道中日記 3−181 中山道 ( 塩尻 - 奈良井 ) 22.4km

 サア、中山道もいよいよ木曽路に入ります。


トマトカレー 水分補給

 三留野
迄はJR中央本線がカバーしています、ここは尺取虫で行きましょう。

本来であれば往復に費やす
所要時間及び乗車賃を考慮すると、宿泊ウォークに軍配が上がります。

しかしながら
宿泊を入れると、日程が立てずらくなります、増してやそれに天気を加味すると余計です。

ここはサックと行ける
日帰りウォークとしましょう。

久し振りに東神奈川駅前の松屋で
フレッシュトマトカレーです、相変わらず薬膳風です!

今年の夏も暑い、車中では
熱中症対策の水分補給をシッカリ行います。

 平成23年07月24日 AM 9:39 塩尻ガード出立 洗馬宿まで4.5km

 JR中央本線のガードが本日の出立ポイントです。

真夏の陽が降り注ぐ中、モンベルの
ステンレスメッシュホップハットを被りスタートです。

ガードをくぐると左手に
山田食堂があります、この辺りの貴重な食堂です、味付けの濃い昨今、このお店は超薄味です。

県道305号床尾太門線の
一本道を進みます。

昭和電工敷地内の
メタセコイヤの並木は丈が詰められています、以前は街道に覆い被さるような迫力がありました。

昭和電工を過ぎると左右に広がる田畑一帯は天文十七年(1548)
武田信玄小笠原長時が激突した桔梗ケ原です。
中央本線ガード 山田食堂 昭和電工の並木

 街道正面には
穂高の山並みが遥かに望めます。

 平出遺跡交差点を越すと平出の一里塚があります、両塚が現存しています、江戸日本橋より数えて五十九里目です。

南塚の
初代松勘助子育ての松と呼ばれました。

桔梗ケ原合戦の際、
武田信玄の軍師山本勘助赤子を拾い上げ、この松の根方に寝かせ、合戦に勝利後、松に戻ると、赤子は松の葉から落ちる雫を母親の乳のように口に含んでいたところから勘助子育ての松と呼ばれ、母親がこの松葉を煎じて飲むと乳の出が良くなるといわれ乳松とも呼ばれました。

宝暦六年(1756)頃には、この付近に
茶屋が二軒あったといいます。
平出一里塚(南塚) 平出一里塚(北塚) 国史跡平出遺跡

 先の十字路を左に入ると
国史跡平出遺跡があります、縄文時代から平安時代にかけての大集落跡で、古墳時代(約千三百年前)の竪穴式住居等が復元されています。

 先でJR中央本線を第一中仙道踏切で横断します。

街道の両側には
ブドウ畑があります、 街道右手の長野県野菜花き試験場を過ぎると、左手にワイナリーがあります。

私は余り
ワインを好みません、ワイン好きのウンチクも又しかりです、男は黙って・・・・・です!

中仙道一里塚交差点を左折し、国道19号線に合流します。

左折すると右手に
旧道痕跡があります。
第1仲仙道踏切 ワイナリー 一里塚交差点 宗賀の旧道痕跡

 宗賀(そうが)の旧道痕跡は
宿食堂宗賀の手前で国道19号線に吸収されます。

京方面からは
宿食堂宗賀先を斜め左に入ります。

 宿食堂宗賀(0263-52-8768)は民宿です、宿泊3000円の看板が掲げられています。

ブドウ畑や野菜畑が左右に広がる
国道19号線を進みます。

コスモ石油ガソリンスタンドが現れたら、斜め左の草道に入ります、二間幅の草道は往時のままです。

草道は先で擁壁に突き当たります、左のスロープを上り、上り切りをUターンして平出歴史公園交差点にて国道19号線を横断します。
宿食堂宗賀 宗賀旧道東口 宗賀旧道西口 県道304号線

 県道304号(−)本山床尾線に入ります、スグ先の右手に
洗馬郵便局が現れたら正解です。

 洗馬郵便局先を左にカーブすると街道の右手に肱懸松が現れます。

細川幽斎(藤孝)は「肱懸けて しばし憩える 松陰に たもと涼しく 通う河風」と詠んだとされ、徳川二代目将軍秀忠も上洛の際に、肱を懸けて休んだといいます。

この松は「洗馬の肱松日出塩の青木お江戸屏風の絵にござる」と歌われた
赤松の名木です。

肱懸松脇を斜め右に下り、
枡形を進みます、これが分去れ旧道です。
肱懸松(肱松) 肱懸松(古写真) 分去れ旧道口 分去れ枡形

 そもまま直進する
県道304号線は昭和七年(1932)の旧洗馬宿の大火以降に開通した新道です。

 AM10:36 洗馬宿着 本山宿まで3.3km

 枡形を辿ると右手に安政四年(1857))建立の分去れ常夜燈があり、前で北国脇往還(善光寺西街道、現県道294号西街道)に突き当たります、ここが善光寺街道分去れです、江戸方面からは左折します、洗馬宿に到着です!

洗馬宿は慶長十九年(1614)中仙道が牛首峠越えから塩尻峠経路に付け替えられた際に、塩尻宿本山宿とともに新設された宿場です、洗馬宿は北国往還善光寺道の追分を控え大いに賑わい、北陸の(ぶり)を煮込んだ洗馬煮が名物でした。

洗馬宿は度々
大火に見舞われ、昭和七年(1932)の大火で宿並のほとんどは灰燼に帰してしまいました。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によれば、洗馬宿宿内家数は百六十三軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠二十九軒で、宿内人口は六百六十一人(男三百四十人 女三百二十一人)でした。
分去れ常夜燈 善光寺西街道追分

 スグ先が現代版の分去れ(追分)です、この分岐点には分去れ道標「右中山道 左北国往還善光寺道」があります、元は分去れ常夜燈の所にあったものです、他に徳本名号碑庚申塔道祖神等があります。

