道中日記 9-187 中山道 大湫 - 太田  30.0km


 いよいよ名古屋が起点になった以上は高速夜行バスの投入は必然です!

現地の
天気を確認し、インターネットでバス便を検索し、申し込みを行います。

返信の案内に従って、乗車料金を
コンビニで入金し、その領収書が乗車チケットになっています。

JR横浜駅西口の天理ビル前をPM11:50出発です、相席が空いていましたので、狭いながらも十分に仮眠が摂れました。

AM5:47に
JR名古屋駅に到着です、スグレモノでしょう、これで乗車料金は3,000円ポッキリです!!

余裕をもって名古屋駅からJR中央本線
釜戸駅行の始発電車に乗車です、車中でコンビのお握りで腹ごしらえです。

釜戸駅に到着すると幸いにもタクシーが待機状態です、大湫宿迄の乗車料金は1,300円です。

とんとん拍子に
大湫宿に到着です!!! あんなに暑かった大湫宿は今やスッカリ冬の佇まいです。

 平成23年12月11日 AM7:29 大湫宿出立 細久手宿まで6.5km

 高札場が大湫宿の起点です、ここには自然石の中山道大湫宿碑があります、ここが大湫宿の京(西)口です、それでは出立しましょう!

高札場先が
Y字路になっています、左(黄色矢印)はJR中央本線釜戸駅への県道65号線です、中山道は右(白色矢印)同じく県道65号線です。

この分岐点には
東海自然歩道道標「←大湫宿 0.3km 五分/30分 1.4km 琵琶峠→」と青色歴史の道道標「←中山道→」等があります。

スグ先の左手に背の低い瓦葺の
小屋があります、脇に自然石の中山道大湫宿山之神の井戸碑があります、この碑は街道に背を向けています。
高札場 大湫西 山之神の井戸

 先に進むと紅葉洞の石橋跡(標柱)があります、街道の左右に欄干を残しています、嘉永七年(1854)それまでの土橋から石橋に架け替えられました、今も小川が流れています。

並びの左手に
小坂の馬頭様(標柱)があります、岩の上に明治二年(1869)建立の馬頭観音像が二体祀られています。

先に進むと右手に安藤広重画の木曽街道六十九次
大久手宿が掲げられた東屋があります、この右(白色矢印)に入ります、大洞小坂旧道です。
紅葉洞の石橋南
紅葉洞の石橋北 小坂の馬頭様 大洞小坂東

 旧道に入ると右手に文政八年(1825))建立の大洞の馬頭様が祀られています、赤い前垂れが掛けられ、地蔵風になっています。

並びに自然石の
中山道大湫宿大洞小坂碑があります、碑面には「安藤広重画木曽街道六十九次の大湫宿の絵はここから東方を描いたものである」と刻まれています。

先で再び県道65号線に合流します、この右手に大きな
母衣(ほろ)があります、この先右手の烏帽子岩と対で二つ岩と呼ばれる陰陽石です。
大洞の馬頭様 大洞小坂碑 大洞小坂旧道西 母衣岩

 この母衣岩女岩(陰石)です。

県道に出ると右手に自然石の
中山道二つ岩碑があります、太田南畝(おおたなんぽ)の壬戌紀行(じんじゅつきこう)の一節「道の左に立てる大きなる石二つあり 一つを烏帽子石という 高さ二丈(約6m)ばかり巾は三丈(約9m)に余れり また母衣石というは高さはひとしけれど巾は是に倍せり いずれもその名の形に似て 石のひましまに松その外の草木生いたり まことに目を驚かす見ものなり」が刻まれています。

並びに
烏帽子(えぼし)があります、男岩(陽石)です。

この二つ岩は
弁慶岩とも呼ばれます、弁慶が旅の途中、鬼岩から取ってきてお手玉にしながら歩き、ここに置き忘れたという伝説があります。

左手の道下には
大湫病院があります。
二つ岩碑 烏帽子岩

 街道右手の処々に奇岩があります。

広重は二つ岩の内、
母衣岩大久手(大湫)として描いたといわれています。

しかしどう見ても画中の岩に
母衣岩の丸みが感じられません。

街道沿いに露出している
奇岩の方にリアリティーがあるように思えます。

ちなみに
母衣とは竹籠を布で覆って、武士がこれを背負い、敵の矢を防いだものです。

琵琶峠は目の前です!
奇岩 木曽海道六拾九次之内 大久手 広重画

 右手の琵琶峠の石畳に入ります(白色矢印)、この分岐点には青色歴史の道道標「←中山道→」、東海自然歩道道標「←琵琶峠 0.5km 10分/20分 1.2km 大湫→」があります。

踏み込むと左手に文化十一年(1814)建立の
馬頭観音像と自然石の中山道琵琶峠東上り口碑があります、碑面には太田南畝壬戌紀行の一節「これより坂を下ること十町ばかり 山には大きなる石幾つとなく 長櫃(ながびつ)の如きもの 俵の如きもの数を知らず」が刻まれています。

琵琶峠の石畳は昭和四十五年に500m以上にわたる石畳が確認され、その後、石畳一里塚などが整備され、江戸時代当時の琵琶峠に復元されました。
琵琶峠東口 琵琶峠東上り口碑 琵琶峠石畳

 琵琶峠の石畳を上り始めると左手に明治二十四年(1891)建立の馬頭観世音文字塔が祀られています。

先の左手の石段を上ると
琵琶峠の文学碑があります。

左が
太田南畝壬戌紀行琵琶嶺碑です、碑面には中山道琵琶峠東上り口碑と同じ一節が刻まれています、峠にある奇岩の形を表現しています。

中央が公卿
烏丸光栄(からすまるみつひで)の中山道琵琶峠碑です、そして右が岡田文園琵琶坂碑です。

琵琶峠
は美濃国の丘陵地帯で一番高い位置にあり往時は北に白山、飛騨の山々、西に伊吹山を一望できる名所でしたが、今は木々が生い茂り眺望は望めません。
馬頭観音 琵琶峠の文学碑

 文学碑の前が通り抜けになっていますが、元の道を戻りましょう、通り抜けてしまうと、肝心な峠頂上を通過してしまいます。

スグに
琵琶峠頂上(557m)です、頂上の峠道幅員は一間(約1.8km)に満たないものです。

琵琶峠の地名は近江の琵琶湖に程近い伊吹山が遥かに望める、峠の山容が楽器の琵琶の形にに似ている、琵琶修行の法師が峠の松風の音で奥義を極めたなどを由来としています。

峠の頂上には
和宮歌碑「住み馴れし 都路出でて けふいくひ いそぐもつらき 東路のたび」があります。

傍らには宝暦十三年(1763)建立の
琵琶峠頂上の馬頭様(馬頭観音像)が祀られています。
琵琶峠頂上 和宮歌碑&馬頭様

 峠を下ると八瀬沢の一里塚があります、両塚共現存しています、残念ながら塚木はありません、琵琶峠の一里塚とも呼ばれました(岐阜県瑞浪市指定史跡)。

両塚は地形の制約によるものか
位置がズレています、左(南)塚は大湫町地内、右(北)塚は日吉町地内に属しています、江戸日本橋より数えて九十一里目、京へ四十三里です。

杉木立の中の石畳を下ると立派な
トイレがあります。

その先で
車道を横断します、この横断点には東海自然歩道道標「←琵琶峠/八瀬沢→」と青色歴史の道道標「←中山道→」があります、ここからは緩やかな石畳道を下ります、琵琶峠の石畳は全長730mあり日本一の長さです。
八瀬沢一里塚(南) 北塚 車道横断

 先に進むと斜め右に上り坂(黄色矢印)があります、八瀬沢の旧道痕跡です、先が通行不可です。

左手に集落が現れます、
八瀬沢立場跡です、茶屋や馬茶屋がありました。
 
峠道を下り切ると
県道65号恵那御嵩線に吸収されます。

この分岐点には自然石の
中山道琵琶峠西上り口碑東海自然歩道道標「←琵琶峠 0.6km 20分/30分 1.8km 北野神社→」があります、京方面からは斜め左の土道に入ります。
旧道痕跡 八瀬沢立場跡 琵琶峠西口 琵琶峠西上り口碑

