道中日記 7-185 中山道  三留野 - 馬籠(新茶屋) 13.1km



 
青春18きっぷ作戦第4弾です!

利用期限は9月10日迄です、ギリギリです!!

本日の街道ウォークは
木曽路のクライマックス妻籠馬籠そして木曽路の終点新茶屋迄です。

相変わらずの
真夏日ウォークです、陽はすでに頂点です。

 平成23年09月07日  PM12:37 三留野宿出立 妻籠宿まで3.2km

 南木曽駅を出て、線路に沿って京方面に進むと跨線橋があります。

JR中央本線を跨ぎ、左の坂を上り切ると
旧道に突き当たります、ここが三留野宿の起点です。

この起点には
中山道道標「←妻籠宿/三留野宿 与川経由野尻駅→」があります、ここを右折(黄色矢印)して旧道に復帰します。

和合村を進むと左手に和合の枝垂梅(南木曽町天然記念物)があります、樹高約6mです。
跨線橋 迂回路 三留野宿起点 和合の枝垂梅

 「昔、木曽の谷中に酒なし 和合の里人はじめてこれを造る 和合酒という」といわれ、この
枝垂梅は木曽谷有数の銘酒諸白(もろはく)を醸造した遠山家の庭木でした。

 JR中央本線トンネルの上を過ぎるとD51を展示しているSL公園手前のT字路を左折(白色矢印)します。

この分岐点には
中山道道標「←妻籠宿 3.1km/↓1.5km 三留野宿/500m南木曽駅→」があります、京方面からは右折します。

旧道の右手奥には
小社が祀られています。

上り坂を進むと
変則十字路に出ます、斜めに横断します、この分岐点には自然石道標「中山道」があります。
SL公園分岐 小社 自然石道標 変則十字路分岐

 変則十字路の手前には
中山道自然石道標「↓南木曽駅 桃介橋」があり、変則十字路を横断すると左手に中北道標「↓JR南木曽駅/↑妻籠宿」があります。

 急坂の神戸坂を上ると神戸の集落に入ります。

神戸(旧合村)は立場でした、太田南畝は壬戌紀行の中で立場名物のあんもちを「東海道にもかゝる餅はまれなるべしと思はる」と絶賛しています。

村外れの左手に
袖振り松の切株があります、木曽義仲が弓を引こうとした際に、邪魔になった巴御前が袖を振って横倒しにしたが、又芽が出たといいます。

この
袖振り松は平成二十一年(2009)松喰い虫により立ち枯れをしたため残念ながら伐採されました。

右手には真新しい覆い屋の中に
神明神社が祀られています、神戸村の鎮守です。
袖振り松跡 袖振り松切株 神明神社

 神明神社先の十字路を右折すると右手奥にかぶと観音があります。

木曽義仲が旗挙げした折、妻籠城を築き、その鬼門にあたるここに小祠を建立し、義仲の兜に納めた八幡座の観音像を祀ったのが始りです。

後の天正十二年(1584)
小牧長久手の合戦の際、秀吉方の木曽義昌山村良勝妻籠城の守備を命じましたが、落城寸前になったところ、義昌かぶと観音に祈願すると、白鳩が舞い上がり、妻籠城の天守に止まったので瑞兆と戦意が高揚し、ついに徳川軍を退けました。

以来、
武家の崇敬が篤く、往来の武士はもとより参勤交代の大名も必ず参拝したといいます。

境内に大きな
水舟があります、平成二十一年(2009)に松喰い虫の被害により伐採された袖振り松です。
かぶと観音 水舟

 かぶと観音の参道口に中北道標「←1.2kmJR南木曽駅/妻籠宿2.5km→」があります、正面の地元民芸品を商う楯木工製作所右の下り坂に入ります。

坂を下り、比較的幅員の広い
車道を横断します、ここには中北道標「←1.3km JR南木曽駅/妻籠宿 2.4km→」があります。

コンクリート製の
小さな橋を渡ると、右手に源臣光照院塚大明神碑があります。

次いで
戦沢戦沢橋で渡ると、大きな解説板があります。
変則五差路目 十字路 大明神碑 戦沢橋

 
重要伝統的建造物群保存地区南木曽町妻籠宿保存地区の説明が記されています、いよいよ妻籠宿が近くなってきました。

 旧道は木立の中の石畳道の上り坂になります、島崎藤村著夜明け前の「木曽路はすべて山の中である」になります。

先で竹林の石畳道は
Y字路になりますが、直進します、この分岐点にはせん澤自然石道標「右妻籠宿へ/下り国道へ/左なきそ駅へ」があります。

上空が開けると、正面に
上久保(うわくぼ)の一里塚が現れます、両塚かが現存しています(南木曽町史跡)、江戸日本橋より数えて八十里目です、但し、解説板には七十八里目と記されています。

町内には
十二兼金地屋上久保大妻籠に一里塚がありましたが、原型を留めるのはここだけです。
せん澤石畳 せん澤道標 上久保の一里塚

 旧道を下ると左側の傾斜地に良寛歌碑「この暮れの もの悲しきに わかくさの 妻呼びたてて 小牡鹿(さおしか)鳴くも」があります。

この歌は
手まり上人といわれた良寛が木曽路を通った際に、詠んだ二首の内の一首です。

スグ先の右手に
勝野家があります、くぼほら茶屋跡です。

手前の左手には
中山道自然石道標「右つまご/くぼほら茶屋/左みどの」と石置き屋根の水車小屋があります。
良寛碑 中山道自然石道標 水車小屋 くぼはら茶屋跡

 京方面からは自然石道標先の
Y字路を右に進みます。

 茶屋跡からはヒノキ林の中の曲がりくねった上り坂を進み、突当りの上道(志ん道)を右折します、この分岐点には中北道標「↓2.3km JR南木曽駅/妻籠宿1.4km→」があります。