スグ先の右手に
邂逅(あふた)の清水入口標識があります、ここから右(黄色矢印)に入り、土道を下ると塩尻市ふるさと名水20選の一つ邂逅の清水があります。

治承四年(1180)
平氏追討の令旨が下ると木曽義仲は挙兵しました。
現代分去れ 分去れ道標 邂逅の清水入口 邂逅の清水

 小県(ちいさがた)の依田城を目指す途中、ここで家臣今井四郎兼平と出会いました 、これがあふた(会うた)の由来です。

この時
兼平が強行軍で疲弊した義仲の愛馬の足をこの清水で洗うと、馬はたちまち元気を取り戻したといいます、これが洗馬(せば)の地名由来です。

広重は
洗馬として、宿の西を流れる奈良井川の夜景を邂逅の清水辺りから描きました。

川面には
満月の明かりを頼りに進む、柴舟を描き、 絵の中央には洗馬の宿並みが描かれています。

余りにも叙情的に描かれたこの絵は、広重の
最高傑作といわれています。
木曽海道六拾九次之内 洗馬 広重画

 左手のJR中央本線洗馬駅を過ぎると、左手の宗賀農林漁業体験実習館の所に洗馬学校跡解説があります。

明治十一年(1878)に創立した
洗馬学校は近隣に例をみない、廻り階段やバルコニーの付いた洋風三層の校舎で、その威容からバビロン城と呼ばれ、屋上には今井兼平洗馬(せんば)の像が飾られていました。

火の見ヤグラを過ぎると左手に
洗馬宿本陣跡があります、本陣職は百瀬(ももせ)が勤めました。

本陣及び脇本陣庭園は善光寺道名所図会の中で「中山道に稀な」と紹介された名園でしたが、明治四十二年(1909)鉄道の開通によって洗馬駅の敷地となり、昭和七年(1932)の洗馬大火で遺構は焼失しました。
洗馬学校跡 洗馬宿本陣跡 荷物貫目改所跡

 本陣先の左手に
荷物貫目改(かんめあらため)所跡があります、問屋場が扱う荷物の目方を検査する役所でした。

中山道では
板橋追分とここの三宿に置かれました、規定の重量を越えた荷物に増賃金を徴収するなど、伝馬役の加重負担を防止しました。

 並びが洗馬宿脇本陣跡です、志村家が勤め問屋を兼ねました、敷地内には明治天皇御駐輦之處碑があります。

先の右手に朱塗り山門の真宗大谷派正徳山
萬福寺があります。

先左手の洗馬公園内の角に
芭蕉句碑「つゆ(梅雨)はれの わたくし雨や 雲ちぎれ」があります。

公園前には
中山道標柱洗馬宿碑があります、ここが洗馬宿の(西)高札場跡です、御判形(おはんぎょう)と呼ばれました、枡形を意味しています。
洗馬宿脇本陣跡 萬福寺 芭蕉句碑 高札場跡

 洗馬宿を後にすると街道はY字路になります、中山道は直進です、ここを左に入り、JR中央本線尾崎踏切を越した先に言成地蔵尊を安置する地蔵堂があります。

この
言成地蔵尊は「願い事をすれば必ず叶えてくれる」地蔵として篤く信仰を集めました、元は洗馬宿京口の急坂にあって人々の安全を見守っていましたが、余りにも落馬する人が多く、ある時武士が怒ってこの地蔵を斬ってしまった、すると宿住民がこのままでは縁起が悪いと、現在地に地蔵堂を建立して安置しました。

地蔵堂の奥には
洗馬神明宮があります、獅子頭が舞う神明宮大祭の大神楽は塩尻市無形文化財です。

街道に戻り、JR中央本線を
仲仙道架道橋でくぐります。
言成地蔵尊 洗馬神明社 JR中央本線ガード

 左手に塩尻市制30周年記念わがまち30選塩尻の滝社の参道鳥居があります、社殿は国道19号線高架をくぐった先に鎮座しています、社殿の脇には社名の由来になったがあります。

次いで左手の旧牧野公民館下の斜面に
牧野一里塚跡標柱があります牧野の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて六十里目です。

旧牧野公民館並びの段上に
南無妙法蓮華経題目碑等の石塔が並んでいます。

先に進むと左手ガレージ脇の竹藪の中に
馬頭観音像が祀られています。
滝社 牧野一里塚跡 題目碑 馬頭観音

 先に進み、左手の木曽の酒七笑看板を過ぎると街道は右に半円を描いて廻り込みますが、ここに直進する旧道を残しています。

この旧道は先で
牧野交差点に突き当たります、京方面からは牧野交差点の斜め左の細道に入ります。

牧野交差点から先は
国道19号線を進みます。

右手の
カネキカナカオ長野営業所先のY字路を右に進みます、右手にため池があれば正解です。
牧野旧道東口 牧野旧道西口 本山東口 ため池

 ため池脇には大正元年(1912)建立の瀦水墾田(ちょすいこんでん)記念碑があります、瀦水とは貯水の意です。

次いで左手に
中山道本山宿しののめのみち標柱があります。

ここには
秋葉神社が祀られ、並びに下町石造群があります。

秋葉常夜燈道祖神(寛政二年)、馬頭観音像(馬持中二体)、徳本名号碑(文政二年)、地蔵尊(二体)、名号碑(文化二年)、二十三夜塔供養塔庚申塔(二基)が並んでいます。
瀦水墾田記念碑 本山宿標柱 秋葉神社 下町石造群

 これらの
石造群は本山宿の下木戸(江戸口)にあったものです。

 AM11:22 本山宿着 贄川宿まで7.6km

 街道沿いにはそば畑があり、そばの花が満開です!

先に進むと右手に
塩尻市天然記念物池生(いけおい)神社社叢入口標識があります、ここが本山宿の下木戸跡(江戸口)です、本山宿に到着です!

