サア、中山道もいよいよ木曽路に入ります。
三留野迄はJR中央本線がカバーしています、ここは尺取虫で行きましょう。 本来であれば往復に費やす所要時間及び乗車賃を考慮すると、宿泊ウォークに軍配が上がります。 しかしながら宿泊を入れると、日程が立てずらくなります、増してやそれに天気を加味すると余計です。 ここはサックと行ける日帰りウォークとしましょう。 久し振りに東神奈川駅前の松屋でフレッシュトマトカレーです、相変わらず薬膳風です! 今年の夏も暑い、車中では熱中症対策の水分補給をシッカリ行います。
街道正面には穂高の山並みが遥かに望めます。
先の十字路を左に入ると国史跡平出遺跡があります、縄文時代から平安時代にかけての大集落跡で、古墳時代(約千三百年前)の竪穴式住居等が復元されています。
宗賀(そうが)の旧道痕跡は宿食堂宗賀の手前で国道19号線に吸収されます。 京方面からは宿食堂宗賀先を斜め左に入ります。
県道304号(−)本山床尾線に入ります、スグ先の右手に洗馬郵便局が現れたら正解です。
そもまま直進する県道304号線は昭和七年(1932)の旧洗馬宿の大火以降に開通した新道です。
本陣先の左手に荷物貫目改(かんめあらため)所跡があります、問屋場が扱う荷物の目方を検査する役所でした。 中山道では板橋、追分とここの三宿に置かれました、規定の重量を越えた荷物に増賃金を徴収するなど、伝馬役の加重負担を防止しました。
これらの石造群は本山宿の下木戸(江戸口)にあったものです。
下木戸跡には本山そばの里看板があります、ここを右(黄色矢印)に入ると地元のおばあちゃん達が切り盛りする名物蕎麦が賞味できます。
解説には「下社(諏訪社)は昭和二十六年(1951)に上社である八幡宮に合祀され、本山神社となった」と記されています。 背後には明治三十二年(1899)日露戦争で戦死した故陸軍砲兵小口藤雄君碑があります。
皇女和宮は十一月四日、十三日目の夜を小林本陣にて過ごしました。 皇女和宮降嫁に際しては京方二万人、江戸方一万五千人、松本藩などの警護一万人、助郷人足など総勢八万人が四日間にわたり大行列が通行しました、助郷二万人、馬二千疋などの仮小屋は洗馬宿まで連なり、夜は二千本の提灯の灯りで昼間のようであったいいます。
馬頭観音、念仏供養塔(宝暦五年十月)、徳本南無阿弥陀仏名号碑(文政二年九月)、庚申塔(寛政十二年 上町中町)、奉廻国六十六部供養塔等が並んでいます。
国道19号線を跨道橋で渡ると右手に本山神社があります、下社(諏訪社)は昭和二十六年(1951)に上社である八幡宮に合祀され、本山神社となりました。
しかし 明治四年(1871)松本藩の厳しい廃仏毀釈により、廃寺となりました。
(株)シンセイ脇に伝説日出塩の青木解説があります、シンセイの裏に青木大神碑と日出塩の青木標柱があります、 貴人の塚の上にかつて大桧があり「洗馬の肱松日出塩の青木お江戸屏風の絵にござる」と詠われました。
立場名物は熊の皮や熊胆(くまのい)でした。
左手のJR中央本線ガードをくぐって、右手を上ると熊野神社が鎮座しています、日出塩村の鎮守です。
左手のホテルアルファの横に上り坂(黄色矢印)があります、ここが江戸初期の古中仙道西口です。 古仲山道は慶長六年(1601)大久保長安によって整備されました、下諏訪から岡谷を経て三沢(小野)峠を越して小野へ出て、牛首峠を越してここに出ました。 しかしながら長安が没すると下諏訪から塩尻峠を越えて塩尻に出る道筋に変更されました。
左手の斜面には厄除馬頭観世音文字塔と馬頭観音像が祀られ、旅人の安全を見守っています。
建物前には明治天皇櫻澤御膳水碑、蔵の前には明治天皇櫻澤御小休所碑、明治天皇御駐輦跡碑があります、茶屋本陣には上段の間と次の間を残しています。
