昨日、仕込んでおいたカップそばと握り2個を食します!!普段はさして美味いとは思いませんが旅先では行けます!!! これに十分な水分補給を行います、お腹はタッポンタッポンです。 本日は名だたる和田峠そして塩尻峠が控えています。 天気予報は上々です! それでは宿を後にしましょう。
右手の家屋は木曽路に多く見られる、石置き屋根になっています。
公民館の手前に寛政十二年(1800)建立の天王夜燈、宝暦二年(1752)建立の西国巡礼供養塔、青面金剛像庚申塔、石祠等があります。
ミミズに感謝して祀ったものです、ミミズは良質な土壌を生成し、解熱剤にもなりました。
道祖神等が並んでいます。
宿並は下町、中町、上町、橋場新田の四町で構成され、宿長は七町五十八間(約870m)でした。
後に和田宿の守護神となりました、拝殿と覆屋を併合した茅葺き入母屋の珍しい造りです、境内の御神燈は文化九年(1812)と文化十四年(1817)の建立です、ケヤキは推定樹齢三百五十年で長和町指定保存樹木です。
しかし、十一月の皇女和宮の宿泊の為に、幕府よりの拝借金を得て、急遽再建されました。 建物の規模は、間口十二間(約21.6m)、奥行九間(約16.2m)の切妻平入り板葺きの建物で、正面外観は中二階を幅一間(約1.8m)出桁によって持ち出した出桁造りで、中山道本陣としての特徴をよく示しています。 文久元年(1868)十一月六日(十五日目)、皇女和宮は長井本陣に宿泊しました。
建物は文久元年の大火後の再建です、現在の建物は御殿部分のみですが、上段の間等の遺構や皇女和宮の草履を残しています。
先の上町中バス停の所に高札場跡解説があります、正面三間(約5.4m)、奥行七尺(2.1m)の一段高い敷地に正面二間(3.6m)の屋根付き高札場がありました、旅人はここでは笠等の被り物を取るのが習わしでした。
手前に男女双体道祖神が祀られています。
先の右手奥に馬頭観音群があります、次いで左手の食事杉の屋の前に男女双体道祖神があります。 以前は向いに牛宿バス停がありましたが、無くなっています、この辺りには二軒の茶屋があり、うち一軒は塩つけ宿と呼ばれる中牛馬稼ぎの牛宿でした、信州の特産品を上州まで運び、帰路は貴重な塩を持ち帰りました。
何故か橋柱には和田川、傍らの標識には一級河川依田川と表記されています、旧道は大出から唐沢に入ります。
古中仙道は天保期に街道の付け替えが行われ、その結果取り残されました、しかし今回は旧中山道を進みましょう、国道142号線を直進(白色矢印)します、街道ウォークは往復でワンセットです、復路で通行しましょう。
スグ先の左手に消防用ホース格納庫があります、ここを左に入り、突当りの草道を右に進みます、枡形跡です。
石段を上り詰めた先に唐沢の一里塚の原型を残しています、江戸日本橋より数えて五十一里目です、天保二年(1831)以前の街道の付け替えにより一里塚は山中に取り残されました、塚の傍らには御嶽山座王大権現、山之神、不動明王、石祠等が祀られています。 それでは国道142号線に戻りましょう。
並びに中北道標「←笠取峠17.1km 東餅屋(和田峠)3.5km→」があります。 Y字路を右(白色矢印)の美ケ原高原・霧ケ峰高原方面に進みます。
内訳は千手観音十三体、如意輪観音四体、馬頭観音十体、不明二体で、四体は未発見です。 これらの観音像は和田峠の難所を往来する人馬の無事を祈って祀られたものです。
以前は接待茶屋の敷地内に湧水がありましたが、今は道路を挟んだ向かいに移転しています、ペットボトルを沢山積んだ車が並んで順番を待っています。 途中割り込みで賞味です、相変わらずうまい!