右折すると左手に
中山道蛇石(へんびいし)自然石道標「右つまご宿/左志ん道(新道)/下り道旧道」があります。

先に進むと
Y字路が現れます、車道から右側の土道に入ります。

土道を進むと右手に
しろやま茶屋の廃屋があります。
蛇石分岐 蛇石道標 しろやま茶屋旧道 しろやま茶屋跡

 しろやま茶屋先が三叉路になっています、中央(白色矢印)の下り坂旧中山道です。

右手(黄色矢印)は
妻籠城跡への山道です、この分岐点には妻籠城跡道標があります。

約10分程山道を登ると
妻籠城址に出ます、妻籠城は典型的な山城で、空堀曲輪土塁も備えていました。

関ケ原の合戦に間に合わなかった
徳川秀忠はこの妻籠城で勝利を知らされました。
妻籠城跡三叉路 妻籠城跡道標 妻籠城址 眼下の妻籠宿

 妻籠城址からはこれから向かう
妻籠宿が眼下に一望できます。

 広重は妻籠として画面の左に恵那山、中央に妻籠宿に向かう峠道、そして右手に妻籠城があった城山を描きました。

妻籠城主の
木曽義昌は甲斐の武田信玄に従属していましたが、天正十年(1582)武田勝頼を裏切り、織田信長に寝返りました。

信長はこれを機に甲斐の武田勝頼を攻め滅ぼしました。

天正十二年(1584)
小牧長久手の戦いに際し、木曽義昌徳川家康に従っていましたが、羽柴秀吉に寝返りました。

天正十四年(1586)
秀吉家康は講和を結び、義昌は再び家康の傘下に入りました、戦国時代を器用に泳ぎ切った義昌でしたが、晩年は家康に嫌われ、天正十八年(1590)下総國阿知戸一万石に移封され、失意のまま文禄四年(1595)没しました。
木曽海道六拾九次之内 妻籠 広重画

 それでは三差路に戻って、中央の舗装路を下りましょう、先で下道に合流(白色矢印)します。

この分岐点には
中北道標「←3.0km JR南木曽駅/妻籠宿 0.7km→」があります。

先に進むと妻籠宿手前の
集落に入ると左手に中北道標「←3.2kmJR南木曽駅/これより妻籠宿の町並」があります、京方面からは先のY字路を左に進みます。

逆S字の上り坂を進むと妻籠宿です。
三差路中央道 渡島分岐 妻籠宿前集落 妻籠宿前

 PM1:37 妻籠宿着 馬籠宿まで7.6km

 妻籠宿の江戸(東)口の恋野に到着です!

妻籠宿伊那街道飛騨街道との追分を控え大いに賑わいました。

明治の世になると主要交通路から外れたために寂れてしまった、しかしこれがために宿並は残り、昭和五十一年(1976)に
妻籠宿は重要伝統的建造物群保存地区に指定され、地区内にある二百三十三棟の伝統的建造物の内、五十三棟が復元され一躍脚光を浴びるようになりました。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によれば妻籠宿宿内家数は八十三軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠三十一軒で、宿内人口は四百十八人(男二百十六人 女二百二人)でした。

宿並に入ると右手に
御宿大吉民宿ふじ屋の趣のある建物が旅人を出迎えてくれます。 

妻籠宿東の
恋野の地名は先にある鯉ケ岩の付近で妻籠城の武将が恋の物語をささやいたところに由来しています。
御宿大吉

 スグ先の左手に恋野の地名由来になった鯉ケ岩があります、 中山道三名石「烏帽子岩(吾妻橋地区、兜岩(神戸地区))の一つで、文化二年(1805)刊行の木曽名所図会に記載されています。

しかし明治二十四年(1891)の
濃尾地震で頭部が落ち、形が変わってしまいました。

鯉ケ岩の向が
熊谷家住宅(南木曽町有形文化財)です、十九世紀初頭に建てられた長屋の一部です、見学自由です。
鯉ケ岩 木曽路名所図会鯉岩 熊谷家住宅 番所跡

 宿並を進むと
地蔵沢橋があります、この手前左手が口留(くちどめ)番所跡で、往来の人々を監視していました、その後廃止されました。

 木造の地蔵沢橋を渡ります、この辺りが東枡形跡です。

急な下り坂になると右手に
高札場があります、高さ二間、長さ二間、横五尺五寸と往時の通りに復元されています、次いで左手に水車小屋があり稼働しています。

下ると
下町に入ります、宿場は上町、中町、下町で構成され、中町に本陣脇本陣問屋場が置かれました。

建物は出梁により二階を張り出した
切妻造平入りが特徴で、江戸時代末期から明治にかけて再建されたものが多く、大規模な建物も残されています。
地蔵沢橋 高札場 下町の宿並

 中町に入ると右手に奥谷脇本陣跡があります、屋号を奥谷(おくや)といい林家脇本陣を勤め、問屋庄屋を兼ねました。

林家は
島崎藤村の初恋の人おゆうの嫁ぎ先でもあります。

現在の
建物は明治十年(1877))禁制が解除されたヒノキをふんだんに使用したもので国重要文化財です。

宿並沿いに
明治天皇妻籠御小休所碑があります、明治十三年(1880)巡幸の際に林家で休息しました。

次いで左手が
妻籠本陣跡です、代々島崎家本陣を勤め問屋を兼ねました、幕末、皇女和宮島崎本陣にて昼食を摂りました。
奥谷脇本陣跡 明治天皇碑 島崎本陣跡

 島崎家は馬籠宿の本陣を勤める島崎家とは同族です、幕末には妻籠の島崎家からぬい(藤村の母)が馬籠の島崎正樹のもとに嫁ぎ、七人の子供をもうけ、末子が島崎藤村でした、藤村の次兄広助は妻籠宿本陣の養子となり最後の当主となりました。

その後、
本陣は明治三十二年(1899)に取り壊されましたが、平成七年(1955)に島崎家に残っていた江戸時代後期の間取り図を元に忠実に復元されました。

本陣門脇に
人馬会所(問屋場)が復元されています。

妻籠宿には
本陣脇本陣人馬会所があり、半月交代で勤め、問屋、年寄、帳付、馬指、人足指などの宿役人が勤務し、人足の指図や荷物の割振りを行いました。
問屋場跡 上町の宿並 郵便資料館

