道中日記 2-180 中山道 ( 落合橋 - 塩尻 ) 41.5km

 ゆっくり寝ました、そしてすっきり目覚めました!

昨日、仕込んでおいた
カップそば握り2個を食します!!普段はさして美味いとは思いませんが旅先では行けます!!!

これに十分な
水分補給を行います、お腹はタッポンタッポンです。

本日は名だたる
和田峠そして塩尻峠が控えています。

天気予報は上々です!

それでは宿を後にしましょう。

 平成23年06月04日 AM5:09 落合橋出立 和田宿まで5.1km

 大門川に架かる落合橋が本日の出立点です、それでは出発です!

大門川は白樺湖周辺の沢水を集め、国道152号線沿いを流れ、スグ先で依田川に落合います。

フライフィッシングフィールド(釣り場)として知られています。

左手に
中北道標(中部北陸自然歩道)があります、この道標は中山道筋ではなく、独自のルートを示しています、京方面からの中山道ウォーカーは国道142号線をお進み下さい。
落合橋分岐 落合橋 大門川 中北道標

 次いで依田川(よだがわ)を和田橋で渡ります。

依田川は和田峠付近に源を発し、観音橋で和田川男女倉川を吸収し、大和橋で大門川を吸収し、流末は上田で千曲川に落合います。

川筋はヤマメ、ニジマス、イワナを狙う
釣り師で賑わっています(漁期は2月16日〜9月末まで)。

広重は
長久保として中天の満月依田川和田橋を遠景に、手前に和田宿に戻る帰り馬と犬と戯れるを描いています。
依田川 木曽海道六拾九次之内 長久保 広重画

 右手の家屋は
木曽路に多く見られる、石置き屋根になっています。

 和田橋渡詰めのY字路を左に進みます、この分岐点には青色道標「←中山道→」があります。

先に進み正面の
丸太階段を上り、突当りの国道142号線を左に進みます。

京方面からは
GS出光の所から右手の丸太階段を下り旧道に入ります。

国道を進み
青原(あおばら)交差点を右折します、ここからは旧国道を進みます、この分岐点の左手には水明の里碑があります、京方面からは突当りの青原交差点を左折します。
和田橋分岐 中山道道標 国道分岐 青原分岐

 左の水明の里公園には東屋水場、歴史の道中山道解説、国史跡歴史の道中山道標石、そして馬頭観音群があります。

青原中組境標柱を左手に見て進むと、右手の集落口に青面金剛像庚申塔道祖神が祀られています。

次いで左手に
上深山口バス停があります、バス待合所は本格的な茅葺き屋根になっています、脇には青色道標「←中山道→」があります。

先の左手に
中組公民館があります。
水明の里公園 庚申塔&道祖神 上深山口バス停 石造群

 公民館の手前に寛政十二年(1800)建立の
天王夜燈、宝暦二年(1752)建立の西国巡礼供養塔青面金剛像庚申塔石祠等があります。

 先の右手Work Create SAITOの建物脇に小社があり、奥に道祖神があります。

左手の神社風造りの下和田中組バス停待合所の裏手には
馬頭観世音文字塔が三基あります、大きな馬頭観世音文字塔は明治三十六年(1903)の建立です。

斎藤木材工業脇を右に入ると
石塔石祠の奥に寛政十年(1798)造立の子守り地蔵が鎮座しています、子供の治してほしい所を小石でなで、その小石を地蔵に供えます。

次いで左手に男女双体道祖神にみたてた
ミミズの碑があります。
道祖神 馬頭観音 子守り地蔵尊 ミミズの碑

 
ミミズに感謝して祀ったものです、ミミズは良質な土壌を生成し、解熱剤にもなりました。

 旧国道を進むと左手の和田観光貸切バス車庫の向いに相馬家の門があります。

次いで右手の奥に堂々とした
長屋門があります、この辺りは立場でした。

左手の長和町消防団第六分団の火の見ヤグラの足元には滔々と流れる
水場があります。

先の右手に割れてしまった
道祖神があります、集落や村の境に祀り悪霊の侵入を見張っています。
 
ここから右の
舗装路に入ってみましょう。
旧家門 長屋門 水場 道祖神

 途中から右の草道に入ると御神燈と多数の馬頭観音像があります、奥に大日堂があります、大日堂には大日如来坐像が六体安置されています。

街道に戻ると左手に
石塔群があります、馬頭観世音文字塔、寛政八年(1796)建立の大乗妙典供養塔、享和三年(1803)建立の庚申塔等があり、並びに安永六年(1777)建立の三千僧接待碑があります。

この碑は信定寺別院
慈眼寺から寛政七年(1795)ここに移設されました、当初、諸国遍歴一千僧の接待を発願して建碑されましたが、見事決願し、次は三千僧を発願としたため、一の上に二を刻み三としました。

凶作の際は
じゃが芋の粥で僧を接待しました。
大日堂 石塔群 三千僧接待碑

 神社風造りの上立場バス停待合所を過ぎると右手奥に朱塗りの覆屋があり、中に小社が三社祀られています。

先左手の茅葺き屋根をトタン板で覆った家屋のシャッター前に石造の
招き猫福寿碑があります。

スグ先の右手に線刻の
男女双体道祖神があります、珍しいものです。

左手の横道を過ぎると右手に
地蔵尊が安置されています。

長閑な旧国道をモクモクと進みます。
小社 招き猫 道祖神 地蔵尊

 右手に青面金剛像と三猿が刻まれた庚申塔があり、傍らには平成八年(1996)建立の神祭碑があります、二人の童と獅子舞が刻まれています。

神社風造りの下和田バス停待合所をす過ぎると右手の民家庭内に
羽田左右平翁頌徳碑があります。

柳又上バス停先の左手火の見ヤグラ手前の段上に
阿亀馬頭観世音文字塔福大大士塔があります。

火の見ヤグラ先に
馬頭観世音文字塔水供養水道之碑回国百番観音碑
子供祭碑 頌徳碑 石塔 石塔群

道祖神等が並んでいます。

 スグ先に横断地下道があります、何故こんな所にと思うでしょう、先程通過した青原交差点から先の国道142号線は新道です、これにより和田宿までの旧国道の通行車両は激減し、非常に歩き易くなっています、しかしそれまでは主要幹線道路で相当の交通量がありました。

左手に
若宮八幡神社があります、祭神は仁徳天皇です、本殿は享保六年(1721の建立です。

境内には鎌倉時代からこの地を支配してきた
大井信定父子の墓があります、天文二十三年(1554)和田城主大井信定武田信玄が矢ケ崎で激突し、信定父子をはじめ一族郎党がことごとく討死にし、大井信定父子の首級がここに埋葬されたました。
横断地下道 若宮八幡神社 和田領主之墓

 境内のケヤキスギは推定樹齢三百年で長和町保存樹木です。

境内の外れに享和元年(1801)建立の
芭蕉句碑「安能雲ハ 稲妻越待つ たよ里可南(あのくもは いなずまをまつ たよりかな)」があります。

先の左手に
中山道一里塚跡碑があります、上組の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて四十九里目です、塚は昭和三十五年(1960)の道路改修で取り壊されました。

山あいの街道を進むと左手にアルペン風の
芹沢バス停待合所があります。
境内樹木 芭蕉句碑 一里塚跡 バス停待合所

 PM6:38 和田宿着 下諏訪宿マデ22.6km

 上組からに入ると徐々に上り勾配がきつくなります。

松林脇を抜けると
Y字路になります、左に進むと大きな是より和田宿碑があります、和田宿に到着です!

和田宿は西に難所和田峠を控え大いに賑わいました。

文久元年(1861)三月十日の
大火で宿並のおよそ三分の二にあたる百数軒が焼失、折から同年十一月の皇女和宮の通行を控え、本陣を始め宿並が急遽復興されました。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によると、和田宿宿内家数は百二十六軒、うち本陣一、脇本陣二、問屋二、旅籠二十八軒(大十二、中四、小十二)で、宿内人口は五百二十二人(男二百七十二人 女二百五十人)でした。
原口 松林 和田宿碑

 宿並は
下町中町上町橋場新田の四町で構成され、宿長は七町五十八間(約870m)でした。

 和田宿碑の所には道祖神青色中山道道標中山道標柱中山道解説があります。

宿並を進むと右手の消火栓の所に
道祖神が祀られています。

モダンな造りの長和町立和田小学校を過ぎると右手に
和田神社鳥居があります、鳥居脇には水場があります。

和田の原バス停待合所の所にも
水場があります。

並びに
八幡社があります、和田城主大井氏の居館の鬼門除けとして建立されました。
道祖神 道祖神 和田神社鳥居 八幡社

 後に
和田宿の守護神となりました、拝殿覆屋を併合した茅葺き入母屋の珍しい造りです、境内の御神燈は文化九年(1812)と文化十四年(1817)の建立です、ケヤキは推定樹齢三百五十年で長和町指定保存樹木です。

 八幡社脇から宿並はから新田に入ります。

和田新田バス停の手前を右に入ると真言宗智山派大悲密山
菩薩寺があります。

安和元年(968)京都六波羅普門院の
空也上人がこの地で衆生利益の説法を行い、その際に小堂を建てたのが始まりです、現在の本堂は文政三年(1820)の再建です。

和田新田バス停待合所脇に平成三年(1991)建立の
祝言道祖神水場があります。

宿並は
新田から橋場に入ります。

追川追川橋で渡ると橋場から下町に入ります。
菩薩寺 道祖神&水場 追川

 追川橋を渡ると右手に旧旅籠かわちやがあります、大火後の再建で、和田宿の旅籠の内では規模が大きい方でした、江戸末期の建築様式を残しています、歴史の道資料館として公開されています。

