道中日記 8-186 中山道 馬籠(新茶屋) - 大湫  30.1km

茶腹も一時 朝の景
 すっきり目覚めました、流石に信州圏は夏とはいえ、朝晩は空気が冷えて、過ごし易いです!

テレビのスイッチを入れ、
天気予報の最終確認をします。

昨夜
洗濯したソックス、パンツ、短パン、そしてヘンリーネックのTシャツは完壁に乾いています。

スッカリぬるくなったポットの湯で
を入れ、給水です、そして茶腹も一時です。

ストレッチを行いながら、が明けるのを待ちます。

やがて中津川方面の空が白み、秋を代表する
うろこ雲いわし雲と呼ばれる券積雲が浮かび上がってきました。

頃合です、それでは出立しましょう!!

 平成23年09月08日 AM6:18 新茶屋出立 落合宿まで2.3km

 新茶屋わらび餅が名物の立場でした、元は美濃側に入った所にありましたが、江戸時代の終わり頃、この地へ移ったところから新茶屋と呼ばれました。

民宿
梅の屋を後にすると、スグ先の民宿新茶屋の向いに天保十三年(1842))建立の芭蕉句碑「送られつ 送りつ果ては 木曽の穐(あき)」があります。

貞享五年(1688)
芭蕉が門人の越智越人(おちえつじん)を伴って信州姥捨山の月見と善光寺参りを兼ねて中山道を旅し、更級紀行の中に納めた句です。

美濃地方には
芭蕉を祖とする美濃派の俳人達が多くいました。

島崎藤村著
夜明け前の中で、この句碑の建立に尽力した馬籠宿本陣の当主吉左衛門(島崎正樹の父)と年寄役の金兵衛の二人が出来上がった碑を見て「この(あき)という字が私は少し気に入らん、(のぎ)へんが崩して書いてあって、それにつくりがでしょう」「どうもこれでは木曽の蠅(はえ)としか読めない」とぼやいています。
芭蕉句碑

 句碑の先に東屋(休憩所)があり、その脇に是より北木曽路と刻まれたがあります、西の木曽路口にある是より南木曽路碑と対を為すものです。

碑文は昭和十五年(1940)七月、当時六十八歳だった島崎藤村が地元の要請により揮毫(きごう)したものです、は藤村記念館落成10周年を記念して昭和三十二年(1957))十一月に建碑されました。

碑の向いに昭和六年(1931)建立の
国境碑「信濃/美濃」があります、 長かった木曽路の終点です、ここからはいよいよ美濃路に入ります!

美濃路は十六宿です、落合、中津川、大井、大湫、細久手、御嵩、伏見、太田、鵜沼が東美濃と呼ばれ尾張藩領でした。

加納、河渡、美江寺、赤坂、垂井、関ケ原、今須は
西美濃と呼ばれ、鵜沼から美江寺にかけては木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)が横たわっています。
木曽路碑 国境碑

 国境碑の並びに昭和三十二年(1957)建立の一里塚古跡碑があり、両塚共現存しています、江戸日本橋より数えて八十三里目です。

幕末の
塚木は右(北)松、左(南)無しでしたが、整備にあたり右塚には、左塚にはが植栽されました。

それでは
美濃路に取り掛かりましょう、一里塚先を斜め右の新茶屋遊歩道に入ります、この分岐点には木製道標「←馬籠宿 2.0km/落合宿2.0km→」があります、新茶屋遊歩道は石畳道になっています。
一里塚古跡碑 新茶屋一里塚(南) 北塚 新茶屋遊歩道東口

 新茶屋旧道は平成十七年(2005)の越県合併の記念事業として120m間を落合石畳遊歩道(新茶屋遊歩道)として整備されました。

新茶屋旧道は先程分岐し、回り込んできた車道に突き当たります、左折(白色矢印)します。

スグ先右手(白色矢印)の
落合石畳に入ります。

落合の石畳は保存されていた江戸時代の石畳(三ケ所70.8m)を繋ぎながら復元されました、岐阜県指定史跡指定です。

石畳はいつごろ敷設されたのかは不明ですが、
皇女和宮明治天皇行幸の際に修理されました。
新茶屋旧道 新茶屋旧道西口 落合石畳東口

 落合の石畳道を進むと右手の開けた所に東屋(休憩小屋)があります、新茶屋に移転する前の立場茶屋跡です、ここには多数の街道解説等があります。

先に進むと左手に
なんじゃもんじゃの杜碑があります、往時この地の村人達はこの木の学名が分からず、ナンジャモンジャと呼んでいました。

学名を
ヒトツバタゴというモクセイ科の落葉高木で、木曽川流域に分布する、雌雄が異株の稀産種といいます。

5〜6月頃小枝の先に多数の
白い花を咲かせ、その姿は壮観といいます、是非、いつの日か見たいですね!

石畳道の勾配は次第に増してきます。
立場茶屋跡 なんじゃもんじゃ碑 なんじゃもんじゃ

 馬籠宿と落合宿の境にある標高約500mの十曲峠(じっきょくとうげ)です。

太田南畝壬戌紀行に「美濃と信濃境は十曲峠にあり。石まじりの道をゆくゆく坂を上り、山中坂を三四町ばかりまがりてのぼれば、落合の駅舎は遥かなる下に見ゆ。此のあたりより道いよいよけわし。ここを十こく峠という」と著し、難所でした。

石畳道の旧道は小さな木橋を渡ると、右からの車道に吸収されます、この分岐点には中山道落合の石畳石柱があります。

先に進むと左手に浄土宗
医王寺があります、本尊の山中薬師如来は行基作で虫封じ薬師と呼ばれました。
十曲峠 落合石畳西口 医王寺

 本堂の賽銭箱の脇に狐膏薬看板が展示されています、和尚が助けた狐から教わった狐膏薬刀傷に効くと評判でした。

境内には
枝垂桜があります、初代の枝垂桜は樹齢三百年で俳諧の宗匠嵩左坊(そうしょうすさぼう)が「その日その日 風にふかせる 柳かな」と詠み、県下随一といわれた名木でしたが、伊勢湾台風で倒壊しました。

二代目も四月初旬に
先代に勝るとも劣らぬ見事な花を咲かせます。

本堂の左脇に嘉永六年(1853)建立の
芭蕉句碑「梅が香に のっと日が出る 山路かな」があります、更科紀行で詠んだ句です。
狐膏薬看板 枝垂桜 芭蕉句碑

 医王寺を後にすると@Y字路に突き当たります、左に進みます、この分岐点には丸太道標「←JR中津川駅/落合の石畳→」があります。

先の突当りの
AY字路を左に進みます、正面の眼下に落合宿が遥かに遠望できます。

ここからはかなりの
急坂を下ります、途中にBY字路があります、左に進みます、この分岐点には丸太道標「↑落合の石畳(二百米先右折) 0.7km/JR中津川駅(二百米先右折) 4.4km→」があります。
@Y字路 落合宿遠望 AY字路 BY字路

 京方面からは
下桁橋を渡り、途中3ケ所のY字路は全て右に進みます。

 急坂を下り落合川下桁橋で渡ります、落合川は恵那山に源を発し、同じく恵那山を源とする湯舟沢川を上流で吸収し、流末は木曽川に落合います。

広重は落合として
落合川に架かる下桁橋(落合橋)、先の御判形坂(下の枡形)、そして落合宿の宿並を描いています、遠景の山並は恵那山です。

下桁橋は往時大橋落合橋と呼ばれ、少し下流に架橋されていました、しかし洪水により度々流失した為、寛保元年(1741)から神坂湯舟沢経由の新道が開削されましたが、悪路で約1.8kmも遠回りでした。
落合川 木曽海道六拾九次之内 落合 広重画

 そこで明和八年(1771)再び
十曲峠を通る以前の道筋に戻りました、その際葛籠折りの道を廃し、現在の北側に大きく曲がって穏やかに上る道に付替られました。

 下桁橋を渡り、上り坂を進むと上道に合流(白色矢印)します、この上道の一部が開削された神坂湯舟沢旧道です。

この分岐点には
追分道標「右飯田道/左善光寺 御岳道」、飯田道道標「右神坂ヲ経テ飯田町ニ通ズ」、道祖神、享保十五年(1730)建立の馬頭観音像等があります。

上り坂内の集落を抜けると久し振りに
県道7号中津川南木曽線に突き当たります、ここが落合宿の高札場跡(石柱)です。

落合宿に到着です!
石仏石塔群 飯田道追分 高札場跡 県道横断

 
県道を横断して、向いの上り坂に入ります。

 AM7:18 落合宿着 中津川宿まで3.5km

 落合宿は美濃路の東端にあたり、難所十曲峠を控え大いに賑わいました、三と六の日に六斎市が開かれ、火縄が名物で水中でも消えないと評判でした。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によれば、落合宿宿内家数は七十五軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠十四軒で、宿内人口は三百七十人(男百八十二人 女百八十八人)と小宿でした。

宿長は三町三十五間(約390m)で、宿並は東から横町、上町、中町、下町で構成され、宿並みの中央には幅二尺の用水が流れていましたが、明治天皇通行に際し片側に寄せられました、宿並は文化元年(1804)と同十二年(1815)に大火に見舞われました。

東の枡形
を右折(白色矢印)すると右手に寛政四年(1792)建立の秋葉山常夜燈があります、宿内には四基の秋葉山常夜燈がありましたが、明治十三年(1880)の道路整備の際、善昌寺に一基、愛宕社に二基が移設されました。
東枡形 秋葉山常夜燈

 宿並を進むと左手に落合宿脇本陣跡(石柱)があります、塚田家が脇本陣を勤め、問屋そして尾張徳川家給人山村氏(木曽方)の庄屋を兼ねました、敷地内には飢饉に備え、穀物を備蓄した郷倉がありました。

次いで右手に
落合宿本陣跡(石柱)があります、井口家が代々本陣を勤め、問屋、そして尾張徳川家給人千村氏(久々利方)の庄屋を兼ねました。

本陣門は文化十二年(1815)の大火後に加賀藩前田家から火事見舞いとして寄贈されたものです、幕末皇女和宮上段の間で休息しました。

本陣門脇には
明治天皇落合御小休所碑があります、明治十三年(1880)巡幸に際に休息所となりました。

幕末、妻籠、馬籠、落合の三宿に分宿した
水戸天狗勢はこの落合宿に集結し、隊列を整え中津川宿へ向かいました。
脇本陣跡 本陣跡

 先の左手に落合宿助け合い大釜があります、 文久元年(1861)皇女和宮の大通行時には、四日間で述べ約二万六千人余が落合宿を通行しました、その際、暖かいおもてなしをする為に、各家の竈(かまど)はひきも切らず焚きつづけられたといいます、この大釜はその時の状況を示す象徴です、大釜は寒天の材料である天草を煮る時に使用されたものです。

先の右手に
異形の松が道路上に突き出ています、
創建時の
善昌寺山門を覆っていたことから門冠(もんかぶり)の松と呼ばれています、樹齢四百五十年です。

曹洞宗
善昌寺は慶長五年(1600)の創建です、明治二十四年(1891)の道路改修工事で寺の一部が道路となり、寺は東側へ移設されました。
助け合い大釜 門冠の門 善昌寺

