道中日記 4-182 中山道 ( 奈良井 - 福島 ) 22.1km |
前回と同様に東神奈川駅をAM5:54に乗車すれば、塩尻駅にAM9:19に到着します。
ところがこの先中津川行はAM10:50迄ありません、1時間31分の待ち合わせです。
何と理不尽なダイヤなんでしょう、信じられません。
始発や終電はスムーズにつないでこそ、列車ダイヤでしょう、納得できません、そして不経済です。
こんなことでは、木曽谷の方々は今だに夜明け前です!
こうなればアノ手しか有りません、青春18きっぷの投入です!!
このきっぷのシステムは一定の期間内に5日間(5回)JR全線乗り放題で11,500円です!!!
ちなみに木曽福島駅からの帰路の乗車賃は4,620円です、往復で合計8,930円になります、これが1日分(1回分)です、お徳でしょう!!!!
木曽路はショトガン方式(超尺取虫)で経済的に進めましょう。
折りしもお盆の猛暑日ウォークです。
平成23年08月12日 AM11:17 奈良井宿出立 藪原宿まで5.9km |
|
|
|
|
JR中央本線奈良井駅への到着は何とAM11:12です、先を急ぎましょう!
折しも本日は鎮神社の夏祭りでした、宿内は大賑わいです。
夏祭りは奈良井宿あげての祭礼です、上下(かみしも)を着用した若衆が、笛、太鼓、三味線などでお囃子(おはやし)を奏でながら宿並を進みます、この出発準備に余念がありません。
その傍らでは御神馬の飾り付けが入念に行われています、木曽駒なのでしょうか、気になります。 |
御神燈 |
若衆 |
神馬 |
宿並 |
|
|
|
|
宿内は祭り関係者そして祭り見物の観光客やカメラマンでごった返しています。
これらの人並みの中をすり抜け、鎮神社を過ぎると、右手に楢川歴史民俗資料館があります、街道沿いには石仏石塔群や山口青邨(せいそん)句碑「お六櫛 つくる夜なべや 月もよく」があります。
先の右手に石段があります、ここが鳥居峠の第一登り口です、この分岐点には自然石道標「右上 鳥居峠/左下 奈良井宿」や中北道標「↑鳥居峠2.3km/奈良井宿100m JR奈良井駅1.2km→」があります。
宿並からの県道を眼下に見ながら砂利道を進むと、急な上りになり、宿並からの県道に突き当たります。 |
@鳥居峠登り口 |
砂利道 |
県道分岐 |
|
|
|
|
|
突当りの県道を右折(白色矢印)します、この分岐点には信濃路自然遊歩道旧中山道石畳道標「←鳥居峠2.16km/奈良井宿0.15km→」があります、京方面からはガードレールの切れ目から左の砂利道に入ります。
県道を進むとY字路が現れます、右(白色矢印)に進みます、この分岐点には道標「←ならい荘/鳥居峠1.6km 藪原宿3.5km→」があります。
県道を進むと右手に石段が現れます、
ここが鳥居峠の第二登り口です、左手には木曽鳥居峠標識があります。 |
県道分岐 |
ならい荘分岐 |
A鳥居峠登り口 |
自然石道標 |
右手には自然石中山道道標「上る鳥居峠/下る奈良井宿」があります。
|
|
|
|
石段を上ると本格的な峠道になります、途中には石畳道を残しています。
比較的大きな沢を木橋で渡ります。
峠道の右手には石仏が祀られています、石仏の周囲にはケルン状に石が積み上げられています。
この辺りの土の峠道はくるみ坂と呼ばれています。
くるみ坂の左手には信濃路自然遊歩道道標「←奈良井宿0.66km/鳥居峠10.5km→」があります。 |
峠道 |
木橋 |
石仏 |
信濃路道標 |
|
|
|
|
丸太風のコンクリート橋を渡り、次いで木橋を渡ると、正面に小屋が現れます。
小屋手前の右手には信濃路自然遊歩道中の茶屋道標「←鳥居峠1.16km/奈良井宿1.15km→」があります。
並びに本沢自然探勝園(葬沢)解説があります、天正十年(1582)二月、織田信長に寝返った木曽義昌が武田勝頼の二千余名を迎撃し、大勝利を収めた鳥居峠の古戦場跡です、この時武田方の戦死者五百余名をこの谷に投げ込み、谷が埋もれたといわれ、戦死者を葬った場として、葬沢(ほうむりさわ)と呼ばれました。 |
木橋 |
小屋 |
信濃路道標 |
葬沢 |
|
|
|
|
小屋には中の茶屋看板が掲げられています、この中の茶屋は菊池寛著の恩讐の彼方にの前篇の舞台になっています。
「いつとなしに信濃から木曽へかかる鳥居峠に土着した、そして昼は茶店を開き、夜は強盗を働いた」と著されています。
峠道の斜面上には馬頭観音像が二体祀られています。
右手の信濃路自然遊歩道道標「←鳥居峠1.13km/奈良井宿1.26km→」を過ぎると木橋を渡り、次いで丸太風のコンクリート橋を渡ります。 |
中の茶屋 |
馬頭観音 |
信濃路道標 |
清水 |
この橋の右手の沢に清水があります、美味い、実に旨い清水です!