かわちやの奥に
黒曜石石器資料館があります、和田峠で産出する黒曜石は質が良く、切れ味の鋭い石器になり、広く普及しました。

次いで左手の出桁造りの旧家は
山木屋跡で、下の問屋を勤めました。

並びが
旅籠大黒屋跡です、大火後の建築で間口六間、奥行七間の出桁造りです、安政年間以降は穀物商を営みました。
かわちや 下の問屋場跡 旧旅籠大黒屋

 並びが穀屋跡です、重厚な土蔵を残しています。

向いが
旅籠たかき跡です、出桁造りの遺構を残しています。

旅籠たかき脇を右に入ると
信定寺鐘楼門があります、元禄三年(1690)鋳造の梵鐘は昭和十七年(1942)まで時の鐘を撞きましたが、戦時中に供出されました。

曹洞宗
信定寺(しんじょうじ)は和田城主大井信定の菩提を弔う為、天文二十二年(1553)に創建されました。
穀屋跡 旅籠たかき跡 信定寺鐘楼門 信定寺

 信定寺の裏山が和田城跡です、和田城址には小社が祀られています。

天文二十二年(1553)
武田信玄は大門街道を北上し、中山道との合流点付近の矢ケ崎で和田城主大井信定と合戦に及び、この戦いで信定以下一族郎党がことごとく討ち死にし、和田城も落城し廃城となりました。

宿並に戻り、
下町から中町に入ると右手にかあちゃん家があります、名主羽田家跡です、今は田舎料理が自慢の農家レストランになっています。

向いが
和田宿本陣跡です、長井家が勤めました、文久元年(1868)の大火で焼失しました。
和田城址 名主羽田家跡 和田宿本陣跡

 しかし、十一月の
皇女和宮の宿泊の為に、幕府よりの拝借金を得て、急遽再建されました。

建物の規模は、間口十二間(約21.6m)、奥行九間(約16.2m)の切妻平入り板葺きの建物で、正面外観は中二階を幅一間(約1.8m)出桁によって持ち出した
出桁造りで、中山道本陣としての特徴をよく示しています。

文久元年(1868)十一月六日(十五日目)、
皇女和宮長井本陣に宿泊しました。

 次いで右手に石合があります、旅籠を営み年寄りを勤めました、典型的な旅籠の外観を今に残しています、長久保宿本陣の石合家を祖としています。

左手の
米屋鐵五郎上の問屋を勤めました、現在は和田宿休憩所になっています。

並びの
旧本亭旅館旧庄屋宅(なが井)を改装したものです、敷地内に和田村道路元標があります。

向いの奥が二軒あった
脇本陣の内の一軒で歴代翠川家が勤めました。
石合 米屋鐵五郎 なが井 和田宿脇本陣跡

 建物は文久元年の
大火後の再建です、現在の建物は御殿部分のみですが、上段の間等の遺構や皇女和宮の草履を残しています。

 脇本陣跡並びの公園脇から山側に踏み込むと新海神社本殿が覆屋内に祀られています、三間社流造の本殿は長和町指定文化財です。

この新海神社は
八幡社熊野神社と共に和田宿守護の三神でした。

宿並に戻って、
中町から上町に入ると左手によろずやがあります、見事な卯建白壁土蔵を残しています、往時は質屋両替商を営んでいました。

宿並を進むと左手の上町公民館内に
不動明王が安置されています。
新海神社本殿 よろずや 不動明王 高札場跡

 先の上町中バス停の所に
高札場跡解説があります、正面三間(約5.4m)、奥行七尺(2.1m)の一段高い敷地に正面二間(3.6m)の屋根付き高札場がありました、旅人はここでは笠等の被り物を取るのが習わしでした。

 宿並の各住宅には旧屋号札が掲げられています。

和田上町バス停待合所向いの段上に
馬頭観世音文字塔が安置されています。

上町から鍛冶足に入ると、右手に道祖神が祀られています。

一本足の火の見ヤグラを過ぎると、左手に
菅沼曲水句碑があります、曲水(曲翠 きょくすい)は膳所藩中老を勤め、近江蕉門の重鎮でした。

次いで右手に
鍛冶足バス停があります。
馬頭観音 道祖神 句碑 男女双体道祖神

 手前に
男女双体道祖神が祀られています。

 公民館前バス停を過ぎると和田鍛冶足交差点に突き当たります、渡詰めの右手に道標等があります。

一番左は
中山道一里塚跡碑です、鍛冶足の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて五十里目です。

二番目は
道標「左 松澤歩道 右 諏訪街道」です。
三番目は
国史跡歴史の道中山道碑です。
四番目は
中山道碑です。
五番目は
青色道標「←中山道→」です。

中山道は
和田鍛冶足交差点を右折します、京方面からは左折します。

右折した先の
Y字路を左に進みます。
和田鍛冶足分岐 一里塚跡 和田鍛冶足分岐

 旧道を進み、左手の長和町消防団第7分団詰所を過ぎると右手に茅葺き屋根の大出バス停待合所があります。

前の
Y字路を左に進みます、この分岐点には青色道標「←中山道→」と自然石道標があります。

鍛冶足から大出に入ります。

依田川に架かる大出橋の袂に道祖神があります。

スグ先で
依田川に再会します。
大出旧道東口 分岐道標 道祖神 依田川

 大出集落を抜け、坂を上ると大出旧道は国道142号線に合流します。

京方面からは斜め右の下り坂に入ります、この分岐点には
青色道標「←中山道→」があります。

この合流点の向いの段上に
神社が鎮座しています、社殿には八幡神社の神紋である巴紋があしらわれています。

神社の先に
石碑が二基あります。

先左手の眼下にも
神社があります。
大出旧道西口 頭上の神社 石碑 眼下の神社

 左手にそば処黒耀があります、このお店では霧の高原で栽培されたダッタンそばが賞味出来ます、ルチンが普通のそばの120倍以上という超健康食です。

白い
更科そば、薄茶色の田舎そば、そして黄色いダッタンそばの三色盛がお奨めです。

とどめは
そば湯です、ゆで汁ではなく蕎麦粉で作った代物です、濃厚な味わいが鼻腔から抜けてゆきます。

それでは街道に戻りましょう。
そば処黒耀 ダッタンそば 馬頭観音 男女双体道祖神

 先の右手奥に
馬頭観音群があります、次いで左手の食事杉の屋の前に男女双体道祖神があります。

以前は向いに
牛宿バス停がありましたが、無くなっています、この辺りには二軒の茶屋があり、うち一軒は塩つけ宿と呼ばれる中牛馬稼ぎの牛宿でした、信州の特産品を上州まで運び、帰路は貴重な塩を持ち帰りました。

 国道142号線の上り坂を進むと左手に東邦パーライト工業があります、和田峠で産出される黒曜石(パーライト)を粉砕加工して断熱材等を製作しています。

右手に扉峠への
ビーナスラインの分岐があります、このビーナスラインにはこの先何度も対面することになります。

左手には茅葺き屋根の
扉峠口バス停待合所があります。

先を斜め右の
一之橋旧道に入ります、スグ先で依田川一之橋で渡ります。
東邦パーライト 扉峠口バス停 一之橋旧道東口 依田川

 何故か橋柱には
和田川、傍らの標識には一級河川依田川と表記されています、旧道は大出から唐沢に入ります。

 一之橋旧道はスグ先で国道142号線に合流します、京方面からは斜め左の下り坂に入ります。

左側に進行方向をシフトすると、左手に従四位勲四等羽田貞義翁の
頌徳碑があります。

並びに
馬頭観世音文字塔があります。

左手(黄色矢印)に
砂利道の上り坂があります、古中仙道です、古中仙道には石畳や貴重な唐沢の一里塚を残しています、青色道標(←中山道→)があります、直進(白色矢印)は旧中山道です。
一之橋旧道西口 頌徳碑 馬頭観音 古中仙道東口

 
古中仙道は天保期に街道の付け替えが行われ、その結果取り残されました、しかし今回は旧中山道を進みましょう、国道142号線を直進(白色矢印)します、街道ウォークは往復でワンセットです、復路で通行しましょう。

 国道の右側にシフトして、斜め右の唐沢旧道に入ります、この分岐点には唐沢下バス停標識「唐沢入口→」があります。

唐沢を渡ると右手に茅葺き屋根の旧家があります。

右手の神社風造りの唐沢バス停待合所の並びに、門柱に
本陣の表札を掲げる住宅があります、ここが羽田茶屋本陣跡です、唐沢立場で五軒の茶屋がありました。

それでは先に進みましょう。
唐沢旧道東口 茅葺き屋根の旧家 茶屋本陣跡 唐沢旧道分岐

 スグ先の左手に
消防用ホース格納庫があります、ここを左に入り、突当りの草道を右に進みます、枡形跡です。

 草道の踏跡を辿るとガードレールの切れ目から国道142号線に合流します。

スグ先で車道の
唐沢入口を横断します、京方面からは唐沢入口を横断し、スグ先のガードレールの切れ目から左の草道に入ります。

国道142号線の左側を進むと、
中山道唐沢一里塚標柱と青色道標「←中山道→」があります、ここが先程の古中仙道西口です。

それでは踏み込んでみましょう。
唐沢旧道西口 車道唐沢入口 古中仙道西口 唐沢の一里塚

 石段を上り詰めた先に
唐沢の一里塚の原型を残しています、江戸日本橋より数えて五十一里目です、天保二年(1831)以前の街道の付け替えにより一里塚は山中に取り残されました、塚の傍らには御嶽山座王大権現山之神不動明王石祠等が祀られています。

それでは
国道142号線に戻りましょう。

 先に変則Y字路があります、右の国道142号線を進みます、この分岐点には道標「←笠取峠16.3km 東餅屋(和田峠)4.3km→」があります。

和田川二之橋で渡ります、和田川は和田峠に源を発し、流末は依田川に落合います。

右手に
水準点があり、奥に観音澤分教所跡碑があります、観音澤村にあった分校跡です。

上り坂を進むと左手に
信州長和町標識「男女倉口 標高1100m」があります。
変則Y字路 和田川 分教所跡 男女倉口分岐

 並びに
中北道標「←笠取峠17.1km 東餅屋(和田峠)3.5km→」があります。

Y字路を右(白色矢印)の美ケ原高原霧ケ峰高原方面に進みます。

 和田峠越え

 国道の正面が和田峠男女倉口(おめぐらぐち)です、ここが和田峠の西口です、登り口には国史跡歴史の道中山道碑中山道解説があります、江戸方面からはここから土の峠道になります、京方面からは正面の国道に合流します。

中山道最大の難所は
和田峠でした、ことに厳冬期は難渋を極め、人馬の遭難が絶えませんでした。

登り始めるとスグに
休憩小屋があります、休み茶屋跡です、休憩小屋脇に三十三体観音が安置されています。

かつてこの山の中腹にあった
熊野権現社の前に並んでいた観音像群です、昭和四十八年(1973)の調査発掘により、二十九体が確認されここに安置されました。
和田峠男女倉口 休み茶屋跡 三十三体観音

 内訳は
千手観音十三体、如意輪観音四体、馬頭観音十体、不明二体で、四体は未発見です。

これらの
観音像は和田峠の難所を往来する人馬の無事を祈って祀られたものです。

 比較的明るい峠の土道をモクモクと登ります、アスファルトに慣れた足には土道の心地良い感触が堪りません!