本山宿は木曽路の玄関口として賑わい、松本藩の木曽口の固めとして口留番所が置かれました。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によれば、本山宿宿内家数は百十七軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠三十四軒、宿内人口は五百九十二人(男二百九十七人 女二百九十五人)で、宿長は五町二十間(約581m)でした。

宿場用水は南の二つの沢から山斜面に懸樋(かけい)で引き込み、宿場の中央に用水を通し、五カ所に土橋が掛けられていました。
そば畑 本山宿下木戸跡

 下木戸跡には
本山そばの里看板があります、ここを右(黄色矢印)に入ると地元のおばあちゃん達が切り盛りする名物蕎麦が賞味できます。

 第一回目の中山道ウォークの際に賞味しました。

本山は
そば切り発祥の地といわれています、それまでは蕎麦粉を団子状に丸め、それを押し潰したそばがきで食しましたが、これを薄く延ばし、細く切ったのがそば切りです。

宝永三年(1706)刊の
風俗文選で、芭蕉十哲の一人森川許六が「蕎麦切りといっぱ もと信濃の国本山宿より出で あまねく国々にもてはやされける」と紹介し、本山はそば切り発祥の地として全国に知られるようになりました。

太田南畝壬戌紀行の中で「本山の そば名物と 誰も知る 荷物をここに おろし大根」とひねっています。

宿並を進むと左の小路脇に
下社参道跡解説があります。
本山そばの里 下社参道跡 故陸軍兵士碑

 解説には「下社(諏訪社)は昭和二十六年(1951)に上社である八幡宮に合祀され、本山神社となった」と記されています。

背後には明治三十二年(1899)日露戦争で戦死した
故陸軍砲兵小口藤雄君碑があります。

 先に進むと右手に旧旅籠川口屋池田屋若松屋が宿並に沿って斜交(はすかい)に建てられています。

三軒とも明治二年(1869)の
大火直後の再建で、間口五間(約9m)から七間(約12.6m)の上級旅籠で国の登録有形文化財です。

川口屋二重出梁(にじゅうだしばり)は贄川宿の深澤家住宅(国重要文化財)以外では唯一のものです。

向いが
下問屋跡です、小林本陣が兼ねました、月のうち下十五日を勤めました。

奥が
本陣跡です、代々小林弥右衛門が勤めました、建物前には明治天皇本山行在所跡碑があります。
旧旅籠川口屋 下問屋跡 本山宿本陣跡

 
皇女和宮は十一月四日、十三日目の夜を小林本陣にて過ごしました。

皇女和宮降嫁に際しては京方二万人、江戸方一万五千人、松本藩などの警護一万人、助郷人足など総勢八万人が四日間にわたり大行列が通行しました、助郷二万人、馬二千疋などの仮小屋は洗馬宿まで連なり、夜は二千本の提灯の灯りで昼間のようであったいいます。

 宿並を進むと左手の宗賀分団第二部の隣り、本山公民館の敷地に中山道標石本山宿碑があります、ここが花村脇本陣跡です。

当初
、小野七左衛門が脇本陣を勤めましたが、後に花村家に引き継がれ上問屋を兼ねました、問屋業務は月のうち上十五日を勤めました。

先に進むと右手の本山上町バス停の向い辺りに
口留番所がありました、本山は松本藩領で、南に尾張藩領に接しているため、厳重な取り締まりが行われました、ここが本山宿の上木戸(京口)です。

ここから斜め左の上り坂を進むと
荒澤不動尊があります、堂脇には上町石造群があります。
本山宿脇本陣跡 荒澤不動尊 上町石造群

 馬頭観音、念仏供養塔(宝暦五年十月)、徳本南無阿弥陀仏名号碑(文政二年九月)、庚申塔(寛政十二年 上町中町)、奉廻国六十六部供養塔等が並んでいます。

 境内には天満宮が祀られています。

児童公園の奥には
本山学校跡碑があります、ここが曹洞宗金峰山長久寺跡です。

慶応四年(1868)二月三十日、
長久寺に於いて、信濃松本藩九代藩主戸田光則(みつひさ)は東山道軍総督岩倉具定(ともさだ)に勤王の誓約をしましたが、態度決定の遅れを理由に、三万両の軍資金と兵糧、出兵を命じられ、松本藩の戊辰戦争の始まりとなりました。

長久寺は明治四年(1871)松本藩の厳しい廃仏毀釈により廃寺となりました、明治六年(1873)木材の一部は清行学校(下問屋跡)の校舎として使われ、明治十三年(1880)本山学校は長久寺跡地へ新築移転しました。
天満宮 本山学校跡碑 本山神社

 国道19号線を跨道橋で渡ると右手に
本山神社があります、下社(諏訪社)は昭和二十六年(1951)に上社である八幡宮に合祀され、本山神社となりました。

 宿並に戻ると左手の段上に元治六年(1869)建立の秋葉大権現常夜燈と文政十三年(1803)建立の秋葉大権現碑があります、 本山宿は度々大火に見舞われています、そこで火防の神である秋葉大権現を宿口に祀りました。

ここが
高札場跡です、高札場は高さ二間、長さ二間、横七尺で、上木戸より三十間南に建てられていました。

旧道は
本山宿モニュメントの先で国道19号線に合流します、京方面からは斜め左に入ります。

国道19号線との合流地点の左手が
常光寺観音堂跡です、真言宗小沢山常光寺は中世からの古寺で釜の沢の奥にありましたが天和年間(1680頃)に廃寺となり、以降常光寺観音堂のみが幕末まで残りました。
高札場跡 本山西口 常光寺観音堂跡

 しかし 明治四年(1871)松本藩の厳しい廃仏毀釈により、
廃寺となりました。

 広重が本山として描いた場所の特定には諸説あります。

最も有力な説は本山宿の
西(京口)の外れを、宿方向に向かって描いたというものです、街道は上りから下りにちょうど切り替わっています、本山宿の宿並は東(江戸口)から上り坂の中に構成されています。

これが宿の外れで下りに変わります、ここが正に広重が
本山として描いた場所といわれる根拠です!