|
|
|
|
峠道を進むと右手に鳥居峠一里塚跡碑があります、遺構は残されていません、江戸日本橋より数えて六十五里目です。
次いで右手に信濃路自然遊歩道道標「←鳥居峠0.98km/奈良井宿1.38km→」があります。
二ケ所の木橋を渡ると、石畳になり、砂利道の旧国道に突き当たります、ここを左折(白色矢印)します。
この分岐点には自然石中山道道標「上がる 鳥居峠/下る 奈良井宿」や中北道標「←鳥居峠100m JR薮原駅3.4km/ |
鳥居峠一里塚跡 |
信濃路道標 |
峰の茶屋分岐 |
自然石道標 |
奈良井宿2.0km JR奈良井駅3.0km→」があります、京方面からは斜め右の石畳道の下り坂に進みます。
|
|
砂利道の旧国道を進むと左手に奈良井宿観光協会が設置した立派な峰の茶屋があります。
英泉は奈良井として藪原宿の名物お六櫛の看板を掲げた峰の茶屋を描いています。
茶店ではお六櫛の実演販売が行われています、そしてこれを買い求める旅人の姿が描かれています。
遠景には御嶽山(おんたけさん)を描いています、 この御嶽山とお六櫛は密接な関係にあります。 |
峰の茶屋 |
岐阻街道 奈良井宿 名産店之圖 英泉画 |
【お六櫛】 妻籠の娘お六は頭痛に悩み、御嶽権現に祈願したところお告げがあり、このお告げ通りにミネバリの木で櫛を作り、これで髪をすいたところ頭痛が完治しました、以来お六櫛と呼ばれ評判になり、妻籠の名産になりました。
ところが妻籠ではミネバリの木が枯渇し、これに反し、藪原はミネバリが豊富な上、製作技術を習得し、いつしかお六櫛は藪原の名産となりました。
|
|
|
|
峰の茶屋跡の脇に信濃路自然遊歩道道標「←奈良井宿1.96km/鳥居峠山頂0.36km→」があります、ここから貴重な鳥居峠頂上への旧道を残しています。
土道の上り坂を進むと左斜面上に御岳講明覺霊神碑があります、御嶽山を信仰する講社が建てた霊神碑です。
丸太階段を跨いで進むと、平で少し広い所に出ます、ここが鳥居峠頂上です、標高は1197mです、ここには往時、三軒の茶屋がありました。
この峠は古来県坂(あがたざか)」と呼ばれていましたが、木曽義元が明応年間(1492〜1500)松本の小笠原氏との戦いに際し、この頂上に鳥居を建て、御嶽権現に戦勝祈願をしたところから鳥居峠と呼ばれるようになりました。 |
鳥居峠頂上東口 |
明覺霊神碑 |
鳥居峠頂上 |
|
鳥居峠は木曽川(太平洋側)と奈良井川(日本海側)の分水領です。
|
|
|
|
先に進むと明治天皇駐蹕所碑があります、明治十一年(1878)北陸東海巡行の際、峠の茶屋で休息しました。
丸太階段を下ると 舗装されたサテライト道に突き当たります、本来の旧道はこのサテライト道を横断した先に続いていましたが、今は通行不能です。
しかたがないので電波塔に向かうサテライト道を右(白色矢印)に進みます。
サテライト道は峰の茶屋から続く砂利道の旧国道に突き当たります、ここを左折(白色矢印)します。
この分岐点には中北道標「←JR薮原駅3.0km/奈良井宿3.4km→」があります、京方面からは右折します。 |
明治天皇碑 |
サテライト道 |
旧国道分岐 |
|
|
|
|
|
スグ先の左手に木製道標「←遊歩道薮原宿/旧国道(車道)→/奈良井宿へ↓」があります、左折して遊歩道薮原宿(明治道)方面に進みます。
この分岐点には自然石道標「左 明治道路/右 旧国道」があります、京方面からは突当りを右折し、即右に入ります。
旧道に入ると右手に熊除けの鐘があります、傍らの解説には「熊も人が怖いのです、鐘で知らせてあげよう。熊は歩道に出るのは極まれですが、念には念を。」と記されています、この熊除けの鐘はこの先旧道の2ケ所に設置されています。 |
遊歩道薮原宿 |
自然石道標 |
熊注意! |
熊除けの鐘 |
|
|
|
|
それでは鳥居峠の下りに掛かりましょう。
旧道を進むと右手に子産(こうみ)の栃があります、幹に大きな樹洞が開いています。
昔、この穴の中に捨て子があり、子宝に恵まれない村人が、この子を育て幸福になったところから、この実を煎じて飲めば、子宝に恵まれるといい伝えられています。
先の左手に木祖村天然記念物鳥居峠のトチノキ群碑があります、熊はこの栃の実が大好物なのです。
先の左手に木製道標があります。 |
子産の栃 |
トチノキ群碑 |
不動明王像 |
御嶽遥拝所鳥居 |
道標には「←奈良井宿/御嶽遥拝所を経て丸山公園↑/薮原宿」→と示されています、右の御嶽遥拝所方面に進みます。
旧道は御嶽遥拝所鳥居前を左に下ります。
|
|
|
|
鳥居をくぐると御嶽遥拝所があります、ここから御嶽山(標高3063m)が遥かに望めます、本日は生憎雲が邪魔をして遥拝できませんでした。
境内には石碑石仏石塔群があります。
鳥居前を下ると丸山公園東口に出ます。
ここには御岳手洗水鉢があります、この清水は50m先の峠山からの湧水です。
猛暑の中の峠越え、有難い湧水です、シッカリ給水し、身体の汗を拭い、一息入れます。 |
御嶽遥拝所 |
石造群 |
丸山公園東口 |
御岳手洗水鉢 |
|
|
御岳手洗水鉢の上に義仲硯水(すずりみず)があります、平家追討の旗揚げをした木曽義仲はこの水で墨をすり、戦勝祈願の願書をしたため、御嶽山に奉納したといいます。
英泉は藪原としてこの辺りの風景を描いています、画面左には副題にある木曽義仲硯ノ清水、その清水の上には芭蕉句碑「雲雀(ひばり)より うへにやすらふ 峠かな」、 そして遠景に御嶽山を描いています。
画面中央には一服する旅人と柴を背負った母娘を描いています。 |
義仲硯水 |
木曽街道 藪原 鳥居峠硯ノ清水 英泉画 |
|
|
|
|
丸山公園内には多数の石碑があります、主なものだけを見てみましょう。
マズ木祖村史跡鳥居峠碑があります。
石碑が三基並んでいます、手前が芭蕉句碑「雲雀よ里 うへにやすらふ 嶺かな」です。
中央は信濃名所鳥居峠碑です。
奥が法眼護物(ほうげんごぶつ)句碑「嶺は今朝 ことしの雪や 木曽の秋」です。
そして天保十三年(1842)建立の芭蕉句碑「木曽の栃 浮世の人の 土産かな」があります。 |
鳥居峠碑 |
石碑三基 |
芭蕉句碑 |
|
|
|
|
|
丸山公園からはJR薮原駅方面に下ります、この分岐点には中北道標「←鳥居峠300m/丸山公園100m↓/JR薮原駅2.7km→」があります。
土道を下ると右手の展望台の下に馬頭観音像と中山道自然石道標があります。
更に下ると森林測候所跡地案内があります、ここには休憩所やトイレがあります。
右手の供養塔を過ぎると、九十九折(つずらおり)の急坂になります。
先で砂利道の旧国道を横断します。 |
丸山公園西口 |
馬頭観音&道標 |
供養塔 |
旧国道横断 |
この旧国道の横断点には中北道標「←鳥居峠1.1km/JR薮原駅1.9km→」があります。
|
|
|
|
石畳の峠道を下ると3ケ所目の熊除けの鐘の所に出ます、ここには大きな鳥居峠解説があります。
石畳の峠道をモクモクと下ると、左斜面に原町稲荷社が祀られています。
間もなく峠道は舗装された旧国道に突き当たります、ここが京方面からの鳥居峠の登口です。
この分岐点には中北道標「←鳥居峠1.3km/JR薮原駅1.7km→」があります、傍らには杖置場があります、鳥居峠越えに誰でも利用できます。 |
熊除けの鐘 |
石畳道 |
原町稲荷社 |
鳥居峠西登り口 |
|
|
|
|
舗装路になると街道は一気に灼熱地獄と化します。
先で車道を横断します、この横断点には木祖村道標「←JR薮原駅1.4km/鳥居峠1.6km→」と木曽消防署北分署があります。
スグ先に、京方面からのY字路があります、右に進みます、この分岐点には中北道標「←JR薮原駅1.3km/鳥居峠1.7km→」があります。
左右にうねる街道を下り、十字路を越すと左手に天降社があります。 |
車道横断 |
Y字路道標 |
天降社 |
オオモミジ |
参道階段の左手に木祖村天然記念物天降社のオオモミジがあります、モミジ(カエデ科)の葉はカエルの手のようだというので古くはカエルデと呼ばれていました、村内にはカエデの巨木はなく、この木は樹幹の美しい村内唯一の木といわれています。
|
|
|
|
先の左手に鳥居峠越えの旅人達が喉を潤してきた原町清水があります、背後には水神碑が祀られています。
清水が注ぐ桶の中にキュウリが冷されています、もろきゅうと生ビールの妄想が頭の中を巡ります、清水で頭を冷やしましょう!