峠道の左手の深い沢は
和田川です、足元からせせらぎが響いてきます。

峠道には青色の
中山道道標「←男女倉800m 接待800m→」があります。

男女倉口から接待までの急坂を観音坂といいます、途中二ケ所に丸太の小橋があります。

観音坂を登り詰めると
国道142号線に合流します、正面には茅葺き屋根の接待茶屋が望めます、 京方面からは青色の中山道道標が分岐ポイントです。
峠道 丸太小橋 国道分岐

 国道の右手に茅葺屋根の永代人馬施行所が復元されています(国史跡)、江戸呉服町の豪商かせや与兵衛(有隣)が金千両を幕府に寄付し、その利子百両を二分し、文政十一年(1828)に碓氷峠和田峠施行所を設けました。

十一月から三月までの間、
旅人に粥と焚火、牛馬には桶一杯の煮麦を接待しました。

その後、
山抜け(山崩れ)で流失しましたが、嘉永五年(1852)現在地に再建され、明治三年(1870)まで続けられました。

有隣はこれより前の文政七年(1824)に
東海道箱根峠に施行所を設置しています。

敷地内には
馬頭観世音文字塔が三基安置されています。
接待茶屋 馬頭観音

 以前は接待茶屋の敷地内に
湧水がありましたが、今は道路を挟んだ向かいに移転しています、ペットボトルを沢山積んだ車が並んで順番を待っています。

途中割り込みで賞味です、相変わらずうまい!


 接待茶屋並びの高台に殉職警察官近藤谷一郎巡査之碑があります、明治二十二年(1889)窃盗犯人を下諏訪へ護送する途中、この地において、やにわに逃走した犯人を捕えようとして和田川で格闘中、犯人の投げつけた石を顔面に受けて倒れ、更に、近藤巡査の所持する剣で腹部を切られて殉職しました。

犯人は頭部を負傷し、
茶屋に逃げ込んで来たが、茶屋の主人が護送中の犯人と気付き、通りかかった住民と二人と取り押さえ、犯人を人力車に乗せて和田村巡査駐在所へ届け出て、事件が判明しました。

近藤巡査の遺体は、翌日捜索隊によって和田川の畔で発見されました、享年二十二歳でした。 

国道142号線が右に曲がる所から再び、左の
土道に入ります、この分岐点には青色の中山道道標があります、京方面からは突当りの国道142号線を右に進みます。
殉職碑 峠口

 峠道に入ると右手に昭和五十五年(1980)建立の常夜燈があります、ここには嘉永四年(1851)建立の常夜燈がありましたが、山抜けで流失しました。

接待から広原の一里塚迄の峠道を
長坂といいます。

丸太の小橋を渡ると右手に
近藤谷一郎巡査殉職の地碑があります、 実際の殉職地は左手の谷を下った和田川の畔でした。

二本目の丸太の小橋を渡ると右手に
避難小屋があります。
常夜燈 殉職地碑 避難小屋 石畳道

 
厳冬期の峠越えの強い味方でした、避難小屋を過ぎると苔むした石畳道になります。

 峠道は土道になったり、石畳道なったりしながらグングン登ります。

五本目の
丸太の小橋を渡ると正面に広原の一里塚が現れます、東塚を残しています、江戸日本橋より数えて五十二里目です。

この辺りは
広原といい、往時はの生い茂った原でした、冬の降雪期には山頂より吹き降ろす吹雪で一面の雪の原と化して、道も埋もれた時、五間(約9m)四方のこの一里塚は旅人の心強い道標でした。

先に進むと左手に
キャンプ場炊事場があります。

和田峠周辺では
黒曜石が多く産出しています。
丸太小橋 広原の一里塚 キャンプ場

 この
黒曜石石器の材料になりました、和田川の段丘には数多くの後期旧石器時代遺跡群が形成されていました、特に広原の一里塚からこのキャンプ場、そして湿原の周辺に、多数の遺跡が集中しています。

 キャンプ場の先から石畳風の舗装路になり、国道142号線に合流します。

京方面からは峠の茶屋先を斜め右の石畳風舗装路の下り坂に入ります、この分岐点には青色の
中山道道標があります。

スグ先の左手に
名物力餅を商う峠の茶屋があります。

サア、現代版
力餅(300円)を賞味してみましょう、二種類の饅頭野沢菜が添えられています、このコンビは絶妙です、甘みと塩気が見事です!

峠の茶屋の
駐車場の奥には旧東餅屋村の墓地があります。
東餅屋分岐東口 峠の茶屋 名物力餅

 峠の茶屋の向いに東餅屋立場跡石垣を残しています。

難所和田峠を控え、
東餅屋村には五軒の茶屋があり、名物は力餅でした。

寛永年間(1624〜43)より
幕府は一軒に一人扶持(一日玄米五合)を与え、和田峠で難渋する旅人の救助に当らせました、幕末には茶屋本陣が置かれ土屋家が勤めました。

幕府より
水戸天狗勢追討令を受けた松本藩は組頭稲村久兵衛率いる三百五十名を出兵させました、松本軍は当初東餅屋に布陣しましたが、より堅固な樋橋に布陣した高島藩軍に合流すべく退きました、その際に足溜りになると東餅屋村を焼き払い、橋を全て落としました。

その後、復興したものの、明治の世になり
鉄道が開通すると、旅人の往来も途絶え、今は石垣を残すのみとなりました。
東餅屋跡 東餅屋解説

 国道を進むとY字路になります、左が国道142号線、右はビーナスラインです。

このY字路手前の左にある、
石畳風舗装路に入ります。 

石畳風舗装路に入ると右手に
馬頭観世音文字塔があります、峠越えの旅人の安全を見守っています。

突当りの
国道142号線を横断し、正面の土道に入ります、この横断ポイントには青色の中山道道標があります。

旧道の右手に
和田嶺神社碑があります。
東餅屋西口 馬頭観音 国道横断 和田嶺神社碑

 碑には
三峯神社山之神社諏訪神社建部神社の四社が刻まれています。

 土道を進み、突当りを左折(白色矢印)します、この分岐点には青色中山道道標があります。

この先、
ビーナスラインを4ケ所横断します、それでは取り掛かりましょう。

マズは
コルゲートと呼ばれるパイプトンネルでビーナスラインをくぐります。

コルゲートを抜けたら、突当りを左折(白色矢印)して
を渡ります。

道なりに進み突当りの
ビーナスラインを横断し、向い土道に入ります。
L字路 コルゲート 沢渡り ビーナスライン横断

 このビーナスラインの横断ポイントには
青色中山道道標「←ビーナスラインを横断(3ケ所車に注意)頂上へ700m」「コルゲートをくぐり東餅屋を経て接待へ2.5km→」があります。

 3本目は土道からビーナスランを横断して石畳風舗装路に入ります。

4本目は
石段を下り、ビーナスラインを横断して再び石段を登ります。

いずれの横断ポイントにも
青色中山道道標があります。

これにて
国道142号線と4本のビーナスラインの横断の終了です。

峠道を進むと、空が開け、左手に
旧和田スキー場が現れます、縦横に走っていたリフトは撤去されています。
3本目横断 4本目横断 峠道 旧和田スキー場

 正面に和田峠頂上が現れます、広重は和田宿として積雪の和田峠と正面に御嶽山を描いています、江戸からの旅人はここで初めて霊峰御嶽山を仰ぐことになります。

和田峠は
筑摩山地を越える峠の一つです、中央分水界にあたり、峠の北は千曲川を経て信濃川水系となり日本海に注いでいます、峠の南は諏訪湖を経て天竜川水系となり太平洋に注いでいます。

この和田峠は険しい山中にあり、江戸方の
和田宿と京方の下諏訪宿の間は五里十八町(実測22.6km)と長く、冬季は降雪も多く、中山道最大の難所でした。
和田峠頂上 木曽海道六拾九次之内 和田 広重画

 和田峠の頂上に到着です、 峠の標高は1531m、厳冬期の峠越は想像を絶するものがあったといいます。

木曽名所図会には「西坂険し、東坂やすらかなり、三月の末まで雪あり寒し」と著されています。

頂上には
御嶽山坐王大権現碑本尊大日大聖不動明王碑賽の河原地蔵国史跡碑「歴史の道中山道」等があります。

明治九年(1876)東餅屋から西餅屋へ下る
紅葉橋新道が開通した為、今は役目を終え古峠の名を残すのみです。
御嶽山坐王大碑 大日大聖不動王 賽の河原地蔵 国史跡碑

 サア、それでは和田峠の下りに取り掛かりましょう。

下りは
草道から始まります。

この先は
歴史の中山道白杭があり、的確に誘導してくれます。

峠道は
賽の河原七曲りと呼ばれる、ガレ場の急坂になります。

左に
水呑場があります、旅人の喉を潤してきた貴重な水場です。

傍らには
首なし地蔵があります。
和田峠下り口 ガレ場 水呑場 首なし地蔵

 急坂を下ると左手に石小屋跡があります、和田峠西坂は特に急坂で風雪の時は通行に難渋しました、大雪の時には雪割り人足も出動しました。

そこで下原村の名主
勝五郎が安政二年(1855)郡奉行所の許可を得て、石小屋を建て、人馬の避難や荷置場としました、この石小屋の石垣を残しています。

峠道の一部は沢沿いの
ぬかるんだ個所もあります。

林の中の峠道をモクモクと下ると、先で
国道142号線を横断します。

この横断ポイントには
白杭中北道標「↓諏訪大社下社(秋宮)11.1km ↑和田峠0.9km」があります。
石小屋跡 沢沿いの峠道 国道横断

 峠道の何ケ所かには倒木が横たわっています、くぐるか跨いで下ります。

グングン下ると右手の段上に
鳥居があります、石段を上り、鳥居をくぐると石積の上に山之神(石祠)が祀られています。

山之神は春になると里におりてきて、実りをもたらす有難い神様です、それでは二拝ニ拍手一拝です!

