道中日記 2-189 中山道 ( 加納 - 関ケ原 ) 31.2km



 今回も
高速夜行バスの投入です!

ネット予約を入れると、横浜〜名古屋間の片道乗車料金は2,700円です、更にポイント割引が利用でき、しめて2,640円です、リーズナブルですね!!

それ以上に
好都合なのは、名古屋駅到着がAM 5:15です、これですと名古屋駅始発のAM5:45が利用できます、理想的です、決定!!!

高速バスは定刻通りに
名古屋駅太閤口に到着です。

駅前のコンビニにて
お握り2個とお茶を購入して、JR東海道本線の始発に乗車です。

車中にて
食事を済ませ、雄大な流れに成長した木曽川をやり過ごすと列車はJR東海道本線岐阜駅に滑り込みます。

それでは、恒例の
花粉症ウォークの開始です。

 平成24年04月10日 AM06:30 加納宿出立 河渡宿まで5.8km

 JR岐阜駅前から北に向かうと加納宿の起点です、ここが本日の出立点(白色矢印)です。

出立する前にチョット寄り道です、左手(黄色矢印)の加納栄町通4交差点を右折すると浄土宗
西方(さいほうじ)寺があります、創建は慶長年間(1596〜614)です。

川端康成の短編小説篝火に登場する寺です、川端作品に多くの影響を与えた初恋の女性が、当寺に養女として一年余り暮らしていました、残念ながら私は川端康成三島由紀夫の作品は好みません、悪しからず。

そえでは起点に戻り、出立しましょう、宿並を進むと右手に加納本町六丁目の
秋葉神社が祀られています、いわずと知れた火防の神です。
加納宿起点 西方寺 秋葉神社

 一本先を右に入って進むと、左手に日蓮宗妙泉寺があります、ここには國井清廉(くにいせいれん)の墓があります。

二十歳の時に江戸藩邸詰めとなり国学者の
平田鐵胤(かねたね)に師事しました、この縁により維新の際に加納藩主永井尚服(なおこと)が幕軍への加担容疑を受けた際、国学者間を奔走し藩主の危急を救いました。

境内の
鬼子母神堂には廃寺となった妙寿寺に安置されていた鏡岩ぶたれ坊が移設されています。

宿並に戻ると、スグ先の右手に加納本町七丁目の
秋葉神社があります、加納宿内及び宿の前後には多数の秋葉神社が祀られています、一町一村ごとに勧請されたのでしょう、火災に対する畏敬と警戒心の現れそのものです。
妙泉寺 ぶたれ坊 秋葉神社

 加納本町八丁目に入ると、宿並は枡形跡の如きカーブを描いて延びています。

先の左手に加納本町八丁目の
秋葉神社があります、境内にはこれまた火防の神である愛宕神社が合祀されています。

境内の宿並沿いに
中山道加納宿西番所跡標柱があります、ここが加納宿(西)でした。

一本先を左に入り、十字路を右折すると右手に
黒木神明神社が鎮座しています、境内に白龍稲荷大明神が合祀されています。
宿並風情 秋葉神社 西番所跡 黒木神明神社

 街道に戻って進み、加納本町9丁目交差点を横断すると南本庄一条通に入ります。

一本目を左に入ると右手に浄土真宗本願寺派法覚山
西巌寺(さいごんじ)があります、本堂は近代的な造りになっています、境内には親鸞聖人御舊跡碑があります、親鸞はひたすら阿弥陀仏にすがり南無阿弥陀仏と念仏を称えれば、いかなる人々も極楽往生できると説きました。

街道に面して
阿賀多神社があります、祭神は仁徳天皇(第十六代)で、応仁年中(1467〜69)の勧請です、郷村の氏神で、幼童守護神として篤く信仰されました。

岐阜本荘郵便局先右の黒板塀の脇に久保見町の
秋葉神社が祀られています。
西巌寺 阿賀多神社 秋葉神社

 秋葉神社先の十字路を左に入ると右手に一里塚跡標石があります、加納の一里塚跡です、三里の一里塚とも呼びました、江戸日本橋より数えて百六里目です。

この
一里塚は大正元年(1912)の暴風で崩壊しました。

先の
変則T字路を左(白線矢印)に進みます、京方面からは鋭角なY字路になっています、右に進みます。

スグ先の
清本町(せいほんまち)交差点を右折(白色矢印)し、JR東海道本線高架をくぐります、京方面からは左折します。
一里塚跡 変則Y字路分岐 清本町2分岐 変則五差路分岐

 JR東海道本線をくぐると
変則五差路になっています、斜め左(白色矢印)志門塾の左に進みます。

 次いで清本町10交差点の六差路をいずれの方面からも直進(白色矢印)します。

右手の
V字路を左(黄色矢印)に進むと左手に曹洞宗神農山醫王寺があります、並びの真新しい祠内に三面六臂馬頭観音像が安置されています、この馬頭観音は幕末から昭和二十五年(1950)頃まで馬車引きが多くいた本荘(ほんじょ)の中山道筋に安置されていました。

街道に戻って進むと右手のセルフちとせの向いを左に入ると左手に
鳥屋八幡神社があります、 祭神は応神天皇(第十五代)です。

加賀藩前田家の家臣であった氏子が加納藩に転勤した際、ここに
八幡社を勧請したものといいます。
清本町10交差点 醫王寺 八幡神社

 街道に戻り本荘町交差点を右折し、一本目を左に入って道なりに進むと左手に神明神社があります、祭神は伊勢神宮内宮に祀られる天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)です。

先で
変則T字路に突き当たります、左(白線矢印)に進みます、京方面からは重要な分岐点です、喫茶ミルトンバナナ先を斜め右に進み、先のY字路を左に進みます。

鹿島町8西交差点を横断します、この交差点の右に
金華山が遠望できます、元は稲葉山と称し、斉藤道三の居城稲葉山城がありました。

永禄十年(1567)
織田信長はこの城を攻略し、地名を岐阜と改め、岐阜城を天下統一の本拠地としました。
神明神社 本荘分岐 金華山

 鹿島町8西交差点を横断すると右手に三社合祀があります。

向って右が
天満神社「祭神菅原道真、文筆学問の神」
中央が
八幡神社「祭神応神天皇(おうじん)剛健勇武の神」
左が
秋葉神社「祭神釈具土神(かぐつちのかみ)防災安全の神」です。

境内に
夫婦銀杏(推定樹齢八十年)があります、大正十一年(1922)三社合祀記念に植樹されたものです。

参道口に
道標「木花村ヲ経テ加納ニ到ル」「市橋村ヲ経テ墨俣ニ到ル」「鏡島(かがしま)村ヲ経テ美江寺ニ至ル」があります。

往時、この辺りは
松並木が続き、加納宿と河渡宿の中間にあたり、だらり餅(あんころ餅)と干し大根が名物の多羅野(だらり)立場がありました、「行こうか合渡へ 帰ろうか加納へ ここが思案の だらり餅」と謡われました。
三社合祀 夫婦銀杏

 スグ先の県道77号岐阜環状線を鏡島(かがしま)大橋南交差点にて横断します。

鏡島前川南交差点を過ぎると、街道の右手に
論田川が並走します、木曽川水系長良川支流の一級河川です。

論田川(ろんでんがわ)を追分橋で渡ると、T字路に突き当たります、この手前の右手に論田川改修記念碑があります、昭和五十一年(1976)に論田川は大水害を起こし、大規模な河川改修工事が行われました。

突当りのT字路は
鏡島(かがしま)追分です、中山道岐阜道の追分です、中山道は左折(白線矢印)します。

追分先の右手に
秋葉神社が祀られています。
論田川改修碑 鏡島追分 秋葉神社

 街道を進むと右手に乙津寺(おっしんじ)寺寺標があります、ここを右に進み、突当りを右折(黄色矢印)します。

この突当りに正一位
倉稲魂(うかのみたま)稲荷大明神があります、乙津寺の鬼門鎮守の神として鎮座したものです。

正面に臨済宗妙心寺派瑞甲山
乙津寺があります、 天平十年(738)海に浮かぶ乙津島であったこの地に行基十一面千手観音像(本尊)を彫り草庵に安置したのが始まりです。

弘仁四年(813)
弘法大師(空海上人)が嵯峨天皇の勅命を受けて仏法を広めるため、この地で三十七日間の祈願を行い、宝鏡を龍神に手向けると、はたちまち桑畑となり、以来この地は鏡島(かがしま)と呼ばれ、乙津寺の名称は鎮守乙津(乙津島にいた神の名)に由来しています。
乙津寺寺標 稲荷神社 乙津寺山門

 翌年七堂伽藍を建立し乙津寺が創建されましたが、この伽藍は昭和二十年(1945)の空襲で焼失しました。

乙津寺鏡島の弘法さんと親しまれ、鏡島弘法と呼ばれ、京都の東寺川崎大師(平間寺)と並び日本三躰厄除弘法大師の一つです。

境内に
弘法大師梅の杖があります、弘法大師がここに差し立てた梅の錫杖が芽吹き聖なる力をもつ霊梅となりました、これが別名梅寺の由来です、楼門には宇多(うだ)天皇より下賜された霊梅場の扁額が掲げられています。

梅脇の
弘法大師梅の杖碑には弘法大師御自詠歌「さしおきし 杖も逆枝て 梅の寺 法もひろまれ 鶯のこえ」が刻まれています。
乙津寺 弘法大師梅の杖 弘法大師歌碑

 街道に戻って進むと、右手の電柱に鏡島中二丁目22標識が掲げられています、この先の右手小路奥に小社が祀られています。

賽銭箱がありますので、
屋敷神ではなく秋葉神社かもしれません。

鏡島小学校前交差点を越した先の右手に
神明神社が鎮座しています、鏡島村の鎮守です、拝殿は寛政六年(1794)の建立です。

神明神社の隣りに浄土宗西山禅林寺派照鏡山
善政院があります、弘法大師霊場美濃新四國八十八ケ所第四十五番札所です、境内には南無延命地蔵尊が祠内に安置されています。
秋葉神社 神明神社 善政院

