道中日記 5-183 中山道 ( 福島 - 須原 ) 21.6km


 今回は青春18きっぷ作戦第2弾です!

前回の奈良井宿~福島宿ウォークの往復運賃は8,930円でした、今回の往復運賃は9,240円です、合計すると18,170円です。

青春18きっぷは11,500円ですから、第2回目にして、すでに元を取ったことになります、素晴らしいですね!!


 5時間46分の長旅です、今は夏休みの真っ最中、大きなショルダーバッグを肩に掛けた高校生達が部活なのでしょう乗り降りしています。

全員、陽に焼けて真っ黒です、ハイ、私も決して負けていません。

塩尻駅からは
ワンマン電車になります、運転手さんが停車後、清算を行います。

JR中央本線の電車旅にはスッカリ慣れてきました、しかし
到着時間は次第に遅くなり、タイムリミットは早目になってきます。

それでは
猛暑日ウォークの出立です。

 平成23年08月17日 AM11:51 福島宿出立 上松宿まで8.5km

 JR中央本線木曽福島駅を出立すると、正面がY字路になっています。

このY字路の中央に
御嶽教木曽大教殿があります、木曽における御嶽教の拠点として昭和二十三年(1948)に創建されました、残念ながら今は荒れるに任されています。

このY字路を左に進みます、この分岐点には
中北道標「←国道19号線0.5km/木曽の桟4.0km→」があります。

先に進み車道から分離して右手の
歩道の下り坂に入ります。
御嶽教大教殿 塩渕旧道東口 ①塩渕旧道分岐 ②塩渕旧道分岐

 この分岐点には
中山道案内標識があります。

道なりに進むと
木曽町役場に突き当たります、初めて来た時は大同製鋼の工場でした。

役場前を右折(白色矢印)します、役場の外壁に
案内標識「中山道→」が設置されています。

 役場に沿って進み、突き当りを左折すると、下り坂になります。

塩渕旧道の右手には木曽川対岸の
上塩渕の家並みの景が望めます。

急傾斜地崩壊危険区域の防護擁壁の前を通過すると、旧道は
下道に突き当たります、左折(白色矢印)します。

この分岐点には
案内標識「ここは塩渕 ←中山道→」があります。

京方面からは斜め右の上り坂に入ります。
③塩渕旧道分岐 塩渕旧道 上塩渕の家並み 塩渕旧道西口

 長閑な塩渕村を進みます、享保九年(1724)の岩郷村家数書上帳には家数拾四軒塩渕と記載されています。

という地名は川の曲流部を指し、木曽川の曲流部に出来た渕とするものや、を背負った馬が木曽川のに転落したところから塩渕(しょうぶち)となったともいいます。

左手の
塩渕くらぶ前に中山道一里塚之跡碑があります、塩渕の一里塚跡です、碑には「江戸より七十里、京へ六十七里」と刻まれています。

碑の並びには
中山道丸太標柱があり、塩渕くらぶの外壁には中山道解説が掲げられています「この案内板の前が旧中山道である。三十四家の諸大名が、参勤交代の際大名行列をして通った往還である。」と記されています。
塩渕の一里塚跡 一里塚之跡碑 石塔石碑群

 先に進むと左手の高台に
廿三夜様勢至大菩薩新田記念堤防記念塩渕開発記念があります、見学するにはの中を通行しますので作物を傷めぬよう十分に気を付けましょう。

 旧道は県道461号鳥居本町線に突き当たります、ここを左折(白色矢印)します、この分岐点には道標「ここは塩渕 ←中山道↑」があります。

スグ先の
信号交差点の手前を斜め左(白色矢印)に入ります、この分岐点には中北道標「←木曽の桟3.7km/JR木曽福島駅1.0km↓」があります。

坂を上るとアットいう間に
木曽川取水ダムが眼下になります。

人家手前の右手に
道祖神石仏が祀られています。
塩渕西口 中平旧道東口 眼下の木曽川 道祖神

 
中平(なかだいら)口にあって悪霊の侵入を見張っています。

 細道を上り詰めると、車道に突き当たります、ここを右折します、この分岐点には道標「ここは中平(なかだいら)↓中山道→」、中北道標「↓JR木曽福島駅1.5km/木曽の桟3.2km→」があります。