スグ先で
国道142号線を横断します、この国道横断ポイントには白杭中北道標「↓諏訪大社下社(秋宮)10.8km ↑和田峠1.2km」があります。
倒木の峠道 鳥居 山之神 国道横断

 京方面からは突当りの丸太階段を上り、国道142号線を横断して、向いの土道に入ります。

土道をグングン下ると右手に
牛頭天王道祖神があります。

ここから奥に分け入ると
旧西餅屋村墓地があります。

更に土道を下ると開けた
草地が現れます、西餅屋村跡です。

和田峠と下諏訪宿の中間に設けられた
立場でした。
国道横断 道祖神&牛頭天王 墓地 旧西餅屋村

 ここには茶屋本陣小口家、そして茶屋武居家犬飼家小松家がありました、重湯(おもゆ)状にした粳米(うるちまい)を氷点下の外気で自然乾燥させた氷餅が立場名物でした。

天保四年(1833)冷害による
凶作のため飢饉が発生し、世情不安となり、高島藩では国境のここに穀留番所を設置して他領への米穀の流出を防止しました。

幕末、幕府の
水戸天狗勢追討令を受けた、松本藩は和田峠を挟んで、東餅屋西餅屋に布陣しました、しかし旧樋橋村に陣を張った高島藩に合流すべく、両餅屋を焼き払い下山しました。

その後、西餅屋すぐに復興されました。
西餅屋茶屋跡 復興した西餅屋(古写真)

 西餅屋茶屋跡先から3度目の国道142号線を横断します、ここには中北道標「↓諏訪大社下社(秋宮)10.5km ↑和田峠1.5km」があります。

国道を横断してガードレールの切れ目から土道の
垂木(たるき)に入ります、ここには中山道標識白杭があります。

道なりに右に進むと、右手の高台に
中山道一里塚碑があります、西餅屋の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて五十三里目です。

一里塚跡の先は
崖道になります。
国道横断(江戸側) 国道横断(京側) 一里塚跡 桟(かけはし)

 
標識「是より崖道 足元注意」標識があります、崖地には丸太による(かけはし)が架けられています。

 崖道を抜けるとガレ場になります、今は整備され、歩き易くなっています。 

左手の谷底からは
砥川(とがわ)のせせらぎが響き癒されます。

峠道の右手には
馬頭観世音文字塔が安置されています、峠道に馬頭観音があると何故かホットしますね。

峠道は
土道になります、お約束の倒木もあり、くぐってすすみます。

土道を下ると、突然、ガードレールの
L字路に突き当たります、ここを左折します。
ガレ場 馬頭観音 倒木の峠道 ガードレール

 土道を下り切ると国道142号線に合流します、分岐点には中山道道標があります、これにて実質上の和田峠越しは終了です!

京方面からは
林道御堂ケ峰線標識と林道口の門扉が分岐ポイントです、ガードレールの土道に入ります、ここが実質上の和田峠西坂の登り口です。

ここからは
国道142号線をひたすら下ります。

焙烙橋先の右手擁壁上に名所香炉(こうろ)があります、獅子が臥したように見えるところを由来としています。

皇女和宮通行の際には、怖がらせてはならないと、布で覆ったといいます。
和田峠西口 国道142号線 香炉岩

 香炉岩を過ぎると左側に標識「水戸浪士の墓0.3km先左」が現れます、これに従い斜め左の下り坂に入ります。

京方面からは国道142号線に合流します、この分岐点には
中北道標「←和田峠4.9km 諏訪大社下社(秋宮)7.1km→ 」があります。

緩い下り坂を進むと、正面に
芙蓉パーライトが現れます、この地で産出する黒曜石を加工して建築資材を製造しています、道路上には黒いガラス状の黒曜石の破片が落ちています、縄文人はこの黒曜石を矢じり刃物として利用しました。

国道142号線ガードをくぐり、左に回り込むと正面が水戸天狗勢の和田嶺合戦跡(砥沢口合戦跡)です、ここには水戸浪士塚元治甲子水戸浪士殉難之碑徳本名号碑等があります。
水戸浪士の墓口 国道ガード 水戸浪士塚

 元治元年(1864)十一月廿日、高島藩兵五百八十名と西餅屋から合流した松本藩兵三百五十名、計九百三十名が樋橋に布陣しました、連合軍は大木の橋頭堡を築き、大砲四門を据え臨戦態勢を整えました。

一方
武田耕雲斎率いる水戸天狗勢は騎馬二百騎、小荷駄五十疋、大砲十五門、歩兵数百を合わせて千余名でした。

未の刻(午後三時)に戦端が開かれたが、狭い峠道を下る
天狗勢は圧倒的に不利でした。

陽が傾いた頃、この状況を打破すべく、天狗勢の軍師
山国兵部香炉岩辺りから密かに二百名の軍勢を砥川の谷伝いに迂回させ、両藩の後方を突かせました、これを機に全面も一気に押出すと、連合軍は総崩れとなりました。
和田嶺合戦碑 水戸浪士碑 徳本名号碑

 この戦いによって
高島藩は四名、松本藩は四名、水戸天狗勢は十余名の戦死者を出しました。

 国道142号線ガードをくぐり、芙蓉パーライトを回り込んで砥川を渡ります。

砥川(とがわ)は車山に源を発し、流末は諏訪湖に注いでいます、一旦増水すると暴れ川になり、土手を砥石の如く削った所から砥川と呼ばれました。

信州ペット霊園を過ぎると右手に
中北道標←諏訪大社下社(秋宮)6.5km 和田峠5.5km→」があります。

左手には
養蚕の守護神を祀る蚕玉(かいこだま)神社や実りをもたらす農耕の守護神を祀る山の神があります。
砥川 中北道標 蚕玉神社 大樋橋分岐

 旧道は
国道142号線に合流します、京方面からは大樋橋の手前を右に入り、スグのY字路を右に進みます、ここに中北道標があります。

 国道を下り、火の見ヤグラの手前を左に入ります、ここが樋橋立場跡です、国道側には樋橋茶屋本陣跡碑があります。

樋橋(とよはし)は寛永十一年(1634)立場として開村し、茶屋本陣小松家が代々勤めました。

茶屋本陣には
御殿と呼ぶ小建築があり、文久元年(1861)十一月六日に皇女和宮はここで休息しました。

立場内には
牛宿もありました、信州は山間部が多い為、荷の運搬にはではなくが多用されました。

水戸天狗勢は高島松本藩を撃破し、亥の刻(午後10時頃)ここで隊列を整え下諏訪宿に向かいました。
樋橋旧道東口 茶屋本陣跡 逆S字分岐

 ここより先は
逆S字状に進みます、右に回り込み、国道142号線を横断し、向いに入り左に回り込みます、これが逆S字状分岐です、枡形跡です。

 向い側旧道口の右手に名号碑南無阿弥陀佛等があります、 つい最近までここには茶屋本陣を勤める小松家の者が全国巡礼達成後に建立した地蔵堂があり、延命地蔵尊が安置されていました。

旧道は左に回り込んで
国道142号線に合流します、京方面からは標識「標高1000m」先を左に入ります。

国道142号線を下ると右手に
高木石材工業の石材置場があります、ここから斜め右の土道が深沢旧道です、分岐点には中山道道標があります。
地蔵堂跡 樋橋旧道西口 深沢旧道東口 深沢旧道