強烈な
野分の後でしょうか、松の大木が横倒しになり、丸太で支えられています。

その奥にはすでに切り倒された
切株があります、ではなく、木挽き(こびき)によって倒された痕跡を残しています。
木曽海道六拾九次之内 本山 広重画

 国道19号線の右側を歩きます、正面にはこれから向かう深山幽谷の木曽谷が遥かに望めます。

およそ5分も進むと、斜め右に
砂利道が現れます、躊躇せずここに入ります。

本来は左手にある
釜之沢を高巻する筋が旧道でしたが今は通行不可です。

先でJR中央本線を
第2仲仙道踏切で渡ります、釜之沢の高巻道は丁度この辺りに出てきました。

右手に(株)シンセイがあります。
木曽谷 日出塩東口 第2仲仙道踏切 日出塩の青木

 (株)シンセイ脇に
伝説日出塩の青木解説があります、シンセイの裏に青木大神碑日出塩の青木標柱があります、 貴人の塚の上にかつて大桧があり「洗馬の肱松日出塩の青木お江戸屏風の絵にござる」と詠われました。

 道なりに進むと旧道は上道に合流します、@日出塩分岐です。

スグ先を斜め右の
旧道に入ります、A日出塩分岐です。

スグ先で旧道は再び
上道に合流します、B日出塩分岐です。

この合流点の左手に
一里塚跡標柱があります、日出塩の一里塚跡です、標柱には「江戸より六十一里 京へ七十一里 両側に榎を植えた」と記されています。

旧日出塩村は
立場でした。
@日出塩分岐 A日出塩分岐 B日出塩分岐 日出塩一里塚跡

 立場名物は
熊の皮熊胆(くまのい)でした。

 村内を進むと左手に曹洞宗秀永山長泉寺があります、山門前には庚申塔二十三夜供養塔六地蔵等が並んでいます、山門や本堂には武田菱紋があしらわれています。

左手のJR中央本線の
日出塩駅を過ぎると、左手に筆塚道祖神秋葉大権現碑が祀られています。

国道19号線高架をくぐると左手に
御岳公園(熊野社上方二百米)標柱があります、側面には屏風岩、大滝、木曽路松本平眺望絶佳(ぜっか)、御岳遥拝所、石碑石仏群と記されています。
長泉寺 石塔 御岳公園 熊野神社

 左手のJR中央本線ガードをくぐって、右手を上ると
熊野神社が鎮座しています、日出塩村の鎮守です。

 スグ先を斜め右の細道に入ります、この分岐点には中北道標「←1.2km是より南木曽路碑/JR日出塩駅0.5km 本山宿 1.9km→」があります。

国道19号線高架をくぐります、この細道が
旧道なのか単なる迂回路なのか判然としません。

細道は国道19号線に合流します、この分岐点にも
中北道標「←是より南木曽路碑1.1km JR贄川駅4.6km/JR日出塩駅0.6km 本山宿2.0km→」があります、ここからは国道右側の歩道をしばらく歩きます。
日出塩西の東口 日出塩西 日出塩西の西口 古中仙道口

 左手の
ホテルアルファの横に上り坂(黄色矢印)があります、ここが江戸初期の古中仙道西口です。

古仲山道は慶長六年(1601)大久保長安によって整備されました、下諏訪から岡谷を経て三沢(小野)峠を越して小野へ出て、牛首峠を越してここに出ました。

しかしながら
長安が没すると下諏訪から塩尻峠を越えて塩尻に出る道筋に変更されました。

 是より南(みなみ)木曽路

奈良井川に注ぐ桜沢川(旧境川)に架かる桜沢橋を渡るといよいよ木曽路に入ります。

桜沢橋境橋と往時呼ばれ、尾張松本両藩の境でした、高欄干付刎ね橋の境橋の架橋費用は両藩折半で負担しました。

桜沢橋を渡ると右手に 昭和十五年(1940)百沢立場の
茶屋本陣を勤めた藤屋百瀬榮が建立した是より南(みなみ)木曽路碑があります、裏側には「歌ニ絵ニ其ノ名ヲ知ラレタル、木曽路ハコノ桜沢ヨリ神坂ニ至ル南二十四里ナリ」と刻まれています。

島崎藤村著の夜明け前の冒頭の一節には「木曽路はすべて山の中である。あるところは岨(そば)づたいに行く崖(がけ)の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。東ざかいの桜沢から、西の十曲峠(じつきよく)まで、木曽十一宿(贄川、奈良井、薮原、宮ノ越、福島、上松、須原、野尻、三留野、妻籠、馬籠)はこの街道に添うて、二十二里余にわたる長い渓谷の間に散在していた。」と著されています。
是より南木曽路碑

 それでは木曽路踏破に取り掛かりましょう!

是より南木曽路碑の向いの草道の上り坂が
桜沢旧道の東口です、この坂道には手摺りがありませんから、お気を付け下さい。

ヘアピン状に右にカーブした土道を進みます、眼下には
奈良井川の渓谷が覗き込める、正に崖の道岨道(そばみち)です。

この山道は村人が開削し、
通行料を徴収していたといいます。
桜沢旧道 桜沢旧道東口 岨道 馬頭観音

 左手の斜面には
厄除馬頭観世音文字塔馬頭観音像が祀られ、旅人の安全を見守っています。

 馬頭観音先からは落石防護ネット前の山道を進みます。

先に進むと左手の祠の中に
三面六臂馬頭観音像が安置されています、傍らには道祖神、明和九年(1772)建立の南無阿弥陀仏名号碑があります。

旧道を下ると
国道19号線に合流します、京方面からは桜沢バス停先右手のカーブミラーの所から、斜め右の土道の上り坂に入ります。

右手に桜沢立場
茶屋本陣跡があります、代々藤屋百瀬栄左衛門が勤めました。
馬頭観音 桜沢旧道西口 桜沢茶屋本陣跡 明治天皇碑

 建物前には
明治天皇櫻澤御膳水碑、蔵の前には明治天皇櫻澤御小休所碑明治天皇御駐輦跡碑があります、茶屋本陣には上段の間次の間を残しています。

 国道を進むと右手の眼下に奈良井川片平ダムの景が広がります、奈良井川は木曽駒ケ岳北の茶臼山に源を発し、流末は梓川に落合います。

片平橋の手前を左(白色矢印)に入る筋があります、ここが片平旧道です、しかし残念ながら途中に崩壊地があり通行不可です、片平橋で迂回(黄色矢印)します。

対岸に渡り、左手のガードレールの切れ目から下ると昭和十年(1935)架橋の
PC開腹アーチ橋が残されています、土木学会推薦土木遺産です。
奈良井川 片平橋旧道東口 旧片平橋 片平橋旧道西口

 片平旧道西口の右手斜面上に
白山神社が鎮座しています、白山比((しらやまひめ)神社を総本社とし、人に和を与える神を祀っています。

 国道を進むと右手の奥に庚申塔がひっそりと佇んでいます。

庚申塔の先を斜め右の
片平旧道(白色矢印)に入ります、この分岐点には中北道標「←片平地区を経てJR贄川駅2.2km/是より南木曽路碑1.3km JR日出塩駅3.0km→」があります。