 ここから細久手宿までは県道65号恵那御嵩線を歩きます。

緩やかな上り坂を進むと右手の
養鶏場からニワトリの鳴き声が響いてきます、風向きによっては耐え難い臭気が襲ってきます。

Y字路手前の右手奥に
北野坂の廻国塔があります、安永六年(1777)建立の廻國供養塔です、法華経を六十六部写経し、全国六十六ケ国を巡礼し、一国一ケ所の霊場にそれを奉納し、その達成を記念したものです、六十六部碑とも呼ばれます。

先の
Y字路は左に進みます、この分岐点には青色歴史の道中山道道標「←中山道→」があります。

緩い上り坂を進むと犬の吠える声がグングン近づいて来ます、
国際犬訓練場です、右手に犬供養の犬霊塔があります。
北坂の廻国塔 北坂分岐 犬霊塔

 警察犬盲導犬のように特殊な訓練をするとストレスにより犬の寿命は短くなるといいます。

 緩い上り坂を進むと左手に一つ屋茶屋跡(標柱)があります、一軒茶屋でした。

先に進むと右手に瑞浪市コミュニティーバスの
天神前バス停待合所があります、並びに享保十三年(1728)造立の天神辻の地蔵尊が祀られています。

地蔵尊脇を右に入ると約850mの所に慶長十九年(1614)創建の
北野天神が鎮座しています、中京地区の受験生に人気が高いといいます。

サンエッグファーム瑞浪農場を左手に見て
焼坂を上り詰めると右手斜面に馬頭様(三面六臂馬頭観音像)が祀られています。
一つ屋茶屋 天神辻の自蔵尊 焼坂の馬頭様 北野天神追分

 天神坂を下ると
京方面からのY字路があります、この分岐点に大湫宿方面を示す道標があります、左(黄色矢印)は北野天神を経由して、先程の北野坂分岐(Y字路)に出るルートで中山道ではありません、お気を付け下さい。

 緩い下り坂をグングン進むと右手に弁財天の池があります、享和二年(1802)に太田南畝(蜀山人)が著した壬戌紀行に「左の方に小さき池あり。杜若(かきつばた)生ひ茂れり。池の中に弁財天の宮あり」と著されています。

この池は常に水をたたえ
カキツバタジュンサイの自生地になっています。

中之島には天保七年(1386)建立の石祠に、天文五年(1740)建立の弁財天(八臂の天女立像)が祀られています。

上下する街道をしばらく進むと左手に赤色の
消火栓があり、先の左手に南垣外ハナノキ自生地碑(瑞浪市天然記念物)があります、樹高5~15m程になる日本の固有種で、三~四月に赤い花を咲かせます。
弁財天の池 弁財天 ハナノキ碑

 次いで左手に女男松の跡(標柱)があり、後方の大樹の脇に標石があります、男根女陰の松で夫婦円満、子授けにご利益ありと名跡でしたが、昭和初期に枯れました。

緩い下り坂を進むと
奥之田の一里塚の両塚が現存しています、高さ約3m、直径約10m程の大きさで、自然の地形をうまく利用して築かれています、江戸日本橋より数えて九十二里目、京へ四十二里です。

右手の電波塔、消火栓を過ぎると、右手に
三国見晴し台と馬頭様(標柱)があります、斜面に元治元年(1864)建立の馬頭観音像が祀られています。
女男松跡 奥之田の一里塚(北) 南塚 馬頭様

  ここは
三国見晴し台跡ですが、今は樹木が生い茂り、眺めは望めません。

 三国見晴し台先を左(白色矢印)に入り、一本目を右折(白色矢印)し草道に入ります。

細久手宿の
東枡形であったのかも知れません。

しかしこの先は
クリスタルクレイ工場敷地で消滅しています、通行不可です。

県道65号線(黄色矢印)に戻りましょう、ここからは迂回路になります。
宿口東の旧道 旧道痕跡 木曽海道六十九次之内 細久手 広重画

 広重は三国見晴し台辺りから眺めた
細久手宿を描いています。

 突当りを左折(黄色矢印)します、京方面からはY字路を右に進みます。

この分岐点には
日吉第二小学校跡碑天王様(黄色囲み)があります、天王様(祇園信仰)は京都八坂神社の牛頭天王の信仰に始まり、疫病除けの大神です。

ガラスリサイクルの
クリスタルクレイ(旧多治見工業、その以前は日吉第二小学校)の先を左に入ります。

先を右折します、工場敷地で消滅した
旧道が復活します。
逆Y字路 学校跡碑&天王様 旧道口 旧道復帰

 先で県道に合流(白線矢印)します。


 AM9:32 細久手宿着 御嶽宿まで11.6km

 先に進むと右手の庚申堂の参道口に細久手宿高札場跡(標柱)があります、ここが細久手宿江戸(東)です、細久手宿に到着です!

大湫宿から御嶽宿までは四里三十町(約19km)と長く、その間には琵琶峠物見峠が控え人馬共に難渋を極めました、そこで大湫宿より更に遅く慶長十五年(1610)に細久手宿が新設されました。

宿並は寛政十年(1798)、文化十年(1813)、安政五年(1858)に
大火に見舞われ、今の町並みは安政の大火以後のものです。

天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳によれば、
細久手宿宿内家数は六十五軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠二十四軒で、宿内人口は二百五十六人(男百三十四人 女百二十二人)でした。

参道を上ると高台に
庚申堂があります、細久手のこうしんさまと親しまれました。
高札場跡 庚申堂

 
庚申堂は寛政の大火で焼失し、享和二年(1802)宿の鬼門除けとして再建されました。

 境内には 石造物が多数あります、石窟内には役行者像(修験者)が安置されています、下駄履像として珍重されています。

役行者(えんのぎょうじゃ)は奈良時代初期に大和葛木山にいた呪術(じゅじゅつ)で山岳信仰の修験道の開祖として、崇められています。

宿並を進むと左手の細久手公民館の敷地内に大きな
細久手ちょうちん祭りレリーフがあります、 毎年七月第四土曜日に開催される、津島神社の祭礼です。

江戸時代に造られた
巻藁船を模した山車に約100~130個の赤丸提灯を飾り、夕方から津島神社まつり保存会が中心となって宿場内を練り歩くお祭りです、山車の綱を引くと一年間無病息災で過ごせるといわれています。

この祭は明治維新で一時中止されました、理由は
津島神社庚申堂の境内にあり、神仏分離に配慮したものです。
役行者像 ちょうちん祭り

 明治八年(1875)
津島神社日吉愛宕神社に遷座し、祭が再興されました。

 次いで右手に卯建をあげた旅館大黒屋(国登録有形文化財)があります、慶長年間(1596~615)の創業で、代々酒井吉右衛門問屋を勤め、尾張藩定本陣を兼ねました。

細久手宿の本陣、脇本陣が手狭になリ、他領主との合宿を嫌った領主
尾洲家が、問屋宅を尾州家本陣と定めました。

大黒屋は安政六年(1859)の建築で、卯建、玄関門、式台、上段の間が当時のままに残されています(宿泊可、0572-69-2518)。

右手の瑞浪細久手簡易郵便局先の右手が
細久手宿本陣跡(標石)です、小栗八郎右衛門が代々勤めました。

規模は間口十三間(約22m)、奥行四間半(約8m)、建坪五十八坪で部屋数十四室、畳数百三十四畳、別棟三棟でしたが遺構は残されていません。
大黒屋 本陣跡

 本陣向いの瑞浪市コミュニティーバス仲町バス停裏手の空地が細久手宿脇本陣跡です、代々小栗八左衛門が勤めました。

規模は間口十間(約18m)、奥行三間半(約6.5m)で建坪三十五坪、部屋数七室、畳数五十八畳、別棟一棟でしたが遺構は残されていません。

突当りのY字路を右に進むと、右手の自然石擁壁上に
南蔵院跡(解説)があります、 真言宗に属し当主は修験者で不動明王を祀り、加持祈祷を行いました。

次いで右手に
日吉愛宕神社があります、天正年間(1573~92)に細久手村を開き、細久手宿の開設に尽力した国枝重円が文禄四年(1595)に創建しました。
脇本陣跡 南蔵院跡 日吉愛宕神社

 日吉愛宕神社は細久手宿の鎮守です、参道口が細久手宿の京(西)口です、細久手宿は江戸(東)口の庚申堂、そして京(西)口の日吉愛宕神社に見守られてきました。

 街道に戻ると右手に大塚由来(解説)があります。

大塚(公簿字名):昔、ある高貴な方が当宿で病死し、ここに埋葬し、以降この字名がつきました、ここより北側一帯が字大塚です。
おくそ塚皇女和宮が降嫁のとき、細久手宿に宿泊予定でしたが、大火があり、その復興未完で、宿泊は急遽大湫宿に変更されました、しかし宮様の用便だけは変更できず、この地に埋葬し敬愛したといいます。

板鼻宿の
月の宮といい、おくそ塚といい、どこか洒落が効いていて、庶民のしたたかさを感じますね!