街道はJR中央本線を見下ろすT字路に突き当たります、右(黄色矢印)に尾州御鷹匠役所跡(標柱)があります。
この崖上はお鷹城と呼ばれ、尾張藩が享保十五年(1730)鷹狩り用のヒナを確保する為に設けた御鷹匠役所跡です。
木曽山中に六十余りの巣山といわれる御巣鷹山があり中でも、ここで捕獲された鷹は優秀とされ、尾張藩主や将軍家に人気が高く、明治四年(1871)まで継承されました。 |
原町清水 |
T字路分岐 |
鷹匠役所跡 |
|
|
|
|
|
御鷹匠役所跡から左(白色矢印)に下ると左手に飛騨街道追分(分岐点)(標柱)があります、
左手の細い道(黄色矢印)が飛騨街道です。
飛騨街道は奈川を経て野麦峠を越え飛騨高山に通じていました。
飛騨街道は難所で馬ではなく、尾州陸船(おかふね)と呼ばれる牛が飛騨ブリ等の魚介類や塩等の運搬に使われました。
中山道は飛騨街道追分標柱の所から右折(白色矢印)し、JR中央本線に沿って進み、緑色の跨線橋でJR中央本線を跨ぎます、橋の袂には水神と津嶋神社が祀られています。 |
追分標柱 |
飛騨街道追分 |
中央本線跨線橋東 |
水神&津嶋神社 |
|
|
|
|
JR中央本線跨線橋を渡り、葛沢川を葛沢橋で渡ると藪原宿の江戸(東)口です、藪原宿に到着です!
藪原宿は難所鳥居峠と飛騨街道追分を控え、名産お六櫛の生産地として大いに賑わいました、しかし明治十七年(1884)の大火で宿並の大半が灰燼に帰してしまいました。
天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳によれば、藪原宿の宿内家数は二百六十六軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠十軒で、宿内人口は千四百九十三人(男七百六人 女七百八十七人)でした。
宿並を進むと左手に薮原宿本陣跡(標柱)があります、 本陣は木曽氏の家臣であった古畑家が代々勤め、間口十四間半、奥行二十一間で、敷地面積は凡そ三百十坪でした。 |
中央本線跨線橋西 |
葛沢橋 |
薮原宿本陣跡 |
|
皇女和宮は十一月三日(十二日目)、翌日に鳥居峠越えを控え藪原宿古畑本陣に宿泊しました。
|
|
|
|
宿並を進むと左手に手打ちそばのおぎのやがあります、築百二十年の古民家を再生したお店です。
次いで慶長十三年(1608)創業の旅籠こめや(米屋興左衛門)があります、現在十九代目です、今も旅館を営業しています。
建物は明治十七年(1885)の大火後に須原宿より移築したものです、奥は木曽ヒノキによる新築です、伊藤左千夫、堀辰雄、河井寛次郎などの文人が宿泊し、若き日の藤田嗣治(つぐはる)も泊まり、ほととぎすの掛軸を残しています。
向に慶安三年(1650)創業の湯川酒造店があります、銘酒木曽路の蔵元です。 |
おぎのや |
旅籠米屋 |
銘酒木曽路 |
|
|
|
|
|
旅館米屋先を左折し、JR中央本線ガードをくぐり、突当りを右折して上り坂を進むと、左手の石段上に薮原神社の朱塗り鳥居があり、更に石段を上ると薮原神社が鎮座しています。
当初は熊野社と称しましたが、明治四年(1871)薮原神社と改称されました、本殿は文政十年(1827)の建立で木祖村有形文化財です。
次いで臨済宗妙心寺派法城山極楽寺があります、元亀年間(1570〜73)創建の古刹です、本尊は釈迦如来です。 |
薮原神社鳥居 |
社殿 |
極楽寺山門 |
本堂 |
山門は元禄十一年(1698)の建立で木祖村指定有形文化財です。
|
|
|
|
宿並に戻ると木祖村消防団の隣に松が聳える防火高塀跡を残しています、元禄八年(1695)七月の大火で薮原宿は全焼、この教訓から石垣を築き、その上に高い土塀を設けて防火壁としました。
石垣の上には明治天皇駐輦所跡碑や津島大神が祀られています。
宿並にはそばまんじゅう本舗の庵看板を掲げた和菓子の北原製菓店があります、お好きな方はどうぞ!
左手に有難い水場があります、源流の里です、二又水道組合が管理しています。 |
防火高塀跡 |
明治天皇碑 |
そばまんじゅう本舗 |
水場 |
|
|
|
|
次いで左手に大きな朱塗りのお六櫛看板を掲げた宮川漆器店があります、奥の土蔵が宮川家史料館になっています。
宮川家は苗字帯刀を許された医家でもあり、館内には当時の医療器具、古文書、生活用品等が展示されています。
先の左手にお六櫛問屋山六篠原商店萬寿屋本店があります、お六櫛はいわずと知れた薮原宿の名産です、ミネバリのお六櫛は静電気が起きず髪にやさしいと、現在も人気があります。
宿並を進むと右手のポストの所に薮原宿高札場跡(標柱)があります、高札場の規模は高さ二間三尺、幅二間四尺で御判形(ごはんぎょう)とも呼ばれました、ここが藪原宿の京(西)口です、それでは藪原宿を後にしましょう。 |
宮川漆器店 |
お六櫛問屋萬寿屋 |
高札場跡 |
|
|
|
|
|
高札場先右(白色矢印)の下り坂に入ります、藪原宿京口の枡形です。
枡形左の石垣上には津島大神が祀られ、傍らには顕彰碑があります。
枡形一帯は出口と呼ばれました。
先の右手墓地内の祠に延命地蔵尊や六地蔵が安置されています。
旧道は先程高札場跡の所で分岐した上道に突き当たります、ここを右折(白色矢印)します、京方面からは小川を渡り、渡り詰めを左折します。 |
枡形 |
津島大神 |
延命地蔵尊 |
十字路分岐 |
|
|
|
|
左手のJR中央本線薮原駅を過ぎると旧道は左折(白色矢印)します、ここを直進(黄色矢印)すると右手にD51蒸気機関車が保存展示されています。
この機関車の前に中山道薮原宿一里塚の跡碑があります、碑には「江戸より六十六里 京へ七十里」と刻まれています。
白色矢印の左折分岐点に戻って進むと旧道は県道26号線に突き当たります、ここを横断して直進する道筋(白色矢印)が旧道です。 |
分岐点 |
蒸気機関車 |
一里塚跡碑 |
迂回路分岐 |
しかしこの旧道は先で中央線敷設によって消滅し、通行不可です。
突当りの県道26号線を左折(黄色矢印)します、従ってここからの筋は迂回路になります。
|
|
|
|
JR中央本線を薮原架道橋でくぐり、突当りを右折します、この分岐点には標識「←藪原駅/国道19号線→」があります。