 土道の旧道を進み、小川を跨ぐ小橋を数ケ所渡ります。

旧道は
スロープを上り、Z状に左にUターンして舗装路に合流します。

舗装路を上り詰め、Z状に右にUターンして
国道142号線に合流します、これらの各分岐点には道標「←中山道→」があります。

国道142号線をグングン下り、
深沢(ふかっさ)深沢橋で渡ります。

右手土手下に
産廃焼却炉があります。
深沢旧道内分岐 深沢旧道西口 深沢橋 産廃焼却炉

 ジェットエンジンのような轟音が響いてきます、以前はこの施設を抜けて
荻原旧道に入れましたが、今は通行不可です。

 国道142号線を下ると焼却場方向に下る坂道(黄色矢印)があります。

一里塚碑案内標識「私有地を通るため特に大型車にご注意下さい」があります。

ここを下ると
荻原旧道があり、一里塚碑があります、それでは踏み込んでみましょう。

下り詰を左折(黄色矢印)します、左手の
鉄塔が分岐ポイントです。

更に下ると
T字路に突き当たります、左右の筋が荻原旧道(白色矢印)です、右に進んでみましょう。
荻原旧道東口 一里塚碑案内 荻原旧道迂回路 荻原旧道復帰点

 草道を進むと右手に中山道一里塚碑があります、荻原の一里塚跡です、樋橋の一里塚とも呼びます、江戸日本橋より数えて五十四里目です。

一里塚跡から江戸方面に
荻原旧道の草道は続いていますが、先で行き止まりになります。

迂回路地点に戻ると、
中山道標識「この先通行止」があります、しかし京方面に荻原旧道の痕跡があります。

途中、荒れた所はありますが、
六峰温泉下を通行すると国道に合流します。
一里塚碑 荻原旧道江戸方向 迂回路地点 荻原旧道西口

 京方面からは
六峰温泉手前左の草道を下ります。

 国道142号線を下り、町屋敷バス停及び国道横断用地下道の所から斜め左に入り、一本目を右折します。

京方面からは突当りを左折して
国道142号線に合流します。

旧道を進むと左手に
ミドリ理髪店があれば正解です。

道なりに進むと左手に
御柱に囲まれた道祖神があります。

道祖神先の
Y字路は右(白色矢印)の下り坂に進みます。
町屋敷分岐 道祖神 町屋敷Y字路 町屋敷T字路

 坂を下り切ると
T字路に突き当たります、ここを左折(白色矢印)します、この分岐点には中山道道標があります、旧道は上り坂になります。

 上り坂を進むと、右手に木落し坂広場があります、広場には諏訪大社下社御柱街道天下の木落し坂碑模擬御柱等があります。

そして
木落し坂を覗き込むと、急勾配の下に国道142号線が望めます。

御柱祭は数えで七年(満六年)毎の寅年申年に行われる諏訪大社下社の大祭です、諏訪大社下社の春宮秋宮に立てる御柱(樅の大木)八本を奥山から切り出し、曳行の途中、この坂から御柱を落とす神事が下社山出し祭最高の見せ場木落しと呼ばれる奇祭です。

氏子達は滑り落ちる
大木に跨り「男見るなら七年一度諏訪の木落し坂落し」と唄われてきました。
木落し坂碑 模擬御柱 木落し坂

 木落し広場内の外れに中北道標「←和田峠8.5km 諏訪大社下社(秋宮)3.5km→」があります、ここから歩行者用の舗装路を下ります。

歩行者用舗装路は
落合発電所の送水管の所は階段になっています。

下り切り、正面に国道142号線が現れると右手の斜面に
道祖神馬頭観世音等が多数祀られています。

左手には
芭蕉句碑「ゆき散るや 穂屋のすすきの 刈残し」があります 元禄三年(1690)四十九歳時の句です。
中北道標 木落し坂下り。 石塔群 芭蕉句碑

 甲州道中の
御射山祭りの神事の様を描写しています。

 突当りの国道142号線を左折(白色矢印)します、この分岐点には中山道道標中北道標「←諏訪大社下社(秋宮)3.2km 和田峠8.8km↑」があります。

左手に
落合発電所があります、標柱「諏訪地方電気発祥の地 明治三十三年(1900)運転開始」があります。

東俣川落合橋で渡り、落合橋バス停の先を左(白線矢印)の落合旧道に入ります、この分岐点には中山道道標中北道標「←諏訪大社下社(秋宮)3.1km 和田峠8.9km→」があります。
木落し坂東口 落合発電所 落合旧道東口 落合旧道西口

 砥川沿いの
落合旧道は喧騒から解き放たれ、静けさが漂っています。

この旧道も間もなく
国道142号線に突当ります、左折(白色矢印)します、この分岐点には中北道標「←諏訪大社下社(秋宮)2.4km 和田峠9.6km→」があります。

 国道142号線を左に回り込むと、左手に小丘があります、ここが注連掛(しめかけ)です、木落し後の御柱を一旦ここに安置し、注連縄を掛けて清め休ませる所です。

並びの注連掛バス停裏の斜面には
御柱で囲まれた石祠が二社が祀られています。

国道142号線をグングン下ると左手に
水準点があり、先の左手擁壁上に馬頭観音群が並んでいます。

次いで左手に
山之神があります。
注連掛 石祠&御柱 馬頭観音群 山之神

 山之神の背後の山は宝暦の頃(1750年代)
白鷺が巣をかける瑞兆があったところから白鷺山と呼ばれ、山頂には石尊大権現白鷺稲荷大明神が鎮座し、山中には三十体に及ぶ神仏碑が祀られています。

 この辺りからいよいよ正面に諏訪湖が望めるようになります。

左手
砥川発電所送水管向いの斜め右(白色矢印)の砥川旧道の下り坂に入ります、中山道標識があります。

旧道を下ると左手に
御柱で囲まれた道祖神があります。

旧道は上り坂になり、先で
国道142号線(白色矢印)に合流します、この分岐点には中山道道標があります。

先に進み、斜め右に入ります。
砥川旧道東口 道祖神&御柱 砥川旧道西口 下諏訪旧道東口

 ここが
下諏訪旧道東口(白色矢印)です、この分岐点には中山道標識があります。

 旧道の下り坂を進むと、右手に諏訪大社下社春宮の社叢が現れます。

杉並木沿いの
根方道(土道)がより旧道に近いでしょう、右手の眼下には春宮が望めます。

先に進むと
春宮への分岐があります、中山道は直進(白色矢印)します、春宮へは右Uターン(黄色矢印)します。

分岐点には
道標「左諏方宮 右中山道」、中北道標「←諏訪大社(秋宮)0.9km 和田峠11.1km↑」があります。

それでは
春宮に向いましょう、右手の天保四年(1833)建立の一之宮御神燈を過ぎるとT字路に突き当たります、ここを右折すると正面が諏訪大社下社春宮です。
諏訪大社社叢 諏訪大社分岐 諏訪大社春宮

 諏訪大社上社本宮前宮、そして下社春宮秋宮の四社で構成され、信濃國一之宮で全国各地にある諏訪神社の総本社です。

諏訪大社には本殿はなく
春宮杉の木を御神木としています、諏訪明神は古くはの守護神で五穀豊穣を祈る神でした、また武勇の神としても広く信仰されました。

境内を進むと正面に
神楽殿(かぐらでん)があります、神前に神薬を奉納する為の建物で、天和年間(1681〜84)頃の創建です。

神楽殿を回り込むと
幣拝殿(へいはいでん)があります、御幣(ごへい)を奉ずる幣殿拝殿が一体となったものです、二重楼門造りで安永九年(1780)の創建です(国重文)。
神楽殿 幣拝殿 御柱

 次は万治の石仏に行ってみましょう、神楽殿の手前を左に進みます。

突当りの
砥川を左に進み、朱塗りの橋で浮島に渡ります。

浮島には
浮島神社が祀られています、先の朱塗りの浮島橋の袂には小林一茶句碑「一番に 燕のくぐる ちのわかな」があります。

浮島橋を渡り、突当りを右に進むと
万治の石仏があります、突当りを左に進むと岡本太郎揮毫碑があります、岡本氏は石仏を絶賛しています。
浮島神社 小林一茶句碑 万治の石仏 岡本太郎碑

 
万治の石仏は万治三年(1660)の建立です、春宮の石の大鳥居を造る際、石工がこの石にノミを打つと、血が流れ出たといいます、そこで石工はこの石に阿弥陀如来を刻んで霊を鎮めたといいます。

 それでは中山道に戻りましょう、わずかに下ると左手に慈雲寺への参道石段口があります。

石段の左手には
庚申塔三界萬霊塔等があります。

右手には
龍の口があります、この竜頭水口は江戸時代中期、旧横川村(現岡谷市)の山田金右衛門の作です、中山道を往来する旅人の喉を潤してきました。

辺りは
竜の口と呼ばれ、地名由来になっています。

石段を上ると中腹の右手に
矢除石があります、武田信玄は慈雲寺中興の祖といわれる天柱和尚を師と仰いでおり、戦場に赴く際に慈雲寺に立ち寄り和尚に戦勝の教えを乞いました。
慈雲寺 龍の口 矢除石

  すると和尚は境内の
大石の上に立って「私を弓で射てみよ」といい、至近の距離から射掛けさせたところ、矢は全て岩で跳ね返されて和尚には一本の矢も当たりませんでした、不思議に思った信玄が尋ねてみると「この石には矢除けの霊力がある」といいました。

信玄はこの念力がこもった
矢除札を受けて、勇躍戦場に向ったといいます。

 参道の石段を上り詰め、国道142号線を横断すると臨済宗妙心寺派白華山慈雲寺があります。

慈雲寺は正安二年(1300)鎌倉五山の建長寺住職
一山禅師の開山で、信州触頭として重きをなした名刹です。

楼門は安永八年(1779)大隅流の名匠村田長左衛門矩重の手によるもの。

本堂は文化五年(1808)の再建です、
諏訪大社下社秋宮幣拝殿を手懸けた、初代立川和四朗富棟の直弟子、上諏訪湯の脇の上原市蔵正房によるもの。
慈雲寺楼門 慈雲寺本堂 梵鐘 天桂の松

 
梵鐘は応安元年(1368)の鋳造で形音銘ともに優れたもので長野県指定文化財です。

境内の
天桂の松は戦国時代、当寺の住持天桂玄長禅師が植えた名木で、下諏訪町指定文化財天然記念物です。

 中山道に戻って進むと、右手黒板張りの土蔵前に一里塚跡碑があります、下諏訪の一里塚跡です、下之原の一里塚跡ともいいます、江戸日本橋より数えて五十五里目です。

スグ先の右手に
伏見屋邸があります、歴史的風致形成建造物です、武田氏の流れを汲む中村家は代々名主年寄を勤めました。

先の左手に
御作田社があります、諏訪大社の末社で下社の御作田祭(御田植神事)が境内で行われます、稲は諏訪大神の神供として捧げられます。
一里塚跡 伏見屋邸 御作田社 宣教発祥の地碑

 グングンと街道を下ると左手に
宣教発祥の地碑があります、明治三十八年(1905)フィンランドの女性宣教師二名による日本伝道がこの地より始められました。

 PM1:44 下諏訪宿着 塩尻宿マデ11.7km

 右手の小路脇に番屋跡碑があります、下諏訪宿の江戸(東)口です、下諏訪宿に到着です!