 上町に入ると右手に
妻籠郵便局があります、郵便資料館になっています、当初は本陣敷地に、明治六年(1873)三月妻籠郵便御用取扱所として開設されました。

 宿並は変則三差路に突き当たります、左手(黄色矢印)に臨済宗妙心寺派瑠璃山光徳寺があります、明応九年(1500)の開山で、本尊は薬師如来像です。

本堂は享保十年(1725)脇本陣を勤める林家が建立したものです。

庫裏には幕末から明治にかけての住職
遂応和尚が考案し、人力車の元になったともいわれる車付きの駕籠が収蔵されています。

山門前には樹齢二百五十年の
枝垂桜があります。

それでは三差路に戻りましょう、右(白色矢印)の
石畳の下り坂に入ります、ここが西枡形跡です。
光徳寺 人力車 西枡形跡

 枡形口には文化六年(1809)建立の
秋葉山常夜燈があります。

 西枡形を下ると寺下の宿並になります、寺下は光徳寺の門前町の形態をなし、一般に間口が狭く建物は小規模です。

妻籠宿の保存事業はこの
寺下から開始され、二十六戸の解体復元工事が実施されました。

右手に
下嵯峨屋があります、当時の長屋であったものの一戸分を解体復元したものです、典型的な民家で南木曽町有形文化です。

石段を上ると左手に
延命地蔵堂があります、文化十年(1813)光徳寺中外(ちゅうがい)和尚等が蘭(あららぎ)川から地蔵尊の寝姿が浮き出ている自然石を運び込み安置しました。
下嵯峨屋 延命地蔵堂 上嵯峨屋

 この石が常に濡れているようにみえるところから
汗かき地蔵とも呼ばれます。

京方面からは
延命地蔵堂前の左石段に入ります、西枡形口です。

先の左手に
上嵯峨屋があります、建築当初の形式をよくとどめ、庶民の旅籠(木賃宿)としての雰囲気をうかがうことができます、南木曽町有形文化財です。

 宿並には容赦なく真夏陽が降り注いでいます、左端の写真をよーく見て下さい、日影の下に観光客が並んでいます。

宿外れの
しんやで休憩です、缶ビールをグッと飲み、缶をそして首筋に当ててクーリングです。

そして名物
五平餅です、丸めたを団子状に串に刺し、味噌をからめて焼いたものです、香ばしく抜群です!

三串(450円)頂くと、満腹です!サア、次は馬籠宿を目指しましょう。
炎天下の宿並 五平餅しんや 一番搾り 五平餅

 妻籠宿を後にすると尾又(おまた)に入ります、ここから伊奈(飯田)が分岐(分去れ、追分)していた所です、右手の沢沿いの竹やぶの中に、今もその道跡を辿ることができるといいます。

宝暦年間(1760頃)に、
飯田道がつけ替えられ、ここから約600m南の橋場追分が移動しました。

右に
関西電力妻籠発電所があり、向いに御左口(みさぐち)を祀ったおしゃごじ様が祀られています。

古代からの
土俗信仰の神で土地精霊神、土地丈量神様、酒神といわれ、謎の神様といわれています。

次いで左手に
わら馬実演販売店があります。
おしゃごじさま 藁馬人形 蘭川

 街道は清冽な流れの
(あららぎ)に沿って進みます、蘭川は木曽山脈の床浪高原に源を発し、男埵(おたる)を吸収し、流末は木曽川に落合います。

 先で国道256号大平街道線を横断し、正面の橋場旧道の土道に入ります。

旧道口の左手(黄色丸囲)に
中山道さんま自然石道標「右まごめ 旧道/左志ん道 いいだ」、右手には中北道標「←6.9km 馬籠宿/妻籠宿 0.8km→」があります。

蘭川に沿う土道を進むと車道に突き当たります、右折(白色矢印)します。

この分岐点には
中山道走しば邑(むら)自然石道標があります。
橋場旧道東口 さんま道標 橋場旧道西口 走しば邑道標

 自然石道標には「右 志ん道/左 旧道 つまご」と刻まれています、傍らに
木製道標「←中山道 妻籠宿へ1km」があります。

 大妻橋の手前を左に入ると民家の庭内に明治十四年(1881)建立の石柱道標「中山道 西京江 五十四里半/東京江 七十八里半」「飯田道」があります、飯田、江州、地元の商人によって建てられました。

橋場追分とも呼ばれ、中山道飯田街道の分岐点として栄えました。

和田峠の
樋橋の戦いに勝利した水戸天狗勢は諏訪湖の北岸を回り込み伊那街道を進み、ここから中山道に出て妻籠宿馬籠宿そして落合宿に分宿しました。

清冽な流れの
蘭川大妻橋で渡ります。
石柱道標 蘭川 大島邑旧道 大島邑道標

 スグ先右手の大島邑旧道に入ります、この分岐点には中山道大島邑自然道標「右旧道/左志ん道」と中北道標「←1.2km 妻籠宿/馬籠宿 6.5km→」があります。

大島旧道に入ると
石畳道を一部残し、路傍に馬頭観音像が安置されています。

木立の中の旧道を抜けると
神明村に入ります。

村外れの急坂を下ると
下道に突き当たります、ここを右折し男埵(おたる)神明橋で渡ります、京方面からは神明橋の渡詰めを斜め左の上り坂に入ります。
馬頭観音 馬頭観音 神明村 神明村西口

 この分岐点には
中山道大妻籠燈籠があります。

 上り坂を進むと左手に、旧旅籠諸人御宿金剛屋があります、建物前には南無弘法大師之記念碑があります、旅籠の二階に弘法大師を祀ったところ参拝客で大いに賑わったといいます。

スグ先が
Y字路になります、左手には大きな大妻籠モニュメントがあります、左の県道7号線が中山道旧道です、右は中山道古道です、それでは遺構を残す古道側を進んでみましょう。

