今年の夏は記録的な猛暑日の連続でした、とても調査ウォークどころではありません。 しかしこの猛暑も9月21日を境に朝晩はスッカリ涼しくなりました、頃合いでしょう! いよいよ中山道ウォークのファイナルステージに取り掛かりましょう。 それでは関ケ原から草津まで、二泊三日で歩きます。 例によって高速夜行バスの投入です、横浜~名古屋間の料金が何と今までの最安値2500円ポッキリです、素晴らしいですね!! 横浜駅天理ビル前を前夜PM11:50に出立し、名古屋駅太閤口に翌朝AM5:10に到着です、理想的ですね。 朝食の握り飯をコンビニで調達し、東海道本線の始発に余裕をもって乗車できます。 懐かしい木曽川、長良川そして揖斐川を越すと列車はAM6:39関ケ原駅に到着します。 それではファイナルに取り掛かりましょう!!!
本陣の建坪は百五十二坪、門構え玄関付きでした。
宗春は倹約第一の将軍吉宗の政策に逆らい、開放政策を打ち出し名古屋を繁栄させましたが、在位八年で藩主の座を追われ、二十五年間幽閉され、死後も罪人とされ墓石に金網を被せられました。 今日この霊廟は関ケ原合戦東西両軍の戦没者供養堂になっています。
直進すると右手に甲斐墓田中義政陣所古趾碑があります、田中義政は笹尾山から討って出た石田三成の先手と白兵戦を展開しました、この因縁により合戦の六日後、石田三成は田中義政に捕らわれました。
家康は合戦後ここで首実検を行いました、碑を囲む石垣はこの地の領主竹中重門が天保十二年(1841)に築いたものです。
藤川奪還の密談が京都伏見の池田屋にて行われました。
日の出とともに開門、日の入りとともに閉門となり、奈良の都での事変や天皇の崩御など国家的な大事件が起きると、全ての通行が停止されました。 突き当たりに郷社井上神社社標があります、この筋(黄色矢印)に入ってみましょう。
畑の中央に祠があり、中に兜掛石(かぶとかけいし)があります、壬申の乱の時、大海人皇子(天武天皇)が兜を掛けた石です、左手の奥には沓脱石(くつぬぎいし)があります、同様に沓(くつ)を脱いで置いた石です。
庭内には芭蕉句碑「秋風や 藪も畠も 不破の関」や太田南畝歌碑「大友の 王子の王に 点うちて つぶす玉子の ふはふはの関」があります。
明治十一年(1878)に坂を開削した時に出土した地蔵尊と弘文天皇稜にあった地蔵尊が安置されています。
明治三年(1870)大友皇子に弘文天皇の称号が追号され、ここは弘文天皇御陵候補地になりました。
家康と親交のあった吉継は三成の挙兵に対して、再三思いとどまるよう説得しましたが、三成の決意を変えられませんでした、旧友の決意に対して吉継は死を共にして戦うことを決意し、死装束で宮上に着陣しました。
しかし大海人軍はこれを撃退しました、この激戦で両軍の兵士の流血が川底の岩石を黒く染めたところから、黒血川と呼ばれました。
若宮八幡神社で西海合戦勝利を祈願し、母の墓及び地蔵前でしばし跪き、草葉の陰から見守る母の冥福を祈ったといいます。
宿並は東から門前、仲町、西町の三町で構成され、宿長は十町五十五間(約1.2km)でした。 天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳によると今須宿の宿内家数は四百六十四軒、うち本陣一、脇本陣二、旅籠十三軒(中七、小六)、宿内人口は千七百八十四人で幕府領(大垣藩預り)、宿高千五百石でした。
後に今須宿本陣を勤めた当家は代々これを大切にしてきましたが、明治三年(1807)の本陣廃止以降は、当境内に移設しました。
長江高景が美濃国守護代となってその全盛期を迎えるが、嘉吉年間(1441~43)応仁の乱において斎藤妙椿の攻撃を受け、敗北し滅亡しました。
大正七年(1918)火災で焼失しましたが、同十年(1921)に再建されました。
この交差点にはこれより中山道今須宿標柱があります、今須宿の京(西)口です。 次いでJR東海道本線を車返踏切で横断します。
隣り同士の者が二階に寝そべりながら、互いに國境越しに話ができたところから、寝物語の里と呼ばれるようになったといいます。
美濃に入ると特殊な場合を除いて見ることがなくなります。
