道中日記  2-137 日光道中 ( 粕壁 - 間々田 ) 37.9km

 江戸時代初期、
日光道中日光海道と呼ばれました。

正徳六年(1716)の
御触(おふれ)により、日光海道は海のない國を通るため、日光道中と改められたと起点の解説に記されています。

寛永十三年(1636)に
日光東照宮が完成し、将軍や諸大名の参詣で日光道中の各宿場は賑わい、一段と発展したといいます。

サア、我々も日光東照宮を目指し
出立です。

 平成16年06月06日 AM8:42 粕壁宿出立 杉戸宿まで6.5km

 公園橋(西)交差点が粕壁宿の起点です、それでは出立しましょう!

埼玉縣信用金庫前に
日光道中粕壁宿解説があります、粕壁宿は江戸方から下宿、新々田、三枚橋、新宿、中宿、上宿、寺町、新町の八町で構成されていたと記されています。

先に進むと右手の埼玉りそな銀行辺りが
問屋場跡です、宝永四年(1707)定使(じょうし)屋敷に設置されました、間口は表七間一尺七寸(約13メートル)でした、問屋場は文政九年(1826)三枚橋に移転しました。

宿並を挟んで問屋場の向い辺りが三番目の
見川本陣跡です。
粕壁宿起点 粕壁宿解説 粕壁宿問屋場跡

 宝暦四年(1754)から文化六年(1809)まで
見川家本陣を勤め名主を兼ねました。

 次いで右手に永嶋庄兵衛商店があります、慶長年間(1596〜1615)創業の玄米問屋です、屋根に魔除けの鍾馗像を乗せています。

新町橋(西)交差点手前の右手に黒壁の
浜島家土蔵(国登録有形文化財)があります、戦前まで佐渡屋の屋号で米穀商を営んでいました、土蔵は明治時代前期の建築と推定され、一階は座敷、二階は使用人の部屋兼倉庫として利用されました。

日光道中は
新町橋(西)交差点を右折(白色矢印)します。
永嶋庄兵衛商店 鍾馗像 浜島家住宅土蔵 新町橋(西)分岐

 直進(黄色矢印)すると信義真言宗智山派華林山最勝院慈恩寺があります、慶安元年(1649)十五石の朱印状を拝領した御朱印寺です。

日光東照宮に移葬される徳川三代将軍
家光の亡骸が仮安置されました。

境内に
春日部重行公古墳があります、南朝の臣として後醍醐帝に仕え、春日部で挙兵し建武元年(1334)新田義貞と共に北條氏を鎌倉に滅ぼし建武の中興の大業を成し遂げました。

その後、反旗を翻した
足利尊氏と京で戦い、延元元年(1336)戦に敗れ自刃しました、長子家縄が遺骨を携えて帰郷し 最勝院に墳を築きここに葬りました。
最勝院山門 最勝院 春日部重行公古墳

 新町橋(西)交差点に戻り右折(前写真白色矢印)します、左手に高札場跡(標柱)があります。

幕府からの
触書(法令等)を掲示する高札場(高さ3.1m、幅4.6m、奥行1m)が設置されていました。

先で
大落古利根川新町橋で渡ります、新町橋は往時大橋と呼ばれ、古利根川に架かる唯一の橋でした、長さ十六間(約29m)、幅三間(約5m)の高欄付板橋で、架け替えにあたっては、幕府が費用を負担し、往来を妨げないように仮橋が架けられました。

橋手前の左手に
上喜蔵河岸跡(標柱)があります、新町橋の上流には上喜蔵河岸と呼ばれた船着場があり、石垣の一部を残しています。
粕壁宿高札場跡 上喜蔵河岸跡 新町橋

 粕壁宿では共同で河岸を利用し、古利根川の水量が多い六月中旬〜八月中旬(旧暦)には小型の
高瀬船などで米や生活物資を運搬しました。

 新町橋を渡ると旧八丁目村に入ります、正面の信号交差点のY字路を左折(白色矢印)します。

一本目を右折すると
八坂香取稲荷神社が鎮座しています、元旦の歳旦祭には千貫神輿の渡御が行われます、境内の御神燈は文政十年(1827)の建立です。

並びに真言宗智山派神林山
仲蔵院があります、永禄元年(1558)の創建です。

境内に
石塔が二基あります。
八丁目分岐 八坂香取稲荷神社 仲蔵院 石塔

 
供養塔は文化十年(1813)、青面金剛庚申塔は寛政四年(1792)の建立です。

 県道319号惣新田春日部線を進み、東武スズキ販売先の右手小路に史蹟小渕一里塚跡碑があります、江戸日本橋より数えて九里目です。

傍らには天保三年(1832)建立の
庚申塔があります。

スグ先のY字路は
関宿往還追分です、この分岐点には二基の追分道標があります。

右の
道標は宝永六年(1709)建立で「右方せきやど道 左方あふしう(奥州)道」と刻まれています。
旧小渕村 小渕の一里塚跡 関宿往還追分 追分道標

 左の
道標は宝暦四年(1754)の建立で正面「青面金剛」左面「左日光道」と刻まれています、関宿へは四里八町の道のりでした、関宿は下総國関宿藩の城下町で歴代譜代大名が藩主を勤めました。

ここの
Y字路は道標に従ってに進みます。

 左手の春日部警察署幸松交番を過ぎ、くら寿司の前で国道4号線に合流します。

次いで小渕交差点にて国道16号線を横断します、日光方面からは先の
Y字路を右に進みます。

小渕歩道橋先の左手に本山修験宗小渕山
観音院があります、鎌倉時代中期の正嘉二年(1258)の開基で市内唯一の修験寺院です。

本尊の
正観音像は、その昔、洪水でこの地に流れ着き、一度は元の寺に戻したが、その後の洪水でまたもこの寺に漂着したのでお堂を建てて安置したものといいます、家内安全、商売繁盛の他、いぼ、こぶ、あざにご利益があるといわれています。
観音院本堂 観音院仁王門 仁王像

 毎年八月十日に四萬六千日祭が行われます、この日に参拝すると四萬六千日分のご利益が授けられるといわれます、この日は県内の山伏が参集して護摩修行を行い、近隣の善男善女が枝豆を奉納し参拝します。

市内唯一の
楼門(仁王門)は元禄二年(1689)の建立で春日部市指定有形文化財です、残念ながら安置されている仁王像の傷みが大部進んでいます。

境内に
芭蕉句碑「毛(も)のいへば 唇寒し 秋の風」があります、奥の細道紀行の芭蕉は粕壁宿の東陽寺ではなく当寺に宿泊したともいいます。

小渕小入口交差点の左手に不二山
浄春院寺標があります、享禄二年(1529)幸手の領主一色宮内大輔公保の開基です。
芭蕉句碑 浄春院寺標 36度線地球儀

 慶安元年(1648)徳川幕府から寺領十石の
御朱印を拝領しました。

次の十字路が
春日部市北葛飾郡杉戸町の境です、左手に36度線地球儀モニュメントがあります、杉戸町は北緯36度00分〜36度04分に位置しています。

日本武尊が東征の折、古利根川の杉の茂る湊に上陸すると、ここを杉門と呼び、これが転訛して杉戸となりました。

 本郷交差点を右折して進むと左手に香取神社が鎮座しています、香取神宮の分社で古利根川沿いの開拓地に広く分布しています。

境内には寛政六年(1794)建立で二鶏三猿が刻まれた
青面金剛像庚申塔等があります。

本郷(北)交差点を越すと
本郷から堤根に入ります、堤根村は当初幕府領でしたが、天保七年(1836)以降は旗本平岡氏の知行地となりました、堤根村は杉戸宿の助郷村でした。