いずれにしても
街道ウォークは往復でワンセットです、復路では中山道旧道を進んでみましょう。
旧旅籠金剛屋 弘法大師碑 大妻籠分岐 大妻籠道標

 
男埵川を再び渡ります、この分岐点には中山道大妻籠自然石道標「右 旧道/左 志ん道」と中北道標「←1.8km 妻籠宿/馬籠宿 5.9km→」があります。

 上り坂を進むと右手に石置き屋根の水車小屋があり、石垣に馬頭観世音文字塔が祀られています。

先の右手に出梁造り、本卯建を上げた旧旅籠が軒を連ねています、今も
近江屋まるやつたむらや等が民宿になって現業です、大妻籠は間の宿でした。

大妻籠は
奥妻籠が訛ったものです。

以前、馬籠泊りの予定でここまで歩いてきましたが、余りの雨に見舞われ急遽、
つたむらやさんに宿泊させてもらいました、囲炉裏端で頂く、口達者なお女将さんの野菜尽くし料理と寡黙なご主人が養殖している信州サーモンの刺身と塩焼き、それと手作りの濁酒(どぶろく)を頂きました、それこそ筆舌に尽くし難い時が過ごせました!
水車小屋 馬頭観音 間の宿大妻籠

 翌朝、良く見ると軒下に
酒林(杉玉)が吊り下がっていました。

 先を右(黄色矢印)に入ると県宝藤原住宅があります。

木曽地方の古い
農家形式を伝える貴重な建造物であり、建築年代はおよそ十七世紀後期と推定され、今日まで藤原家の主屋として使用されてきました。

戻り道に
忠犬がいました、傍らのお知らせ忠犬解説には「この付近で、犬を使った有害鳥獣の追い払いを実施しています。この犬は、訓練等をしていますので人などに襲いかかることはありません、犬を見かけた場合は、無視をするようにしてください」と記されています。
藤原住宅分岐 県宝藤原住宅 屋内 忠犬

 偉いですね!可愛いですね!!


 三度(たび)男埵川を渡ると、街道は県道7号中津川南木曽線に突き当たります、右折(白色矢印)します。

この
庚申塚分岐点には中山道庚申塚自然石道標「右 志ん道/左 旧道 左 つまごに至る」と中北道標「←2.2km 妻籠宿/馬籠宿 5.5km→」があります。

この分岐点を左折(黄色矢印)すると左手の民家裏に
大妻籠の一里塚の西塚が現存しています、江戸日本橋より数えて八十一里目です、塚上に庚申塔が数基祀られているところから一里塚は庚申塚とも呼ばれました。
庚申塚分岐 庚申塚道標 大妻籠の一里塚 庚申塔

 庚申塚分岐点に戻ると右手に旧旅籠こおしんづか(現民宿)があります、二階の軒下に山駕籠を吊り下げています。

庚申塚バス停先左(白色矢印)の
石畳道に入ります、とうがめ澤分岐です。

この分岐点には
どうがめ澤自然石道標「下り谷を経て馬籠峠へ」や中北道標「←5.4km 馬籠宿/妻籠宿 2.3km→」があります、京方面からは突当りの県道を右折します。

ここからはかなり急な上り坂の
石畳道を進みます。
民宿こおしんづか どうがめ澤分岐 どうがめ澤道標 石畳道

 グングン上ると左手の斜面に牛頭観音像が祀られています、解説には「石の多い急な坂道を重い荷物を運ぶため黒牛が使用された。その黒牛の供養塔である。この中山道に祀られた唯一の石仏(多くは馬の供養塔である)」と記されています。

旧道沿いには
熊除けの鐘が新設されています、説明には「鈴を鳴らしてください。熊を追い払います」と記されています。

葛籠折りの上り急坂を過ぎると、旧道は
の横に出ます。
牛頭観音 熊除けの鐘 田の道 木橋

 小さな木造橋を渡ります、京方面からは橋手前がY字路になっています、右に進み木造橋を渡ります。

この分岐点には
中山道自然石道標「左 妻籠宿/右 馬籠宿」と中北道標「←2.7km 妻籠宿/馬籠宿 5.0km→」があります。

旧道は
下り谷(くだりたに)に入ります、村内には味わいのある旧家を残しています。

村を抜けると左段上に
倉科祖霊社があります、松本城主小笠原貞慶(さだよし)の重臣倉科七郎左衛門朝軌(とものり)の霊が祀られています。

諸説ありますが、最も有力な説は下記の通りです。
中山道道標 下り谷村 倉科祖霊社

 天正十四年(1586)松本城主
小笠原貞慶より秀吉関白就任祝いの品々を託された重臣倉科七郎左衛門朝軌と従者三十名がここで地元の盗賊に襲われ全滅しました

 先に進むとY字路が現れます、左(白色矢印)は旧中山道です、右(黄色矢印)は男滝女滝道です、この分岐点には中北道標「←4.6km 男滝・女滝を経て馬籠宿/↑4.6km 馬籠宿/妻籠宿 3.1km→」と熊除けの鐘があります。

旧中山道(白色矢印)に入ると左手に庚申塔馬頭観世音文字塔地蔵尊が祀られています、旧道は木曽五木が鬱蒼と繁る南蘭(みなみあららぎ)国有林の中を進みます、往時は停止木でした。

小橋を渡った先で旧道は
林道に突当ります、ここを右折します。
男滝女滝分岐東 庚申塔 林道分岐 男滝女滝分岐西

 この分岐点には
中北道標「←3.6km 妻籠宿/馬籠宿 4.1km→」があります。

土道を下ると
県道7号線に突き当たります、左折(白色矢印)します、この分岐点には中北道標「↑3.7km 妻籠宿/馬籠宿 4.0km→」があります。

 私くし、何度もいいますが街道マップに関しては使命感に燃えています、ここから大返して、先程の分岐点の男滝女滝分岐東に戻ります、今度は男滝女滝コース(黄色矢印)のトレースです。