先の右手斜面上の石窟内に
細久手坂の穴観音が安置されています。
大塚由来 穴観音石窟 細久手坂の穴観音

 寛政十三年(1801)建立の
馬頭観音像です、縁日にお参りすると九万九千回分の御利益があるといわれ、九万九千日観音とも呼ばれています。

 次いで右手に津島神社(天王様)があります、尾張津島神社京都八坂神社江戸天王社の分祀で、十二世紀後半より津島神社として文献に、また室町時代より牛頭(ごず)天王社津島様と呼ばれ、本来は防疫の大神でした。

防疫の神
牛頭天王が旅に飢えた際,蘇民将来(そみんしょうらい)からわらの蒲団粟の飯をご馳走になり、その礼として護符(ごふ)を与え、旅の災いと厄病が発生してもこれを持つ者は助かると告げました。

以来、この
護符(お守り)を蘇民将来(そみんしょうらい)と呼び厄病除けは勿論、交通安全の護符として信仰されました、解説にこの蘇民将来の希望者は細久手郵便局へと記されています。

先に進むと
分岐点があります、左は県道352号線です、中山道はこの先大型車通行不能と表示された直線の県道65号線を進みます、この分岐点には道路標識「直線御嵩11km」があります。 
津島神社 直線路

 田園の中を進むと右手に中山道くじ場跡(標石)があります、かつてはここに茶屋があり、人足達がたむろし、荷の扱いの順番をくじで決めたといいます。

緩い坂道を下ると右手の民家手前の斜面に文政七年(1824)建立の
馬頭観音像が祀られています。

次いで右手に明治九年(1876)建立の
馬頭観音像が祀られています。

スグ先の右手に
馬水池があります、明治二十五年(1892)情報収集の為、シベリア大陸を単騎横断して世界の人々を驚かせ、一躍有名になった福島安正陸軍大将が、後年この中山道を通行した際、馬に水を飲ませたという池です。
くじ場跡 馬頭観音 馬水池

 案外の急坂を下ると下道に合流(白色矢印)します、この分岐点には青色歴史の道道標「←中山道→」があります、京方面からは斜め左の上り坂に入ります。

平岩橋を渡り、平岩の辻(十字路、黄色線)を横断(白色矢印)します。

この辻には
道標「北 たこうど やをつ道」「西 つばし みたけ道」「南 まつのこ おに岩道」があります。

この辻を右に進むと
平岩の地名由来となった平岩八幡神社にあります、その先には古刹の曹洞宗開元院があります。
平岩分岐 平岩の辻 道標 西の坂旧道口

 平岩の辻からは上り坂になります、先で左の
西の坂旧道の砂利道(白色矢印)に入ります。

 この分岐点の右には自然石道標「左仲仙道西の坂 旅人の 上り下りや 西の坂」と東海自然歩道道標「←鴨之巣一里塚/平岩辻→」があります。

分岐点の左手には
青色歴史の道道標「←中山道→」と瑞浪市内旧仲仙道の影碑があります。

碑面には「之より先千三百米一里塚迠瑞浪市日吉町平岩地内旧幕当時に開いた仲仙道は昔其侭(そのまま)姿を今尚残して居り、此間に次の様な地趾が残って居る一里塚より先は可児町に通じている」と刻まれ
、続いて旧仲仙道地内の地趾(旧所名跡)が箇条書きで列記されています。

快適な
砂利道の上り坂を進むと右手の段上に秋葉坂の三尊石窟があります。
西の坂碑 旧仲仙道碑 秋葉坂の三尊石窟

 左の石室には風化の進んだ石仏が安置されています。

中央の石室には明和七年(1770)建立の
一面六臂馬頭観音坐像が安置されています。

右の石室には明和五年(1768)建立の
三面六臂(頭が三つで腕が六本)の馬頭観音立像が安置されています。

石窟右端の
石灯籠は天保十一年(1840)の建立です

石窟の外れには大正十年(1921)建立の
馬頭観音像があります。
左像 中央像 右像 馬頭観音

 石窟の上方に
秋葉様の石祠が祀られているところから石窟前の坂は秋葉坂と呼ばれました。

  緩い秋葉坂を上ると鴨之巣道になり左手に鴨之巣道の馬頭文学碑(標柱)が現れます、丘上に馬頭観音文字塔が祀られています。

雑木林の中の尾根道を枯葉を踏みながら
鴨之巣道をしばらく進むと十字路が現われます、左後方からの筋は鎌倉街道(黄色矢印)です。

この十字路は
鴨之巣辻といい、日吉辻とも呼ばれました。

この鴨之巣辻には
道標「右旧鎌倉街道迠約一里余」、鴨之巣辻の道祖神碑(道祖神文字塔)、青色歴史の道道標「←中山道→」、東海自然歩道道標があります。
馬頭観音 鴨之巣辻 鎌倉道道標 道祖神

 先に進むと右手に切られケ洞(標石)があります、ここで牛追いが盗賊に切られたといいます。

しばらく進むと
鴨之巣の一里塚(市県指定史跡)があります、両塚が現存しています、地形上の制約から両塚の位置がズレています、江戸日本橋より数えて九十三里目、京へ四十一里です。

塚上からは
に笠木山、恵那山、駒ケ岳、西に伊吹山、鈴鹿連峰、に木曽の御嶽山、加賀の白山、に遠く濃尾平野に尾張富士、または尾張熱田の海を見ることが出来るといいます。

瑞穂市から可児郡に入ると
Y字路が現れます、右(白色矢印)に進みます。
切られケ洞 鴨之巣一里塚(南) 北塚(右) Y字路分岐

 この分岐点には
東海自然歩道道標「←御殿場 3.2km 津橋 2.0km/↓鬼岩公園・松野湖 2.1km/鴨之巣一里塚 0.1km→」、青色歴史の道道標「←中山道→」があります、御殿場津橋方面に進みます。

 旧道には救急の場合は119番「ここは中山道 御嵩町 津橋公民館から東へ1.5km地点」の標識が新設されています。

携帯電話の復旧により
救急要請をする際、自分の位置を正確に伝える為のものです、有難いですね!