 次いで右手に村社北野神社があります、いわずと知れた学問の神菅原道真を祀っています。

街道正面に
長良川の土手が見えると、右手に南無地蔵尊を安置する地蔵堂があります、河渡の渡しの安全を見守っていました。

街道を直進すると、スグ先で
長良川の土手に突当ります、旧道はここまでです、この先は消滅しています。

土手下を右にUターンします、 すると右手に
鏡島湊跡があります、ここが河渡の渡し場跡です。
北野神社 地蔵堂 鏡島湊跡 鏡島湊解説

 鏡島湊には長良川を利用し、伊勢湾とを結ぶ舟運があり、大いに賑わいました。

享保十四年(1729)の
鏡島村差出帳によれば加納藩領村高千四百四十二石余、家数二百九十七軒、、人数千三百四十五人、馬数七十三疋(湊駄賃馬)、渡船二艘でした、そして天保十四年(1843)の鏡島村作間商売小前等書上帳によれば商家は三十五軒ありました。

河渡の渡しは
舟渡でした、川幅は定水で五十間(約90m)、出水時は百五十間(約270m)になり、出水七合目(百間約180m)で川止めとなり、渡船の差し止めとなりました、渡し賃は一人六文、荷が十八文、武士は無賃でした。
河戸の渡し 鏡島湊村(古写真) 土手道

 鏡島湊跡の先で再びUターンして、
長良川の土手上を進みます、河渡橋東交差点を横断して、河渡橋の左側の歩道長良川を渡ります。

 長良川大日ケ岳に源を発し、流末は伊勢湾に注いでいます、濃尾平野を流れる木曽三川(木曽川、揖斐川)の一つです。

英泉は
河渡として長柄(長良)川の鵜飼を描いています。

鵜飼尾張藩の庇護のもとに五月から十月まで、雨天を除き、月のない暗闇の夜に行われ、漁獲されたの大半は尾張藩に上納され、鮎鮨にして将軍家諸大名に献上されました。

芭蕉
はこの鵜飼を見て「おもしろうて やがてかなしき 鵜飼かな」と詠んでいます。
長良川 岐阻路ノ駅 河渡 長柄川鵜飼舩 英泉画

 河渡橋の中央には標識「これより岐阜北署管内」があります、東は岐阜中署管轄です。

河渡橋を渡り、フェンスの切れ目から
土手上に降ります、 ここにはチェーンが張られ、注意の看板が下がっています、かなりきつい段差ですからそれこそご注意下さい。

土手上の土道をしばらく歩きます、左手には
長良川の景が広がり、快適に進めます。

やがて右手に
小社が現れます、この辺りが長良川対岸の河渡の渡し場跡です。

小社脇の
石段を下り、県道163号線を横断し、更に石段を下ると右手の馬頭観音堂の前に出ます、河渡口です。
土手道降り口 小社 河渡東口

 土手下の観音堂は荷駄役人足達が天保十三年(1842)に銭百文づつを出し合い、道中家内安全、五穀豊穣を祈願し、六間四面の堂を建立し愛染明王を祀ったのが始まりです。

当初の
渡し場脇の大猿尾(洪水の時水の勢いを弱めるための石積み)の上に建立されましたが、明治九年(1876)の大洪水で流失し、その後再建されましたが明治二十四年(1891)の濃尾地震で倒壊しました。

現在の
は昭和五十九年(1984)の再建で、三面六臂馬頭観音像が安置されています。

境内には
南無地蔵菩薩を安置する地蔵堂があります。
馬頭観音堂 馬頭観音 地蔵堂

 AM8:22 河渡宿着 美江寺宿まで4.6km

 観音堂向いのいこまい中山道河渡宿大灯台モニュメント前を左折し、道なりに進み、木製灯籠の中山道河渡宿碑が現れたら、その先を右折します、ここが河渡宿の江戸(東)です、ここには道祖神と思われる小社が祀られています、河渡宿に到着です!

河渡宿は長良川西岸の船着場で、米、塩、木材の物資集積地として栄えましたが、川止め以外は通過の旅人が多く鄙(ひな)びた宿場でした。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によると河渡宿宿内家数は六十四軒、うち本陣一(水谷治兵衛)、脇本陣ナシ、問屋二(水谷久右兵衛と八兵衛)、庄屋(水谷徳兵衛)、旅籠二十四軒(大四、中九、小十一)、宿内人口は二百七十二人(男百三十三人 女百三十九人)でした。
大灯台 河渡宿燈籠 河渡宿東口

 幕府領で宿高は一千三百石でした。


 宿並に入ると右手に中山道河渡宿碑があります、側面には一里塚跡の文字が刻まれています、河渡の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて百七里目です。

碑の奥には
松下神社が祀られています、境内には松下代官顕彰碑があります。

河渡宿は東に
長良川、西南に糸貫川、北に根尾川が流れ、土地も低くひとたび大雨が降ると、宿内は泥沼の如くになりました。

そして文化十二年(1815)には未曾有の
洪水に見舞われ、時の代官松下内匠堅徳が幕府より二千両の助成を得て、宿場全域を五尺余り(約1.5m)土盛りを行い、以降水害の心配がなくなったといいます。
一里塚跡碑 松下神社 松下代官顕彰碑

 宿の人々はこの功績に感謝し、
松下代官の生詞を祀り、松下神社と顕彰碑を建立しました。

しかし昭和二十年(1945)の空襲で宿並の殆どは焼失し、
顕彰碑も欠けてしまいました。

皇女和宮河渡宿水谷本陣にて昼食を摂りました。

 宿並中程の島川美容室の手前を左に入ると右手に杵築神社が鎮座しています、河渡宿の鎮守です、 祭神は須佐之男命です、社殿が高台に位置するところから洪水時の避難所でした。

宿並を進むと河渡2交差点手前の右手に木製灯籠の
中山道河渡宿碑があります、河渡宿の宿長は三町(約330m)ですから、丁度この辺りが河渡宿西口です。

交差点先が河渡宿西口の
枡形痕跡です。

枡形を過ぎると
天王川(旧柚木川)を慶応橋で渡ります、往時は徒歩渡しでした。
杵築神社 河渡宿西口 西口枡形 慶応橋

 慶応橋を渡ると岐阜市から瑞穂市に入ります、この先の街道は直線の一本道になります、生津縄手(なまずなわて)です。

生津(なまず)の地名は中世にあった生津荘園に由来します、縄手道の両側は工場団地になっています。

生津交差点を横断します、この交差点を左におよそ1.8km進むと、JR東海道本線穂積駅があります、継ぎ立てに便利ですね!

街道は
T字路に突き当たります、右(白色矢印)に進みます、左(黄色矢印)に進むと豊受神社があります、伊勢の豊受大神宮(外宮)の分霊を祀っています、倭姫命(やまとひめのみこと)は生津の湊から伊勢に渡りました。
生津縄手 T字路分岐 豊受神社

 T字路に戻って一本目先を左に入ると右手に神明神社が鎮座しています、伊勢皇大神宮天照大神の分霊を祀っています、正保五年(1640)の棟札を残しています、生津村の鎮守です。

街道に戻って進むと、右手の生津小学校先が
Y字路になっています、馬場追分です、中山道は左です、右は墨俣街道です。

この分岐点正面の段上に
馬場地蔵堂と昭和八年(1933)建立の道標があります。

正面「右 合渡・加納ヲ経テ名古屋ニ至ル」「左 本田・美江寺ヲ経テ京都ニ至ル」、右面「右 高屋・北方ヲ経テ谷汲山ニ至ル」と刻まれています。
神明神社 馬場Y字路分岐 馬場の地蔵堂 道標

 スグ先で糸貫川糸貫橋で渡ります、糸貫川は木曽川水系の河川で、流末は天王川に落合い、長良川に注いでいます、かつては鶴の名所で和歌の歌枕として詠まれました。

糸貫橋を渡ると左手に
南無延命地蔵尊を安置する本田(ほんでん)地蔵堂があります、地蔵尊は文化六年(1809)濃洲本巣郡上本田村が建立したもので、高さ三尺(約90cm)の石造坐像で彫りが美しく優雅な面相をしています

信号交差点を越すと右手に本田仲町の秋葉神社があります。
糸貫川 本田地蔵堂 秋葉神社 中山道町並

 次いで左手の瑞穂市掲示板脇に
中山道町並標柱があります、旧本田(ほんでん)は東町、仲町、西町で構成され、河渡宿と美江寺宿の中間にあたり、間の宿的な立場でした。

 次いで右手に本田西町の秋葉神社があります。

中川中川橋で渡ると右手の旧家前に本田代官所跡解説があります。

寛文十年(1670)
野田三郎佐衛門が初代幕府直轄地代官に任ぜられ、この地に代官所(陣屋)が設置されました、後に名代官といわれる川崎平衛門定孝(十一年間在任)が就任し、明和七年(1770)大垣藩預けとなるまで続きました、今でも地内に代官跡御屋敷跡牢屋敷跡という地所が残っています。

本田西町交差点を越すと、用水路脇に
高札場跡解説があります、江戸時代の分間延絵図によると、この辺りに高札場がありました。
秋葉神社 本田代官所跡 高札場跡

 本田松原交差点を渡ると右手に大エノキが聳えています、街道の生き証人です。 

往時この辺りは見事な
松並木でしたが、戦時中に松根油採取の為、伐採されました。

五六川の手前を左に入ると
春日神社があります、春日大社から勧請した春日神(かすがのかみ)を祀っています。

五六川五六橋で渡ります、次宿の美江寺が江戸日本橋より数えて五六番目の宿場であったところに由来しています、五六川は木曽川水系の河川で、流末は長良川支流の犀川(さいがわ)に落合ます、川面の石の上では多数のが甲羅干しをしています。
大エノキ 春日神社 五六川

 五六川を渡ると瑞穂市
本田から瑞穂市美江寺に入ります。

 AM9:52 美江寺宿着 赤坂宿まで9.6km

 美江寺宮前町交差点を越し、樽見鉄道美江寺踏切で横断すると、東枡形痕跡を残しています、ここが美江寺宿の江戸(東)です、到着です!

