道中日記 1-188 中山道 ( 太田 - 加納 ) 27.1km

 冬を迎えると例年、
垂井関ケ原そして彦根にかけて豪雪となり、度々JR東海道新幹線のダイヤを混乱させます。

この時期の
美濃路ウォークはこの雪の情報を的確に掴まなくてはなりません。

これには大変有効な情報源があります、ずばり
インターネット検索です。

検索に
岐阜県ライブカメラと入力します、次いで岐阜大学をクリックします、するとキャンパスカメラ映像が3カット映し出されます。

キャンパスに全く
積雪の気配はありません、決行です。

次いで高速夜行バスの検索に取り掛かります、生憎2連休前日の為、横浜-名古屋便は3,900円しか選択できません、まあこれは良いでしょう、問題は到着時間です、名古屋駅着がAM6:40です、前回の5時台着が望みなのですがいたしかたありません。

次いで
列車の乗り継ぎをインターネットで検索します、名古屋駅から美濃太田駅に向かう場合、2通りのルートがあります。

一つは名古屋駅からJR
東海道本線にて岐阜駅まで行き、ここからJR高山本線に乗り換えて美濃太田駅に到達するルートです。

もう一つは名古屋駅から
JR中央本線にて多治見駅まで行き、ここからJR太多(たいた))に乗換えて美濃太田駅に出ルートです。

岐阜駅ルートの所要時間は1時間18分です、多治見駅ルートの所要時間は1時間10分です、多治見駅ルートに決定です。

 出発当夜は、夕方から自宅にて一杯やり、ほろ酔い加減になったらPM8:00に仮眠に入ります。

PM11:00に起床し、歩いて横浜駅天理ビル前に行き、23:45に
高速夜行バスに乗車します。

車内では空席を確保し、更に
仮眠します。

定刻のAM6:40
名古屋駅西口に到着です。

名古屋駅構内の
売店で握り飯2個と飲み物を購入し、車中で食事を済ませます。

美濃太田駅南口を出ると
坪内逍遥の胸像が出迎えてくれます、太田宿に向かう県道347号線には各星座を型取った像が並んでいます。

 平成24年02月11日 AM8:45 太田宿出立 鵜沼宿まで9.7km

 突き当り(白線矢印)が太田宿の起点です。

太田宿は
太田の渡し舟運を控え、飛騨街道郡上街道の分岐点にあたり、大いに賑わいました。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によると太田宿宿内家数は百十八軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠二十軒、宿内人口は五百五人(男二百五十九人、女二百四十六人)で、宿並は東から上町、中町、下町で構成され、尾張藩領でした。

太田宿の名物は
蜂屋柿と呼ばれる乾し柿で、別名美濃吊るしとも呼ばれました、平安の後期蜂屋なる者が後鳥羽上皇にこの干柿を献上すると、一躍評判となりました、その後徳川歴代将軍家に献上されました。

それでは出立しましょう、一本目を左折すると左手に
太田稲荷があります。
宿並復帰点 太田稲荷

 境内に播隆(ばんりゅう)上人の墓があります、浄土宗の僧播隆上人は世俗にみちた宗門に失望し、深山霊谷での修行を志し、文政十一年(1828)槍ケ岳を初登頂し、山頂に厨子を設置し、阿弥陀如来、観世音菩薩、文殊菩薩の三尊像を安置し開山しました。

享保十一年(1840)上人は
林脇本陣で病に倒れ、その生涯を閉じました。

並びに昭和二年(1927)に死去した地理学者
志賀重昂(しげたか)の墓があります、 美濃加茂から犬山にかけての木曽川の景観がヨーロッパ中部のライン川に似ているところから日本ラインと命名しました。

宿並に戻ると
上町の枡形があります。
播隆上人墓 志賀重昂墓 上町の枡形

 枡形内の左手に正一位秋葉神社が祀られています、いわずと知れた火防の神です。

左手に臨済宗妙心寺派龍興山
祐泉寺(ゆうせんじ)があります、文明六年(1474)の創建で、本尊の聖観音菩薩は七年毎のご開帳です、当寺には東海道の白隠禅師が度々来訪し、徳を授けました。

祐泉寺前辺りが木曽川の
土田(どた)の渡し場跡です、そのため祐泉寺の山門は宿並に背を向け、木曽川方向に向いています。

本堂の左手に
滝場観音堂があります、宿場が大火に見舞われた際に、焼失を免れたところから火防観音と呼ばれ篤く信仰されました。
秋葉神社 祐泉寺 瀧場観音

 境内にはこの地で生まれ育った坪内逍遥の歌碑があります、碑面には椿二首が刻まれています。
やま椿 さけるを見れば いにしへを 幼きときを 神の代とおもふ
この木の実 ふりにし事の しのばれて 山椿ばな いとなつかしも

並びに
北原白秋歌碑があります。
紅葉堅 秋雨ふれり うち見やる 石燈篭の あお苔のいろ

そして鐘楼の手前には
林由興(太田宿脇本陣三代目当主)によって建立された芭蕉句碑があります。
春なれや なもなき山の 朝がすみ(野ざらし紀行)

貞享(じょうきょう)二年(1685)
二月堂参篭のために伊賀から奈良東大寺へ向かう途中に吟じた句です。
坪内逍遥歌碑 北原白秋歌碑 芭蕉句碑

 宿並に戻ると枡形先の左手に旧旅籠小松屋があります、主屋は江戸時代末期の建築です。

今は太田宿のお
休み処坪内逍遥等の資料が展示されています(入場無料)。

向いが
十六銀行旧太田支店です、明治四十年(1907)の建築で、鬼瓦には銀行を表すの文字があしらわれています。

先に進むと右手に
魚徳があります、御食事処です、店脇に太田宿名物鮎の甘露煮の看板を掲げています、木曽川の鮎を煮込む前に一度素焼きを行うとの事です。
小松屋 旧十六銀行 魚徳 鮎の甘露煮

 隣りが永楽通寶の看板を掲げる永楽屋です、呉服商を営んでいます。

その隣が
辰巳屋と続いています。

太田宿の
旅籠は二十軒あり、内大三軒、中十一軒、小六軒でした、脇本陣林家所蔵の旅籠万覚帳(よろずおぼえちょう)によれば、松屋、岩井屋、坂本屋、三升屋、油屋、今井屋、小松屋などが旅籠を営んでいました。

宿並を進むと右手に
御代桜(みよざくら)醸造があります、宿場時代は茶屋の販売を生業としていました。

明治二十六年(1893)旧本陣の
福田家から酒造権を譲り受け、酒造を始めた老舗蔵元です。
永楽屋 辰巳屋 御代桜酒造

 酒造所の脇道に入ると黒い
酒蔵が並び、その規模の大きさに圧倒されます。

 次いで左手に林脇本陣跡があります、林家脇本陣を勤め、太田村の庄屋尾張藩勘定所の御用達を兼ね、質屋味噌醤油の醸造を手掛けていました。

旧太田脇本陣林家住宅は明和六年(1769)に建築された主屋と、天保二年(1831)に建築された表門袖塀、それに裏の二棟の土蔵から成り立っています、主屋の両端の妻に卯建(うだつ)がたち、ひときわ目を引きます、これは防火壁の役目を果たすと同時に脇本陣の権威を象徴するものです(国指定重要文化財)。

明治十五年(1882)自由民権運動家
板垣退助(乾退助)はここに宿泊し、翌日岐阜で暗殺されています、死の間際に「吾死スルトモ自由ハ死セン」の名言を残しています。

隣の
太田宿中山道会館には宿場時代の資料が豊富に展示されています、ここでは太田宿名物の蜂屋柿が賞味出来ます。
脇本陣跡 太田宿中山道会館

 次いで右手が福田本陣跡です、福田家が本陣を勤め、庄屋を兼ねました、規模は間口二十一間(約37.8m)奥行二十二間(約39.6m)で、建坪な二百二十七坪でした。

現存している
本陣門(薬医門)は文久元年(1861)皇女和宮降嫁の際に新築されたものです。

皇女和宮は当本陣に宿泊しました、太田宿の記録によると人馬継立七千八百五十六人、二百八十疋、寝具布団七千四百四十枚、三百八十個、食器類飯椀八千六十人前、汁椀五千二百十人前、千四十人前、二千百十人前、通り盆五百三十五枚が用意され、当然助郷だけでは間に合わず、足腰の立つ者は全て出役させられたといいます。