下り坂を進み快適な
竹林の中を歩きます。

竹林を抜けると急な
くじあげ坂(藤上坂)を下ります、京方面からは難所です。

右手の
石窟の中に三面六臂馬頭観音像が安置されています。
救急要請標識 竹林 石窟 馬頭観音

 更に土道を下ると津橋の集落が正面に望めます。

左右にうねる急なくじあげ坂を下ると右手に
山内嘉助屋敷跡石垣を残しています、酒造業を営み、中山道を通行する諸大名の休憩場所として、また旅する人々を泊めたといいます。

緩やかになった坂道を下ると人家が現れ
Y字路になります、左に進みます、この分岐点には中山道石柱道標「←至鴨之巣一里塚/至御殿場→」があります。

先に京方面からの
Y字路があります。
津橋眺望 山内嘉助屋敷跡 中山道道標 逆Y字路

 左に進みます、この分岐点には
東海自然歩道道標「←津橋/鴨之巣一里塚→」とカーブミラーがあります。

 先の右手に享和元年(1801)建立の天満宮常夜燈があります、旧つばせ村はふじあげ坂と先の物見峠に挟まれた盆地で間の宿でした。

次いで
逆Y字路があります、京方面からは左に進みます、この分岐点には東海自然歩道道標「←至鴨之巣一里塚/至御殿場→」と青色歴史の道道標「←中山道→」があります。

先の
津橋の辻(十字路)を横断(白色矢印)します、ここを左折(黄色矢印)すると左手に津橋薬師堂があります。

境内には宝篋印塔、五輪塔、南無阿弥陀仏名号碑など十一基が並ぶ他、堂前に宝暦三年(1753)建立の
石灯籠があります、何代目かの山内嘉助が勧進寄進したものと伝えられています。
常夜燈 津橋の辻 津橋薬師堂

 津橋の辻を横断し、坂道を下り突当りの県道65号線を左折(白色矢印)します。

京方面からは重要な分岐になります、この分岐点には
東海自然歩道道標「←津橋/鴨之巣一里塚→」と青色歴史の道「←中山道中→」があります。

緩い上り坂の県道を進み 、
津橋川津橋で渡って進むと変則五差路が現れます、正面右(白線矢印)の上り坂に入ります。

この分岐点には
青色歴史の道道標「←中山道中→」、東海自然歩道道標があります、そして坂口に中山道石柱道標「←至御殿場/至鴨之巣一里塚→」、中山道石柱
あります、京方面からは突当りを左折します。
県道65号線合流 物見峠東口 物見峠道

 案外の急坂を上ると、右手の薬師堂の参道階段脇に奉納西国秩父坂東百番供養塔南無阿弥陀仏名号碑があります。

その先の右手にはあらゆる生けるものを供養する
三界萬霊塔があります。

竹林、雑木林の
諸の木坂を抜けると人家が現れます、右手の段上に若鷲碑があります、佐賀源一氏の生涯が刻まれています。

氏は
特攻隊員でしたが九死に一生を得て終戦を迎え、バスの運転手を勤続しました。

碑の裏面は
整田碑になっています。
供養塔&題目碑 三界萬霊塔 諸の木坂 若鷲碑

 碑には「定年後は生まれ故郷のこの地に戻り、田を整備し、アマゴ、岩魚、山女魚を養殖し、梅、柿、スモモを植え、鶏鴨を飼い、特攻で戦死した事を思い土地改良で食料の確保に務めた。」と刻まれています。


 再び雑木林になります、諸の木坂を上り詰めると物見峠(諸木峠、標高360m)の頂上です、往時はここに五軒の茶屋があり、北側には三ケ所の馬の水飲み場がありました。

峠右手に
中山道御殿場標石があり、階段を上ると御殿場展望台があります、皇女和宮通行の際、ここに休息の為の御殿が造られたことから御殿場と呼ばれました。

文久元年(1861)
和宮は十月二十八日の早朝宿泊した太田宿を出立し、御嵩宿にて昼食を摂り、ここで休息した後、大湫宿に宿泊しました。
物見峠 馬の水飲み場 御殿場口 御殿場展望台

 御殿場展望台からは東に
恵那山(標高2191m)、北に御嶽山(標高3067m)、そして中央に笠置山(標高1128m)が望めます。

 物見峠から下り坂を進むと左手にケーキの名店ラ・ブロヴァンスがあります、大きな駐車場は満杯です、しかしここは「あっしには関わりのない所でござんす」と横目で流します。

先の
変則十字路を横断(白線矢印)します、この横断点には東海自然歩道道標「←一呑清水/御殿場→」と青色歴史の道道標「←中山道→」があります。

下り坂をグングン下ると、左手に
唄清水があります、清水の傍らには嘉永七年(1854)建立の千村平右衛門征重(五歩)句碑「馬子唄の 響きの波立つ 清水かな」があります。

この地は尾張藩
千村氏の知行地でした、唄清水の名はこの句に由来としています、岐阜県名水50選の一つですが、注意書きに「飲めませんと」記されています。
変則十字路 唄清水 御所巡拝記念碑

 唄清水の向には大正二年(1913)建立の
禁裡御所巡拝記念碑があります。

 竹林の中の舗装路を下り、開けた先で突当りの広い車道を左折(白色矢印)します、この分岐点には左から青色歴史の道道標「←中山道↑」、東海自然歩道道標中山道石柱があります。

左手に
一呑(ひとのみ)の清水があります、清水の中に一呑清水碑地蔵尊があります、

皇女和宮降嫁の際、野点に使われた清水です、後に和宮が江戸から京へ上る際、多治見の永保寺で休息した時、この清水を取り寄せ点茶をしたというお気に入り清水でした。

中山道を往来する
旅人の喉を潤したこの清水は、岐阜県名水50選に選ばれていながら「この水は生水での飲用はしないで下さい」と注意書きに記されています。
竹林 車道合流 一呑清水

 一呑清水前を進まず、車道側を進みます、ここには東海自然歩道道標中山道石柱道標「右中山道石畳」等があります。

先に進むと左手に背の低い
石窟があります、天保十六年(1840)建立の六臂馬頭観音像が安置されています。

先の右手に
中山道十本木立場(標石)があります、宝暦五年(1756)刊の岐蘇路安見絵図(やすみえず)にも記載されています。

古老の話しでは、参勤交代の諸大名が通行する際にはここに警護の武士が駐屯し、一般の通行人の行動に注意が払われたといいます。
中山道道標 馬頭観音 十本木立場跡 十本木立場分岐

 十本木立場標柱の前を左(白色矢印)に入ります、この分岐点には
青色歴史の道道標「←中山道↓」や東海自然歩道道標があります。

 旧道を進むと東海自然歩道道標「←一呑清水/耳神社→」と青色歴史の道道標「←中山道→」があります、この先の左手に地蔵の清水があります、清水の傍らに地蔵尊が祀られています。

次いで
謡坂(うとうざか)十本木の一里塚があります、江戸日本橋より数えて九十四里目です、一里塚は明治四十一年(1908)、二円五十銭で民間に払い下げられその後取り壊されました、昭和四十八年(1973)地元有志の手によりかつての一里塚近くに復元されました。

右手に
十本木の洗場があります。
地蔵尊 自蔵の清水 十本木一里塚 十本木の洗い場

 立場の共同
洗場でした、立場内には十本の松の大木があったことから十本木立場と呼ばれました。

 広重は御嶽として謡坂村の十本木立場の夕景を描いています。

そして宿場の外れにあるのが常であった、
木賃宿(きちんやど)を描いています、木賃宿は薪代を支払って宿泊し、自炊が原則でした。

前の小川では老婆が米を砥いでいます。

軒下の柱行燈には
御嶽山御神燈が描かれいます、尾張は御嶽講が盛んで、多くの講中がここに泊り、登拝に向いました。

画面左は
謡坂の下り坂です。
十本木立場跡 木曽海道六十九次之内 御嶽 広重画

 十本木立場から下り坂を進みます。

先で
Y字路になります、左(白色矢印)の謡坂石畳に入ります、この分岐点には東海自然歩道道標「←耳神社/一呑清水→」、青色歴史の道道標「←中山道→」、そして謡坂石畳碑があります。

謡坂(うとうざか)の地名は、上り坂がとても急な為、旅人達は自ら歌を唄い苦しさを紛らしたことからうたうさかと呼ばれ、これが転化しうとうざかになったといいます。

謡坂の石畳は平成九(1997)年から十二年(2000)にかけて修復整備されました。

謡坂の石畳を下ると右手の斜面上に
石窟があります。
謡坂石畳上 謡坂石畳 馬頭観音石窟

 石窟内には大きな
三面六臂馬頭観音像と小さな馬頭観音像の二体が安置されています。

 謡坂の石畳を下ると右手に石柱道標「左 マリア像/右 御殿場」があります。

ここから右に入り、案内に従って土道を進むと、一旦車道に出ます、右に進むと右手に
マリア像があります。

このマリア像の裏手に
史跡七御前があります、仏教の墓石である五輪塔が多数あります。

昭和五十六年(1981)三月、道路工事による
五輪塔の移転が行われた際に、その下の地中から数点の十字架を彫った自然石が発見されました、ここが仏教の墓地を利用したキリシタン遺跡であったことが判明しました。