緩やかな上り坂を上り詰めると県道26号線は薮原交差点にて国道19号線に合流します。
京方面からは薮原交差点を斜め左の下り坂に入ります、スグ先の木曽川源流の里看板があるY字路を更に左に進みます。
国道19号線は木曽谷の中です。 |
薮原架道橋 |
T字路分岐 |
薮原交差点 |
木曽谷 |
|
|
|
|
国道19号線右側の歩道を歩きます、ここで初めて木曽川に対面します、奈良井宿までは日本海に注ぐ奈良井川の流れに逆らって上ってきましたが、分水嶺の鳥居峠を越えると、太平洋に注ぐ木曽川と共に下りとなります。
眼下の木曽川がグングン近づくと国道19号線は木曽川を渡る獅岩橋に出会います、この獅岩橋手前左(白色矢印)の旧国道に入ります、ここが菅旧道東口です、国道の横断には十分にお気を付け下さい。
旧国道に入ると車両の通行はなく、静寂の中を進みます、但し荒れ放題です、右手の新国道の擁壁に組み込まれた鳥居峠を行く旅人の巨大レリーフが垣間見えます。
先でガードレールの切れ目から国道19号線に合流します。 |
菅旧道東口 |
巨大レリーフ |
菅旧道西口 |
|
京方面からは菅(すげ)交差点先の右手ガードレールの切れ目から斜め右の旧国道に入ります。
|
|
|
|
スグ先左手の日野百草丸看板の所に林道松原線の入口があります、この筋の先に旧道痕跡を残しています。
林道をおよそ350m進み、右側に踏み跡を探します、ここからが新道坂と呼ばれる旧中山道です、しかしながらこの時期、下草が繁り踏み込みは不可です、いつの日か踏み込んでみましょう。
スグ先の菅(すげ)交差点にて右側の歩道にシフトします、先の吉田洞門右側の歩道を進みます。 |
旧道痕跡 |
吉田洞門 |
木曽川 |
石仏石塔群 |
洞門下には木曽川の景が広がります、木曽川は木祖村の鉢盛山に源を発し、信濃、美濃、尾張、伊勢を貫き、流末は伊勢湾に注いでいます、この木曽川とはこの先、長い付合いになります。
吉田洞門を抜けると、先の吉田交差点にて今度は左側の歩道にシフトします、先に進むとの左手に庚申塔、西国巡禮供養塔、奉納三十三所観世音菩薩等の石仏石塔が並んでいます。
|
|
|
|
石仏石塔群の並びに権兵衛食堂があります、奈良井宿に宿泊し、朝食無しで出立すると、ここまで食事処はありません。
そんな過日を思い出し、思わず懐かしくなり寄ってしまいました、 本日の帰宅タイムリミットは木曽福島駅18:04発松本行です、これを逃すと帰れません、店員の方にお願いして急いでもらいました。
この時期の生ビールは筆舌に尽くし難いものがあります!
お通しの椎茸の煮物がウマイ、木曽路は野菜の煮物が実にウマイ!! |
権兵衛食堂 |
冷えた生ビール |
お通し |
ピリ唐ネギラーメン |
そしてピリ辛ネギラーメンです、汗が吹き出ます、これが良いんです!!!疲労物質除去に効果があるという、酢もグビグビと行っておきましょう!!!!
ちなみに権兵衛食堂の名は、この先にある権兵衛街道に由来しているのでしょう。
|
|
|
|
国道19号線を進み、左手の人家を過ぎると、赤い消防用格納庫奥の段上に西国三十三所観世音菩薩等の石仏石塔が多数並んでいます。
吉田橋交差点を越し、吉田橋の歩道橋で木曽川を渡り、渡り詰めを左折(白色矢印)して吉田旧道に入ります。
この旧道沿いに下嶋の一里塚があったといいますが位置は不明です、下吉田の一里塚とも呼ばれました、江戸日本橋より数えて六十七里目です。
旧道は国道19号線に突き当たります。 |
吉田橋 |
吉田旧道東口 |
吉田旧道 |
吉田旧道西口 |
ここが吉田旧道の西口です。
|
|
|
|
国道19号線を横断して、向いの山吹旧道東口(旧国道)に入ります、国道19号線の左手は山吹トンネルです。
山吹旧道に入ると左手に中北道標「←宮ノ越宿2.0km/薮原宿5.2km 鳥居峠8.0km→」があります。
山吹旧道は荒れていますが、木曽川のせせらぎが足元から響く、長閑な風情を色濃く残しています。
山吹旧道は先で国道19号線に突き当たります、ゲート脇を抜けます。 |
山吹旧道東口 |
中北道標 |
山吹旧道 |
山吹旧道西口 |
|
|
|
|
国道19号線を右に進みます、左は山吹トンネルです、このトンネルの新設で、山吹旧道は廃道になりました。
スグ前の神谷入口交差点を直進(白色矢印)します、この交差点の左(黄色矢印)は伊那へ至る権兵衛街道です。
神谷の牛行司古畑権兵衛が山村代官の許可を取り、木曽十一宿の協力を得て、元禄九年(1696)伊那から木曽へ米を最短で運ぶ新道を切り開いたものです。
京方面からは神谷入口交差点から斜め左に入ります。
国道19号線の右手には山吹山が迫っています、旧国道を含め国道19号線は山吹山を回りこむ現代版山吹山回廊道です、山吹山の中腹には一部旧道を残しています。 |
権兵衛街道 |
山吹山回廊道 |
巴淵交差点分岐 |
|
中山道は木曽川を山吹橋で渡り、スグ先の巴淵(ともえぶち)交差点を右折(白色矢印)します、交差点を直進(黄色矢印)すると、凡そ300m先の左手に南宮神社があります。
|
|
|
|
社は当初村の鎮守としてここより南西約1kmの古宮平にありました、宮ノ越の地名は宮の腰(中腹)を意味するといわれています。
後に木曽義仲が関ケ原の南宮大社を分祀勧進し、ここに移し戦勝祈願所としました。
社殿、拝殿は総桧造りで、江戸元禄年間(1688〜703)に再建されました、その後も風水害のため度々改築補修されています。
巴淵交差点に戻りましょう。 |
南宮神社 |
巴淵交差点 |
宮ノ越宿大看板 |
中北道標 |
巴淵交差点を右折(白色矢印)し、県道259号宮ノ越線を進みます。
この分岐点の丘上には宮ノ越宿モニュメントがあり、足元には中北道標「←薮原宿5.2km/巴淵300m 宮ノ越宿0.6km→」があります。
|
|
|
|
現代版山吹山回廊道を進むと右手に句碑「豊かなる 花の薫りや 鳥の聲」があります、作者不明です。
JR中央本線の上下線2ケ所のガードをくぐると右手に八十六翁千村春潮の恭懐之碑「粟津野に 討たれし公の 霊抱きて 巴の慕情 渕に渦まく」があります。
