、廟所は三室に分かれています。

中央が頼水の父
頼忠(永明寺殿)で、右が頼忠夫人(理昌院殿)です、塔婆はともに五輪塔と宝篋印塔です。

左側が子の
頼水(頼岳寺殿)で、家形の石造一重塔が安置されています。

廟墓には三代藩主
忠晴の早逝した二人の子、大祝家二の丸家の墓があります。

高島藩二代目藩主
忠恒は上諏訪の温泉寺を菩提寺とした為、以降の歴代藩主の墓は温
諏訪氏頼岳寺廟所 頼岳寺殿 永明寺殿 理昌院殿

泉寺にあります。


 大門道に戻ると、スグ先の右手に遊女小路標石があります、その名の通り遊郭でもあったのでしょう。

上原城下の標石群もここ迄です、小路口には
金山大権現を祀る石祠があります、御柱が四方に立っています。

道中に戻りましょう、大門追分を過ぎると、 右手に甲州道中標石があります、いよいよ茅野市から諏訪市に入ります。

二本目の十字路の右手奥に
姫宮神社があります、フェンスの無い急な石段を上ると丘上に小さな石塔群があります。
遊女小路 遊女小路標石 甲州道中標石 姫宮神社

 道中を進むと、手入れの行き届いた赤松の右手に常夜燈があります、竿石の四面には葉山、白雲山、象頭山、日本之総神が刻まれています。

次いで右手に
火燈(ひとぼし)公園があります、御柱年の盆(七月十五日)の夕方、頼重院の裏山、前山の峰に近い火燈場で、諏訪大社への鳥居火を灯して、奉納する神事が行われます。