美江寺は天正十七年(1589)豊臣秀吉の下知により問屋場が設けられ往還の荷物中継ぎを行い、寛永十四年(1637)美江寺宿が開設されました。

美江寺は大雨の降るたびに長良川からの逆水により宿の前後の往還が浸水し宿としての条件は劣悪でした、そして幕末の頃になると雲助、博徒、無頼漢が横行し、ガラの悪い宿場として恐れられたといいます。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によると美江寺宿宿内家数は百三十六軒、うち本陣一、脇本陣ナシ、旅籠十一軒、宿内人口は五百八十二人(男三百ニ人 女ニ百八十人)幕府領(大垣藩預り)で、宿高千三百石でした。

明治二十四年(1891)の
濃尾大地震で宿並は壊滅しました。
美江寺踏切 東枡形痕跡

 枡形内の右(黄色矢印)が谷汲道追分です、 この分岐には追分道標「右 岐阜加納ニ至ル 左 北方谷汲ニ至ル」があります、谷汲とはいわずと知れた、西国三十三観音霊場の満願寺、第三十三番札所谷汲山華厳寺(けごんじ)のことです。

美江寺大門裏交差点を右に入り、一本目を左折すると左手に浄土宗西山禅林寺派亀頂山
瑞光寺があります、永正元年(1504)の開基で美江寺宿本陣を勤めた山本家の菩提寺です。

境内には天保十四年(1843)本陣当主の
山本金兵衛(俳号友左坊)が俳人達と建立した芭蕉句碑「旅人と 我名呼れん 初時雨」があります。

そして文政元年(1818)建立の
徳本名号碑があります。
谷汲道追分道標 芭蕉句碑 徳本名号碑

 宿並に戻ると右手の中島時計店脇に瑞穂市指定史跡美江寺一里塚跡標石があります、江戸日本橋より数えて百八里目です。

次いで右手の酒井電機サービスの手前に
瑞穂市指定史跡自然居士之墓標石があります、ここを右奥に進むと五輪塔が並ぶ自然居士之墓があります、自然居士(じねんこじ)は和泉國(大坂府)日根郡自然田村で生まれ、臨済宗南禅寺大明国師(1212〜91)に師事した鎌倉時代後期の奇行遊行の禅僧でした。

スグ先の左手に
酒の布屋があります、濃尾地震の際宿内で唯一残った商家です。
一里塚跡 自然居士墓標柱 自然居士之墓 造り酒屋布屋

 加納藩は元禄九年(1696)
小森文左衛門(屋号布屋)に酒株(酒類営業権)を与えました。

 先に進み美江神社の手前を右に入る路地は美江寺観世音道(標石)です、往時はここを右に進むと美江寺がありました。

この地は
木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川の氾濫に絶えず悩まされていました、そこで養老三年(719)伊賀國名張郡伊賀寺に安置されていた十一面観世音菩薩を招き、大伽藍を建立し、美しき江を祈願し、美江寺と命名しました、これにより木曽三川の氾濫が見事に治まりました。

ところが天文十八年(1546)この地を支配した
斉藤道三は本尊の十一面観世音菩薩を稲葉山城鎮護祈願の為に略奪しました、これがため美江寺廃寺となりました。

美江寺交差点の右手に
美江神社があります、天徳四年(960)頃の美濃國神名帳美江明神と記載されている古社です、美江寺の鎮守とされ、 熊野三所大権現が祀られているところから権現様と呼ばれ親しまれました。
美江寺観音道 美江神社

 境内に美江寺観音堂があります、これは明治三十六年(1903)夢のお告げにより旧庄屋和田家の蔵にあった室町時代の観音像を堂を建立し、安置したものです。

境内には元神社前にあった
高札場が復元されています、高札場には正徳元年(1711)から幕末まで続いた高札が掲げられています、高札場は幕府の権威を示すもので、触れることも出来ませんでした。

美江神社前の
美江寺交差点を直角に左折します、枡形です。
美江寺観音堂 高札場 宿内枡形 美江寺交差点

 枡形を左折した右手の旧家が旧庄屋和田家です、美江寺城主和田氏の末裔といいます。

宿並を進み右手の豊田屋の向いを左に入ると
中小学校の校庭脇に美江寺城址碑があります。

美濃國守護職
土岐氏の家臣和田八郎が応仁文明(1470)の頃に居館を構えたのが美江寺城の創始で、以降代々和田氏の居城でした。

斎藤道三が台頭すると、美江寺城主和田将監高行は主君土岐頼芸(ときよりあき)と連合して斎藤方と戦いを交えますが、天文十一年(1542)九月三日夜、城は斎藤方の放った火によって焼失、落城となり、その後廃城となりました。
旧庄屋和田家 美江寺城跡 美江寺城址碑

 大正三年(1914)
美江城址に鎮座していた八幡神社神明神社美江神社に合祀されました。

 美江寺中町バス停先の左手に美江寺宿本陣跡(標石)があります。

天正十七年(1598)
豊臣秀吉の外知により美江寺に問屋場が設けられ、江戸時代の寛永十四年(1637)美江寺宿が開設されました。

それから三十二年後の寛文九年(1669))、時の領主加納藩主
戸田丹波守光永より問屋山本金兵衛が本陣職を命じられました、本陣建物は明治二十四年(1891)の濃尾大地震で倒壊しました。

次いで右手に
開蒙学校跡(標石)があります、尋常高等小学校の前身です。
美江寺宿本陣跡 標石 開蒙学校跡 標石

 宿並を進むと西枡形(逆T字路)があります、ここが美江寺宿(西)であり、大垣道追分です、右(白色矢印)が中山道、直進(黄色矢印)が大垣道です。

この分岐点には大正十年(1921)建立の
追分道標「右 大垣赤坂ニ至ル」「左 大垣墨俣ニ至ル」があります、墨俣は秀吉の一夜城で知られた地です。

往時はこの
西枡形高札場がありました。

右折して進むと右手に
美江寺千手観音堂があります、天保四年(1833)に造立された千手観音像が安置されています。
大垣道追分 追分道標 千手観音堂 千手観音像

 千手観音菩薩
は人を救済する力が強い観音です、千本の手は、どのような衆生をも漏らさず救済しようとする、観音の慈悲の広さを表しています。

 犀川新月橋で渡ります、新月橋は寛文七年(1667)勧進によって架橋されました。

犀川(さいかわ)は墨俣城の脇を流れ、流末は長良川に落合います、秀吉は犀川の上流から加工した材木を流し、一夜にして墨俣砦を築いたといいます。

広重は
美江寺としてこの犀川を描いています、画面右手の椿は満開です。

左奥の集落は
屋根だけが描かれています、これは集落を川の氾濫から守るために、周囲を堤防で囲っている為です、これを輪中(わじゅう)といいました。
犀川 木曽海道六拾九次之内 みゑじ 広重画

 街道は突当りの千躰寺前のT字路を左折(白色矢印)します、千躰寺は浄土宗西山派に属し、養老郡の円満寺の末寺です。

千躰堂には自然居士(じねんこじ)が彫った小さなヒノキ材一木造りの阿弥陀如来立像が千体安置されいています、自然居士は遊行の途中、美江寺の地にとどまり千躰仏を彫り上げました。

犀川に沿って進むと右手に
神明神社があります、新月村の鎮守です。

先で
犀川巣南橋で渡ると先に熊野神社があります、それでは寄り道してみましょう。
千躰寺前分岐 千躰仏 神明神社 熊野神社

 熊野神社境内のモチの前に春日局のゆかり地碑があります、この地は十七条城(船木城)です、林氏の居城で、徳川家康に仕え、二万石を所領していました、林正成(まさなり)は元亀二年(1571)この城で生まれました。

成人すると
正成は大垣曽根城主稲葉重通(しげみち)の養子となり、稲葉正成と改称し、文禄四年(1595)お福(春日局)を娶り、次男正定(まささだ)は尾張徳川家に仕え、旧領十七条千六石を所領しました、以来、熊野神社は出世熊野と呼ばれました。

街道に戻って進むと右手のJAぎふ巣南の入口に
大垣藩傍示石「従是西大垣領」があります。

スグ先で街道は
長護寺川に突き当たり、この先は通行不可です、右折(白色矢印)し、突当りの県道156号線を左折します。
春日局所縁の地 大垣藩傍示石 旧道消滅

 長護寺橋長護寺川を渡ります、京方面からは長護寺橋を渡り、橋詰めを右折します。

右手の
大月浄水場公園内の石畳風の遊歩道(白色矢印)に入ります、遊歩道の両側には美濃十六宿の宿名が刻まれ標石が並んでいます。

遊歩道の延長線上に二本の
旧中山道標石があります、この間が旧道です。

車道を横断し、向いの
旧道(白色矢印)に入ります、右手の電柱に中山道美濃路標識が掲げられています。
長護寺橋 公園内遊歩道 旧道口 旧道復帰

 旧道は揖斐川の土手に向って一直線に伸びています。

終戦直後までは、現在の
田之上(新月)から呂久に至る両側には江戸時代初期に植えられた松並木でしたが、残念ながら土地改良等により消滅してしまいました。

旧道は
揖斐川の土手に突き当たります、土手下の舗装路を左(白色矢印)に進みます、京方面からは松田リサイクル先を右折します。

鷺田橋下をくぐり、左折します。
旧松並木 揖斐川土手 鷺田橋トンネル 鷺田橋口

 鷺田橋(さぎたばし)上に出る
歩道が現れたら、Uターン(白色矢印)し鷺田橋上に出ます。

 揖斐川は岐阜県揖斐郡揖斐川町の冠山(標高1,257m)に源を発し、流末は伊勢湾に注いでいます。

河口では
揖斐川木曽川長良川の大河が横たわり、東海道の七里の渡しになっています。

揖斐川はかつては
呂久川と呼ばれていました、呂久川は大正十四年(1925)の河川改修によって流れが直線化され、東へ300m移動し、現在の流路になりました。

鷺田橋の左側の歩道で
揖斐川を渡り、突当りの呂久歩道橋を下り、土手下の道を進みます。

先に進むと右手に浄土真宗大谷派
良縁寺(りょうえんじ)があります、響きの良い寺名ですね!
揖斐川 呂久歩道橋 良縁寺

 良縁寺の境内に呂久の渡しを勤めた馬渕善左衛門墓標があります。

良縁寺前の
Y字路を右に進みます。

右手に郷社
白鳥神社が鎮座しています、継体天皇在位(507〜31)頃の創建で、寛文七年(1667)遷宮の棟札を残しています、主祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)と后の弟橘媛(おとたちばなのひめ)です、この地の産土神です。