先の
国道4号堤根(南)歩道橋手前を斜め左の堤根旧道に入ります、旧道を進むと左手に曹洞宗満聚山九品寺があります。
香取神社 堤根旧道南口 九品寺

 境内の街道沿いに堤根道標があります、天明四年(1784)堤根村の農民四十二人が協力して建立した青面金剛庚申塔道標です、「右 江戸」「左 日光」と刻まれています。

九品寺の向いの
高野家立場茶屋を営みました、往時の什器類を今に残しています。

旧道を進むと左手に
大六天を祀る小社があります。

旧道の突当りを枡形状(白色矢印)に進み
堤根(南)交差点に出ます。
堤根道標 堤根立場跡 大六天祠 堤根旧道北口

 日光方面からは
堤根(南)交差点を右折し、スグに左折します。

 国道4号線を進むと右手に真言宗智山派旦照山馬頭院観音寺があります、慶安二年(1649)の中興で本尊は伝教大師作の馬頭観世音菩薩像です。

境内には文永七年(1270)建立の
板石塔婆や元文五年(1740)建立の青面金剛像庚申塔があります。

明治の世になると馬頭院に
新知学校の仮校舎が開校し、後に堤郷尋常小学校となりました。

右手のタイヤ館脇に入ると左手
に鹿島神社が鎮座しています。
馬頭院 板石塔婆 庚申塔 鹿島神社

 鹿島神宮からの勧請です、
武神であるところから武家より篤く崇敬されました。

 国道4号線を進むとスグに堤根交差点の分岐になります、左(白色矢印)の県道373号線東武動物公園方面に進みます。

旧道に入ると右手に東屋のある
宿場公園があります、給水しましょう。

村内を進むと右手の民家の生垣の中に
三本木一里塚跡(解説)があります、北塚は堤根村地内、南塚は清地村地内で塚木は共にエノキでした、江戸日本橋より数えて十里目です。

綿屋手前の右奥に
万福寺があります。
堤根分岐 宿場公園 三本木一里塚跡 万福寺

 境内に
六地蔵があります、明治の世になると本堂は清地学校の仮校舎となりました。

 万福寺の左を更に進むと正面に八幡神社が鎮座しています、三本木の鎮守です、かつては真言宗万福寺持ちの神社でした、境内の手水石は文政二年(1819)の建立です。

旧道に戻って進み、押ボタン信号交差点を右折し、先の十字路を左折すると右手に
神明神社が鎮座しています、創建以来中妻の鎮守として祀られてきました、境内には天神神社が祀られています。

清地二丁目交差点を過ぎると右手に
関口酒造があります、創業文政五年(1822)銘酒杉戸宿の蔵元です。
八幡神社 神明神社 関口酒造 来迎院

 関口酒造脇を入ると左手に真言宗豊山派花光山
来迎院(らいこういん)があります、本尊の不動明王像は運慶作と伝わり、奥州藤原氏三代の守護仏でした。

 旧道に戻って進むと右手に伏見屋があります、寛延元年(1748)創業の造り酒屋伏見屋久五郎跡です、現在は銘酒力士を商う老舗です。

次いで右手のJA埼玉みずほ杉戸中央店手前の駐車場に
杉戸宿高札場が復元されています、杉戸宿開宿400年プロジェクトとして住民学生等によって復元されました、但し、実際の位置とは異なります。

JA埼玉みずほ杉戸中央店脇に入ると正面に
近津神社が鎮座しています、貞享元年(1684)の創建で清地村の鎮守です、社殿は平成十三年(2001)に焼失しました。
伏見屋 復元高札場 近津神社

 境内には元治元年(1864)建立の
見返り狛犬があります。

 AM10:08 杉戸宿着 幸手宿まで5.7km

 清地一丁目バス停先の幸松屋を過ぎると左手に東福地の参道口があります、ここが清地村新町の境で杉戸宿の江戸(東)口です、杉戸宿に到着です!

杉戸宿は元和二年(1616)近郊の郷村を集めて宿場を創設しました、五と十の付く日に六斎市が立ち、近郷商圏の中心地でした。

天保十四年(1843)の
日光道中宿村大概帳によると杉戸宿宿内家数は三百六十五軒、うち本陣一、脇本陣二、旅籠四十六軒で宿内人口は千六百六十三人(男七百八十九人、女八百七十四人)でした。

宿並は江戸方から新町、下町、中町、上町、河原組、横町で構成され、宿長は十六町五十五間で、道路幅員五間でした。

真言宗智山派香取山
東福寺は元和九年(1623)の創建で、本尊は不動明王です、明治二十二年(1889)寺域は杉戸町役場となりました。
杉戸宿江戸口 東福寺

 宿並左手の扇屋は旅籠扇屋跡です。

右手の埼玉りそな銀行脇に入ると
神明神社が鎮座しています、杉戸宿新町北側の鎮守です、八坂神社が合祀されています。

下町に入ると右手の三井住友信託銀行が
問屋場跡です、銀行前には明治天皇御小休所阯碑があります、旧問屋場が明治天皇巡幸の際に休息所となりました。

問屋場の裏手に
伊奈稲荷神社があります、花柳界の信仰が篤く、鯉口に二十二名の女人衆世話人の名が刻まれています。
旅籠扇屋跡 神明神社 杉戸宿問屋場跡 伊奈稲荷神社

 本陣跡地前交差点を挟んでとらや薬局があります、漢方医虎屋長蔵跡です、五疳之薬(ごかんのくすり)が評判でした。

宿並右手の埼玉縣信用金庫は
名主鈴木家跡です、鈴木小左衛門は杉戸宿最後の名主を勤めました。

中町に入ると右手のマツモト金物店が
脇本陣蔦屋吉兵衛跡です、建坪九十四坪で門構えなしでした。

並びの奥が
本陣長瀬清兵衛跡です、本陣門や古文書、関札等を残しています、建坪百六十六坪で門構え玄関付でした。
漢方医虎屋跡 名主宅跡 杉戸宿脇本陣跡 杉戸宿本陣跡

 並びの松本屋が脇本陣酒屋伝右衛門跡です、建坪八十七坪で杉戸宿旅籠組合の惣代を兼ねていました。

愛宕神社前交差点手前の左手の小林質店は造り酒屋であった
伊勢屋長兵衛跡です。

愛宕神社前交差点を左折すると正面に
愛宕神社が鎮座しています、杉戸宿の鎮守です、社殿脇には文政十三年(1830)建立の聖徳太子碑等があります。

愛宕神社前交差点の右が
関宿道の追分です、追分を越した右手の旧家前が高札場跡です、案内標識等はありません。
杉戸宿脇本陣跡 造り酒屋跡 愛宕神社 古往還奥州道追分

 宿並を進むと左手に大正四年(1915)建立の
追分道標があります、久喜方面(黄色矢印)、幸手方面(白色矢印)と刻まれています、古往還奥州道です、正保四年(1647)迄の奥州海道下高野を経由して日光御成道に通じていました。

 宿並は右に大きく曲がります、枡形跡です。

枡形の左に米穀店であった
角穀屋(かどこくや)があります、小島定右衛門邸で商家と蔵を残しています、屋号の角穀は枡形の角にある米穀店であった所に由来しています。

次いで左手に真言宗智山派
宝性院があります、永禄三年(1562)幸手の地を支配した一色宮内大輔義直の創建です、元禄三年(1690)幸手城主となった義直は不動堂に妻の追福菩提の安産不動明王像を安置しました。
角穀屋 宝性院 庚申塔 馬頭観音道標

 山門脇に延宝八年(1680)建立の
青面金剛像庚申塔や享保十年(1725)建立の笠付青面金剛像庚申塔等があり、境内には文化七年(1810)建立の日光道中と刻まれた馬頭観音像道標等があります。

