青春18きっぷ作戦第4弾です! 利用期限は9月10日迄です、ギリギリです!! 本日の街道ウォークは木曽路のクライマックス妻籠、馬籠そして木曽路の終点新茶屋迄です。 相変わらずの真夏日ウォークです、陽はすでに頂点です。
「昔、木曽の谷中に酒なし 和合の里人はじめてこれを造る 和合酒という」といわれ、この枝垂梅は木曽谷有数の銘酒諸白(もろはく)を醸造した遠山家の庭木でした。
変則十字路の手前には中山道自然石道標「↓南木曽駅 桃介橋」があり、変則十字路を横断すると左手に中北道標「↓JR南木曽駅/↑妻籠宿」があります。
重要伝統的建造物群保存地区/南木曽町妻籠宿保存地区の説明が記されています、いよいよ妻籠宿が近くなってきました。
京方面からは自然石道標先のY字路を右に進みます。
妻籠城址からはこれから向かう妻籠宿が眼下に一望できます。
宿並を進むと地蔵沢橋があります、この手前左手が口留(くちどめ)番所跡で、往来の人々を監視していました、その後廃止されました。
上町に入ると右手に妻籠郵便局があります、郵便資料館になっています、当初は本陣敷地に、明治六年(1873)三月妻籠郵便御用取扱所として開設されました。
枡形口には文化六年(1809)建立の秋葉山常夜燈があります。
この石が常に濡れているようにみえるところから汗かき地蔵とも呼ばれます。 京方面からは延命地蔵堂前の左石段に入ります、西枡形口です。 先の左手に上嵯峨屋があります、建築当初の形式をよくとどめ、庶民の旅籠(木賃宿)としての雰囲気をうかがうことができます、南木曽町有形文化財です。
街道は清冽な流れの蘭(あららぎ)川に沿って進みます、蘭川は木曽山脈の床浪高原に源を発し、男埵(おたる)川を吸収し、流末は木曽川に落合います。
自然石道標には「右 志ん道/左 旧道 つまご」と刻まれています、傍らに木製道標「←中山道 妻籠宿へ1km」があります。
この分岐点には中山道大妻籠燈籠があります。
男埵川を再び渡ります、この分岐点には中山道大妻籠自然石道標「右 旧道/左 志ん道」と中北道標「←1.8km 妻籠宿/馬籠宿 5.9km→」があります。
翌朝、良く見ると軒下に酒林(杉玉)が吊り下がっていました。
偉いですね!可愛いですね!!
天正十四年(1586)松本城主小笠原貞慶より秀吉の関白就任祝いの品々を託された重臣倉科七郎左衛門朝軌と従者三十名がここで地元の盗賊に襲われ全滅しました
この分岐点には中北道標「←3.6km 妻籠宿/馬籠宿 4.1km→」があります。 土道を下ると県道7号線に突き当たります、左折(白色矢印)します、この分岐点には中北道標「↑3.7km 妻籠宿/馬籠宿 4.0km→」があります。
県道7号線の上り坂を進み、一石沢を滝上橋で渡ると、先程の中山道旧道口(男滝女滝分岐西)に合流します。
解説には「県道7号中津川南木曽線の敷設に際しては、破壊することなく、形状を維持したまま埋蔵保存を実施しました。」と記されています。
そして平成二十一年(2009)合体木となり今でも成長を続けています。」と記されています。
牧野家住宅は江戸時代後期の建物で、当時は間口が十間半ありましたが、現在は八間に縮小されています、玄関脇にいちこく御休み処の看板が掲げられています。 建物前には水場があります、シッカリ給水させて頂きました、馬籠峠頂上まではあとわずかです!
村を後にすると右手に休憩小屋(東屋)とトイレがあります、この広場には十返舎一九の碑「渋皮の むけし女は見えねども 栗のこはめし ここの名物」があります、さすがユーモアに溢れています。 文化八年(1811)十返舎一九は木曽路を旅して木曾街道続膝栗毛を著しています。 この休憩所の北から西にかけての山間は紅葉の名所です。
馬籠宿 1.0km→」があります。
残された蜂谷儀一は島崎藤村と親交がありました。
しかしこれらの宿場を繋ぐ旧道にこそ醍醐味があり、その味わいは堪りません!
島崎藤村著夜明け前に「お民、来て御覧、きょうは恵那山がよく見えますよ。妻籠の方はどうかねえ、木曽川の音が聞こえるかねえ」の一節があります。
馬籠見晴台の外れにある馬籠上陣場東屋(休憩小屋)を左に回り込んで下り坂を進みます、京方面からはY字路になります、正面に中山道自然石道標「右 旧道/左 やまみち」、男女双体道祖神、そして中北道標「←100m 馬籠宿/妻籠宿 7.6km→」があります、右の馬籠見晴台に入ります。
十代目当主大脇兵右衛門信興が三十歳であった文政九年(1826)から明治三年(1870)迄、四十年間書き続けた大黒屋日記(年内諸事日記帳)が島崎藤村著夜明け前の原点になっています。 藤村の初恋の人は大黒屋の娘おゆうさんでした、その後おゆうさんは妻籠宿の脇本陣林家に嫁いでいます。
本陣の隣りが四方木屋(よもぎや)です、大正十四年(1925)島崎藤村が長男楠雄の為に古民家を移築改装した建物です、四方が木で囲まれていたところから藤村は四方木屋と命名しました、現在は子孫が茶房を営んでいます。
藤村の遺骨は終焉の地、神奈川県大磯の地福寺に埋葬されています。 先に進むと父島崎正樹の墓があります、墓石の正面には「島崎正樹 島崎縫子 之墓」、裏面には「明治廿九年十月二十五日歿」と刻まれています。
石屋坂の左手には実った稲穂先の恵那山が旅人を見送っています。
並びの城口には庚申塔や馬頭観音等が祀られています。
ここは信州サンセットポイント百選で、 中津川が一望です、馬籠上陣場にあった島崎正樹の歌碑は正に、この景を讃えた歌です。 公園には正岡子規句碑「桑の実の 木曾路出づれば 麦穂かな」があります、喀血した子規は明治二十二年(1889)木曽路を経由して松山に帰郷しています。
今宵の宿は民宿梅の家(0264-59-2132)です。 早速、素泊りの料金4,000円を支払い、明朝は勝手に出立する旨を伝えます。 体は塩漬け状態です、風呂に直行です、薬草風呂です、とはいっても決して薬臭くはなく、むしろハーブの香りで心地良いものです、真夏なのにシッカリ首まで浸かってしまいました!! テレビのスイッチを入れ、明日の天気を確認します。 そして軽くストレッチを行います。 宿の女将さんにお新香を頂き、サア宴の開始です、木曽の銘酒七笑ウマイナー!!! 明日の天気は上々、明日も良い街道ウォークになるぞ!!!!
|