中平(なかだいら)は天保九年(1838)刊の木曽巡行記に「中平は木櫛挽き売る」と著され、ここには立場茶屋があり、木櫛を商っていました。

中平村の外れに
津島様(津島社)を祀ったがあります、村の守護神です。

先を斜め左(白色矢印)に入ります。
中平分岐東 津島社祠 中平分岐西 国道19号線高架

 この分岐点には
道標「ここは中平 ←中山道→」があります。

次いで
国道19号線高架をくぐります。

 正面に昭和四十三年(1968)開通の旧中央本線中平トンネルが現れます。

本来の
旧中山道はトンネル脇から刎石(はねいし)の山腹を右に巻いている草道ですが、現在は通行不能となっています。

今は廃線になった、この
中平トンネルが最も旧道に近いといえます。

それでは踏み込みましょう、中平トンネルの全長は166mです、トンネル内はむせ返るような暑さの街道から、
氷室に入ったような涼しさになります。
中平トンネル東 中平トンネル西 Y字路分岐 中平旧道西口

 中平トンネルを抜けると下り坂になります、途中のY字路は右(白色矢印)に進みます。

スグ先で
国道19号線に突き当たります、左(白色矢印)に進みます、この分岐点には道標「ここは鳥居 ↑中山道→」、先には元橋バス停、その向にはイオンの大きな看板があります、京方面から斜め右の上り坂に入ります。


 元橋交差点を過ぎると、左の神戸(ごうど)架道橋でJR中央本線をくぐります、この分岐点には道標「ここは神戸 ↑中山道→ 横断歩道を渡り国道19号沿いに進んでください」があります、この道標は京方面からの案内です。

国道19号線の喧騒から解き放たれ、
神戸(ごうど)はひっそりとしています、往時は合渡村と呼ばれました、これは王滝川木曽川に落合うところを由来としています。

木立の中を進むと右手の段上に
御嶽遥拝所があります。

中山道で
御嶽山を遥拝できるのは鳥居峠とここだけです、鳥居は寛永九年(1632)の建立、御嶽山大権現と刻まれた常夜燈は文政四年(1821)の建立です、今は樹木に覆われ、ここから御嶽山は望めません。
神戸架道橋 神戸村 御嶽遥拝所

 神戸旧道を下ると左手に道標標識「↓至 中山道・御嶽遥拝所700m/至 上松町・木曽の桟1K→」があります。

ここを右折(白色矢印)してJR中央本線を
架道橋1977-2でくぐります。

突当りの
国道19号線を左折(白色矢印)します、この分岐点には道標標識「←木曽の桟1km/↓中山道コース 御嶽遥拝所」があります。

スグ先を斜め左(白色矢印)の上り坂に入ります、ここが
板敷野旧道東口です。
架道橋 神戸旧道西口 板敷野旧道東口 旧道内Y字路

 この分岐点には
丸太道標「↓中山道→」があります。

スグに
Y字路が現れます、右(白色矢印)に進みます。

 板敷野村を過ぎると、舗装路は右にカーブしますが、突当りの草道(白色矢印)に入り、JR中央本線に沿って進みます、この辺りが福島上松の境です。

草道を進むと
舗装路に突き当たります、再び正面の草道(白色矢印)に入ります、この分岐点には中山道道標「←沓掛馬頭観音堂40m/木曽の桟0.6km JR上松駅3.3km↓」があります。

草道に踏み込むと右手に木の茂った
小山があります、沓掛一里塚東塚です、西塚は中央本線の敷設で消滅しました、江戸日本橋より数えて七十一里目です。
草道東口 草道 草道西口 沓掛の一里塚

 沓掛の一里塚上に馬頭観音堂があります、以前はもう少し南の観音坂にありましたが、明治四十三年(1910)の中央本線敷設の折りに現在地の一里塚上に移築されました、この辺りには沓掛の立場茶屋がありました。

木曽義仲木曽の桟を通り掛った時、愛馬に「七十三間飛べ」と号令したところ、馬は命ぜられた通り、正確に七十三間飛びました、ところが実際は七十四間あったので人馬共に木曽川に転落し、義仲は九死に一生を得たが、馬は死んでしまった、義仲は愛馬の菩提を弔う為に一宇を建て馬頭観音像を祀りました。

観音堂先の旧道は消滅しています、元に戻り舗装路を左(黄色矢印)に下り、国道19号線に合流します、ここが沓掛旧道西口です、京方面からは斜め右に入ります。
沓掛馬頭観音堂 沓掛旧道西口 一里塚碑

 この分岐点には
中山道道標「←沓掛馬頭観音150m/木曽の桟0.5km JR上松駅3.2km→」と沓掛一里塚碑があります、碑には「京へ六十六里 江戸から七十一里 右坂上に在り」と刻まれています。

 国道19号線左の歩道を進みます。

やがて正面の右手に赤く塗られた
鉄橋が現れます。

手前の
桟バス停先、1kmポスト「名古屋まで132km」手前左手の崖面に磨崖銘文(まがいめいぶん)碑があります、慶安元年(1648)木造の桟に変って、石積み桟に架け替えた際の竣工記録が刻まれています。

