今回も高速夜行バスの投入です! ネット予約を入れると、横浜〜名古屋間の片道乗車料金は2,700円です、更にポイント割引が利用でき、しめて2,640円です、リーズナブルですね!! それ以上に好都合なのは、名古屋駅到着がAM 5:15です、これですと名古屋駅始発のAM5:45が利用できます、理想的です、決定!!! 高速バスは定刻通りに名古屋駅太閤口に到着です。 駅前のコンビニにてお握り2個とお茶を購入して、JR東海道本線の始発に乗車です。 車中にて食事を済ませ、雄大な流れに成長した木曽川をやり過ごすと列車はJR東海道本線岐阜駅に滑り込みます。 それでは、恒例の桜と花粉症ウォークの開始です。
JR東海道本線をくぐると変則五差路になっています、斜め左(白色矢印)志門塾の左に進みます。
鏡島湊跡の先で再びUターンして、長良川の土手上を進みます、河渡橋東交差点を横断して、河渡橋の左側の歩道で長良川を渡ります。
幕府領で宿高は一千三百石でした。
宿の人々はこの功績に感謝し、松下代官の生詞を祀り、松下神社と顕彰碑を建立しました。 しかし昭和二十年(1945)の空襲で宿並の殆どは焼失し、顕彰碑も欠けてしまいました。 皇女和宮は河渡宿水谷本陣にて昼食を摂りました。
次いで左手の瑞穂市掲示板脇に中山道町並標柱があります、旧本田(ほんでん)村は東町、仲町、西町で構成され、河渡宿と美江寺宿の中間にあたり、間の宿的な立場でした。
五六川を渡ると瑞穂市本田から瑞穂市美江寺に入ります。
加納藩は元禄九年(1696)小森文左衛門(屋号布屋)に酒株(酒類営業権)を与えました。
大正三年(1914)美江城址に鎮座していた八幡神社、神明神社は美江神社に合祀されました。
千手観音菩薩は人を救済する力が強い観音です、千本の手は、どのような衆生をも漏らさず救済しようとする、観音の慈悲の広さを表しています。
鷺田橋(さぎたばし)上に出る歩道が現れたら、Uターン(白色矢印)し鷺田橋上に出ます。
平野井川の氾濫を見張っています、水害に備えてでしょうか土台が高くなっています。
先で平野井大橋下をくぐります。
曽根排水路を境橋で渡ります、曽根排水路は桜のトンネルになっています。
カワイ線材前を右折(白色矢印)します、京方面からは左折になります。
右手が東赤坂駅です、二駅でJR東海道本線大垣駅に出ます。
この分岐点には中山道案内標識があります。 旧道に入ると左手に浄土真宗大谷派宝樹山徳蔵寺があります。
幕末維新の際には藩老小原鉄心と共に紛糾する藩論を勤王に統一するのに尽力し、また、戊辰戦争では大垣藩が東山道先鋒を命じられると軍事総裁として東北各地を転戦し軍功を上げました、維新後は新政府の要職を歴任しました。
将軍専用の宿泊所でした、二代将軍秀忠や千姫も宿泊しています、現在は牡丹園になっています。
参道口の子安神社社標に銀弊社と刻まれています、明治二年(1869)に全国の神社は、県社(けんしゃ)、郷社(ごうしゃ)、村社(そんしゃ)に分類されました、しかし戦後になって全国の神社を一律平等に扱うことになり、この制度は廃止されました。 ところが岐阜県のみは社格が一律なのは納得できないと、金弊社、銀弊社、白弊社、 無格社の四つに分類しました。
廃線を越すと大垣市昼飯町に入ります、街道の両側には石灰関連の工場が連なっています。
その際、青墓と赤坂の中程にある花岡山で昼飯(ひるいい)を摂り、これが地名と由来となりました、その後発音しずらいところからひるいとなりまし。
国分寺跡奥の山側に高野山真言宗金銀山瑠璃光院国分寺があります、美濃国分寺は兵火や雷で焼失しましたが、焼け残った本尊(国重要文化財)の上半身がそのままの姿で国分寺に安置されています。