並びに展望台があります、ここから眼下を覗き込むと木曽川三川三十六景の一つ、神秘的な巴淵(ともえぶち)があります。
巴御前はこの淵に住む龍神の化身との伝説があります。 |
句碑 |
JR中央本線ガード |
恭懐之碑 |
巴淵 |
巴は木曽義仲の養父中原兼遠の娘として生まれ、生涯義仲を守り続けました。
|
|
|
|
展望台の並びに巴淵森川許六句碑「山吹も 巴もいでて 田植えかな」があります、山吹、巴の二人は共に義仲の愛妾でした、粋な句ですね、許六は芭蕉の弟子で、師匠と同様に義仲を敬愛していました。
木曽川を巴橋で渡ると、正面に南宮神社手洗水があります。
木曽義仲がここで身を清めてから南宮神社に参拝したといいます。
山吹山の中腹を回り込む旧中山道の山吹山回廊道は先程くぐったガード上のJR中央本線のトンネルの上を跨ぎ、この手洗水辺りに通じていました。
旧徳音寺村を進むと右手に道祖神が祀られています。 |
森川許六句碑 |
南宮神社手洗水 |
道祖神 |
|
|
|
|
|
徳音寺北バス停先の右手に有栖川宮(ありすがわのみや)御休所跡碑があります、 明治三十年(1897)熾仁(たるひと)親王と后薫子(におこ)が中山道の旅行中に、ここの手塚太左衛門宅にて休息しました。
織仁(たるひと)親王は皇女和宮の元許婚でしたが、和宮の徳川家降嫁により破談となりました、幕末になると親王は東征大総督となり倒幕の先頭に立ちました。
徳音寺南バス停を右折(白色矢印)します、この分岐点には中北道標「←旗挙八幡宮0.8km JR宮ノ越駅0.9km/巴淵0.6km→」があります。
十字路を左折(白色矢印)します、この分岐点には木製道標「←義仲館・徳音寺へ/国道19号へ」があります。 |
栖川宮碑 |
@徳音寺南分岐 |
A徳音寺南分岐 |
|
|
|
|
|
右手(黄色矢印)方向には山吹山が望めます、山頂近くに地肌が現れている所があります、毎年八月十四〜十五日らっぽしょの祭りで、ここに木の火文字が浮かび上がります、これは倶利伽羅峠の火牛の計にちなむもので、義仲の霊を弔うものです。
十字路を左折すると左手に石塔が三基並んでいます。
道なりに進み、突当りのT字路を右折(白色矢印)します、京方面からは葵橋を渡って、二本目を左折します。
突当りの変則Y字路を左に進みます。 |
山吹山 |
石塔 |
B徳音寺南分岐 |
変則Y字路 |
この分岐点には中北道標「←旗挙八幡宮0.5km 宮の越宿0.7km/↓巴淵0.8km/徳音寺0.6km 義仲館0.7km→」があります。
|
|
木曽川を葵(あおい)橋で渡ります。
広重は宮ノ越として満月の中、らっぽしょ祭帰りの親子が渡る葵橋を描いています。
往時、宮ノ越宿では祭りをだっぽうと呼びましたが、今ではらっぽしょと呼ばれ、受け継がれています。
祭礼の日には子供達が山吹山に登り、木の火文字から松明に火を灯し「義仲公とおいらが在所はひとつでござる」と囃子(はやし)ながら山を下ります。
そのまま義仲の墓に詣で、祭は終わります。 |
葵橋 |
木曽海道六十九次之内 宮ノ越 広重画 |
|
|
|
|
中山道は葵橋の渡り詰めを右折(白色矢印)します、突当り左手(黄色矢印)のJR中央本線ガードをくぐって、道なりに約450m進むと旗挙八幡宮があります。
木曽義仲はこの地に館を構え、八幡宮を祀りました。
その後、この八幡宮で平家追討の旗挙げをしたところから、以降旗挙八幡宮と呼ばれました。
社殿脇の大ケヤキは樹齢約八百年で御神木です、義仲の元服を祝って植栽されたともいわれ、元服大欅と呼ばれます。 |
葵橋渡詰め分岐 |
旗挙八幡宮 |
元服大ケヤキ |
義仲公館趾碑 |
鳥居の先を進むと木曽義仲公館趾碑があります。
|
|
|
|
葵橋に戻りましょう、渡り詰めから木曽川沿いに宮ノ越旧道の一部を残しています。
検証してみましょう、県道259号線を進みます、左手の旭町バス停と消火栓の向い(白色矢印)に入ります。
突当りの右手江戸方面に旧道痕跡を残していますが先で通行不可になっています。
突当りの左手京方面にはシッカリ旧道痕跡を残しています。 |
宮ノ越旧道東口 |
宮ノ越旧道江戸方面 |
宮ノ越旧道京方面 |
宮ノ越旧道西口 |
味わい深い旧道を辿ると、先で県道に合流します、京方面からは右手のファションクリーニング看板の向いを斜め左に入ります。
|
|
|
|
街道を進み右手(黄色矢印)の義仲橋で木曽川を渡ると、右手に義仲館(よしなかやかた)があります、敷地内の正面には木曽義仲・巴御前像があります。
義仲館は木曽義仲三十一年の壮絶な生涯が歴史資料、絵画、人形等で再現されています。
木曽義仲は久寿元年(1154)源義賢(よしかた)と小枝(さえ)御前の二男として武蔵國大蔵館で生まれました、同二年(1155)伯父源義朝の長子義平に父が攻め滅ぼされると、二歳の駒王丸(義仲)は信濃國木曽に逃れ、中原兼遠に匿われ養育を受けました。
治承四年(1180)後白河法皇第二皇子以仁王(もちひとおう)の平家討伐の令旨を奉じ旗揚げをしました。 |
義仲橋 |
義仲館 |
木曽義仲&巴御前像 |
|
寿永二年(1183)北陸に進撃し、倶利伽羅峠で牛の角に松明をつけて平家の大軍を撃滅しました、この年入京した義仲は征夷大将軍に任ぜられたが、翌元歴元年(1184)後白河法皇の策略によって源頼朝に敗れ、近江の粟津ケ原で討死となりました、三十一歳の短い生涯でした。
|
|
|
|
更に奥の山麓に進むと臨済宗妙心寺派日照山徳音寺があります、仁安三年(1168)木曽義仲が母小枝御前を葬った寺で、木曽義仲一族の菩提寺です。
享保八年(1723)建立の山門(鐘楼門)は尾張藩犬山城主成瀬正幸の母堂より寄進されたものです、鐘の音は徳音寺の晩鐘と呼ばれ、木曽八景の一つに数えられています。
境内には木曽義仲公霊廟(おたまや)があります、木曽一族郎党の位牌や等身大の木曽義仲の旗挙げの雄姿像が安置されています。 |
徳音寺山門 |
木曽義仲公霊廟 |
木曽義仲一族墓 |
木曽義仲墓 |
高所の墓所には木曽義仲の墓を中心に、右側に母小枝御前と今井四郎兼平、左側に巴御前と樋口次郎兼光の墓が並んでいます。
|
|
|
|
義仲橋に戻ると目の前が宮ノ越宿です、到着です!