スグ先の横断歩道を渡って、赤色の
かけはしを渡ると、眼下に木曽川の景が広がります。
国道19号線 磨崖銘文岩 磨崖銘文碑 かけはし

 かけはしの中央辺りまで渡り、左後方を振り返ると、国道19号線の下に石積みの木曽の桟が保存されています。

当初の
木曽の桟は岸壁に穴を開け、これに丸太を差し込み、この上にを架け渡し、(つた)かずらの蔓(つる)で縛り付けた(さん)でした。

この桟は「木曽の桟(かけはし) 太田で渡し 碓氷峠がなくばよい」と謡われた
中山道三大難所の一つでした。

この
木曽の桟は正保四年(1647)旅人の松明の不始末で焼失し、翌慶安元年(1648)尾張藩が石積みの(かけはし)を完成させました。
木曽川の景 木曽の桟跡 信州木曽の雪

 この
木曽の桟は甲斐の猿橋、岩国の錦帯橋と並び日本三大奇橋の一つです。

二代目
歌川広重は安政六年(1859)刊の諸国名所百景の中で信州木曽の雪で木曽の桟を描いています。

 かけはしを渡ると右手に芭蕉翁句碑「かけはしや 命をからむ 蔦(つた)かづら」があります。

左手の斜面左手に
正岡子規碑「かけはしや あぶない処に 山つつじ」「桟や 水へとどかず 五月雨」「むかしたれ 雲のゆききの あとつけて わたしそめけん 木曽のかけはし」があります。

中央には
明治天皇聖蹟碑があります。

右手には同じく文政十二年(1829)建立の
芭蕉句碑「かけはしや 命をからむ 蔦かづら」があります。
芭蕉翁句碑 正岡子規碑 明治天皇碑 芭蕉句碑

 左手の木曽川沿いには
桟温泉があります。

 かけはしを再び渡り、国道19号線に戻り、木曽川沿いの歩道を進みます。

左手の民宿
根がかり宿を過ぎると、左手の落石防止ネットの切れ目の中に賽の河原地蔵尊が多数並んでいます。

この辺りの
木曽川の花崗岩の岩肌が三途の川、手前の賽の河原に似ているところから、ここに地蔵尊が祀られました。

先に進むと
新茶屋橋があります、往時はここに高巻き道(通行不可)があり、新茶屋村には蕨餅が名物の弥生茶屋がありました。
国道19号線歩道 賽の河原地蔵群 木曽川 歩道の消滅!

 左手の
1kmポスト「名古屋まで131km」を過ぎると、突然歩道が消滅します、

 中途半端ですね、無責任ですね、大型トラックがすれ違うと恐怖を覚えます、木曽の桟よりはるかに難所です!

地元のガイドブックでは、先程の赤い
かけはしを渡り、木曽川の対岸上松まで歩くことを薦めています。

JR中央本線の
笹沢ガードをくぐると、正面にひのきの里上松第3トンネルが現れます、国道19号線はこのトンネルに吸収されます。

トンネル手前の
笹沢交差点を斜め右(白色矢印)の旧国道を進みます。
難所! JR中央本線ガード 笹沢交差点分岐 旧国道

 
旧国道に入ると圧倒的に車の交通量が減り、やっと安心できます、街道沿いは木曽街道上松宿大曲フラワー愛好会によって花々が植えられています、先程迄の地獄のような難所に比べると天国のようです。

 PM1:46 上松宿着 須原宿まで13.1km

 十王橋交差点を左折(白色矢印)し、一本目を右折(白色矢印)すると右手に中山道上松宿入口標柱があります、ここが上松宿の江戸(東)口です、上松宿に到着です!上松の地名は、この地に見上げるような松があったところに由来しています。

上松宿は
木曽五木の集散地でした、尾張藩はこの地に材木役所を設置し、「木一本首ひとつ」といわれるほど厳しい管理、取り締まりを行いました。

上松宿は江戸口の十王橋から上町本町仲町下町で構成されていました、宿並は明治以来の度重なる大火で焼失し、火災を免れた上町だけに江戸の面影を残しています。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によれば、上松宿宿内家数は三百六十二軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠三十五軒で、宿内人口は二千四百八十二人(男千二百五十八人 女千二百二十四人)でした。
十王橋交差点 上松宿東口

 中山道上松宿入口標柱脇の広場内に石仏石塔群があります、地蔵尊十王堂に祀られていたものです、慶応三年(1867)の大洪水で十王堂と共に流失しました、それから七年後の春のお彼岸に河川の石の間から発見されました、馬頭観音は対岸の山腹に祀られていたものです。

この広場には
上松宿高札場がありました。

十王沢(旧小野川)を十王橋で渡ると上松宿の上町に入ります、橋詰に十王堂がありました。

往時の宿並を残す
上町に入り、一本目を左に入ると八幡宮があります、本殿は正徳四年(1714)の建立で上松町最古の神社で上松町文化財指定です。
石仏石塔群 上町の宿並 八幡宮