公園先の右手に曹洞宗神向山
常夜燈 火燈公園 頼重公廟所碑 頼重院

頼重院があります。

 参道口には上原城主諏訪頼重公廟所碑があります、頼重院は諏訪頼重の菩提寺です、本堂の左手には頼重の供養塔があります。

頼重の正室は
武田信虎(信玄の父)の娘(信玄の妹)です、従って信玄は義理の兄になります。

天文十一年(1542)
諏訪頼重はこの信玄の諏訪侵攻を受け、捕らわれの身となり、甲府の地で自刃させられました。

家臣が
頼重の遺髪を持ち帰り、密かに菩提寺の頼重院に葬りました。

因縁でしょうか、信玄の側室である
諏訪御料人は頼重の娘で、武田勝頼の母です、この勝頼も自刃の道を歩んでいます。

供養塔の傍らには
新田次郎句碑「陽炎(かげろう)や 頼重の無念 ゆらゆらと」
頼重公供養塔 新田次郎句碑

があります。


 街道に戻ると左手に神戸公民館、そして右手に地元専用の神戸温泉があります。

この先の右手奥に
常夜燈男女双体道祖神があります、常夜燈には秋葉山大権現と刻まれています。

次いで左手に小さな神社があります、地元の人は
神の木(ごうのき)神社と呼んでいます、橡(とち)の木に降臨する勧請木を祀っています。

右手に一里塚バス停があります、この左手に
一里塚跡碑があります、神戸の一里塚跡です。

神戸村地内で片塚、塚木は
(つき)でした、江戸日本橋より数えて五十一里目です。
常夜燈&道祖神 神の木神社 一里塚跡

 右手の木工所先の消防用ホース格納庫手前を右に入ると曹洞宗無量山地蔵院があります。

参道口には
常夜燈地蔵尊南無阿弥陀仏名号碑庚申塔二十三夜塔等が並んでいます。

地蔵院は往時地蔵堂と呼ばれました、享保十五年(1730)の創建です、それより前には青竜寺があったと伝わっています。

境内の
カツラは青龍寺創建当時からのもので諏訪市内最大です(諏訪市指定天然記念物)。

道中に戻って進むと左手の半鐘ヤグラの所にユニークな
常夜燈があります、火入れの部分が木製になっ
地蔵院 カツラ 常夜燈

ています。


 食糧品店の椛屋の所を右(黄色矢印)に入ると石造鳥居があります、濱家天白堂です、境内の隅には御柱が立っています。

左手(黄色矢印)からの筋は
西街道です、茅野川(上川)に架かる上川橋が流失した際の脇街道(迂回路)で、ここで甲州道中に合流しました。

立畷川バス停先の左手には
秋葉山常夜燈道標「左江戸みち 左大明神江」があります。

道中沿いには信州特有の
雀返し(雀
西街道 濱家天白堂 常夜燈&道標 雀返し

おどり)と呼ばれる
棟飾りの旧家があります。

 霧ケ峰入口交差点手前の右の小山が桑原城跡です。

信玄の猛攻に対して
諏訪頼重上原城を自ら焼き払い、桑原城に籠城しました。

すでに戦意を喪失した頼重は、
武田信玄の和睦の申し出に応じてしまい、信玄に伴われて躑躅ケ崎に同行し、東光寺に幽閉され、謀られたと気付いた時はすでに遅く、自刃に追い込まれてしまいました、これにて名門諏訪氏惣領家は滅亡となりました。

霧ケ峰入口交差点を越すと左手に石塔がありますが、判読不明です。

先の右手に
足長神社の参道口があります、優美な木造
桑原城跡 石塔 足長神社参道口

御神燈が対で配されています。

 諏訪大社の祭神に随従する足長彦神を祀っています、上桑原村の産土神です。

拝殿は天保十三年(1842)の建立、舞屋(神楽殿)は文久二年(1862)の建立で、本殿同様に見事な彫刻が施されています。

街道を進むと右手に石祠に納まった
男女双体道祖神があり、その後ろには秋葉山石塔が祀られています。
足長神社社殿 舞屋 道祖神&秋葉山 道祖神&秋葉山

 次いで
赤津川を渡ると、同様に男女双体道祖神秋葉山石塔が祀られています、いずれも旧村境だったのでしょう。

 庭木の手入れが行き届いた家並みが連なる道中を進むと、右手の岩窪観音前バス停の所に石仏石塔があり、奥には楽聖バッハのようなヘアースタイルに見える岩久保観音碑があります。

それでは踏み込んでみましょう、土道の参道を登ります、参道脇には
二十三夜塔等があります。

上り詰めると
仁王門があります、これが何とも素晴らしい!質素で素朴なところが実に良い!!

岩久保観音は元古岩久保にありました、寛政四年(1792)ここに移し、古岩久保観音堂の逗子格天井を移設して、翌年上棟しました。
岩久保観音碑 岩久保観音仁王門 岩久保観音堂

 左手の火の見ヤグラを過ぎると下道に合流します細久保分岐です。

この分岐点には
林家記恩碑(黄色丸囲み)があります、下諏訪方面からの重要な分岐ポイントです。

旧道細久保バス停を過ぎると右手の 武津公民館の前に
男女双体道祖神があります、装束からみて祝言道祖神です、傍らには秋葉山石塔があります。

秋葉山石塔の後ろに
銘石こんぼった石があります、昔、ここに諏訪湖の入り江があり鷹津と呼ばれ、後に竹津となり、
細久保分岐 林家記恩碑 常夜燈&秋葉山碑 銘石こんぼった石

いつしか
武津(たけつ)となりました。

この石は舟の
舫石(もやいいし)でした、漁に出た親を子供達がこの石の所で、帰りを待っていたところからこんぼっこ石と呼ばれました。

 旧道赤羽根(あかはね)バス停を過ぎると国道20号線に合流します、ここが赤羽根分岐です。

この分岐点には
堀内石材工業があります、下諏訪方面からの重要な分岐ポイントです。

合流したスグ先の左手が
清水旧道の東口です。

石段を下って旧道に入ると、
道幅は往時のままです。

旧道はスグに
清水1・2丁目交差点
赤羽分岐 清水旧道東口 清水旧道 清水旧道西口

出て、再び
国道20号線に合流します。

下諏訪方面からは清水1・2丁目交差点から
火の見ヤグラ左の清水旧道に入ります。

 交差点右の細道に入ってみましょう、スグに清水町の清水が湧いています、庶民用の清水でした。

更に進むと
殿様御膳水があります、高島城に藩主が在城の際は、この清水を用立てました。

この清水は明治天皇巡幸の際、供され
秋葉御膳水と呼ばれました。

明治天皇御膳水碑の奥が秋葉神社です、境内に踏み込むとその偉容に圧倒されます、巨樹の根方に四社が埋め込まれています。
清水町清水 殿様御膳水 明治天皇御膳水 秋葉神社