明治七年(1874)宝性院を仮校舎として
杉戸学校が設立されました。

 次いで右手に渡辺勘左衛門邸があります、豪壮な家屋と蔵を残しています、質屋業を営み、多数の小作人を抱えていた豪農でした。

スグ先の押ボタン信号交差点の手前辺りが
杉戸宿横町九軒茶屋の境です、ここが杉戸宿の日光(北)口です。

旧道を進むと右からの
国道4号線に合流し、スグ先で大膳堀を往時は土橋であった新左衛門橋で渡ります、日光方面からは先のY字路を右に進みます。

この辺りの街道は
柳並木でした。
渡辺勘左衛門邸 大膳堀 八幡神社 庚申塔

 埼玉トヨタを越して右の横道を進むと左手に
八幡神社が鎮座しています、境内に文政十年(1827)建立の手水石や享保五年(1720)建立の笠付青面金剛像庚申塔等があります。

 先に進むと杉戸から下高野に入ります、往時は松並木であったという街道を進むと左手に朱塗りの厳島神社が鎮座しています、境内には天満宮や文政五年(1822)建立の庚申塔等があります。

大島交差点を右折すると歩道脇の植栽の中に
心学の道と刻まれた燈籠モニュメントが連続してあります。

これに従って進むと左手に
稲荷神社が鎮座しています、戦国時代末期に大島有隣(うりん)の祖大島右京亮(うきょうのすけ)がこの地に土着した際に鎮守社としたもので、下高野村の鎮守となりました。
厳島神社 心学の道 稲荷神社 恭倹舎

 並びに埼玉県指定史跡
大島有隣遺跡恭倹舎(きょうけんしゃ)があります、心学者大島有隣が天明五年(1785)に創建した学舎で村民に心学(神道、仏教、儒教の教えを日常生活に合わせた倫理)を教授しました。

 街道に戻って進むと左手の山田うどんの駐車場に茨島一里塚跡(解説)があります、茨島(ばらじま)村地内で塚木はエノキでした、江戸日本橋より数えて十一里目です。

杉戸町から幸手市に入ると左手が東武日光線杉戸高野台駅です。

右手のカワチ薬品を越し、
上高野小入口交差点を斜め左に分岐します、日光方面からは国道4号線に合流します。

先に進み
東武日光線日第27号踏切道踏切で横断します、ここからは左右に田畑が広がる長閑な街道になります。
一里塚跡 上高野小入口分岐 東武日光線踏切 道路元標

 右手の幸手市南公民館前に
上高野村道路元標があります、元は日光御成街道沿いの石井酒造前の橋の袂にあったものです。

 首都圏中央連絡自動車道(茅ケ崎-大栄)高架をくぐり、右手の幸手市立上高野小学校を過ぎると街道はベルク前の信号交差点のT字路に突き当たります、ここを右折(白色矢印)します。

左の筋は
日光御成道です、この日光御成道追分には日光道中・日光御成道合流点解説があります。

日光御成道は中山道本郷追分から川口鳩ケ谷岩槻を経て日光道中の幸手宿に至ります、日光御成道は家光の代に整備され、以降歴代将軍の日光社参道となりました。

日光社参の将軍は諸大名のように各宿場の本陣に宿泊する訳にはゆきません、譜代大名が守備する居城を宿城としました、日光道中には古河城まで宿城がありません、そこで岩槻街道を経由して岩槻城を宿城とする道筋が御成道となりました。
日光御成道追分 石仏石塔群

 一本目を右折すると
石仏石塔群があります、地蔵尊無縁塔、天保二年(1831)建立の馬頭観音等が並んでいます。

 街道に戻ると右手に太子堂があります、聖徳太子は渡来の仏教を布教保護したところから仏教の父とも呼ばれました、明治十一年(1878)太子堂を仮校舎として上高野小学校が開校しました。

次の右手の横道を進むと
上高野神社が鎮座しています、上高野村の鎮守です、合祀されている八坂神社は慶長五年(1600)の創建です、境内社として天満宮浅間社第六天社が祀られています。

街道に戻ると左手に浄土宗鷹尾山誓願院
神宮寺があります、源頼朝は奥州征伐の折に、この地で鷹狩りを行い、戦勝を本尊の薬師如来に祈って開基したとも伝えられ、この故事から鷹尾山誓願院の名が付けられたといわれます。
太子堂 上高野神社 神宮寺

 AM11:12 幸手宿着 栗橋宿まで8.8km

 東武日光線を日第36号踏切道踏切で横断して進むと、志手橋交差点斜めT字路に突き当たります、ここが幸手宿の江戸(南)口です、幸手宿に到着です!

幸手宿は
日光御成道筑波道の要衝を控え、そして権現堂河岸には江戸舟運の廻船問屋が軒を連ね賑わいました。

天保十四年(1843)の
日光道中宿村大概帳によると幸手宿宿内家数は九百六十二軒、うち本陣一、旅籠二十七軒、宿内人口は三千九百三十七人で、宿並は江戸方から右馬之助町、久喜町、仲町、荒町で構成されました

志手橋交差点を左折(白色矢印)して
倉松川志手橋で渡ります、志手橋は長さ十九間、幅二間程の板橋でした、橋を渡ると右馬之助町に入ります。
東武日光線踏切 志手橋分岐 倉松川

 右馬之助町に入ると右手に神明神社が鎮座しています、宿並側には高札場がありました。

神明神社は宝暦五年(1755)伊勢神宮の分霊を祀って創建され、右馬之助町の鎮守でした、町名はこの地を開発した新井右馬之助に因んでいます。

境内の
菅谷不動尊(たにし)不動尊ともいわれます、眼病の人がたにしを描いた絵馬を奉納して祈願すればご利益があるといわれます。

境内には
水神宮や安永三年(1774)建立の庚申塔等があります。

宿並を進むと左手に
明治天皇碑があります。
神明神社 たにし不動 明治天皇碑

 手前に
明治天皇幸手行在所碑、奥に明治大帝行在所御跡碑があります、明治十四年(1881)と同二十九年(1896)の二度、ここにあった右馬之助町の名主を勤めた中村家に宿泊しました、奥の碑の題字は東郷平八郎元帥の揮毫です。

 幸手駅入口交差点を左折すると左手に井草食堂があります、少し早いですが昼食にしましょう。

生ビール&ミックスフライ定食です、この組合せは
定食の定番です。

食後先に進むと左手に
一色稲荷神社が鎮座しています、江戸時代初期まで幸手を支配した一色氏の陣屋跡で、稲荷は一色氏の守護神で陣屋稲荷と呼ばれました。

向いの横道を進むと左手に
天神神社が鎮座しています。
生ビール ミックスフライ定食 一色稲荷神社 天神神社

 この
天神神社は古河公方足利氏の家臣一色氏の館の鬼門に位置し、館の守護神でした、元は裏町天神と呼ばれ、祭神は菅原道真です。

一色氏は学問の神である天神信仰に深く帰依し、幸手地方に多くの
天神社を造営しました。

 幸手駅入口交差点に戻って宿並を進むと左手に文政二年(1819)創業の旅館あさよろず(朝萬)があります、板垣退助伊藤博文等が宿泊しました。

先の右奥に真宗本願寺派法林山
擔景寺(たんけいじ)があります、本尊は源信(恵信僧都)作の阿弥陀如来像です。

中一丁目(南)交差点を越すと右手の中央商店街ポケットパーク内に
問屋場跡解説があります、問屋場は宿並に面し、間口六間一尺、奥行三十三間半、百六十八坪で、ここに問屋場人足溜馬小屋などの建物がありました。