 境内にあった松はそのまま残され、現在は
路上の松と呼ばれています。

 門冠の松前を左折(白色矢印)します、西の枡形跡落合宿の京(西)口です、直進(黄色矢印)の道筋は明治の道路改修で新設されたものです、往時は行き止りでした。

この分岐点の左手には大正十一年(1922)建立の
石柱道標「右至中仙道中津町一里」と青色歴史の道道標「←中山道→」があります。

向いの公園には
落合宿標柱「東 馬籠宿/西 中津川宿」と落合村役場跡石柱があります。

下り坂を進み、上り坂になると右手の斜面に
向町の地蔵尊が祀られています、良く見ると薬壺を持つ薬師如来立像かもしれません。
西枡形 石柱道標 村役場跡 石仏

 上り詰めを右折(白色矢印)しておがらん橋国道19号線を跨ぎます。

渡詰め右手の石段上に
おがらん四社「愛宕神社、山之神神社、天神社、落合五郎兼行神社」があります、愛宕神社には落合五郎の霊が祀られています。

鳥居の両脇には落合宿から移設された
秋葉山常夜燈があります。

境内には
落合五郎兼行之城跡碑があります、木曽義仲に仕え、義仲を養育した中原兼遠の子(巴御前の弟)で木曽義仲の家臣四天王の一人といわれた落合五郎兼行が、美濃の勢力に備えてこの地に館を構えたとされています、地元ではおがらん様の名で親しまれています。
おがらん橋 おがらん四社 落合五郎城跡

  おがらん四社前から左に国道19号線に沿って坂を下り、突き当りのL字路を右折(白色矢印)します、ここには青色歴史の道道標「↑中山道→」があります。

左右にうねる旧道を進み
下落合川横手橋で渡ります、 横手橋の親柱には「東 木曽、東京方面/西 美濃、京都方面」と刻まれ道標を兼ねています。

再び左右にうねる
上り坂を進みます、先を左折(白色矢印)して国道19号線ガードをくぐります。
L字路分岐 横手橋道標親柱 国道地ガード 与坂口

 くぐった先を右折(白色矢印)して
与坂旧道の上り坂に進みます、この分岐点には与坂バス停青色歴史の道道標「↑中山道→」があります。

 左右にうねる上り坂をグングン上ります、延享二年(1745)与坂白木改番所が設置されましたが、天明二年(1782)上金(中津川)に移りました。

電波塔を過ぎると下り坂になり、右手に与坂立場跡があります、立場茶屋越前屋の名物は米粉餅に黒砂糖をまぶした三文餅、そして名産の与坂徳利が評判でした。

立場跡の向いに
石造地蔵尊坐像二体を安置した地蔵祠弘法大師三十六番札所標石があります。

ここからはまるでジェットコースターの様な
急坂を下ります、歩幅を狭め、カカト着地でユックリ下ります、大股を前に突き出すように下ると、あっという間に膝にダメージを障じてしまいます!
与川立場跡 地蔵祠 急坂

 東海道は箱根路の
強飯(こわめし)に勝るとも劣らない急坂です。

この急坂の途中には
中北道標「←落合の石畳 2.6km/JR中津川駅 2.5km→」があります。

 転がるが如く下り、三五沢三五沢橋で渡ります、三五沢は落合中津川の境です、槇坂の上り坂になります。

スグ先の左手斜面に
子野の一里塚跡(石柱)があります、わずかに痕跡を残しています、江戸日本橋より数えて八十四里目です。

次いで左手の擁壁上に
南無観世音菩薩碑馬頭観音像等が祀られています。

槇坂を上り切ると右手に
御嶽神社と並びに御嶽教槙坂覚明霊地保存社があります、往時はここに茶屋がありました。
子野の一里塚跡 石仏石塔 覚明神社 覚明霊地保存社

 天明五年(1785)
御嶽山の開山を目指した覚明行者がここにあった茶屋に宿泊しました、御嶽神社にはその際に残した金剛杖湯呑数珠等を祀っています。

 御嶽神社先は再びジェットコースター並の急な下り坂になります、坂からは中津川宿が遠望出来ます。

坂の左手には
中北道標「←落合の石畳 3.1km/JR中津川駅 2.0km→」があり、先の左手に休憩所の快心庵があります、トイレ完備です。

下り切ると
子野川子野橋で渡ります、ここからは上り坂になります。

先に進むと見事な
枝垂れ桜が街道を覆っています、桜の下は小野の地蔵堂跡です。

地蔵堂跡には元禄七年(1694)建立の
庚申塔地蔵尊観音像等が祀られています。
快心庵 枝垂桜 小野の石仏群

 そして文政五年(1822)建立の
徳本名号碑「南無阿弥陀仏」があります、徳本上人がこの地に逗留し称名念仏を布教しました。

 地蔵堂川地蔵堂橋で渡り、一旦左に進み、一本目を右にヘアピン状(白色矢印)に回り込み上り坂を進みます、この分岐点には中山道案内(黄色囲み)があります。

案外の急坂を上り詰めると街道は
国道19号線に突き当たります、右手にある中山道地下道(白色矢印)で国道を横断します。

地下道を出て、国道に沿って坂を上ると現代の
男女双体道祖神があります、男女像は幼児になっています。

ネイルサロンS・R・H店の前から街道は復活します、右(白色矢印)に進みます。
地蔵川分岐 中山道地下道東口 道祖神 中山道地下道西口

 街道は落着いた佇まいの上金村を進みます、寛政七年(1795))には石高六十七石余りの小村で、家数十八戸、人口八十五人でした。

先に進むと左手に文政六年(1823)建立の
秋葉大権現常夜燈があり、傍らに廿三夜塔が祀られています。

並びに
上金メダカの池があります。

上り坂を進むと右手に
尾州白木改番所跡(石柱)があります、天明二年(1782)与坂から移設され、木曽から搬出される材木を厳しく監視しました。
秋葉山常夜燈 上金メダカの池 尾州白木改番所跡 中山道碑

 
番所は明治四年(1871)に廃止されました、並びに平成十七年建立の中山道碑があります。

 上り坂を進むと右L字路に突き当たります、左手には旭ケ丘公園があります。

園内には安永八年(1779)建立の
経王書写塔(きょうおうしょしゃとう)があります、台石の下に法華経経文を一字づつ一寸(約3cm)の丸い小石三百六十個に墨で書いたものが納めてあります、文盲の者や旅人が祈願しました。

L字路を右に進むと左手のガードレールの切れ目内に安永二年(1772)建立の
芭蕉句碑(すみれ塚)「山路来て 何や羅遊(らゆ)かし 寿み連(すみれ)草」があります、芭蕉の八十回忌記念に建碑されたものです。

芭蕉句碑の傍らには
三面六臂馬頭観音像馬頭観音像庚申塔があります。
経王書写塔 芭蕉句碑 馬頭観音

 芭蕉句碑前から茶屋坂石畳道を下ると、折り返しの所に間元矩(はざまもとのり)があります。

中津川の初代町長を勤めた
顕彰碑です、父の秀矩(ひでのり)は国学者平田篤胤(あつたね)没後の門人でした。

この
の撰文を認(したた)めたのは熱田神宮大宮司の角田忠行です、角田は島崎藤村の父正樹と国学者平田篤胤没後の同門でした。

石畳道を下ると車道に突当ります、
ヘアピン状に左折(白色矢印)します。
茶屋坂上 間元矩碑 ヘアピンカーブ 歩道橋

 スグ先の
中津川市旭ケ丘歩道橋でバス通りを横断します。

 歩道橋を渡り、右(白色矢印)ヘアピン状に右折します。

先に進むとUターン矢印が記された
中山道案内があります。

案内先を左(白線矢印)にUターン状に回り込み
石段を下ります、中段の踊場をUターンし、石段を下ると下道に突き当たります、左折(白色矢印)します、これにて茶屋坂トレースの終了です。

この
茶屋坂は京方面からですと、かなりの上りの急坂です!
歩道橋 中山道案内 茶屋坂 茶屋坂下

 AM8:43 中津川宿着 大井宿まで11.6km

 左手に高札場があります、ここが中津川宿の江戸(東)口です、中津川宿に到着です! 

中津川宿は北に苗木(なえぎ)城下、東に木曽の宿並を控え、物資の集散地として栄え、三と八の付く日に六斎市が立ち、東濃の中心地として大いに賑わいました。

宿長は十町七間(約1.0km)で、宿並は江戸方より淀川町新町本町横町下町で構成され、宿場機能は本町に集中していました。

天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳によれば、
中津川宿宿内家数は二百二十八軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠二十九軒で、宿内人口は九百二十八人(男四百五十四人 女四百七十四人)でした。

復元された
高札場高札は正徳元年(1711)公布の複製で、その文言は中津川宿本陣の記録に残っていたものを今様に読み下し文にしたものです、元の高札場の位置はここより約10m程坂を上った北側にあり、街道に面して建てられていました。
高札場

 高札場の並びに常夜燈、文化二年(1805)建立の庚申塔、天保六年(1835)建立の二十三夜搭が並んでいます。

淀川町を進むと
新町交差点に出ます、ここが中津川宿の起点です、右がJR中央本線中津川駅です。

腹が減ったペコペコです、朝っぱらから
急坂を上ったり、下ったりの連続です、待望の朝食としましょう。

駅方向に曲がると、大野屋旅館の隣に
喫茶店ケルンがあります、モーニングセットのトースト、玉子そしてコーヒーなど論外です、そんなものでは力(りき)が出ません、カレーうどん定食(700円)がありました!
常夜燈&石塔 ケルン カレーうどん

 オーダーを入れると、まだご飯が炊けてないとのこと、
カレーうどん(500円)単品に決定です!!

うまい、
街道ウォークはこの空腹感満足感にも醍醐味があります!!!

 新町交差点を越すと新町に入ります、左手にすやがあります、元禄年間(1688〜1703)創業の元は酢屋でした、今は栗きんとんの老舗です、中津川は栗きんとん発祥の地といわれています。

向いの愛知銀行前に
前田青邨画伯誕生之地碑があります、青邨(せいそん)は近代日本画壇の重鎮で、法隆寺壁画修復や高松塚古墳壁画の模写等を手懸けました。

先のビューティーサロン蓮華の手前を左に入ると右手に
桂小五郎隠れ家跡料亭やけ山跡があります。

文久二年(1862)六月、幕吏に追われる長州藩士
桂小五郎(木戸孝允)は平田門人間秀矩の手引きで料亭やけ山に身を隠しました。
すや 前田青邨画伯碑 桂小五郎隠家跡

 京に向かう長州藩主
毛利慶親(よしちか)をここで待ち受け、藩主を説得し公武合体から尊皇攘夷に藩論を変更させ、倒幕への道を突き進むターニングポイントになった所です、これを中津川会議といいます。