往時、
キリスト教は命を懸けた信仰でした。
マリア像道標 マリア像 史跡七御前

 謡坂の石畳を下り切ると突当りY字路の車道を左折(白色矢印)します、この分岐点には中山道石柱謡坂石畳碑東海自然歩道道標「←耳神社/一呑清水→」、青色歴史の道道標「←中山道→」があります。

小川を
とどめき橋で渡ると、車道に突き当たります、左折(白色矢印)します、この分岐点には東海自然歩道道標青色歴史の道道標があります。

道なりに坂を下ると右手段上に
耳神社が鎮座しています、耳の病に霊験あらたかといわれる神社です。
Y字路 T字路 耳神社 奉納錐

 平癒の願をかけ、お供えしてある
(きり)を一本借りて耳にあてます、耳の病が全快したら、その人の年の数だけ錐をお供えします、奉納する錐は本物でも竹などで真似て作ったものでもよく、紐で編んですだれのようにしてお供えします。

この前を通行した
水戸天狗勢は耳神社の(のぼり)を敵の旗指物と思い、抜刀し臨戦態勢をとって進んだといいます。

 中原から西洞(さいと)に入ります。

耳神社先の右手に嘉永元年(1848)建立の
馬頭観音像が祀られています。

先を右(白色矢印)に入ります
西洞東分岐です、この分岐点には石柱道標「左 御嶽宿四一〇〇米/右 細久手宿七七〇〇米」、東海自然歩道道標「←牛の鼻かけ坂/耳神社→」、青色歴史の道道標があります。

下り坂を進み先の
Y字路(西洞内分岐)を右(白色矢印)の上り坂に進みます、この分岐点には東海自然歩道道標「←牛の鼻かけ坂 0.5km 10分/5分 0.4m 耳神社→」、そして
馬頭観音 西洞東分岐 石柱道標 西洞内分岐

 青色歴史の道道標「←中山道→」があります。

 西洞坂を上ると左手に百八十八ケ所順拝納経塚があります、西国、四国、板東、秩父の霊場巡拝記念碑です。

西洞坂は舗装路から土道に変わります、竹林を過ぎると丸太による土留めが現れます。

西洞坂が下りになると右手の
石窟の中に明和二年(1765)建立の三面六臂(さんめんろっぴ)馬頭観音像が安置されています。

台座には
寒念仏供養塔と刻まれています、寒念仏は一年で最も寒さの厳しい小寒から節分迄の三十日間に渡り、(かね)を叩き念仏を唱えながら村中を練り歩く苦行のことで、心身を鍛え願い事成就を祈念しました。
納経碑 西洞坂 寒念佛供養塔

 西洞坂(さいとざか)は一段と急な下り坂になります、ここが牛の鼻欠(はなか)け坂です、「牛坊(うしんぼ) 牛坊 どこで鼻かかいた 西洞の坂で かかいた」という俗謡があります、荷物を背に登ってくる牛の鼻がすれて欠けてしまうほどの急な登り坂でした。

中山道全線を通してみると、この牛の鼻欠け坂辺りを境にして、江戸へと向かう東は山間地域になります、、京へと続く西は比較的平坦地になります。従って地理的には、ちょうどこのあたりが中部山岳地帯と平坦地の境界線になっています、 幕府は要害の地として
西洞村天領としました。

美濃路に入ってからの強烈なアップダウンの終息です、お疲れ様でした。

西洞坂を下り切ると土道は
舗装路に突き当たります、この舗装路を斜め右(白線矢印)に進みます、この分岐点には中山道牛の鼻かけ坂石柱青色歴史の道道標「←中山道→」があります。
牛の鼻欠け坂 西洞坂西口

 先のY字路は右(白色矢印)に進みます、この分岐点にはこの道は中山道道標があります、京方面からは左折します。

先の突当りの
T字路を左折(白色矢印)します、 この分岐点には石柱道標「右 御嶽宿三五〇〇米/左 細久手宿八三〇〇米」、東海自然歩道道標青色歴史の道道標があります、京方面からは右折します。

ここからは左手に田園風景が広がる長閑な舗装路を進みます。

右手電柱の所に文化十三年(1816)建立の
三面六臂馬頭観音像が祀られています。
Y字路分岐 T字路分岐 石柱道標 馬頭観音

 民家外れの右手段上に石燈籠摩利支天王碑南無阿弥陀佛名号碑があります。

微妙にカーブする
舗装路を進み、幅員の広い車道のT字路を左折(白色矢印)します、この分岐点には東海自然歩道道標青色歴史の道道標「←中山道↓」があります。

一本目を右折(白色矢印)します、この分岐点には
木製道標「←1.2km 20分 西洞/和泉式部碑 10分 0.6km→」があります。

道なりに進むと
井尻村に入ります、突当りのT字路を右折(白色矢印)します。
摩利支天 T字路分岐 逆T字路分岐 T字路分岐

 この分岐点には
東海自然歩道道標青色歴史の道道標があります。

 右手の井尻公民館先の県道358号線十字路を左折(白色矢印)します、この分岐点には青色歴史の道道標「←中山道↓」、東海自然歩道道標「←西洞 耳神社/和泉式部碑 御嵩駅→」があります。

先に進み突当りの
国道21号線を右折(白線矢印)します、この分岐点には青色歴史の道道標「↓中山道→」、山田商店があります、京方面からは左折します。

スグ先の
用水を越すと右手奥の覆屋内にいづみ式部廟所碑が安置されています、和泉式部は東山道をたどる途中御嶽の辺りで病に倒れ、鬼岩温泉で湯治したものの、寛仁三年(1019)ついにこの地で亡くなったといわれています。

いづみ式部廟所碑は御嵩町文化財です。
県道十字路分岐 国道T字路分岐 和泉式部廟所

 天文五年(1536)に建立された碑には「ひとりさえ 渡れば沈む 浮橋に あとなる人は しばしとどまる」の歌が刻まれています。


 国道に戻ると右手に中街道道標「右中街道 中仙道 大井驛(うまや) 達」があります、東山道時代は南の比較的平坦地を通行する御嶽~次月(しづき)~日吉~宿~半原~釜戸~竹折~大井の道筋で中街道と呼ばれました。

慶長七年(1602)
大久保長安によって大井~大湫~細久手~御嶽間の道筋が新たに開削されました、これは江戸防衛上の観点から難路を選択した結果といえます。

次いで右手の段上に郷社
八幡神社社標があります、社殿は奥の山中に鎮座しています。

先に進むと左手にこんもりとした杜があります、
丸山稲荷神社が鎮座しています、太田南畝壬戌紀行に「まろき形したる山のふもとをゆく・・・・稲荷の社」と著されています。
中街道道標 八幡神社 丸山神社

 
井尻交差点を直進します、斜め左の可児御嵩バイパスは新設された新国道21号線です。

 PM0:59 御嶽宿着 伏見宿まで4.5km

 長岡交差点を過ぎると栢森(かやもり)に入ります、ここには栢森の一里塚がありましたが位置は不明です、江戸日本橋より数えて九十五里目です。

国道21号線を進み、
県道341号線の標識に従って左折します、この分岐点には石柱道標「右 御嶽宿/左 細久手宿」があります、 道なりに進み御嵩公民館バス停先のT字路を右折すると御嶽宿の江戸(東)口です、御嶽宿に到着です!

