冬を迎えると例年、垂井、関ケ原そして彦根にかけて豪雪となり、度々JR東海道新幹線のダイヤを混乱させます。 この時期の美濃路ウォークはこの雪の情報を的確に掴まなくてはなりません。 これには大変有効な情報源があります、ずばりインターネット検索です。 検索に岐阜県ライブカメラと入力します、次いで岐阜大学をクリックします、するとキャンパスのカメラ映像が3カット映し出されます。 キャンパスに全く積雪の気配はありません、決行です。 次いで列車の乗り継ぎをインターネットで検索します、名古屋駅から美濃太田駅に向かう場合、2通りのルートがあります。 一つは名古屋駅からJR東海道本線にて岐阜駅まで行き、ここからJR高山本線に乗り換えて美濃太田駅に到達するルートです。 もう一つは名古屋駅からJR中央本線にて多治見駅まで行き、ここからJR太多(たいた)線)に乗換えて美濃太田駅に出ルートです。 岐阜駅ルートの所要時間は1時間18分です、多治見駅ルートの所要時間は1時間10分です、多治見駅ルートに決定です。 PM11:00に起床し、歩いて横浜駅天理ビル前に行き、23:45に高速夜行バスに乗車します。 車内では空席を確保し、更に仮眠します。 定刻のAM6:40名古屋駅西口に到着です。 名古屋駅構内の売店で握り飯2個と飲み物を購入し、車中で食事を済ませます。 美濃太田駅南口を出ると坪内逍遥の胸像が出迎えてくれます、太田宿に向かう県道347号線には各星座を型取った像が並んでいます。
酒造所の脇道に入ると黒い酒蔵が並び、その規模の大きさに圧倒されます。
スグ先の左手に坪内逍遥ゆかりの妙見堂(標識)があります、日蓮宗太田教会の境内には髭文字南無妙法蓮華経題目碑があります。 坪内逍遥の父平之進(平右衛門ともいう)は代官所の手代で、十一石三人扶持の下級武士でした、逍遥は安政六年(1859)大田代官所役宅で十人兄妹の末子として誕生しました。
対岸に迫るは鳩吹山(はとふきやま)、ここ坂祝河畔は、ライン下り第一の佳景。特に行幸巌からの眺望は、古来幾多の名士嘆賞の地として名高い」と刻まれています。
先に進み右手の藤枝塗装の手前を奥に進むと平野神社があります、元禄二年(1689)十一月本社造営の棟札があります、村の鎮守です。
この辺りが勝山湊跡です、近郷の年貢米の積み出し(津出し)が行われました。
駐車場入口に標識「気をつけてお帰り下さいこれより岐阜方面」があります、この標識の下に案内標識「中山道左へ」が取り付けてあります。 駐車場内奥の石段(白色矢印)を下ります。
合戸池は江戸時代から農業用水として利用されました、明治二十四年(1891)の濃尾大地震で決壊し、下流域に甚大な被害をもたらしました、現在は雨水調整池として機能しています。
この犬山城は現存する日本最古の木造天守閣で国宝指定です。
中山道は鵜沼宿(尾張藩領)から各務村(幕府領)を経て、再び鵜沼村に入りました、尾張藩はこの村境を明示するために「是より東尾州領」「是より西尾州領」の二本の傍示石を境境に設置しました。 中山道鵜沼宿再生整備に当たり、各傍示石はここに移設されました。
往時は河内屋という旅籠で、絹屋が本家でした、この河内屋の井戸水は水質が良かったため、皇女和宮通行の際に、食事用の水として指定されました、明治に入ると酒蔵を営むようになり現在に至っています、本蔵と豆蔵は登録有形文化財です。
坂井脇本陣は門構玄関付きで、建坪七十五坪でした、現在の建物は元治元年(1864)の鵜沼宿家並絵図に描かれた幕末期の坂井家を復元したものです。
主屋は門を入った正面に切妻造りの破風を付け、式台玄関を設けた格式高い造りになっています。
以来、宿では師走の二十八日には餅をつかなくなったといいます、復興後、ここに火防を祈願して秋葉常夜燈が祀られました。
更に上り坂を進むと右手に弘法大師像を安置する八木山弘法堂があります、境内には文化四年(1807)建立の六十六部廻国供養塔をはじめ多数の石塔石仏が並んでいます。
スグ先のおがせ町交差点左手のキッチンパートナーヤマワ前の祠内に明治三十九年(1906)建立の三面六臂馬頭観音像が安置されています。 鵜沼宿に移設された是より東尾州領傍示石はこの辺りにあったものです、ここより西は幕府領(天領)でした。
JR高山本線各務ケ原(かがみがはら)駅前の各務原(かかみがはら)町交差点の辺りに鵜沼宿に移設された是より西尾州領傍示石がありました、再び尾張藩領に入ります。
側道を進み跨線橋で名鉄各務原線(かかみがはらせん)を横断します。 カワサキライフ前で再び国道21号線に合流します。
国立岐阜大学の敷地跡です、園内には多数の古木が保存されています。
しかしこの茶屋は悪人の巣窟でした、居合わせた六十六部の僧がこれを懲らしめ、娘は難を逃れました、この僧は何を隠そう義賊のねずみ小僧次郎吉でした。
本日は何としても河渡宿まで行かねばなりません、食堂に入って昼食を摂る余裕はありません、コンビニで肉まんとカレーまんで済ませます、それも歩きながらです、ノープロブレムです!