それから三年後の元治元年(1864)
水戸天狗勢の総大将武田耕雲斎以下の幹部達は、当本陣での饗応を受け、太田宿より軍資金として八百両の提供を受けました。

武田はこれに感謝し、福田家に
と「武士の思ひ こめにし梓弓(あづさゆみ) ひきつめてこそ 何たわむへき」の一首を贈りました。
本陣跡

 宿並を進み、太田本町4丁目バス停先の十字路を左折(白色矢印)します、西の枡形です。

この十字路の右手が
高札場跡(解説)です、濃州徇行記(のうしゅうじゅんこうき)に「毒薬、親子、火付、切支丹、荷物貫目、駄賃高札」が書かれた高札船高札があったと著されています。

ここは
郡上街道追分です、高札場の向いに明治二十六年(1893)名古屋の篤志家塩問屋の伊藤萬蔵が建立した郡上街道追分道標「右 関上有知(こうずち) 左 西京伊勢 道」(黄色囲み)があります。

枡形内を進むと右手に
庚申堂があり、堂前には正一位秋葉神社が祀られています。
西の枡形 郡上街道追分道標 秋葉神社&庚申堂

 突き当たりが弥勒寺跡です、脇本陣で亡くなった播隆上人はこの弥勒寺に葬られましたが、廃寺になり、祐泉寺墓碑が移設されました。

街道は
枡形を右折(白色矢印)します。

このT字路を突っ切り(黄色矢印)木曽川土手下の道を左に進むと左手に
太田川並番所跡(解説)があります。

木曽川を支配管理するために尾張藩は寛文五年(1665)に川並番所を設置しました、川並番所は錦織奉行所の支配下にあり、船積荷物改や筏川下げの管理や流木の取締りを行いました。

枡形に戻って進み、
国道41号線高架をくぐります。
西の枡形 太田川並番所跡 国道41号線高架

 一本目を左折(白色矢印)し虚空蔵堂前に進みます。 

この分岐点を直進(黄色矢印)すると右手の太田小学校のフェンス際に
尾張太田代官所跡解説があります、尾張藩は天明年間(1781〜89)になると藩政改革として領内の要所地を一括支配する所付(ところづけ)代官を配置しました。

太田代官所は天明二年(1782)に設置され、恵那から鵜沼までの尾張領五万四千石を支配しました、慶応四年(1868)太田代官所は北地総管所と改名され、尾張藩家老の田宮如雲(じょうん)が総管に任命されました。

水戸天狗勢はこの代官所に配慮し、事前に代官高田意六と協議し、その約定により不戦の意を現す、槍の穂先に白紙を巻いて太田宿に入りました。
虚空蔵堂前分岐 太田代官所跡 題目碑

 スグ先の左手に
坪内逍遥ゆかりの妙見堂(標識)があります、日蓮宗太田教会の境内には髭文字南無妙法蓮華経題目碑があります。

坪内逍遥の父平之進(平右衛門ともいう)は代官所の手代で、十一石三人扶持の下級武士でした、逍遥は安政六年(1859)大田代官所役宅で十人兄妹の末子として誕生しました。

 虚空蔵堂前には自然石道標「左 大坂京」があります、この辺りが大井戸の渡し場跡で、太田宿の京(西)口です。

そして
承久の乱大井戸の古戦場跡です、 承久三年(1221)後鳥羽上皇鎌倉幕府倒幕の挙兵をしました、木曽川合戦では朝廷軍が虚空蔵堂辺りに布陣し、大井戸の合戦が行われ、朝廷軍は敗退しました。

虚空蔵堂の裏に
ムクノキの大樹が聳えています、明治二年(1869)父の引退とともない、太田を離れた逍遥は、名古屋に移り住み、その後上京し近代日本文学の基を築きました。

大正八年(1919)に夫婦揃って故郷を訪れ、このムクノキの前で記念撮影をしました、逍遥六十一歳でした。
虚空蔵堂 ムクノキ 逍遥記念写真

 虚空蔵堂を回り込み木曽川土手道を進みます、左手には木曽川の景が堪能できます。

明治二十七年(1894)
日本風景論を著した地理学者志賀重昂は、大正三年(1914)五月、加茂郡教育会の講師に招かれた際、犬山までの木曽川下りを楽しみ、その風景がヨーロッパのライン河に似ているとして、この間の木曽川の河川美を日本ラインと命名しました。

土手下の右手に臨済宗妙心寺派河北山
芳春寺(ほうしゅんじ)と並びに深田村の鎮守深田神社があります。
木曽川土手道 木曽川の景 芳春寺 深田神社

 深田神社社殿の左手に深田の石造庚申像があります、寛文十年(1670)建立の青面金剛像です(美濃加茂市指定有形文化財「彫刻」)。

土手下の日本ライン漁協を過ぎると右手の深田スポット公園に
兼松嘯風(かねまつしょうふう)句碑「山間の 雪の中ゆく 筏かな」があります、嘯風は承応三年(1654)深田村に生まれ、美濃を代表する俳人でした。

加茂川を跨ぎます、この流域には大まや湊があり鵜沼までの舟運がありました、加茂川は美濃加茂市と加茂郡坂祝(さかほぎ)町の境です。

本来の
旧道加茂川の渡り詰め辺りから斜め右に進んでいましたが、今は消滅しています。
庚申像 兼松嘯風句碑 加茂川

 土手道を進み、一色大橋の十字路を右折(白色矢印)します。

突当りの
T字路(国道20号線)を左折(白色矢印)します、京方面からは坂祝町歩道橋先のホテルチョコレ手前を右折します。

坂祝(さかほぎ)の地名は北方向に鎮座する式内社の坂祝神社に由来しています。

酒倉交差点を越すと右手に三菱パジェロ生誕の地と大書きされた、
三菱自動車工業があります。

次いで左手のヤングビーナス薬品工場を過ぎ、小さな流れの
四谷川を越えると左手に史跡一里塚趾(標柱)があります、取組の一里塚跡です、勝山の一里塚とも呼びます、江戸日本橋より数えて九十九里目です。
一色大橋分岐 坂祝町酒倉分岐 一里塚跡

 先に進み坂祝町取組歩道橋の手前を左折(白色矢印)し、突当りの土手階段を上り、再び土手道に合流します。

この土手道は
ロマンチック街道と命名され、快適な遊歩道になっています。

先に進むと右手の行幸公園に
行幸巌(みゆきいわ)があります。

碑文には「日本ラインの景を知らずして河川の美を語るべからずといわれた如く、正にラインの名にそむかず奇勝千変万態、水、狂うかと見ればまた油の如く渦をなして流れ、軽舟飛沫をあびて下る。 
坂祝町取組分岐 土手道階段 ロマンチック街道 行幸巌碑

 対岸に迫るは鳩吹山(はとふきやま)、ここ坂祝河畔は、ライン下り第一の佳景。特に行幸巌からの眺望は、古来幾多の名士嘆賞の地として名高い」と刻まれています。


 木曽川の景勝を楽しみながら進むと、右手の国道21号線を越えた奥に臨済宗妙心寺派大祥山宝積寺(ほうしゃくじ)があります、参道口には南無観世音菩薩の幟がひるがえっています、創建は宝徳年間(1449〜51)で本尊は聖観音です。

この地には
桃太郎伝説があります、木曽川下流の対岸には桃太郎神社があります、取組の地名は桃太郎がと取組し退治した所といい、宝積寺は桃太郎が宝物を積んで帰ってきた所と伝わっています。

取組交差点手前の右手坂祝保育園入口の右手石垣上に
菩薩像二体が祠の中に安置されています、向かって右が元禄八年(1695)建立の観音菩薩立像、左が文化十四年(1817)建立の地蔵菩薩立像です。
宝積寺 石仏 平野神社

 先に進み右手の藤枝塗装の手前を奥に進むと
平野神社があります、元禄二年(1689)十一月本社造営の棟札があります、村の鎮守です。

 ロマンチック街道正面の城山山頂が猿啄(さるばみ)城址です、猿啄城展望台が視認できます。

猿啄城主
多治見修理斉藤道三と通じたところ、永禄八年(1565)織田信長は東美濃攻略を開始、猿啄城攻撃を総大将丹羽長秀、先方川尻鎮吉(しげよし)に命じて、攻撃し落城させました。

信長はこの戦勝を喜び、こ地を
勝山と命名し、川尻鎮吉に猿啄城を与えました、川尻鎮吉は城を勝山城と改称しました、その後天正二年(1575)岩村城に移ると、勝山城は廃城となりました。