御嶽宿は願興寺(蟹薬師)の門前町として栄え、東に細久手の物見峠、大湫の十三峠の難所を控え大いに賑わいました。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によれば、御嶽宿宿内家数は六十六軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠二十八軒、宿内人口は六百人(男三百二十三人 女二百七十七人)で尾張藩領でした、宿長は四町五十六間(約537m)、宿並は江戸方から上町、仲町、下町で構成され、仲町に高札場が置かれ、宿機能は下町に集中していました。
御嶽宿口 石柱道標

 
御嶽の地名は明治に御嵩と改称されました。

 宿並の右手には御嶽富士と呼ばれる高尾峯(標高686m)が一望です。

左手に
用心井戸があります、井戸の上屋には水神が祀られ、宿場の防火の役目を担いました、 井戸の前には正一位秋葉神社と刻まれた石柱があります。

御嵩郵便局を越すと
上町から仲町に入り、右手に高札場がありました。

宿並を進むと
仲町に入り、右手に商家竹屋(御嵩町文化財)があります、主屋は明治十年(1877)頃の建築です。

竹屋は江戸時代末期に本陣を勤める野呂家から分家し、金融業、繭、木材、綿布等を取扱い、組頭を勤めました。
御嶽富士 用心井戸 商家竹屋

 商家竹屋の並びが御嶽宿本陣跡です、代々野呂家が勤め、建坪百八十一坪でした。

本陣門は往時のものです、母屋は明治十年(1877)と大正年間に二度改築され、往時の姿は留めていません、皇女和宮は当本陣にて昼食を摂りました。

本陣跡の隣が
中山道みたけ館です、ここは往時脇本陣であり、その隣は人馬継所(問屋場)でした。

中山道みたけ館には宿場時代の資料が豊富に展示されています、入館無料です。

中山道みたけ館の前に
枡形痕跡(白線矢印)を残しています、先で唐沢川唐沢橋で渡ります。
御嶽宿本陣跡 中山道みたけ館 東枡形&唐沢橋

 水戸天狗勢大湫宿で昼食を摂り、御嶽宿に宿営しました、一行は宿泊すると必ず、宿泊料やその他の支払いを済ませ、部屋を清掃して出立しました。

水戸天狗勢の後を幕府の追討総督
田沼玄蕃頭意尊(げんばのかみおきたか)の大軍が追走していました、しかし一行に戦意は無く、絶えず二日の距離を保っていました、綱紀は緩み横暴な振る舞いが多く、天狗勢に比較して評判は良くありませんでした。

 唐沢川を唐沢橋で渡ると右手に願興寺があります。

蟹薬師と呼ばれる天台宗の名刹です、蟹薬師の由来は近くの池から一寸八分の薬師如来が無数のの背に乗って現れたという伝説によるものです。

そもそもの創建は平安時代初期の弘仁六年(815)に
最澄薬師如来(国重文)を彫り、小堂に安置したのが始まりといいます。

平安末期と戦国時代に二度の
兵火に遭っていますが、幸いにも本尊の薬師如来像はじめ諸仏像は焼失を免れました、天正九年(1581)近在の農民の発願により板一枚、柱一本を持ち寄って素朴な造りですが見事再建されました(国重文)。

境内には御嵩町指定名木
シラカシ(ブナ科)があります。
蟹薬師願興寺 シラカシ

 願興寺前を右(白色矢印)に回り込みます、この分岐点にはこの道は中山道道標があります、そして正面は名鉄広見線終着駅の御嵩駅です。

先に進むと左手に
神明神社があります。

東濃信金先の
信号交差点を左折(白色矢印)します、原写真館前にこの道は中山道道標があります。

しばらく進むと右手に
桃井病院、左手に御嵩町役場中が現れます、この先を右折(白色矢印)します、この分岐点にはこの道は中山道道標があります。
願興寺前分岐 神明神社 十字路分岐 十字路分岐

 この十字路左(黄色矢印)の右手に文政四年(1821)建立の常夜燈があります、火袋と笠は木造です。

十字路を右に進むと右手に
正一位秋葉神社常夜燈があります、台石には組中安全と刻まれています。

中交差点を左折(白色矢印)します。

先に進むと右手に
鬼の首塚の幟がはためいています。

覆い屋の中に
鬼首塚関ノ太郎首塚が安置されています。
常夜燈 秋葉常夜燈 中交差点 鬼の首塚

 伝説によれば、鎌倉時代の建久正冶の頃(1190~1200)、すこぶる凶悪で悪行三昧の男が次月(しづき)の鬼岩の岩窟に住み着き、乱暴狼藉をはたらき里人を大いに悩ませました。

この者は西美濃の
不破の関生まれであったため、里人はこれを関の太郎とか鬼の太郎と呼び恐れていました。

そこで正治元年(1199)里人は、この地の地頭
纐纈(こうけつ)源吾盛康に、この惨状を訴え退治を願い出ましたが、地頭は京にいて、おいそれと帰ることが出来ませんでした。

そこで綾纈盛康は
家臣四人に太郎の退治を命じましたが、なかなか太郎を討つことが出来ないため、蟹薬師に祈願したところ、太郎が女装をして祭礼に来るとのお告げがあり、そのお告げの通り四月一日の祭礼に女装した太郎が現れると、首尾よく捕らえ首を討つことが出来ました。

四人の者は太郎の首を
首桶に入れ、検分のため京都へ運ぼうとしたが、この地で急に重くなり、一歩も進めなくなりました。
関ノ太郎首塚

すると、
首桶を縛っていた縄が切れ中から首が転げ落ち、落ちた首も動かすことが出来なくなったため、ここに埋めたといいます。

以来この地は
桶縄手と呼ばれました、木曾街道膝栗毛の著者十返舎一九も、この地のことを詠んだ歌「桶縄手 今もその名を 朽ちさりき 塩漬にせし 鬼のくびかも」を残しています。

 鬼の首塚の傍らに正岡子規歌碑「草枕 むすぶまもなき うたたねの ゆめおどろかす 野路の夕立」があります。

子規は明治二十四年(1891)東京帝国大学哲学科から国文科に転科するも、学年試験を放棄して木曽路をたどって伊予松山に帰省しました、すでに労咳を患っていた子規は旅に疲れ果て、思わずうたた寝をしてしまった様子を詠っています。

大庭交差点手前の右手に
御嶽神社があります、街道に面して大きな覚清心霊神碑や小さな清嶽覚直霊神碑そして常夜燈があります、御嶽教木曽御嶽山を信仰の対象としています。

大庭交差点先を斜め右に入ります。
新木野旧道です、入口にはこの道は中山道道標(黄色四角囲み)があります。
正岡子規歌碑 御嶽神社 新木野旧道東口

 マルイ食品店の前を通過すると旧道は再び国道21号線に合流(白線矢印)します、この分岐点にはこの道は中山道道標があります、京方面からは国道標識18K4上先を斜め左に入ります。

から顔戸(ごうど)に入ると、右手に八幡神社社標があります、社殿は約300m奥に鎮座しています、 延長八年(930)の創建です、源義家やこの地に顔戸城を築城した戦国武将斎藤妙椿も社殿を修営したといいます、顔戸村の鎮守です。

顔戸交差点を右に入ると
顔戸城址があります、応仁の乱(1467~77)の頃,中央政権をも揺るがすほどの影響力を持った武将斉藤妙椿(みょうちん)が築いた平城で、東美濃守りの拠点でした。
新木野旧道西口 八幡神社 顔戸城址

 国道に戻り、可児川に沿って進むと、左手に中華料理横浜飯店があります、朝、お握りを食しただけです、いつもの通り空腹の権化と化しています、時はPM1:39です。

例によって
ランチラーメンセットです、醤油、台湾、台湾味噌、台湾塩、豚骨ラーメンの中から一品、そして炒飯、天津飯、麻婆飯、中華飯の飯物の中から一品を選びます、台湾ラーメン天津飯の組合わせにしました、680円です。

このお店のスタッフは全員
台湾の人なのでしょう、会話は全く解かりません。

生ビールを半分程乾したところで、ランチセットがサーッと出てきました、街道ウォークにはこのスピードが何より大切なのです!お味は本場モノです!!
横浜飯店 生ビール ランチセット