向かって左から不詳、
石尊大権現秋葉大権現妙義大権現です。

 道中に戻って進むと、左手に重厚な蔵造りの呉服商かねさがあります、暖簾には大工道具の曲尺(かねじゃく)にの屋号が染め抜かれています。

向いには江戸時代創業の
染一染物店があります、この辺りはかつて染色に必要な湧水が豊富で、染め物店が軒を連ねていました。

右手に
角間天神社があります、天保十二年(1841)の創建で、いわずと知れた学問の神です。
かねさ呉服店 染一染物店 角間天神社 銘酒真澄

 天神社の向いが銘酒
真澄の蔵元宮坂酒造です、寛文二年(1662)の創業で高島藩の御用酒屋を勤めました。

真澄の名は諏訪大社の宝物の真澄の鏡を由来としています。

 PM 4:23 上諏訪宿着 下諏訪宿まで 5.9km

 元町交差点辺りが上諏訪宿の東口です、上諏訪宿に到着です!

上諏訪宿は
諏訪大社の門前町、そして高島藩諏訪氏三万石の城下町として栄えた宿場です。

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると上諏訪宿宿内家数は二百三十二軒、うち本陣一、問屋一、旅籠小十四軒で、宿内人口は九百七十三人(男四百八十八人、女四百八十五人)でした。

宿並商人町の清水町、角間町、上町、中町、そして武家町の本町、片羽で構成され、宿長は五町(約545m)でした。

元町交差点の所から
二筋に分かれます、両筋とも上諏訪の宿並です。

この分岐点に
十王堂跡碑があります、高島藩の初代藩主諏訪頼水の娘
元町交差点 十王堂跡碑

は嫁ぎ先で書状を下男に託したところ、日頃から折り合いの悪い下男は書状を川に捨て、永明寺に駆け込みました、頼水は下男の引渡しを寺に要求しましたが、寺がこれを拒否したため寺を焼き払い下男の首を刎ね、ここに捨てました。

町人達は祟りを恐れ、お堂を建立して亡者の裁きをする十王をここに祀りました。

 右手の裏通りを進んでみましょう、角間川木の下橋で渡ると、右手に浄土宗迎冬山(こうとうざん)貞松院(ていしょういん)があります、文禄二年(1593)高島藩初代藩主諏訪頼水の開基で、当初慈雲寺と称しました。

頼水の正室は三河岡崎藩の初代藩主
本多康重の息女で、天正十一年(1583)家康のお声がかりで、頼水の夫人となりました。

夫人はつとに
良妻賢母の誉れが高く、高島藩三百年の安泰の基礎固めに果たした内助の功は多大であったといいます。

正保二年(1645)夫人が没すると、嫡男の二代目藩主
諏訪忠恒は遺言により母を当寺に葬り、追善の為に伽藍を修復し、多大の寄進をして母を中興開基に定めました。

その際に、戒名の
貞松院殿に因んで寺号を貞松院に改称しました。
貞松院 貞松院殿御墓所

 貞松院の墓所には松平忠輝の墓があります、忠輝は文禄元年(1592)江戸城にて出生しました、家康の六男で母は茶阿の方です。

三河松平家を継ぎ、十九歳にして越後高田六十一万石の大名となりました、しかし大坂夏の陣に際しては、大和から大阪に攻め入る総大将を命じられていたにもかかわらず、遅参し戦には参戦できませんでした。

にもかかわらず
大坂城を所望したため、家康の怒りに触れ改易となりました。

忠輝は諸国を転々とした後、
諏訪頼水の預りとなり、高島城南の丸に幽閉され、天和三年(1683)九十三歳で亡くなりました。

貞松院の右側の路地を更に入ると右手に浄土宗手長山二尊教院
法光寺があります、上原五山の法明寺光明寺が合併し、法光寺になったものです、諏訪百番霊場西三十番札所です、境内には見事な枝垂れ桜があります。
松平忠輝墓 法光寺