 先に進むと左手の中津川郵便局の並びの奥に間家大正の蔵があります、大正六年(1917)頃築の鉄筋コンクリート造りで市有形文化財です。

東美濃随一の豪商
間杢(もく)右衛門の屋敷跡です、尾張徳川家御用商人を勤めました、赤穂浪士の間喜兵衛は遠祖にあたります。

次いで右手に休憩所の
往来庭があります。

四ツ目川四ツ目川橋で渡ります、四ツ目川は恵那山に源を発し、 流末は木曽川に落合います、暴れ川で度々洪水を起こしました。

橋を渡ると宿機能が集中していた
本町に入ります。
間家大正の蔵 往来庭 四ツ目川橋

 本町に入ると左手に小さな八幡神社が祀られています。

次いで左手の
中津川市中山道歴史資料館手前に中津川宿脇本陣跡石柱があります、石柱には「脇本陣はここから右(西方)約20mの所にありました」との張り紙があります。

先の資料館の角に
明治天皇中津川行在所碑があり、左折して進むと資料館の裏に中津川宿脇本陣上段の間が復元されています、森家が勤め、建坪百二十八坪でした。

宿並に戻ると資料館の向いに
中津川宿本陣跡(石柱)があります。
八幡神社 脇本陣石柱 脇本陣跡 本陣跡

 代々
市岡長右衛門本陣を勤め問屋を兼ねました、建坪は二百八十三坪でしたが、残念ながら遺構は残されていません。

皇女和宮は九日目の夜を市岡本陣にて過しました。

 脇本陣の並びに中津川村庄屋居宅跡があります、中津川村の庄屋を勤めた肥田家の居宅跡です。

肥田家は代々
九郎兵衛を名乗り、屋号は田丸屋と称し、江戸後期からは旅籠を営みました、一時期脇本陣を勤めたところから上段の間を今に残しています。

先の左手に本町と中町の境に嘉永元年(1848)建立の
常夜燈があります。

中町に入ると右手の駐車場に
大泉寺跡(標識)があります、解説の所から坂を下った小路に大泉寺がありました、下町にあった瑞應寺を、天正四年(1576)中津川の有力地侍であった市岡長右衛門(本陣の祖)が本町(旧泉町)に移し、寺号を大泉寺と改名しました。

文久二年(1862)四月二十九日の
落雷により寺は全焼し、明治六年(1873)に北野大西に移されました。
中津川村庄屋跡 大泉寺跡

 宿並は西枡形に突き当たります、この右手に表具松霞堂(可児家)があります、往時は米屋でした。

屋根裏には
隠し部屋が残っており、博奕部屋であったといいます。

当家は元々
苗木藩士であった家系で、裏庭に樹齢百五十年以上の松の木があり、この松の木に霞がかかったさまから、松霞堂と呼ばれました。

枡形を左に曲がると
横町に入ります、 この横町は火災から免れた為に、往時の面影を色濃く残しています。

右手に
川上屋があります、元治元年(1864)創業の栗菓子の老舗です、店前には右木曽路道標があります。
松霞堂 西枡形 川上屋

 次いで右手に十八屋(間家)があります、江戸中期の建物で、上がり框(かまち)や天井の梁は当時のままといいます。

落合宿で隊列を整えた
水戸天狗勢は中津川宿に入り昼食を摂りました、総大将武田耕雲斎田丸稲之衛門山国兵部藤田小四郎の四人は市岡長右衛門本陣に入りました。

本陣当主の
市岡平田篤胤門下の国学者であり、同じ志を持つ同士として一同を篤く持て成しました、隊士達には昼食の他に名物五平餅が振舞われました、田丸はこれに感謝し、甲冑の小袖を市岡に与えました、そして和田峠樋橋の戦いで戦死した隊士の首級を市岡に託しました、市岡は大泉寺の市岡家の墓所に首級を埋葬しました。

十八屋の主
間武右衛門も平田篤胤門下であり、和田峠樋橋の戦いで負傷した若い隊士を預かり、隠し部屋で介護するも、後に没しました、当家にはこの若者の遺品を今に残しています。

皇女和宮の通行の際には、宮廷方の供の者がここに宿泊しました。
十八屋

 十八屋の隣は卯建をあげた白木屋跡(横井家)です。

当家の先祖宮大工
横井弥左衛門が天保十三年(1842)に建てたもので、百五十年以上を経過しています。

四畳ほどの中二階が今も残されています、ここへ梯子を懸け、中二階に登ると梯子を取り外し、収納すると外からは部屋のあることが全く分からない仕組みになっている
隠し部屋です。

突き当り
枡形です、宿並は右折(白色矢印)します。

ここを直進(黄色矢印)する細道は延喜式内社
恵那神社への川上道(かおれ道)です、ここには慶応元年(1865)建立の式内恵奈山上道と刻まれた道標が有ります。
白木屋 西枡形 恵奈山上道道標

 枡形を右折すると下町に入ります、左手に卯建をあげ、酒林を吊り下げたはざま酒造があります、慶長六年(1601)創業の銘酒恵那山の老舗蔵元です。

建物は中津川市
景観重要建造物指定です、京方面からは銘酒恵那山酒樽前の枡形を左折します。

スグ先の右手に斜め
(右白線矢印)に進む細道があります、旧道痕跡です、しかしスグ先で通行不可になっています、直進(左白線矢印)しましょう、この分岐点には日露紀念常夜燈小社が祀られています、往時は高札場がありました。

先に進み大正十三年(1924)四月架橋の
中央橋を渡ります、橋下の細道は中央製紙への引込線跡です、昭和四十七年(1972)廃線になりました。
はざま酒造 旧道痕跡 線路敷跡

 中津川中津川橋で渡ります、中津川は恵那山に源を発し、下流で四ツ目川を吸収し、流末は木曽川に落合います。

中津川橋を渡ると右
柳町、左駒場町(こまんば)に入ります。

緩やかな上り坂を進むと
Y字路に突き当たります、(白色矢印)に進みます、右は駒場村の鎮守津島神社への参道です。

この分岐点には
津島神社参道道標歴史の道道標「←中山道↓」があります。

上り坂の右手段上に
石塔群があります。
中津川 津島神社分岐 津島神社参道 石塔群

 右から明治三十七年(1904)建立の
馬頭観世音文字塔、文化十二年(1815)建立の奉納西國巡拝供養塔、文化三年(1806)建立の馬頭観音文字塔南無阿弥陀佛名号碑が並んでいます。

 上り坂を進み、大きく左に曲がった先でY字路に突きあたります、右(白色矢印)に進みます、この分岐点には青色歴史の道道標「↓中山道→」があります。

先に進むと右手市川製茶の向へに
駒場村の高札場跡があり、高札が三枚復元され、家屋の板壁に掲げられています。

緩やかな上り坂を進むと左手に
中山道自然石道標「左 江戸/右 京都」があります。

次いで右手に
東山道自然石道標「左 大井駅(おおいのうまや)/坂本駅/右 阿智駅」があります、古道時代の宿駅です。
駒場分岐 高札場跡 中山道道標 坂本駅道標

 次いで左手に中山道駒場村自然石道標「左 中津川宿/右 大井宿」があります。

前川上宿橋で渡ると、正面にこんもりとした小手の木坂が立ち塞がっています。

ここから
上宿の一里塚に至る坂道は小手ノ木坂といい、急峻な道でした、名は坂の頂に大きなこでの木があったところに由来しています、上り口に小手ノ木坂碑があります。

それでは
小手ノ木坂のトレースに取り掛かりましょう、石段左の土道が旧道です。
駒場村道標 小手の木坂 小手ノ木坂碑 小手の木坂下

 旧道を上るとスグに車道に突き当たります、残念ながらこの先の旧道は消滅しています。

車道を右に進み、左手の階段の上り坂に入ります。

階段を上り詰めると車道に突き当たります、右に進みスグに左折(白色矢印)します。

そのまま
直進(黄色矢印)する道筋は苗木道です、遠山佐渡守一万三千石苗木藩の苗木城下に通じていました、苗木城は木曽川右岸に聳える城山に築城されていました。

この苗木道追分には
自然石道標「右中山道/左苗木道」、自然石道標「こでの木坂/左ひだみち」、そして津島神社常夜燈があります。
階段口 木手の木坂上 苗木道追分

 苗木道追分左折(白色矢印)します、右手に石仏石塔群があります、文化十三年(1816)建立の双頭一身道祖神には是より苗木道と刻まれています。

先に進むと右手に
上宿の一里塚があります、(左)が1/3の規模で復元されています、江戸日本橋より数えて八十五里目です。

塚の前には
明治天皇御鳳輦前駆奉仕蹟碑があります、小手の木坂は急峻で明治十三年(1880)明治天皇の巡幸の際、駒場村の青年達が待ち構え、懸命に馬車の先引きを行って通過させました。
石仏石塔群 道祖神 上宿の一里塚 明治天皇碑

 一里塚の傍らに祠があり地蔵尊が安置されています。

ここから緩い
上り坂をしばらく進みます、やがて下り坂になると左手の段上に祠があります、地蔵尊薬師如来像が安置されています、祠の周囲には南無阿弥陀仏名号碑等の石仏石塔があります。

先の右手に
木工所があり、店内に自在鉤が吊り下がっています、囲炉裏に自在鉤、絵になりますね、 父親は燻(いぶ)る煙でしかめっ面、これが親父の威厳でした!

左右に大きくうねる急な
上り坂を進みます。
地蔵祠 地蔵祠&石塔石仏 自在鉤の店 小石塚立場跡

 上り坂が緩やかになると幅員の広い車道を横断します、左手に
小石塚の立場跡(石柱)があります、 この地は山村甚兵衛等木曽衆の領地であった千旦林村(せんだばやし、村高五百五十ニ石)と手金野村(村高四百四十六石)との境に位置し、数軒の茶屋があり、恋し塚立場とも呼ばれました。

 デイリーの向いに寛永三年(1626)建立の嵐讃岐(あらしさぬき)供養碑があります、嵐讃岐は木曽家の有力武将の一人で、千旦林に居を構え、千旦林八幡宮の再建に尽力した人です。

供養碑先の
旧道は国道257号線、国道19号線、中央自動車道の敷設で消滅しています、迂回路を進みましょう。

中山道案内解説横の階段を下り、突き当りを右に進み、国道257号線を横断歩道で横断し左に進みます。

国道257号線の歩道を進みます。
嵐讃岐供養碑 小石塚迂回路東 小石塚迂回路 小石塚迂回路西

 JR中央本線の踏切を右に見て進み、中津川インター口バス停、そして中津川市千旦林歩道橋を過ぎたら、国道19号線JR中央本線に挟まれた右(白色矢印)に入ります。

先から中央自動車道に沿って進み、右手に民家が現れたら、右(白色矢印)
千旦林旧道に復帰します、左手のネットフェンスに中山道案内標識があります。

木曽川水系の
六地蔵川六地蔵橋で渡ると、右手の板塀先に六地蔵石幢(せきどう)があります。 

明暦三年(1657)の建立で、
六地蔵が刻まれています、六道を巡って衆生を救い、極楽往生へと導いてくれます、中山道を行き交う旅人が道中の安全を祈り、心の安らぎを得ました、それでは合掌!
千旦林東口 千旦林旧道東口 六地蔵石幢

 六地蔵石幢の傍らに宝永六年(1709)建立の南無阿弥陀佛名号碑があります。

千旦林バス停先の右手に
式内坂本神社八幡宮の参道口があります。

参道に入る(黄色矢印)と左手に
松風義校(千旦林学校)(解説)です、 明治六年(1873)中津興風義校の三番支校として開校し、明治十一年(1878)千旦林学校と改称されました。

参道を進みJR中央本線を横断した先に
坂本神社八幡宮が段上に鎮座しています、大宝二年(702)創建の古社です。
名号碑 八幡宮参道口 松風義校跡 坂本神社八幡宮

 天平二年(737)
八幡宮が勧請され、後に嵐讃岐が再建に尽力しました。

 次いで右手に千旦林村の高札場跡(石柱)があります、千旦林村は立場でした。

先に進むと左手の民家前に
秋葉大権現常夜燈と小さな秋葉神社が祀られています。

東巣橋(みそうのばし)を渡ると左手に如意輪観音像三面六臂馬頭観音像が祀られています。

街道の正面に
笠置山(かさぎ、標高1128m)が遠望出来ます、笠を置いたように見えるところを由来としています、稜線が弘法大師の寝姿に見えるところから寝弘法とも呼ばれました、ぎふ百山の一つです。
高札場跡 秋葉大権現常夜燈 馬頭観音 笠置山