街道の突当りを右折(白線矢印)します、この分岐点には
案内標識「皇女和宮ゆかりの小簾紅園(おずこうえん)→」があります。
馬渕善左衛門墓 良縁寺前分岐 白鳥神社 小廉紅園案内

 左手に浄土宗浄住山即心院があります、本尊の木造釈迦如来立像は文応元年(1260)の造立で岐阜県指定有形文化財です。

参道口の地蔵堂内には愛嬌のある表情をした
地蔵立像が安置されています。

次いで右手に浄土真宗大谷派鷺休山
蓮生寺(れんしょうじ)があります、本尊は阿弥陀如来です。

境内に
秩父宮妃殿下御休憩所跡碑があります、昭和五十一年(1976)十月皇女和宮百年祭に出席した際、当寺が休息所になりました。
即心院地蔵堂 地蔵立像 蓮生寺 秩父宮妃碑

 次いで右手に堂々とした馬渕家長屋門があります、呂久の渡しの船頭屋敷は十三あり、中でも船年寄馬渕家には船頭八人、助務七人が置かれていました。

門脇には
明治天皇御小休所跡碑があります、巡幸の際に当家が休息所になりました。

馬渕家長屋門前を左折(白線矢印)します、@
呂久の枡形です、京方面からは突当りのT字路を右折します。

先の突当りを右折(白色矢印)します、A
呂久の枡形です、京方面からは突当りを左折します。
馬渕家長屋門 明治天皇碑 @呂久の枡形 A呂久の枡形

 たばこ店がある突当りを右折(白色矢印)します、B呂久の枡形です。

右折すると左手に
観音堂地蔵堂があります、呂久の渡しの安全を長らく見守ってきました。

突当りの
T字路を左折(白色矢印)します、C呂久の枡形です、これにて呂久の枡形トレースは終了です、この分岐点には谷汲山常夜燈があります。

左手一帯が
小簾紅園(おずこうえん)です、 昭和四年(1924)皇女和宮の遺徳をしのび造園されました。
B呂久の枡形 観音堂&地蔵堂 C呂久の枡形 小簾紅園

 園内に皇女和宮歌碑「おちてゆく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ」があります。

小簾紅園の並びに
揖斐川呂久渡船場跡碑が有ります、呂久川(旧揖斐川)の東渡船場跡(左図黄色矢印)です、往時の呂久川は左図通り、左側を流れていましたが、大正十四年(1925)大規模な河川付替工事により流路が東(左図の右側)に移動し、より直進する現在の揖斐川の流れになりました。

文久元年(1861)十月二十六日皇女和宮一行は赤坂宿を出立し、昼前に呂久の渡しに到着し、大垣藩の用意した御座船で呂久川を渡河しました、 その折りに対岸の船年寄馬渕孫右衛門邸の紅葉(こうよう)しているもみじを見て一首詠んだのが上記歌碑の歌です。
 皇女和宮歌碑 呂久渡船場跡 呂久渡船場図

 往時の呂久川の川幅は平水で90m、中水で120m、大水で180mでした、織田信長岐阜城から安土城に移ると、近江と美濃間の往来が盛んになり、天正八年(1580)信長の嫡男信忠呂久の渡しを開設し、江戸初期に整備され、中山道となり交通の要衝となりました。

豊後川を渡ると瑞穂市から安八郡(あんぱちぐん)に入ります、先の右手に日本歴史街道神戸(ごうど)の標柱があり、奥に神明神社が祀られています。

次いで右手の奥に
小社が祀られ、平野井川の手前左手には地蔵堂があります。
神戸町標識 神明神社 小社 地蔵尊

 平野井川
の氾濫を見張っています、水害に備えてでしょうか土台が高くなっています。

 平野井川新橋で渡ると岐阜県安八郡から岐阜県大垣市に入ります、平野井川は岐阜県安八郡神戸町、大垣市、瑞穂市内を流れる木曽川水系の河川で、流末は揖斐川に落合います。

突当りの
土手下道を右折して進むと、左手に墨俣追分道標「左木曽路 右すのまた宿道」があります。

墨俣を経て尾張名古屋に至ります、この道筋は
紀州徳川家の参勤道であったところから、紀州街道とも呼ばれました。

街道は一旦
土手道に合流し、スグ先の大島バス停先から斜め右の土手下道に進みます。

土手下道を下り切り、右折し
柳瀬橋平野川を渡り、渡詰めを右折(白線矢印)します、これは寄り道です。
新橋 墨俣追分道標 柳瀬橋

 スグ先の左手に神明神社があります、境内に中山道一里塚跡(標柱)があります、柳瀬の一里塚跡です、江戸日本橋より数えて百九里目です。

行政区域の
境界神明神社の裏を回っています、往時、平野井川は蛇行し、神明神社の裏を通っていたのかも知れません、当然街道はこの川筋に沿っていたとすれば、この一里塚の位置は理解できます。

柳瀬橋に戻り、突当りを右に進み、一旦土手上に出ます、この土手道は
大垣輪中です、この輪中は大垣城下一帯を提で囲み、水害の被害から守っています。

関ケ原の合戦の際、家康はこの
輪中を切って、揖斐川を引き入れ西軍が立て籠もる大垣城を水攻めにする計略をたてました。
神明神社 一里塚跡 柳瀬橋分岐

 土手道を斜めに横断(白色矢印)して、左の下り坂に進みます、この分岐点にはいずれの方向からも案内標識「この道は中山道です」があります。

坂下バス停先のY字路を右に進みます、この分岐点にはこの道は中山道案内「美江寺宿 4.7km/赤坂宿 4.8km」があります。

右手の大垣輪中坂下水防倉庫先のY字路を右(白色矢印)に進みます、
@赤花町分岐です、この分岐点にはこの道は中山道案内「美江寺宿 4.9km/赤坂宿 4.6km」があります。
大島町分岐 坂下分岐 @赤花町分岐 平野井川大橋

 先で
平野井大橋下をくぐります。

 先を左折(白線矢印)します、A赤花町分岐です。

この分岐点の手前右手に
中仙道三回り半道標があります、三回り半とはここから三つの曲りと、わずかな曲りがあることを意味しています。

分岐点奥には
案内標識「この道は中山道です←↓」があります。

二つ目の曲りの左手に
素盛鳴社(すさのおしゃ)があります、祇園信仰の神社です。

三回り目の曲りを左に進みます。
A赤花町分岐 三回り半 素盛鳴社 曽根排水路

 曽根排水路境橋で渡ります、曽根排水路は桜のトンネルになっています。

 東の川東の川橋で渡ります、川並は桜並木になっています。

先の三津屋町3交差点を右折すると、先の左手に
薬師堂があります、弘法大師が爪で彫ったという弘法大師爪彫薬師如来像が安置されています。

街道に戻ると左手に
秋葉神社が鎮座しています、三津屋村の鎮守です、境内社として稲荷神社が祀られています。

次いで右手に浄土真宗大谷派
長徳寺があります、本堂の屋根はいぶし瓦葺きです。
東の川 薬師堂 秋葉神社 長徳寺

 先の十字路の右手にコンクリート製の祠があり、中に道標を兼ねた聖観世音菩薩像が安置されています。

像の脇には「右ぜんこうじ道 左谷汲山 ごうど いび近道」と刻まれています。

西国三十三観音霊場の満願寺
谷汲山華厳寺はここより南に約四里です。

先に進むと右に大きく曲がります、この左手に
中仙道七回り半標石があります。

京に向かって七つの曲がりとわずかな曲がりが一つあることを意味しています。
観音堂 聖観世音菩薩 中仙道七回り半 道標

 加納排水路西浦橋で渡ります、両岸は桜並木になっています、排水路は藻が繁り、案外清冽な流れです。

スグ先で二車線の道路を横断し、右手の共同住宅
コーポスプリングの裏に回り込みます(白色矢印)、興福地町分岐です、この分岐点には中山道案内があります。

旧道は突当りの県道230号柳瀬赤坂線の
T字路を左折(白色矢印)します、この分岐点には中山道案内があります、京方面からは中沢交差点のチョイ手前を右折します。
加納排水路 興福地町分岐 中沢分岐 カワイ線材分岐

 
カワイ線材前を右折(白色矢印)します、京方面からは左折になります。

 次いで突当りを道なりに左折(白線矢印)します。

この分岐点の右手には
道標「加納薬師如来 是より北八丁」があります。

ブロック塀の奥に
薬師堂があります、薬師如来像には「左かのふ村 やくし」と刻まれ道標を兼ねています。

県道230号線を進むと右手に
日比野五鳳記念碑案内標識があります、書家で昭和の三筆の一人です。

近鉄養老線踏切を横断します。
薬師堂前分岐 薬師堂 薬師如来像 近鉄養老線踏切

 右手が
東赤坂駅です、二駅でJR東海道本線大垣駅に出ます。

 踏切を渡ると正面が菅野川です、手前を左に入ると左土手下に菅野神社(すがのじんじゃ)が鎮座しています。

この神社は奈良時代に
百済国王の末裔が祖神を祭神として奈良興福寺領だったこの地に祀ったのが始まりで、この地十三ケ村の総鎮守として、五穀豊穣、福徳長寿の尊崇を集める古社です。

