道中日記 6-184 中山道 ( 須原 - 三留野 ) 17.5km


 
青春18きっぷ作戦、第3弾です!

前回で、すでに元をとっていますから、今回からは
稼ぎになります!!


 
須原駅
 八王子駅から下諏訪駅までは甲州道中の道筋が車窓の両側に点々と広がっています。

スッカリ通い慣れた路線ですから、それらの風景を堪能します。

塩尻駅を過ぎると
中山道がJR中央本線と付かず離れずに併走しています。

車窓からそれらの風景を見ていると飽きません。

JR中央本線
須原駅の到着時間はとうとう午後になってしまいました。

それでは相変わらずの
真夏日ウォークです、ポップハットの緒を締めて出立です。


 平成23年08月30日  PM12:13 須原宿出立 野尻宿まで7.4km

 須原駅前広場の江戸側寄りの隅に幸田露伴と須原宿碑があります。

文豪
幸田露伴(こうだろはん)は明治二十二年(1889)の冬、木曽路を旅し須原に宿泊しました、この地を訪ねた縁をもとに、二十二歳の時に出世作小説風流仏(ふうりゅうぶつ)を執筆しました。

「旅の若き仏師が須原宿で出会った花漬売りの娘に恋してしまう、悶々たる気持ちで仏師は娘の姿を彫る、像は娘になり抱きしめ合い、互いに手を携えて天にのぼりました」

碑の前には
水舟があります。

道路を挟んだ向かいに須原宿名物
桜の花漬を商う老舗大和屋があります、桜の花漬は塩で漬けた桜の花です、湯のみに入れ、熱湯を注ぐと桜の花が開く桜湯になります、結婚式等で出されます。
幸田露伴碑 大和屋

 大和屋の並びに一里塚跡碑があります、碑には「須原宿 一里塚跡 江戸へ七十五里 京へ五十七里」と刻まれています、須原の一里塚跡です、江戸より七十五里目です。

上町上を進むと右手の高樋寝具店の並びに須原宿高札場跡標識があります。

次いで右手に
須原宿東枡形があります、ここが須原宿起点です、この分岐点には案内標識「大桑村歴史民俗資料館・大桑村民体育館↓」があります。

江戸方面からは国道19号線からの上り詰めになります。

京方面からは左の下り階段に入ります。
須原の一里塚跡 高札場跡 須原宿東枡形跡

 上町下に入ると左手に大木を臼状に彫った水場があります、並びの橋本屋にビールの自販機があります。

次いで左手に
大木を横にくり抜いた水場があります、これが水舟です、須原宿にはこの水舟が随所にある所から水舟の里と呼ばれました、昔も今も旅人の咽喉を潤しています。

本町に入ると左手に
本陣跡標識があります、木村平左衛門が勤めました、皇女和宮は本陣にて昼食を摂りました。

先の右手に
西尾翁紀念碑があります。
水場 水舟 本陣跡 脇本陣跡

 碑の並びに西尾酒造店があります、銘酒木曽の桟の蔵元です、西尾家木曽義元の重臣でした、後に木曽代官山村家に仕え、尾張藩の山林取締役等の重責を担いました。

須原が中仙道の宿駅になると西尾家は
脇本陣を勤め問屋庄屋そして酒造業を兼ねました。

向いに
水舟正岡子規歌碑「寝ぬ夜半を いかにあかさん 山里は 月出(いつ)るほとの 空たにもなし」があります、子規は明治二十四年(1891)須原に一泊しました、碑の前の水舟は木曽五木の一つサワラの大木ををくり抜いたものです。