片平旧道西口の右手斜面上に白山神社が鎮座しています、白山比((しらやまひめ)神社を総本社とし、人に和を与える神を祀っています。
「是より南木曽路碑1.4km→」があります。
街道チャリダーKさんが踏み込んでくれました、沢には橋が架かっていましたが崩落している為、通行不可です。
以前は児童の通学路であった為、きれいに整備されていましたが、その役目が終わったのでしょう、雑草が伸び放題になっています、チョットした藪漕ぎ(やぶこぎ)状態です。
この中北道標は国道の迂回路を示すものです、京方面からの街道ウォーカーさん、無視して、直進して下さい。
並びの酒店辺りが贄川宿脇本陣跡です、贄川家が勤めました。
京方面からの右折ポイントは164K3道路標識です。
本殿(塩尻市有形文化財)は延享四年(1747)の再建、拝殿は慶応元年(1865)の建立、麻衣廼は木曽の枕詞(まくらことば)になっています、六年目ごとの虎年と申年に御柱祭りを行います。
先に進み、斜め左の長瀬旧道に入ります、分岐点には旧中仙道標識や中北道標「←平沢1.8km/贄川宿1.6km JR贄川駅2.5km→」があります。
そばは絶品です!!! ここで初めて木曽路に出会ったような気がします、旨かった!!!!
敷地名の右手に芭蕉翁句碑「送られつ をくりつ果ては 木曽の秋」は宝暦十一年(1761)木曽代官山村甚兵衛良啓(たかひら)が建立したものです。 句碑奥右手の諏訪坂の砂利道に入ります、これが旧中山道です。
「木曽くらしの工芸館0.9km→」があります、京方面からは斜め右の石段を上ります。
町外れの右手に津島神社が鎮座しています、境内には道祖神や御嶽山三社大神が祀られています。 境内の京よりに中北道標「←JR奈良井駅1.7km/JR木曽平沢駅0.5km 諏訪神社0.7km→」があります、京方面からはY字路を右に進みます。
しかしながらこの小橋は渡らずに直進し、先の奈良井川橋で奈良井川を渡ります。 橋の袂の左手(黄色丸囲)に近世の自然石道標「右中山道 左国道」があります。
これらの木曽五木は尾張藩の厳しい統制化に置かれ、枝一本腕一本、木一本首一つといわれました。
地蔵堂の前に聖観音をはじめ千手観音、如意輪観音などの観音像が二百体近く合わせて祀られています。 明治期の国道開削、鉄道敷設の際に奈良井宿周辺から集められたものです。
かつてここに横水と呼ばれる沢がありました、ちょうどこの沢が下町と中町の境でした、中町には宿場機能が集中していました。
当寺は寛永十年(1633)徳川三代将軍家光により制度化されたお茶壺道中の宿泊所でした、拝領の茶壺を残しています、山門は本陣門を移設したものです。
小屋根を押さえる桟木は形状から猿頭(さるがしら)と呼ばれ、庇は数枚の板を段状に並べ武者鎧に見えるところから鎧庇(よろいひさし)と呼ばれます。 この小屋根部分は泥棒除けです、逆さ釘(釘を下から打って止めている)になっています、もし人がこの小屋根部分に乗ると、釘は抜けて庇ごと下に落ちる仕掛けになっています。
本殿は寛文四年(1664)築で塩尻市指定有形文化財です。
時計を見ると午後4時を回っています。 今から鳥居峠を越えて、藪原駅から横浜に向かう最終電車に乗るのはギリギリです。 ここは切り良く、諦めましょう。 こうなれば宿内で軽く一人打上げです。 食事処の越後屋の暖簾をくぐります。 盛夏の中の街道ウォーク、打ち上げは生ビールです! お通しにきゃらぶきが付きます、これが実にウマイ、エグ味が無く、醤油と旨味と甘みが一体になっています!! 名物の五平餅をオーダーしました、出てきたのは焼きお握り風でした、女将さんに伺うと、妻籠や馬籠の五平餅は小判型に餅を伸ばし、これに味噌を塗って焼きますが、奈良井の五平餅は餅を単独で焼いてから味噌を塗るのだそうです!!! これにキュウリの漬物が付きます、ウマイ、そしてボリュームがあります、満腹です!!!!
|