厳冬期の峠越えの強い味方でした、避難小屋を過ぎると苔むした石畳道になります。
この黒曜石は石器の材料になりました、和田川の段丘には数多くの後期旧石器時代の遺跡群が形成されていました、特に広原の一里塚からこのキャンプ場、そして湿原の周辺に、多数の遺跡が集中しています。
碑には三峯神社、山之神社、諏訪神社、建部神社の四社が刻まれています。
このビーナスラインの横断ポイントには青色中山道道標「←ビーナスラインを横断(3ケ所車に注意)頂上へ700m」「コルゲートをくぐり東餅屋を経て接待へ2.5km→」があります。
標識「是より崖道 足元注意」標識があります、崖地には丸太による桟(かけはし)が架けられています。
この戦いによって高島藩は四名、松本藩は四名、水戸天狗勢は十余名の戦死者を出しました。
旧道は国道142号線に合流します、京方面からは大樋橋の手前を右に入り、スグのY字路を右に進みます、ここに中北道標があります。
ここより先は逆S字状に進みます、右に回り込み、国道142号線を横断し、向いに入り左に回り込みます、これが逆S字状分岐です、枡形跡です。
ジェットエンジンのような轟音が響いてきます、以前はこの施設を抜けて荻原旧道に入れましたが、今は通行不可です。
京方面からは六峰温泉手前左の草道を下ります。
坂を下り切るとT字路に突き当たります、ここを左折(白色矢印)します、この分岐点には中山道道標があります、旧道は上り坂になります。
甲州道中の御射山祭りの神事の様を描写しています。
砥川沿いの落合旧道は喧騒から解き放たれ、静けさが漂っています。 この旧道も間もなく国道142号線に突当ります、左折(白色矢印)します、この分岐点には中北道標「←諏訪大社下社(秋宮)2.4km 和田峠9.6km→」があります。
山之神の背後の山は宝暦の頃(1750年代)白鷺が巣をかける瑞兆があったところから白鷺山と呼ばれ、山頂には石尊大権現と白鷺稲荷大明神が鎮座し、山中には三十体に及ぶ神仏碑が祀られています。
ここが下諏訪旧道東口(白色矢印)です、この分岐点には中山道標識があります。
万治の石仏は万治三年(1660)の建立です、春宮の石の大鳥居を造る際、石工がこの石にノミを打つと、血が流れ出たといいます、そこで石工はこの石に阿弥陀如来を刻んで霊を鎮めたといいます。
すると和尚は境内の大石の上に立って「私を弓で射てみよ」といい、至近の距離から射掛けさせたところ、矢は全て岩で跳ね返されて和尚には一本の矢も当たりませんでした、不思議に思った信玄が尋ねてみると「この石には矢除けの霊力がある」といいました。 信玄はこの念力がこもった矢除札を受けて、勇躍戦場に向ったといいます。
梵鐘は応安元年(1368)の鋳造で形音銘ともに優れたもので長野県指定文化財です。 境内の天桂の松は戦国時代、当寺の住持天桂玄長禅師が植えた名木で、下諏訪町指定文化財天然記念物です。
グングンと街道を下ると左手に宣教発祥の地碑があります、明治三十八年(1905)フィンランドの女性宣教師二名による日本伝道がこの地より始められました。
旅人達が女中の給仕で夕餉を摂っています、問題は左端の風呂です、風呂場には火の用心の札が掲げられています、これで沸かし湯と解ります。 中山道で唯一の温泉場の下諏訪宿には各旅籠に風呂は無く、共同浴場の綿の湯に浸かりました。
今は今井邦子文学館になっています、今井邦子は昭和の女流歌人で文学館は祖父母が営んだ茶屋松屋跡です、アララギ派の女性短歌結社明日香の編集所としても使われました。
地蔵堂前には和泉式部供養塔と和泉式部歌碑「あらさら無(む) この世のほか能(の) 於(お)も悲(ひ)でに 以(い)ま飛(ひ)とたびの 阿(あ)ふこともか那(な)」があります。
木喰(もくじき)上人は特定の寺院や宗派に属さず、全国を遍歴して修業した行者で、訪れた先に一木造の仏像を刻んで奉納しました。