 薮下バス停先のY字路を左に進みます、この分岐点には手差し道標左「旧国道 大井町ニ至ル」、右「新国道(現在市道)美乃坂本駅ニ至ル」があります。

Y字路の左手には
青色歴史の道道標「←中山道→」があります。

田園風景の中を進み、右手の通学路に入ると右手に弘化三年(1846)建立の
秋葉山常夜燈があります、竿石には「秋葉大権現」、「常夜燈」、「町内安全」と刻まれています。

街道に戻り、小さな流れを渡ると、左手に
弘法大師標石があります。
中平分岐 手差し道標 秋葉山常夜燈 弘法大師標石

 標石の所から草道を進むと段上に中平弘法堂があります、祠の中に石造弘法大師坐像が二体安置されています。

境内には
三面六臂馬頭観音像が二体祀られています。

緩やかな上り坂を進むと左手に
神明の杜があります、神明の杜には神明神社の他に津島神社妙見社が祀られています、神明神社は坂本神社八幡宮の境内社でした。

先に進むと下り坂になり、右手の段上に
地蔵石塔が祀られています。
中平弘法堂 馬頭観音 中平神明神社 石仏石塔

 小さな流を渡り、再び上り坂になると右手に将監塚があります、大久保長安の後を継いで慶長十八年(1613)より寛永八年(1631)まで美濃代官を勤めた岡田将監善同(よしあつ)の墓です。

当時大井村には名古屋築城の際の
材木番所が設置され、木曽材持出奉行として当地に駐在していました。

先に進むと地下道があります、この手前の右手に
三ツ家の一里塚跡(石柱)があります、遺構は残されていません、江戸日本橋より数えて八十六里目です。

千旦林横断地下歩道で車道を横断します。
将監塚 一里塚跡 地下歩道 馬頭観音

 急な上り坂を進むと右手の石の祠の中に
三面六臂馬頭観音像が安置されています。

 案外の急坂を上ります、美濃路に入るとアップダウンの連続です、木曽路の比ではありません。

広い通りの十字路に出ます、この十字路手前の左手に濁った池があります、
馬の水飲池です、池脇に歴史の道道標「←中山道→」があります。

十字路を横断(白色)します、ここを右(黄色矢印)に進むとJR中央本線美乃坂本駅です。

十字路を横断すると右手が
坂本立場跡(石柱)です。
馬の水飲池 十字路 坂本立場跡 急坂

 広重はこの清水立場中津川として描いたといわれています。

遠景に
恵那山、右手に清水の立場茶屋、そして左手に灌漑用の溜池を描き、雨を降らせています。

画面の中央下に雨の中を歩く三人の姿を描いています、三人とも
菅笠(すげがさ)を寡ぶり、油紙の雨合羽を着用しています。

先頭の者は
武士で刀の先が裾から垣間見えます、二人目の共の者は油紙で覆った振り分け駕籠を担ぎ、三人目の者は槍を担いでいます。

坂本立場は千旦林村とこの先の茄子川村の境にあたり、古くは東山道の
宿駅でした。
木曽海道六拾九次之内 中津川 広重画

 立場跡からは急な坂本坂を下ります。

街道正面に車道の
ガードが現れたら、手前の左手に石仏石塔が整然と並んでいます、おそらく街道沿いに散逸していたものを集めたものでしょう。

ガードをくぐった先で、街道は坂本川に突き当たります、ここを左折(白色矢印)します、右折(黄色矢印)するとJR中央本線美乃坂本駅です。

左に進み、右折(白色矢印)して
坂本橋を渡ります、坂本川は木曽川水系千旦林川支流の一級河川です。
石仏石塔群 ガード 坂本川 坂本橋

 橋を渡ると右手のちびっこ広場奥に坂本薬師堂があります、薬師堂には延享二年(1745)建立の馬頭観音が安置されています、この観音堂は文化三年(1806)刊の中山道分間延絵図に記載されています。

用水路を渡ると左の段上に
茄子川村の高札場跡(石柱)があります、茄子川(なすびがわ)の東口です。

昔、この地の殿様が亡くなると
鳴り物禁止の触れが出ました、村人は鳴り物生り物を勘違いし、収穫間近の茄子を川に捨ててしまったといいます、これが地名の由来となりました。

村内を進むと右手の田の前に
尾州白木改番所跡(石柱)があります、木曽産の白木材の抜荷を厳しく取り締まりました、明治四年(1871)廃藩置県の措置によって番所は廃止されました。
坂本薬師堂 高札場跡 白木改番所跡

 千旦林川を渡ると、旧道は右からの県道410号苗木恵那線に吸収されます、この合流点には青色歴史の道道標「←中山道→」があります。

右手の喫茶軽食静香手前の左手たばこ看板の所に
長連寺薬師堂解説があります、この辺りに織田信長の家臣森蘭丸が天正十年(1582)岩村城主になった際に建立した薬師堂がありましたが後の兵火で焼失しました。

左手の栗きんとんの名店
美濃屋の並びに茄子川御小休所篠原家があります、篠原家は加賀前田家の重臣篠原一孝の子弥右衛門が十七世紀の初め頃、当地に移り住んだことに由来します。

篠原家の当主は代々
長八郎を名乗り、茄子川村の村方役人、尾張藩の庄屋戸長等を歴代にわたり勤めました。

茄子川村は
間の宿で、当家は茶屋本陣を勤めました。
長連寺薬師堂解説 茶屋本陣篠原家

 建物前に明治天皇茄子川御小休所附御膳水碑があります、皇女和宮明治天皇が休息した部屋、厠(かわや)、表門等は当時のままに保存されています。

茶屋本陣脇が中山道から
遠州秋葉道への追分(黄色矢印)です。

追分の両側には
秋葉大権現常夜燈があります、手前(左)の常夜燈は享和三年(1803)、向い(右)の常夜燈は安永五年(1776)の建立で是よりあきはみちと刻まれています。

秋葉大権現はいわずと知れた火伏火防の守護神です。
明治天皇碑 秋葉常夜燈 遠州秋葉道 秋葉常夜燈

 先に進むと左手の畑の前に歴史の道中山道茄子川解説があります、江戸時代初期の茄子川村は御三家筆頭の尾張徳川家給人の山村氏(木曽方)、千村氏(久々利方)、それに旗本馬場氏ら八名の入相支配地であり、村高千三百六十八石余はこの付近では大きな村の一つでした。

名産の
茄子川焼は天正六年(1587)の頃、瀬戸の加藤吉右衛門が諏訪の前窯場に来て、施釉陶器(せゆうとうき)を焼いたのが始まりといわれています、飯田方面から物資を運んできた帰り馬が茄子川焼を信州に運び人気を博しました。

スグ先の十字路を直進します、この十字路にはこの先世話になる
道標標識「←この道は中山道→」があります。

ここから先は上り坂をしばらく進みます、右手の杜の中には鯉ケ平妙見が祀られています、下りになると右手の段上に
地蔵尊が安置されています。
茄子川解説 地蔵尊

 下り坂が平らになると左手に坂本地区文化遺産説明板設置案内図があります、スグ先の左手に大きな中山道碑があります「是より大井」と刻まれています、中津川市茄子川から恵那市大井町に入ります。

広久手坂の上りになると右手に
三面八臂馬頭観音像が祀られています、大正十四年(1925)長国寺悦音和尚が「旅人の道中安全と悪人と悪病を防ごうと」開眼供養しました。

広久手坂を上り詰め、下りになると右手の斜面に
中山道岡瀬坂標石があります。

岡瀬坂を下り切ると左手に
社宮司があります。
中山道碑 馬頭観音 岡瀬坂 社宮司

 大ヒノキの根方に
社宮司(しゃぐうじ)の石祠が二社祀られています、社宮司は信州の諏訪が根元で土地の神の信仰であり、木の神とされています。

 岡瀬沢交差点を横断すると左手に大きな永代燈があります、竿石にはひだりあきばみちと刻まれています、遠州秋葉山への追分常夜燈です。

並びに
岡瀬澤碑があります、ここが岡瀬澤村の東口です。

この
秋葉道は荷役用の牛が行き来していたところからうしみちと呼ばれ、村内には茶屋馬宿がありました。

岡瀬沢交差点を右に進むと左手に
富士浅間神社があります、貞享二年(1685))の創建で岡瀬澤村の氏神です、池に湧き出る霊泉は女性の病に霊験あらたかです。

八月の例大祭には
三河万歳の系統を引く七福万歳が奉納されます(恵那市の無形民俗文化財指定)。
永代燈 岡瀬澤碑 富士浅間神社

 街道に戻って進み、保古山山系に源を発する濁川筋違橋で渡ります、川の流れに対して斜めに架橋されているところから筋違の名がつきました、この筋違橋は長さ六間、幅二間で欄干付の板橋でした。

次いで左に入ると
岡瀬沢観音堂があり、境内には石仏石塔があります。

緩やかな上り坂を進むと左手に
庚申塔があります、岡瀬沢は庚申講が盛んでした。

先の右手にも
庚申塔があります。
筋違橋 岡瀬沢観音堂 庚申塔 庚申塔

 上り坂を進むと県道410号線は左にカーブしますが、ここを直進(白色矢印)し、石畳風の歩道に入り、正面の階段を上ります、この階段が根津甚平にちなむ甚平坂です。

広重は
大井として、雪の甚平坂を描いています、右の山は恵那山、左奥の白い頂きは御嶽山です。

甚平坂は短いが急坂で旅人に嫌われていました。
甚平坂東口 甚平坂 木曽海道六十九次之内 大井 広重画

 明治十三年(1880)
明治天皇の通行に際し、坂の頂上を2m程掘り下げて、二頭立ての馬車を通しました。

 甚平坂を上り詰めると左手に馬塚と犬塚があります。

昔、信濃國の桔梗が原に
八重羽のきじという化け鳥がいました、口ばしは槍のように尖り、羽根は刃のように鋭く、羽風に当たると災いが起きるといい、里人や旅人の命を奪いました。

鎌倉幕府は
根津甚平に化け鳥退治を命じました、甚平は馬に乗り、犬と鷹を連れ、多くの家臣と背子(せこ)を引き連れて化け鳥を追い、この坂に追い詰めました。

しかし
はここで倒れ、犬と鷹はなおも追い続けたが、は日吉(現瑞浪市)で力尽きてしまった、そこで里人はこの坂にの亡骸を葬ったといいます。

坂の右手の展望台からは
恵那山御嶽山が一望出来ます。
馬塚犬塚 甚平坂西口

 甚平坂の上り詰めを右折(白色矢印)し、回り込んできた
県道410号苗木恵那線に再び合流します、この分岐点には甚平坂道標「←大井宿 1.2km/中津川宿 9.2km↓」があります。

 スグ先の左手段上に祖霊社根津神社が祀られています、本殿裏の関戸宝篋印塔(岐阜県重要文化財)は源頼朝の御家人で信州の人といわれる根津甚平の墳墓又は供養塔といいます、この宝篋印塔は鎌倉期造で県内で最大を誇ります。

街道に戻ると、向いの段上に中央線トンネルに使用した
レンガ粘度採取場解説があります、レンガ焼き場をレンガ場といい、訛ってれんだばともいいました、並びに馬頭観世音文字塔等の石仏石塔群があります。

左手の池を越すと、左手の奥に
中山道関戸一里塚跡碑があります。
祖霊社根津神社 関戸宝篋印塔 粘度採取場 関戸一里塚跡

 碑には「江戸日本橋より八十七里」と刻まれています、北塚は
、南塚はでしたが、大正の頃に取り壊されました。

 坂を下った先を斜め左(白色矢印)に入ります。

右手(黄色矢印)は
正善寺跡です、境内跡には大井鬼子母尊神碑明治天皇行在所御舊址是より三丁碑等があります。

街道に戻り突当りを左折し、
蓮華寺坂を下ると左手の段上に石塔群があります、右手の長石塔は長国寺四世丹山和尚が村内安全を祈願し、延宝八年(1680)に建立したものです。

スグ先で
中央自動車道恵那峡橋で跨ぎます。
関戸分岐 正善寺跡 石塔群 恵那峡橋

 街道は正面(白色矢印)の階段を下ります。

右手には
菅原神社が鎮座しています、慶長年間(1596〜1615)の創建で、いわずと知れた学問の神菅原道真を祀っています。

左(黄色矢印)に進み、明知鉄道線を越すと左手に曹洞宗稲荷山
長国寺があります、聖徳太子百済の香木で一尺二寸程の観音像を彫って法隆寺夢殿に安置したところ、金色の光を放って東へ飛び立ち、大井の地に降りました、これを安置したのが長興寺の始まりです。

根津甚平は子宝に恵まれなかったが、文治三年(1187)妻と共に長興寺妊観音に祈願したところ、一子小太郎を授かりました。
寺坂上 菅原神社 長国寺

 喜んだ甚平は兵火で荒れた
長興寺を再建し、寺地を寄進して長国寺と改めました。

 菅原神社前に戻り、長国寺にちなむ寺坂(階段)を下ります、目の前には大井宿が一望です!