旧片平村の家屋には旧屋号が掲げられています、立場でした。

スグ先で片平旧道は
国道19号線に合流(白色矢印)します、この分岐点には中北道標「←JR贄川駅」
庚申塔 片平旧道東口 旧片平村 片平旧道西口

「是より南木曽路碑1.4km→」があります。


 国道に合流すると右手の段上に曹洞宗飛梅山鶯着寺おうちゃくじ)があります、日出塩の長泉寺の末寺で、本尊は延命地蔵尊です。

飛梅山の山号は、参勤でここを通行した加賀前田侯が命名したと伝わっています、前田家の家紋は梅鉢紋です。

前の塩尻贄川歩道橋を渡ると
庚申供養塔男女双体道祖神摩利支尊天碑御嶽神社碑等があります。

先の右手に
高巻き旧道があります。
鶯着寺 石仏石塔群 高巻き旧道 崩落橋

 
街道チャリダーKさんが踏み込んでくれました、沢にはが架かっていましたが崩落している為、通行不可です。

 国道19号線が大きく左にカーブした先の右手の擁壁上に若神子(わかみこ)の一里塚があります、西塚を残しています、江戸日本橋より数えて六十二里目です。

一里塚先を斜め右の
若神子旧道に入ります、この分岐点には中北道標「←JR贄川駅1.7km/国道経由是より南木曽路碑1.8km→」があります。

旧道に入ると右手の若神子バス停の所に滔々と流れる
水場があります、水屋には津嶋牛頭天王が祀られています。

先の右手にも
水場があります。
若神子の一里塚 若神子旧道東口 水場 水場

 水場先を右に入ると諏訪社があります、若神子村の鎮守です。

旧道に戻ると左手に
青面金剛像庚申塔、天文三年(1534)建立の道祖神、明和二年(1765)建立の廿三夜待供養塔等が並んでいます。

のY字路を右に進みます、この分岐点には中北道標「←JR贄川駅1.3km/桜沢1.8km 是より南木曽路碑2.2km→」があります。

上り坂を進むと、
Y字路が現れます、左の細道に進みます、右は新道です。
諏訪社 石仏石塔群 中畑分岐 新道分岐

 旧道の左下では国道JR中央本線が重なる様に走っています。

旧道が左にカーブすると、右手に直進する
草道があります、ここが草道旧道東口です。

この分岐点には
中北道標「←JR贄川駅1.0km/桜沢2.1km→」があります。

草道に入ると右手に
石仏石塔群があります。

この先は国道上の
草道を進みます。
中畑旧道 草道旧道東口 石仏石塔群 草道

 以前は児童の通学路であった為、きれいに整備されていましたが、その役目が終わったのでしょう、雑草が伸び放題になっています、チョットした
藪漕ぎ(やぶこぎ)状態です。

 道下の集落を過ぎると、明るく開けた草道のY字路になります、左に進み舗装路の下り坂に入ります

この分岐点には
中北道標「←JR贄川駅0.6km/桜沢2.5km→」があります。

舗装路を下り
国道19号線に合流します、京方面からは斜め左手の白いパイプフェンスの上り坂に入ります。

本来の
旧道はこの辺りから国道19号線JR中央本線を斜めに横断し、贄川沢を跨ぎ、贄川関所前に出ましたが、現在は通行不可です、国道19号線の歩道を進みます。

国道を進むと右手の上り坂に
中北道標「←JR贄川駅100m 贄川駅所400m/桜沢3.0km→」があります。
草道西口 国道分岐 中北道標

 この
中北道標は国道の迂回路を示すものです、京方面からの街道ウォーカーさん、無視して、直進して下さい。

 右手の水場を過ぎると、左手がJR中央本線の贄川駅です。

駅を越すと左手に
贄川宿モニュメントがあります。

塩尻市贄川歩道橋下をくぐり、しばらく進むと正面に大きな
標識「←贄川宿入口」が現れます。

左折してJR中央本線を
メロディー橋で跨ぎます、欄干に吊下るパイプを順番に叩くと木曽節を奏でる仕組みになっています。

突当りの左手に
贄川関所があります。
水場 贄川宿モニュメント 贄川宿口 メロディー橋

 PM1:20 贄川宿着 奈良井宿まで7.0km

 石置き屋根の贄川関所が復元されています、関所前の街道が草道旧道からの本来の旧道筋です。

木曽路は尾張藩領で、贄川は松本藩との領界にあたるため、木曽路の北口に福島関所副関所が置かれ、入り鉄砲に出女木曽五木の搬出を厳しく取り締まり、尾張藩の北番所とも呼ばれました。

関所を出ると
贄川宿に到着です!贄川宿は木曽路の東端にあたり、天文年間(1532〜54)に開設されました、いにしえに温泉があったところから熱川と呼ばれましたが枯れてしまい贄川となりました、昭和五年(1930)の大火で宿並のほとんどは灰燼に帰してしまいました。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によれば、贄川宿宿内家数は百二十四軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠ニ十五軒で、宿内人口は五百四十五人(男三百四人 女二百四十一人)でした。
旧道筋 贄川関所

 下諏訪に引き続いて、広重は贄川として夕方の旅籠風景を描いています。

二階の泊り客は夕餉の支度が調うまでの手持無沙汰か、ぼんやりと階下を眺めています。

一階の右手は
厨房です、大きな釜が乗った(かまど)と什器並べた棚が描かれています。

土間では到着した旅人が
草鞋を脱いでいます、脇には足をすすぐたらいが置かれています、縁側では駕籠かきが一服しています、草鞋を解いている旅人を乗せてきたのでしょう。