石垣に沿って下り、
男埵沢滝見橋で渡り、渡詰めを中北道標に従って左の土道に入ると男滝があります、この時期は水量があり、水しぶきが襲ってきます。

先の小さな木橋を渡ると
女滝です。

男滝女滝は旅人に名所として親しまれ、憩いの場でした。
男滝女滝分岐東 滝見橋 男滝 木橋

 この滝壺に秀吉の関白就任祝いの呈用の金の鶏が舞い込んだという倉科様伝説があます。

吉川英治著
宮本武蔵では、修行の身の武蔵お通さんと再会し、この滝の前で煩悩のままに、お通さんに襲いかかるも、はたと己の未熟を悟り、再び山篭りの修行に入りました。

突当りの丸太風階段を上り詰めると
県道7号線に出ます、左折(黄色矢印)します、 京方面からは男滝女滝案内標識の先、右手石置き屋根の滝見茶屋手前右の丸太風階段を下ります。
女滝 丸太風階段 県道分岐 男滝女滝分岐西

 県道7号線の上り坂を進み、
一石沢滝上橋で渡ると、先程の中山道旧道口(男滝女滝分岐西)に合流します。

 英泉は馬籠として画面手前に馬籠峠、中間に馬籠宿そして遠景に恵那山を描いています。

ところが実際には馬籠峠から馬籠宿は望めません、しいて言えば
峠村が当てはまります。

そして馬籠峠上から流れ落ちる
男滝女滝を描いていますが、これも実際には谷間にあるものです。

栄泉はこれらの
名所をひとつの画面に凝縮しました、デフォルメの典型です。

滝の先に
牛方を描いています、牛方は木曽谷を中心に荷を運び駄賃稼ぎをしました、峠村にはこの牛方が多く住み、村内には牛方の頭を讃えた碑もあります。
木曽街道 馬籠驛 峠ヨリ遠望之圖 英泉画

 県道7号線を進むと、スグに右側ガードレールの切れ目に木造橋が現れます、ここが一石沢旧道東口です、この分岐点には木製道標「↑馬籠宿 4.6km/妻籠宿 3.7km→」があります。

一石沢木造橋で渡り、左の土道を進みます、渡詰めにはトイレがあります。

小さな
木橋を渡った先で県道7号線をを横断します、この横断点の手前に中山道自然石道標があります。

県道に
国史跡中山道解説があります。
一石沢旧道東口 木橋 県道横断 中山道道標

 解説には「県道7号中津川南木曽線の敷設に際しては、破壊することなく、形状を維持したまま埋蔵保存を実施しました。」と記されています。


 県道7号線を横断し、向いの一石栃口旧道石畳道に入ります、 旧道口には中山道一石栃口自然石道標「左旧道」があります。

途中から
砂利道になり、木橋を渡って進むとサワラ合体木解説があります。

解説には「この対岸の山のサワラの大木は合体木です、享保元年(1716)頃、木の伐採を行い、切株の横に
幼木二本植えました。

文久三年(1863)幼木は成長しながら一本の木になりました。
一石栃口旧道東口 一石栃口道標 木橋 サワラ合体木解説

 そして平成二十一年(2009)
合体木となり今でも成長を続けています。」と記されています。

 次いで左手にサワラ(椹)の大樹があります、樹齢約三百年で、胴回り5.5m、樹高41m、材積34立方メートルです。

サワラ材は耐水性が強く、風呂桶や壁板、建具等に多く使われます、この木一本で約300個の風呂桶を作ることが出来ます。

このサワラの下枝が立ち上がって特異な枝振りとなっています、このような形の枝を持った針葉樹を神居木(かもいぎ)といい、 この木のように両方に枝の出た木を両神居といいます。

昔から山の神(又は天狗)が腰を掛けて休む場所であると信じられていました、傷つけたり、切ったりするとたちまち、祟(たた)るといい伝えられ、杣人(そまびと)は、この木の下を通ることも嫌がりました。

林を抜け、姿の良い
木橋を渡ります。
神居木 木橋

 石畳の坂道を上ると、正面に番所門があります。 

右手に
一石栃白木改番所跡があります。

白木改番所は木曽から移出される木材を取締るために設けられた番所で、ヒノキの小枝に至るまで、許可を示す刻印が焼いてあるかどうかを調べるほど厳重であったといわれています。

木曽の森林資源は、領主たる
尾張藩にとって、それほど重要なものだったのです。

番所は当初、
下り谷に設置されていましたが、蛇抜けによってここ一石栃に移転しました、木曽谷諸事覚書には寛延二年(1749)のことと記されています。
石畳道 番所門 一石栃白木改番所

 改番所前から右の坂を上ると左手に子安観音堂があります、この地には、一石栃沢流域に住むものは難産しないという言い伝えがあり、信仰の対象として子安観音が祀られていました。

慶応元年(1865)
蛇抜けによって流出したため、再建されました。

観音堂前の
枝垂桜は慶応元年(1865)と明治三十七年(1904)の大蛇抜けにも耐えてきた古木で南木曽町天然記念物です。

元に戻ると番所の先に
一石栃立場跡があります、往時は茶屋が七軒ありましたが、今は牧野家住宅が一軒残っているだけです。
子安観音堂 枝垂桜 一石栃立場茶屋跡

 牧野家住宅は江戸時代後期の建物で、当時は間口が十間半ありましたが、現在は八間に縮小されています、玄関脇にいちこく御休み処の看板が掲げられています。

建物前には
水場があります、シッカリ給水させて頂きました、馬籠峠頂上まではあとわずかです!