階段を下り切ると、右手に上宿の八人の
女講連中が建立した馬頭観音像があります。

次いで右手に
馬頭観音庚申塔五輪塔徳本名号碑痰切(たんきり)地蔵等、十五基が祀られています、上宿は宿外れで、これらの石仏は宿内への悪霊の侵入を防いでいます。

街道を
山本用水が横切っています。
寺坂 馬頭観音 上宿石仏群 山本用水

 この辺りの田畑は
水不足で困窮していました、そこで安永元年(1772)東野山本から阿木川の水を灌漑用水として引きました。

 PM12:19 大井宿着 大湫宿まで12.7km

 明智(あけち)鉄道中津架道橋でくぐると、左手に大きな南無阿弥陀佛名号碑があります、武蔵國の新井長左衛門は母を伴い伊勢参りの帰途に大井宿のいろは旅館に泊まり、そこで病に罹った母親を亡くしました、その亡き母の供養の為、享和三年(1718)にこの名号碑を建立しました。

五妙坂を下ると右手に3/4に縮小された高札場が復元されています、大井宿に到着です!

大井宿は西に難所十三峠を控え、岩村街道秋葉道下街道と交差し、善光寺伊勢神宮熱田神宮への参拝客、そして尾張へ向かう商人や牛馬荷物の往来で賑わい、美濃十六宿中で最も繁栄しました。

宿並は
横町本町竪町茶屋町橋場で構成されました。
明知鉄道線 名号碑 高札場

 そして宿並には六ケ所の
枡形が配されていました。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によると大井宿宿内家数は百十軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠四十一軒で、宿内人口は四百六十六人(男二百四十五人 女二百二十一人)でした。

 横町川上横橋で渡り、突当りの一つ目の枡形を左折(白色矢印)し横町に入ります。

この枡形の右手(黄色矢印)には真言宗醍醐派
延壽院横薬師があります、天文年間(1532〜55)の創建で、本尊の薬師如来行基作といいます。

宿並と進むと
T字路に突き当たります二つ目の枡形です、枡形手前の左手が林本陣跡です、間口四十二間(約76m、奥行二十二間(約40m)の敷地に建坪百五十坪の屋敷でしたが昭和二十二年(1947)の火災で焼失してしまいましたが、安土桃山様式を伝える本陣門を残しています。

皇女和宮は林本陣にて昼食を摂りました、門脇の黒松はその際、記念に植樹されたものといいます。
枡形 延壽院 林本陣跡

 残念ながらこの松は枯れ死し、平成二十年(2008)に伐採されました、その際、年輪が確認され樹齢が約二百四十年と確認されました、現在の松は二代目です。


 枡形を左折(黄色矢印)し、本陣裏を回り込むと内城稲荷が祀られています、この辺りは内城といい、中世から戦国時代にかけて豪族の居館か砦があった所です。

稲荷社の脇に
源斎の根付け石があります、剛勇無双の武将吉村源斎が伊勢参りに行った際、煙草の根付けに手頃だということで五十鈴川で拾ってきたものといいます。

稲荷社の下に
和宮泉(せん)があります、本陣林家の常用井戸でした。

この井戸水は
皇女和宮が当家にて昼食を摂った際に供されました。
稲荷&和宮泉 内城稲荷 源斎の根付け石 和宮泉

 同好の
水見役の山城守はこの井戸水を検水し「良水これに勝る水なし」と絶賛し、汲み上げた井戸水を和宮が宿泊する中津川宿まで運びました。

 本陣角の枡形に戻り、本町を進むと左手に中山道ひし屋資料館があります、大井村庄屋古山家跡です。

古山家は屋号を
菱屋といい、酒造と商売をしていました、そして享保年間(1716〜35)から幕末まで約百五十年間、大井村の庄屋を勤めました、今の建物は明治初年に上宿より移築したものです。

次いで右手に
宿役人の家があります、林家は文化二年(1805)に本陣家より分家して以来、明治に至るまでの六十余年間、代々大井宿役人の問屋役を勤め、名字帯刀が許されました。

宿役人は
問屋(最高責任者)、年寄(問屋の補助役)、その下役人に人足指(人足の指図をする役)、馬指(馬の指図をする役)、書役などがあり、幕府道中奉行の命をうけ道中の荷物や人の輸送、飛脚などの継立事務を行う、宿場の最も重要な役人でした。
菱屋 宿役人の家

 水戸天狗勢一行は宿口で正装した宿場役人の出迎えを受け、幹部は脇本陣に、隊士は旅籠その他に分宿しました。

 左手が脇本陣下問屋場跡です、高木善右衛門が脇本陣を勤め下問屋場を兼ねました、建坪八十五坪でしたが遺構は残されていません。

問屋場は幕府の命により毎日用意している人足五十名と馬五十疋を使い、これでも不足するときは助郷村の人馬を集めて、隣宿の中津川宿や大湫宿まで、主として公用荷客の輸送にあたりました。

右手の旧家は
旅籠兼商家を営んでいた伊藤弥兵衛家(現岩井家)の屋敷跡です、建物前の右手に明治天皇大井行在所碑、左手に明治天皇行在所舊址碑があります、明治十三年(1880)六月明治天皇御巡行の際、当家は宿所になりました、宿泊した奥座敷次の間等が今も当時のままに残されています。
下問屋場跡 伊藤家跡 枡形

 
旅館いち川の手前を右折(白色矢印)します、三つ目の枡形です、本町から堅町に入ります。

 旅館いち川は往時旅籠屋角屋でした、解説には「写真は旅籠屋角屋の正面だが、木曽路に多い出桁造となり、取外しのできる格子戸がはまり、軒には講札が多くかけてある。その右側は特殊な方の出入り門となっていた。」と記されています。

堅町を進むと左手に豪壮な
大井村庄屋古屋家があります、当家は商業を営み、天保元年(1830)から二十年間ほど庄屋を勤めました。

母屋や塀は柱、梁、たる木も土壁で塗り、北側屋根に卯建をつけ、そのうえ北側の土塀は厚さ約一尺の
火防壁(ひよけかべ)として、全体が火災予防の建物となっています。
旅籠屋角屋(見付屋) 明治初年撮影 大井村庄屋古屋家

 堅町を進むと正面に市神神社があります、貞享五年(1688)に現在の大井橋上流付近に鎮座していましたが、河川の増水や洪水で境内が安定せず明治二十五年(1892)現在に遷座しました。

この地は昔から良質の
煙草を産し、例祭である七日市は元々正月七日に行われた煙草市に由来し、昭和初期までは田の神を迎える為に煙草の花を模した福団子を食するのが慣わしだったと伝えられています。

市神神社の手前が四つ目の枡形です、左折(白色矢印)すると茶屋町に入ります。

右手のマンション手前に
白木番所跡(解説)があります、番所には尾張藩の役人が常駐して、木材製品の監視のほか、領内の山林の見回り、各村々の木材の伐採申請の検分などを行いました、木曽の木材は木曽川に流し、八百津町で筏に組み、名古屋、桑名方面へ下ろしていました。
市神神社 白木番所跡

 このため木曽川沿いの
奥戸久須見小僧が屋敷横樽等に川並番所があり、その取締りもこの番所が行っていました。

 突き当りを左折(白色矢印)すると橋場に入ります、五つ目の枡形です。

先の
T字路を右折(白色矢印)します、六つ目の枡形です、これにて大井宿の枡形トレースは終了です、京方面からは右手の御菓子処大津屋前を左折します。

スグ先で宿並は
阿木川に突き当たります、ここが大井宿の京(西)口です。

阿木川大井橋で渡ります、阿木川焼山に源を発し、流末は木曽川に落合います。

大井橋は長さ二十三間(41m)、幅二間(3.6m)の欄干付きの木橋でした。
枡形 枡形 阿木川

 この橋が出来る天保年間(1830〜44)以前は阿木川の中央に石の
小島を作り、そこの両側から橋を架けて川を渡っていたところから中島橋と呼ばれました。

 中央通1丁目交差点の右はJR中央本線恵那駅です、ここが大井宿の起点です、サア、昼食にしましょう、夏の太陽はガンガン照りつけ、街道はアップダウンの連続です、そして大湫宿迄は更なる急峻が待ち構えています。

食事処
ひかりで補給です、生ビールで喉を潤し、素朴な味わいの中華五目ソバを頂きました!

街道に戻ると中年の
街道ウォーカーと出会いました、実はこの街道ウォーカーとは中平辺りから着かず離れずの距離を保っていました、しかし大井宿に入ると撮影回数やメモが多く、離されてしまいました。

「食事したんですか?」と声をかけると、「いいえ、それよりもここは何処ですか?」と尋ねられてしまいました。
食事処ひかり 生ビール 中華五目ソバ

 「失礼ですが、どの様な
地図で歩かれています?」、見せて頂いた地図は案の定イラストマップでした。

 ハッキリいって、イラストマップでは正確に歩けません、まして曲がりくねった街道を直線に描いたイラストマップは最悪です!

一旦、
分岐ポイントを見落としてしまうと迷道間違いなしです、正確な縮尺の地図であれば、微妙なカーブでも現在位置が把握でき、先の類推が可能になります!!

ですからイラストマップは
地図ではなく、単なる絵に過ぎません、お気を付け下さい!!!