 路地を更に、奥に進むと浄土宗正願寺があります、河合曽良の菩提寺です、 境内には曽良像、墓所には曽良の墓があります。

河合曽良は慶安二年(1649)諏訪下桑原高野七兵衛を父として出生し、長じて俳聖松尾芭蕉の門人となり、元禄二年(1689)三月、江戸深川から東北北陸を巡り、岐阜大垣までの約五ケ月間、全行程六百里の旅を師芭蕉と共に踏破し、この旅に基づいて著されたのが奥の細道です、曽良は芭蕉文学大成の一端を担っていました。

晩年は
幕府巡見使として、九州壱岐勝本に渡るが病に倒れ、宝永七年(1710)五月二十二日客死、享年六十二歳でした、時世の句は「春にわれ 乞食やめても 筑紫かな」です。
正願寺 曽良像 曽良の墓

 裏通りに戻ると、貞松院の隣に日蓮宗宣妙山高国寺があります、寛永元年(1624)の創建で、後に高島藩三目代藩主諏訪忠晴の母永高院によって再興されました。

サア、この辺りで一旦
元町交差点に戻って、今度は表通りを進んでみましょう。

角間川を今度は角間橋で渡ります、スグ先を左に入ると八釼(やつるぎ)神社があります、高島藩諏訪家の居城鎮護の神として篤く崇敬されました。

諏訪湖は厳冬期になると全面結氷し、突然亀裂が生じ、氷が盛り上がる現象を起こします、これを御神渡り(おみわたり)と呼びます。
高国寺仁王門 高国寺本堂 八剱神社

 当社はこの
諏訪湖御渡神事(みわたりしんじ)を担っています、御神渡りが生じると八釼神社の神職が検分し、その結果御神渡りの生じた方向により、農作物の作柄や世の中の吉兆等が占われ、諏訪大社上社に注進されます。

諏訪大社はこの内容を朝廷(現宮内庁)と幕府(現気象庁)に報告するのが恒例です。

 八釼神社の隣が真言宗八釼山甲立寺です、八釼神社の別当寺でした。

武田信玄が再興し、日根野高吉によって現在地に移され、代々高島藩主家の祈願所として帰依を受けた寺です。

甲立寺の山門や本堂には高島藩主諏訪家の
家紋を染め抜いた幔幕が張られています、諏訪大社上社の神紋梶の葉です、この梶の葉を丸で囲ったのが諏訪家の家紋です。

因みに
諏訪大社下社の神紋は梶の葉の根が五本です。
甲立寺 上社神紋「諏訪梶の葉」 銘酒本金

 宿並に戻ると宝暦六年(1765)創業の銘酒
本金の蔵元酒ぬのや本金酒造があります。

 向いには銘酒横笛の蔵元伊東酒造があります、仕込みの水は霧ヶ峰高原の伏流水を使用しています。

その名もズバリの
鍵之手交差点があります、枡形跡です。

この鍵之手交差点を左に入ると浄土宗源海山高島院
教念寺があります、絹本著色羅漢像は国指定重要文化財です。

宿並に戻ると右手に銘酒
麗人の蔵元麗人酒造があります。
銘酒横笛 枡形 教念寺 銘酒麗人

 寛政元年(1789)の創業です。


 次いで右手に銘酒舞姫の蔵元舞姫酒造があります、明治二十七年(1894)の創業です。

諏訪1・2丁目交差点の右手に
上諏訪町道路元標があります。

交差点右手の諏訪中央駐車場の辺りが
問屋場跡(標識)です、貞亨二年(1685)以降は代々小平家問屋を勤め、本陣を兼ねました。

交差点を右に入ると左手に
精進湯が現役で残っています、諏訪四湯(虫湯、小和田の平湯、湯の脇の平湯
銘酒舞姫 問屋場跡 道路元標 精進湯

)の一つです、先にある
手長神社の参拝者が、この湯で潔斎したところから精進湯と呼ばれました。

※ 残念ながら
精進湯は平成二十九年三月三十一日を以って営業終了となります!