 立場を後にして、木橋を渡り峠道の上り坂を進むと熊除けの鐘があります、打ち鳴らして先に進みます。

峠道は葛籠折りの急坂になります、例のヒーヒーフーフーの呼吸でグングン上ると、石畳道になり、県道7号線前の広場に出ます、ここが馬籠峠頂上(801m)です。

馬籠峠は平成十七年の越県合併により長野県木曽郡南木曽町と岐阜県中津川馬籠の県境になりました、それまでは馬籠の新茶屋信濃(長野)、美濃(岐阜)の國境(県境)でした。
熊除けの鐘 急な峠道 石畳道 馬籠峠頂上

 馬籠峠頂上の広場には峠の茶屋があります、京方面からは茶屋奥右手の下り坂に入ります。

県道7号線側には
手差しが刻まれた右旧中山道自然石道標があります。

茶屋の並びに
正岡子規句碑「白雲や 青菜若菜の 三十里」があります、明治二十四年(1891)の句です。

ここからは県道7号線の下り坂を進み、先を斜め右に入ります、この分岐点には
中北道標「「←2.0km 馬籠宿/妻籠宿 5.7km→」があります。
峠の茶屋 自然石道標 正岡子規句碑 峠村東口

 下り坂を進むと左手に熊野神社があります、境内には樹齢五百年の大樹が聳えています、峠村の鎮守です。

熊野神社の参道口先の左手に
明治天皇御小憩記念碑があります。

間の宿であった峠村に入ります、宝暦十二年(1762)の大火により村の大半が焼失、その後は大火に遭わず、往時の面影を色濃く残しています、狸の膏薬栗こわ飯が名物でした。

宿並には
民宿ききょうやがあります。
熊野神社 大樹 明治天皇碑 民宿ききょうや

 村内を下ると左手に今井家住宅(中津川市景観重要建造物指定)があります、島崎藤村著夜明け前にも登場する牛方組頭今井仁兵衛住居跡です。

往時、この峠村の人々は民間の荷物を運搬する
牛方を家業としており、美濃の今渡から遠くは長野の善光寺辺りまで荷を運びました。

村外れの左手に
峠之御頭頌徳碑があります、 安政三年(1856)峠村の牛方と中津川の問屋の間に運賃の配分を巡って争いが起こり、この争いを牛方に有利に解決した牛行事(頭)今井仁兵衛を讃えた顕彰碑です。

村内には
峠の一里塚がありましたが位置は不明です、江戸日本橋より数えて八十二里目、京へ五十五里です。
今井家住宅 峠之御頭碑 十返舎一九句碑

 村を後にすると右手に
休憩小屋(東屋)とトイレがあります、この広場には十返舎一九の碑「渋皮の むけし女は見えねども 栗のこはめし ここの名物」があります、さすがユーモアに溢れています。

文化八年(1811)
十返舎一九は木曽路を旅して木曾街道続膝栗毛を著しています。

この休憩所の北から西にかけての山間は
紅葉の名所です。

 道なりに進み県道7号中津川南木曽線を横断し、清水旧道に入ります、この横断点には中北道標「←1.3km 馬籠宿/妻籠宿 6.4km→」があります。

先で回り込んできた
県道7号線を再び横断し、ガードレールの切れ目から歩道の井戸沢旧道に入ります、この横断点には中北道標「←1.2km 馬籠宿/妻籠宿 6.5km→」があります。

井戸沢井戸沢橋で渡り、御食事処樹梨の前を通過し、先のY字路を右の梨子ノ木坂の石畳道に入ります、この分岐点には中北道標「←6.7km妻籠宿/
清水旧道 井戸沢旧道 御食事処樹梨 梨子ノ木坂石畳道

馬籠宿 1.0km→」があります。


 梨子ノ木沢には熊出没注意標識熊除けの鐘があります。

石畳道を進むと右手に
男女双体道祖神が祀られています。

右手の沢向こうに石置き屋根の
水車小屋と傍らに水車塚があります。

水車塚には
島崎藤村による碑文「山家にありて 水にうもれたる 蜂谷の家族四人の記念に」が刻まれています。

明治三十七年(1904)七月、
蛇抜けにより蜂谷家の四人が犠牲になりました。
梨子ノ木坂 男女双体道祖神 水車小屋 水車塚

 残された
蜂谷儀一島崎藤村と親交がありました。

 県道7号線を横断します、手前には中北道標「←0.9km 馬籠宿/妻籠宿 6.8km→」、横断すると中仙道自然石道標があります。

途中
石段を上り、木橋を渡ると石畳道になり、先で舗装路に突当ります、この舗装路を右折(白色矢印)します、この分岐点には中山道自然石道標中北道標「↑7.1km 妻籠宿/馬籠宿 0.6km→」があります。

舗装路は先で
県道7号線に合流(白色矢印)します、この分岐点には右中仙道自然石道標中北道標「←7.2km 妻籠宿/馬籠宿 0.5km→」があります。

木曽路のクライマックスは当然、妻籠宿馬籠宿にとどめを刺します。
岩田旧道東口 旧道内分岐 岩田旧道西口

 しかしこれらの宿場を繋ぐ
旧道にこそ醍醐味があり、その味わいは堪りません!

 県道7号線を進み、塩沢川塩沢橋で渡ると、先の右手に石段が現れます、馬籠宿への最後の陣馬坂旧道口です。

陣馬坂旧道口には
中山道自然石道標案内標識「←馬籠宿 旧中山道」、中北道標「←300m 馬籠宿/妻籠宿 7.4km→」、そして熊除けの鐘があります。

石畳の上り坂を進み、石段を越えると一気に視界が開けます、ここから石段を下ると広場に出ます、馬籠上陣馬跡です、天正十二年(1584)秀吉家康が戦った小牧長久手の合戦の折、徳川勢の菅沼保科諏訪の三武将が秀吉方の島崎重通が守備する馬籠城攻めの陣をここに敷きました。

広場は
馬籠見晴台になっています、南に海抜2193mの恵那山が一望です。
陣馬坂口 恵那山標石 恵那山

 島崎藤村著
夜明け前に「お民、来て御覧、きょうは恵那山がよく見えますよ。妻籠の方はどうかねえ、木曽川の音が聞こえるかねえ」の一節があります。

 見晴台の左手には島崎正樹歌碑があります、島崎藤村の父正樹「天保二年(1831)~明治十九年(1886)」の長歌反歌が刻まれています、生まれ故郷の木曽谷の神坂(かみさか)を誉め讃えた歌です、歌碑の文字は正樹直筆の原寸大です。