 中央通1交差点を渡った左手に大正時代創業の菊水堂があります、銘菓栗きんとんの老舗です。

左右にうねる街道を進むと左手に、蔵造りの
中野村庄屋の家があります、屋号を本酒屋といいました。

皇女和宮通行に際し、大湫宿の助郷村であった
野井村が、岩村藩代官より強制的に賄役(まかないやく)を命ぜられました、このことを不満に思った野井村百姓代表熊崎新三郎は、和宮通行が終わったあと、中野村庄屋宅に滞在していた岩村藩代官吉田泰蔵に斬りつけました。

野井村は岩村藩に代官の強要を訴え出たところ、代官は罷免され、野井村に金二十五両が下付されました。
菊水堂 中野村庄屋の家 浸水防止壁

 建物脇に大きな溝が刻まれた
浸水防止壁用の石柱があります、目の前の永田川は度々洪水を起こしました、そこでこの石柱の溝に板をはめて浸水を防ぎました。

 長島橋手前を左に回り込むと左手に中野観音堂があります、入母屋造り回り縁の観音堂に本尊の阿弥陀如来立像、その他に弘法大師像三十三観音像等が安置されています。

観音堂の前に寛政八年(1796)建立の
秋葉常夜燈があります。

常夜燈脇には
中野村高札場跡標柱があります。

木曽川水系阿木川支流の
永田川長島橋(おさしまはし)で渡ります、往時は洗橋(後に大井橋)と呼ばれていました。
観音堂&常夜燈 高札場跡 長島橋 永田川

 スグ先の信号交差点を左折(白色矢印)します、京方面からは坂の上交差点先の信号交差点を右折します、この分岐点には中北道標「←恵那駅 0.7km/西行塚 1.4km→」があります。

先で
坂の上交差点五差路に突き当たります、ここには恵那市長島町中野歩道橋があります。

国道19号線
多治見方面に進みます、京方面からは恵那駅方面に進みます、この分岐点には中山道道標「←中野観音堂約200m/西行硯水約300m→」があります。

多治見方面に進むと左手の丘上に
豊玉稲荷大明神が祀られています。
中野分岐 坂の上分岐 豊玉稲荷大明神

 街道を進むと左手に上町観音堂標石があります、路地を進むと正面に観音堂があります。

街道に戻り、新田バス停を過ぎると左手に
西行硯水公園があります、園内に西行硯水(すずりみず)があります。

西行北面の武士でしたが突如出家し、文治二年(1186)奥州平泉に行脚し、信州善光寺に詣でた後、木曽路を経て美濃に入り、この地に竹林庵を結び三年間居住しました。

歌人でもある西行はここの
泉水硯水として使用しました。

園内には
西行歌碑「道の辺に 清水流るる 柳かげ しばしとてこそ 立ち留りつれ」があります、 傍らには奚花坊(けいかぼう)句碑「陽炎や ここにもふじ見の つえの跡」があります。
上町観音堂 西行硯水

 
奚花坊は蕉風の伝統を継ぐ美濃の俳人で天保十四年(1848)馬籠新茶屋芭蕉句碑建立句会に招かれた時に詠んだものです。

 国道沿いの右手二ケ所に中山道燈籠モニュメントが配されています。

左手に
神明神社の鳥居と常夜燈があります、参道を進むと丘上に社殿が鎮座しています、寛保四年(1744)の創建で、この地の産土神です、境内には夫婦杉の大樹があります。

二つ目の
中山道燈籠モニュメント先の横断歩道を渡り、斜め右(白色矢印)の上り坂に入ります、この分岐点には西行塚西三丁と刻まれた大きな道標があります。

京方面からは突当りの
国道を左折します。
中山道燈籠 神明神社 西行塚分岐 西行塚道標

 坂を上ると右手に立派な御影石製の中山道大井宿解説歴史の道中山道図があります。 

JR中央本線を
仲仙道踏切で横断します、京方面からは正面のY字路を左に進みます。

踏切を渡り、即左(白色矢印)に進みます、この分岐点には
中山道道標「←西行硯水 約200m/西行塚 約350m→」があります。

ここからは一気に長閑な田畑の中の道になります。
中山道解説 仲仙道踏切 田園の中 西行橋

 道なりに進み
田違川西行橋で渡ります、ここには中北道標「←JR恵那駅 1.8km/中山道十三峠の道 西行の森 1.0km 西行塚 0.3km→」があります。

次いで
中央自動車道恵那高架橋でくぐり、道なりに左に進みます、西行橋からの道筋は中央自動車道の敷設により消滅した旧道の迂回路です。

 上り坂を進むと左手に中北道標「←JR恵那駅 2.0km/中山道十三峠の道 西行の森 0.8km 西行塚 0.1km→」、そして是より西十三峠碑があります、ここから中央自動車の敷設で消滅した旧道が復活します。

十三峠は
十三峠におまけが七つと呼ばれ、美濃路の難所でした。

十三峠は
西行坂の石畳道から始まります、踏み込むと右手に寛政十年(1798)建立の馬頭観音像があります、旅人の安全を見守っています。

次いで右手に
案内標識「五輪塔 展望台→」があります、ここから丸太階段を上ると右手に西國四國巡拝供養塔、左手に右西行塚道標があります。
十三峠碑 馬頭観音 巡拝供養塔

 上り坂を進むと西行塚があります、塚上には五輪塔が祀られています。

西行は諸国行脚の途中、この地に竹林庵を結び暮らしました、西行は自分の死期を悟ると村人を呼び「私はこの夜半、土に還る、遺体は中野坂(現西行坂)に葬ってほしい」と頼み、その夜西に向って合掌し、立ったままで入寂しました。

長国寺にて葬儀を行い、丁重に中野坂の頂に埋葬されました、塚に立つ五輪塔は高さ1.44mで県文化財です。

西行坂を進むと左手に
トイレがあり、手前に中北道標「←JR恵那駅 2.1km/中山道十三峠のみち 東海自然歩道槙ケ根合流点 1.3km→」があります、この向いに西行苑解説があり、ここを入ると西行歌碑芭蕉句碑があります。
西行塚 西行歌碑 芭蕉句碑

西行歌碑「待たれつる 入相のかねの 音す也 あすもやあらば きかむとす覧」
芭蕉句碑「西行の わらじもかかれ 松の露」

 石畳から砂利道に変わった西行坂をグングン上ると槙ケ根の一里塚があります。

両塚とも現存しています、塚木の榎は消滅しています、江戸日本橋より数えて八十八里目です。

一里塚の並びには
東屋(休憩小屋)やトイレがあり、先の左手に桜百選の園碑があります、この辺りは西行の森と呼ばれの名所です。

ここからは
恵那山、そして恵那市市街が一望です。
槙ケ根一里塚(南) 槙ケ根一里塚(北) 桜百選の園碑 恵那山

 峠道には中北道標中山道石柱青色歴史の道道標等が配されています。

先で
車道(黄色線)を横断(白色矢印)します、この横断点には中北道標「←西行塚 1.1km 西行の森 0.4km/中山道十三峠のみち 東海自然歩道 槙ケ根合流点 0.2km→」があります。

スグ先の
突当り(T字路)を左折(白色矢印)します、京方面からは斜め右の下り坂に入ります、この分岐点には中北道標青色歴史の道道標「←中山道→」があります。
中山道石柱 車道横断 T字路分岐 茶屋水戸屋跡

 舗装路を進むと左右に
茶屋榎本屋跡茶屋水戸屋跡の小さな標柱があります。

 セントラル建設恵那アスコンセンターの出入口の所から槙ケ根坂旧道に入ります、この分岐点には青色歴史の道道標「←中山道→」があります。

槙ケ根坂を進むと左手に槙ケ根立場跡があります、江戸時代の末頃、ここには榎本屋水戸屋東国屋中野屋伊勢屋などの屋号を持つ茶屋が九軒ありました。

往時は中山道の旅人に加えて、木曽や尾張方面の商人荷、それに善光寺や伊勢神宮等の参拝者が行き交い大いに賑わいました。

立場の並びに
伊勢神宮遥拝所がありました、注連縄を張った小社が鎮座していました。

伊勢神宮参拝の人はここで中山道と別れて
下街道を西へ向いましたが、一般の旅人はここで手を合わせ遠く伊勢神宮を遥拝しました。
槙ケ根坂口 槙ケ根立場跡

 先に進むと左手に明治八年(1875)建立の下街道追分道標があります、道標の上部に伊勢神宮の鳥居が彫られ、その下に「右西京大坂 左伊勢名古屋 道」と刻まれています。

道標の先に
下街道追分があります、左の下り坂(黄色矢印)が下街道です、これに対して中山道(白色矢印)は上街道と呼ばれました。

下街道は、竹折、釜戸から高山(現土岐市)、池田(現多治見市)を経て名古屋へ至ります、この道は途中に内津(うつつ)峠の山道がありますが、土岐川沿いの平坦地を進み、付近には人家も多く、そのうえ名古屋までの距離は上街道より四里半(約十八キロ)も、近かっため下街道は一般旅行者に加えて商人や伊勢神宮の参拝者で大変賑わいました。

しかし
幕府は中山道の宿場保護のため下街道商人の通行を禁止し、尾張藩も厳しく取り締まったが徹底することができず、幾度も訴訟裁定を繰り返しました。
追分道標 下街道追分

 槙ケ根坂を進むと右手に東海自然歩道道標「←紅坂一里塚 四ツ谷/槙ケ根 野井→」があります、長らくお世話になった中北(中部北陸自然歩道)道標とはお別れです。

槙ケ根中部北陸自然歩道東海自然歩道の分水嶺です。

槙ケ根坂を進むと右手斜面に
馬頭観音像が祀られています。

次いで右手の木製階段を上ると
姫御殿跡があります、ここは祝峠と呼ばれ、近くに松の大木があり、松かさ(松の子)が多くつき、子持松といい、この子持松の枝越しに馬籠(孫目)が見えるため、子と孫が続いて縁起が良い場所といわれました。

皇女和宮通行の際、
岩村藩の御用蔵から運んだ無節のヒノキの柱や板と白綾の畳を敷いた御殿を建て休憩所としました。
東海自然歩道 馬頭観音 姫御殿跡

 先に進み、左手の木製階段を上ると首なし地蔵が祠内に安置されています。

この
地蔵は宝暦六年(1756)地元(武並町美濃)の人達が、旅人の道中安全を祈って造立したものです。

昔、二人の
中間(ちゅうげん)が、ここを通りかかり、夏のことで汗だくでした、「少し休もうか」と松の木陰で休んでいるうちにいつの間にか二人は眠ってしまった、しばらくして一人が目覚めてみると、もう一人は首を切られて死んでいました、びっくりして辺りを見回したがそれらしき犯人は見あたらなかった、怒った中間は「黙って見ているとはなにごとだ!」と腰の刀で地蔵の首を切り落としてしまった。

それ以来何人かの人が、
をつけようとしたが、どうしてもつかなかったといいます。
首なし地蔵口 首なし地蔵

 首なし地蔵からは急な下り坂になります、右手に自然石の乱れ坂碑があります、乱れ坂は急坂で、大名行列が乱れ、旅人の息が乱れ、女の人の裾も乱れる程の急坂であったところに由来しています。

左右に曲がる
乱れ坂を下ると右手に中山道石柱青色歴史の道道標「←乱れ橋へ70m/中山道/首無し地蔵へ220m→」があります、ここから石畳道になります。

乱れ坂の途中に
下座切場跡(標柱)があります、村役人が裃を着用して土下座し、幕府の役人を出迎えた所です。

乱れ坂を下り、
乱れ川乱れ橋で渡ります、乱れ川(現四ツ谷川)は石も流れるほどの急流であったといいます、乱れ橋飛脚達が出資して宝暦年間(1751〜63)に架橋しました。
乱れ坂碑 下座切場跡 乱れ橋

 乱れ橋は
土橋で長さ7.2m、幅2.2mでした、荷を積んだ馬(荷駄)一頭につき二文ずつを徴収する有料橋の時もありました。

 みだれ橋を渡ると旧道は右からの舗装路に吸収されます、京方面からはY字路を右(白色矢印)に進みます、この分岐点には中山道石柱東海自然歩道道標「←槙ケ根 1.2km/紅坂一里塚 1.7km→」があります。