 口碑によれば、
玉林和尚が甥の木曽義豊「上松蔵人くろうど)」の為に、源氏の守護神である八幡社を館の近くに勧請したものといいます。

 一旦宿並に戻り、二本目を左に入ると臨済宗妙心寺派聖岩山玉林寺があります、天正年間(1573~93)木曽氏第十六代木曽義元の二男玉林の創建です。

明治二十六年(1893)の
火災で本堂、庫裏は焼失しましたが鐘楼門は免れました、この鐘楼門は明和三年(1766)の建立で上松町文化財指定です。

境内背後の
天神山には木曽氏第十九代木曽義昌の弟義豊上松蔵人と称して居館を構えました。

宿並に戻ると右手の上松町交番の並びに
脇本陣跡があります、青緑(せいろく)瓦の門にといやの木札が掲げられています、原家が勤め、問屋総庄屋を兼ねました、門扉内にこれらの木札が掲げています。
玉林院鐘楼門 天神山木曽氏館跡 脇本陣跡

 脇本陣先の左手に男女双体道祖神と水の女神水速女命(みずはやめのみこと)が祀られています。

並びの塚本歯科医院が
本陣跡です、藤田九郎左衛門が勤めました。

皇女和宮は十一月二日(十一日目)上松宿藤田本陣に宿泊しました。

突き当たりを右折します、
上町の枡形跡です。

枡形内の左手には
一里塚の跡碑があります、本町の一里塚跡です。
道祖神&水神 本陣跡 上町枡形 本町一里塚跡

 
上松の一里塚とも呼ばれます、碑には「中山道上松宿京へ六十五里 江戸より七十二里」と刻まれています、本来の位置は本町の角を曲がり、中町に入った所の左右に二基の一里塚がありました(碑より三十メートル下方)。

一里塚は土を丸く山に盛って造られているので、南に向かって右側を下の山と呼び、左側を上の山と呼んでいました。

 枡形を下り、突当りの県道260号線(旧国道)を左折(白色矢印)します、この分岐点には中山道道標「↑上松宿上町250m/JR上松駅200m→」があります。

広小路交差点を右折(黄色矢印)すると正面がJR中央本線
上松駅です。

下町交差点を越し、左手の清水屋酒店の所から斜め左(白色矢印)の
寺坂の上り坂に入ります。

道なりに進み、突当りの
上道を右折(白色矢印)します。
枡形下 広小路交差点 寺坂下 寺坂上

 階段口には
案内標識「←中山道→」があります。

 この分岐点向いの斜面に大乗妙典塔が祀られています。

スグ先左手の上松小学校の斜面に
斉藤茂吉歌碑「駒ケ嶽見て そめけるを背後にし 小さき汽車は 峡に入りゆく」があります。

正門を入ると右手に
島崎藤村文学碑「山は静かにして性をやしなひ 水は動いて情をなぐさむ」があります。

小学校の前を進むと左手の斜面に
尾張藩上松材木役所陣屋跡碑があります、尾張藩は寛文三年(1663)から四年にかけて木曽総山の検見を実施しました。
大乗妙典 斎藤茂吉歌碑 島崎藤村文学碑 材木役所跡

 その結果、
山林の大半が伐採され、荒廃していることに驚き、山村代官から山に関する一切の業務を取り上げ、この地に木曽山林の管理、保護、取締り等を行う藩直轄の材木役所陣屋を設置しました、木曽谷の人々の苦しみはこの時からといえます。