次いで右手に
清水医院跡があります。
西尾酒造 正岡子規歌碑 清水医院跡

 
島崎藤村著のある女の生涯の舞台となりました、島崎藤村の姉(その)は実際に清水医院に入院し治療を受けました。

建物は愛知県犬山市の明治村に移築されています。

 次いで左手に文化十年(1813)建立の常夜燈があります、竿石には秋葉大権現金毘羅大権現愛宕大権現、台石には當町中と刻まれています。

脇を左に入ると
鹿嶋神宮が祀られています、須原の鎮守です。

仲町に入ると左手に水舟があります、各町内の組合が飲料用はもとより防火用水としても管理しました。

茶屋町に入ると右手に民宿すはらがあります、旅籠吉田屋跡です。
常夜燈 鹿嶋神宮 水場 民宿すはら

 現在の建物は明治二年(1869)の建築です、往時は
真誠講日出講などの指定旅籠で、御嶽参りの人々で賑わいました。

 次いで左手に須原柏屋があります、旧旅籠柏屋徳次郎跡です、二階軒下には往時の三都講御嶽講の看板を掲げています。

向いが
須原宿西枡形(白色矢印)です。

ここを直進(黄色矢印)すると左手に臨済宗妙心寺派浄戒山定勝寺(じょうしょうじ)があります、
木曽三大寺(木曽福島の興善寺、長福寺)中の最古刹です。

嘉慶年間に木曽家十一代
源親豊木曽家祖先の菩提を弔う為に木曽川畔に創建しました。

その後、
木曽川の洪水により流失し、慶長三年(1598)に現在地に移建されました。
須原柏屋 西枡形 定勝寺

 
本堂は慶長三年(1598)の建立、庫裏は承応三年(1654)の建立、山門は万治四年(1661)の建立で、共に国重要文化財指定です、参道口には明治天皇行在所碑があります。