緩やかな上り坂を進むと民家が現れます、十字路手前の右手に
東海道自然歩道道標石州さま標柱があります。

人家の中の
お継原坂(うつ木原坂)を上ります、十字路を越すと右手に東海自然歩道道標「←紅坂一里塚/槙ケ根→」があり、先の左手のガレージ手前に竹折村高札場跡(標柱)があります。

村外れの
Y字路を左(白色矢印)の砂利道に入ります、この分岐点には中山道石柱東海自然歩道道標「←紅坂一里塚 0.6km 10分/槙ケ根 2.3km 40分→」、青色歴史の道道標「←中山道→」、そして熊出没!入山注意標識があります。
逆Y字路 かくれ神坂分岐

 車の轍を進むと右手にかくれ神坂標柱があります。

次いで右手に
(さい)の神標柱があります、 道祖神の一種で(さい)の神です、ここは久須見村竹折村の境で悪霊の侵入を見張っています。

先に進み、小さな
国集橋を渡るとY字路になります、右(白色矢印)に進みます、この分岐点には中山道宿場めぐりのみち丸太道標「←深萱・紅坂一里塚/中部北陸自然歩道槇ケ根合流点→」と中山道石柱があります。

先に進むと左手に
東海自然歩道道標「←四ツ谷/紅坂一里塚→」、そして左手に自然石の平六坂碑があります、先の右手に平六茶屋跡(標柱)があります。
かくれ神坂 かくれ神坂Y字路 平六坂碑 平六茶屋跡

 田園風景の中の平六坂を進むと右手の農家前にびやいと茶屋跡(標柱)があります、枇杷湯糖は枇杷の葉に薬草を加えて煎じたもので名物でした。

先の右手に
夫婦岩跡(標柱)があります、踏み込むとそれらしき大石があります。

先に
紅坂の一里塚があります、両塚(岐阜県史跡)が現存しています、往時は両塚にはエノキが植えられていました、江戸日本橋より数えて八十九里目、京へ四十五里です。

先の左手に
うばケ出茶屋跡があります。
夫婦岩跡 紅坂一里塚(南) 紅坂一里塚(北) 紅坂石畳

 この先から急な石畳の
紅坂を下ります。

 紅坂を下ると石畳の中にぼたん岩があります、花崗岩が牡丹の花びら状になっています、学術的にはオニオンクラック(玉葱状剥離)と呼ばれます。

次いで右手に自然石の
中山道紅坂碑があります。

紅坂を下り切ると右手に
東海自然歩道道標「←深萱立場 0.8km 10分/紅坂一里塚 0.3km 5分→」があり、並びにうばが茶屋跡(標柱)があります。

次いで小さな木製欄干の
紅坂橋が現れます、紅坂の石畳はここ迄です。
ぼたん岩 紅坂碑 うばが茶屋 藤村

 左手の民家前に馬茶屋跡(標柱)があります、次いで右手民家脇にふじ道碑があります。

数軒の民家を抜けて下り坂を進むと右手に
黒すくも坂標柱と自然石の中山道黒すくも坂碑があります。

田畑に沿う、明るい黒すくも坂下ると人家が現れ、右手に三社灯籠があります、嘉永七年(1854)に深萱立場茶屋本陣当主加納三右衛門が建立したものです。

三社灯籠から右に入ると
深萱神明神社の鳥居脇に芭蕉句碑「山路来て 何やらゆかし すみれ草」等があります。

三社灯籠向いの段上に
佐倉宗五郎大明神が祀られています、農民騒動を指導した義民佐倉宗五郎を祀っています。
黒すくも坂 三社灯籠 佐倉宗五郎碑

 三社灯籠から神明神社への横道を横断するとよごれ茶屋跡(標柱)があります。

藤川に沿って進むと右手に東海自然歩道道標青色歴史の道道標があります。

この先で
藤川藤大橋で渡り、突き当りの国道418号線を左折(白色矢印)します。

国道を進むと右手に
藤村高札場が復元されています、高札は当時の大きさで、尾張藩用のものを書写したものです。

高札場の傍らには
庚申塔等の石塔が並んでいます。
よごれ茶屋 藤大橋分岐 高札場 石塔群

 国道をわずかに進むと右手に深萱(ふかがや)立場解説(黄色四角囲)があります、立場には茶屋本陣(加納家)、茶屋馬茶屋など十余軒の人家がありました。

馬茶屋は馬を休ませる茶屋で、軒を深くして、雨や陽射しが当たらないような工夫がされていました。 

深萱立場解説先を右折(白線矢印)します、この分岐点の右手に東海自然歩道道標があります。

先の右手に
山形屋標石があります、深萱立場茶屋跡です。
深萱立場解説 Y字路 山形屋 Y字路

 
ここは中山道の深萱立場解説先のY字路を右(白色矢印)に進みます、この分岐点の右手には東海自然歩道道標「↑大久後/深萱立場→」があります。

 西坂を上ると左手に茶屋跡(白色標柱)があります。

坂の上の民家手前の右手に自然石の
中山道西坂碑があります。

次いで左手のガレージ手前に小さな
チンチン石標識があります、ここを左に入ると読経塔の前にチンチン石があります、置いてある石で叩くと金属音が響きます。

人家を過ぎると
土道になります、左手に中山道石柱馬茶屋跡(標柱)があります。

土道を進むと
茶屋坂石畳道になります。
西坂 西坂土道 馬茶屋跡 茶屋坂石畳道

 丸太の車止めを越えて進むと、林の中を抜け開けた上りの茶屋坂になります。

草むした
石畳を左に上り、車道を横断し、背の低い石垣に沿う、石段の上り坂に入ります。

ここには
東海自然歩道道標「←大湫・大久後/槙ケ根・深萱・JR武並駅→」があります。

再び林の中を進むと右手に
みつじ坂標柱があります。

平らな場所に出ると右手に
三城(みつしろ)峠標柱があります、三城とは、権現の三城が峠から眺められるところに由来しています。
茶屋坂草道 茶屋坂石段 三城峠 ばばが茶屋跡

 三城峠標柱の向いに自然石の中山道茶屋坂碑があります。

茶屋坂碑の後方に
ばばが茶屋跡(標柱)があります、三城峠の頂上にさんが営む茶屋がありました。

石垣が積まれた
茶屋坂の急坂を下ると、車道に突き当たります、左折し車道を進みます。

この分岐点の手前右手に
下座切場跡(標石)、中山道石柱、向いに中山道歴史の道解説板があります、中山道を通行した参勤大名は、前田家(加賀)、遠山家(美濃苗木)、永井家(美濃加納)等三十家で、東海道を通行する大名家の1/5でした、そして青色歴史の道道標「←中山道→」、東海自然歩道道標があります。
茶屋坂碑 舗装路分岐 中山道碑

 そして車道の右手に
中山道碑があります、是より藤と刻まれています、恵那市武並町藤と瑞浪市釜戸大久後の境です。

 長閑な車道を進むとY字路が現れます、右(白色矢印)に進みます、この分岐点の左には青色歴史の道道標「↓中山道→」があります。

上り坂を進むと左手に
大久後(おおくご)の向茶屋跡(標柱)があります、ここの平坦地を茶屋ケ原といいました、難所十三峠の処々に茶屋がありました、今は自販機すらありません。

向茶屋跡を過ぎると下り坂になります、先の
Y字路を左の草道の観音坂に入ります、この分岐点には東海自然歩道道標「←0.5km 10分 大久後/武並(武並)↓」があります。

Y字路右(黄色矢印)は
新道坂です。
車道Y字路 向茶屋跡 観音坂口 新道坂

 砂利道の観音坂を進むと左手に大きな大久後観音坂石柱があります。

階段状になった観音坂を上ると
中山道歴史の道観音坂と馬頭様解説板があります。

奥の
大岩上に観音坂の馬頭様(馬頭観音像)が安置されています、旅人の交通安全を見守っています。

次いで右手の段上に
観音坂の霊場巡拝碑があります、天保二年(1831)建立の奉納 西国 四国秩父坂東供養塔です。

先で
観音坂新道坂に突き当たります。
観音坂の馬頭様 巡拝碑 観音坂西口 新道坂合流

 左折し
新道坂を進みます、この分岐点には東海自然歩道道標青色歴史の道道標「↑中山道→」があります。

 下り坂を進むと左手に灰くべ餅の出茶屋跡(標柱)があります、灰に直接くべて焼いた餅が名物でした。

急坂を下ると
大久後村に入ります、京方面からはY字路を左に進みます。

この分岐点には
東海自然歩道道標「←大湫 3.3km 70分/武並 2.5km 50分→」があります。

大久後村を抜けると西外れの右手に
大久後の観音堂と弘法様(標柱)があります、石段を上ると祠内に弘法石造座像が安置され、並びに観音堂があります。
出茶屋跡 大久後村東口 弘法様 観音堂

 ここから急な上りの権現坂を進みます、次いで鞍骨坂を上ります。

鞍骨坂を上り切ると右手に
刈安神社の参道階段口があります。

社殿は
権現山の頂上に鎮座しています、ここは東濃十八砦権現山城跡です、城主が合戦に敗れ自刃すると、明暦三年(1657)里人が城主を刈安権現と称し創祀しました。

スグ先が
炭焼き立場跡(解説)です、権現山の麓で特に旅人に親しまれた立場でした。

炭焼立場の西外れから
土道になります。
権現坂 鞍骨坂 刈安神社 炭焼立場西外れ

 砂利の轍道を進み、林の中に入ると吾郎坂標柱があります、砂利道の吾郎坂を上ります。

丸太の車止めを過ぎると
樫ノ木坂石畳道の上り坂になります。

石畳道を進むと
権現山の一里塚の両塚が現存しています、慶長八〜九年(1603〜4)十三峠の新道敷設にともなって築かれ、樫ノ木坂の一里塚とも呼ばれました(瑞浪市史跡)、江戸日本橋より九十里目、京へ四十四里です。

右塚の手前に自然石の
十三峠の内中山道樫ノ木坂碑があります、碑面には太田南畝(なんぽ)の壬戌紀行(じんじゅつきこう)「一里塚を過ぎ 樫の木坂を下りて 俗に炭焼の五郎坂と云うを下れば炭焼の立場あり 左に近く見ゆる山は権現の山なり しばし立場に輿立てて憩う」と刻まれています。
吾郎坂 石畳道 権現山の一里塚

 巡礼水の坂を進み中仙道ゴルフ倶楽部の細いカート道(舗装路)を横断し、ゴルフコースに沿って進みます。

右手に
巡礼水があります、ここで病気になった巡礼の母娘が念仏を唱えると目の前の大岩から清水が湧き出したというお助け水です、八月一日には必ず湧き出たといいます。

段上には宝暦七年(1757)建立の
馬頭観音像が祀られています。

巡礼水の傍らに自然石の
中山道順礼水碑があります。
ゴルフカート道 中仙道GC 巡礼水 順礼水碑

 碑面には
太田南畝壬戌紀行「坂を下りゆくに 左の方の石より水流れ出るを巡礼水という 常にはさのみ水も出ねど八月一日には必ず出するという むかし巡礼の者此の日此所にてなやみ伏しけるが この水を飲みて命助かりしより 今もかかることありといえり」が刻まれています。

 石畳の一部残す巡礼水の坂を進み、カート道車道の二ケ所を横断します。

びあいと坂を下ると自然石の中山道曽根松坂碑があります、碑面には太田南畝壬戌紀行「少し下りて また芝生の松原を登りゆくこと四五町 あやしき石所々にそば立ちて赤土多し 曽根松の坂という」が刻まれています。