 並びに諏訪神社があります、上松の鎮守です、社殿は上松小学校の校庭奥に鎮座しています。

境内には
陣屋の中庭に祀られていた五社神社(御嶽大権現、熱田大神宮、天照皇大神宮、三嶋大明神、水天宮)と津島神社が祀られています。

上松小学校を過ぎると左手に
笠付庚申塔があります。

下り坂を進むと、
県道266号荻原小川線に突き当たります、左折(白色矢印)します。
諏訪神社 庚申塔 県道分岐 国道19号線

 この分岐点には
中山道道標「←JR上松駅0.9km/寝覚の床1.2km 木曽古道→」があります。

スグ先の
中沢橋を渡ると見帰(旧三帰村)に入ります、先で国道19号線を跨ぎます。

 街道の左手に背の高い杉が現れると、その根方に常夜燈があり、その奥に石仏石塔群があります。

先に進むと名勝
寝覚の床入口(黄色矢印)があります、この分岐点にはレトロな郵便ポストが立っています。

手前の
立場茶屋たせや(多瀬屋)は築三百年で茶屋本陣を勤め、上段の間を残しています。

向いの
越後屋は寛永元年(1624)創業の名物寿命そば(蕎麦切り)の老舗です。
常夜燈&石塔群 寝覚の床入口 立場茶屋たせや 越前屋

 
芭蕉十辺舎一九、そして島崎藤村も賞味しています、それでは右折(黄色矢印)して寝覚の床に向ってみましょう。

 坂道を下り、国道19号線を越えると臨済宗妙心寺派寝覚山臨川寺(りんせんじ)があります。

入園料200円を支払って境内に入ると
芭蕉句碑「昼顔に ひる寝せふもの 床の山」があります。

弁才天堂は尾張藩主第四代徳川吉通が、正徳元年(1711)寝覚の地に立ち寄った折に、母堂の長寿を祈願して弁才天堂を建立したものです。

浦島太郎旧縁趾碑があり、浦島太郎姿見の池があります。
臨川寺 芭蕉句碑 弁才天堂 姿見の池

 
玉手箱を開けてしまい、白髪の老人になった浦島太郎が己の姿を写し見た池です。

 境内の外れから眼下を望むと国名勝史跡記念物寝覚の床があります、木曽川の浸食による花崗岩の壁が連なっています。

浦島太郎龍宮城から帰る際に弁財天尊像万宝神書玉手箱を持ち帰りました。

万宝神書には飛行の術が書かれ、太朗はこの術を使い諸方を飛び回り、この地が気に入り、ここに逗留し釣りに興じました。

ある時
玉手箱を開けてしまうと三百歳の翁になり、夢から覚めました、これが寝覚の地名由来となりました。

太朗は何処かに去ってしまったが、岩の上に
弁財天尊像が残されていました、この場所に浦島堂が建てられ、その後弁財天尊像臨川寺に祀られました。
寝覚の床 浦島堂

 街道に戻って進むとY字路になります、右(白色矢印)に進みます。

この分岐点の中央には幹回り4.1mの
大桂(カツラ)が聳えています、上松町天然記念物指定で上松町最大のです、 その昔、この上で発生した山崩れの際に流されてきた桂の苗木が大木になったといいます。

根方には
津島神社が祀られ、牛頭天王が合祀されています、境内には南無阿弥陀仏名号碑石塔があります。

先の
Y字路は左(白色矢印)に進みます。
大桂 津島神社 石塔群 寝覚旧道東口

 この分岐点には
寝覚簡易郵便局上松町立上松中学校入口標柱があります。

 旧道に入ると左手に南無阿弥陀仏名号碑が二基祀られています。

次いで左手の墓地入口に
六地蔵が台上に安置されています。

上松中学校の擁壁の前を真っ直ぐに進むと、赤い消火栓の所から石畳の下り坂になります。

石畳はスグに先程分岐した
県道266号荻原小川線に突き当たります、左に進みます、京方面からは斜め右の石畳道に入ります。
名号碑 六地蔵 石畳口 寝覚旧道西口

 石畳道口の手摺りに
中山道標識が設置されています。

 滑(なめ)滑川橋で渡ります。

眼下の
滑川は見事な石灰岩の渓谷を形成しています、この美しい滑川木曽川に落合います。

この滑川の渓谷が深い為、往時は
刎懸造りの橋で「長さ十五間、南北より刎木にて中に橋抗なし、此辺、特に急流なり」といわれました、この滑川橋木曽の桟伊奈川橋と共に木曽三大橋といわれました。