問屋場は人足二十五人と馬二十五疋を常備し、問屋四人、年寄八人、帖付四人、馬指四人、見習一人、月行事四人の総勢二十五人で問屋業務をこなしました。
旅館あさよろず 擔景寺 問屋場跡

 中一丁目交差点手前の左うなぎ義語家が幸手宿本陣跡です、知久(ちく)が勤め、問屋名主を兼ねました。

初代
帯刀(たてわき)は信州伊奈郡の出身で、同郷の関東郡代伊奈熊蔵より幸手の久喜町開拓を命ぜられ幸手宿の創設に尽力しました。

明治六年(1873)知久家の書院に
小学校が開設され、明治九年(1876)明治天皇東北巡幸の折に行在所となりました。

中一丁目交差点を左折して進むと真言宗智山派荏柄山
満福寺があります、一色氏の開基で、本尊の如意輪観世音菩薩安産子育てにご利益があります。

義振窮餓之碑に記されている施粥は当寺で行われました。
幸手宿本陣跡 満福寺 関薬局

 宿並に戻って進むと右手に蔵造りの
関薬局本店があります、明治十三年(1880)以降の建築です。

 荒宿交差点を左折して進み、幸手桜高入口交差点を左折すると左手に雷電神社が鎮座しています、幸手宿の総鎮守です。

中世の幸手は
田宮庄又は田宮町といい、中心がこの神社でした、田の中に金色の雷神が落ち、これを祀り田の中の宮、田宮としました。

宿並に戻ると左手に浄土宗菩提山東皐院
聖福寺があります、応永年間(1394〜1428)の創建で、本尊は阿弥陀如来です、観音像は運慶作と伝えられています。

徳川三代将軍
家光が日光社参の折、御殿所(将軍の休憩所)として使用し、例幣使歴代将軍が十八回にわたり休憩所しました。

将軍の間例幣使の間、菊の紋章の入った勅使門(唐門)、左甚五郎作の彫刻等があり、御朱印十石を拝領しました。
雷電神社 聖福寺

 宿並は枡形跡に突き当たります、この辺りが幸手宿日光(北)です。

右手に
幸手の一里塚跡(解説)があります、両塚共幸手宿内で塚木はエノキでした、江戸日本橋より数えて十二里目です。

枡形を直進すると真言宗智山派香水山揚池院
正福寺があります。

境内に
義賑窮餓之碑(ぎしんきゅうがのひ)があります、天明三年(1783)浅間山噴火の降灰と冷害で大飢饉になった時に幸手町の有志二十一名が満福寺境内で施粥を行った顕彰碑です。
幸手の一里塚跡 正福寺 義賑窮餓之碑 馬頭観世音道標

 境内には
権現堂河岸道日光道中との追分にあった寛政十二年(1800)建立の馬頭観世音道標「ごんげんどうがし」 「日光道中」が移設されています。

 枡形内の左手に石太菓子店があります、文久年間(1861〜64)中村石太郎により創業した銘菓名物塩がまの老舗です。

枡形を進み信号交差点を左折(白色矢印)します、直進(黄色矢印)は
権現堂河岸への道です、正福寺に移設された馬頭観世音道標はここにありました。

県道65号岩槻幸手線を進み、左手の北一丁目16表示板が掲げられた電柱の手前を左に入り、突当りを右折、先を左折すると突当りの左手に
橘守部翁遺蹟碑があります、国学者の橘守部は二十九歳の時、幸手の田村家の娘と結婚し二十年間内国府間村で過しました。
石太菓子店 権現堂河岸追分 橘守部遺蹟碑 北側用水

 街道に戻り
北側用水筋違橋で渡ります。

 街道は内国府間(うちごうま)交差点にて国道4号線に合流します、日光方面からはY字路を右に進みます。 

左手に
内国府間八幡神社参道社標があります、参道を進むと八幡神社が鎮座しています、明応元年(1492)の創建で内国府間村の鎮守です、騎乗の八幡大明神像香取大明神座像を安置する合社です。

内国府間(北)交差点を越すと右手に
権現堂公園が広がります、権現堂の名は村内の熊野神社の堂内に熊野、若宮、白山の三権現を祀っているところに由来しています。

更に進むと右手に
権現堂堤の景が広がります、権現堂堤は利根川の本流であり支流であった権現堂川の氾濫から江戸を護るため、天正四年(1576)頃に築堤されました。
八幡神社 権現堂公園 権現堂堤

 
権現堂堤は長さ三百五十二間余り、高さ二丈一尺余りで御府内御囲堤と呼ばれました。

 権現堂堤に明治天皇権現堂堤御野立所碑行幸堤之碑があります、明治八年(1875)新権現堂堤が完成し、同九年明治天皇は奥州巡幸の際、ここに立寄ったところから行幸(みゆき)と呼ばれるようになりました。

その後
利根川の改修によって堤の重要性が薄れると、堤に桜が植樹され、今は観桜の地として名声を博しています。

権現堂堤向いの信号交差点を左に入り、東武日光線ガードをくぐると曹洞宗海現山
常福寺があります、元和六年(1620)の創建で、本尊の薬師如来目くしゃれ(目腐れ)薬師と呼ばれ目や歯の痛みにご利益があります。
明治天皇碑 行幸堤之碑 常福寺 庚申塔

 参道口に嘉永元年(1848)建立の
青面金剛像庚申塔があり、境内には三猿が陽刻された庚申塔があります、延宝三年(1675)の建立で幸手市内最古のものです。

 中川行幸橋で渡ります、中川は羽生に源を発し、流末は古利根川に落合います。

行幸橋
の渡詰めを左折(白色矢印)します、日光方面からは突当りの国道4号線を右折し行幸橋を渡ります。

一本目を右折(白色矢印)します、日光方面からは突当りの
中川を左折します。

右折すると
旧道が復帰します、日本橋から国道と付かず離れずであった街道も、やっとここから旧道めいた道筋になります。

一本目を左折(黄色矢印)してみましょう。
中川 行幸橋分岐 高須賀分岐 大杉神社分岐

 東武日光線をくぐった先に高須賀大杉神社が鎮座しています、高須賀の守護神で水神様と呼ばれ船持や船頭衆からの信仰が篤かった神社です。

境内には元文五年(1740)建立の
青面金剛像庚申塔や天明四年(1784)建立の青面金剛庚申塔等があります。

街道に戻って進むと
筑波道追分があります、左(白色矢印)に進みます。

この分岐点には安永四年(1775)建立の
追分道標「左日光道」「右つくば道」「東かわつま前ばやし」と刻まれています。
高須賀大杉神社 庚申塔 筑波道追分 追分道標