永禄八年(1563)織田信長の美濃攻め(新加納の戦い)で焼失し、関ケ原の戦いの後、松倉城(現各務原市にあった戦国時代の城)城主坪内氏が羽栗郡各務部を治める大身旗本となり新加納に陣屋を設け、少林寺を菩提寺として再興しました。
水戸天狗勢は加納藩との約定通り、新加納の辺りから中山道を離れ間道に入りました、これ以降は京への道を模索する彷徨の行軍となりました、琵琶湖東岸には彦根藩が布陣し、先の桜田門外の変で主君井伊直弼(なおすけ)を水戸浪士に暗殺され、その怨みを晴らすべく士気が高かったといいます。 一行に残された道は越前若狭を経て京に至る経路しかありませんでした、しかしそこには厳冬期は通行が途絶える難所蝿帽子(はいぼうし)峠が控えていました、一行は馬も荷も捨て、凍死者を出しながら峠を越えました、しかし行く先々の橋は落とされ、村は焼き払われ食料も尽き、深い積雪と加賀藩に行く手を阻まれてしまいました。 天狗勢一行はここで主君一橋慶喜が朝廷から天狗勢の追討総督に任じられ、海津まで出陣していることを知ると、「公には弓引けぬ」と十二月十七日加賀藩に降伏しました、同藩は一行を武士(もののふ)として扱ったが、敦賀に移送され幕府の追討総督田沼意尊に引渡されると、一転過酷な扱いと取調べを受け二十四名が獄死しました。 翌慶応元年(1865)二月武田耕雲斎以下三百五十二名が斬首となり、維新を目前にし、野の露と消えました、武田耕雲斎、山国兵部、田丸稲之衛門、藤田小四郎の首は塩漬けにされ中山道を通行して水戸に戻り晒され、過酷にも総大将武田耕雲斎の家族は斬首されました。
手力雄(てぢからお)神社は貞観(じょうがん)二年(860)の創建で天の岩戸を開いた手力雄命を祀っています。 この辺りは古来より軍略上重要な地点で、都に軍勢が上る際、東海道より東山道に入るには木曽川の渡河地点として、必ずここ長森を通るところから美濃側の防衛拠点としてここに手力雄神社が鎮座されまた。 美濃國の戦略上の要所であるところから度々戦火に見舞われ、慶長五年(1600)の関ケ原の戦いの際には、当神社を祈願所としていた織田氏が西軍についたので徳川家康の攻撃を受け、御神体などごく一部を除き全焼しました。
この神を主祭神としている神社は全国でもここだけです。 街道沿いの祠内には三面六臂馬頭観音像が安置され、祠前に道標「右江戸ミチ 左京ミチ」があります。
次いで名鉄名古屋本線の茶所踏切を横断すると、左手が茶所(ちゃじょ)駅です。
小さな流れを横断すると加納柳町に入ります、突当りの右手に中山道加納宿東番所跡標石があります、加納城下への江戸(東)口です。
天下を掌握した徳川家康は山城の岐阜城を廃し、平城の加納城を築城しました、縄張りは家康自ら行い、普請奉行は本多忠勝が勤めました、建築資材は主に岐阜城の解体材が流用され、岐阜城の天守は加納城の二の丸御三階櫓になりました。
現在、この欄間は濃尾地震の折に、外して遠い親戚に預けたままになっているとのことです。
夕食の本膳は一汁四菜、膾(鰈みぞれ大根二杯酢)汁(赤味噌蕪少々)、香之物(瓜の奈良漬け、沢庵大根)、平(牡丹海老、生湯葉、百合根、葉山椒)、焼物(生鰤の付焼)、それに飯でした。 翌日の朝食は一汁四菜、坪(生いか、小芋、きくらげ、藻ずく)、汁(赤味噌青菜)、香之物(瓜の奈良漬、沢庵大根)、平(半平、水菜、椎茸)、焼物(かけ醤油の小鯛)、それに飯でした。
墓地に新選組隊士加々爪(かがつめ)勝太郎の墓があります、勝之進とも称し、元美濃加納藩士でした。 慶応三年(1867)の幕臣召抱えでは平同士として、見廻組並御雇の格を受けています、翌年一月の鳥羽伏見の戦いに参戦し、江戸帰還後、甲陽鎮撫隊士として出陣し、同年三月六日の勝沼の戦いで討死にしました。
刻限はPM4:04です、河渡宿までは5.9kmあります、更にそこからJR東海道本線の穂積駅迄は3.7kmあります、合計8.6kmです。 時速6kmをキープ出来ても1時間26分です、無論、撮影やメモの時間を倍に見積もると2時間52分です。 穂積駅への到着時間の予定はPM 6:56分です、本日のJR東海道本線穂積駅の帰宅最終タイムリミットはPM5:46です、無理、物理的に無理、ストップウォーキングです! こうなりゃ当然一杯です、岐阜駅脇のたぬきの暖簾を分けます、年配のご夫婦が切り盛りする、居心地の良いお店です!! 常温の日本酒をオーダーします、そして鍋焼きうどんです、これは冬の街道ウォークの定番中の定番です、やっと人心地がつきました、それでは帰りましょう!!!
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