 それでは須原宿西枡形に戻り、右折(白色矢印)して下りの鍵屋の坂に入ります、枡形は鍵屋の辻とも呼ばれました、京方面からは突当りの県道を左折します。

鍵屋の坂の中央には
用水が流れ、往時を彷彿とさせます。

縦門前を進み、突当りを左折(白色矢印)します、この分岐点には中北道標「←須原宿100m JR須原駅0.7km/大桑村歴史民族資料館0.7km→」があります。

門前上を進むと、消火栓カーブミラーの間から、須原宿から続く県道に突き当たります、ここを右折(白色矢印)します、京方面からは消火栓の右に進みます。

緩い上り坂を進むと左手に
須原宿標石があります。
枡形内分岐 西枡形西口 須原宿京口

 ここが
須原宿の京(西)口です、標石の左面には「左 中山道 野尻宿へ」と刻まれています、傍らには交通標識「↑中山道 国道19号線→」があります。

 長坂の上り坂を進み、JR中央本線を第9仲仙道踏切で横断します。

右手眼下の木曽川の対岸に
須原発電所があります、福沢諭吉の娘婿桃助が大正十一年(1922)大同電力時代に造った水力発電所です。

下り坂になると
橋場に入ります、大桑村公民館橋場分館を左折(黄色矢印)すると左手の山腹に崖屋造りの岩出観音堂があります。

本尊は
馬頭観世音伊奈川観音橋場観音木曽の清水寺とも呼ばれ、
第9中仙道踏切 須原発電所 観音堂口 岩出観音堂

 日義村の
岩華(いわはな)観音、開田村の丸山観音と共に木曽三大観音の一つです。

文化十年(1813)に焼失しましたが、須原の
定勝寺十九代住職によって再建されました。

 街道に戻り伊奈川伊奈川橋で渡ります、英泉は野尻としてこの伊奈川伊奈川橋を描いています。

文化二年(1805)刊の
木曽路名所図会伊奈川は「水流奔騰(ほんとう)して其声雷霆(らいてい)の如し、水漲(みなぎ)りて畏るべし」と著されています。

橋脚を立てても、一旦増水すると、流れ来る大石で破壊されてしまうため、橋脚の要らない刎橋(はねばし)が架橋されました。

画面左上に
岩出観音がシルエットとして描かれています。
伊奈川 木曽路駅 野尻 伊奈川橋遠景 英泉画

 橋場村には
伊奈川橋の築造保守管理を行う職人衆が居住していました。

 伊奈川橋渡詰めのT字路を右折します、後方を振り返ると岩出観音堂(黄色丸囲み)が望めます。

この分岐点には
中北道標「←岩出観音300m/国道19号線0.5km 天長院1.9km→」があります。

先の
Y字路を左(白色矢印)に進みます、この分岐点には中北道標「←岩出観音0.6km 須原宿2.9km/天長院1.3km→」があります。

先に進むと左手に
大桑村消防団第二分団大島バス停があります。
伊奈川橋 Y字路 大島分岐 水舟

 スグ先を左折(白色矢印)します、この分岐点には
水舟があります、直進は古中仙道です、但し先は通行不可です、京方面からは突当りを右折します。

 左折すると長閑な街道ウォークのフィールドとなります。

先に進むと右手に
八幡神社入口があります、ここには中北道標「←天長院300m/↑八幡神社1.5km/岩出観音1.6km→」があります。

道なりにグングン進むと左手の段上に
水害記念碑があります、大正十二年(1923)の蛇抜け(土石流)で二十六名が犠牲になりました。

ここにあった
大桑村立中部保育園は無くなっています。
旧道風情 八幡神社入口 水害記念碑 東上分岐

 スグ先の
突当りを右折します、この分岐点には中北道標「←岩出観音1.7km/天長院200m 平和公園0.7km→」と標石「右 中山道 野尻宿へ」「左 中山道 須原宿へ」があります。

 先の左手奥に臨済宗妙心寺派天長院があります、室町時代に木曽家祈願所として伊奈川大野に創建され、広徳寺と称しました。

その後焼失し、文禄三年(1594)定勝寺七代
天心和尚によって現在地に天長院が創建されました

山門脇には
子育て地蔵があります、子供を抱いた紐が十文字になっているところからマリア地蔵とも呼ばれています。

街道脇には多数の
水場があり、給水に事欠きません。

下り坂をグングン進むと
Y字路が現れます、左に進みます、この分岐点には中北道標「←JR大桑駅300m 白山神社1.6km/↑平和公園/0.5km天長院→」があります。
天長院 マリア地蔵 Y字路