先に進むと右手に駒引(こまびき)稲荷神社があります。
本願寺八代法主蓮如の六男蓮淳(れんじゅん)が永正年中(1504〜20)伊勢長島に一宇を創建し、開基したのが始まりと伝えられ、天正二年(1574)の長島合戦により堂宇はことごとく焼失すると、蓮淳の孫證栄は平尾に移し、真徳寺を再興開基しました。 その後安永二年(1733)に願證寺と改号し、平尾御坊の称を賜ったといいます、寺裏には蓮如上人御廟と納骨堂があります。
相川は昔から暴れ川で架橋が出来ず、江戸時代初期には人足渡しでした、川越人足は垂井宿の百姓が勤め、渡川時の水量によって渡賃が決められていました、享保八年(1723)の人足渡賃(一人)ちち(胸)切水四十五文、腰切水ニ十四文、ひざ上切十六文でした。 皇女和宮や朝鮮通信使等の大通行の際は木橋が架橋されました。
安永六年(1777)に建てられた間口五間(約9m)、奥行六間半(約11.7m)の母屋と離れに上段の間を含む八畳間が三つあり、浪花講、文明講の指定旅籠で、当時は南側に入口があり、二階に鉄砲窓が残る珍しい造りです。
寛政十二年(1800)の記録によると、建坪は百七十八坪で、玄関や門、上段の間を備える広大なものでした。
境内に文化六年(1809)建立の芭蕉句碑「作り木の 庭をいさめる 時雨かな」や芭蕉木像を祀る時雨庵があります、元禄四年(1692)芭蕉は八世住職の玄潭(俳号規外)を訪ね、当寺で冬籠りをしました。
京方面からは右に進みます、この分岐点には小さな地蔵座像が祠の中に安置されています。
江戸末期に、岩手の美濃獅子門化月坊が、中山道関ケ原山中の芭蕉ゆかりの地(常盤御前の墓所)に秋風庵を建て、明治になってそれをここに移し、中山道を通る人々の休み処として昭和の初めまで盛んに利用されました。 又、大垣新四国八十八ケ所弘法の札所とし、句詠の場としても利用された貴重な建物です。
野上村は間の宿でした、中世東山道時代は宿駅でした。
松並木が石畳風舗装路になると、左手に六部地蔵があります、宝暦十一年(1761)この地で亡くなった諸国行脚の六部を供養したものです、痛みのひどい病にご利益があり「六部地蔵 歯痛治りて 礼参り」と大事にされてきました。
正午過ぎ、内応を約していた小早川秀秋が動かないことに業を煮やし、家康は布陣する松尾山に向かって威嚇射撃を行いました、迷いに迷っていた小早川秀秋は、この家康の督促に意を決し松尾山を降り、小早川一万五千の大軍は東軍に寝返り、これを境に西軍は総崩れとなりました。 天下を掌握した家康は征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開き、翌年には東海道の整備に着手し、更にその翌年、中仙道の整備に着手しました。
京方面からはコメリの向いを斜め左に入ります。
平安時代の永長元年(1097)創業の老舗旅館です、建物は新しくなっています。 並びの関ケ原駅前交差点が関ケ原宿の起点です、本日はここまでです! 右折するとJR東海道本線関ケ原駅です。
フィニッシュタイムはPM4:49です、本日の帰宅最終タイムリミットはJR東海道本線関ケ原駅PM5:26発です、余裕をもっての到着です。 駅前のスーパーうおさだで祝酒を入手し、関ケ原駅ホームのベンチで缶のフタを抜きます。 この瞬間が達成感の極なのです、何故か、遠い空の雲を目を細めて見上げてしまいます。 帰りは例によって7時間の長旅です、いつの日かアイポッドに古今亭志ん朝の落語でも入れてみましょう!
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