 諏訪1・2丁目交差点を左に入り、しばらく進むと高島城があります。

慶長三年(1598)豊臣秀吉の家臣
日根野高吉によって築城されました。

関ケ原の合戦の翌年日野根氏は下野国
壬生藩に転封となり、代わって諏訪頼水が入封し、十代藩主諏訪忠礼(ただあや)に至る迄、二百七十年の間、諏訪氏の居城として偉容を誇っていました。

かつては
諏訪湖に突き出した水城で諏訪の浮城と呼ばれましたが、諏訪湖の干拓により、その面影は失われてしまいました。
高島城口 高島城天守 冠木橋

 明治八年(1875)
廃藩置県によって天守閣は撤去されましたが、昭和四十五年(1970)に復興されました。

 諏訪1・2丁目交差点のスグ先の右手に三村貴金属店があります、建物は登録有形文化財(建築物)です。

先に進み、
諏訪1丁目交差点を左折すると、JR中央本線踏切の手前左手に明治聖園があります。

ここは
高島城柳口御役所跡です、高島藩の民政の窓口で、村役人を呼び出し、命令伝達やお白洲(裁所)を行った場所です。

園内には
明治天皇上諏訪行在所趾碑明治天皇御製歌碑があります。

明治十三年(1880)ここに
高島学校が竣工し、明治天皇巡幸の際に行在所となりました。
三村貴金属店 明治天皇碑 明治天皇歌碑

 諏訪1丁目交差点を右折します。

この交差点の
八十二銀行の所に史跡虫湯跡碑があります、虫湯は蒸湯とも呼ばれ、武家専用で、高島藩主もこの湯で入浴潔斎の後、寺社に参詣したといいます。

宿並は
T字路に突き当たります、ここが裏通りとの合流点です。

道中は左折しますが、右折すると左手の高台に手長神社があります。

手長神社は中世には
下桑原鎮守とし
諏訪1丁目交差点 虫湯跡 上諏訪宿西口 手長神社

て知られ、近世には
高島城の鬼門の鎮護神として崇敬されました。

 合流点に戻り、道中を進むと右手の諏訪教育会館の敷地内に細川隼人松があります、細川隼人は富士見村に生まれ、地方史家として活躍し、諏訪郡史編纂主任として諏訪史の編集刊行に尽力しました。

向いに明治時代初期に建てられた、
元医家があります、今は石の花という喫茶店になっています、モーニング、ランチがあります。

スグ先の片羽保育園に
吉田のマツがあります、樹種はクロマツです。

高島藩士吉田式部彦衛門が元禄三年(1690)から享保八年(1723)の間、四代藩主諏訪忠虎の大坂城守備に随行した際に持ち帰ったものです。
細川隼人松 石の花 吉田のマツ

 先の左手に一里塚跡碑があります、下桑原の一里塚跡です、両塚共下桑原村地内で西の塚木は榎、東の塚木は有りませんでした、江戸日本橋より数えて五十二里目です。

一里塚跡碑の向いには用水があり、奥に
水神が祀られています。

右手の崖の中腹に
馬頭観世音文字塔が安置されています。

道中が大きく右に回り込むと、左手に
指月庵(しげつあん)があります、高島藩主は菩提寺である温泉寺墓参りの際に、
一里塚跡 水神 馬頭観音 指月庵

で入浴潔斎し、ここを休憩所としました、は諏訪市文化財指定庭園です。

 指月庵の前がY字路になっています、左は道中です、右(黄色矢印)の登り坂は臨済宗妙心寺派温泉寺(おんせんじ)への参道です、それではお参りしましょう。

温泉寺は慶安二年(1649)、高島藩二代目藩主諏訪忠恒により諏訪家の菩提寺として創建されました。

山門には諏訪大社上社の神紋
四根の梶の葉を丸で囲んだ諏訪家家紋をあしらった幔幕が張られています。

山門(薬医門)は明治三年(1870)の火災で焼失し、後に高島城城門が移築されました。

本堂も山門同様に火災で焼失し、文政十年(1827)高島藩八代目藩主諏訪忠恕(ただみち)の時に、城内に
温泉寺参道口 温泉寺山門 本堂

あった
能舞台を移築したものです。

 温泉寺の梵鐘は永享二年(1430)の鋳造で、元は伊奈郡市田村の安養寺のものでした、天正十年(1582)織田信忠(織田信長の嫡男)の軍がこの鐘を略奪し、武田信玄を攻める際の陣鐘としたものです。