勝山交差点手前の土手道右手に
庚申塔小社が祀られています。
猿啄城址 猿啄城展望台 勝山湊跡

 この辺りが
勝山湊跡です、近郷の年貢米の積み出し(津出し)が行われました。

 勝山交差点手前の右手に勝山道標があります、「右江戸善光寺 左せきかじ」と刻まれています、この交差点を右に進むと刀匠関孫六(せきのまごろく)で有名な刀鍛冶のに至ります。

勝山交差点先で土手道の
ロマンチック街道は終了します、国道21号線に下りると右手に勝山神明神社御跡地之碑があります。

勝山西交差点を過ぎると右手にあった
コンビニは廃業になっています、先の右手に岩谷観音駐車場があります、ちょうどこの辺りに三角強飯(こわめし、三角形の赤飯)が名物の立場がありました。

岩谷観音駐車場の奥に
岩屋観音堂への東口があります。
勝山道標 神明神社跡 岩屋観音東口

巌屋坂を上ると巌屋坂之碑があります。

ここからの景観を
岐蘇路安見絵図は「岩窟の内に、くはんのんを安置す。
此辺、左りは木曾川流れ、川辺に岩多く、川向の山々好景也。又木曽川を薪をつみたる船多下る。
急なる故、船の下る事、飛かことく、是またよき見もの也。」と記述しています。

この
巌屋坂皇女和宮降嫁大通行の際、幅一尺五寸(約45cm)拡幅されました。

巌屋坂を上り詰めると
岩屋の中に岩窟観世音菩薩が安置されています、この観音は推古天皇(在位592〜628)の世に勧請されたものと伝わっています。
巌屋坂 巌屋坂之碑 岩屋観音堂

岩屋観音から下り、次いで石段を下り切ると国道21号線の歩道に合流します。

階段口は進行方向とは逆向きになっていますから、
Uターン(白色矢印)します。

スグ先で右(白色矢印)の
旧道痕跡に入ります、旧道は桜並木になっています、旧道はすぐに終了してしまいます。

国道21号線の歩道を進み
桜洞橋橋側歩道橋(上)を渡ります。

左手のカフェテラス
ゆらぎ(廃業)の駐車場に入ります。
岩屋観音西口 旧道痕跡東口 旧道痕跡西口 うとう峠東口

 駐車場入口に
標識「気をつけてお帰り下さいこれより岐阜方面」があります、この標識の下に案内標識「中山道左へ」が取り付けてあります。

駐車場内奥の
石段(白色矢印)を下ります。

 トンネル国道21号線及びJR高山本線をくぐります。

トンネルを抜けると
うとう坂の山道になります。

当初の中仙道は
木曽川に沿って鵜沼まで通じていましたが急傾斜で危険でした、そこで慶安四年(1651)うとう峠越えのうとう坂が開削されました。

うとう峠の
うとうとは、疎(うとい、うとむ、うとう)で、不案内、よそよそしい、気味の悪い、などの意味があります。

峠道には
排水施設が往時のまま残されています。

峠道内には数ケ所の分岐点がありますが案内標識が有りますので問題ありません、
加茂郡から各務原市に入ります。
横断トンネル うとう峠 排水施設

 満々と水を溜める砂防ダムを過ぎるとうとう坂は石畳道になります。

展望デッキへの分岐点を過ぎると左手に
小田原宿喜右衛門菩提碑があります、 うとう峠で盗賊に殺された喜右衛門を弔うために鵜沼の村役人が建立した菩提碑で、碑の右面「うぬまへ拾六丁」左面「太田へ壱里廿丁」と刻まれ道標を兼ねています。

先に進むと右手に
うとう峠の一里塚(北塚)を残しています、直径約10m、高さ約2mの原型を保っています、江戸日本橋より数えてちょうど百里目です。

南塚は太平洋戦争中に航空隊の兵舎建設によって南側の半分が壊されてしまいました。
石畳 喜右衛門菩提碑 うとう峠の一里塚

 うとう峠の一里塚を過ぎると日本ラインうぬまの森のふれあい広場に出ます、うぬまの森は飛騨木曽川国定公園に指定されています。

そのまま石畳風の歩道を進み、
もりの本やさん前を過ぎると車道に出て、左(白色矢印)に進みます、ここがうとう峠西口です、この分岐点にはうとう峠の一里塚跡標識うぬまの森前バス停があります。京方面からは右です。

右手の広大な
合戸池(かっこいけ)に沿って車道を下ります、左手は松並木になっています。
ふれあいの広場 うぬまの森 うとう峠西口 合戸池

 
合戸池は江戸時代から農業用水として利用されました、明治二十四年(1891)の濃尾大地震で決壊し、下流域に甚大な被害をもたらしました、現在は雨水調整池として機能しています。

 鵜沼台一丁目バス停先のY字路を右(白色矢印)に、合戸池に沿って進みます。

右手の小さな祠に安置された
地蔵尊を過ぎると、突当りのT字路を左折(白色矢印)します。

天王坂を下ると右手に南無観世音菩薩、奉納大乗妙典六十六部日本廻国供養塔、馬頭観音像、小さな五輪塔等の鵜沼台の石塔群があります。

更に天王坂下ると正面に
犬山城が遥かに遠望出来ます。
合戸池分岐東 合戸池分岐西 石仏石塔群 犬山城遠景

 英泉は鵜沼として木曽川の左岸段丘上に聳える犬山城と、対岸の鵜沼宿を俯瞰で描いています。

天文六年(1537)
織田信康(信長の叔父)が犬山の丘上に犬山城を築城し、天文十三年(1544)信康斉藤道三の美濃稲葉山城攻め(加納口の戦い)で戦死しました。

元和三年(1617)からは尾張藩の付家老
成瀬家が城主となり幕末まで続きました。

犬山城は別名
白帝城とも呼ばれました、これは長江の丘上に建つ白帝城を詠んだ李白の詩に因み、荻生徂徠が命名したものです。
犬山城 木曽街道 鵜沼ノ驛 従犬山遠望 英泉画

 この
犬山城は現存する日本最古の木造天守閣国宝指定です。

 AM11:16 鵜沼宿着 加納宿まで17.4km

 天王坂を更に下るとY字路になります、右(白色矢印)に進み赤坂の地蔵堂前に出ます、宝暦十三年(1763)造立の地蔵尊には「右ハさいしょ(在所)みち」「左ハせんこうし(善光寺)みち」と刻まれ、道標を兼ねています。

この
お地蔵さんは三度、交通事故に遭っていますが、不思議なことに祠が壊れてもお地蔵さんだけは無事だったそうです、この地蔵堂の前が鵜沼宿東見付跡です、鵜沼宿に到着です!

鵜沼宿は慶安四年(1651)うとう峠の開削にともなって、新設された宿場です、ここは古代から東山道の驛(うまや)が置かれ交通経済の要衝でした、この地は明治二十四年(1891)の濃尾大地震で壊滅的な被害を受けました。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によると鵜沼宿宿内家数は六十八軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠二十五軒(うち大八、中七、小十)で、宿内人口はニ百四十六人(男百十九人、女百ニ十七人)でした。
鵜沼宿東見附跡 赤坂の地蔵堂

 宿並を進むと右手に村社赤坂神社があります、参道口に宝暦六年(1756)建立の山燈籠があります、この辺りに高札場がありました

赤坂神社
は寛永十二年(1635)の遷座で、往時は天王社と称しました、天王坂の地名由来になっています。

宿並を進むと左からの筋に合流します、京方面からは
Y字路になっています、左に進みます、この分岐点には自然石道標「ここは中山道鵜沼宿 これよりうとう峠 左」があります。

スグ前の交差点を横断すると右手に明治三十年(1897)建立の
常夜燈があります、台座には村内安全と刻まれています。
赤坂神社 自然石道標 常夜燈

 次いで坂祝バイパスを横断する鵜沼中山道交差点があります、このバイパスは新道です。

この交差点の手前右手に
高札場が復元されています、本来の位置は東の見付と天王社(現、赤坂神社)の間で南向きに設置されていました。

この
高札場は中山道宿村大概帳の記録に基づいて、復元されています、但し表示は読み易い楷書になっています。

交差点手前の左手に
是より東尾州領と刻まれた尾州領傍示石があります。

交差点を渡った左手には
是より西尾州領と刻まれた尾州領傍示石があります。
高札場 尾州藩東傍示石 尾州藩西傍示石

 中山道は
鵜沼宿(尾張藩領)から各務村(幕府領)を経て、再び鵜沼村に入りました、尾張藩はこの村境を明示するために「是より東尾州領」「是より西尾州領」の二本の傍示石を境境に設置しました。