宮ノ越宿辺りは木曽路の中にあって珍しく平坦な地で農地が広がっています、この地は中山道の中間点に位置し、伊那に抜ける権兵衛街道を控え賑わいました、しかし宿並は明治十六年(1883)の大火で灰燼に帰してしまいました。
天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳によれば、宮ノ越宿の宿内家数は百三十七軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠二十一軒で、宿内人口は五百八十五人(男二百九十九人 女二百八十六人)でした。
宿内の家屋には旧屋号札が掲げられています。
左手の本陣前バス停の所が村上弥惣右衛門本陣跡です。 |
旧屋号札 |
明治天皇碑 |
宮ノ越本陣跡 |
|
天保十四年(1843)の本陣絵図では、宿並に沿って、間口九間(約16.2m)、奥行十八間(約32.4m)で、十六坪の中庭と裏に庭園と土蔵一棟があって、敷地面積百九十四坪でした。
表構えは西に表口、中央式台を上がった処に十五坪の板の間を置き、左に門玄関、北側に仮門を構え、その正面奥に、式台玄関があって、十八畳の大広間の奥が上段の間という本陣の基本形を備えた規模の堂々たる屋敷を構えていました。
建物は、明治十六年(1883)の大火で全焼しました、跡地には明治天皇御小休之跡碑があります。
宮ノ越宿本陣跡標石の右面には「江戸へ六十六里三十五町」、左面には「京へ六十八里二十一町」と刻まれています。
|
|
|
|
本陣先の並びに脇本陣問屋跡木製標識があります、都築家が脇本陣を勤め、問屋、名主を兼ねました。
宮越郵便局先の右手に旧旅籠田中屋があります、明治十六年(1883)の火災で母屋は焼失、その際に運び出した建具を元に再建されました。
入口の持ち送りの彫刻は宮ノ越大工の民家建築の水準を表すものであり、この彫刻は、大工棟梁が施主(建築主)への祝儀とする習わしによるものです。
先の左手に御膳水井戸があり、傍らに明治天皇宮ノ越御膳水碑があります、この井戸は江戸末期頃に町内の飲用水を得るために掘られ、昭和初期まで近郷随一の名水として永く人々の生活を支えてきました。 |
,脇本陣跡 |
田中家住宅持ち送り |
明治天皇御膳水 |
|
明治十三年(1880)六月明治天皇中山道巡幸の際、旧本陣で休息し、この井戸水で入れた茶が献上されました。
※ 宮ノ越宿の貴重な宿泊施設でした加藤旅館が廃業しました、慎んでご報告申し上げます。
|
|
|
|
宿外れ左手の下町会館の敷地内に小社、元禄五年(1692)建立の四国三十三所観世音菩薩、元禄十年(1697)建立の南無阿弥陀仏名号碑、廿三夜塔、道祖神等があります。
先の右手消防用ホース格納庫の手前に石仏が安置されています。
左手のなまこ壁の蔵先の左手に宮ノ越一里塚跡碑があります、江戸日本橋より数えて六十八里目です。
緩やかな上り坂を進むと、右手下に体育館や野球場があります。 |
石仏石塔群 |
石仏 |
宮ノ越一里塚跡 |
第5仲仙道踏切 |
先に進みJR中央本線を第5仲仙道踏切で横断します。
|
|
|
|
踏切を横断すると左手のコンクリート擁壁の外れに秩父三十四観音巡礼供養塔があります。
先に進むと右手に日義村標石があります、明治七年(1874)宮ノ越村と原野村の合併に際し、朝日将軍木曽義仲から二文字を取り日義村と命名されました。
林昌寺バス停から左に進み、国道19号線を渡ると臨済宗妙心寺派法泉山林昌寺があります、駒王丸(後の木曽義仲)を養育した中原兼遠の菩提寺です。
高台に中原兼遠の墓があります。 |
秩父巡礼供養塔 |
日義村標石 |
林昌寺 |
中原兼遠墓 |
中原兼遠は木曽義仲の養父にして樋口次郎兼光、今井四朗兼平、巴御前の実父で、後に出家入道し円光と号しました。
|
|
|
|
街道に戻ると林昌寺バス停辺りが原野間の宿の中心でした、宿内には尾張藩が緊急伝達用に七里毎に置いた七里番がありました、宿並には出梁造りの旧家を残しています。
JR中央本線原野駅脇の跨線橋を渡ると原野八幡宮があります、慶長三年(1598)原野村の鎮守として木曽家旧臣が創建したもので、木造御神像三体の内二体が鎌倉期作で木曽町文化財指定です。
街道に戻ると左手に庚申塔や石仏が台上に安置されています。
スグ先で無佐澤川を無佐澤橋で渡ると、左手に夥しい数の石仏石塔群があります。 |
原野八幡宮 |
石仏石塔群 |
石仏石塔群 |
|
|
|
|
|
右手の木曽町消防団第八分団の火の見櫓の並びに明星岩公園があります、ここから右手の山の中腹に明星岩と呼ばれる大岩が望めます。
大岩の下には駒ケ岳神社が祀られています、この明星岩には大きな白いカジカが棲みつき、朝日が当たると輝いたといいます。
先に進むと左手に中山道中間地点標石があります、標石の右面「江戸へ 六十七里二十八町」左面「京へ 六十七里二十八町」と刻まれています、傍らに水神が祀られています。
中山道ウォークの後半に取り架かりましょう! |
明星岩 |
中山道中間地点 |
水神 |
正沢川旧道東口 |
元原(南)バス停先を斜め右の正沢川旧道に入ります、この分岐点には木製道標「ここは小沢 ←中山道→」があります。
|
|
|
|
小さな神社前の十字路を直進(白色矢印)します、神社の境内には天保十一年(1840)建立の道祖神があります、向いには丸太道標「←中山道→」があります。
小沢センター前の道筋を進むとY字路になります、左の砂利道に入ります、この分岐点にはカーブミラーがあります。
砂利道が舗装路に変わった先、左手のガードレールの切れ目をヘアピン状に回り込んで草道の下り坂に入ります。
この分岐点には案内標識「←中山道 この下の橋を渡り木曽福島へ」があります。 |
神社前十字路 |
道祖神 |
Y字路分岐 |
ヘアピンカーブ |
|
|
|
|
踏み跡に従って、草道を進みます。
草道はT字路に突き当たります、ここを右に進みます。
チョットした林の中を抜けると、正沢川沿いに出ます。
先に鉄製の小橋が現れます、橋の周囲の下草はシッカリ刈りとられていますので安心です。
この正沢川は木曽福島領との境でした、今は木曽町新開と木曽町日義の境です。 |
草道 |
T字路 |
林道 |
鉄製の小橋 |
|
|
|
|
鉄製の小橋を渡ります、小橋はグレーチング(金網)になっていますので、川の流れが直下に見えて、快適です!