菅野川(すがのがわ)を菅野橋で渡ります、流末は杭瀬川に落合います。

赤坂菅野簡易郵便局先の
Y字路を左(白色矢印)に進みます。
菅野神社 菅野川 青木町分岐 徳蔵寺

 この分岐点には
中山道案内標識があります。

旧道に入ると左手に浄土真宗大谷派宝樹山
徳蔵寺があります。

 南方排水路白山橋で渡ると、左手に白山神社があります、社殿は新しくなっています、村の鎮守です。

先の左手旧家前に
史跡中山道一里塚跡(標石)があります、池尻とも青木一里塚とも呼ばれます、江戸日本橋より数えて百十里目です。

枝郷から赤坂新町に入って進むと、左手に
多賀神社が祀られています。

多賀大社の分神を勧請したものです、本殿は昭和三十四年(1959)の伊勢湾台風で甚大な被害を受け、翌年再建されました。
白山神社 池尻の一里塚跡 一里塚標石 多賀神社

 多賀神社の先が逆Y字路になっています、美濃路(大垣道)追分です、この追分には近世の道標「左なかせんどう 右おおがきみち」があります。

街道は左からの
国道417号線(大垣道)に吸収されます。

目の前の
杭瀬川の袂を右(黄色矢印)に入ってみましょう、左手に杭瀬川の蛍碑(大垣市指定天然記念物)があります。

抗瀬川とその支流である奥川には体長が12〜18mmにもなる我が国最大のゲンジボタルが生息しています。
大垣道追分 追分道標 杭瀬川分岐 杭瀬川の蛍

 杭瀬川(くいせがわ)を赤坂大橋で渡ります。

杭瀬川は岐阜県揖斐郡の池田山周辺に源を発し、菅野川を吸収し、流末は牧田川に落合います。

本来の
旧杭瀬川はこの先約240mに流れを残しています、昭和二十八年(1953)の河川改修で流路が付け替えられました。

枡形状に曲がる街道を進むと
赤坂湊灯台モニュメントが聳える旧杭瀬川に突き当たります、手前の左手に史跡赤坂宿御使番所跡(碑)があります。

参勤の
大名公家等の通行の際、宿役人名主がここで送迎を行いました。
杭瀬川 赤坂宿御使番所跡 標石

 12:57 赤坂宿着 垂井宿まで5.5km

 天武天皇元年(672)壬申の乱で負傷した大海人皇子(後の天武天皇)が、この川で傷口を洗うと、たちまちに傷が癒えたところから苦医瀬(くいせ)と当初呼ばれました。

広重は
杭瀬川を川底の岩が露出した、浅川として描いていますが、本来は十分水深があり、ここには赤坂湊があり、揖斐川に通じる舟運がありました。

杭瀬川に架かる太鼓状の
土橋の渡り詰めの右手に傍示杭「自是大垣藩赤坂宿」を描いています、ここが赤坂宿の江戸(東)口です、赤坂宿に到着です!
旧杭瀬川 木曽海道六拾九次之内 赤坂 広重画

 赤坂宿は杭瀬川の舟運や谷汲街道、伊勢に通じる養老街道を控え、大いに賑わいました。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によると赤坂宿宿内家数は二百九十ニ軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠十七軒、宿内人口は千百二十九人(男五百七十六人 女五百五十三人)、大垣藩領で宿高一千八十石、宿長は七町十八間(約796m)でした。

旧杭瀬川を渡ると右手に常夜燈があり、その下に赤坂港跡が復元されています、揖斐川に通じ尾張名古屋桑名宿との舟運が盛んでした、赤坂湊(河岸)には諸藩の廻米が集積され、数百隻の舟が出入りし、大いに繁盛しました。

明治に入ると近くの
金生山(きんしょうざん)で採掘された石灰の(せっかい)積み出しに五百隻の船で賑わいましたが大正時代になると鉄道が敷設され、舟運は急速に衰退してしまいました。
常夜燈 赤坂湊跡

 赤坂港跡に建つ赤坂港会館は明治八年(1875)に中山道と谷汲街道の分岐点に建てられた警察屯所を復元したものです、今は赤坂に関する資料館になっています。

赤坂港会館並びの
浅間神社赤坂湊の守護神です。

先に進み
西濃鉄道市橋線本町踏切で横断すると、左手に赤坂本町駅跡(標石)があります。

この鉄路の開通により
杭瀬川の舟運は終焉を迎えました。
赤坂港会館 浅間神社 西濃鉄道 赤坂本町駅跡

 踏切先の左手が赤坂宿本陣跡です、今は赤坂本陣公園になっています。

本陣の規模は
間口二十四間四尺(約44.4km)、敷地二反七畝(820坪)、建坪二百三十九坪で、玄関門構えの豪勢なものでした。

当初
馬渕太郎左衛門が勤め、寛永以降は平田又左衛門が代々本陣職を継ぎ、天明、寛政の頃は、しばらく谷小兵衛に変ったが、以後は矢橋広助が維新まで勤めました。

史跡中山道赤坂宿本陣跡標石の後方に和宮之碑があります、 文久元年(1861)十月二十五日、暮七ツ時(午後四時頃)皇女和宮は赤坂宿矢橋本陣に到着し、宿泊(五日目)しました。

翌朝五ツ時(午前八時頃)本陣を出立、
彦根藩約一千七百名、大垣藩約一千三百名が警護し、その隊列は十町(1.1km余り)に及びました、大垣藩は皇女和宮通行の前後三日間の街道通行禁止、宿泊当日より翌日夕方まで焚き火鳴り物を禁じました。
本陣跡&和宮碑

 本陣公園に所郁太郎(ところいくたろう)があります、医学を学び、その後大坂の適塾に入門し緒方洪庵に学びました、この頃より長州藩士との親交を結び、江戸長州藩邸内の医院総督となりました。

文久三年(1863)の
政変により三条実美等の七卿落ちに従い長州入りしました、この時に刺客に襲われ瀕死の重傷を負った井上聞多(後の井上馨)の刀傷を畳針で五十針も縫合し、一命を取り留めています、「医は人の病を医し、大医は国の病を治す」の信念で、国事に奔走しました。

宿並には
二階建てを模した旧家が数軒残されています、これは皇女和宮の通行に際して、見苦しい家があっては非礼とのことで、宿内の五十四軒が建て直されました。

これを
お嫁入り普請といいます、費用は幕府より十年債で借用しましたが、この三年後幕府は崩壊し、借金は帳消しになりました。
所郁太郎像 お嫁入り普請

 宿並を進むと右手の赤坂歯科医院の所に赤坂宿の四ツ辻があります。

四ツ辻手前の右手に天和三年(1683)建立の
谷汲道道標があります「左 たにくみ道」「谷汲山観音夜灯」と刻まれています、右手(黄色矢印)の北への筋は 西国三十三観音霊場の満願寺谷汲山華厳寺への谷汲巡礼街道です。

左の筋は
伊勢に通じる養老街道です、この四ツ辻を左に進むとJR東海道本線美濃赤坂駅に至ります。

四ツ辻先の左手の旧家は
本陣を勤めた矢橋家住宅です、天保四年(1833)に建てられた大型町屋で国登録有形文化財です。
赤坂宿の四ツ辻 たにくみ道標 矢橋家住宅

 並びの榎屋旅館脇本陣跡です、建坪百五十五坪で宝暦年間(1751〜63)以降は飯沼家が代々勤め、問屋年寄役を兼ねました。

次いで左手に
宿場の駅五七処があります、屋号の五七日本橋から数えて赤坂宿は五十七番目であるところを由来としています、お休み処です。

右手に日蓮宗妙運山
妙法寺があります、参道口の右手に史蹟戸田三弥墓碑があります、墓は墓地内にあります。

戸田三弥(さんや、寛鉄)は文政五年(1822)に大垣藩家老の家に生まれました。
脇本陣跡 標石 宿場の駅五七処 戸田三弥墓碑

 幕末維新の際には藩老
小原鉄心と共に紛糾する藩論を勤王に統一するのに尽力し、また、戊辰戦争では大垣藩が東山道先鋒を命じられると軍事総裁として東北各地を転戦し軍功を上げました、維新後は新政府の要職を歴任しました。

 参道口の左手には史蹟所郁太郎墓碑があります、墓は墓地内にあります。

遊撃隊参謀として
高杉晋作を補佐し、幕府の長州征伐に備えましたが、慶応元年(1865)三月十二日腸チフスに罹り吉敷村の陣営で死去しました、享年二十八歳でした。

妙法寺の向いに
増田家住宅を利用したお嫁入り普請探訪館があります、皇女和宮通行に際して、見栄えを良くする為に表側だけが二階建てという、珍しい造りを内部から見学することができます。

次の筋を左に入り、右手の浄土真宗大谷派光照山
正安寺の前を過ぎると、正面にお茶屋屋敷跡があります、慶長九年(1604)徳川家康が岐阜城の御殿をここに移築しました。
所郁太郎墓碑 お嫁入り普請探訪館 お茶屋屋敷跡

 将軍専用の宿泊所でした、二代将軍秀忠千姫も宿泊しています、現在は牡丹園になっています。

 宿並に戻ると、右手の虚空蔵口バス停の所に憂国の青年志士所郁太郎生誕地碑があります。

所郁太郎は天保九年(1838)中山道赤坂宿の酒造家矢橋亦一(やばしまたいち)の四男として生まれ、幼少にして揖斐郡大野町西方の医師所伊織の養嗣子(ようしし)となり、 初め横山三川に漢学を習い、次に美濃加納藩医青木養軒に医学、三宅樅台(しょうだい)に文学歴史を学び、十八歳で京に出て安藤桂州塾で蘭学を学び、さらに大阪の適塾で西洋医学と洋学を修めました。

スグ先を右に入ると
子安神社が鎮座しています、 創建当初より安産守護の神として崇敬が篤く、歴代の大垣藩主戸田家の庇護を受けてきました、三代将軍家光もこの由を聞き、戸田家に命じご産刀を献上しました。
所郁太郎生誕地 標石 子安神社

 参道口の子安神社社標に
銀弊社と刻まれています、明治二年(1869)に全国の神社は、県社(けんしゃ)、郷社(ごうしゃ)、村社(そんしゃ)に分類されました、しかし戦後になって全国の神社を一律平等に扱うことになり、この制度は廃止されました。

ところが
岐阜県のみは社格が一律なのは納得できないと、金弊社銀弊社白弊社無格社の四つに分類しました。

 赤坂西町バス停を過ぎると左手に史跡赤坂宿御使者場跡(碑)があります、参勤の大名公家通行の際、宿役人名主が送迎を行った所です、ここが赤坂宿の(西)です。

脇の石段を上ると
兜塚があります、関ケ原の合戦の前日慶長五年(1600)九月十四日家康は赤坂の岡山に着陣しました、すると西軍石田三成の家臣島左近杭瀬川に進出し、夜襲を仕掛けて東軍の中村一栄隊に打撃を加えるという前哨戦が展開されました。

戦いは西軍の大勝でした、戦死した東軍中村隊の武将
野一色頼母をここに葬り、その鎧兜を埋めたと伝えられています。

兜塚の先で
廃線を横断します、この地で産出する石灰を運ぶ貨物線でした、線路脇には朽ちた踏切番小屋を残しています。
御使者場跡 兜塚 廃線と踏切番小屋

 廃線を越すと
大垣市昼飯町に入ります、街道の両側には石灰関連の工場が連なっています。

 県道216号赤坂垂井線をモクモクと歩くとお食事処明吟があります、刻限は1:30です、例によって空腹の権化です!