島崎正樹は馬籠宿本陣最後の当主を勤め、明治の世になると国学者となり神官を勤めました。

次いで
越県合併記念碑があります、平成十七年(2005)二月一三日の合併により、この地が長野県木曽郡南木曽町から岐阜県中津川市馬籠となりました、碑の末尾には島崎藤村著夜明け前の「あの山の向うが中津川だよ 美濃は好い国だわねー」一節が刻まれています。
島崎正樹歌碑 越県合併記念碑 東屋分岐

 馬籠見晴台の外れにある
馬籠上陣場東屋(休憩小屋)を左に回り込んで下り坂を進みます、京方面からはY字路になります、正面に中山道自然石道標「右 旧道/左 やまみち」、男女双体道祖神、そして中北道標「←100m 馬籠宿/妻籠宿 7.6km→」があります、右の馬籠見晴台に入ります。

 PM4:38 馬籠宿着 新茶屋まで2.3km

 坂の左手に復元された高札場があります、正徳元年(1711)公布の御朱印、毒薬等の定書き、明和七年(1770)の徒党禁止の高札が読み易いように楷書に書き直されて掲げられています。

往時は
文字が読めない人が多いため、正月になると庄屋村人をこの場所に集めて読んできかせ、これを守るように言い聞かせました。

坂道は県道7号線に突き当たります、右手の
上但馬屋の脇に中山道馬籠宿碑があります、には「江戸江八十里半 京江五十二里半」と刻まれています、実質上は「江戸江八十二里半 京江五十四里半」です。

県道7号線を横断すると
馬籠宿の宿並に入ります。
高札場 上但馬屋 馬籠宿碑

 馬籠宿馬籠峠十曲峠に挟まれた、狭隘の地に位置し、尾根に宿並がある為、水の便が悪く、強い風に晒される為、度々大火に見舞われました、明治二十八年(1895)と大正四年(1915)の大火では石畳道以外は全て灰塵に帰しました。

その後、復興するも 明治二十五年(1892)木曽川沿いに
国道が開通すると、宿場としての使命が終え、陸の孤島となり衰退の一途を辿りました、しかし昭和四年(1929)島崎藤村夜明け前を著すと、一躍観光地として復活を果し、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によれば、馬籠宿宿内家数は六十九軒、うち本陣一、脇本陣一、問屋二、旅籠十八軒で、宿内人口は七百十七人(男三百六十人 女三百五十七人)でした。

馬籠宿坂道の中に構成されています。島崎藤村夜明け前の中で「街道の両側には一段づつ石垣を築いて、その上に民家を建てたようなところで、風雪を凌ぐための石を載せた板屋根がその左右に並んでいる」と著しています。
馬籠の宿並

 宿並中程の右手に馬籠宿脇本陣跡があります、蜂谷家が勤め屋号を八幡屋と称し、問屋を兼ねました。

脇本陣遺構は明治の大火で焼失し、跡地は
馬籠脇本陣資料館になっています、館内には当時の場所に上段の間が復元され、焼失を免れた貴重な什器、衣服等や藤村の夜明け前の資料になった馬籠宿役人の記録等が展示されています。

史料館前には
山口誓子句碑「街道の 坂に蒸れ柿 火を点す」があります。

脇本陣の隣が
大黒屋跡です、問屋年寄役を勤め、造り酒屋を兼ねました、今も軒下に名残の酒林を吊り下げています。
馬籠宿脇本陣跡 山口誓子句碑 大黒屋

 十代目当主
大脇兵右衛門信興が三十歳であった文政九年(1826)から明治三年(1870)迄、四十年間書き続けた大黒屋日記(年内諸事日記帳)が島崎藤村著夜明け前の原点になっています。

藤村の
初恋の人は大黒屋の娘おゆうさんでした、その後おゆうさんは妻籠宿の脇本陣林家に嫁いでいます。

 次いで大黒屋の隣が本陣跡です、馬籠城主であった島崎監物の子孫島崎家が本陣を代々勤め、問屋を兼ねました、跡地は藤村記念館になっています。

藤村は本陣最後の当主島崎正樹の末っ子として明治五年(1872)ここで生まれ、九歳まで過ごしました。

幕末、
水戸天狗勢の幹部は島崎本陣に宿泊しました、夜明け前では「太鼓の音だ、おのおの抜身の槍を手にした六人の騎馬武者と二十人ばかりの徒歩武者とを先頭にして、各部隊が東の方角から順に街道を踏んで来た」と著しています。

本陣門脇には
馬籠宿明治天皇停駅之蹟碑があります、明治十三年(1880)巡幸の際、旧本陣に宿泊しました。
馬籠宿本陣跡 明治天皇碑 四方木屋

 本陣の隣りが
四方木屋(よもぎや)です、大正十四年(1925)島崎藤村が長男楠雄の為に古民家を移築改装した建物です、四方が木で囲まれていたところから藤村四方木屋と命名しました、現在は子孫が茶房を営んでいます。

 馬籠郵便局を過ぎると左手の五平もちかなめやの前に案内標識「160m永昌寺 180m島崎藤村墓→」があります、標識向いの右手小路を進みます。

夜明け前万福寺として登場する臨済宗妙心寺派永昌寺があります、永禄元年(1558)の創建で島崎家の菩提寺です。

墓地には
島崎藤村(春樹)の墓があります、遺髪遺爪が埋葬されています、墓石の周りには家族の名を刻んだ墓碑が並んでいます。
永昌寺小路 永昌寺 島崎藤村墓 島崎正樹墓

 
藤村の遺骨は終焉の地、神奈川県大磯の地福寺に埋葬されています。

先に進むと父
島崎正樹の墓があります、墓石の正面には「島崎正樹 島崎縫子 之墓」、裏面には「明治廿九年十月二十五日歿」と刻まれています。

 宿並に戻ると右手に槌馬屋資料館があります、島崎正樹と親戚関係であったところから正樹に関する資料を中心に、 正樹自筆の掛軸、書や藤村初恋のおゆうさんの顔写真、当時の歴史的資料等を展示しています。