滑川橋を渡ると左手に
馬頭観音像が祀られています。
滑川橋 滑川 馬頭観音 小野原坂

 ここからは木立の中の
小野原坂をグングン下ります。

 小野原坂を下ると右手に木曽古道道標があります、左手(黄色矢印)が木曽古道口です、中山道は直進(白色矢印)します。

JR中央本線に沿って下ると左手の斜面に
御嶽山講中碑があります、ここから御嶽山を遥拝したのでしょう。

JR中央本線を
小野架道橋でくぐり、民家の手前を左に入る道筋が小野旧道です。

民家の先から
草道の下り坂になり、先で国道19号線に合流します。
木曽古道口 御嶽山碑 小野旧道東口 小野旧道西口

 京方面からは
養護老人ホーム木曽寮標識の所から斜め右の草道の上り坂に入ります。

 スグ先の左手、JR中央本線の高架下に木曽八景の一つ小野の滝があります。

広重は
上松として小野瀑布とも呼ばれる小野の滝を描きました。

太田南畝壬戌紀行の中で「小野の滝の左に茶屋あり、障子に名物小野の滝そば切りと書けり」と著しています。

広重は滝の左手に、この石置き屋根の
茶屋を描いています。

滝手前の岩上の祠には
不動尊が祀られています。
小野の滝 木曽海道六拾九次之内 上ケ松 広重画

 滝に打たれる修行行者の安全を見守っていました、祠の前には文政四年(1821)建立の常夜燈があります。

ここからはしばらく国道19号線の歩道を歩きます、
イージーライダー達が脇をすり抜けて行きます。

私はバイクの免許は持っていませんが、何故か
ハーレーダビットソンのドッドッドッと腹に響くエンジン音は好きです、サウンドに聞こえます。

先に進み左側の擁壁に沿って斜め左(白色矢印)に入ります、ここが
荻原村の東口です。

東口の右手には
(エノキ)と紅葉(モミジ)の合体木が聳えています。
不動尊 国道19号線 荻原旧道東口

 合体木の根方に一里塚の跡碑があります、碑には「京へ六十四里 中山道荻原宿 江戸より七十三里」と刻まれています、荻原の一里塚跡です。

荻原(おぎはら)間の宿でした。

村内を進むと左手に文化四年(1807)建立の
廿三夜塔南無妙法蓮華経題目碑が並んでいます。

脇を左に入ると右手に
地蔵尊が祀られ、奥に風越山の湧水(なごみ)があります、「この水は浄化も消毒もしていない湧き水です」と横に書かれています。
荻原の一里塚跡 石塔 地蔵尊 和水

 村外れで旧道は国道19号線に合流します、往時はこの辺りに荻原村の高札場がありました。

京方面からは
荻原交差点から斜め右に入ります。

荻原沢を渡ると串ケ下村です、左手から木曽古道が合流してきます。

国道19号線の下り坂を進むと、右手に
案内標識「↑阿寺渓谷16km 柿其渓谷24km」があります、この向いの斜め左(白色矢印)の宮戸旧道東口の上り坂に入ります。
荻原旧道西口 木曽古道 宮戸旧道東口 串ケ下橋りょう