 スグ先の斜めT字路を左折し、上田沢長野宿橋で渡ります、京方面からは長野宿橋渡詰めのY字路を右に進みます、この辺りは間の宿弓矢村茶屋本陣がありました。

先の
十字路の右手はJR中央本線の大桑駅です。

大桑郵便局先で
ししご沢長野橋で渡ります。

先に進むと左手に
奉燈が対であります。

JR中央本線を
第10仲仙道踏切で渡ると国道19号線に突き当たります、ここを左折(白色矢印)します。

右折(黄色矢印)して大桑駅まで進み、左手の坂を下り、道なりに進むと
古中仙道大桑の一里塚があります。
T字路 奉燈 JR中央本線踏切

 南塚の原型を残しています、弓矢の一里塚関山の一里塚とも呼ばれました。

江戸日本橋より数えて七十六里目です。

元に戻り国道19号線を進むと、右手の手打ちそば
関山の並びに関所跡碑があります、ここは狭隘地で木曽義仲が片欄干橋を架橋し、ここに関山関所を設置しました。

関所跡先の国道19号線右側の歩道に架かる
ニガ溝橋橋側歩道橋馬場沢溝橋橋側歩道橋青木沢溝橋橋側歩道橋を順次渡ります。

左手にガソリンスタンド
ENEOS、並びに道の駅大桑(木楽舎)があります。
大桑の一里塚 関所跡 橋側歩道橋

 ENEOS手前の奥に明治天皇古田原御野立所碑があります、明治十三年(1880)巡幸の際、ここで野立を行いました。

道の駅の先に進むと、右手に
案内標識「↑のぞきど森林公園7km 阿寺渓谷4km フォレスパ木曽4km」があります。

この
案内標識の先を斜め右の下り坂に入ります。

先でJR中央本線を
第11仲仙道踏切で横断し、緩い下り坂を進みます。
明治天皇碑 古田原東口 JR中央本線踏切 荒屋沢Y字路

 左手に
荒屋沢標柱があり、先のY字路を左に進みます、この分岐点には中北道標「←野尻宿/↓国道19号線/フォレスパ木曽→」があります。

 旧道を進むと右手の木曽川の対岸に赤レンガ造りの大桑発電所が望めます、大正十年(1921)の運用開始です。

先に進み JR中央本線を
第12仲仙道踏切で横断します。

倉坂(くらんざか)の上り坂を進むと、左手に左野尻宿標石があります、ここを左折します、この分岐点には中北道標「←白山神社5.4km JR大桑駅7.1km/野尻宿→」があります。

スグ先を右折します、この分岐点には
右野尻宿標石があります。
大桑発電所 JR中央本線踏切 野尻宿東 野尻宿東

 PM2:07 野尻宿着 三留野宿まで10.1km

 緩い上り坂の突き当たりの左手に髭文字で南無妙法蓮華経と刻まれた題目塔があります、 この題目塔の台石イボ石と呼ばれています、イボを箸で摘んで、この台石に置く仕草をするとイボが取れると伝わっています。

ここに
高札場がありました、野尻宿の江戸(東)口です、野尻宿に到着です!

野尻宿の
宿長は六町三尺(約655m)あり奈良井宿に次ぐ長さでした、上町仲町下町荒田町で構成され、宿並野尻の七曲りと呼ばれ、外敵からの防衛目的で屈曲しています。

宿並は明治二十七年(1894)、昭和十八年(1943)の大火で焼失しました。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によれば野尻宿宿内家数は百八軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠十九軒で、宿内人口は九百八十六人(男四百九十人 女四百九十六人)でした。
野尻宿東 題目碑

 宿並を進むと右手に野尻宿東のはずれ標識が塀に掲げられています、尾上家は宿の東の外れにあった所から屋号をはずれと称しました。

宿並を右に曲がると、左手に
常夜燈と奥にがあります。

下り坂の宿並を進むと左手に
明治天皇御小休所碑があります、ここが本陣跡です、森家本陣を勤め、問屋を兼ねました。

明治十三年(1880)
明治天皇は巡幸の際、旧小林本陣で休息しました。
東のはずれ 常夜燈&祠 本陣跡 脇本陣跡

 
本陣遺構は明治二十七年(1894)の大火で焼失しました。

スグ先の右手に
野尻宿脇本陣跡標石があります、木戸家脇本陣を勤め、問屋庄屋を兼ねました、脇本陣遺構は同じく明治二十七年(1894)の大火で焼失しました。

 七曲りを進むと左手の野尻警察官駐在所の前に御大典記念標石と大石上に小社が祀られています。

次いで左手に
庭田屋旅館があります、昭和五十三年(1978)公開の男はつらいよに登場しています。

庭田屋旅館の向いを下るとJR中央本線の
野尻駅です。

野尻宿の
七曲りを過ぎると左手に野尻宿標識があります、西村家は屋号をはずれといいました、ここが野尻宿の西のはずれです。
大石上の小社 庭田屋旅館 西のはずれ 二反田川

 スグ先で
二反田川を二反田橋で渡ります、ここが野尻宿の(西)です。

 県道を進むとY字路になります、この分岐点には中北道標「←JR野尻駅0.6km/フォレスパ木曽2.8km→」があります。

Y字路中央の民家前の砂利道に入ります、下在郷旧道です、快適な草道を進みます。

民家の前から再び
県道に合流します、この分岐点には中北道標「←JR野尻駅0.7km/フォレスパ木曽2.7km→」と下在一バス停があります。

県道261号野尻(停)線を進みます。
下在郷旧道東口 下在郷旧道 下在郷旧道西口 下在郷の一里塚跡

 先の左手下在郷公民館の所に
下在郷一里塚跡碑があります、江戸日本橋より数えて七十七里目です。

 スグ先で宮の沢下在郷橋で渡ると、左手に新設された道標「右 中山道/左 中山道 野尻宿へ」があります。

右手の山並にちょこんと盛り上がった
飯盛(いいもり)を見ながら進みます、正面には富士山の様な山容が望めます。

街道は変則
Y字路になりますが、ここを直進します、左は国道19号線の阿寺渓谷入口交差点です、この分岐点には中北道標「←フォレスパ木曽1.6km/JR野尻駅1.5km→」があります。