 横浜飯店先を斜め右に入ります、車両通行止めのポールが立っています、高倉旧道です。

旧道入口の右手に
比衣(ひえ)一里塚跡(標石)があります、顔戸の一里塚ともいいます、江戸日本橋より数えて九十六里目、京へ三十八里です。

先の左手に落葉し裸になった
柿ノ木(カキノ科)があります、御嵩町指定名木です。

次いで新道の
東海環状自動車道ガード可児御嵩9架道橋でくぐります。

先に進み
比衣川土橋で渡ります。
高倉旧道東 比衣一里塚跡 東海環状道

 国道21号線の高倉交差点を左に見て進むと変則十字路が現れます、左折(白色矢印)します、この分岐点には中山道石柱道標があります、京方面からは右折します。

先に進むと国道21号線に合流(白色矢印)します、ここが
高倉旧道西口です、この分岐点には石柱道標「左 伏見宿/右 御嶽宿」(黄色四角囲み)があります、京方面からは斜め左に入ります。

高倉口交差点を越した先の右手
可児警察署伏見警察官駐在所を斜め右(白色矢印)に入ります、伏見旧道東口です。
高倉旧道内分岐 中山道道標 高倉旧道西口 伏見旧道東口

 この分岐点には
この道は中山道道標(黄色四角囲み)があります、京方面からは突当りのT字路を左折し、国道21号線に合流します。

 伏見旧道に入り、一本目を左折(白色矢印)します、京方面からは突当りのT字路を右折します。

先に進み振り返ると正面が
高倉山古墳です、美濃最古の四世紀後半に築造された全長41.5mの前方後方墳です。

小川を跨ぐと以前は
名鉄八百津線が走っていましたが、平成十三年(2001)九月廃線になりました。

かつてはこの辺りに
お柳さまと呼ばれる大柳がありました、伏見宿は飯盛が多く、この柳にを供えると苦死(くし)から逃れ、早く親元に帰れると信仰されました。

道なりに進むと
国道21号線に合流(白色矢印)します。
伏見旧道内分岐 高倉山古墳 伏見旧道西口

 この分岐点には
この道は中山道道標(黄色囲み)があります、京方面からは斜め左に入ります。

 PM2:21 伏見宿着 太田宿まで7.4km

 伏見旧道が国道21号線に合流する辺りが伏見宿の江戸(東)です、伏見宿に到着です!

木曽川の流れが変わり、土田の渡し場が上流の今渡に移設されると、土田(どた)宿は廃宿となり、太田宿が新設されました、それに伴い対岸の間の宿であった伏見が元禄七年(1694)宿場に昇格しました、中山道制定から九十年後のことでした。

伏見宿は木曽川に新村湊(しんむらみなと)を控え、荷の集積地として栄え、太田の渡しが川止めになると、旅人が溢れたといいます。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によれば、伏見宿宿内家数は八十二軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠二十九軒、宿内人口は四百八十五人(男二百三十人 女二百五十五人)で、伏見宿の宿長は五町十六間(約574m)でした。

御嵩町伏見公民館前に
伏見宿本陣之跡(碑)があります、本陣は代々岡田与治右衛門が勤め、建坪百二十坪、門構え、玄関付でした。
本陣之跡

 嘉永元年(1848)に本陣他二十六戸が大火で焼失し、その後、本陣は再建されることなく明治維新を迎えました。

脇本陣は代々岡田与兵衛が勤めました。

本陣之跡碑の並びに
領界石「是よ里東尾州領」があります、元は伏見宿の西坂に設置されていました。

先の伏見交差点手前の右手に
一本松公園があります、立派な休憩所トイレがあります。

ここに
兼山道追分道標「右御嵩/左兼山 八百津」があります、 斉藤道三の養子斉藤正義が築いた兼山城へ通じる兼山道の追分です、この筋には木曽川の新村湊があります、桑名、名古屋、四日市への舟運があり、川舟は伊勢参りの足でもありました。
領界石 休憩所&トイレ 兼山道道標

 伏見交差点を越すと左手に旅籠三吉屋跡があります、生薬感応丸(しょうやくかんのうがん)を商い評判でした。

文政七年(1824)にオランダ商人が幕府に
ラクダを献上したが断られ、このラクダが見世物興行師の手に渡り、各地を巡回していました。

ところがこの興行師が病に罹り、
旅籠三吉屋に三日間ほど逗留したところ、近隣の村々からラクダ見物のため二日間で二千人以上の人が集まってきたといいます。

東濃実業高校を過ぎると右手に
常夜燈があり、奥に道祖神祠があります、この辺りが伏見宿(西)です。

次いで右手に
南無阿弥陀佛名号碑があります。
旅籠三吉屋跡 道祖神 名号碑

 
槍ケ岳を開山した浄土宗の播隆(ばんりゅう)上人が建立したものです。

  先の左手に正岡子規の句碑「すげ笠の 生國名のれ ほととぎす」があります、子規は伏見に宿泊し、新村湊から川舟で木曽川を下りました。

先の上恵土(かみえど)交差点から左の筋は
犬山道(県道122号線)です。

GSキグナス前に大正四年(1915)建立の
犬山道追分道標「右 太田渡ヲ経テ岐阜市ニ至ル約九里」「左 多治見及犬山ニ至ル約四里」があります。
正岡子規句碑 犬山道道標 木曽海道六十九次之内 伏見 広重画

 
広重伏見として、犬山街道の中恵土にあった伏見大杉(中恵土大杉)を描いています。

残念ながら樹齢千年といわれたこの
大杉は昭和九年(1934)の室戸台風で倒れてしまい、今は 御妃塚名木大杉跡碑を残すのみです。

この大杉跡碑は
犬山街道を進み上恵戸本郷南交差点を越え、左手の美容室TOM先の左手民家前にあります。

 先に進むと右手に弘法堂があります、境内には四国西国巡礼碑新四国第八十六番札所碑があります。

並びに
上恵土神社があります、寛文六年(1666)の再建で、神明神社白山神社が合祀されています。

スグ先の右手パチンコの
スクエアアクア先が変則三叉路になっています、中央の直進する歩行者専用道を進みます。

京方面からは
市原産業先から左側の歩行者専用道を進みます。
弘法堂 上恵土神社 変則三叉路 歩行者専用道

 中恵土交差点手前右手の中恵土地下道脇に中山道一里塚の跡(碑)があります、碑正面には「これより約30メートル東」、右面「江戸・伏見宿」、左面「京、今度の渡し・太田宿」と刻まれています。

恵土の一里塚跡です、江戸日本橋より九十七里目、京へ三十七里です。

愛知用水大東橋で渡ります、愛知用水は昭和二十二年(1947)の大旱魃で知多半島一帯が大被害を受けた為、後に用水路を開削し、木曽川の水を知多半島に供給しました。

大東橋を渡り、
加茂公設市場交差点を右折(白色矢印)し、突当りを左折します、可茂中央市場を右に見て進むと、右手に辞世塚があります、辞世が刻まれた碑が数基あります。
恵土一里塚跡 可茂公設市場分岐 辞世塚

 JR太多線中仙道踏切で横断します。

左手の可児人形店を過ぎると右手の自然石擁壁上に
御料地払下開墾記念碑があり、並びに開運北辰妙見大菩薩碑があります、北辰妙見菩薩北斗七星または北極星を神格化した神で、国土を守り、災を消し去り、敵を退け、人の幸せと寿命を増す有難い菩薩です。

先に進み可児市今渡大東歩道橋交差点を越えると左手の東住吉自治会館前に
秋葉神社の小社が祀られています。

先の
住吉交差点を直進します。
中仙道踏切 開墾記念碑 妙見大菩薩 秋葉神社

 交差点左の国道248号線は
名古屋道です。

 先に進むと右手に今渡(いまわたり)神社の鳥居があります、社殿は奥に鎮座しています、今渡村の鎮守です。

今渡(いまわたり)村には
立場が置かれ、渡しを控え大いに賑わったといいます。

今渡公民館南交差点を越すと右手に臨済宗妙心寺派
龍洞寺があります、本尊は聖観世音菩薩です。

境内に
龍の枕石があります、昔、木曽川の洞穴に夫婦の龍神が棲んでいました、この龍神は時より嵐を巻き起こし里人を苦しめました。
ある日、
江陽という坊さんが三日三晩祈祷を行うと突如、岩が割れ、水柱が立ち、雄の龍は昇天し、雌の龍は深い淵に沈みました。
今渡神社 龍洞寺 龍の枕石