かわつまは現在の茨城県五霞(ごか)村字川妻、前ばやしは茨城県総和町前林のことです。

 街道を進むと右手に吉羽屋酒店があります、旧外国府間村は幸手宿の助郷村で村内には立場がありました。

次いで左手に
雷電社湯殿社が鎮座しています、外国府間村の鎮守です、境内には馬頭観音青面金剛像庚申塔、弘化二年(1845)建立の如意輪観音像十九夜塔等があります。

鳥居前を右折し、突当りのT字路を左折し、国道4号線下の
側道を進みます。

側道を進むと一ケ所
国道脇に出ますが、スグに下道になります。
吉羽屋酒店 雷電社湯殿社 石塔群 国道4号線歩道

 街道を進むと幸手市から久喜市に入ります。

道路下の小さなトンネルをくぐると
外国府間村から小右衛門村に入ります、小右衛門の地名はこの地の新田を開発した者の名に由来しています。

往時は小右衛門村から栗橋までの街道は権現堂堤上で、左手は一面の
水田でした。

左手に真言宗豊山派
真光寺があります、明治六年(1873)栗橋南小学校の前身となった愛敬学校聲聞(しょうもん)学校が開校されました。

本堂の並びに
小右衛門の一里塚があります、西塚の形態を残しています、塚木はエノキでした。
トンネル 真光寺 小右衛門の一里塚

 塚上の
弁財天堂は権現堂川から移設し再建されたものです、江戸日本橋より数えて十三里目です。

 小右衛門の一里塚の並びに青面金剛像庚申塔や文政八年(1825)建立の如意輪観音像十九夜供養塔等があります。

スグ先を左折(黄色矢印)し、突当りを左折すると右手に
八幡神社が鎮座しています、栗橋の川通神社八幡神社を勧請し小右衛門村の鎮守としました。

街道に戻って進み、
道下トンネルをくぐり、更に進むとJR東北新幹線高架をくぐります。

国道4号線下の側道をモクモクと進むと、側道はやがて上りスロープになり
国道4号線に合流します。
石仏群 八幡神社 道下トンネル 国道合流

 一旦国道に合流した街道はスグに斜め左に入ります、日光方面からは国道右の側道へ下ります。

レトロな栗橋大一劇場を右に見て進むと、右手の高台に
川通(かわどおり)神社が鎮座しています、鳥居には香取宮八幡宮と刻まれています、境内には文化十一年(1814)建立の常夜燈があります、往時はここから信州浅間山が望めたといいます。

街道を進むと十字路の左手に
丸太道標「←北広島地蔵」があります、北広島地蔵子育ての守護仏といわれ、金剛院(廃寺)地蔵堂の厨子の中に安置されています。
国道分岐 川通神社 丸太道標 会津見送り稲荷分岐

 先に進むと
Y字路になります、左(白色矢印)に進みます、この分岐点には丸太道標「←炮烙地蔵/会津見送り稲荷→」があります。

 分岐点のスグ先を右折(黄色矢印)すると奥に会津見送り稲荷が鎮座しています。

会津藩の武士が藩主参勤に先立ち、先遣隊として江戸へ書面を届けるためこの地まで来ると
地水で街道が分からなくなった、すると白髪の老人が現れ道案内をし、無事通過できました。

また、一説には、この地で道が通行できずに大いにあせり、そのうえ大事な物を忘れたことに気がつき、困り果てたすえ、死を決意した時、この老人が現れ藩士に死を思い止まらせた、ともいわれています。

この老人は狐の化身とわかり
稲荷様として祭りました。

ここには
名物粟餅を商う茶屋が八軒ありました。
会津見送り稲荷 国道125号ガード 栗橋東5分岐

 
国道125号線ガードをくぐり、先のY字路を右に進みます、この分岐点には丸太道標「←会津見送り稲荷/焙烙地蔵→」があります。

 PM1:07 栗橋宿着 中田宿まで1.8km

 旧道は表通り(白色矢印)に出ます、ここが栗橋宿の江戸(南)口です、栗橋宿に到着です!

栗橋宿方面からは突当りの旧道に入ります、この分岐点には
丸太道標「←焙烙地蔵/会津見送り稲荷→」があります。

栗橋宿は元和二年(1616)宿駅となり、利根川の舟運で栄え、近郷から集積された廻米の積み出しが行われ大いに賑わいました、そしてこの地は関東平野北辺の要衝として関所が置かれ厳重に警備されました。

天保十四年(1843)の
日光道中宿村大概帳によると栗橋宿宿内家数は四百四軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠二十五軒で、宿内人口は千七百四十一人(男八百六十九人、女八百七十二人)でした。

利根川対岸の
中田宿とは合宿で問屋業務は半月交代で勤めました。
栗橋宿江戸口 丸太道標

※ 
栗原の一里塚は存在及び位置共に不明です、江戸日本橋より数えて十四里目です。

 宿並に入ると右手の地蔵堂に焙烙地蔵尊が安置されています。

関所破り火焙りの刑に処せられた刑場跡です、地蔵尊は刑死者供養のために造立され、素焼きの炮烙が奉納されています。

この地蔵は
エボ地蔵とも呼ばれ線香の灰をイボに付けると霊験あらたかといいます。

宿並を進むと右手に真宗大谷派幡谷山
顕正寺があります、池田鴨之介の菩提寺で、本尊は聖徳太子作の阿弥陀如来像です、墓所には栗橋宿を創設し、本陣を勤めた池田鴨之介と代々の墓があります。
焙烙地蔵堂 焙烙地蔵 顕正寺 池田鴨之介墓

 
池田鴨之介並木五郎兵衛と共に、幕府に願い出て、慶長年間(1596〜1614)に下総國栗橋村(現茨城県五霞町元栗橋)より、村民を引き連れ、後の栗橋宿となる上河辺新田を開拓しました。

 向いに浄土宗無量山帰命院浄信寺があります、本尊は阿弥陀如来です。

墓地に
梅澤太郎右衛門の墓があります、徳川二代将軍秀忠が日光社参の際に、太郎右衛門は増水した利根川に飛び込み舟橋を守りました、この功により貞宗の名刀と軍扇を賜り、名主に任じられ名字帯刀が許されました。

並びに浄土宗無涯山単信院
深廣寺があります、本尊は阿弥陀如来です。

境内に
南無阿弥陀仏と刻まれた高さ二間の六角名号塔が二十一基並んでいます。
浄信寺 梅澤太郎右衛門 深廣寺 六角名号塔群

 墓地に
並木五郎兵衛の墓があります、池田鴨之介と共に栗橋宿の創設に尽力し、宿名主を勤めました。

 宿並を進むと左手に旧家門があり、奥に築地塀があります、浅草の待乳山聖天の境内にあった築地塀と同種のものです。

スグ先が栗橋駅入口交差点です、ここが
栗橋宿の起点です。

左折(黄色矢印)して進むと新義真言宗天王山
福寿院があります、正保四年(1647)の創建で本尊は不動明王です。

墓所には江戸末期に造立された
福寿塩地蔵尊が安置されています、イボとり地蔵とも呼ばれる子育て地蔵です。
築地塀 栗橋宿起点 福寿塩地蔵尊 徳本名号碑

 並びに文政四年(1821)建立の南無阿弥陀仏と刻まれた
徳本名号碑があります。

 栗橋駅の手前に静御前の墓があります、源義経の寵愛を受けた静御前(しずかごぜん)は京を落ちのびた義経を慕い、奥州平泉に向かうが途中で義経討死の報を聞き、京に戻る途中、病により文治五年(1189)九月十五日この地で亡くなくなりました。

享和三年(1803)関東郡代
中川飛騨守忠英静女之墳墓碑を建立しました。

宿並に戻ってグングン進むと右手奥に
栗橋宿本陣跡があります、栗橋宿の創設に尽力した池田鴨之介本陣を勤め、名主を兼ね明治の世まで存続しました(現在は更地になっています)。