馬子は荷繕いをしています、通りでは宿役人が帳簿を持って、宿口の方を見ています、各々がリアルな描写ですね!
木曽海道六拾九次之内 贄川 広重画

 宿並に入ると、右手に往時を偲ばせる水場があります、今も滔々とほとばしっています。

洗馬郵便局の向いが
贄川宿本陣跡です、木曽家の子孫千村家が勤め、問屋庄屋を兼ねました。

先の右手に
津島神社、火防の神秋葉神社が祀られています、社の横には防火水そうの標識が立っています。

傍らに
麻衣廼(あさぎぬの)神社社標があります、社殿は国道19号線を越えた先に鎮座しています。
水場 本陣跡 津島秋葉神社 脇本陣跡

 並びの酒店辺りが
贄川宿脇本陣跡です、贄川家が勤めました。

 再び津島神社秋葉神社があります、小さな社の脇には道祖神が祀られています。

神社の脇には
水場があります。

水場の向が
深澤家住宅です、深澤家は屋号を加納屋と号し、行商を中心とする商家を営み文化年間(1804〜17)京大坂にも販路を伸ばし、幕末には苗字が許された贄川屈指の商人です。

主屋
は嘉永七年(1854)築、北蔵は文政四年(1821)築、南蔵は文久二年(1862)築で国重文です。

深澤家住宅は江戸時代末期の木曽地方における宿駅の
町屋建築の到達点を示す建物といわれます。
秋葉津島神社 水場 深澤家住宅

 深澤家住宅先の漆器店ひのきやの先を右折します、ここが枡形跡です。

贄川宿の
宿長は四町六間(約500m)と小宿でした。

枡形を進み、突当りを左折します、この延長線上が本来の
旧道位置ですが、中央線の敷設にて分断され、通行不可です。

道なりに
Uターンします。

突当りの
跨線橋にてJR中央本線を跨ぎます、跨線橋を渡ると国道19号線T字路に突き当たります。
枡形口 左折ポイント Uターンポイント JR中央本線跨線橋

 京方面からの右折ポイントは
164K3道路標識です。

 街道は国道19号線を左折(白色矢印)します、右折(黄色矢印)すると観音寺麻衣廼神社があります、それでは行ってみましょう。

観音寺は高野山金剛寺を本山として大同元年(806)に創建された真言宗の古刹です。

本尊は室町時代造の十一面観音像です、山門は寛政四年(1792)に再建された楼門です(塩尻市有形文化財)。

奥に進むと
麻衣廼(あさぎぬの)神社が鎮座しています、天慶年間(938〜47)創建の古社です、天正十年(1582)木曽義昌武田勝頼との合戦による兵火で焼失しました。
国道19号線分岐 観音寺 麻衣廼神社

 
本殿(塩尻市有形文化財)は延享四年(1747)の再建、拝殿は慶応元年(1865)の建立、麻衣廼は木曽の枕詞(まくらことば)になっています、六年目ごとの虎年と申年に御柱祭りを行います。

 旧道に戻って進むと右手奥に贄川のトチが聳えています、推定樹齢千年で、樹高33m、根元周囲17.6mです、元文五年(1740)の書物にすでに大樹と著されています(長野県天然記念物指定)。

スグ先の右手に
ドライブインSSがあります、この食堂は古典的なドライブインです、豊富なメニューが壁一面に張ってあります、ほとんどが定食です。

前回はここで
生ビールカツ丼を頂きました、キュウリのお新香味噌汁が付き、とじた玉子の上にはグリーンピースが乗っています、そしてボリューム満点でした。

食堂の並びの段上に
地蔵尊観音菩薩馬頭観音等の石仏石塔群が並び、奥に枝垂れ桜の古木があります。
贄川のトチ ドライブインSS 桜宮跡

 国道19号線には歩道がありません、十分お気を付け下さい。

木曽路民芸館大看板が見えたら、国道を横断して左側にシフトします。

木曽路民芸館の前を進みます、民芸館には食事処があります、信州そば、五平もち、おやき等が賞味できます。

擁壁に突き当たったら右に曲がり、
グレーチング(金網)の仮設歩道を進みます。

突当りを左折して
グレーチング階段を上り、土手を越えます。
木曽民芸館 擁壁脇道 グレーチング歩道 グレーチング階段

 土道の桃岡旧道を進むと、舗装路に変わり、旧桃岡村に入ります。

右手の人家を過ぎると、右手に近世の
中仙道碑があります。

押込沢を小さな橋で渡ると、右手に小さな津島神社が祀られています。

古来より郷土を鎮める為の神として素盞鳴尊(すさのおのみこと)を祀ったものです。

津島神社の並びには
庚申塔徳本南無阿弥陀佛名号碑等があります。
桃岡旧道 中仙道碑 津島神社 石塔群

 先に進むと右手に祖尻市史跡押込一里塚跡標柱があり、一里塚碑が新設されています、江戸日本橋より数えて六十三里目です。

旧道は
T字路に突当ります、右にクランク状に進み国道19号線に合流します、京方面からは桃岡交差点を右折し、一本目を左折して桃岡旧道に入ります、以前はこの分岐点に中北道標がありましたが、今は撤去されています。

奈良井川桃岡橋で渡り、次いでJR中央本線高架をくぐります。
押込の一里塚跡 桃岡橋 奈良井川 長瀬旧道東口

 先に進み、斜め左の
長瀬旧道に入ります、分岐点には旧中仙道標識中北道標「←平沢1.8km/贄川宿1.6km JR贄川駅2.5km→」があります。

 往時、長瀬村には医院が一軒あったといいます。

旧道を進むと右手に
そば処ながせがあります、遅めの昼食としましょう。

まずは
日本酒です、私は一年中常温を好みます、これが一番素直な味わいが楽しめるからです、そして出てくるのが早いです、このお店の酒は洗馬宿の山間にある美寿々酒造の銘酒美寿々(みすず)です、スッキリした飲み口で絶品です!

そして
山菜天ざるの登場です!!

山菜は店主自ら山で摘んできたものです、サクッと揚がっています、わずかなエグ味が何ともいえません。
そば処ながせ 旨い酒 山菜天ざる

 
そばは絶品です!!!

ここで初めて
木曽路に出会ったような気がします、旨かった!!!!