下諏訪宿諏訪大社下社の門前町として古くから栄え、東に難所和田峠、西に塩尻峠そして甲州道中の追分を控え、中山道唯一の温泉場として大いに賑わいました。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によると、下諏訪宿の宿内家数は三百十五軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠四十軒で、宿内人口は千三百四十五人(男七百六人 女六百三十九人)でした。

広重は
下諏訪として旅籠風景を描いています。
番屋跡 木曽海道六拾九次之内 下諏訪 広重画

 旅人達が女中の給仕で
夕餉を摂っています、問題は左端の風呂です、風呂場には火の用心の札が掲げられています、これで沸かし湯と解ります。

中山道で唯一の
温泉場の下諏訪宿には各旅籠に風呂は無く、共同浴場の綿の湯に浸かりました。

 宿並に入ると左手に旦過の湯があります、「諏訪温泉、下諏訪駅に三所あり」といわれた名湯のひとつです。

鎌倉時代、
慈雲寺を訪れる修行僧達の為に建てられた旦過(たんが)の湯でした。

温泉の効能は
吹き出物に良く効くといわれ、元治元年(1864)和田嶺合戦の時、負傷した武士の内で、この温泉に入った者は傷の治りが極めて早かったといいます。

湯口は52度と下諏訪三名湯中最も高温で、
公衆浴場として現役です(入浴料230円)。

旦過の湯の向いに
茶屋松屋があります。
旦過の湯 茶屋松屋 今井邦子

 今は
今井邦子文学館になっています、今井邦子は昭和の女流歌人で文学館は祖父母が営んだ茶屋松屋跡です、アララギ派の女性短歌結社明日香の編集所としても使われました。

 湯田坂を上り詰めると、左からの国道142号線に合流します、ここを左に進むと右手に天文十年(1541)創建の浄土宗来迎寺(らいこうじ)があります。

境内に
銕焼(かなやき)地蔵尊を安置する地蔵堂があります。

下諏訪の問屋の下女が主に弁当を届ける際、
銕焼地蔵に一箸の飯をお供えしたところ、主は下女がつまみ食いしたと怒り、焼火箸で額を殴打した、下女は地蔵にすがると、傷は地蔵の額に乗り移り、下女は美しい娘となり、上洛し宮中に仕え和泉式部と名乗りました。
来迎寺 地蔵堂 和泉式部供養塔 和泉式部歌碑

 地蔵堂前には
和泉式部供養塔和泉式部歌碑「あらさら無(む) この世のほか能(の) 於(お)も悲(ひ)でに 以(い)ま飛(ひ)とたびの 阿(あ)ふこともか那(な)」があります。

 分岐点に戻り、今度は右に入ると左手に青塚古墳(長野県史跡)があります、六世紀後半から末に築造されたと推定される全長7.4mの前方後円墳です、石室は横穴式で自然石(安山岩)の乱石積です。

諏訪地方唯一の前方後円墳で、後円部に比べ前方部が長い天竜川流域の特色を有した
貴重な古墳です。

それでは直進の宿並に戻ると左手に
遊泉ハウス児湯があります、児湯は下諏訪三名湯の二つ目です、和泉式部にまつわる銕焼地蔵尊のご利益により湧き出したといわれる湯で、子宝の湯として知られます(入浴料金230円)。

次いで右手の民家に木札
東屋終治茶屋跡が掲げられています、木喰上人世話役商人と記されています。
青塚古墳 児湯 東屋茶屋跡

 
木喰(もくじき)上人は特定の寺院や宗派に属さず、全国を遍歴して修業した行者で、訪れた先に一木造の仏像を刻んで奉納しました。

 先の左手に岩波本陣跡(下諏訪町文化財)が現存しています、岩波家は元禄元年(1688)から明治維新まで本陣を勤め、問屋を兼ねました。

敷地千八百六十五坪、建坪二百七十七坪と広大で、諏訪大社下社秋宮の社叢を借景とした名園は中山道随一といわれました。

文久元年(1861)十一月五日、
皇女和宮は岩波本陣にて十四日目の夜を過ごしました、上段の間は分家の聴泉閣かめやに移設されています。

和田嶺合戦に勝利した
水戸天狗勢は闇夜の中を進軍し、無人の下諏訪宿に入り、幹部は岩波本陣と来迎寺に分宿し、隊士は旅籠や民家に宿泊しました。
岩崎本陣 所蔵関札 明治天皇碑

 本陣の門脇に
明治天皇下諏訪御小休所碑があります、明治十三年(1880)巡幸の際、休息所になりました。

 本陣先の左手に甲州道中中山道合流之地碑があります、 ここが甲州道中の終点であり、中山道との追分です。

遊泉ハウス児湯の駐車場奥に
問屋場趾碑があります、碑面には甲州道中終点 右江戸へ五十三里十一丁 中山道下諏訪宿問屋場趾 左江戸より五十五里七丁 正面京都へ七十七里三丁と刻まれています。

並びに
綿の湯碑があります、その昔、上社の地に住む諏訪明神建御名方神(たけみなかたのかみ)のお妃八坂刀売神(やさかとめのかみ)が、日頃使っていた化粧用の湯を綿に湿し、湯玉にして下社の地へ持ち帰り、その湯玉を置いた所から湧いたのがこの温泉で、綿の湯と名付けられました。

綿の湯は
神の湯ですから神聖なものでした。
合流之地碑 問屋場跡碑 綿の湯碑

  やましい者が入ると神の怒りに触れて、
湯口が濁ったといいます、この湯口の清濁は下社七不思議の一つに数えられています。

 中山道甲州道中中山道合流之地碑の前を右折(白色矢印)します、直進(黄色矢印)は甲州道中です。

分岐点右角の
御宿まるやは元禄二年(1689)の創業で脇本陣でした、丸屋要四郎が勤めました(現業)。

分岐点左角の
旅籠桔梗屋は元禄三年(1690)創業の老舗旅館(現業)です、十辺舎一九や皇女和宮降嫁の際、母君の観行院とお付きの中臈(ちゅうろう)などが宿泊しました。

左手に
歴史民俗資料館があります。
甲州道中追分 脇本陣跡 旅籠桔梗屋 歴史民俗資料館

下諏訪宿場資料、和宮降嫁関係文書、和田嶺合戦資料、赤報隊関係資料等が展示されています。


 先の左手におんばしらグランドパークがあります、巨大な御柱のモニュメントがあります、ご神木を引く際の男綱(おづな)と女綱(めづな)がより合わさっています。

※現在、この
モニュメントは廃され、高札場が復元されています、元は問屋場の所にありましたが手狭な為、宿外れのこの位置に移動しました。

宿並は
国道に合流します、京方面からは高札場の左に入ります。

下諏訪駅前交差点先の
Y字路を左に入ります。

旧道に入ると左手に
(さきがけ)があります、赤報隊長相楽総三(さがらそうぞう)以下八名の墓があります。

赤報隊は
東山道総督軍先鋒を勤めました。
御柱グランドパーク 魁塚

 ところが官軍は急な
倒幕の為、各所で献金を強要し、これらの罪を赤報隊に被せ、慶応四年(1868)偽官軍の罪で隊長相良総三以下幹部八名を斬首しました。

しかし昭和三年(1928)潔白が証明され
正五位が追贈、靖国神社に合祀され、汚名がそそがれました。

 県道185号線を横断すると右手に一之宮常夜燈があります、右を見ると国道側に大鳥居が見えます、ここが諏訪大社下社春宮の京方面からの参道口です。

先に進むと右手に御柱に囲まれた
道祖神があります。

街道は
T字路に突き当たります。

このT字路を横断して住宅の間の
細道に入ります、この筋が正に旧道痕跡なのです、入口には中山道標識があります。
春宮参道口 道祖神 砥川旧道東口 砥川旧道東

 細い旧道は砥川の土手に突き当たります、この先は通行不能です、右折して富士見橋にて迂回します。

富士見橋を渡り、国道20号線を約30m進み
石神ホンダの手前を左折(白色矢印)します。

先に進み一本目を右折(白色矢印)します、この分岐点には
中山道標識JA共済の電柱看板があります。

砂利道の旧道に復帰します。

京方面からは
突当りを左折します。
砥川旧道迂回路 砥川旧道迂回路 砥川旧道復帰点 砥川旧道西

 下諏訪町消防団第七分団の火の見ヤグラを越し、先で十四瀬川を感じの良い木橋を枡形状に渡ると、諏訪郡下諏訪町社(やしろ)から岡谷市長地柴宮(おさちしばみや)に入ります。

用水路を越すと左手に
旧渡辺家住宅入り口標柱があります、左に入ると右手に茅葺寄棟造りの旧渡辺家住宅があります(岡谷市文化財)。

高島藩の
散居武士(城下ではなく在郷の村々に住んだ武士)の住宅跡です、、村の治安や警備を担いました。

街道に戻ると右手に真言宗智山派彌林山
平福寺があります、境内の日限地蔵尊は日を限って一心に願掛けすると願いが叶うといわれます。
木橋 旧渡辺家住宅 平福寺

 地元では
おひぎりさまと呼ばれ、毎月二十三日の縁日は今でも賑わいます。

 県道14号岡谷街道線を長池中町交差点
にて横断すると左角に寛政三年(1791)建立の
道標「左いなみち 右中仙道」があります、百萬遍供養塔を兼ねています、伊那街道はここから飯田を経て松本に至ります。

長地柴宮の街道沿いの各住宅の庭木は見事に手入れされています、旧道沿いには諏訪地方特有の雀おどり(雀返し)の棟飾りを掲げた本棟造りの旧家があります、街道側には中山道碑があります。

街道は国道20号線の
出早口交差点に突き当たります、横断した先のY字路は左の岡谷自動車学校方面に進みます。
道標 中山道標石 出早口三叉路 お握り弁当

 交差点にあるコンビニで
お握り弁当を購入し、駐車場の日影に坐って手短な食事タイムとしました。

 右手の駐車場に中山道一里塚碑があります、東掘の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて五十六里目です。