グレーチング橋の渡り詰を右折し、道なりに進むと、先で上道に合流します。
京方面からは左手のカーブミラーが分岐ポイントになります、足元には中山道案内があります、見落とさないで下さい。
スグ先の左手に道標「中原兼遠屋敷跡→」があります、ここを右(黄色矢印)に進み、JR中央本線を跨線橋で渡り、渡り詰めを左折します。 |
グレーチング橋 |
正沢川旧道西口 |
兼遠屋敷跡道標 |
中原兼遠屋敷跡 |
左手に中原兼遠屋敷跡木製標識があります、兼遠の妻は駒王丸(木曽義仲)の乳母でした、駒王丸は十三歳で元服するまでここに匿われてました。
|
|
|
|
天神川を天神橋で渡ると左手に嘉永五年(1852)建立の廿三夜塔や庚申塔が並び、その横には薬師堂があります。
本尊の薬師如来は人々の病苦を癒し、心の苦悩を除いてくれます、旅人もこの薬師に願をかけて旅の平安を祈りました。
並びの高台に手習天神が祀られています、木曽義仲を養育した中原兼遠が義仲の学問の神として京都の北野天満宮を勧請したものです。 |
石塔 |
薬師堂 |
手習天神 |
石塔群 |
社殿は江戸末期、上田村の宮大工武居仙衛門の手になるものです、境内のイチイの古木は樹齢千年です。
手習天神の参道階段脇にも石塔群があります。
|
|
上田バス停を過ぎると変則三字路になります、左(上黄色矢印)は国道19号線上田口交差点に出ます。
この変則三字路の中央(白色矢印)にある細い下り坂が上田旧道です。
旧道に踏み込むと中山道ウォーキングの方へと記された標識があります、標識には「この先、道が無くなっていて危険です!中山道を歩かれる方は、下記地図の赤い破線に従って迂回をお願いいたします。」と記されています。
チョット示された地図が解かりずらいです、要約すると、変則Y序路を左(上黄色矢印)に進み、上田口交差点から国道19号線に迂回する方法を薦めています。
しかし我々街道ウォーカーはたとえ先で余儀なく迂回をするにしても、目の前に旧道がある以上は踏み込まなくてはなりません、それでは変則三叉路中央の上田旧道を進んでみましょう。 |
出口三叉路 |
中山道案内 |
|
|
|
|
微妙にうねった旧道はスグに国道19号線のガードに突き当たります、ガードをくぐった先に旧道は続いていましたが中央線の敷設で消滅しました。
今はガードの階段を上り、国道19号線に合流(白色矢印)します。
しかしこの先歩道がありません、ここで初めて迂回(黄色矢印)します、一旦後方に戻り上田口交差点にて、右側の歩道に迂回します。
しばらく国道19号線を歩きます。 |
国道ガード |
ガード階段 |
迂回路 |
国道19号線 |
|
|
|
|
右手のフジベ印刷を過ぎると出尻一里塚跡碑があります、江戸日本橋より数えて六十九里目です。
出尻一里塚跡碑の所から右に入ります、ここが出尻旧道上です、この分岐点には中山道案内標識「ここは出尻上」があります。
土道の出尻旧道に踏み込むと、急な下り坂になります、おと坂です、おと坂には多数の石仏石塔群を残しています。
土道のおと坂を下り切ると下道に合流します。 |
出尻の一里塚跡 |
出尻旧道上 |
石仏石塔群 |
出尻旧道下 |
この分岐点には中山道案内標識「ここは出尻下」があります。
|
|
|
|
下道を進み、きそ子供センター前バス停先左の車止めのある坂道(白色矢印)を上り、国道19号線に合流します。
京方面からはデイリーヤマザキ先の国道19号線斜め左の下り坂に入ります、ここが出尻旧道西坂上です。
国道19号線を注意深く横断します。
デイリーヤマザキ先のブリヂストンタイヤの手前を左(白色矢印)に入ります、ここが矢崎旧道東口です。
突き当りを右折(白色矢印)します。 |
出尻旧道西口下 |
出尻旧道西口上 |
矢崎旧道東口 |
矢崎旧道内分岐 |
|
|
|
|
矢崎沢を跨ぎ、先のY字路を左(白色矢印)の上り坂に入ります。
矢崎旧道は国道19号線に沿う段上を進み、矢崎橋交差点に出ます。
京方面からは矢崎橋交差点から斜め右の上り坂に入ります。
国道19号線の左側を進むと荒町バス停の所に元禄十五年(1702)造立の大日如来像と同十四年(1701)建立の経塚があります。
木曽代官第六代山村良景の書です。 |
矢崎沢 |
矢崎旧道内Y字路 |
矢崎旧道西口 |
大日如来像&経塚 |
この経塚は初代木曽代官山村良候(よしとき)が慶長年間(1596〜615)に家臣の川崎又右衛門(祖要坊)を伴って、全国の霊場を廻って大乗経を納め、記念として塚を築いて松を植えました。
年を経て知る人もなくなったので、第五代山村良忠(たかただ)が曾祖父良候(号道祐)の百年忌にあたって、第六代山村良景の書による碑文を刻み建立したものです。
|
|
|
|
スグ先左手の落石防護ネットの切れ目の中に芭蕉句碑桜塚「思い立つ 木曽や四月の 桜狩り」があります。
次いで右手に蕎麦処くるまやがあります、くるまやは代々福島関所を勤めた山村代官に仕え、製粉精米業を営んでいました、屋号のくるまやは水車に由来しています。
先を斜め右の下り坂に入ります、この荒町旧道口には木製道標「ここはあら町 ←中山道→」があります、先に進み木曽大橋をくぐります。
旧道は木曽川に突当ります。 |
芭蕉句碑 |
くるまや |
荒町旧道東口 |
荒町旧道内分岐 |
ここを左折(白色矢印)します、京方面からはY字路になっています、右に進みます、この分岐点には丸太道標「←中山道→」があります。
|
|
|
|
旧道は上り坂になり、国道19号線に合流します、京方面からは関町交差点先を斜め左の下り坂に入ります。
関町交差点のY字路を右に進みます、国道19号線はY字路左の福島トンネルに入ります。
交差点を越すと左手の擁壁上に関所のまち木曽福島と描かれた関所門を模した大看板が旅人を出迎えてくれます。
先に進むと巨大な関所門モニュメントが立ちはだかっています、門には〇に一字の山村氏家紋があしらわれています。 |
荒町旧道西口 |
関町交差点 |
木曽福島大看板 |
関所門モニュメント |
|
|
このモニュメントをくぐり、斜め左の上り坂に入ります、ここが福島関所江戸口です。
広重は福島関所の江戸口をリアルに描いています。
右手には木曽川の断崖が迫り、左側には関山の峻嶮でした、これらには柵が巡らされています。
関所東門の前には関所から出てきた者、これから入る旅人の姿が描かれています。
そして関所内の御番所が描かれ、関所役人と土下座をする旅人が確認できます。 |
福島関所江戸口 |
木曽海道六拾九次之内 福し満 広重画 |
|
|
|
|
坂道を上り詰めると右手に木曽福島関所跡碑があります、正面には幅二間(約3.6m)の関所東門が待ち構えています。
東門をくぐると左手に御番所が復元されています。
徳川家康は要衝の地である、福島を幕府直轄領とし、関ケ原の合戦に功のあった木曽氏の重臣山村氏を関所番に登用しました。
その後、この地は尾張藩領になりましたが、引き続き山村氏が関所番を世襲しました。
福島関所は 中山道の重要な守りとして碓氷、箱根、新居と共に、天下の四大関所の一つでした。 |
関所跡碑 |
関所東門 |
御番所 |
|
福島関所は入り鉄砲に出女を厳しく取り締まりました。
|
|
通行を許されると西門から坂を下ります、福島宿に到着です!