本日の
タイムリミットはJR東海道本線関ケ原駅5:26発です、ユックリしている暇はありません。

ピリ辛ネギラーメンをオーダーしました、スピードアップをお願いしました、生ビールは一気飲みです、うまいね、堪りません!

ピリ辛ネギラーメンが滑り込んできました、スープにコクがあって実にうまい、そしてチャーシューが絶品です、これが私の昼飯(ひるいい)です、このお店は二度目です、お奨め店です!!
中華料理明吟 生ビール ピリ辛ネギラーメン

 明吟の裏手に昼飯大塚古墳があります、長さ150mで岐阜県下最大の前方後円墳(国史跡)です。

昼飯から青墓(あおはか)、そして垂井にかけては古墳の宝庫で、中山道沿いにも多くの古墳が存在します。

街道沿いには豪壮な
長屋門の旧家を残しています。

先に進むと右手に浄土宗花岡山阿弥陀院
如来寺があります、本尊は信州善光寺の三尊仏の尊影を模刻したものであるところから善光寺分身如来と呼ばれ、昼飯善光寺とも呼ばれています。

本田(多)善光(よしみつ)は難波の堀江で三尊仏を拾い上げると、これを背負い故郷の信州に向いました。
昼飯大塚古墳 長屋門 如来寺

 その際、青墓と赤坂の中程にある
花岡山昼飯(ひるいい)を摂り、これが地名と由来となりました、その後発音しずらいところからひるいとなりまし。

 昼飯町交差点を横断し、東海道本線を昼飯架道橋でくぐると青墓町に入ります。

先に進むと左手に
史跡の里標柱があります、このスグ先を右に入ると粉糠山(こぬかやま)古墳があります、長さ100mの前方後円墳で東海地方最大です。

粉糠山は青墓宿の遊女達が化粧に使った粉糠(こぬか)が積もり、山になったという伝説に由来しています。

この地は古墳が多いところから
大墓(おおはか)と呼ばれ、これが青墓(あおはか)に転化し地名となりました。
東海道本線ガード 史跡の里 粉糠山古墳 延長寺

 街道を進むと右手に浄土真宗本願寺派國府山延長寺があります、山門は青野城表門を移築したものです、春日局稲葉正成の子正次(まさつぐ)は五千石の所領を与えられ青野村に居を構え、天和元年(1681)子の正休(まさやす)は若年寄に就任し、青野藩一万二千石の大名となり青野城を築城しました。

次いで右手に
圓興寺寺標があり、國宝観世音菩薩と刻まれています、北に約1.7kmに位置しています、延暦九年(790)創建の天台宗の古刹です、本尊の木造聖観音菩薩立像(国重要文化財)は最澄作と伝わっています。

天正二年(1574)
織田信長の焼討にあった際、本尊が勝手に動き、石の上に難を逃れたといい、このことから石上観音と呼ばれています。

街道沿いの圓興寺寺標から右に入ると正面に
白髭(しらひげ)神社が鎮座しています、毎年十月末第2日曜日の祭礼に大太鼓踊りが奉納されます、伝承によると農民の雨乞い祈願豊作踊りといいます(大垣市重要無形民俗文化財)。
圓興寺寺標 白髭神社

 今井歯科先の左手に小さな照手姫水汲井戸標石があります、この横道を進むと右手に史蹟照手姫水汲井戸があります。

武蔵相模郡代
横山将監の娘で絶世の美女照手姫は常陸国司の小栗判官正清と恋仲になるも、判官は毒殺され、姫は人さらいにさらわれてしまった。

青墓長者に売られた姫は接客を拒否した為、長者より(かご)で井戸水を汲めといういじめに遭いました、これがその井戸です。

毒に倒れた
判官は熊野の湯につかって蘇り、を迎えに来たといいます。
照手姫井戸口 入口標石 照手姫遺跡 照手姫水汲井戸

 街道に戻ると、スグ先の右手に圓願寺芦竹庵(よしたけあん)標柱があります、牛若丸(後の源義経)が、京都の鞍馬山で修業を終え、金売吉次を供にし、奥州平泉へ落ちのびる際、圓願寺(圓興寺の末寺、源氏一族の菩提所)で休み、源氏が再び栄えるように祈りました。

その折、杖にしてきた
(あし)の杖を地面に突き刺し、「さしおくも 形見となれや 後の世に 源氏栄えば、よし竹となれ」の歌を詠み東国へ旅立ちました。

その後、
は大地から芽をふき根を張りました、そしてみごとな枝に竹の葉が茂りましたが、根や幹は元のままの芦でした、この珍しい竹は芦竹(よしたけ)と呼び、圓願寺を芦竹庵(よしたけあん)と呼ぶようになりました。

敷地跡内には
五輪塔が並んでいます、小篠竹(こしのだけ)の塚と呼ばれ、照手姫と伝わっています。
圓願寺芦竹庵 小篠竹の塚

 大谷川手前の右手に中山道青墓宿標柱があります、中世東山道時代ここに青墓宿があり、遊女の里として知られました。 

大谷川を越えると
青墓から青野に入ります、この辺りは青野ケ原と呼ばれています、美濃の由来はここ青野ケ原、加納の各務野(かかみの)、揖斐川上流の大野の三野をみのといい、これが美濃に転化したものです。

スグ先の
県道216号線を横断して、向いの県道228号線に入ります、ミニストップの左側を進みます。

先に進むと左手に浄土真宗大谷派双六山
智教寺があります、文明七年(1475)蓮如上人の弟子覚玄による開基で覚玄道場と呼ばれました、その後宝永二年(1705)伝教大師作の阿弥陀如来像を本尊とし、寺号を智教寺と改めました。
青墓宿 県道横断 智教寺

 街道に戻るとスグ先の右手に常夜燈型国分寺道標「国分寺道」「薬師如来御寶前」があります、右折(黄色矢印)してみましょう。

踏み込むと左手に浄土宗本願寺派法雲山
教覚寺があります、この地を領した稲葉氏の庇護を受けました。

山門脇に
寺子屋跡の立札があります、幕末になると庫裏が寺子屋になりました。

鐘楼の石垣には
フズリナという化石が一杯付着しています、これは今から約二億五千万年前、赤坂の金生山(きんしょうざん)がまだ海底であった時に繁茂した貝の一種です、それが長い間に土地が隆起して現在に至ったのです、鐘楼石垣はこの金生山から切り出された石が使用されています。
国分寺道分岐 国分寺道標 化石の鐘楼石垣

 教覚寺の並びに稲葉石見守正休公碑があります、稲葉正休(まさやす)は美濃青野藩、当初五千石、その後加増されて一万二千石の大名となりこの地に青野城を築城しました。

貞享元年(1684)治水事業から外された恨みから、江戸城中で大老
堀田正俊を刺殺し、 自身は居合わせた老中大久後忠朝(ただとも)等に斬殺されました、時に正休は享年四十五歳、稲葉家は改易になりました。

更に進むと正面が
国分寺跡です、天平十三年(741)
聖武天皇(しょうむてんのう)の詔勅によって全国六十八ケ所に建てられた国分寺跡です。

広大な
国分寺跡は国史跡で史跡公園になっています。
稲葉正休公碑 美濃国分寺跡 美濃国分寺

 国分寺跡奥の山側に高野山真言宗金銀山瑠璃光院
国分寺があります、美濃国分寺は兵火や雷で焼失しましたが、焼け残った本尊(国重要文化財)の上半身がそのままの姿で国分寺に安置されています。

 街道に戻って進むと右手に地蔵堂があります、堂内を覗くとふくよかな地蔵坐像が安置されています。

この地蔵堂のスグ先にひと際大きな
大神宮常夜燈があります、大正五年(1916)十月の建立です。

この常夜燈の前に
史跡中山道一里塚跡碑があります、青野ケ原の一里塚跡です。

江戸日本橋より数えて百十一里目です。

左手の山口指物店を過ぎると
大垣市から不破郡に入ります。
地蔵堂 地蔵尊坐像 一里塚跡 駒引稲荷神社

 先に進むと右手に
駒引(こまびき)稲荷神社があります。

 稲荷社の参道口に地蔵堂があります。

駒引(こまびき)交差点の右手に
標識「この道は中山道」があります、「熊坂長範物見の松800m」と記されています。

盗賊の頭
熊坂長範綾戸古墳上のに身を隠し、旅人を襲ったといいます。

スグ先の右手の祠内に
地蔵墫立像坐像の二体が安置されています。

祠脇に
平尾御坊道道標があります、ここを右に入ると先の左手に平尾御坊願證寺があります。
地蔵堂 地蔵尊 平尾御坊道道標 願證寺

 本願寺八代法主
蓮如の六男蓮淳(れんじゅん)が永正年中(1504〜20)伊勢長島に一宇を創建し、開基したのが始まりと伝えられ、天正二年(1574)の長島合戦により堂宇はことごとく焼失すると、蓮淳の孫證栄は平尾に移し、真徳寺を再興開基しました。