岡谷自動車学校先の右手に
中山道標石があり、スグ先の変則十字路の手前右手に道祖神常夜燈があります。

変則十字路を越すと右手に
馬頭観音像があります。

横河(よこかわ)に架かる大橋を渡ります、横河川は筑摩山地の鉢伏山に源を発し、流末は諏訪湖に注いでいます。
一里塚跡 道祖神&常夜燈 馬頭観音 石塔群

 大橋を渡ると左手の草地に
天満宮道祖神蠶玉神社が祀られています。

 今井中山道バス停先の信号交差点を越し、右手の火の見ヤグラの手前を右に入ると左手に今井観音堂があります。

木造聖観音坐像(岡谷市文化財)を安置しています、江戸時代初期の京仏師の作といわれています。

街道に戻ると右手の岡谷市消防団第一分団の火の見ヤグラの足元に
男女双体道祖神が祀られています。

先に進むと左手に石造の
冠木門があります、手前には明治天皇今井御膳水碑があります。
今井観音堂 男女双体道祖神 明治天皇碑 今井番所跡

 冠木門脇に
今井番所跡碑があります、高島藩(諏訪藩)が設けた口留番所(穀留番所)です。

 この地には西に難所塩尻峠を控え四軒の茶屋があり、四ツ家立場と呼ばれました。

番所の向いに
旧御小休本陣跡があります、木曽義仲の四天王今井四朗兼平を祖とする今井家が茶屋本陣を勤めました、主屋等十一棟が国文化財です。

皇女和宮が休息し、門脇には明治天皇今井御休所跡碑があります。

スグ先に
中山道道標があります、「右しもすは 左しほじり峠」と刻まれています、近世のものです。
旧御小休本陣 明治天皇碑 中山道道標 不動尊

 先の右手の擁壁上に
不動尊石塔があります。

 岡谷IC辺りから眼下に、諏訪湖が遠望できます、英泉はこの辺りから塩尻として凍結した諏訪湖を描いています。

遠景左から
八ケ岳連峰高島城、遥かに霊峰富士、右手に赤石山脈を描いています。

湖面には
ヒビ割れが入っています、湖が全面結氷すると氷の体積が膨張し、割れが生じ盛り上がります、この現象を御神渡(おみわたり)といいます、諏訪明神が下諏訪の下社に鎮座する女神のもとに通う道といいます。

この御神渡が甲州道中の
児玉石神社に向かうと豊作といいます。
諏訪湖遠望 木曽街道 塩尻嶺(とうげ) 諏訪ノ湖眺望 英泉画

 御神渡が生じると湖面上の歩行が可能になったといいます、中馬旅人が湖面上を歩いています。

 緩やかな上り坂を進むと右手に中山道標石があります。

下諏訪岡谷バイパス新開跨道橋で跨ぎ、突き当たりを左折します。

一本目を右折します、この分岐点には
旧中山道石船観音標識があります。

突当りの
Y字路を右に進みます、ここが実質上の塩尻峠東口です。

この分岐点の右手段上に
石船観音があります、本尊の馬頭観音が船の形をした台石の上に祀られています。
新開跨道橋分岐 石船観音分岐 塩尻峠口 石船観音

 とりわけ
足腰の弱い人に対して霊験あらたかといわれ、草鞋(わらじ)が多数奉納されています。

 境内には鳴沢清水がコンコンと湧き出ています、参拝者や旅人の喉を潤し、皇女和宮明治天皇も賞味しています。

それではいよいよ
塩尻峠に取り掛かりましょう、グングン進むと左手に大石があります、木曽路名所図会に「大石 塩尻峠東坂東側にあり、高さ二丈(約6m)、横幅二間余(約3.6m)」と著され、諏訪七不思議の一つでした。

伝承によれば、昔この
大石盗人が隠れて、旅人を襲ったといいます、ある時、この大石の近くで旅人が追いはぎに殺され、大石のたもとに埋められました、雨の降る夜に下の村から峠を見ると、大石の所で青い炎がチロチロと燃えていたといいます。

またこの辺は昔よく
ムジナが出没しました。
鳴沢清水 大石 馬頭観音

 夜歩きの旅人を驚かし、そのすきに旅人の持っている
提灯ロウソクを奪ったといいます、ムジナロウソクの油が大好物でした。

更に勾配が強くなると左手に
馬頭観音文字塔があります、旅人の安全を見守っています。

 峠道はさしたる距離ではありませんが、案外勾配がきつく足腰にきます、 前方が開けると塩尻峠頂上に到着です!

頂上には小さな
富士浅間社が祀られています、松本、諏訪両藩の境の宮として石祠を奉祀したものです。

奥には
明治天皇御野立所碑があります、明治十三年(1880)山梨、三重、京都方面巡行の際、ここで野立を行いました。

そして
句碑「大帝の 龍駕(りょうが)の峠 さくらうう」があります。

この峠(標高1055m)は太平洋側の
表塩と日本海側の裏塩の接点に当たるところから、の終着地()を意味する塩尻が峠名になりました、峠は塩尻市岡谷市の境です。
富士浅間社 明治天皇碑 句碑

 塩尻峠は
中央分水嶺になっています、岡谷側に降った雨は天竜川となって太平洋に注ぎ、塩尻側に降った雨は犀川となり、千曲川信濃川と名を変え日本海に注いでいます。

 峠頂上前の変則十字路を横断すると塩尻峠の下りになります。

わずかに下ると左手に
上条源治茶屋本陣跡があります。

宝暦十四年(1764)
塩尻峠の通行に難渋する旅人の為に、立場が設けられ柿沢村の名主上条家の弟吉次郎茶屋本陣を勤めました。

現在の建物は寛政八年(1796)築の
本棟造りで門、玄関、上段の間、次の間等が残されています、皇女和宮はここで休息しました。
塩尻峠下り口 馬頭観音 上条茶屋本陣跡 御膳水井戸

 
茶屋本陣向側の手前の石段上には大きな馬頭観世音文字塔が安置され、茶屋本陣の向いには明治天皇塩尻嶺御膳水碑があり、その裏手には井戸を残しています。

 更に下ると右手に親子地蔵が安置されています、享保元年(1716)の造立で、天明の大飢饉で行き倒れになった旅の親子を供養したものです、傍らには馬頭観世音文字塔が祀られています。 

並びに
夜通道(よとうみち)標柱があります、いつの頃か片丘辺のある美しい娘が岡谷の男と親しい仲になり男に会うため毎夜この道を通ったといいます。

後日談があります、男は次第に若い娘が夜一人で峠を越えて通ってくるなど、人間技ではないと考えるようになりました。

ある夜、若者は薮の中に隠れて、娘が通って来るのを見ると、娘は髪を乱し、頭にロウソクを立て、口に刃物をくわえ、白い着物で滑るように駆け抜けてきました。
親子地蔵 馬頭観音 夜通道

 その様がとても尋常な人間とは思えなかったため、若者は怖くなり逃げてしまったといいます。


 木立の中を下ると次第に開けてきます。

小さな流れを
小橋で渡ります。

左手に
東山の一里塚があります、南塚を残しています、元和二年(1616)塩尻峠が開通し、中仙道が牛首峠経由から塩尻峠経由に変更され際に築造された一里塚跡です。

江戸日本橋より数えて五十七里目です。

スグ先の
十字路は直進します、右はれんげつつじの名所高ボッチ高原(8km)に通じています。

先の
Y字路は左に進みます。
東山の一里塚 十字路 Y字路

 左手の木立の下に東明神社があります、神武様と呼ばれる東祖神社新宮と呼ばれる東山神社が合祀したもので、旧東山村の鎮守です。

街道は直進ですが、左の
東明神社への分岐点に馬頭観世音文字塔半僧坊大権現道祖神が並んでいます。

峠道をグングン下ると左手に
雀おどり(雀返し)を屋根に掲げた本棟造りの旧家があります。

スグ先で
国道20号線に架かる塩尻市東山歩道橋に突き当たります。
東明神社 石塔群 本棟造りの旧家 国道20号線歩道橋

 街道は
国道に合流せず、歩道橋の右(白色矢印)に進みます。

 右手の大木に犬飼の清水跡標柱が立掛けてあります、旅のさなかにある公家愛犬が急に苦しみだしたが、この清水を飲ませると回復したといいます。

この清水は
木曽路名所図会にも記載されています。

旧道は左に回り込んで
国道20号線に合流します、京方面からは正面の歩道橋の手前を左に入ります。

一本目の斜め右の
上り坂に進みます。

旧道沿いには
赤松が聳えています。
犬飼の清水跡 国道合流点 国道分岐点 赤松旧道

 旧道を進むと右手の斜面上に牛馬守護神が祀られています、この辺りに新茶屋立場がありましたが、標識等はありません。

下り坂の
永井坂をグングン進み、国道20号線地下道でくぐります。

更に
永井坂を下り、長野自動車道柿沢跨道橋で渡ります、橋上から西に見える山並みは乗鞍岳です。

眼下に見える
みどり湖PAサービスエリアは歩行者でも利用可能です。

先の右手に
馬頭観世音文字塔があります。
牛馬守護神 地下道 柿沢跨道橋 馬頭観音

嘉永六年(1853)の建立です。


 更に永井坂を下ると左手に首塚胴塚案内があります、案内に従って進むと首塚があり、畑の奥に胴塚があります。

天文十七年(1548)甲斐の
武田信玄軍と松本の小笠原長時軍が永井坂で激突、小笠原軍は大敗し退却しました。

信玄軍は
首実検後遺体を放置したまま引き上げた為、柿沢の村人がこれを哀れみここに埋葬したものです。

長時の子
貞慶(さだよし)は家康に見出され嘉永九年(1632)小倉藩十五万石として復活し、維新まで続きました。
首塚胴塚案内 首塚 胴塚位置 胴塚

 首塚胴塚碑の揮毫は
長時の子孫の海軍中将小笠原長生(ながなり)の筆によるものです、首塚脇には歌碑「野に山に 討死なせ 益良男の あとなつかしき 柿沢の畔」があります。