 村人が恐るおそる岩の割れ目を覗くと、
龍の寝枕が残っていました、村人は龍洞寺を建立し、本堂の西にこの龍の枕石を祀りました。

 先に進むと右手に富士浅間神社があります、元禄時代の創祀と伝えられ、七社が合祀されています。

富士浅間神社前の
Y字路を直進(白色矢印)します、右(黄色矢印)は太田橋です。

直進すると右手に
別格今渡弘法大師舊蹟碑があります、ここを右折(白色矢印)すると今渡の渡し場跡です。

この分岐点を直進(黄色矢印)すると天明以前の
土田(どた)の渡し場跡があります、天明以降、木曽川の流れが変わり、渡し場が上流の今渡に変更となり、土田(どた)宿は廃宿となり、太田宿が新設され、それに伴い対岸の間の宿であった伏見が元禄七年(1694)宿場に昇格となり、以降、今渡の渡しは明治の世まで続きました。
富士浅間神社 今渡分岐 渡し場跡分岐

 それでは今渡の渡し場跡に向いましょう、南無弘法大師の幟に沿って進むと左手に庚申塔があり、下りの石段になります。

正面に
木曽川が望めます、三留野以来の再会です、しばらく見ぬ間に堂々たる大河に成長しています!

石段を下ると
ふれあいの里弘法堂があります、境内には可児(かに)の名地水錦江(きんこう)があります。

境内の自然石の段上に
延命の巌(いわお)が安置されています。
木曽川再会 弘法堂 錦江水 延命の巌

 解説に「この岩は、さざれ石(小さい石)が海底に堆積して地層となり幾万年もの間に岩となり、隆起して地上に出た堆積岩です。何時の時代に誰が何処から運んだか不明ですが悠久の時代を越えた「さざれ石の巌」です。」と記されています。

さざれ石の巌君が代の一節に登場しています、日本国土の成立ちを表しています。

 弘法堂脇から更に石段を下り、石畳を左に進むと市指定史跡今渡の渡し場跡(標柱)があります、対岸は太田の渡し場跡です、木曽川の渡しは舟渡しでした。

この
今渡の渡しは中山道の三代難所の一つ「木曽のかけはし 太田の渡し うすい峠がなくばよい」と詠われました。

木曽川が出水すると船止めとなり、今渡村は旅人で賑わい、繁栄したといいます。

明治三十四年(1901)には両岸に
鉄索(ワイヤー)を張り、それに滑車を取り付け、これに船を繋ぎ、川の流れを利用して対岸へ船を進める岡田式渡船となりました。

昭和二年(1927)
太田橋の完成で、その役目を終えました。
弘法堂脇の石段 石畳 今渡の渡し場

 太田南畝壬戌紀行の中で「大田川(木曽川)を渡るには一町ばかり川上船にのるに、流れ急にして、目くるめくばかりなり」と著しています。

ところが
広重は穏かな今渡の渡し場風景を描いています、画中には(いかだ)が描かれています、尾張藩領の木曽ヒノキ等を筏に組んで熱田湊まで輸送しました。

太田宿には慶長十五年(1610)に
大久保長安から差し出された太田渡船頭屋敷安堵状により船頭八人の屋敷が保証されていました、渡しで使用される船は渡船四艘、鵜飼船五艘、御馳走船一艘が尾張藩から貸し与えられ、船頭十六人に対し給米一石が与えられていました。

水戸天狗勢は何の抵抗も受けずに、無事に渡河しました。
木曽海道六十九次之内 太田 広重画

 石段に戻り、上り詰めの庚申塔まで戻ります、ここを左にヘアピン状に回り込み、木曽川に沿って道なりに進みます、これが今渡の渡し場からの迂回路です。

迂回路はコーヒー&ケーキの
ホワイト・リリィ脇から太田橋袂(南詰)に出ます。

車道を挟んだ向かいに
渡し場跡公園があります、園内には御影石の今渡の渡し場跡碑「木曽のかけはし 太田の渡し うすい峠がなくばよい」と同じく御影石のがあります、碑面には天明以前の土田の渡し場と天明以後の今渡の渡し場位置が示された地図が刻まれています。
迂回路 渡し場公園 太田橋歩道橋 木曽川

 目の前の
太田橋歩道橋で今は安全に木曽川を渡れます、上流側には八百津の山並が遠望できます、木曽谷で切り出された材木木曽川に流され、八百津(いかだ)に組まれ下ってきました、今でも筏が上流から現れそうな気がします。

流れの中央で
可児市から美濃加茂市に入ります。

 太田橋を渡り、袂の美濃加茂市へ看板の手前を左折して土手道に入ります、右手には飛騨木曽川国定公園標識があります。

土手道の左下の河川敷に
化石林(かせきりん)公園があります、今から約千八百万年前の森林が立ったままの状態で埋没し、化石化して出来たものです。

平成六年(1994)九月、近年にない
渇水により、河床に化石化された根元部分が多数(約四百本余)林状に立っているのが発見され、化石林と確認されたものです。

園内を
太田橋方向に進みます。
化石林公園 太田の渡し場跡 昭和二年頃の渡し場風景

 すると石畳が現れます、
大田の渡し場跡です、対岸は今渡の渡し場跡です。

 土手上に戻り、そのまま土手道を進みます。

木曽川の景を堪能しながら、しばらく進むと右手土手下の文化会館に
一里塚跡(標柱)があります、古井(こび)の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて九十八里目です。

今渡の渡し場が新設されると、これに伴い新たに一里塚が築かれました。

先に進むと右手に
岡本太郎終焉の地碑があります、漫画家の岡本一平(1886~1948)は岡本太郎の父親です、そして母親は岡本かの子です、かの子は夫一平と愛人と一緒に同居するという、奇妙な夫婦生活を送ったことで知られています。

岡本かの子は短編小説
東海道五十三次を著しています。
一里塚跡 岡本一平終焉地 土手道分岐

 碑の先を斜め右(白色矢印)のスロープ下ります。

 坂を下りきったら右折します、太田宿の東枡形です、この分岐点には四角いコンクリート製の柏木ポンプ場があります。

突当りの
神明堂交差点を左折(白色矢印)します。

神明堂交差点を右折(黄色矢印)すると
Y字路の中央に道標「左 飛騨高山 右 東京善光寺」があります、飛騨高山道東京善光寺道の追分です。

この
道標は明治時代に篤志家の伊藤萬蔵が建立したものです。
土手下分岐 神明堂分岐 飛騨街道追分 追分道標

 水車が回る、古風な米問屋小島屋を過ぎると、左手に中山道太田宿標石があります。

次いで左手に
神明水神公園があります、休憩所や清潔な洋式のトイレがあります、旧道を歩くと和式のトイレが多いので洋式は助かります。

先の右手に
中山道太田宿碑があります、碑面には「右御嵩伏見宿三里/左太田脇本陣宿三丁」と刻まれています。

次いで左手に
法華経塚があります、髯文字の南無妙法蓮華経題目碑です、法華経は日蓮宗の題目です。
太田宿標石 神明水神公園 太田宿碑 法華経塚

 PM4:14 太田宿着

木戸門跡 太田宿起点 祝杯
 先の左手に新町木戸門跡(標柱)があります、太田宿の江戸(西)です、太田宿に到着です!

宿並を進むと右手に
増井写真店があります、ここの右手(黄色矢印)先が美濃太田駅です、ここが太田宿の起点です、本日の街道ウォークはここまでです。

刻限はPM4:14です、帰宅最終タイムリミットの
JR高山本線岐阜駅行は4:56発です、余裕をもって到着です。

岐阜駅からは
東海道本線の乗り継ぎです、岐阜駅→豊橋駅→浜松駅→静岡駅→熱海駅→横浜駅、そして0:04JR京浜東北線東神奈川駅に到着します。

6時間余りの電車旅です、通い慣れたもんです!

片手に例のモノがあれば、何てことはありません!!




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