下り坂を進むと右手にJR中央本線の
旧第3仲仙道踏切が現れます、この踏切を渡るとフォレスパ木曽です、旧道はこの踏切を右に見て正面の筋に入ります、この分岐点には道標「←国道19号線/フォレスパ木曽→」があります。
宮の沢&道標 阿寺渓谷分岐 踏切前

 旧道は国道19号線の高架下を進み、先でJR中央本線を第13仲仙道踏切で横断します。

右手の
木曽川の対岸に阿寺温泉フォレスパ木曽が望めます。

先でJR中央本線を
第14仲仙道踏切で横断します。

勝井坂を上り、長閑な街道をモクモクと歩き、小滑沢新茶屋橋で渡ります、この辺りに新茶屋立場がありました。

八人石村(はちにんいし)を過ぎると
JR中央本線踏切 フォレスパ木曽 第14仲仙道踏切 新茶屋橋

 
大桑村から南木曽町に入ります。

 旧道は国道19号線に突当ります、ここを右折(白色矢印)します、この分岐点には中山道道標「左 野尻宿/右 三留野宿」があります。

京方面からは
下横橋の渡詰めを左折します。

八人岩沢下横橋で渡り、渡詰めを左折(白色矢印)し、十二兼の上り坂を進みます。

突当りのヘアピンカーブを回り込み(白色矢印)、次いで突当りの墓地下を左(白色矢印)に進みます。
下横橋分岐 十二兼旧道東口 十二兼旧道 十二兼旧道

 本来の
旧道は江戸方面から国道19号線の突き当りを直進し、八人石沢の左岸を進み、先で沢を高巻し、このヘアピンカーブに戻ってきました。

 左に回り込むと、左手の段上に文政二年(1819))建立の馬頭観音、宝暦十年(1760)建立の観音像、弘化三年(1846)建立の廿三夜塔等があります。

十二兼村は
立場で、牛方の往来で大いに賑わいました。

先に進むと、旧道は
T字路に突き当たります、ここを左折(白色矢印)します。

スグ先の左手に天保十三年(1842)建立の
天照皇大神宮常夜燈があります、京方面は先のY字路を右に進みます。
石仏石塔群 廿三夜燈 十二兼旧道内分岐 常夜燈

 村内を先に進むとY字路になります、右(白色矢印)の下り坂に入ります、この分岐点には手造りの案内標識「木曽路→」があります。

下り坂の左手に
石段があります、段上に熊野神社が鎮座しています、牛方の崇敬が篤く、社殿には牛方が奉納した牛の絵馬を残しています。

十二兼旧道の下り坂は
国道19号線十二兼北交差点に出ます。

十二兼北信号機の左下(白色矢印)に仮設の地下道があります。
十二兼旧道Y字路 熊野神社 十二兼北交差点 十二兼北地下道

 本来は沢水用の
水路です、この地下道のお陰で国道19号線及びJR中央本線を安全に横断することが出来ます。

 地下道を出ると、突当りの旧国道を左折(白色矢印)します。

十二兼集会所バス停を過ぎると、左手にJR中央本線の
十二兼駅が現れます。

街道の先には
十二兼の一里塚がありましたが、国道及び中央線の敷設に伴い消滅してしまいました、但し、国道19号線側に一里塚の跡碑がありますので見学に行きましょう。

十二兼駅構内に入り(黄色矢印)、構内連絡橋でJR中央本線を跨ぎ、国道19号線に出ます、京方面に進むと十二兼南交差点手前の左手に一里塚の跡碑があります、十二兼の一里塚跡です。
地下道西口 十二兼駅 十二兼の一里塚跡

