青春18きっぷ作戦、第3弾です! 前回で、すでに元をとっていますから、今回からは稼ぎになります!!
スッカリ通い慣れた路線ですから、それらの風景を堪能します。 塩尻駅を過ぎると中山道がJR中央本線と付かず離れずに併走しています。 車窓からそれらの風景を見ていると飽きません。 JR中央本線須原駅の到着時間はとうとう午後になってしまいました。 それでは相変わらずの真夏日ウォークです、ポップハットの緒を締めて出立です。
島崎藤村著のある女の生涯の舞台となりました、島崎藤村の姉園(その)は実際に清水医院に入院し治療を受けました。 建物は愛知県犬山市の明治村に移築されています。
現在の建物は明治二年(1869)の建築です、往時は真誠講、日出講などの指定旅籠で、御嶽参りの人々で賑わいました。
本堂は慶長三年(1598)の建立、庫裏は承応三年(1654)の建立、山門は万治四年(1661)の建立で、共に国重要文化財指定です、参道口には明治天皇行在所碑があります。
ここが須原宿の京(西)口です、標石の左面には「左 中山道 野尻宿へ」と刻まれています、傍らには交通標識「↑中山道 国道19号線→」があります。
日義村の岩華(いわはな)観音、開田村の丸山観音と共に木曽三大観音の一つです。 文化十年(1813)に焼失しましたが、須原の定勝寺十九代住職によって再建されました。
橋場村には伊奈川橋の築造保守管理を行う職人衆が居住していました。
スグ先を左折(白色矢印)します、この分岐点には水舟があります、直進は古中仙道です、但し先は通行不可です、京方面からは突当りを右折します。
スグ先の突当りを右折します、この分岐点には中北道標「←岩出観音1.7km/天長院200m 平和公園0.7km→」と標石「右 中山道 野尻宿へ」「左 中山道 須原宿へ」があります。
左手に荒屋沢標柱があり、先のY字路を左に進みます、この分岐点には中北道標「←野尻宿/↓国道19号線/フォレスパ木曽→」があります。
本陣遺構は明治二十七年(1894)の大火で焼失しました。 スグ先の右手に野尻宿脇本陣跡標石があります、木戸家が脇本陣を勤め、問屋、庄屋を兼ねました、脇本陣遺構は同じく明治二十七年(1894)の大火で焼失しました。
スグ先で二反田川を二反田橋で渡ります、ここが野尻宿の京(西)口です。
先の左手下在郷公民館の所に下在郷一里塚跡碑があります、江戸日本橋より数えて七十七里目です。
大桑村から南木曽町に入ります。
本来の旧道は江戸方面から国道19号線の突き当りを直進し、八人石沢の左岸を進み、先で沢を高巻し、このヘアピンカーブに戻ってきました。
本来は沢水用の水路です、この地下道のお陰で国道19号線及びJR中央本線を安全に横断することが出来ます。
南塚の塚木は榎二本、北塚は松一本でした、江戸日本橋より数えて七十八里目です。
この追分には中山道道標「←与川経由 野尻駅 14.7km/1.1km 南木曽駅→」があります。
明治天皇は明治十三年(1880)巡行の際、中川原で休息した後、鮎沢家(旧本陣)を宿泊所(行在所)としました。 旧本陣建物は翌年の三留野大火災で焼失してしまい、庭木であった枝垂梅(町の天然記念物)を残すのみです、御膳水井戸が復元されました。
円空は貞享の頃三留野に滞在し造像に励みました、円空堂には円空作の韋駄天像、弁財天座像、天神像の三体が安置されています。
長じて京に遊学し、吉田兼敬(かねゆき、神祗管領長)に師事して神学を学び神学則を著し、尾張、美濃、信濃に門人多数を擁する大学者になりました。 この碑は師の死後五年目の天明元年(1781)に、学徳を慕う門人たちによって建立されたものです。
それではJR中央本線の南木曽(なぎそ)駅に向いましょう、Y字路を右(黄色矢印)に下ります。 跨線橋を渡り、右(黄色矢印)に進めば南木曽駅です。
駅近のスーパーで買出しです。 駅に戻り顔を洗い、体の汗を拭ってサッパリします。 それでは例によって駅のホームのベンチで打上げです! 朝の5時にカレーを食しただけです、空腹の極みです、握り飯が実に美味い!! そこにビールがお供します、堪りません!!! 帰路は6時間以上の長旅です、もう慣れたものです、今回も甲府駅で立ち食いソバでも喰いましょう!!!!
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