福島の地は戦国時代木曽氏の城下町であり、江戸時代になると代官山村氏の陣屋町となりました。
この地は「山蒼く暮れて夜霧に灯をともす、木曽福島は谷底の町」とうたわれ要害の地でした、木曽十一宿の中心地で松本や飯田に次ぐ大きな町でした。
天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳によれば、福島宿の宿内家数は百五十八軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠十四軒で、宿内人口は九百七十二人(男四百九十四人 女四百七十八人)でした、昭和二年(1927)の大火で上町、下町の宿並は灰燼に帰してしまいました。
関所の京口を下り切ると左手に高瀬奇應丸碑があります、高瀬家は木曽代官山村氏の用人で代々関所上番を勤めました。 |
関所京口 |
高瀬奇應丸 |
明治の世になると高瀬家は小児の夜泣き疳の虫に効く漢方生薬高瀬奇應丸を製造し評判でした。
高瀬家は島崎藤村の姉園が嫁いだ家です、そして藤村の小説家の題材になっています。
|
|
|
|
宿並を進み上町交差点を左に入ると臨済宗妙心寺派久昌寺があります、山門は仁王鐘楼門です
JR中央本線を越えた墓地に高瀬家の墓があります。
高瀬家は藤原氏の出で菊池肥後守則澄を祖とし、その後高瀬と改め則澄より四代目にあたる高瀬四郎兵衛武浄が大阪冬の陣の頃、木曽福島に入りその子八右衛門武声が山村代官に仕え以後幕末まで山村家の家臣として代々御側役、鉄砲術指南役、勘定役として仕えました。
上町交差点に戻り、そのまま直進して、木曽川を中央橋で渡り、突当りを道なりに右に進むと、先の左手に臨済宗妙心寺派萬松山興禅寺があります、木曽三大名刹(長福寺、須原の定勝寺)の一つです。 |
久昌院 |
高瀬家墓 |
興禅寺 |
|
|
|
|
|
興禅寺は永享六年(1434)木曽義仲追善供養のため、木曽家十二代信道が荒廃していた寺を修復再建しました。
しかし本堂をはじめ諸堂宇は、昭和二年(1927)の福島大火によって全焼し、後に復興したものです。
本堂の外側を右から回り込むと高台に木曽義仲の墓である宝篋印塔があります、寿永三年(1184)死の間際に「義仲死に臨み女を従うは後世の恥なり、汝はこれより木曽に去るべし」と遺髪を巴御前に託しました、その遺髪がここに収められています。
墓所から戻る際に、左手に旧帝室林野局木曽支局庁舎の洋館があります、木曽谷の森林は江戸時代尾張藩有林であり、明治維新後は官有林となりました。 |
木曽義仲墓所 |
木曽義仲墓 |
旧帝室林野局 |
|
そして明治二十二年(1889)から五十八年間は皇室財産の御料林となりました。
|
|
|
|
更に戻ると興禅寺の並びに臨済宗妙心寺派龍源山長福寺があります、木曽三大名刹(興禅寺、須原の定勝寺)の一つです。
永享二年(1430)の創建で木曽家の菩提寺でしたた、天正十八年(1590)木曽氏が網戸(あじと、下総國)へ移封になると、その後は木曽氏の家臣山村氏が庇護をしました。
十字路に戻り右に進むと右手に山村代官屋敷東門跡があります、石垣に尾張藩の重臣横井也有(やゆう)の句「俎板(まないた)の なる日はきかず かんこ鳥」や岐祖路紀行の一節が刻まれています。
先の右手に山村代官屋敷があります。 |
長福寺 |
代官屋敷東門跡 |
山村代官屋敷 |
|
山村氏は慶長五年(1600)の関ケ原の合戦の際、徳川秀忠率いる徳川本隊を中山道木曽路通過の案内役を勤め、この功により木曽谷代官に就任しました。
|
|
|
|
それでは宿並に戻って進みましょう、支所前交差点を左に入ると木曽町木曽福島支所前に福島宿本陣跡標石があります。
標石の左面には江戸へ六十里、右面には京へ六十七里と刻まれています。
現在の支所及び支所前広場が本陣敷地でした、代々白木十郎左衛門が勤め、問屋を兼ね、明治三年(1870)の本陣廃止まで続きました。
皇女和宮は福島宿白木本陣にて昼食を摂りました。 |
福島宿本陣跡 |
本陣跡標石 |
本陣間取図 |
七笑酒造 |
宿並に戻って進むと左手に酒林を吊り下げた七笑酒造があります。
七笑酒造は明治二十五年(1892)創業の銘酒七笑(ななわらい)の蔵元です。
|
|
|
|
右手の創業三百五十年の木曽路の宿いわやの向いを左折(白色矢印)します、この分岐点には中北道標があります。
旧道に入ると右手に喜又橋があります、この橋は清水の湧いた場所より小川が流れ出て、その小川に木製の橋が架かっていたものを復元したものです。
千村喜又はこの地を治めた十代目の当主であり、島崎藤村の実兄と共に、この町の山林確保に私財を投じて町の人々の為に尽くしました。
道なりに上り坂を進みます。 |
上の段旧道東口 |
喜又橋 |
千村喜又 |
高札場 |
右手に高札場が復元されています、天保九年(1838)当時の高札八枚が掲げられています。
|
|
高札場の先を左折すると上の段(うえのだん)の町並みになります、昭和二年(1927)の大火に遭わず、往時の佇まいを今に残しています。
上の段は木曽義仲から十九代目の木曽義昌(よしまさ)の居城上之段城があり、その郭内として多くの道筋が通っており、由緒ある小路名や複雑な枡形を残しています。
町並の中程の寺門小路を左に入ると臨済宗妙心寺派智勝山大通寺があります、慶長四年(1601)木曽家の屋敷跡に尾張藩木曽代官二代目山村良勝(たかかつ)によって創建されました。
山村良勝と父良候(よしとき)は共に木曽義昌の重臣でした。
鐘楼門は安永七年(1778)の建立で、当町に現存する木造建造物としては最古のものの一つです。 |
上の段 |
大通寺鐘楼門 |
|
|
|
|
境内に武田信玄公息女真理姫供養塔があります。
天文二十四年(1555)木曽へ攻め入った武田信玄が、領主木曽義康と和睦した折に、その嫡子義昌のもとへ甲府から嫁いで来たのが信玄の三女である真理姫(当時六歳)です。
天正十八年(1590)徳川家康によって木曽義昌は網戸(あじと、下総國)へ移封され、五年後に病没しました、後を継いだ義利は乱行を理由に木曽家は取り潰しとなりました。
真理姫は末っ子の義通と共に木曽へ戻り三岳村で暮らし、正保四年(1647)九十八歳の生涯を全うしました。
上の段は下り坂になり、突当りを左折(白色矢印)します、次いで突当りの井戸を右折(白色矢印)します。 |
真理姫供養塔 |
上の段枡形 |
上の段枡形 |
|
この井戸は江戸時代中頃に掘られたもので、昭和の中頃まで飲み水として使われました。
|
|
|
|
更に坂を下り、八沢川を中八沢橋で渡り、突き当りを右折(白色矢印)し、県道269号木曽福島停車場駒ケ岳線に合流します、この分岐点には中北道標「←JR木曽福島駅0.5km/上の段120m→」があります。
先に進むと右手に萬蔵の宿むらちやがあります、一度宿泊しました。
向いの長野銀行には両替屋の木札が掲げられています、粋ですね!
先がY字路になっています、左(白色矢印)の上り坂を進みます。 |
上の段旧道西口 |
萬蔵の宿むらちや |
両替屋 |
Y字路分岐 |
この分岐点には中北道標「←中山道 JR木曽福島駅400m」があります。
|
|
木曽福島駅 |
到着祝い! |
案外の急坂を上り詰めると、左手にJR中央本線木曽福島駅があります、ここが福島宿の起点です。
本日の街道ウォークはここまでです、到着時間はPM5:26、最終電車のタイムりミットは松本行PM6:04発です。
30分の余裕があります、水場でシッカリ汗を拭います。
例のモノを仕込み、駅のホームに直行です、ここが一番風が吹き抜けて最高です!ウマイ!!実にウマイ!!!
そしてボーッとしています、まるでフーテンの寅さんです!!!!
|