その後安永二年(1733)に
願證寺と改号し、平尾御坊の称を賜ったといいます、寺裏には蓮如上人御廟納骨堂があります。

 追分交差点を越し、左手のマックスバリューを過ぎると、右手に明治五年(1872)創建の喜久一九稲荷神社があります、この地の鎮守です。

社殿前に
砲弾が奉納されています、明治三十七〜八年の日露戦役に於いて二百三高地から発射し、旅順港内の敵艦バーヤンに命中した28cm砲弾です。

次いで右手に
地蔵堂があります、鉄柱で屋根が支えられています、堂脇には馬頭観音堂があります、垂井宿口にあって、悪霊の侵入や相川の渡しの安全を見守っているのでしょう。
喜久一九稲荷 奉納砲弾 地蔵堂 馬頭観音堂

 街道は大きく左に曲がります、突当りのT字路を右折します、美濃路追分です、この分岐点には追分道標「是より 右東海道大垣みち 左木曽海道たにぐみみち」があります。

この
道標は宝永六年(1709)垂井宿の問屋奥山文左衛門が建立したもので、中山道にある道標の中で七番目ほどの古さです。

美濃路幕府道中奉行の管轄下に置かれ、大垣、墨俣、起、萩原、稲葉、清洲、名古屋を経て東海道の宮宿に至ります。

梅谷川追分橋で渡り、 次いで、相川橋北交差点を左折(白色矢印)して、相川相川橋で渡ります、相川は関ケ原宿北部の伊吹山南麓の明神の森に源を発し、流末は杭瀬川に落合います。
美濃路追分 追分道標 相川橋

 
相川は昔から暴れ川で架橋が出来ず、江戸時代初期には人足渡しでした、川越人足は垂井宿の百姓が勤め、渡川時の水量によって渡賃が決められていました、享保八年(1723)の人足渡賃(一人)ちち(胸)切水四十五文、切水ニ十四文、ひざ上切十六文でした。

皇女和宮朝鮮通信使等の大通行の際は木橋が架橋されました。

 PM3:20 垂井宿着 関ケ原宿まで5.7km

 相川を渡ると左手に中山道垂井宿碑があります、ここが垂井宿東見付跡です、宿役人はここで大名の参勤行列を送迎しました、垂井宿に到着です!

垂井宿は東海道宮宿に至る脇往還美濃路との追分を控え、西美濃の交通の要衝として栄え、中山道で唯一大八車の使用が許可されました、毎月五と九の付く日に南宮神社鳥居付近で六斎市が立ち、大いに賑わいました。

宿長は七町(約763m)で、西町中町東町の三町で構成されました。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によると垂井宿宿内家数は三百十五軒で本陣一、脇本陣一、旅籠ニ十七軒、宿内人口は千百七十九人(男五百九十八人 女五百八十一人)、幕府領(大垣藩預り)で宿高七百石でした。

宿並は突当りの
Y字路を右(白色矢印)に進みます、ここを左(黄色矢印)に入るとJR東海道本線垂井駅があります。
垂井宿碑 垂井駅分岐

 一本目の路地を左に入り、Y字路を右に進むと町指定史跡紙屋塚があります。

ここには紙屋の守護神
紙屋明神が祀られています、垂井は美濃紙発祥の地ともいわれ、府中に置かれた国府に美濃紙が上納されました。

宿並の家屋には旧業種と旧屋号を記した
木札が掲げられています。 

枡形の正面に
旅籠亀丸屋があります、亀丸屋西村家は当時の姿を残して今も営業している貴重な旅館です(0584-22-0209)。
紙屋塚 旧屋号札 枡形 旅籠亀丸屋

 安永六年(1777)に建てられた間口五間(約9m)、奥行六間半(約11.7m)の
母屋と離れに上段の間を含む八畳間が三つあり、浪花講、文明講の指定旅籠で、当時は南側に入口があり、二階に鉄砲窓が残る珍しい造りです。

 次いで左手に問屋場跡があります、金岩家が勤め、代々彌一右衛門を襲名し庄屋を兼ね、相川の人足渡しの手配を行いました。

問屋場の規模は間口五間半(約10m)、奥行七間半(約13.5m)でした。

スグ先右手の
丹波屋は天保七年(1836)刊の浪速講(なにわこう)道中記に記されている旅籠たんばや幸吉です、浪速講とは安心して泊まれる優良旅籠の組合組織です。

先の左手安田歯科が
垂井宿本陣跡です、中山道垂井宿本陣跡碑があります、栗田家が勤め酒造業を兼ねました。
問屋場跡 旧旅籠丹波屋 垂井宿本陣跡 本陣跡碑

 寛政十二年(1800)の記録によると、建坪は百七十八坪で、
玄関上段の間を備える広大なものでした。

 本陣先の左手に南宮神社大鳥居が聳えています、鳥居脇には道標「南宮社江八町」があります、南宮大社はここから約900m南の南宮山の麓に鎮座しています、第十代崇神天皇(すじんてんの)時代の創建です。

南宮神社は
美濃國一宮です、主祭神は金山彦命(かなやまひこのみこと)で、全国の鉱山、金属業の総本宮として、今も深い崇敬を集めています。

関ケ原の合戦の際、ここに布陣した西軍毛利方の
安国寺恵瓊(あんこくじえけい)に焼き払われましたが、寛永十九年(1642)春日の局の願いにより、徳川三代将軍家光が再建しました。

明神型の
大鳥居は社殿再建の際に、約四百両の金で石屋権兵衛が建てたもので、横幅(内側)454.5cm、頂上までの高さ715cm、柱の周り227cmです。

扁額正一位中山金山彦大神は延暦寺天台座主青蓮院尊純親王の揮毫です。
南宮大社鳥居 南宮社道標

 大鳥居から参道を約120m入ると、右手に垂井の地名由来となった垂井の泉があります、樹齢約八百年の大ケヤキの根元から今もコンコンと湧き出ています。

天平十二年(740))美濃行幸中の
聖武(しょうむ)天皇も立ち寄り、平安の歌人藤原隆経(ふじわらのたかつね)は「昔見し たる井の水は かはらねど うつれる影ぞ 年をへにける」と詠うより嘆いています。

傍らに
芭蕉句碑「葱白く 洗ひあげたる 寒さかな」があります、今も地元のご夫人達が野菜を洗っています。

垂井の泉は岐阜県名水五十選で県指定天然記念物です。

宿並に戻ると左手の
ふれあいプラザ夢の屋辺りが脇本陣跡ですが標識等はありません、金岩家が勤め、建坪は百三十五坪でした、門と玄関は先の本龍寺に移築されています。
垂井の泉 芭蕉句碑

 宿並右手の旧旅籠長浜屋は垂井宿お休み処になっています。

次いで左手に
油屋卯吉家跡があります、文化年間末期(1817頃)の建築です、油商を営み、明治以降は旅人宿亀屋となりました。

向いに浄土真宗大谷派東光山
本龍寺があります、門前に明治天皇垂井御小休所碑があります、往時はこの辺りに高札場がありました。

山門と書院の玄関金岩脇本陣から移築したものです。
旧旅籠長浜屋 油屋卯吉家跡 本龍寺 芭蕉句碑

 境内に文化六年(1809)建立の
芭蕉句碑「作り木の 庭をいさめる 時雨かな」や芭蕉木像を祀る時雨庵があります、元禄四年(1692)芭蕉は八世住職の玄潭(俳号規外)を訪ね、当寺で冬籠りをしました。

 本龍寺前から大きく右に曲がり、赤いレトロなポストを過ぎると左手に垂井宿標柱があります、ここが垂井宿西見付跡です。

広重は
垂井として宿内から京方面を見て、雨が降る西見付の景を描いています。

両側の石垣の上に土塁を築いた
見付や手前に茶店の様子がシッカリ描写しています。

そして松並木の中から現れた参勤の
大名行列を出迎える、宿役人が描かれています。

広重としては珍しく誇張せずにリアリティーを追求して描いており、傑作の一つといわれています。
垂井宿標柱 木曽海道六拾九次之内 垂井 広重画

 西見付跡には火防の神愛宕神社が祀られています、宿内に入り込む悪霊を見張っています。

愛宕神社の玉垣前に
八尺地蔵尊道道標があります、「従是一丁」と刻まれています。

ある目の見えぬ母が、夢告げに従って八尺掘ると、三体の
地蔵が出土しました。

そこに八尺四方の堂を建て
地蔵を祀ると、目が見えるようになったといいます。

垂井宿を後にして
前川前川橋で渡ると、逆Y字路に突き当たります。
西町愛宕神社 八尺堂道標 逆Y字路分岐 地蔵尊

 京方面からは右に進みます、この分岐点には小さな
地蔵座像が祠の中に安置されています。

 先の左手に天保十年(1839)建立の松島稲荷神社があります、松島村の鎮守です。

松島村は松並木沿いの小さな村(島)であったところから
松島となりました。

先に進みJR東海道本線を
出屋敷(でやしき)踏切で横断します。

次いで国道21号線を
日守(ひもり)交差点で横断します、ここには垂井町日守歩道橋が設置されています。

日守川を渡ると日守の茶所があります。
松島稲荷神社 東海道本線踏切 日守交差点 日守の茶所

 江戸末期に、岩手の
美濃獅子門化月坊が、中山道関ケ原山中の芭蕉ゆかりの地(常盤御前の墓所)に秋風庵を建て、明治になってそれをここに移し、中山道を通る人々の休み処として昭和の初めまで盛んに利用されました。

又、大垣新四国八十八ケ所弘法の
札所とし、句詠の場としても利用された貴重な建物です。

 日守の茶所の並びに垂井の一里塚南塚をほぼ完全に残しています、江戸日本橋より数えて百十二里目です。

中山道で
国の史跡に指定された一里塚はここと、板橋志村の一里塚だけです。

関ケ原の合戦
の際、浅野幸長(よしなが)は この一里塚辺りに布陣し、南宮山の毛利秀元等の西軍に備えました。

幸長は
五奉行の一人であった浅野長政の嫡男で甲斐國府中十六万石の領主でした、豊臣恩顧でありながら石田三成と確執があったため、東軍に属し先鋒を勤め、この功により合戦後、紀伊國和歌山三十七万六千石が与えられました。