放置された鐘を
温泉寺創建にあたり、流用したものです、鐘銘は長い道のりを引きずってきたため磨滅しています。

ここで一旦温泉寺境内から右手に出て、
山道を登ると、枝垂れ桜の老木があります、二代目藩主忠恒が慶長二十年(1615)大阪夏の陣に出陣し、戦勝凱旋の際に持ち帰り、廟所の参道に桜大門として植樹したものです。

桜大門を登ると左手奥に
和泉式部の墓があります、和泉式部は下諏訪の出身といわれています。
梵鐘 枝垂れ桜 和泉式部の墓

 桜大門の突き当たりに高島藩主廟所があります、正面に仮御霊屋(かりおたまや)があります、中には二代目藩主忠恒の墓碑を納めています。

御霊屋の右側には四代目
忠虎、三代目忠晴、六代目忠厚、八代目忠恕(ただみち)の墓碑が並んでいます。

仮御霊屋の左側には五代目
忠林(ただとき)、七代目忠粛(ただたか)の墓碑が並んでいます。
高島藩主廟所 向かって左側 仮御霊屋 向かって右側

 ふれあいの家バス停先の右手奥に児玉石神社があります、下桑原の鎮守です。

境内にある五個の大石は
諏訪七石の一つに数えられ、拝殿前にある二個の大石は神社のシンボルでいぼ石と呼ばれています、大石の凹に溜った水でイボを洗うと治ると伝わっています。

境内の樹齢二百五十年の
大杉御神木です。

道中に戻って進むと、右手奥に
白山
児玉石神社大石 児玉石神社大杉 白山神社 全快地蔵尊

神社があります、日本三霊山の一つ白山に対する山岳信仰です。

急な参道階段を登ると
全快地蔵尊があります、病平癒に御利益がある、有難いお地蔵様です、それでは合掌!

 湯の脇から大和に入ると右手に先宮神社があります、良く見ると参道口の用水にが架かっていません、それは諏訪大社の神がこの地に鎮座した際、当社の神が抵抗した為、以降、境内から出ることは許されず、今でも神社前の用水に橋が架けられていないのです、面白い由緒ですね。

拝殿横の
大ケヤキは樹齢六百九十年以上の古木です、幹には異様なコブが数か所出来ています。

神社境内の街道際に寛永五年(1628)建立の
男女双体道祖神が祀られています。

正月にこの場所で
諏訪湖の鯉が奉納される、神事が執り行われます。
先宮神社参道口 先宮神社大ケヤキ 男女双体道祖神

 道祖神脇の路地を山側に入ると、突き当たりの筋は
旧鎌倉街道との解説があります、興味深いですね。

 火の用心と大書きされた火の見ヤグラを過ぎると、左手の諏訪市消防団第一分団第一部と武居屋酒店の間に大ケヤキがあります。

ケヤキの裏側に回ると、驚いたことに
空洞で、幹の皮を残すのみです、まるで能面の様です、恐らく落雷にやられたのでしょう。

ここには小さな
甲州街道標石、津島牛頭天王男女双体道祖神、諏訪大社宮司神朝臣守矢真幸拝書の慰霊碑があります。

次いで右手に浄土宗清谷山
寿量院があります、以前は味わいのある茅葺き屋根の本堂でしたが、建て直されました。
大ケヤキ 甲州街道 大ケヤキの裏側 寿量院

 道中を進むと右手に素朴な常夜燈があります、北村中と刻まれています、天保十年(1839)の建立です。

諏訪市大和からいよいよ諏訪郡下諏訪町に入ります、旅館野路を過ぎると、左手に棚田が広がります、水田になると一層見事な景観になります、今までは垣間見えていた諏訪湖が、ここで初めて棚田の上に全景を現わします。