曽根松坂を下ると、少し開けた所に中山道十三峠阿波屋の茶屋跡碑があります、おつる婆さんが営んだ茶屋跡です。

次いで右手に天保十一年(1840)に建立された
三十三所観音石窟があります。
巡礼水の坂石畳 びあいと坂 阿波屋の茶屋跡 三十三観音石窟

 石窟内には道中安全を祈る、三十三体の
馬頭観音が安置されています、これらの観音は十三峠を往来する大湫宿馬持ち連中助郷に関わる近隣の村々から寄進されたものです。

石窟前の
石柱には定飛脚嶋屋、京屋、甲州屋を始め奥州、越後の飛脚才領、松本や伊那の中馬(ちゅうま)連中が出資者として名を連ねています。

 阿波屋茶屋のおつる婆さんにちなむおつるが茶屋坂の砂利道を下ると左手の清水の上に尻冷やし地蔵が安置されています。

宝永八年(1711)伊勢の豪商
熊野屋夫人が十三峠で急病になった時、この湧き水で助かり、それに感謝して地蔵を建立しました、以来お助け清水と呼ばれ、旅人はもちろん、参勤大名も愛飲したといいます。

お地蔵さんの後ろから清水が湧き、まるで尻を冷やしているように見えるところから尻冷やし地蔵と呼ばれました。

傍らに自然石の中
山道尻冷やしの地蔵尊碑があります、碑には太田南畝壬戌紀行「地蔵坂という坂を上れば右に大きな杉の木ありて地蔵菩薩たたえ給う」が刻まれています。
おつるが茶屋坂 尻冷やし地蔵 地蔵坂

 地蔵坂を下り切った所で車道を横断し、向いの旧道に入ります、この横断点には東海自然歩道道標青色歴史の道道標があります。

舗装された
しゃれこ坂を上ると砂利道になり、左手に自然石の中山道しゃれこ坂(八町坂)碑があります。

碑面には
太田南畝壬戌紀行「曲りまがりて登り下り 猶(なお)三四町も下る坂名を問えばしゃれこ坂という 右の方に 南無観世音菩薩という石を建つ 向こうに遠く見ゆる山はかの横長岳(恵那山)なり」が刻まれています。
大湫口 しゃれこ坂 しゃれこ坂碑 観音碑

 碑の後には
八丁坂の観音碑があります、南無観世音菩薩と刻まれています。

この
しゃれこ坂十三峠最後の上り坂です、標高は約540mで十三峠の中で最も高い地点です、ここからは下りになります。

 鬱蒼とした木立の中を進むと、明るく開けた道になります、左手の斜面には茶畑が広がります。

再び木立の中に入るも、スグに開けます、ここが
山之神坂です、往時は右手の段上に里に実りをもたらす山之神小祠があったといいます。

赤土の下り坂を進むと右手に自然石の
中山道十三峠童子ケ坂碑があります。

緩やかな
童子ケ根坂を下るとY字路が現れます、右に進みます、この分岐点には東海自然歩道道標があります。
山之神坂碑 山之神坂 童子ケ根坂碑 Y字路分岐

 急な宗昌寺(そうしょうじ)にちなむ寺坂を下ると大湫の宿並が望めます。

更に寺坂を下ると右手の段上に
馬頭観音像南無阿弥陀佛名号碑が並んでいます。

この石仏石塔の下に
中山道十三峠碑があります。

碑面には
太田南畝壬戌紀行「これよりいわゆる十三峠とやらんを越えゆべきに 飢えなばあしかりなんとあやしきやどりに入りて昼食を食す 輿かくものに委しを問いて十三峠の名をもしるさまほしく 思うにただに十三のみにはあらず 詳しくも数えきこえなば 二十ばかりもあらんと 輿かく者いうはじめてのぼる坂を寺坂といい 次を山神坂という」と刻まれています。
寺坂 石仏石塔群 十三峠碑

 PM4:13 大湫宿着

 左手に大湫宿碑があります、正面「中山道大湫宿 右 京へ四十三里半 左 江戸へ九十里半」、左面「西方 細久手宿へ一里半 宿中安全 東方 大井宿へ三里半」、右面「是より東 十三峠 道中安全」と刻まれています、十三峠におまけが七つといわれた険路もここ迄です、大湫宿に到着です!

並びに
中山道大湫宿碑があります、碑面には新撰美濃志「中山道の宿駅にて京の方細久手宿より一里半余江戸の方大井宿より三里半の馬継ぎなり 尾州御領 名古屋まで十六里あり 十三嶺は宿の東方大井宿との間 琵琶坂は細久手に至る大道の坂を云う 西に伊吹山も見えて好景なり」が刻まれています。

大湫宿は慶長九年(1604)十三峠に新道が開設された際に新設された宿場です、東に十三峠、西に琵琶峠を控え大いに賑わいました。
天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によれば、大湫宿宿内家数は六十六軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠三十軒、宿内人口は三百三十八人(男百七十人 女百六十八人)で尾張藩領でした。
大湫宿碑 中山道大湫宿碑

 寺坂を下ると左手に臨済宗妙心寺派金城山宗昌寺(そうしょうじ)があります、本尊は釈迦如来で美濃瑞浪三十三霊場第五番札所です。

天正年間(1573〜91)に
大湫村を開村した保々宗昌が慶長五年(160)に開基した寺です、本陣、脇本陣に次ぐ控え本陣でした。

寺坂を下り切り、左折(白色矢印)すると
大湫の宿並に入ります枡形です。

この枡形を直進し(黄色矢印)、先を右折すると左手に
尾州藩大湫白木番所跡(解説)があります、元禄七年(1694)尾州藩川並番所として設置され、奉行以下多くの藩役人、足軽などが常駐していました。
宗昌寺 枡形 白木番所跡

 天明年間(1781〜89)に
白木番所に縮小され、以降明治初年まで同心級の役人五〜六名が詰め、中津川以西八百津までの尾州藩木曽御領林の管理や木曽川流木の監視、中山道筋の白木改めなどにあたった番所跡です。

 宿並に入ると左手に旧家が二棟連なっています、手前が旧旅籠三浦屋跡、二軒目が問屋丸森跡(森川家)です、共に江戸末期の建築で、国登録有形文化財です。

向いの大湫公民館の館内に往時の
高札が掲げられています。

公民館裏手の
大湫小学校校庭(廃校)は保々本陣跡です、大湫の開村に尽力した保々家は慶長九年(1604)に開宿されると本陣を勤め庄屋問屋を兼ねました、代々保々市左衛門を襲名し、明治まで続きました。
旧旅籠三浦屋跡 問屋丸森跡 高札 保々本陣跡

 本陣は間口二十二間(約40m)、奥行十五間(約27m)、部屋数二十三、畳数二百十二畳、別棟添屋六という広大な規模でした。

校庭の左手に
皇女和宮歌碑があります、十六歳の和宮が道中に京を偲びながら胸中を詠んだものです、和宮は保々本陣に宿泊しました。

・遠ざかる 都と知れば 旅衣 一夜の宿も 立ちうかりけり

・思いきや 雲井の袂 ぬぎかえて うき旅衣 袖しぼるとは


駐車場奥の本陣石垣の上に
皇女和宮(中央)の陶製人形が飾られています。

大湫の
くてとは低湿地を意味し、良質な飲料水の確保に難渋しました、皇女和宮の大通行に際しては、今にも残る筧水が掘られました、 皇女和宮の大通行は二十七日からの四日間で大湫宿の継立ては人足延べ二万八千人、延べ八百十九疋であったといいます。
皇女和宮歌碑 皇女和宮人形

 
水戸天狗勢一行は大井宿を出立し、十三峠を越して大湫宿で昼食を摂りました。

 宿並の右手に無料休憩所のおもだか屋があります、かつては旅籠屋でした。

次いで右手の丘上に
白山神社が鎮座しています、大湫宿の産土神です。

参道の左手が
問屋場跡です、問屋場とは
問屋役、年寄役、帳付役、人馬指図役などの宿役人が毎日詰めていた宿役所のことで、公用荷物の継立てから助郷人馬の割当て大名行列の宿割りなど宿の業務全般についての指図や業務を行っていました。

先の右手に
保々脇本陣跡があります、保々本陣の分家です。
おもだか屋 白山神社 問屋場跡 脇本陣跡

 部屋数十九、畳数百五十三畳、別棟六という広大な建物でした、今は半分程度の規模になっています、
母屋は江戸中期の建築で国登録有形文化財です。

 次いで右手の神明神社は慶長十三年(1608)の再建で、白山神社と共に大湫宿の産土神です。

御神木の
大杉は樹齢千三百年で、樹高60m、幹回り11m、直径3.2mの大樹で岐阜県天然記念物指定です。

太田南畝壬戌紀行に「駅の中なる左の方に大きい杉の木あり、木の元に神明の宮たつ」と著しています。

大杉の前に
神明元泉と呼ばれる清水が湧き出ています、貴重な飲料水でした。

先に進むと右手に美濃瑞浪三十三霊場の幟がはためいています、この石段を上ると
観音堂があります「大湫に過ぎたるもの二つあり、神明社の大杉観音堂」といわれました。
神明神社の大杉 神明元泉 観音堂参道

 道中安全、病気全快の観音として知られ、宿内、近郷はもとより旅人からも篤く信仰されました。

弘化四年(1847)に再建された
観音堂の天井には花鳥草木絵が主に六十枚描かれています(瑞浪市指定)。

境内には寛政七年(1795)建立の
芭蕉句碑「花ざかり 山は日ごろの あさぼらけ」があります。

宿並に戻ると右手に
高札場が復元されています、ここに中山道大湫宿碑があります、ここが大湫宿の京(西)口です。
観音堂 芭蕉句碑 高札場 大湫宿碑

 
大湫西分岐
 時計の針はPM4:13を指しています、本日の街道ウォークはここ迄です。

高札場から先は
Y字路になっています、右は中山道です、左はJR中央本線釜戸駅への県道65号線の下り坂です。

帰宅タイムリミットの
電車にギリギリです、釜戸駅迄は4kmあります、県道の急坂は十三峠の比ではありません。

目尻(まなじり)を吊り上げ、(ましら)の如く、急坂を下ります。

すると新車の黒い
プリウスが後から来て、ぴたっと脇で停まりました、サッーと助手席のウィンドガラスが下がると、品の良い紳士が「駅に行くんでしょ」「ハイ」「お乗りなさい、送りますヨ」有難い!

街道を歩くと、様ような
人情に触れ合いますが、こんなにうれしいことはありません、感謝しても仕切れません!!

お陰さまで余裕をもって
釜戸駅に到着です、有難う御座いました!!!


 美濃路
に入ると帰路はJR中央本線ではなく、JR東海道本線がベターになります。
 

いよいよ
青春18きっぷ作戦の完結です、以下が集計結果です。

@奈良井〜福島     8,930円(往復)
A福島〜須原       9,240円(往復)
B須原〜三留野     9,560円(往復)
C三留野(南木曽駅)  4,940円(往路片道)
D大湫(釜戸駅)     6,810円(復路片道)
         合計   39,480円
青春18きっぷ    −)11,500円
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               27,980円(お得)

4:53釜戸駅発に乗車し、金山駅で東海道本線に乗換え、夜中の0:04東神奈川駅に到着です、7時間47分の長旅です。

例の
モノは瑞浪駅の乗換え時に入手しました、黒のプリウスに感謝を込めて乾杯!



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