 南塚の塚木は榎二本、北塚は松一本でした、江戸日本橋より数えて七十八里目です。


 一里塚跡碑の見学後は十二兼駅に戻り、再び長閑な街道を進みます。

JR中央本線に沿ってしばらく進むと、左手に
国道19号線の高架が覆い被さってきます、すると右手に柿其(かきぞれ)が現れます、それでは橋中央まで進んで見ましょう。

眼下に名勝
南寝覚と呼ばれる柿其峡の景観が広がります、木曽川の浸食による花崗岩の側壁岩床が露出しています、寝覚の床の縮小版です。

先の右手に
秋葉神社碑があります。
柿其橋 南寝覚 秋葉神社 明治天皇碑

 並びに明治天皇御小休所記念碑明治天皇中川原御膳水碑があります。

明治天皇は明治十三年(1880)の巡幸の際に、山梨県から木曽路に入りました。

六月二十六日は
福島泊、翌二十七日には寝覚で休息し、須原定勝寺で昼食を摂り、古田原で野立を行い、ここ中川原桜井太助宅で羅天の難所を前に休憩しました、この夜の泊りは三留野でした。

道なりに進むと
柿其交差点にて、街道は国道19号線に合流(白色矢印)します。

国道19号線を進むと、左手に
津島神社碑があります。
御膳水碑 柿其入口交差点 津島神社碑

 羅天橋から街道は木曽川沿いになります、羅天から与川渡間は断崖が木曽川に垂直に落ち込んだ木曽路最大の難所といわれた羅天の桟道跡です。

木曽路名所図会には「野尻より三留野までおよそ二里半、道は深き木曽川に沿い、せまき所は木を切り渡し、つたかずらにてからめて、その巾をおぎない馬にも乗りがたき はなはだ危うきところあり」と記されています。

貝原益軒きそ路の記に「野尻と見との(三留野)の間、あやうき路なり、この間左は山也。其山のかたはらわずかなる石おほき道を行く。右は数十間高きがけにて、屏風を立てたる如なる所もおほく、其下は木曽川の深き水なり。木曾のかけはし(桟)よりあやうし」と著しています。

島崎藤村夜明け前に「木曾路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。」と著しています。
羅天橋 難所羅天

 街道を進むと木曽川に注ぐ与川があります、この与川に沿って与川道があります、上流で高巻き三留野に通じていました。

慶安元年(1648
)羅天の桟道が開通しましたが、蛇抜け木曽川の出水により通行止めになると与川道が迂回路となりました。

与川道に入り(黄色矢印)、JR中央本線ガードをくぐると左手の段上に与川度(よかわど)の石地蔵が祀られています、台石には三界萬霊と刻まれています。

天保十五年(1844)五月二十七日の夜に発生した
蛇抜け(土石流)で犠牲になった人々の霊を弔う為に尾張藩が弘化二年(1845)に造立したものです。

当時、与川山では
御用材の伐採が行われており、多くの(そま)、日用(ひよう)が伐木運材に従事していました、蛇抜けによって全壊した飯場に寝泊りしていた九十九名が死亡、七名が重軽傷者という大惨事でした。
与川道東口 与川渡の石地蔵

 街道に戻り与川与川渡橋(与川側道橋)で渡ります。

与川は木曽八景の一つ
与川の秋月で知られました。

先に進むと右手に
金知屋(かなちや)が国道19号線沿いにあります、民家の前には旧道を今に残しています、右(白色矢印)の砂利道に入ります。

金知屋村は
牛方の集落でした、村内には金知屋の一里塚が有りましたが、位置は不明です、江戸日本橋より数えて七十九里目です。

村内を進むと
並木が現れます、この先で国道19号線に合流(白色矢印)します、京方面からは案内標識「53km やぶはら高原スキー場」先を斜め左に入ります。
与川 金知屋旧道東口 金知屋旧道西口