中山道鵜沼宿再生整備に当たり、各
傍示石はここに移設されました。

 鵜沼中山道交差点を渡った左手にある珈琲陣屋の辺りは問屋場跡です、往時東町西町に各々問屋場があり、ここ東町では代々野口家が問屋を勤めました。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳には「問屋場二ヵ所にて、一日代り継立て、問屋一人、年寄り一人、帳付け一人、人馬指し二人相詰め、重き通行の節は一同罷り出て取り扱い来る」と記されています。

西町桜井家と一日交代で問屋業務を勤めました、安政五年(1858)からは坂井家に代って、野口家が脇本陣も勤めました。

大安寺川大安寺大橋(旧八間橋)で渡ると、西町に入ります、大安寺川はゲンジボタルの名所です。

ここからの宿並からは
電柱が取り払われ、スッキリした景観になっています。
問屋場跡 大安寺大橋

 左手に旧大垣城鉄門があります、大垣城本丸の表門でした、平成二十一年(2009)移築され各務原(かかみがはら)市指定重要文化財です。

構造形式は
高麗門です、正面の木部を全て鉄板で覆い、軒下を白漆喰で塗籠め、火矢による攻撃から門を守っています。

向いに
中山道鵜沼宿町屋館があります、旧旅籠絹屋で、主屋、東側の付属屋、西側の離れの三棟は登録有形文化財に登録され、景観重要建造物に指定されています。

次いで左手に明治四年(1871)創業の
菊川(きくかわ)酒造があります、銘酒美濃地酒篝火の蔵元です。
旧大垣城鉄門 中山道鵜沼宿町屋館 菊川酒造

 往時は
河内屋という旅籠で、絹屋が本家でした、この河内屋の井戸水は水質が良かったため、皇女和宮通行の際に、食事用の水として指定されました、明治に入ると酒蔵を営むようになり現在に至っています、本蔵豆蔵は登録有形文化財です。

 菊川酒造の向いが鵜沼宿本陣跡(解説)です、桜井家本陣を勤め、問屋庄屋を兼ねました。

建坪百七十四坪余り、門構え、玄関付で、御上段、二之間、三之間、広間、御前間、御料理間、勝手上段、納戸、台所等が配置され、御上段の北には築山や泉水がありました。

文化六年(1809)
伊能忠敬と測量方が宿泊し、幕末皇女和宮は当本陣にて昼食を摂りました。

次いで右手に
髭文字南無妙法蓮華経題目碑があります、並びが鵜沼宿脇本陣跡です、坂井家が代々勤め、安政五年(1858)からは当家に代って野呂家脇本陣を勤めました。
鵜沼宿本陣跡 題目碑 鵜沼宿脇本陣跡

 
坂井脇本陣は門構玄関付きで、建坪七十五坪でした、現在の建物は元治元年(1864)の鵜沼宿家並絵図に描かれた幕末期の坂井家を復元したものです。

 復元された坂井脇本陣の建物前に芭蕉句碑が三基並んでいます。

貞享二年(1685)、
野ざらし紀行の途中、松尾芭蕉は鵜沼を訪れ脇本陣坂井家に滞在したと伝えられています。

その後、貞享五年(1688)七月頃、芭蕉は再び脇本陣坂井家を訪れ、次の句を詠みました。
汲溜の 水泡たつや 蝉の声

さらに同年八月頃、再度訪れ、脇本陣坂井家で菊の花を浮かべた
菊花酒(きくかしゅ)のもてなしを受けた折に、主人の求めに応じて、楠の化石に即興の句を彫ったと伝えられています。
ふく志るも 喰へは喰せよ きく之酒

その後、木曽路を通って信濃への更科紀行に旅立つ芭蕉は、美濃を離れる際に、
おくられつ 送りつ果ハ 木曾の秋
と詠み、美濃の俳人たちと別れを惜しんだといいます。
芭蕉句碑群

 脇本陣坂井家の隣がニノ宮神社です、明治六年(1873)建立の拝殿は、登録有形文化財に指定されています。

社殿への石段脇に
二ノ宮神社古墳が残されています、古墳の形は円墳で、大きさは直径29m、およそ六〜七世紀(西暦500〜600年)に造られた古墳と考えられます。

境内の石垣には
横穴式石室が残されています。

宿並に戻ると左手に
旧家が四棟軒を連ねています、全てが文化庁登録有形文化財で、各務原市の景観重要建造物です、手前が坂井家住宅(旧旅籠丸一屋)で、明治二十七年(1894)の建築です。
二ノ宮神社 二ノ宮神社古墳 旧旅籠丸一屋

 主屋は門を入った正面に切妻造りの破風を付け、
式台玄関を設けた格式高い造りになっています。

次は茗荷屋という屋号で旅籠を営んでおりました梅田吉道家住宅です、現在の建物は約百六十年前に建てられ、濃尾震災にも耐えた、中山道鵜沼宿で唯一、江戸時代に甦遡る貴重な建物です。

隣は
梅田昭二家住宅です、主屋は本家(梅田吉道家)に次いで古く、明治元年(1868)の建築です、離れは明治二十五年(1892)濃尾震災の翌年の建築です。

三棟目と四棟目の間に
秋葉常夜燈があります、台石には家内安全と刻まれています。

天保四年(1833)師走二十八日、西町の
藪下半兵衛方餅つきを行ったところ、(へっつい)の火が風にあおられて舞い上がり大火となり、旅籠二十四軒が全焼してしまった。
旧旅籠茗荷屋 梅田昭二家住宅 秋葉常夜燈

 以来、宿では師走の二十八日には餅をつかなくなったといいます、復興後、ここに火防を祈願して
秋葉常夜燈が祀られました。

 四軒目が旧旅籠若竹屋跡(安田家住宅)です、主屋の建築は昭和五年(1930)と比較的新しいが、軒の高さや表構えを周辺に揃え、中山道鵜沼宿の町並みに貢献しています。

右手には
鵜沼西町交流館があります、鵜沼宿の景観重要建造物の保存改修に伴って建設された多目的ホールです。

水戸天狗勢一行は鵜沼宿に宿営すると、加納藩の使いが来ました、「このまま一行が進軍すれば加納藩(譜代三万二千石)の城下町加納宿に至る、戦になれば宿場は兵火に晒され、民は途端の苦しみを味わうことになる、ついては間道への迂回を所望し、軍資金三千両を進呈する」との口上でした、総大将武田耕雲斎は了承しました。

この先中山道の
河渡川(長良川)の河渡宿付近には大垣藩(十万石)、彦根藩(譜代二十万石)、桑名藩(十一万石)が迎撃態勢をとっていました。
旧旅籠若竹屋 鵜沼西町交流館

 伊木山通り、八木山通りの信号交差点を渡ると左手に中山道鵜沼宿碑があります。

緩い上り坂を進むと右手に
献灯そして狛犬を配した小さながあります、鵜沼宿京口の道祖神かもしれません。

更に進むと右手に新設された
木曽川泥流堆積物解説があります、木曽川泥流堆積物とは七十五万年前から活動している御嶽山が、五万年前に大崩壊を起こし、土砂が山麓の東側から大滝川木曽川により約二百キロ流れ下り、各務原台地まで辿り着いた溶岩礫を含む泥のことをいいます。

そのほとんどが流れ下って流失してしまいましたが、この地に堆積物の一部が露出しています、
坊の塚古墳の下部、鵜沼脇本陣の庭園、伊木山の北西部などに認められます。
中山道鵜沼宿 小社 木曽川泥流

 次いで右手に元禄十一年(1698)建立の南無観世音菩薩三界萬霊塔馬頭観世音文字塔の三基が祀られています。 

並びに
西の見附跡(解説)があります、解説には「鵜沼宿の見附は江戸時代の鵜沼宿家並絵図(中島家文書)に描かれています、家並図と現在の地図を照らし合わせると、西の見附は概ねこの解説の辺りと考えられます。」と記されています。

脇の石段を上ると
翠池(葭池)の景が広がります、農業用の溜池です。
石塔群 西の見附跡 翠池 八木山弘法堂

 更に上り坂を進むと右手に
弘法大師像を安置する八木山弘法堂があります、境内には文化四年(1807)建立の六十六部廻国供養塔をはじめ多数の石塔石仏が並んでいます。

 弘法堂を過ぎると鵜沼西町から鵜沼羽場町に入ります、空安寺手前の右手奥に衣裳塚古墳があります、墳丘の規模は直径52m、高さが7mあり、県下最大の円墳です。

次いで真宗大谷派光雲山
空安寺があります、京方面からの参勤交代の行列はこの空安寺辺りで、隊列を立て直し、「したにー、したにー」と大声を上げて、恰好を付けながら鵜沼宿内に入って行きました。

