壬生道は日光道中の小山から分かれ壬生の城下町を経て、再び日光道中の今市に合流する街道です。 宇都宮を経由する日光道中に比べると一里十町(約5.0km)程近道でした。 庶民の「日光参詣」によく利用されたと言われています。 江戸時代、庶民の参拝が許されたのは陽明門の前まででした。
日光東照宮を現在の姿に変えたのは三代将軍徳川家光です。 祖父家康の死去から十八年後の寛永十一年(1634)家光は日光東照宮の大造替(だいぞうたい)に着手し、わずか一年半で完成させました。 この事業は「費用お構いなし」と云われ、総工費百万両(現在に換算しますとおよそ1、000億円)は総て幕府が支出し、諸大名には寄進すら許しませんでした。 その家光も慶安四年(1651)四月に死去(48齢)、遺言により日光山に葬られました。 ちなみに家光の父二代将軍秀忠は増上寺(霊廟は戦災で焼失)に葬られました、これにより家光がいかに家康に敬愛の念を寄せていたかが分かります。 この改葬には「壬生道」が使用され、以降この街道は道中奉行の管轄下に置かれました。 将軍の日光社参の往路は「日光道中」を通行し、帰路はこの「日光壬生道」を経由しました。
小山〜今市間(日光壬生道)の距離は「宿村大概帳」によりますと十二里二十七町(約49.7km)あります。 実測距離は50.0km(縮尺地図をトレース)です。
日光例幣使道と絡めて歩いてみましょうか、日光壬生道マップ刊行しています、「壬生街道ウォーク」にご利用下さい。
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