 国道19号線の歩道を進むと右手に道路標識「264」があります、向いの斜め左の県道264号(−)南木曽(停)線の三味坂に入ります。

グングン上ると左手に
馬頭観世音文字塔があります。

JR中央本線を
花巻沢橋りょうでくぐり、次いで牧ケ沢川牧ケ沢川橋で渡ります。

三味坂右手の眼下には木曽川の景が広がります、これにて木曽川とはしばらくのお別れです。
三留野旧道東口 馬頭観音 JR中央線橋りょう 牧ケ沢川

 広重は三渡野(三留野)として左手に宿並、右手の小山の上に東山神社鳥居、そして手前に麦畑を描いています、これらの条件だけでは、写生地の特定が出来ません。

天保九年(1838)刊の
木曽巡行記に「此宿は田畑多く、木曽川両岸にあり」と著されています。

多分に
広重はこの記述の通り、抒情的に描いたとしか思えません。

街道に左(黄色矢印)からの
与川道が合流します、ここが与川道追分です。
木曽海道六拾九次之内 三渡野 広重画 与川道追分

 この追分には
中山道道標「←与川経由 野尻駅 14.7km/1.1km 南木曽駅→」があります。

 PM 4;06 三留野宿到着

 与川道追分を過ぎると三留野宿に到着です!

この地には
木曽氏の館があり御殿(みどの)と呼ばれたところを三留野の地名由来としています。

三留野宿は木曽路屈指の難所羅天の桟道を控え、旅籠は多数ありましたが、「宿悪しく、わびしき所」といわれました。

宿並は度々火災に見舞われ
宿長は当初より二十五間も短くなりました、明治十四年(1881)にも火災に見舞われましたが、国道から外れているために古い家屋を今に残しています。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によれば、三留野宿宿内家数は七十七軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠三十二軒で、宿内人口は五百九十四人(男三百十人 女二百八十四人)でした。

宿並には
出桁造り卯建をあげた旧家を残し、家屋には旧屋号札を掲げています。
三留野宿並

 宿並を進むと左側に脇本陣跡があります、宮川家が勤め、三留野村の庄屋を兼ねました。

宮川家は本陣の鮎沢家、問屋の藤野家と宿の指導的役割を担いました。

次いで右手が
本陣跡です、鮎沢家が勤めました。

皇女和宮は十三日目の夜を鮎沢本陣で過しました。

本陣跡地には
明治天皇行在所記念碑があります。
脇本陣跡 本陣跡 枝垂梅 御膳水井戸

 
明治天皇は明治十三年(1880)巡行の際、中川原で休息した後、鮎沢家(旧本陣)を宿泊所(行在所)としました。

旧本陣建物は翌年の三留野大火災で焼失してしまい、庭木であった枝垂梅(町の天然記念物)を残すのみです、御膳水井戸が復元されました。

 宿並の県道264号線を進み、右手のガードレールの切れ目から狭い階段を下ります、この分岐点には中山道道標「←南木曽駅」があります。

階段を下り下道を左に進みます、この分岐点には
中山道道標があります。

スグ先の左手に享和三年(1803)建立の
秋葉山常夜燈があり、があります。

下道を進むと再び県道264号線に突き当たります、ここを右折(白色矢印)します、この分岐点には
中山道道標「←与川経由野尻駅/南木曽駅→」があります。
宿内分岐上 宿内分岐下 常夜燈 宿内分岐