街道は再び国道21号線を
日守西交差点で横断します、左手の関ケ原バイパスの新設により、この先の旧道が一部消滅しています。
垂井の一里塚 日守西交差点

 街道を進むと左手に大看板「ここは中山道垂井宿」があり、次いで標柱「これより中山道 関ケ原野上 関ケ原町」があります、岐阜県不破郡垂井町と岐阜県不破郡関ケ原町野上の境です。

先で
関ケ原バイパス跨道橋で横断すると旧道が再び復活します。

微妙にうねる街道を進むと 右手に
伊富岐(いぶき)神社(式内社)の鳥居があります、社殿はここから北西およそ900mの所に鎮座しています、伊富岐(伊吹)山麓の豪族伊福氏の祖神を祀っています、古来より美濃二の宮でした。

木曽川水系の
平木川平木川橋で渡ると右手に野上七つ井戸があります。
跨道橋 伊富岐神社参道口 野上七つ井戸

 野上村間の宿でした、中世東山道時代は宿駅でした。

 野上の七つ井戸から北約150mの所にしゃもじ塚と呼ばれる、平安中期の豪族平忠常の墓があります。

平安時代に
房総で反乱を起こした平忠常が捕らえられ、京に護送される途中、病に伏し、村人が食べ物をしゃもじに乗せて差し出したところ、しゃもじごと口に入れ、そのまま息絶えたといいます。

七つ井戸前を今度は左に入り、国道21号線を横断すると
野上行宮跡(あんぐう)案内標識があります、標識に従ってJR東海道新幹線高架をくぐった先に野上行宮跡(解説)があります。

古代最大の内乱といわれる
壬申(じんしん)の乱(672)に於いて、大海人(おおあまの)皇子は野上の長者屋敷と呼ばれる小高い小平地(しょうへち)に行宮を興して本営としました、乱後に行基が行宮の廃材を利用して南方(なんぽう)六坊を建てたといいます。
しゃもじ塚 野上行宮跡

 国道21号線まで戻ると、左手の野上交差点の並びに浄土真宗大谷派鶏籠山真念寺があります、境内に入ると班女(はんじょ)の観音堂があります。

平安の中頃、都の
吉田少将(よしだのしょうしょう)がここ野上の長者宅に泊まった際、遊女の花子と契りを結びました。

少将が東国へ発った後、生まれた
梅若丸を少将の許へと送りましたが、便りがないので花子は後を追って探すと、少将はすでに都に戻り、梅若丸はつい先頃亡くなったことを知りました。

花子は
狂女(班女)となり野上に戻り、ひたすら観音を念じたといいます、堂内の中央に祀られているのが花子の観音像です。

国道21号線を京方面に進むと右手に
秋葉神社が祀られています、ここが野上長者邸跡です。
班女の観音堂 野上長者邸跡

 街道に戻ると松並木になります、往時は松、杉、楓の並木が続いていましたが、近年虫害や台風などによって、減少の一途をたどっています。

そのため町では、
天然記念物に指定し、防虫対策や補植により、その保護につとめています、街道に松並木は必須です、よろしくお願いします。

山内一豊は関ケ原の合戦の際、垂井の一里塚桃配山の間の中山道沿いに布陣し、南宮山の西軍に備えました。

その後、南宮山の西軍に東軍攻撃の気配が無い為、使番による家康からの命令を受け、山内隊は
柴井の地まで前進し交戦しました、 戦後、妻の内助の功もあって土佐九万八千石が与えられました。
松並木 山内一豊陣地跡 六部地蔵

 松並木が石畳風舗装路になると、左手に
六部地蔵があります、宝暦十一年(1761)この地で亡くなった諸国行脚の六部を供養したものです、痛みのひどい病にご利益があり「六部地蔵 歯痛治りて 礼参り」と大事にされてきました。

 旧道が国道に吸収される一ツ軒交差点手前の国道側左手に徳川家康最初陣地となった桃配山があります。

壬申の乱の時、大海人皇子(後の天武天皇)はこの山に布陣し、兵士にを配って激励すると、士気が高まり連戦連勝し、ついに大勝を果たしました、これにより桃配山と呼ばれるようになりました、家康はこれにあやかり、ここに最初陣地を設営しました。

慶長五年(1600)九月十五日朝方濃霧が晴れると、先鋒を任された
福島正則を差し置いて、抜駆けした井伊直政松平忠吉が西軍宇喜多秀家に突撃し、関ケ原の戦いの火蓋が切られました。

その後
西軍有利の内に戦況は推移しました。
桃配山 家康最初陣地跡 激戦地眺望

 正午過ぎ、内応を約していた
小早川秀秋が動かないことに業を煮やし、家康は布陣する松尾山に向かって威嚇射撃を行いました、迷いに迷っていた小早川秀秋は、この家康の督促に意を決し松尾山を降り、小早川一万五千の大軍は東軍に寝返り、これを境に西軍は総崩れとなりました。

天下を掌握した家康は
征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開き、翌年には東海道の整備に着手し、更にその翌年、中仙道の整備に着手しました。

 旧道に戻って進むと左にカーブし関ケ原野上歩道橋の手前で国道21号線に合流しますが、手前の右手歩道に入ります。

この旧道はスグ先で
一ツ軒(ひとつや)交差点に出ます、京方面からは斜め左の歩道に進みます。

一ツ軒交差点を横断し、斜め右(白色矢印)の車止めのある
歩道に入ります。

再び
松並木になります、写真は振り返って撮影したものです、先の右手に三面六臂馬頭観音像が祠内に安置されています、この先で国道21号線に合流します。
歩道橋前の歩道 一ツ軒分岐 松並木 馬頭観音

 京方面からは
コメリの向いを斜め左に入ります。

 PM4:49  関ケ原宿着

 関ケ原東町交差点辺りが関ケ原宿の東見付跡です、往時は土居が築かれていました、ここが江戸(東)口です、関ケ原宿に到着です!

関ケ原は伊吹山地と鈴鹿山系が迫る狭隘の地(現在でも東海道線、国道、名神高速が集中)で軍事上の要衝でした、この為壬申の乱や天下分け目の関ケ原の合戦の舞台となりました。

関ケ原宿は
勢州路(伊勢街道)や北国脇往還(北国街道)の追分を控え、問屋場は八軒置かれ、美濃十六宿中加納に次ぐ規模を誇りました。

天保十四年(1843)の
中山道宿村大概帳によると関ケ原宿宿内家数は二百六十九軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠三十三軒、宿内人口は千三百八十九人(男六百八十五人、女七百四人)で、旗本竹中氏領でした。

宿並を進むと右手に村社
若宮八幡神社が鎮座しています、当社は関ケ原の合戦によって焼失しましたが、家康は修復の為に、御扶持方三千人分を正月から六月まで与えました。
若宮八幡神社

 次いで右手に天文五年(1536)創建の浄土真宗大谷派幽谷山法忍寺があります、当寺には十九女池(つづらいけ)竜女伝説に登場するが保存されています。

向いのさくらインベスメント脇を先に進むと
十九女池があります、畔に十九女乃宮が祀られています。

今は昔、時よりニ十歳前後の
美女が笛を吹いて歩き、
時々民家に
を借りに立ち寄りました、ところが返されたが異様に生臭かったといいます、今でもこの法忍寺に預けられています。

そこで
古老が怪しみ椀の裏底に糸を付けた針を刺して手渡し、この糸を辿ると池の畔で途切れました、以来、竜女は池から立ち去ったといいます。
法忍寺 十九女池 十九女乃宮

 宿並に戻るとGS ENEOSの敷地裏に與市宮(よいちのみや)があります、当社は源平時代に関ケ原村の郷士で開拓者として仰がれた関ケ原與市の霊を祀っています。

承安四年(1174)上洛した際に與市の馬が泥水を蹴り上げて牛若丸(後の源義経)の衣を汚したところから争いとなり、與市は従者数十名と共に殺害されました、これが蹴上の地名由来になっています。

樋口家では
與市を始祖とし、関ケ原の開祖として代々崇敬して来ました。

東公門交差点手前の左手に明治三十二年(1899)創業の
関ケ原醸造があります、醤油の関ケ原たまりは宮内庁御用達です。

東公門交差点辺りに
関ケ原の一里塚があったといいますが、遺構や標識は無く位置は不明です、江戸日本橋より数えて百十三里目です。
與市宮 関ケ原醸造

 次いで左手の百貨の店吉田花店の間に関ケ原宿の七つ井戸跡(解説)があります、関ケ原宿内には他に東町若宮前、郵便局東、藤井病院前、歩道橋前、宗徳寺前、愛宕神社参道前の六ケ所にありました。

関ケ原宿は宝暦十年(1760)の
大火をはじめ度々火災に見舞われ、そこで東町、西町間の宿並南側に井戸が掘られ、長い間防火、生活用水に利用されました。

七つ井戸跡の向いの小路に入ると左手に
毘沙門天があります、元は総社八幡神社の境内に町の守護仏として安置されていましたが、明治二年(1869)神仏分離令によりここに移転されました。

宿並に戻ると右手に
旅館桝屋(ますや)があります。
毘沙門天 旅館枡屋 関ケ原駅前交差点

 平安時代の永長元年(1097)創業の
老舗旅館です、建物は新しくなっています。

並びの関ケ
原駅前交差点が関ケ原宿の起点です、本日はここまでです!

右折するとJR東海道本線
関ケ原駅です。

到着祝い

 フィニッシュタイム
はPM4:49です、本日の帰宅最終タイムリミットはJR東海道本線
関ケ原駅PM5:26発です、余裕をもっての到着です。

駅前のスーパーうおさだで
祝酒を入手し、関ケ原駅ホームのベンチで缶のフタを抜きます。

この瞬間が
達成感の極なのです、何故か、遠い空の雲を目を細めて見上げてしまいます。

帰りは例によって7時間の長旅です、いつの日かアイポッドに古今亭志ん朝の落語でも入れてみましょう!








前 太田 〜 加納 次 関ケ原 〜 高宮