先に進み左手の
都クリニックの手前を左に入り、一本目を右に進むと坊の塚古墳があります、大垣市昼飯大塚古墳に次いで県下二番目の規模を有する前方後円墳です、規模は全長120m、後円部直径72m、高さ10m、前円部最大幅66mです。
衣裳塚古墳 空安寺 坊の塚古墳

 鵜沼宿街道に戻って進み、信号交差点を越すと右手に津島神社拝殿を兼ねた皆楽座があります。

村芝居が上演された
芝居小屋で回り舞台、囃子座仮、楽屋、奈落を備えています、皆楽座は明治二十四年(1891)の濃尾地震で倒壊し、明治三十一年(1898)倒壊した資材を再利用し、再建されました、拝殿の為、客席は無く、公演時は舞台前面にむしろを敷いて見物席としました。

先の右手ゼロオートの手前に明治二十九年(1896)建立の
愛宕神社常夜燈があります、社殿は500m先の山中に鎮座しています。

鵜沼宿街道は
鵜沼羽場町交差点にて国道21号線に吸収されます、京方面からは交差点を直進します。
津島神社階楽座 愛宕神社常夜燈 馬頭観音

 スグ先の
おがせ町交差点左手のキッチンパートナーヤマワ前の祠内に明治三十九年(1906)建立の三面六臂馬頭観音像が安置されています。

鵜沼宿に移設された
是より東尾州領傍示石はこの辺りにあったものです、ここより西は幕府領(天領)でした。

 山の前町交差点先で国道21号線は高架になります、左側高架下の側道に入ります。

側道を進むと左手前に
旅人道中安全碑があり、奥に槍ケ岳開祖の播隆上人碑があります、この碑は濃尾地震で折れてしまったといいます。

この碑の所が
山の前の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて百二里目です。

※百一里目の
一里塚は不明です。

先に進み
JR高山本線跨線橋で横断します、先で再び国道21号線に合流します、京方面からは右手の中華料理珍々亭の先から高架下右側の側道に入ります。
山の前分岐東 山の前の一里塚跡 山の前分岐西

 JR高山本線
各務ケ原(かがみがはら)前の各務原(かかみがはら)町交差点の辺りに鵜沼宿に移設された是より西尾州領傍示石がありました、再び尾張藩領に入ります。

 往時は鵜沼を出ると加納迄一面の野原(各務野)でした。

美濃の由来はここ各務野(かかみの)、揖斐川上流の大野、大垣市の青野の三野をみのといい、これが美濃に転化したものです。

三ツ池町3丁目交差点を越すと、ニトリの前に
二十軒バス停があります、この辺りに立場のニ十軒茶屋がありました。

三ツ池町交差点手前の右手に
神明神社があります、二の鳥居をくぐると正面に(ばんぺい)があります、蕃塀は神社の拝殿の前にある衝立状の塀で、不浄なものの侵入を防いでいます。

明治三十五年(1902)に再建された舞台形式の
拝殿は昭和三十四年(1959)九月二十六日の伊勢湾台風で境内の樹木が拝殿の上に倒れ、倒壊しました。
藩塀 神明神社

 街道に戻り、三ツ池町交差点を三ツ池地下道で横断すると右手に曹洞宗長楽寺があります、境内の祠内に三面六臂馬頭観音像が安置されています。

三ツ池新田は鵜沼宿本陣桜井家の一族が開墾を行いました。

次いで右手に
地蔵祠があります、祠内に地蔵尊坐像立像の二体が安置されています。

川崎町から三柿野町に入ります、三柿野の地名は、往時の滝新田、沢村、村の各頭文字の一字をとって明治七年(1874)に命名されたものです。

三柿野駅前交差点から右側(白色矢印)の
側道に入ります。
馬頭観音 地蔵祠 三柿野分岐東

 側道を進み
跨線橋名鉄各務原線(かかみがはらせん)を横断します。

カワサキライフ前で再び国道21号線に合流します。

 スグ先の三柿野町交差点Y字路になっています、国道21号線から分岐して右に進みます。

蘇原(そはら)六軒町に入ります、左手に真宗大谷派佛國山竹林寺があります。

向いに
旧中山道六軒一里塚跡(標柱)があります、江戸日本橋より数えて百三里目です、この辺りが六軒茶屋の立場跡でしたが、往時「野をわけゆけば六軒茶屋の村はわびしきさま也」といわれました。

先に進むと右手の六軒公民館前に火伏の
神秋葉神社が祀られています。
三柿野町Y字路 竹林寺 六軒一里塚跡 秋葉神社

 次いで右手に地蔵祠があります、真新しい花が供えられ、大事にされています。

信号交差点を過ぎると右手に村社
神明神社があります、社殿前に(ばんぺい)があります。

参道口の左手に
三面六臂馬頭観音像が祠の中に安置されています、周囲には馬頭観世音菩薩と染め抜かれた幟がはためいています。

各務原市役所先の右手に各務原市民公園があります。
地蔵尊 神明神社 馬頭観音 各務原市民公園

 
国立岐阜大学の敷地跡です、園内には多数の古木が保存されています。

 新境川手前を右に進み、名鉄各務原線を越え、右手の那加幼稚園前を進むと神明神社があります。

境内に
播隆上人南無阿弥陀佛名号碑があります。

播隆上人は天明六年(1786)の生まれ、若い頃から信仰心が篤く、浄土宗の僧となりました、やがて寺院を離れ深山幽谷に信仰の場を求め、槍ケ岳開山の業績を残しました。

上人はおのれの修行だけでなく庶民の中に入って念仏を広め、各地に
名号碑を残し、生涯一介の苦行僧で通し、天保十一年(1840)中山道太田宿で五十五歳の生涯を閉じました。

並びに
ねずみ小僧次郎吉の碑があります、旅の若い娘が森の中にあったいろは茶屋に一夜の宿を求めました。
名号碑 播隆上人 ねずみ小僧碑

 しかしこの
茶屋は悪人の巣窟でした、居合わせた六十六部の僧がこれを懲らしめ、娘は難を逃れました、この僧は何を隠そう義賊のねずみ小僧次郎吉でした。

 街道に戻り、新境川那加橋で渡ります、戦国時代までは美濃尾張の國境でした、両岸が各務原桜名所百選になっています、この桜並木は歌舞伎役者市川百(ひゃく)十郎が寄贈したもので、百十郎桜と呼ばれています。

各務原市那加歩道橋手前の右手に
栄町秋葉神社があります。

なか21モールゲートをくぐり、西那加交差点を過ぎると右手に西那加稲荷神社があります。

刻限はPM1:35です、腹が減りました。
新境川 栄町秋葉神社 西那加稲荷神社 昼食

 本日は何としても
河渡宿まで行かねばなりません、食堂に入って昼食を摂る余裕はありません、コンビニで肉まんカレーまんで済ませます、それも歩きながらです、ノープロブレムです!