その後蘇生寺は長久寺末寺として栄えましたが慶長の兵火で焼失し、その後再興されることなく、石地蔵のみが残ったところから蘇生寺照手姫笠掛地蔵とも呼ばれ親しまれています。
言外に句会の主人斜嶺(大垣藩士で芭蕉の弟子)の人柄は伊吹山のようだと詠んだものです。
荷蔵は運送荷物の両隣宿への継立(駅伝運送)が当日中に出来ない場合に荷物を蔵に保管しました、東蔵は藩年貢米集荷の郷蔵でもありました。
吉原の遊女に「江州柏原伊吹山の麓の亀屋佐京の切りもぐさ」という唄を教え込み、毎夜宴席で歌わせ、伊吹もぐさの宣伝に努めました。 亀屋のシンボル福助人形は働き者の番頭で、店を繁盛させた功労者です、シッカリものの番頭さんと遊び人の旦那、落語の世界ですね! 広重は木曽海道六十九次之内で柏原としてこの亀屋の商い風景を描き、右端に福助人形を配しています。
うどんの上にお灸のもぐさに見立てたとろろ昆布を丸めて乗せ、その上に火の代わりに真っ赤な紅ショウガが乗せられています。
明治三十四年(1901)艾屋であった山根為蔵が柏原銀行を設立し、支店も次第に増えましたが、昭和十八年(1943)滋賀銀行に吸収合併されました、この地の産業活動を支援した功績は大きいといわれています。
十四回使用されましたが、その後幕府勢力が増大すると上洛が減少し、元禄二年(1689)徳川五代将軍綱吉の代に廃止されました。
柏原宿の宿長は十三町(1.4km)と長く、近江路(柏原~草津宿)では最長で、中山道全体でも十番目の長さでした。
楓(かえで)は明治十四年(1881)に植栽されたものです。
文化二年〈1805〉)刊の木曽路名所図会に「長沢(ながそ)村を過て、鶯が原に到り、柏原の宿に着く。」と著されています。 また、文明十二年(1480)太田道灌の江戸から京都への旅日記平安紀行の中で「聞まゝに かすみし春そ しのはるゝ 名さえなつかし 鶯の原」と詠んでいます。 道灌は、この旅で寝物語の里でも一首詠んでいます。
道標の正面「従是明星山薬師道」、右面「屋久志江乃道」、左面「やくしへの道」と刻まれています。
国道21号線脇に出ると左手に自然石道標「左中仙道」と標石「墓跡 黒谷遺跡」があります。
国道を進み、左中山道道標の先を斜め左の旧道に入ります。
後からゾクゾクと入って来る運転手さん達もラーメン定食でした。
次いで右手に真宗大谷派長尾山等倫寺があります、本尊は阿弥陀如来です。
明治二十八年(1895)近衛師団長北白川宮能久(よしひさ)親王が台湾で熱病に罹った際、病床で「水を、冷たい水を」と所望したが水はなく、側に居た鮫島参謀が醒井の清水の冷たさを詠んだところ頷いたといいます。
慶長十三年(1608)濃州大垣城主石川日向守が霊験に感謝し、佛恩に報いるため砂石を運び、泉の一部を埋め、辻堂を建立したと伝えられています。
元は天台宗でしたが寛文年間(1661~73)に改宗しました。
資料館先の左手に天台宗普門山松尾寺(まつおじ)があります、建物は大正二年(1913)に建てられた料理旅館醒井楼跡で、当寺の松尾寺住職が松尾山山頂より寺仏、寺宝をここに移し松尾寺政所(まんどころ)としました。 松尾寺の玄関は明治二十六年(1893)に竣工した醒井村立醒井尋常高等小学校の玄関で、建替えに際し移築したものです。 松尾寺の本尊は雲の中から飛来したという空中飛行観音と呼ばれる十一面観音菩薩像です、航空災害除けに御利益があるとして、航空関係者から篤く信仰されています。 松尾寺の先がJR東海道本線醒ケ井駅です。
境内にある高さ4.85mの石造九重塔は国重文です。
「懐に七十両の金があるので貴方に差し上げます」といい終わると、母親に抱かれて眠る子のように、安らかに往生を遂げました。 この母親は、お金は頂くことはできないと、老人が埋葬された墓地の傍らに、一類狐魂等衆の碑を建て、供養したと伝えられています。
この分岐点には木製の中山道河南(かわなみ)標識があります、京方面からは国道21号線に合流します。
米原湊は九里半街道を経由した物資等の津出しの湊として繁栄し、長浜湊、松原湊と並び彦根三湊の一つです。
並びに中山道番場宿問屋場跡標石があり、宿並を挟んで向かいの車庫脇に欠けてしまった中山道番場宿問屋場跡標石があります、いずれも標石のみで遺構は残されていません。
街道に戻ると右手に真宗大谷派松風山法雲寺があります、延宝六年(1678)の開基で、本尊は阿弥陀如来です。