並びの土手下に
栗橋関所址碑があります。
静御前の墓 栗橋宿本陣跡 栗橋関所跡

 寛永元年(1624)日光道中唯一の
関所が利根川岸に設置されました、東海道の箱根、中山道の碓氷と並んで重要な関所で入り鉄砲に出女を厳しく取り締まりました。

 宿並を進み八坂神社の鳥居前を左折して進むと真言宗豊山派経蔵院があります、失意のうちに病に倒れた静御前は当寺で養生につとめたが儚く生涯を閉じました。

本尊の
乾漆地蔵菩薩立像は静御前の念持仏で、死後に京嵯峨野よりここに安置されました。

並びの
香取神社の境内を抜けると関所番士屋敷跡(解説)があります。

番士の屋敷が四軒あり、敷地は利根川の洪水に備え高く
盛土されていました。
経蔵院 地蔵菩薩立像 香取神社 関所番士屋敷跡

 番士は
加藤足立島田富田の四家が勤め、明治二年(1869)関所廃止まで約二百五十年間、代々世襲しました。

 宿並に戻ると八坂神社が鎮座しています、栗橋宿の総鎮守です、社殿前の狛犬がになっています。

慶長年間(1596〜1615))
利根川の洪水の時に泥亀が元栗橋の神輿を運んできました、この神慮により八坂神社が勧請されました。

この時に流れ着いた神輿は当社の夏祭りの起源とされ、現在の神輿は文久三年(1863))に新調されたもの関東三大神輿の一つで久喜市指定有形文化財です。

八坂神社前交差点を右にUターーンし、
利根川橋利根川を渡ります、利根川は大水上山(おおみなかみやま)に源を発し、流末は鹿島灘に注いでいます。
八坂神社 狛鯉 利根川

、利根川は
坂東太郎と呼ばれる暴れ川でした、利根川は武蔵(埼玉県)と下総(茨城県)の國境(県境)です。

 利根川の中央で埼玉県久喜市から茨木県古河市に入ります、利根川橋の渡詰めを左折(白色矢印)し、先で大きく右に曲がります、この辺りが旧道の復帰点です。

この旧道復帰点に
房川渡と中田関所跡解説があります、江戸防衛上の理由から利根川には架橋は許されず、舟渡し房川(ぼうせん)と呼ばれました。

日光道中が整備される以前は
元栗橋に渡し場があり、ここに宝泉寺という法華坊があるところから坊前の渡しと呼ばれ、後に転訛し房川(ぼうせん)となりました。

房川渡は二艘の渡し船と五艘の茶船で行われ、将軍社参の際は五十一艘の舟を並べて舟橋が架橋されました。
渡詰め分岐 旧道復帰点 房川渡跡

 この房川渡は大正十三年(1924)迄続きました。

当初、中田宿側に
房川渡中田御関所がありましたが、やがて対岸の栗橋宿側に移転しました。

 PM2:17 中田宿着 古河宿まで5.9km

 利根川堤交差点が中田宿の起点です、火の見ヤグラの手前に中田宿解説があります、中田宿に到着です!

中田宿は
房川渡を控え、元和十年(1624)に創設された宿で鮒の甘露煮が名物でした。

天保十四年(1843)の
日光道中宿村大概帳によると中田宿宿内家数は六十九軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠六軒で、宿内人口は四百三人(男百六十九人、女二百三十四人)でした、栗橋宿とは合宿で問屋業務は半月交代で勤めました。

中田宿は利根川河川敷に設けられていましたが、明治末からの利根川改修によって宿並は利根川橋下の河原になってしまいました。

中田宿地内に
中田の一里塚がありました、江戸日本橋より十五里目です。
中田宿起点 中田宿解説

 県道228号原中田線を進むと左手に鶴峯八幡宮が鎮座しています、養和元年(1181)源頼朝鎌倉鶴ケ岡八幡宮の分霊を勧請し創建されました、新田義貞北条時高追討の際に戦勝祈願をしました。

中田宿の鎮守でしたが明治四十四年(1911)河川改修に伴い、現在地に遷座しました。

境内の
神楽殿では享保十三年(1728)より伝承する永代太々神楽(古河市無形文化財)が奉納されます。

並びに真宗大谷派厳松山
光了寺(こうりょうじ)があります、弘仁年間(810〜23)弘法大師の創建です、当初高柳寺(光了寺)と称し、栗橋にあり、静御前が葬られましたが、利根川改修により現在地に移りました。
鶴峯八幡宮 神楽殿 光了寺

 当寺には
静御前後鳥羽上皇から賜った蛙獏龍(あまりりゅう)の舞衣(まいぎぬ)等の遺品が保存されています、旱魃が三年も続き、後鳥羽上皇が寿永元年(1182)、京都神泉苑に舞姫百人を選び、雨乞いの舞を命じました、最後に静御前が舞い始めると空がにわかに曇り、激しく雨が降り出し三日三晩も降り続きました、後鳥羽上皇は褒美に蝦蟇龍の錦の舞衣を下賜しました。

 本殿前のヒバ(ヒノキ科)は推定樹齢百八十年で古河市名木古木指定です。

境内の
太子堂には親鸞作と伝わる木造聖徳太子立像が安置されています、手に松葉を持っているところから松葉太子像とも呼ばれます(茨城県指定文化財)。

太子が三歳の時、乳母(めのと)が桃の花松の枝を差し出したところ「桃の花は一時の美しさ、松葉は長持ちするめでたい木だから」といって、松の枝を選んだという聖徳太子伝暦(でんりゃく)が伝える説話に基づいた像形です。

宝物殿の前に文化十四年(1817)建立の
芭蕉句碑「いかめしき 音やあられの ひのき笠」があります(「野ざらし紀行」所収)。
太子堂 聖徳太子像 芭蕉句碑

 次いで左手に真宗大谷派道知山円光寺があります、本尊は阿弥陀如来です、境内には見事な庭園があります。

右手に浄土宗
本願寺があります、行基が自作の地蔵尊を祀って堂を建立し、その後時宗一向派の祖一向俊上人がこの地を訪れ古い堂を再興して浄土時宗本願寺としました、境内には文化年間(1804〜18)に発掘された板碑があります。

次いで左手奥に真宗大谷派幡谷山
顕正寺があります、本尊は阿弥陀如来です、、会津松平公の庇護を受け、寺宝に松平周防寄進の親鸞聖人掛軸があります。
円光寺 本願寺 板碑 顕正寺

 旧茶屋新田村に入ります、茶屋新田村は古河藩領で、村名は戦国時代に古河公方のお茶屋があったところに由来しています。

JR東北本線日光街道踏切で横断すると、街道沿には黒松松並木が新たに植樹されています、斉藤モータースの前に中田の松原解説があります。

日光街道踏切辺りから原町入口の間には寛永七年(1630)古河藩二代藩主
永井信濃守尚政が植栽した松並木がありました「東海道にもこれほどきれいな松並木はない」といわれましたが、戦時中に松根油採取のために伐採されてしまいました。

街道を進むと右手に
香取神社が鎮座しています、茶屋新田村の氏神です、平成二年(1990)再建の際に宝永元年(1704)の創建と判明しました。
東北本線踏切 中田の松原 香取神社

 並びの茶屋町会議所前に茶屋松原標識があります、この辺りに立場がありました、徳川二代将軍秀忠の日光社参の際に仮設の茶屋が設けられ、以降立場になりました。

感応式信号交差点先を左に入ると
石仏石塔群があります、文政六年(1823)建立の馬頭観世音供養塔、元禄十五年(1703)建立の青面金剛像庚申塔、天明五年(1785)建立の十九夜念仏供養塔、明治十年(1877)建立の馬頭尊等が祀られています。

県道228号原中田線をモクモクと進むと
大堤から原町に入ります。

古河第二高等学校手前の右手に
十九夜塔が祀られています、原町女人講中三拾一人が建立したものです。
立場茶屋新田跡 石仏石塔群 十九夜塔

 台石に
関宿境道と刻まれ道標を兼ねています。

 並びの古河第二高等学校の校庭隅に原町の一里塚があります、明治時代に取り壊されましたが、ここに復元されました、江戸日本橋より数えて十六里目です。

高校を過ぎると民家の門脇に
道標「左にっこう 右みちのく」があります。

左手の原町自治会館先の十字路右手に
祭禮道道標があります、古河の産土神雀神社祭礼の際に、混雑を避ける旅人の迂回路でした。

左手に真宗大谷派高詠山
浄善寺があります、本尊は阿弥陀如来です。
原町の一里塚跡 道標 祭禮道道標 浄善寺

 境内には
大イチョウがあります、季節になると銀杏の実を沢山付けます。

 PM3:24 古河宿着 野木宿まで2.6km

 往時古河宿江戸口まで松並木が整然と続き、数ある街道の中でも、最も美しい景観のひとつとして評されています、松並木の間から見える白壁の古河城、そして富士山筑波山浅間山男体山などは多くの文化人や画家達の漢詩、紀行文、絵画に表現されています。

街道は斜め
T字路に突き当たります、ここが古河宿の原町木戸跡です、古河宿燈籠があります、ここが古河宿の江戸(南)口です、古河宿に到着です! 