 突当りの梨子沢川(H26.09.11撮影)を梨沢橋で渡ります。

平成26年7月9日、記録的な大雨により
梨子沢川蛇抜け(土石流)が発生し、中学生の男子が亡くなりました。

渡詰めを左に進み、一本目の橋で再び梨子沢川を渡り、先に進むと右手に曹洞宗日星山
等覚寺があります。

仁王門をくぐると境内の左手に円空堂があります。

円空は美濃の生まれで江戸初期の行脚僧です、一生に十二万体の仏像を造ることを発願しました。
梨子沢川 等覚寺 円空堂

 円空は貞享の頃
三留野に滞在し造像に励みました、円空堂には円空作の韋駄天像弁財天座像天神像の三体が安置されています。

 梨子沢橋の渡詰めに戻ると、正面に石段(白色矢印)と脇に案内標識「↑中山道」があり、南木曽小学校入口の標識があります。

この
石段を二段上り、民家と蔵の間を進みます。

旧道筋には
中山道案内標識が数ケ所に設置されています。

長閑な旧道は
大沢田川のT字路に突き当たります、ここを右折(白色矢印)し、先を左折(々)し、大沢田川橋大沢田川を渡ります。
南木曽旧道東口 南木曽旧道 南木曽旧道西口 大沢田川橋

 スグ先左手の木曽森林管理署南木曽支所の門前に檜皮(ひわだ)葺き屋根の模型があります。

解説に「檜皮の森(南木曽町)から産出する
ヒノキの皮(ひわだ)は全国の社寺等歴史的建造物に使用されている」と記されています、実物を真近かに見ると勉強になります。

支所前の
Y字路を左(白色矢印)の下り坂に進みます、この分岐点には中山道道標「←妻籠宿/↑南木曽駅/0.6km三留野宿 15.6km与川経由野尻駅→」があります、県道246号線は右に反れて行きます。

先に進み
北沢北沢橋で渡り、渡詰めのY字路を左に進みます、この分岐点には中山道道標「←妻籠宿/三留野宿 与川経由野尻駅→」があります。
檜皮葺きの模型 Y字路分岐 北沢Y字路

 先に進み恐ろしい名の蛇抜沢蛇抜橋で渡ります、以前は味わいのある木造橋でしたが、真新しいコンクリート製の橋に替わっています。

渡詰めの右手に
小社が祀られています、水の守護神である水神かもしれません。

先に進むと右手の眼下に
三殿貯木場の景が望めます。

次いで左手の段上に
園原先生碑があります、園原旧富(ふるとみ)は元禄十六年(1703)、三留野村和合の東山神社の神官の家に生まれました。
蛇抜橋 小社 三殿貯木場 園原先生碑

 長じて
に遊学し、吉田兼敬(かねゆき、神祗管領長)に師事して神学を学び神学則を著し、尾張、美濃、信濃に門人多数を擁する大学者になりました。

この碑は師の死後五年目の天明元年(1781)に、学徳を慕う門人たちによって建立されたものです。


 PM4:34 三留野宿起点着

 園原先生碑前の変則Y字路を右に進みます、この分岐点の手前には中山道道標「←三留野宿 与川経由野尻駅」があり、奥には中山道道標「←妻籠宿」があります。

先に進み白いガードレールの橋で沢を渡ると
Y字路があります、この分岐点が三留野宿起点です、この分岐点には中山道道標「←妻籠宿/↓南木曽駅/三留野宿 与川経由野尻駅→」があります。

本日の真夏日
街道ウォークはここが終点です、到着です!
変則Y字路分岐 三留野宿起点 南木曽駅経路 跨線橋

 それではJR中央本線の
南木曽(なぎそ)に向いましょう、Y字路を右(黄色矢印)に下ります。

跨線橋を渡り、右(黄色矢印)に進めば南木曽駅です。

南木曽駅 終点祝い
 本日のタイムリミットは松本行PM5:13発です、余裕をもっての到着です。

駅近のスーパーで買出しです。

駅に戻り顔を洗い、体の汗を拭ってサッパリします。

それでは例によって駅のホームのベンチで
打上げです!

朝の5時にカレーを食しただけです、空腹の極みです、
握り飯が実に美味い!!

そこに
ビールがお供します、堪りません!!!

帰路は6時間以上の長旅です、もう慣れたものです、今回も甲府駅で
立ち食いソバでも喰いましょう!!!!




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