 スグ先でJR中央本線を
串ケ下橋りょうでくぐります、橋りょう口には丸太道標「←中山道↓」があります。

橋りょうをくぐり、突当り右折します。

 JR中央本線に沿って進むと次第に山道になります。

右手の眼下には
木曽谷の底を走る、JR中央本線国道19号線、そして木曽川が望めます。

左手の擁壁上には
石仏石塔群があります。

沢を越すと左手の斜面に明治廿三年(1890)建立の
馬頭観世音文字塔が祀られています。

先にも
馬頭観音像が二体あります。
宮戸の山道 石仏石塔群 馬頭観音 馬頭観音

 宮戸村には竹筒を用いた水場があります、シッカリ給水し、湿らせたフェースタオルを頭に乗せ出立です。

旧道は人家前を抜けます。

草道の
くるみ坂を下ります。

やがてJR中央本線に沿った土道を下ります。

突当りの石段が現在の
神明神社の参道口です、正式な参道は中央線の敷設で通行不可です。
人家前の旧道 くるみ坂 JR中央本線沿い 神明神社参道口

 突当りの神明神社の参道階段前を右折(白色矢印)し、JR中央本線の橋りょうをくぐります。

草道を進み、突当りの
ガードレールの舗装路を左(白色矢印)に下ります、この分岐点には丸太道標「中山道・木曽古道→」があります。

舗装路は
国道19号線に合流します、京方面からは神明神社先を斜め右の上り坂に入ります。

左手に
神明神社鳥居があり、参道石段がありますが通行不可です。
立町橋りょう 草道 宮戸旧道西口 神明神社

 
神明神社の社殿は段上に鎮座しています、上松五社の一つで立町倉本の鎮守です。

毎年十月第三土日に
祭礼が行われます、この祭りが済むと木曽に一気にが来るといわれます。

 神明神社先を斜め左(白色矢印)に入ります、立町旧道東口です、この分岐点には大きな鷹の置物がある機械サービス木曽があります。

左手の
JR中央本線高架と右手の民家の間を進みます。

先で
国道19号線に突き当たります、ここには上松町立町歩道橋があります、旧道は国道を横断(白色矢印)します。

右(黄色矢印)に進むと左手の歩道橋の階段口脇に
明治天皇立町御小休所碑があります。
立町旧道東口 立町旧道 国道19号線横断 明治天皇碑

 明治十三年(1880)巡幸の際、
立町に立ち寄り休息しました。

 国道19号線を横断(白色矢印)すると立町に入ります、立町は立場でした、村内の家屋には旧屋号札が掲げられています。

太田南畝壬戍紀行には「人家数十戸 にぎわしき 立場なり」と著されています。

水場の傍らには水神が祀られています。

空澤橋を渡ると右手の木曽川に架かる吊り橋の諸原橋があります、昭和三十一年(1956)の竣工です。
水神 空澤橋 諸原橋 立町旧道西口

 対岸の
諸原集落とを繋いでいます。

立町の外れで
旧道は国道19号線に合流します、この分岐点には丸太道標「←中山道↑」があります。

 国道19号線をグングン進むと左手にJR中央本線の倉本駅が現れます。

この倉本駅の手前から本来の
旧道は山側に入りましたが、中央本線の敷設により消滅しました。

倉本駅を左に見てそのまま国道を進み、
倉本交差点から斜め左(白色矢印)に入り、JR中央本線を倉本橋りょうでくぐり、道なりに進みます。

ゴミ収集小屋カーブミラーの間を右に回り込みます、この辺りから旧道は復活します。
倉本旧道東口 倉本橋りょう 倉本旧道内分岐 空木岳登山口

 上り坂を進みます、左手の擁壁の切れ目からの
草道(黄色矢印)は中央アルプスの空木岳への登山口です、旧道は直進(白色矢印)します。

 倉本村を抜け、栃の木坂を下ると左手の斜面に常夜燈、そして夥しい数の石仏石塔があります。

常夜燈は文化六年(1809)の建立で、牛頭天王と刻まれています。

石塔群の中に享保十二年(1727)建立の
笠付庚申塔があります、除三尸之罪(のぞくさんしのつみ)と刻まれています。

暦で六十日に一度巡って来る
庚申(かのえさる)の日を寝ずに過ごし長寿を願う信仰を庚申待といいます、この夜寝てしまうと、体内に宿る三尺(さんし)の虫が天へ上って天帝にこの者の罪科を告げ、人のを縮めるといいます、この虫の報告が五百条になると、その人は死ぬといいます。

そこで
庚申の日は寝ずに過ごしました、日の出と共に起き、日没には寝てしまう民百姓にとっては唯一の娯楽だったのかもしれません。
常夜燈 庚申塔

 外れの旧家に煎餅屋と書かれた旧屋号札が掲げられています、立場茶屋だったのでしょう。

先に進み、
カーブミラー消火栓のある舗装路のY字路を右に進みます。

次いで草道の
Y字路を左に進みます。

草道は下り坂になり、先で
車道に突き当たります。

本来の
旧道は左方向(黄色矢印)に進み、大沢川を高巻、万場交差点辺りに出ていましたが、通行不可です。
煎餅屋 舗装路Y字路 草道Y字路 倉本旧道西

 今は右(白色矢印)に進みます、この分岐点には
丸太道標「↓中山道→」があります。

 JR中央本線の高架下をくぐると、国道19号線に突き当たります、ここが倉本旧道西口です。

突当りの国道を左折(白色矢印)し、
大沢川大沢橋で渡ります、京方面からは大沢橋の渡詰めを右折します。

万場(まんば)交差点を過ぎた先の右手非常用駐車エリアの奥に
一里塚の跡碑があります、碑には「中山道 江戸より七十四里 一里塚の跡 京へ六十三里」と刻まれています、倉本の一里塚跡です、大沢の一里塚とも呼ばれています。

実際の位置はここより20mほど
に両塚がありました。

池の尻交差点手前を今度は斜め右の下り坂に入ります。
大沢橋 倉本の一里塚跡 池の尻旧道東口

 ここが
池の尻旧道東口です、この分岐点には丸太道標「↓中山道→」があります。

 下り坂内の池の尻村立場でした、村内の家屋には旧屋号札が掲げています。

旧道を進み上り坂になると、
舗装路から草道になります。

旧道は廃業し、廃墟となったドライブイン
ていしゃばの脇を抜けて国道19号線に合流します。

境の沢橋を渡ると、上松町から大桑村に入ります、京方面からは境の沢橋を渡り、斜め左の廃業したレストランていしゃば脇の下り坂に入ります。
池の尻村 草道 レストラン廃墟脇 池の尻旧道西口

 国道19号線を進むと右手に木曽の酒木曽路看板があります、但し、この看板は京方面のみの表示です。

この向いの左手に緩い
上り坂があります、ここがエドヒガン旧道の東口痕跡です。

坂を上り詰めると
JR中央本線に突き当たります、ここにJR東海標識危険につき 線路横断禁止 (近くの踏切等を通行して下さい)」があります、通行不可です、ここからの記述は旧道痕跡としての解説です、ご理解ください。

線路の向いに
草道があります。
エドヒガン旧道東 線路横断禁止 草道 車道の横断

 草道は途中から
簡易舗装路になり、車道に突き当たります。

 車道を横断して向いの舗装路を進みます、左右には養殖池があり、色とりどりの錦鯉が泳いでいます。

先に
エドヒガンが聳えています、大桑村天然記念物です、エドヒガンはバラ科サクラ属の一種で、桜の野生種の一つです、彼岸の頃に花を咲かせます。

それこそ
年輪を重ねた重厚感があります、いつの日か花を咲かせた頃に再会しましょう!