後北条氏が滅亡すると古河城は徳川家康の家臣小笠原秀正の居城となり、以降代々譜代大名が城主となり城下町が形成されました、歴代将軍の日光社参の二泊目は古河城が宿城になりました。

天保十四年(1843)の
日光道中宿村大概帳によると古河宿宿内家数は千百五軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠三十一軒で、宿内人口は三千八百六十五人(男千九百九十二人、女千八百七十三人)でした。
古河宿江戸口 古河宿燈籠

 宿並に入ると左手に稲荷神社が鎮座しています、参道口に安政二年(1855)建立の如意輪観音像十九夜塔等があります。

次いで左手の小路脇に
日本三長谷観世音参道寺標があります、真言宗豊山派明観山長谷寺は古河城の鬼門除けで歴代古河城主の祈願所でした。

宿並の押ボタン式信号交差点左小路に
古河城御茶屋口門碑がありました。

古河藩初代藩主
土井利勝がここに茶屋を設け徳川三代将軍家光を出迎え、以降歴代の将軍はここから古河城に入りました。
稲荷神社 長谷観音参道口 古河城御茶屋口 御茶屋口門跡

 御茶屋口から古河城御成門迄は御成道と呼ばれました、それでは御成道に踏み込んでみましょう。

突当りを右枡形状に進むと、正面が
古河城址です、突当りを左折すると鷹見泉石記念館があります、館内に鷹見泉石宅が保存されています、泉石(せんせき)は古河藩家老を勤め、四代藩主土井利位(としつら)が老中になると大塩平八郎の乱鎮定に功がありました。

宿並に戻り一本目を右折すると、先の十字路左手に
八幡神社が鎮座しています、初代古河公方足利成氏(しげうじ)が古河城内に鎌倉鶴ケ岡八幡宮を勧請しました。
鷹見泉石宅跡 八幡神社 大イチョウ

 寛永十九年(1642)藩主
土井利勝が古河城の鬼門除けとして現在地に遷座させました。

境内の
大イチョウは遷座の際に、植栽されたもので、市街地の中心部に残る巨木として価値が高いものです。

 宿並に戻り、スグ先を左に入り十字路を右折すると真宗大谷派亀嶋山福法寺があります、山門は平唐門(ひらからもん)と呼ばれる型式で、古河城二の丸御殿の入口にあった乾門を移築したものです(古河市指定文化財)。

宿並に戻り次の左小路は
肴町通りと呼ばれ、古河城に食料品を運び込む道でした。

左手の米銀前に
史蹟古河藩使者取次所址碑があります、大名の使者を応接する役所で御馳走番所とも呼ばれました。

宿並の本町二丁目交差点の右(黄色矢印)がJR東北本線
古河駅です。
福法寺 肴町 取次所跡 本町二丁目交差点

 本町二丁目交差点を渡ると右手に古河城下高札場址碑があります、この辺りが古河宿の中心でした。

向いのジョイパティオ脇に
古河城下本陣址碑があります、吉沢家が本陣を勤め建坪は百十四坪でした。

宿並を進むと左手に
二丁目金刀比羅宮が祀られています、文化十一年(1814)の建立で幸福神として信仰されました。

先の信号交差点を左折(白色矢印)します、
二丁目枡形です、歩道中央に道標「日光道」(黄色囲み)があります。
高札場跡 古河宿本陣跡 金刀比羅宮 二丁目枡形

 この信号交差点を越えた右手に文久元年(1861)建立の古河宿道標「左日光道 東筑波山 右江戸道」があります、常夜燈を兼ねています。

枡形に入ると右手に真言宗豊山派真龍山
神宮寺があります、本尊は不動明王で、慶安元年(1648)徳川三代将軍家光より御朱印七石を拝領しました。

一本目を右折し、
よこまち柳通りを進むと左手に関東の奇祭古河提灯竿もみ祭り発祥の地碑があります、長い竹竿の先に提灯を付け、大勢で激しく揉み合いながら提灯の火を消し合う奇祭です。
古河宿道標 神宮寺 枡形 古河提灯もみ祭り

 よこまち柳通りを進むと右手に武蔵屋があります、創業百年の鰻料理店です。

よこまち柳通りには往時旅籠が軒を連ね、維新後は遊郭が形成されました。

並びのはなももプラザには豪壮な祭りの
屋台が収蔵されています。

先のコンビニ手前を左に入ると真言宗豊山派龍見山
徳星寺があります、建冶元年(1275)の創建で古河藩初代藩主土井利勝が古河城の鬼門除けとしました。

参道口には多数の
石仏石塔があります。
武蔵屋 徳星寺 石仏石塔群 蔵造りの旧商家

 旧道に戻ると右手に豪壮な
蔵造りの旧商家があります。

 旧道に戻って進むと左手に曹洞宗麒翁山正麟寺があります、天正五年(1577)古河城主小笠原秀政の創建です。

墓所に
鷹見泉石の墓があります、晩年は蘭学にいそしみ安政五年(1858)に没しました、享年七十四歳でした。

並びに日蓮宗長久山
本成寺があります、山門が朱塗りである所から古河城北赤門の寺とも呼ばれました。

古河藩五代藩主
土井利益(とします)が延宝年間(1673〜80)生母の法清院の菩提を弔う為に再建しました。
正麟寺 鷹見泉石墓 本成寺 法清院殿墓

 
法清院は十八歳で利益を生み、四年後の慶安五年(1652)二十二歳で世を去りました。

 旧道を進むと信号交差点の斜めT字路に突き当たります、左折(白色矢印)して県道261号野木古河線を進みます。

ここが古河宿の
日光(北)です、この分岐点には日光街道古河宿燈籠モニュメントがあります。

日光方面からはヘアーサロン飯島先の信号交差点
Y字路を斜め右に進みます。

街道を進むと左手の結婚式場ザ・カナルハウスの向いに
塩滑(しおなめ)地蔵菩薩像を安置する地蔵堂があります、堂前には塩が供えてあります。
古河宿日光口 古河宿燈籠 塩滑地蔵堂 塩滑地蔵菩薩

 地蔵尊の体に自分の患部と同じところにを塗ると霊験あらたかといいます。

県道261号野木古河線を進むとコジマ先の右手に
茨城県古河市標識があります、ここが下総(茨城県)と下野(栃木県)の國(県)境です、往時は西側に大榎がありました。

 先の左手に野木神社参道口があります、長い参道を進むと野木神社が鎮座しています、社殿は文政二年(1819)古河藩三代藩主土井利厚によって再建されたものです。

延暦二年(783)征夷大将軍
坂上田村麻呂が社殿を造営し、下野國寒川郡七郷の総鎮守であり、古河藩の鎮守祈願所でした。

日露戦争開戦二年前の明治三十五年(1902)
のぎの縁から陸軍大将乃木希典が参拝し指揮用サーベルを奉納しています。
野木神社参道口 野木神社 大ケヤキ 芭蕉句碑

  社前の
大ケヤキは推定樹齢六百五十年以上です、境内には芭蕉句碑「一疋の はね馬もなし 河千鳥」があります。

 PM4:08 野木宿着 間々田宿まで 6.6km

 街道に戻って進み、野木交差点にて国道4号線に合流します、日光方面からは交差点を斜め右に進みます。

野木町歩道橋を過ぎると一本目左の小路口に
野木宿入口標識があります、「この場所に木戸が設置されていた」と記されています、野木宿の江戸(南)口です、野木宿に到着です!