本陣の門脇に明治天皇下諏訪御小休所碑があります、明治十三年(1880)巡幸の際、休息所になりました。
やましい者が入ると神の怒りに触れて、湯口が濁ったといいます、この湯口の清濁は下社七不思議の一つに数えられています。
下諏訪宿場資料、和宮降嫁関係文書、和田嶺合戦資料、赤報隊関係資料等が展示されています。
ところが官軍は急な倒幕の為、各所で献金を強要し、これらの罪を赤報隊に被せ、慶応四年(1868)偽官軍の罪で隊長相良総三以下幹部八名を斬首しました。 しかし昭和三年(1928)潔白が証明され正五位が追贈、靖国神社に合祀され、汚名がそそがれました。
地元ではおひぎりさまと呼ばれ、毎月二十三日の縁日は今でも賑わいます。
交差点にあるコンビニでお握り弁当を購入し、駐車場の日影に坐って手短な食事タイムとしました。
大橋を渡ると左手の草地に天満宮、道祖神、蠶玉神社が祀られています。
冠木門脇に今井番所跡碑があります、高島藩(諏訪藩)が設けた口留番所(穀留番所)です。
先の右手の擁壁上に不動尊石塔があります。
御神渡が生じると湖面上の歩行が可能になったといいます、中馬や旅人が湖面上を歩いています。
とりわけ足腰の弱い人に対して霊験あらたかといわれ、草鞋(わらじ)が多数奉納されています。
夜歩きの旅人を驚かし、そのすきに旅人の持っている提灯のロウソクを奪ったといいます、ムジナはロウソクの油が大好物でした。 更に勾配が強くなると左手に馬頭観音文字塔があります、旅人の安全を見守っています。
塩尻峠は中央分水嶺になっています、岡谷側に降った雨は天竜川となって太平洋に注ぎ、塩尻側に降った雨は犀川となり、千曲川、信濃川と名を変え日本海に注いでいます。
茶屋本陣向側の手前の石段上には大きな馬頭観世音文字塔が安置され、茶屋本陣の向いには明治天皇塩尻嶺御膳水碑があり、その裏手には井戸を残しています。
その様がとても尋常な人間とは思えなかったため、若者は怖くなり逃げてしまったといいます。
街道は国道に合流せず、歩道橋の右(白色矢印)に進みます。
嘉永六年(1853)の建立です。
首塚胴塚碑の揮毫は長時の子孫の海軍中将小笠原長生(ながなり)の筆によるものです、首塚脇には歌碑「野に山に 討死なせ 益良男の あとなつかしき 柿沢の畔」があります。
仁王門(山門)は明治二十七年(1894)の建立です、棟梁立川(立木)音四朗種清の手によるものです。 仲町交差点手前の右手に柿沢一里塚跡碑が新設されました、柿沢の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて五十八里目です。
道祖神の裏には明治十四年(1881)建立の南妙法蓮華経の題目が刻まれた南無日蓮大菩薩六百遠忌碑があります、遠忌(おんき)とは五十年毎に行う宗祖の回忌法要のことです。
明治十五年(1882)の大火を免れた唯一の建物です、客室には鶴、松などを建具や壁に描き、絵から部屋の名を付けています、なかでも桜の間は天井にまで極彩色の桜を描き、当時の宿場の風潮の一端を如実に現し、幕末における宿場の雰囲気を今に残しています。
皇女和宮は川上本陣にて昼食を摂りました、明治天皇は旧本陣川上家を宿所としました。
大小屋交差点を横断し、斜め左の大小屋旧道に入ります。
右手に大門神社があります、若宮八幡と柴宮八幡が合祀し大門神社となりました、境内の大ケヤキは樹齢三百年です、昭和三十五年(1960)境内から日本最北の弥生銅鐸が出土しました。
右折すると左手に有明山御神燈があり、石祠道祖神が祀られています。 JR塩尻駅に直行です、今宵は今流行のウィスキーのハイボールです、つまみはマンゴーのドライフルーツです、トロピカルですね!! ここからは横浜までJR中央本線普通列車の長旅です!!!
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