サア、
下りに取り掛かりましょう。
車道の横断 エドヒガン エドヒガンからの下り 丸太の小橋

 エドヒガンの裏側に回り込み、横の斜面を下ります(白線矢印)、そして丸太四本組みの小橋で、小さなを渡ります。

 更に下ると、先程横断した車道に突当ります、左(白色矢印)に進みます。

JR中央本線が近づいたら、右の
草道に分岐します。

草道を進むと先程と同じJR東海標識危険につき 線路横断禁止 (近くの踏切等を通行して下さい)」があります、通行不可です。

線路越しの国道側が
エドヒガン旧道の西口です、京方面からは国道19号線の左手に電柱看板「寝覚の床レストハウス木曽路」があります。
車道分岐 草道 JR中央本線 エドヒガン旧道西

 この看板の手前右手のガードレールの切れ目が
エドヒガン旧道の西口痕跡です。

 国道19号線右側の歩道を進むと、右手に大きな案内標識「↑阿寺渓谷12km フォレスパ木曽12km のぞきど森林公園14km」があります。

この標識の裏から斜め右(白色矢印)の小道に入ります、ここが
上郷旧道の東口です。

穏かな旧道を進むと
旧家の廃屋があります。

この廃屋の先から上り坂になり、旧道は
国道19号線に合流(白色矢印)します。

スグ先右手の擁壁上の
土道を進みます、旧道痕跡です。

左手の擁壁上に大きな
枝垂れ桜があります。
上郷旧道東口 上郷旧道西口 枝垂れ桜

 両側の擁壁の高さからして、国道19号線は
堀切道です、右手の擁壁上の土道が本来の旧道痕跡でしょう。

 頃合いを見て国道19号線左側の歩道にシフトします。

先に進むと
糸瀬山登山口があります、ここに入ると先程のエドヒガンの下を走っている車道に繋がっています。

先に進むと左手に
猿沢歩道橋があります、往時はこの辺りから山側に入り、与沢を高巻いて、奥の宮沢橋辺りに出ていましたが、現在は通行不能です。

先の左手に
歩道案内標識があります、斜め左の細い上り坂に入ります、左手には中山道標石があります。

旧道口には
車止めが設置され、快適な街道ウォークが堪能できます、 右手の眼下には国道19号線、そして木曽川の流れが望めます。
糸瀬山登山口 須原旧道東口 須原旧道

 先に進むと左手に有難い水場があります、傍らには水神が祀られています、本日最後の給水を行います。

白いパイプフェンスの橋で
宮の沢を渡ると、須原旧道国道19号線に合流します、京方面からは歩道案内標識の右に進みます。

国道19号線を進むと正面左手に
須原宿モニュメントがあります、左(黄色矢印)の筋は須原宿への新道です。

旧中山道は直進(白色矢印)します、左手に標石「右 須原宿」があります。
水神 宮の沢 新道分岐 須原宿標石

 先左手(白色矢印)の上り坂に入ります、須原宿東枡形です、最後の石段を上ると須原宿に到着です!

須原宿は正徳五年(1715)木曽川の氾濫で流失し、享保二年(1717)一段高い現在地に移転しました。

水に恵まれ宿内には丸太をくり抜いた
水舟が随所に置かれ水舟の里と呼ばれました、桜の花漬とろろ汁が宿場名物でした、慶応二年(1866)の大火で宿並は灰燼に帰してしまった。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によれば、須原宿宿内家数は百四軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠二十四軒で、宿内人口は七百四十八人(男三百七十七人、女三百七十一人)でした。
須原宿東枡形下 枡形内 須原宿東枡形上

 PM4:41 須原宿着

大和屋 寿命ビール 突然の豪雨! 木曽海道六拾九次之内 須原 広重画

 PM4:41須原宿起点に到着です、本日のタイムリミットは松本駅行PM5:43です、1時間の余裕を以って到着です。

駅前に名物
桜の花漬の老舗大和屋があります、サアここで例のモノを仕入れる予定でしたが、残念ながら、お休みです。

宿内にビールの
自販機がありました、ところが1,000円札も500円玉も入りません、仕方がありません、美容室で100円硬貨に両替して頂き、無事入手しました。

ホームのベンチに座り、本日の打上げです、真夏日の街道ウォークで焼けた体にビールが沁み込みます。

すると急に
暗雲が辺りにたち込め、冷たい風が吹いたかと思うと、突然の豪雨です、間一髪でした!

広重は
須原として突然の豪雨を描いています、それにしても偶然です、浅からぬ縁を感じ、うれしくなります。

それにしても腹が減ったな、朝5時に例のカレーを食しただけです、帰路は6時間以上の長旅です、甲府駅で立ち食いソバでも喰いましょう。



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