 新加納町交差点正面のY字路を右に進みます。

新加納町東バス停を過ぎると右手に那加新加納町の
秋葉神社があります、見事な石積の上に小社が祀られています。

秋葉神社の並びに美濃の地
酒榮一、銘酒百十郎の蔵元林本店があります、創業は大正時代です、仕込みの水は長良川の伏流水です、酒蔵見学が可能です、試飲(有料)も出来ます。

スグ先左手の植込みの中に自然石の
中仙道標石があります。
新加納町分岐 新加納町秋葉神社 銘酒榮一 中仙道標石

 林本店先を右に入ると日吉神社があります、 大津の山王総本宮日吉大社の分祀で、この地の守
り神として崇められてきました。

昭和三十四年までは、境内一帯に樹齢数百年の桧、杉の大樹が林立していましたが未曾有の
伊勢湾台風により倒木しました。

狛犬が
狛蛙になっています、境内には昭和四十七年頃まで瓢箪池があり多数の蝦蟇が生息し、四月の例祭はがえろ祭りと通称され親しまれていました。

街道に戻るとスグ先の左手奥に臨済宗泰瑞山
法光寺があります、参道口に地蔵観音堂再建開創三百年記念碑があります。
日吉神社 狛蛙 法光寺

 先がY字路になっています、この辺りが新加納立場跡です、鵜沼宿加納宿の間は四里十町(約17Km)と距離が長いため立場(たてば)と呼ばれる小休所がここ新加納に設けられました。

両宿の中間に位置し、小規模ながら旗本
坪内氏の城下町であったところから中山道の間の宿として栄えました。

宿内には立場茶屋尾張屋、美濃屋、梅村屋等があり、
皇女和宮梅村屋茶屋本陣で休息しました。

Y字路を左(白色矢印)に入ります、右は新道です。

この分岐点に
新加納一里塚(標柱)があります、江戸日本橋より数えて百四里目です。
新加納立場跡 中山道分間延絵図 一里塚跡

 突当りの今尾医院を右折(白色)します、新加納間の宿枡形です。

この突当りが
高札場跡(標石)です。

左(黄色矢印)に
道標「左 木曽路」「右 京道」「南 かさ松」があります。

更に進み、一本目を右折すると右手に大身旗本
坪内氏御典医を勤めた今尾家屋敷(国登録有形文化財)を残しています。

屋敷の向いには慶応四年(1868)今尾医院が建立した
薬師堂があります有形文化財です。
新加納間の宿枡形 高札場跡 道標 今尾御典医屋敷

 今尾家前をそのまま直進すると右手に浄土真宗大谷派遇光山善休寺があります、本尊は阿弥陀如来です。

当山は
織田信長にゆかりの深い本光院(京都市上京区七本松)の帰依深く、筋塀(塀に三本筋入り)が許され、菊花紋入りの品を寄付され祈願所と定められていました。

又、
尾張徳川家が各務原の狩りの折、宿所として以来信仰が篤く、特別に葵の紋を賜っています。

直進すると臨済宗妙心寺派龍慶山
少林禅寺があります、鎌倉時代の応長元年(1311)尾張国葉栗郡小網島村(現各務原市川島小網町)にかなり大きな伽藍をもつ寺院として開山するも、木曽川の氾濫に悩まされ続け、正中二年(1325)には洪水により大きな被害を受け荒廃し、明応八年(1499)再興され現在地に移りました。
善休寺 少林寺

 永禄八年(1563)
織田信長の美濃攻め(新加納の戦い)で焼失し、関ケ原の戦いの後、松倉城(現各務原市にあった戦国時代の城)城主坪内氏が羽栗郡各務部を治める大身旗本となり新加納に陣屋を設け、少林寺菩提寺として再興しました。

 境内の奥に坪内家歴代の墓所(各務原市指定史跡)があります、坪内利定織田信長の家臣で、木下藤吉郎墨俣城(一夜城)の築城に際し、松倉で材木を加工し木曽川に流し功績を挙げ、その後家康に仕え関ケ原の戦いで戦功を挙げ美濃國羽栗郡、各務郡二十ケ村、五千五百三十三石を治める大身旗本となり明治の世まで続きました。

並びに
東陽英朝(とうようえいちょう)禅師塔所(岐阜県史跡)があります、禅師の墓所です、禅師は土岐持頼の子で、五歳で出家し、その後少林寺の再興に携わり、永正元年(1504)当山にて死去しました、七十七歳でした。

今尾医院前の
高札場跡に戻り、突き当りを左折(白色矢印)します、これにて新加納の枡形トレースは終了です、この分岐点には新設された中山道道標があります。
旗本坪内家墓所墓 東陽英朝禅師墓 新加納間の宿枡形

 水戸天狗勢は加納藩との約定通り、新加納の辺りから中山道を離れ間道に入りました、これ以降は京への道を模索する彷徨の行軍となりました、琵琶湖東岸には彦根藩が布陣し、先の桜田門外の変で主君井伊直弼(なおすけ)を水戸浪士に暗殺され、その怨みを晴らすべく士気が高かったといいます。

一行に残された道は
越前若狭を経て京に至る経路しかありませんでした、しかしそこには厳冬期は通行が途絶える難所蝿帽子(はいぼうし)が控えていました、一行は馬も荷も捨て、凍死者を出しながら峠を越えました、しかし行く先々の橋は落とされ、村は焼き払われ食料も尽き、深い積雪と加賀藩に行く手を阻まれてしまいました。

天狗勢一行はここで主君
一橋慶喜が朝廷から天狗勢の追討総督に任じられ、海津まで出陣していることを知ると、「公には弓引けぬ」と十二月十七日加賀藩に降伏しました、同藩は一行を武士(もののふ)として扱ったが、敦賀に移送され幕府の追討総督田沼意尊に引渡されると、一転過酷な扱いと取調べを受け二十四名が獄死しました。

翌慶応元年(1865)二月武田耕雲斎以下三百五十二名が
斬首となり、維新を目前にし、野の露と消えました、武田耕雲斎山国兵部田丸稲之衛門藤田小四郎の首は塩漬けにされ中山道を通行して水戸に戻り晒され、過酷にも総大将武田耕雲斎の家族は斬首されました。

 県道181号線新加納通りを進みます、往時は西坂と呼ばれ、松並木でした。

濃川濃川橋で渡り、先で東海北陸自動車道大門高架橋でくぐります、各務原市から岐阜市に入ります。

境川高田橋で渡ります、川岸は桜の名所になっています、この境川には笠松湊を経て桑名に出る舟運がありました。

左右にうねる街道を進み、
高田3交差点を越すと県道77号線になります、右手の床屋ながさき先の十字路を左に入ると左手に手力雄(てぢからお)神社があります、この道筋は手力雄神社への近道です。
松並木跡 境川 手力雄神社

 
手力雄(てぢからお)神社は貞観(じょうがん)二年(860)の創建で天の岩戸を開いた手力雄命を祀っています。

この辺りは古来より軍略上重要な地点で、都に軍勢が上る際、
東海道より東山道に入るには木曽川の渡河地点として、必ずここ長森を通るところから美濃側の防衛拠点としてここに手力雄神社が鎮座されまた。

美濃國の戦略上の要所であるところから度々戦火に見舞われ、慶長五年(1600)の
関ケ原の戦いの際には、当神社を祈願所としていた織田氏西軍についたので徳川家康の攻撃を受け、御神体などごく一部を除き全焼しました。

 元禄年間(1615〜24)に本殿拝殿などが再建され、更に延宝二年(1674)に再建され、現在の社殿は平成二十年に新築されました。

毎年四月第二土曜日に岐阜県指定重要無形民俗文化財の春の祭礼として
火祭りが行われます。

火祭りがいつから始まったかは明らかではありませんが、明和年間(1764〜72)に一時中断し、文化二年(1805)に復活したといいます。

街道に戻って進むと
T字路に突き当たります、中山道は右(白色矢印)に進みます、左手(黄色矢印)に手力雄神社鳥居があります、ここが表参道です、 鳥居手前の左手に道標「左木曾路」があります、京方面からは左折します。
蔵前分岐 手力雄神社鳥居 木曾路分岐

 T字路を右折して進むと右手に浄土真宗本願寺派市場山浄慶寺(じょうけいじ)があります、元は天台宗でしたが文明十八年(1486)親鸞聖人の弟子蓮如上人に深く帰依し、浄土真宗に改宗しました。

手力雄神社前から浄慶寺付近までは
立場で、茶屋、菓子屋、履物屋等が設けられ旅人の通行で賑わいました。

浄慶寺隣の岐阜信金前に
切通由来解説があります、切通(きりどおし)は境川北岸に位置し、地名の由来は岩戸南方一帯の滞溜水境川に切り通したことに由来しています。

先に進み
長谷川鍼灸院先を右折(黄色矢印)します、ここが切通陣屋口です。
浄慶寺 切通由来 陣屋口

 小路奥に切通陣屋跡之碑があります、江戸時代になるとこの地は加納藩領となり、その後幕府領、大垣藩預り地と変わり享保三年(1802)盤城平藩の所領となり、この地に陣屋が設けられ幕末までこの地を治めました、 碑の脇には切通聖観音が祀られています。

磐城平藩は幕末、公武合体を進めた老中安藤信正の所領で知られています。

街道を進むと右手に
伊豆神社があります、祭神は健康長寿を司る神大山祗神(おおやまつみ)の娘石長姫命(いわながひめ)を祀っています。
切通陣屋跡 切通聖観音 伊豆神社 馬頭観音