西番場公民館の敷地内に地蔵堂があります。 先に進むと右手に真宗大谷派青龍山称揚寺があります、元は天台宗でしたが寛永十二年(1635)改宗しました、本尊は阿弥陀如来です。
この景勝地には彦根藩が設けた公式接待所望湖堂がありました、参勤の諸大名、朝鮮通信使そして幕末には皇女和宮もここで休息しています、望湖堂の名は朝鮮通信使の一員真狂(しんきょう)の揮毫した書に由来しています。 広重は木曽海道六十九次の中で鳥居本としてこの望湖堂と琵琶湖を描いています。
宿長は下矢倉村境から小野村境までの十三町(約1.4km)でした。 鳥居本宿が設置されたのは寛永年間(1624~43)と後発でした、それまでは西隣の小野村が東山道以来の宿場でした。
折しも、宿並はとりいもと宿場まつりの最中で、旧家には赤い布が張られています。
建物右手の門脇に明治天皇鳥居本御小休所碑があります、右手の建物は明治十一年(1878)明治天皇北陸巡幸の際に増築され、休息所となりました。
悲運の遊女達を供養する為に明和六年(1769)江戸で梵鐘を鋳造し、大八車に乗せてここまで運んで来たものです、梵鐘には寄進した吉原の遊女達の名が鋳込まれています。
太鼓門の天井は石田三成の居城であった佐和山城の遺構と伝わっています、佐和山城は「治部少(石田三成)に過ぎたものが二つある、嶋左近に佐和山の城」といわれました。
秀吉の朝鮮征伐で朝鮮通信使の派遣は一時途絶えましたが、家康が修復し、慶長十二年(1607)に再開し、江戸時代に十二回来日しています。
スグ先でJR東海道新幹線高架橋をくぐると、緩い下り坂になり、原町に入ります。
庵跡には井戸と許六句碑「水すじを 尋ねてみれば 柳かな」があります。 許六といえば宮ノ越の巴淵にある句碑「山吹も 巴も出でて 田植えかな」が有名です、山吹も巴も共に木曽義仲の愛妾です、何ともいえぬ愛嬌がある句です。
原八幡神社を後にすると名神高速道路高架手前の右手に天保十五年(1844)建立の天寧寺寺標「天寧寺五百らかん江七丁餘」と昭和二十九年(1954)建立のはらみち道標があります。 街道は直進(白色矢印)ですが、ここを右折(黄色矢印)して約1.3km進むと右手の里根町丘陵に天寧寺があります、境内からは彦根城下が一望出来ます、それでは尋ねてみましょう。
供養塔には直弼が流した血が染みこんだ土や血染め衣装類を納めた四斗樽が埋められています。
しかし聖徳太子は仏教を排斥すべきとする物部守屋(もののべのもりや)に追われ、この地に逃れ身を隠しましたが、ついに発見され太子は矢を射かけられました。 すると金色に輝く地蔵菩薩が現れ敵方を撃退し、後には右肩に矢が射込まれ血の流れた跡がある小さな地蔵が立っていました、これが聖徳太子を救った矢除地蔵です。
もう一面には「鳥籠山につきましては、往々異説がありますが、旧跡を残す意味に於いてこの場所に建立しました。」と刻まれています。
九代目家元健志斎古能(このう)は隠居したのち数年間彦根にいて多くの門人の育成と能楽の発展に力を尽くし、いよいよ彦根を去り江戸に帰るとき門人達の所望に応じて記念に面と扇を与えました、その面影を残すために門人達はこの地に塚を建てました、もともとは一対でしたが面塚の行方はわからないといいます。
天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳によると高宮宿の宿内家数は八百三十五軒、うち本陣一、脇本陣二、旅籠二十三軒、宿内人口は三千五百六十人(男千七百五十五人 女千八百五人)で宿並は七町十六間(約800m)でした。
荷を部屋に置いて、町場に繰り出します、居酒屋あかさたなの暖簾をくぐります。 日中は31度の真夏日でした、レモンサワーが体に浸み込みます、レモンの酸味が堪りません。 つまみは近江ひね赤鶏です、これが以上に固い、「親父さん、この鶏肉固いですね」「ハイ、親鶏ですから」。 そうかひねはそういう意味か、納得です、ところがジックリ噛みしめると、実に美味い絶品です! 締めは豆腐チゲにご飯です、これで十分です!! サア、ホテルに戻って洗濯です!!!
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