 街道に戻ると喰い違いの十字路の右手に男女双体道祖神が祀られています。

ここを右に入ると
丸山の麓に八幡神社があります、参道口には多数の石塔が並んでいます、社殿は段上に鎮座しています。

祭神は
応神天皇品陀和気命(ホムダワケノミコト)を祀っています。

緩やかな永井坂を下り、右手の柿沢公民館を過ぎると右手に
雀おどり(雀返し)を屋根に掲げた豪壮な本棟造りの旧家があります。

街道側には
道祖神が祀られています。
男女双体道祖神 八幡神社 本棟造りの旧家 道祖神

 本棟造りの旧家の向いに柿沢村の高札場が復元されています。

先の下北沢交差点手前の右手に
道祖神が祀られています。

スグ先の尖がり屋根の
火の見ヤグラ左(白色矢印)の旧道に入ります。

旧道を進み、突当りの
国道153号線を右折し、四沢川緑並橋で渡ります。

京方面からは
四沢川緑並橋で渡り、渡り詰を斜め左に入り、先で下柿沢交差点を横断します。
高札場跡 道祖神 下柿沢分岐 緑並橋分岐

 国道を進むと右手に男女双体道祖神があります、抱擁像であるところからお女郎道祖神とも呼ばれます。

道祖神脇を右に進むと高野山真言宗慈眼山
永福寺があります、永福寺の創建は元禄十五年(1702)木曽義仲縁の地である現在地に木曽義仲信仰の馬頭観世音を本尊として朝日観音堂を建立したのが始まりです。

現在の
観音堂は焼失後の安政二年(1855)に再建されたものです。
お女郎道祖神 朝日観音堂 永福寺仁王門 柿沢一里塚跡

 
仁王門(山門)は明治二十七年(1894)の建立です、棟梁立川(立木)音四朗種清の手によるものです。

仲町交差点手前の右手に
柿沢一里塚跡碑が新設されました、柿沢の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて五十八里目です。

 PM5:12 塩尻宿着 塩尻JRガード迄2.1km

 仲町交差点を横断すると、右手に是より中山道塩尻宿標石があります、ここが塩尻宿の江戸(東口)です、塩尻宿に到着です!

塩尻宿三州街道(伊那街道)、五千石街道(糸魚川街道)、松本街道(善光寺西街道)の要衝で、東に塩尻峠を控え、大いに賑わい、旅籠数は中山道二番の多さでした。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によれば、塩尻宿宿内家数は百六十六軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠七十五軒で、宿内人口は七百九十四人(男四百十一人 女三百八十三人)でした。

文政十一年(1828)と明治十五年(1882)の二度の
大火で宿並は灰燼に帰してしまいました。

標石の向いに
道祖神があります、宿口にあって悪霊の侵入を見張っています。
塩尻宿東口 道祖神&遠忌碑

 道祖神の裏には明治十四年(1881)建立の南妙法蓮華経の題目が刻まれた
南無日蓮大菩薩六百遠忌碑があります、遠忌(おんき)とは五十年毎に行う宗祖の回忌法要のことです。

 宿並に入ると左手に阿禮神社御旅宮があります、阿禮神社は柿沢の奥の院に祀られているが、祭礼の時だけここまで下りて来ます。

次いで左手に
三州街道の追分があります、伊那街道とも呼ばれ、岡崎に通じています、三河信濃を結んでいました。

三州街道からは太平洋の
(表)が入りました。

先の右手に
松本藩塩尻口留番所跡標石があります、塩、米、材木、女人等を取り締まった。

次いで右手に
十王堂跡標柱があります。
阿禮神社御旅宮 三州街道 口留番所跡 十王堂跡

 十王堂跡標石の脇に男女双体道祖神庚申塔、文化十三年(1816)建立の南無阿弥陀仏名号碑等があります。

先の右手に
五千石街道があります、追分には五千石街道標石があります。

五千石街道は
松本を経由して糸魚川に通じています、ここからは日本海の(裏)が入りました、これらの塩が落合う終着点(尻)から塩尻の地名となりました。

先の右手に
小野家住宅(国重要文化財)があります、嘉永三年(1850)築の旅籠いてふや(銀杏屋)です。
石塔群 五千石街道 五千石街道 旅籠いてふ屋跡

 明治十五年(1882)の
大火を免れた唯一の建物です、客室にはなどを建具や壁に描き、絵から部屋の名を付けています、なかでも桜の間は天井にまで極彩色の桜を描き、当時の宿場の風潮の一端を如実に現し、幕末における宿場の雰囲気を今に残しています。

 塩尻町交差点の左手に塩尻宿上問屋跡標石があります、当初問屋場は一軒で小口源左衛門が勤めましたが、寛永十年(1633)退職し、その後問屋場は二軒になり、上問屋場吉江家が勤めました。

宿並を挟んだ向いが
下問屋場跡です、平林家が勤めました、ここには高札場(標石)がありました。

上問屋場の並びに
明治天皇鹽(塩)尻行在所碑があります、次いで塩尻宿本陣跡標石があります。

本陣職は
小口家から平林家に変わり、明和八年(1771)からは造り酒屋を兼ねた川上家が勤めました、間口二十四間、建坪三百六十七坪で中山道最大の規模でしたが明治十五年(1882)の大火で焼失しました。
上問屋跡 下問屋跡 明治天皇碑 本陣跡

 
皇女和宮は川上本陣にて昼食を摂りました、明治天皇は旧本陣川上家を宿所としました。

 本陣の隣りが脇本陣跡(標石)です、川上喜十郎が勤めました、間口十六間、門構玄関付、敷地百七十坪、建坪二百七十坪でしたが明治十五年の大火で焼失しました、敷地跡には庭石等を残しています。

並びの
笑亀酒造陣屋跡(標石)です、当初松本藩領でしたが、享保十年(1725)幕府直轄領(天領)になり、ここに陣屋が置かれ、以降十八年間信濃國五万三千石を支配しました。

笑亀酒造は明治十六年(1883)創業の銘酒笑亀(しょうき)の蔵元です、海鼠(なまこ)壁で覆われた穀蔵は国登録有形文化財指定です。

先に進むと
塩尻市塩尻町歩道橋があります、左側の袂に塩尻宿駕籠立場跡標石があります。
脇本陣跡 陣屋跡 駕籠立場跡

 宿並は塩尻市塩尻町歩道橋の手前を 斜め右に入ります、この分岐点に塩尻宿中山道鉤の手跡標石(黄色丸囲み)があります、枡形跡です。

枡形に入ると右手に
阿礼神社があります、延喜式神名帳に記載された古社です。

武運祈願の神として篤く信仰され、延暦年間(782〜806)蝦夷征伐に向かう
坂上田村麻呂や治承四年(1180)木曽義仲も参拝しています。

社殿は享保三年(1718)の再建です。

塩尻東小学校の正門前に
是より中山道塩尻宿標石があります、塩尻宿(西)です。
鉤の手 鉤の手標石 阿礼神社 塩尻宿西口

 塩尻町から掘ノ内に入ると右手に男女双体道祖神が祀られています。

並びに
堀内家住宅(国重文)があります、旧堀ノ内村の名主を勤めた豪農です。

堀内家住宅は十八世紀後半(約二百年前)の建築で、
本棟造の中でも大型上質で、この系統民家の一頂点を示すものです。

先に進むと
大小屋に入り、国道153号線の大小屋交差点に突き当たります、交差点手前の左手に蠶玉大神秋葉大神庚申塔道祖神南無阿弥陀佛名号碑等の石塔が並んでいます。
道祖神 堀内家住宅 石塔群 大小屋旧道東口

大小屋交差点を横断し、斜め左の
大小屋旧道に入ります。

 左のカモシカリース看板と右の飯田犬猫病院看板の間の細道に入ります、U字溝のフタ上が大小屋旧道です。

旧道は
田川の土手道に突き当ります、右(白色矢印)に迂回し、左折(白色矢印)して塩尻橋田川を跨ぎます。

田川高ボッチ山に源を発し、流末は奈良井川に落合います。

街道は先の
下大門交差点三叉路を左に進みます、右は松本街道です、松本城下へ四里半で、善光寺西街道に通じています。
大小屋旧道 大小屋旧道西口 田川 大門神社

 右手に
大門神社があります、若宮八幡柴宮八幡が合祀し大門神社となりました、境内の大ケヤキは樹齢三百年です、昭和三十五年(1960)境内から日本最北の弥生銅鐸が出土しました。

 大門神社の並びに耳塚神社があります、耳の形に似た素焼きのに穴を開けて奉納すると、耳の聞えが良くなると評判でした。

天文十七年(1548)
桔梗ケ原の合戦武田信玄小笠原長時が激突し、武田軍が勝利し、討ち死にした将兵の耳を葬った所ともいわれます。

先の右手人家の前に
男女双体道祖神が祀られています。

大門二番町に入ると左手に
カネホン酒店があります。

屋号を良く見ると、大工道具の曲尺(かねじゃく)の中にの一字が記されています、これでカネホンです、粋なもんですね。
耳塚神社 男女双体道祖神 カネホン酒店

 PM5:52 塩尻JR中央線ガ−ド

中央本線ガード 道祖神&御神燈 祝杯!
 目の前がJR中央本線ガードです、本日はここまでです、ここを右折(黄色矢印)するとJR中央本線塩尻駅です。

右折すると左手に
有明山御神燈があり、石祠道祖神が祀られています。

JR塩尻駅に直行です、今宵は今流行のウィスキーの
ハイボールです、つまみはマンゴーのドライフルーツです、トロピカルですね!!

ここからは横浜までJR中央本線
普通列車の長旅です!!!





前 御代田 〜 落合橋 次 塩尻 〜 奈良井