 長閑な旧長瀬村を抜けると、旧道は再び国道19号線に吸収されます。

この分岐点には
中北道標「←暮らしの工芸館0.5km 平沢駅1.1km/贄川宿2.3km JR贄川駅3.2km→」があります、京方面からは斜め右に入ります。

国道19号線を進み
平沢北交差点を右折し、県道257号木曽平沢線を進みます。

物見坂を進み、左手の塩尻市楢川支所の敷地に入ります、贄川奈良井が合併する際に、奈良井のナラと贄川のカワを合わせて楢川(ならかわ)になりました。
長瀬旧道西口 平沢北分岐 諏訪坂東口 芭蕉翁句碑

 敷地名の右手に芭蕉翁句碑「送られつ をくりつ果ては 木曽の秋」は宝暦十一年(1761)木曽代官山村甚兵衛良啓(たかひら)が建立したものです。

句碑奥右手の
諏訪坂の砂利道に入ります、これが旧中山道です。

 諏訪坂を上ると鳥居前に出ます、ここを左折すると正面が諏訪神社です。

諏訪神社は大宝二年(703)の創建です、天正十年(1582)鳥居峠の合戦で木曽義昌に敗れた武田勝頼は敗走の際、社殿に火を掛け全焼させました、朱塗りの本殿は享保十七年(1732)の再建です。

社殿の
右脇御柱の間をすり抜けて、先の階段を下り県道に合流します、これにて諏訪坂旧道トレースの終了です。

この分岐点には
中北道標「←JR木曽平沢駅0.5km JR奈良井駅2.5km」
鳥居前分岐 諏訪神社 社殿脇 諏訪坂西口

「木曽くらしの工芸館0.9km→」があります、京方面からは斜め右の石段を上ります。


 街道は漆器の町木曽平沢に入ります、漆器店が街道の両側に並ぶ平沢は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

現在、平沢は
木曽漆器の町です、しかし往時は奈良井が本場でした、享保九年(1724)奈良井には塗物師四十四軒、桧物師(ひものし)九十九軒ありました、その頃平沢村には桧細工に漆を塗るものが十数軒あったに過ぎませんでしたが、塗櫛に執着した奈良井は次第に寂れ、平沢は漆器工芸で発展を遂げました。

いずれにしても木曽の地は
農地が少なく白木細工に活路を見出す以外に方法がありませんでした。

町並右手の
漆工房巣山は国登録有形文化財です。
平沢の町並 漆工房巣山 津島神社

 町外れの右手に
津島神社が鎮座しています、境内には道祖神御嶽山三社大神が祀られています。

境内の京よりに
中北道標「←JR奈良井駅1.7km/JR木曽平沢駅0.5km 諏訪神社0.7km→」があります、京方面からはY字路を右に進みます。

 津島神社先のY字路を斜め左(白色矢印)の上り坂に入ります。

平沢旧道はスグ先で
県道に合流(白色矢印)します、京方面からは右手段上の墓地下を斜め右の上り坂に入り、一本目を左折します。

右手の
笹良漆器店先で、JR中央本線踏切の手前を斜め右(白色矢印)の下り坂に入ります。

車止めの先で
JR中央本線ガードをくぐると、快適な奈良井川沿いの土手道になります。
平沢旧道東口 平沢旧道西口 橋戸旧道東口 JR中央本線高架

 土手道を進むと奈良井川の対岸に橋戸の一里塚があります。

手前に架かる
歩道橋で対岸に渡ることができます。

街道の付け替えで残された
古中仙道の貴重な一里塚です、文化三年(1806)刊の中山道分間延絵図には「此辺り古往還一里塚」と記載されています、江戸日本橋より数えて六十四里目です。

土手道を進むと
小橋があります、袂には中北道標「←JR奈良井駅0.8km/JR木曽平沢駅1.4km→」があります。
橋戸の一里塚 橋戸の一里塚 奈良井川橋 自然石道標

 しかしながらこの小橋は渡らずに直進し、先の
奈良井川橋奈良井川を渡ります。

橋の袂の左手(黄色丸囲)に近世の
自然石道標「右中山道 左国道」があります。

 奈良井橋を渡るとY字路になっています、左に進みます、この分岐点には馬頭観世音文字塔(黄色丸囲)があります。

県道258号奈良井線を進み、JR中央本線を
奈良井道踏切で横断します。

左手のJR中央本線に沿って進むと
奈良井駅に到着します、、先方には鳥居峠の山容が遥かに望めます。

駅を過ぎると左手に
木曽五木(ひのき)、(さわら)、鼠子(ねずこ)、翌檜(あすなろ)、高野槙(こうやまき)が植栽されています。
馬頭観音 奈良井道踏切 奈良井駅 木曽五木

 これらの木曽五木は
尾張藩の厳しい統制化に置かれ、枝一本腕一本、木一本首一つといわれました。

 木曽五木先の右手をヘアピン状に上ります、ここが古中仙道口です、それでは踏み込んでみましょう。

左手の石段上に
八幡宮が鎮座しています、祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)を祀っています、奈良井宿下町の氏神です、奈良井宿の丑寅の方角にあたるところから、鬼門除けの守護神として崇敬されました。

参道口に戻ると先に
杉並木があります、橋戸の一里塚から続いていた古中仙道の痕跡です、古杉を十七本を残しています。

杉並木を進むと左手に
二百地蔵があります。
八幡宮 杉並木 二百地蔵

 
地蔵堂の前に聖観音をはじめ千手観音如意輪観音などの観音像が二百体近く合わせて祀られています。

明治期の国道開削、鉄道敷設の際に奈良井宿周辺から集められたものです。


 PM3:26 奈良井宿着

 古中仙道口に戻ると、正面が奈良井宿です、奈良井宿に到着です!

奈良井宿は木曽路最大の難所鳥居峠(標高1197m)を控え、又、桧物細工、漆器、塗櫛等の木工業が盛んで奈良井千軒といわれ「木曽の奈良井か薮原か、麦もとらずに飯をたく」といわれ大いに賑わいました。

木曽路の中かで最も
標高(940m)が高く、宿長は八町五間(約882m)で上町中町下町で構成され、宿機能は中町にありました。

宿並は
国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、往時の面影を色濃く残しています。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によれば、奈良井宿の宿内家数は四百九軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠五軒で、宿内人口は二千百五十五人(男千百四人 女千五十一人)でした。
奈良井宿並

 宿並を進むと左手のお食事処ふる里の向いに石垣があります、この辺りが東枡形跡です。

石垣の間から入り、右に進むと浄土真宗大谷派
専念寺があります、境内にうなり石があります。

夜毎唸るところから、気味悪がられていました、村人達が唸りを止めようと、この石に大きな
鉄釘を何本も打ち込みましたが、一向に唸りは止まりませんでした、そこで今度はをかけたところ唸りが止まったといいます。