 この神を主祭神としている神社は全国でもここだけです。

街道沿いの祠内には
三面六臂馬頭観音像が安置され、祠前に道標「右江戸ミチ 左京ミチ」があります。

 切通4交差点先の右手にゑ比寿神社が鎮座しています、家運隆昌、商売繁盛の神です。

次いで右手に浄土真宗本願寺派
真宗寺があります、参道口の寺標には親鸞聖人御舊跡と刻まれています。

細畑(ほそばた)五丁目に入ると右手に浄土真宗本願寺派恵日山
誓賢寺(せいけんじ)があります。

左手の細畑バス停の所に細畑村の
秋葉神社が祀られています、傍らにあった火の見櫓は撤去されています。
ゑ比寿神社 真宗寺 誓賢寺 秋葉神社

 国道156号線岐阜東バイパスを横断すると長森細野に入ります、長森細野には旧家を多数残しています。

右手の家屋の屋根には
明治水と描かれた古風な庵看板が掲げられています。

細畑・二ツ山バス停を過ぎると
細畑の一里塚があります、明治になって取り壊されましたが、昭和二十七年(1952)両塚とも復元されました、江戸日本橋より数えて百五里目です。

南(左)塚の裏には
秋葉神社が鎮座しています、街道に背を向けています。
庵看板 細畑の一里塚(北) 南(左)塚 秋葉神社

 先がY字路になっています、伊勢道追分です、中山道は右(白色矢印)です。

この追分には
延命地蔵尊と明治九年(1876)建立の道標「左 伊勢名古屋ちかみち 笠松 一里」「右 西京道加納 八丁」「右 木曾路 関 上有知(こうずち) 郡上道」があります。

追分先の左手に
八幡神社があります、境内には御日陰の松標石があります、大正天皇が行幸の際、夏陽の中この松の日陰で休憩しました。

残念ながらこの
は失われています。
伊勢道追分 地蔵尊&道標 八幡神社 御日蔭松跡

 関ケ原の合戦に勝利し、天下の権を握った、徳川家康はそれまでの岐阜街道より、中山道がより重要であることを知りました。

そこで家康は金華山の
岐阜城を廃し、中山道沿いに加納城を築城し、娘亀姫(家康の長女、築山御前の子)の婿奥平信昌に十万石を与え、中山道の管理掌握に当たらせました。

しかしその後、戦略的意味は薄れ、城主
永井氏の頃には三万二千石に低下しました。

広重は
領下から上川手に入った辺りから、南にあった加納城を東北から見た情景を描いています。

画面の下には中山道の松並木の中を西から東に向う
参勤交代の大名行列を描き込んでいます。
木曽海道六拾九次之内 加納 広重画

 領下往還南交差点を越すと左手に堂々とした長屋門が残されています、門扉は豪壮な造りになっています。

上川手バス停先の右手に
秋葉神社が祀られています。

JR東海道本線高架をくぐると先の右手に
森家住宅があります、岐阜市指定都市景観重要建築物です、この辺りに高札場がありました。

この
高札場が加納宿の江戸(東)口でしたが、残念ながら位置不明です、先に進みましょう。
長屋門 秋葉神社 森家屋敷 名鉄名古屋線踏切

 次いで名鉄名古屋本線の
茶所踏切を横断すると、左手が茶所(ちゃじょ)です。

 PM3:13 加納宿着

 茶所駅前に中山道加納宿碑があります、ここが加納宿江戸(東)です、加納宿に到着です!

加納宿の
宿長は二十一町半(約2.4km)と長く、美濃十六宿中最大の宿場でした。

長良川の
湊町、そして加納城の城下町として栄え、熱田(名古屋)への御鮨街道追分を控え大いに賑わいました。

しかし
宿並のほとんどは戦災で焼失してしまいました。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によると加納宿宿内家数は八百五軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠三十五軒、宿内人口は二千七百二十八人(男千二百九十六人 女千四百三十二人)で尾張藩領宿高五百五十五石でした。
名鉄名古屋本線茶所駅 加納宿碑

 宿並に入り、左手の茶所薬局の手前を左に入ると右手に鏡岩の碑があります、江戸時代の関取鏡岩は若い頃より素行が悪く悪行を重ねていましたが、自らを反省しここに妙寿寺を建立し、自身の等身大の木造ぶたれ坊を安置し、旅人に叩いて貰い罪滅ぼしをしたといいます。

そしてここに茶屋を設けて旅人に茶を振舞ったところから
茶所(ちゃじょ)と呼ばれました。

妙寿寺は後に廃寺になり、ぶたれ坊は加納伏見町の妙泉寺に移設されました。

鏡岩の碑の並びに
道標「東海道いせ路」「江戸木曾路」があります、道標前の道は鮎鮨街道とか御鮨街道と呼ばれ、岐阜町で作られた長良川の鮎のなれ鮨将軍家に献上するために運ばれた道で尾張藩が名古屋の熱田と尾張領の岐阜とを結ぶために整備した街道で尾張街道岐阜街道名古屋街道とも呼ばれました、宿並に戻ると右手に新設された御鮨街道道標があります。
鏡岩の碑 道標

 宿並は屋号だんごやの前を右折(白色矢印)します、一つ目の枡形です、加納宿は城下町特有の六曲りがあり、二十一ので構成され、宿並には商家が軒を連ねていました。

ここを直進(黄色矢印)すると右手に
加納八幡宮があります、祭神は応仁(おうじん)天皇です。

関ケ原の合戦後に
岐阜城を廃し、加納城を築くと八幡神社が城郭内に入ったので加納城の東北に遷じ、本城鬼門除け並びに守護神としました、歴代城主とともに住民達の信仰は篤いものがありました。

枡形に戻って右に進み、
新荒田川加納大橋で渡ると加納八幡町から加納安良町(あらまち)に入ります。
@枡形 加納八幡神社 新荒田川

 右手の立花屋薬局の向いを左折(白色矢印)します、二つ目の枡形です。

右手には
安良町道標「右 岐阜 谷汲」「左 西京」があります、谷汲(たにぐみ)は西国三十三所観音霊場の満願寺第三十三番札所の谷汲山華厳寺(けごんじ)です。

道標の裏には「明治十八年八月 上加納 後藤松助 六十一才」と刻まれています、還暦記念の建立です。

先に進むと右手に
秋葉神社があります。

次いで県道1号線
岐阜東通りを横断します。
A枡形 安良町道標 秋葉神社 東番所跡

 小さな流れを横断すると
加納柳町に入ります、突当りの右手に中山道加納宿東番所跡標石があります、加納城下への江戸(東)です。

 中山道加納宿東番所跡先を左折(白色矢印)します、三つ目の枡形です。

突当りの浄土真宗本願寺派法性山
善徳寺を右折します、四つ目の枡形です。

善徳寺は鎌倉時代前期の嘉禎(かてい)元年(1235)に親鸞聖人の教化を受けた門徒宗の流れをくむ寺です。

この辺りは加納宿の中でも宿並が最も
鍵の手状に曲がりくねっている所です。

先で
加納上本町通りを横断すると、右手に柳町秋葉三尺坊があります。
B枡形 C枡形 秋葉神社参道口 秋葉神社

 加納新町に入ると左手に浄土真宗大谷派大会山専福寺(せんぷくじ)があります、山門脇に親鸞聖人御舊趾碑があります、浄土真宗の名刹です。

専福寺には戦国期を中心とした文書が多数残されています、その内
織田信長朱印状豊臣秀吉朱印状池田輝政制礼状と伝えられる三通が岐阜市重要文化財に指定されています。

織田信長朱印状は元亀三年(1572)の石山合戦に際し、信長から専福寺に出されたものです、石山合戦は浄土真宗本願寺派織田信長との戦いで、本願寺法主顕如(けんにょ)が石山本願寺に立て籠もって戦いました。

本寺に伝えられる信長の
朱印状はその際、専福寺及びその門末が石山本願寺へ加担することを禁ずる内容になっています。

本寺と当時の政治権力との関係を考える上で貴重なものです。
専福寺 親鸞聖人御舊趾

 次いで右手に加納新町の秋葉神社があります、一町に一社です。

スグ先の右手に
岐阜問屋跡(解説)があります、加納新町の熊田家土岐氏斎藤氏時代からこの辺りの有力者で、信長岐阜にあった頃には加納の間屋役を勤めていました。

江戸時代に入ると全国から岐阜へ出入りする商人や農民の荷物運搬を引き受ける荷物問屋となり
岐阜問屋と呼ばれるようになりました。

岐阜問屋は尾張藩が将軍家へ献上する岐阜の名産
鮎鮨の継ぎ立を行い、御用提燈の使用が許されていました。

献上鮎鮨は岐阜町の御鮨所を出発し、岐阜問屋を経由し、加納八幡町(鏡岩の碑前)から名古屋へ向う御鮨街道を通行し、笠松問屋まで届けられました。
秋葉神社 岐阜問屋場跡