街道を進むと左手に
茶屋橋本屋跡があります、桁には鯉の彫刻が施されています、諏訪湖で獲れた鯉の料
常夜燈 棚田 茶屋橋本屋跡 鯉の彫刻

理が名物で、高島藩主もここまで出向き賞味したといいます。

建物左手の門は
高島城三の丸門を移築したものです。

 橋本屋向いの段上に男女双体道祖神が祀られています、夫婦仲が良ければ悪霊の入り込む余地が無いことを意味しています。

道祖神奥に
元気もりぞうがあります、郵便ポストを木で覆って、顔のオブジェになっています、がんばろう日本の鉢巻をしています。

正面左手に
火の見ヤグラが見えると、手前の左手に小さな社があります、道祖神かもしれません。

火の見ヤグラの所に下諏訪町消防団第五分団屯所があり、向いに
男女双体道祖神があります。
道祖神 元気もりぞう 道祖神 男女双体道祖神

 火の見ヤグラのある十字路を右に入ると山王竒五社神社があります。

十字路から先に進むと、右手の小路奥に
島木赤彦の家があります、赤彦は明治三十年(1897)久保田家の養嗣子となり、大正十五年(1926)三月死去するまで、この家を根拠に活動をしました、庭の赤松は樹齢三百余年です。

赤彦住居跡から更に
路地を奥に進んでみましょう。
山王竒五社神社 島木赤彦住居 赤松 路地奥

 何と鎌倉街道標石があります、先宮神社辺りから続いているのでしょう。

路地の突き当たりに
高木津島神社があります、高木村の鎮守です。

織田信長、豊臣秀吉、尾張松平家の庇護を受け、
疫病除け神社として崇敬をあつめていました。

神社左の山の麓に
島木赤彦の墓、そして隣りに久保田不二子の墓があります、赤彦は久保田家のムコ養子だったのです。
鎌倉街道 高木津島神社 島木赤彦の墓

 諏訪湖を左に見ながら道中を進むと、山側に南信八名所石投場碑があります、 往時は諏訪湖が真下まで迫っていました、旅人は湖面に石を投げ、打ち興じたといいます。

並びに
明治天皇駐輦(ちゅうれん)址碑があります、明治十三年(1880)明治天皇巡幸の折、ここから漁師達の投網を上覧しました。

高木から富部に入ると一里塚跡碑があります、富部の一里塚跡です、両塚共富部村地内で塚木はでした、江戸日本橋より五十三里目です。
石投場碑 明治天皇碑 現風景 一里塚跡碑

そして
甲州道中最後の一里塚です、下諏訪宿迄は残り十一町(約1.1km)です。

 道中を進むと右手に若宮神社の社標があります、社殿は山中に鎮座しています、諏訪大社の小宮の一社で、七年に一度御柱祭が執り行われます。

承知川承知橋で渡ります、伝承によると永禄四年(1561)武田信玄川中島の戦いに挑む際、諏訪大明神と千手観音に戦勝を祈願し、社殿の建替と千手堂に三重の塔の建立を約して出陣しました。

しかし戦に利あらず帰途この橋を通過せんとしたが、乗馬は頑として動かず信玄はふと先の約定を思い出し、馬上より下りて跪き、「神のお告げ
承知仕り候」といって、帰国しました、以来承知川と呼ばれるようになったといいます。

承知川を渡ると富部から久保海道に入ります。
若宮神社 承知川 承知川橋石

 右手の久保海道公会所の
擁壁に旧承知橋の一枚岩が組み込まれ、保管されています。

この一枚岩の
煉瓦模様は滑り止めとも、又信玄の埋蔵金の隠し図ともいわれています。

 橋石の並びの擁壁内に承知地蔵尊が安置されています、明治の中頃、村民総出の道普請の際、承知橋付近から掘り出され、承知地蔵と呼ばれここに安置されました。

道中は大きく右にカーブし、上り坂になります、十字路を右折し、右手の石段を上ると
ホテル山王閣があります、このホテル山王閣の敷地は霞ケ城跡(かすみがじょう、手塚城)です。

ホテルの駐車場には城主の
手塚別当金刺光盛像があります、寿永二年(1183)木曽義仲火牛の計(かぎゅうのけい)の奇襲戦法で知れた倶利伽羅峠(くりからとうげ)の合戦に源氏方で参戦しました。

つづく
加賀篠原の戦いでは、敗走する平家軍の中にあって、ただ一騎踏みとどまって奮戦する武将斉藤別当実盛と一騎打ちに及び、その際古式に則った見事な一騎打ちは武士道の鑑とされ、能実盛の題材になっています。
承知地蔵尊 金刺光盛像