宿並を挟んで向かいに
旅人御宿但馬屋(現民宿)があります、約百十年前の囲炉裏を残しています。

次いで左手に
清水屋資料館があります、清水屋原家住宅は中津川市景観重要建造物です、館内には古文書藤村の書簡や掛軸等が展示されています。

原家は宿の組頭を歴任した家柄で、島崎藤村著のに登場するさん(原一平)の家です、藤村は馬籠に帰農する長男楠雄原家に託しました。
槌馬屋資料館 旅人御宿但馬屋 清水屋資料館

  時計の針は午後5時を指しています、宿並から観光客の姿はいつしか消え去っています。

枡形手前の右手に食事処
坂のくらがあります、腹ごしらいとしましょう。

おっと、入口に
本日は終了しましたの札が掲げられています、掃除をしていた女将さんに伺うと「大丈夫ですよ、どうぞ」と招き入れてくれました。

ビール香の物がお通しで付きます、木曽路は漬物が実にウマイ、そして夏場のビールは格別です!

ここで
天ぷら蕎麦は野暮でしょう、やはり山家は山菜蕎麦に限ります!!

本日の終点は
新茶屋です、そうそうユックリとはしていられません、早々に腰を上げましょう、宿並に戻ると正面は恵那山です。
香の物 山菜そば

 宿の外れに常夜燈があります、この手前を右折(白線矢印)し石段を下ります、枡形です。

枡形内の
水車の先を左に進むと、上道に合流(白色矢印)します、これにて枡形トレースの終了です。

明治三十八年(1905)
道路改修により枡形は一旦消滅しましたが、昭和六十年代に枡形は復元されました。

枡形の合流点向いの段上に
阿弥陀堂があります、石碑には「京都大原三千院ゆかり」と刻まれています。
枡形上 枡形内水車 枡形下 阿弥陀堂

 枡形を出たら車屋坂を下ります。

スグ先で、長らくお付合いを願った
県道7号中津川南木曽線を横断します、これにてお別れです! 

渡り詰右の
馬籠館の前に中山道馬籠宿碑があります、馬籠宿も(西)です、宿碑には「江戸江八十里半 京江五十二里半」と刻まれています、実質上は「江戸江八十二里半 京江五十四里半」です。

並びのみやげ物を商う
馬籠館宴セットを調達して馬籠宿を後にします、 緩い下りの石屋坂をモクモクと進みます。
車屋坂 馬籠宿碑 石屋坂 恵那山

 
石屋坂の左手には実った稲穂先の恵那山が旅人を見送っています。

 橋を渡ると枡形状に緩い上り坂を進むと、左手の北恵那バス横屋バス停の所に中津川道標「右中津川旧道/左中津川新道」と中北道標「←馬籠宿 340m/落合の石畳 1.7km 落合宿 3.7km→」があります。

上り坂を進むと右手の竹藪の前に
丸山の坂標石があり馬籠城跡解説があります。

天正十二年(1584)秀吉方の
島崎重通(藤村の祖)が守備しましたが、上陣馬に布陣した徳川勢の大軍の前に、城を捨て妻籠城に撤退しました。

徳川の世になると
馬籠城は廃城となり、この地は丸山とも城山とも呼ばれるようになりました。
中津川道標 丸山の坂 馬籠城跡 城口石塔群

 並びの城口には
庚申塔馬頭観音等が祀られています。

 次いで左手に馬籠諏訪神社が鎮座しています、馬籠村の鎮守です。

参道口の右手に
島崎正樹翁記念碑があります。

江戸時代
木曽五木の伐採は尾張藩により厳しく禁止され「木一本首一つ、枝を落とせば腕を切る」といわれました。

徳川幕府が瓦解し、木曽谷の人々は新政府に期待を寄せましたが、政府の政策は木曽谷のほとんどを官有林に組み入れるという、遥かに過酷なものでした。

島崎正樹は木曽三十三ケ村の総代になり木曽山林の解放運動に奔走するも、弾劾に遭い、失意の内に生涯を閉じています、碑はこの島崎正樹の徳を顕彰したもので、明治四十五年(1912)正樹の二男広助が建碑したものです、広助は妻籠宿本陣の養子となり最後の当主を勤めました。
馬籠諏訪神社 島崎正樹翁記念碑

 荒町の緩やかな下り坂を進むと、左手の小屋の中に馬籠のいわれ解説があります。

この地の生活物資の搬送は
馬方衆が担っていました、ところが人間が病気や怪我をするとに入れて中津まで組内の者が皆で担いだといいます、この馬籠の地名由来と記されています。

下り坂を進むと左手に
男女双体道祖神が祀られています、向いには中北道標「←2.9km 落合宿/馬籠宿 1.1km→」があります。

北恵那バス
なかのかやバス停を過ぎると神坂の下りになり、西方が開けた小公園があります。
馬籠のいわれ 道祖神 サンセット百選 正岡子規句碑

 ここは
信州サンセットポイント百選で、 中津川が一望です、馬籠上陣場にあった島崎正樹の歌碑は正に、この景を讃えた歌です。

公園には
正岡子規句碑「桑の実の 木曾路出づれば 麦穂かな」があります、喀血した子規は明治二十二年(1889)木曽路を経由して松山に帰郷しています。

 PM5:48 新茶屋着

民宿梅の家 宴セット
 神坂を下ると新茶屋村に到着です、本日の街道ウォークはここが終点です!

今宵の宿は
民宿梅の家(0264-59-2132)です。

早速、
素泊りの料金4,000円を支払い、明朝は勝手に出立する旨を伝えます。

体は塩漬け状態です、風呂に直行です、
薬草風呂です、とはいっても決して薬臭くはなく、むしろハーブの香りで心地良いものです、真夏なのにシッカリ首まで浸かってしまいました!!

テレビのスイッチを入れ、明日の天気を確認します。

そして軽く
ストレッチを行います。

宿の女将さんにお新香を頂き、サア宴の開始です、木曽の銘酒
七笑ウマイナー!!!

明日の天気は上々、明日も良い街道ウォークになるぞ!!!!




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