 太田薬局の手前を左折(白色矢印)します、五つ目の枡形です、この分岐点には道標「左中山道 右ぎふ道」があります、明治初年に「左西京道 右東京道」が追加されました、この四つ辻中山道岐阜道(鮎鮨街道)の分岐点で、かつては交通の要衝でした、この突当りを右に進むと加納宿北番所がありました。

清水川
の手前を右に入ると右手に水上殿水薬師寺(すいじょうでんみずやくしじ)があります、本尊は南無薬師瑠璃光如来です。

慶長十七年(1612)夏、清水川で泳いでいた伊三郎という若者が黄金の
薬師像を拾い上げました、これを慶んだ二代目藩主奥平忠政(亀姫の三男)と亀姫は清水川の川中に二間四方の浮見堂を建て、この薬師像を安置しました、以来水薬師、そして美濃の乳薬師と呼ばれ乳が良くでる仏として親しまれ、例年七月二十、二十一日に清水川の灯籠流しが盛大に行われます。
D枡形 道標 水薬師

 清水川広橋(ひろいはし)で渡ると、加納天神町に入ります、渡り詰めの左手(南東)が高札場跡(解説)です、この高札場は宿御(やどご)高札場と呼ばれ、加納藩の中でも最も大きく、石積みの上に高さ約三・五メートル、幅六・五メートル、横ニ・二メートルの規模でした。

正面の
歩道橋手前を右折(黄色矢印)します、六つ目の枡形です、これにて加納城下六曲りの終了です。

正面(黄色矢印)の先が
加納城址です、歩道橋手前の左手が加納城大手門跡(標柱)です。

岐阜斎藤道三の国取り物語の舞台になった地です、織田信長は斎藤氏の居城稲葉山(金華山)を陥し、新たに岐阜城を築城し、安土城に移るまで本拠地としました。
高札場跡 E枡形 加納城大手門

 天下を掌握した徳川家康は山城の岐阜城を廃し、平城の加納城を築城しました、縄張り家康自ら行い、普請奉行本多忠勝が勤めました、建築資材は主に岐阜城の解体材が流用され、岐阜城の天守は加納城の二の丸御三階櫓になりました。

 枡形に戻ると加納本町に入ります、左手に黒い廃墟があります旧加納町役場跡です、大正十五年(1926))の竣工で、登録有形文化財です。

戦時中、
空襲を避ける為にく塗られ、戦後は一時進駐軍に接収されました、現在は耐震不足の為、立入り禁止となっています。

先の左手に鰻料理の
二文字屋があります、元和六年(1620)創業の旧旅籠二文字屋跡です。

ここには宿賃代わりに彫刻を残したという、
左甚五郎月夜に河原で餅をつくウサギ欄間があり、火事の時に欄間の河原から水が噴き出し、一瞬のうちに火を消し止めたといいます。
旧加納町役場 二文字屋 左甚五郎作の欄間

 現在、この
欄間は濃尾地震の折に、外して遠い親戚に預けたままになっているとのことです。

 二文字屋先の右手に中山道加納宿当分本陣跡(標柱)があります、宮田五左衛門が勤めました、幕末の文久二年(1862)参勤交代が緩和され、江戸詰の大名妻子が一斉に国元に帰国した為、本陣が不足し、当分の間本陣を勤めました。

当家は
明治天皇巡幸の際、御小休所になりました。

加納中通りを横断すると右手に
中山道加納宿本陣跡(標柱)があります、松波藤右衛門が勤め、規模は間口十一間半、奥行十八間で、建坪は百七十坪でした。

標柱の背後に
皇女和宮直筆歌碑「遠ざかる 都としれば 旅衣 一夜の宿も 立うかりけり」があります。

文久元年十月二十六日
皇女和宮は当本陣に宿泊しました。
当分本陣跡 本陣跡 和宮歌碑

 夕食の本膳は一汁四菜、(鰈みぞれ大根二杯酢)(赤味噌蕪少々)、香之物(瓜の奈良漬け、沢庵大根)、(牡丹海老、生湯葉、百合根、葉山椒)、焼物(生鰤の付焼)、それにでした。

翌日の
朝食は一汁四菜、(生いか、小芋、きくらげ、藻ずく)、(赤味噌青菜)、香之物(瓜の奈良漬、沢庵大根)、(半平、水菜、椎茸)、焼物(かけ醤油の小鯛)、それにでした。

 次いで右手の宮崎産婦人科手前に加納宿西問屋場跡(標柱)があります、西問屋は加納の宿問屋でした。

元々は
三宅佐兵衛家が勤めていましたが、万治元年(1658)松波清左衛門家が加納宿問屋となり、西は河渡宿から東は鵜沼宿〜加納宿へ出入りする人馬の継立を行いました。

宮崎産婦人科を過ぎると右手が
中山道加納宿脇本陣跡(標柱)です、延享二年(1745)より森孫作が勤め、規模は間口九間半、奥行十四間、建坪百三十二坪でした。
西問屋場跡 西問屋場標柱 脇本陣跡 脇本陣跡標柱

 脇本陣跡の角を右に入ると正面に加納天満宮があります、祭神はいわずと知れた学問の神菅原道真です。

文安二年(1445)美濃國守護
斎藤利家沓井城(旧加納城、天文七年(1538)廃城)の守護神として勧請した古社です。

慶長六年(1601)
奥平信昌が加納城の築城の際、現在地に遷座しました、歴代城主の信仰が篤く加納城の鎮護でした、戦災で唯一焼け残った拝殿は文化七年(1810)の創建です。

境内には
傘祖彰徳碑があります、加納名産である和傘は寛永十六年(1639)松平光重が明石から移封された際に、傘職人を伴ったことに始まります。

下級武士の内職として広まったといいます、時代劇等で貧しい武士が
傘貼りをしているシーンがよく見られます!
加納天満宮拝殿 傘祖彰徳碑

 加納天満宮の西側に曹洞宗久運寺(くうんじ)があります、境内にお茶壺道中ゆかりの寺跡碑があります、寛文五年(1665)加納城主松平光重よりお茶壺道中本陣を命ぜられたが、住職の玉葉和尚は権威の横暴に反抗してこれを拒否したため追放されました。

宿並に戻ると右手に
中山道加納宿脇本陣跡(標柱)があります、小林家が勤めました、天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳によると加納宿の脇本陣は一軒ですから、以降に交替したか、新設されたのでしょう。

先の十字路を右に入ると左手に浄土真宗本願寺派寂照山
信浄寺があります、寛永四年(1624)の創建です。

境内に安永六年(1777)
獅子門中が建立した芭蕉句碑「松杉を ほめてや風の かほる音」があります。
お茶壺道中 脇本陣跡 芭蕉句碑

 墓地に新選組隊士
加々爪(かがつめ)勝太郎の墓があります、勝之進とも称し、元美濃加納藩士でした。

慶応三年(1867)の
幕臣召抱えでは平同士として、見廻組並御雇の格を受けています、翌年一月の鳥羽伏見の戦いに参戦し、江戸帰還後、甲陽鎮撫隊士として出陣し、同年三月六日の勝沼の戦いで討死にしました。

 PM4:04 加納宿起点着

加納宿起点 たぬき 常温 鍋焼きうどん
 宿並は加納栄町通に突き当たります、ここの右手がJR東海道本線岐阜駅です、ここが加納宿の起点です。

刻限はPM4:04です、
河渡宿までは5.9kmあります、更にそこからJR東海道本線の穂積駅迄は3.7kmあります、合計8.6kmです。

時速6kmをキープ出来ても1時間26分です、無論、撮影やメモの時間を倍に見積もると2時間52分です。

穂積駅への到着時間の予定はPM 6:56分です、本日のJR東海道本線穂積駅の帰宅最終タイムリミットはPM5:46です、無理、物理的に無理、ストップウォーキングです!

こうなりゃ当然一杯です、岐阜駅脇の
たぬきの暖簾を分けます、年配のご夫婦が切り盛りする、居心地の良いお店です!!

常温の
日本酒をオーダーします、そして鍋焼きうどんです、これは冬の街道ウォークの定番中の定番です、やっと人心地がつきました、それでは帰りましょう!!!



前 大湫 〜 太田 次 加納 〜 関ヶ原