 激闘の末、光盛がその首を討ち取るが、その人こそ、幼少の義仲(駒王丸)の命の恩人であり、義仲が号泣する戦乱の世の悲劇としても知られています。

光盛は木曽義仲に従い平氏を討った後、
粟津ケ原で義仲と共に戦死しました。

道中を上り詰めると、左手のそば処みやさかの裏手に
専女の欅(とうめのけやき)があります、樹齢約千年です。

諏訪社外苑の
専女社内にあり、秋宮社叢の一部で町内有数の巨木です、芽吹きや紅葉で気候を占った陽気木としても知られています。

右手が
諏訪大社下社秋宮です、参道前には屋台が並び、老若男女の参詣者で賑わっています。
専女の欅 諏訪大社下社秋宮前

 諏訪大社下社秋宮の祭神は大国主神の子神建御名方神(たけみなかたのかみ)と妃八坂刀売神(やさかとめのかみ)です。

我国最古の神社の一つであり、
信濃の国造りをしたのち、日本国土の守護神として、この地に鎮座しました。

御柱は七年毎の申・寅年に御宝殿の造営と共に立て替えられる御神木で、社殿の四隅に立てます。

三方切妻造りの
神楽殿は天保六年(1835)の建立、社殿は安永十年(1
諏訪大社下社秋宮 神楽殿 社 殿 御 柱

781)の建立です。


 PM 5:46 下諏訪 終点着

 それでは甲州道中最後の下諏訪旧道トレースに取り掛かりましょう、国道142号線を進まず、大鳥居手水場の間に入ります。

突き当たりに
番屋跡碑があります、下諏訪宿は甲州道中口と中山道口に番屋が設置されていました、下諏訪宿に到着です!

下諏訪宿は諏訪大社下社の門前町として古から栄え、中山道との追分を控え、中山道唯一の温泉場として大いに賑わいました。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によれば、下諏訪宿宿内家数は三百十五軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠四十軒で、宿内人口は千三百四十五人(男七百六人、女六百三十九人)、宿並は七町四十三間(約787m)でした。

突当りの
番屋跡を左折します。
下諏訪旧道口 左折ポイント 番屋跡

 旧道は明治六年(1873)創業の下諏訪名物塩羊羹の老舗新鶴の前に出ます。

新鶴は幕末尊皇派で南画家の
天龍道人の住居跡です、肥前出身の道人は後半生をこの地で過ごしました。

ここで初めて
旧道国道142号線に合流します。

スグ先の聴泉閣かめや看板の根方に、
下諏訪宿甲州道中中山道合流之地と刻まれた碑があります、ここが甲州道中の終点です、無事到着です!
下諏訪の旧道トレース 新鶴 塩羊羹 天龍道人住跡 甲州道中終点碑

 この終点の所が問屋場跡です、駐車場の奥に問屋場趾碑があります、碑面には甲州道中終点 右江戸へ五十三里十一丁 中山道下諏訪宿問屋場趾 左江戸より五十五里七丁 正面京都へ七十七里三丁と刻まれています。

ここには
下諏訪三名泉(児湯、旦過の湯)のひとつ綿の湯碑があります、下社に由来する綿の湯はやましい者が入ると神の怒りに触れて、湯口が濁ったといいます。

往時は各
旅籠には風呂は無く、旅人は各自、手拭いを引っ提げてこれらの温泉に入りました。

宿並には
旦過の湯(たんがのゆ)や子宝に恵まれるという児湯(こゆ、遊泉ハウス児湯)が現役で残っています、入浴料は共に大人230円です、是非々お試し下さい!!
問屋場跡碑 綿の湯 手湯

 下諏訪宿は何度来たでしょうか、中山道の和田峠の雪が解けたら、近々ここを通過する予定です。

終点祝を購入して、JR中央本線の普通列車に乗車です、車窓は結露でビッショリと濡れています。

折角乗車した普通列車は隣の
上諏訪駅で乗り換えです、良く見ると駅構内に足湯があります、有り難いじゃないですか、乗り換えの待ち時間の間に早速入浴です、考えて見れば本日は述べ12時間の街道ウォークでした。

に駄賃をはずみましょう、手には終点祝です。
終点祝 足湯



前 甲府柳町 ~ 台ケ原