今でも石の随所に打込まれた
鉄釘が残されています。

宿並に戻って進むと右手に石置き屋根の
下町水場があります、下町水場組合が管理しています。
うなり石 鉄釘 下町水場

 宿並の右に民宿津ち川があります、今までに二度ほど宿泊しています、間口に対して奥が深い遺構をそのまま残しています。

宿並を進むと右手の奥に浄土宗
法然寺があります、関ケ原の合戦に向かう徳川秀忠の陣屋となりました。

次いで左手に
杉の森酒造があります、創業寛政五年(1793)銘酒杉の森の蔵元です。

蔵元の向かいに
横水水場があります、手前に横水標石があります。
民宿津ち川 法然寺 杉の森蔵元 横水水場

 かつてここに
横水と呼ばれるがありました、ちょうどこの沢が下町と中町のでした、中町には宿場機能が集中していました。

 横水水場背後の赤松の根方に万延元年(1860)建立の庚申塔金毘羅大権現碑、小さな社等があります。

先の右手
冠木門の奥に臨済宗妙心寺派広伝山大宝寺があります、天正十年(1582)この地を領した奈良井義高が創建し、菩提寺として墓があります、境内の奥にマリア地蔵尊があります、隠れキリシタンが密かに祀ったものです。

次いで左手に
旧旅籠徳利(とくり)があります、延宝三年(1675)の創業です、七間幅の間口を誇る大旅籠で、脇本陣を勤めました。

昭和初期まで
旅館を営み、幸田露伴、坪内逍遥、島崎藤村等の文人が宿泊しています、 今は徳利屋郷土館となり地粉の手打ちそばや独自の三色五平餅を商っています。
庚申塔 大宝寺 徳利屋

 並びの松坂屋は朱塗りの大櫛看板を掲げています、奈良井宿の名産であった塗櫛を現在も取り扱う、ただ一軒の店です。

右手の
池の沢水場の所から奥の奈良井郵便局方面に入ると、嘉永二年(1849)建立の常夜燈があり、奥に本陣跡標柱があります、本陣家は代々九郎右衛門を襲名しました、江戸末期に焼失し、以降再建されませんでした、焼け残った本陣門は長泉寺の山門になっています。

宿並に戻ると左手に創業寛政年間(1789〜1801)の旅籠
越後屋があります、今日も旅館を営んでいます。

軒下の
庵看板は江戸方面はゑちごや、京方面は越後屋と描かれています。
松坂屋 奈良井宿本陣跡 越後屋

 次いで右手に文政元年(1818)創業の旧旅籠伊勢屋があります、脇本陣を勤め下問屋を兼ねました、現業の旅館です。

次いで右手に国重要文化財
手塚家住宅があります、上問屋跡です、手塚家が慶長七年(1602)より明治維新まで勤め庄屋を兼ねました、現在は上問屋資料館になっています。

前には
明治天皇御駐輦碑史跡明治天皇奈良井行在所碑があります、上段の間を残しています。

先の右手奥に曹洞宗玉龍山
長泉寺があります、貞治五年(1366)の創建で、本尊は元禄二年(1689)造の釈迦牟尼佛です。
伊勢屋 上問屋跡 長泉寺

 当寺は寛永十年(1633)徳川三代将軍
家光により制度化されたお茶壺道中の宿泊所でした、拝領の茶壺を残しています、山門本陣門を移設したものです。

 宿並は鍵の手(西枡形)に突き当たります、正面には荒沢不動尊が祀られています、並びには中山道奈良井宿名所鍵の手碑があります。

鍵の手内には
鍵の手水場があります。

鍵の手は
中町上町の境でした、上町に入ると観光客も減り、落着いた宿並になります。

宿並を進むと右手に
中村屋があります、塗櫛の創始者中村恵吉の分家にあたる櫛問屋跡です、建物は天保年代(1830〜43)の築で、塩尻市有形文化財です。

奈良井宿の商家建築の特徴は一階と二階の境に取り付けられた
小屋根(猿頭鎧庇)にあります。
鍵の手 中村屋 猿頭鎧庇

 小屋根を押さえる桟木は形状から
猿頭(さるがしら)と呼ばれ、庇は数枚の板を段状に並べ武者鎧に見えるところから鎧庇(よろいひさし)と呼ばれます。

この小屋根部分は
泥棒除けです、逆さ釘(釘を下から打って止めている)になっています、もし人がこの小屋根部分に乗ると、釘は抜けて庇ごと下に落ちる仕掛けになっています。

 宿場の外れにくると右手に昭和四十八年(1973)に復元された高札場があります。

並びに
宮の沢水場があります、水場の背後には庚申塔馬頭観音廿三夜塔等の石仏石塔が集められています。

次いで右手に
鎮神社が鎮座しています、元和四年(1618)疫病が流行た際に、これを鎮めるために上総國香取神社を勧請したところから(しずめ)神社と呼ばれました奈良井の氏神です。
高札場 宮の沢水場 石仏石塔群 鎮神社

 
本殿は寛文四年(1664)築で塩尻市指定有形文化財です。

 
打上げ きゃらぶき 五平餅
 鎮神社の先が鳥居峠の登り口です。

時計を見ると午後4時を回っています。

今から
鳥居峠を越えて、藪原駅から横浜に向かう最終電車に乗るのはギリギリです。

ここは切り良く、諦めましょう。

こうなれば宿内で軽く
一人打上げです。

食事処の
越後屋の暖簾をくぐります。

盛夏の中の街道ウォーク、打ち上げは
生ビールです!

お通しにきゃらぶきが付きます、これが実にウマイ、エグ味が無く、醤油と旨味と甘みが一体になっています!!

名物の
五平餅をオーダーしました、出てきたのは焼きお握り風でした、女将さんに伺うと、
妻籠馬籠五平餅は小判型に餅を伸ばし、これに味噌を塗って焼きますが、奈良井の五平餅は餅を単独で焼いてから味噌を塗るのだそうです!!!

これに
キュウリの漬物が付きます、ウマイ、そしてボリュームがあります、満腹です!!!!



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