野木宿の西に流れる
思川には野渡(のわた)河岸友沼河岸があり江戸との舟運が盛んでした。

天保十四年(1843)の
日光道中宿村大概帳によると、野木宿宿内家数は百二十六軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠二十五軒で宿内人口は五百二十七人(男二百七十一人、女二百五十六人)でした、宿並は本野木新野木で構成され慶長年間(1596〜1615)合わせて一宿になりました。
野木交差点分岐 野木宿江戸口 木戸跡

 野木宿入口標識の向いには昭和六年(1931)建立の
馬頭観音があります。

 宿並を進むと左手の塀前に野木宿説明板があります、ここが野木宿本陣跡です、熊倉七郎右衛門が勤め問屋を兼ねました、建坪は百五十七坪でした。

斜め向かいの熊倉家が
野木宿脇本陣跡です、熊倉兵左衛門が勤め、建坪は百三十二坪でした。

先の左手に真言宗満徳山自性院
満願寺があります、元和二年(1616)の創建で本尊は大日如来です、門前には元治元年(1864)建立の十九夜塔があります。

信号交差点に
一里塚跡標識があります。
野木宿本陣跡 野木宿脇本陣跡 満願寺 一里塚跡

 
野木の一里塚跡です、塚木はエノキでした、江戸日本橋より数えて十七里目です。

 先の左手に浄土宗清光山無量院浄明寺があります、慶長七年(1602)の創建で本尊は阿弥陀如来です、門前には嘉永四年(1851)建立の十九夜供養塔や宝暦十年(1760)建立の青面金剛庚申塔等があります。

宿並をしばらく進むと左手に
大平山道標「是より太平山」があります、思川の渡しを越え日光例幣使道の栃木宿太平山神社に至ります、日光山近裏道とも呼ばれました。

次いで左手に
観音堂があります、この辺りが野木宿日光(北)です。
浄明寺 大平山道追分 大平山道標 観音堂

 観音堂には
聖観音が安置されています、境内には嘉永三年(1850)建立の十九夜供養塔や寛政十二年(1800)建立の馬頭観世音等があります。

 並びに猿田彦大神が祀られています、神道系の庚申塔です。

松原交差点を越して進むと左手に豪壮な
長屋門があります、この手前を右に入って進むと高良神社が鎮座しています。

源頼義
義家父子が前九年の役の戦勝祈願に九州久留米の高良神社を勧請したものです。

街道に戻って進み友沼交差点を渡ります、右に進むとJR東北本線
野木駅があります。

友沼村は古河藩領で野木宿の助郷村でした、この地には古沼が十ケ所あり十沼と呼ばれ、いつしか友沼と転訛しました、思川には友沼河岸があり、問屋が二軒あって高瀬船六隻、小舟三隻が江戸との舟運に従事しました。
猿田彦大神 長屋門 高良神社

 右手の大高畳店の並びに慶応二年(1866)建立の題目碑「南無妙法蓮華経」があります。

題目碑を右に入ると左手の段上に
愛宕神社が鎮座しています。

戻ると国道4号線を挟んで題目碑の向いに
馬頭観音小社が祀られています。

次いで右手に昭和六十二年(1987)に改築された
観音堂があります、境内に嘉永元年(1848)建立の十九夜塔や文政二年(1819)建立の廿三夜塔等があります。
題目碑 愛宕神社 馬頭観音&小社 観音堂

 役場入口交差点手前の右手に豪壮な長屋門があります。

左手の68kmポスト先の左小路口に嘉永三年(1850)
友沼村馬持が建立した馬頭観音があります。

次いで左手に真言宗地蔵山
法音寺があります、応永二年(1395)の創建で大林坊と呼ばれました、御朱印地で寺領五石を拝領しました。

門前には安永九年(1780)建立の
芭蕉翁句碑「道ばたの むくげは馬に 喰れけり」があります。
長屋門 馬頭観音 法音寺 芭蕉翁句碑

 四十一歳であった
芭蕉東海道小夜ノ中山で詠んだ句です、奥の細道紀行の芭蕉間々田に宿泊しました。

 信号交差点を渡った右手に友沼八幡神社が鎮座しています、源頼義義家父子が前九年の役後凱旋の折に勧請し、友沼村の総鎮守となりました、古河城を出立した日光社参の将軍は境内の西運庵(せいうんあん)で休息しました。

国道4号線を挟んで向いの野沢とうふ屋が
とろ屋跡です、この辺りは筑波山が正面に望める景勝の地で立場でした。

数軒の茶屋があり、中でも
とろ屋とろろ汁は名物で芭蕉も賞味しています、雨が降ると旅人に友沼のとろ屋と書かれた菅笠を提供し宣伝につとめました。
友沼八幡神社 とろ屋跡 網戸渡場道追分 馬頭観音道標

 
野木町から小山市に入ると左横道に文化十年(1813)建立の馬頭観音道標「是より左 乙女河岸 あしと とちき さのみち」があります、乙女河岸網戸(あじと)河岸へ至ります。

 街道を進むと左手に乙女の一里塚(西塚)があります、両塚共乙女村地内です、エノキの大木の根方に鳥居石燈籠があり石祠が祀られています、江戸日本橋より数えて十八里目です。

先の左手に
若宮八幡宮が鎮座しています。

境内に宝永六年(1709)鋳造の
銅製大日如来坐像があります、江戸湯島の渡邊九兵衛が父母の供養のため生国に安置したものです、元は覆屋が無く風雨に晒されていたところから濡れ仏様と呼ばれました。

左手の中妻公民館前に
十九夜塔が覆屋内に安置されています。
乙女の一里塚 若宮八幡宮 濡れ仏 十九夜塔

 明治廿二年(1889)の建立で
如意輪観音像が陽刻されています。

乙女の一里塚跡について地元のM.W氏よりの情報(H30/07/16)

父の話では、実際はこの地点より約100メートル南の国道東側に塚が残っていたそうです。現在は園芸店(小山園)になっており、父の話によると塚は昭和四十年くらいまで残っていたかなあと話していました。今は跡も何も残っていません。

榎の大木の根元にある石祠は土地所有者のお稲荷さんです。


 先に進むと右手に真言宗豊山派絵唐山佛光寺があります、徳川二代将軍秀忠から十石の寺領を拝領しました、参道には文久元年(1861)建立の十九夜供養塔があり、境内の観音堂には十一面観音像が安置されています。

佛光寺の向いに
乙女八幡宮が鎮座しています、乙女村の鎮守です、乙女河岸で働く人々の信仰が篤く、鳥居は元禄十六年(1703)船問屋が寄進したものです、境内の狛犬は文化十年(1813)の建立です。

乙女村は当初古河藩領、正徳二年(1712)より幕府領となりました、村内に乙女河岸があり、下流からは大型の高瀬舟が着き、ここから荷を小舟に積み替えて上流に向かう中継地として賑わいました。
佛光寺 乙女八幡宮鳥居 乙女八幡宮

 街道に戻って進むと
乙女交差点があります、左が乙女河岸道です、慶長五年(1600)小山評定で石田三成との決戦を決意した家康はここから乗船し、一旦江戸に下りました、日光東照宮造営の際、江戸からの資材はこの河岸に陸揚げされました。

 PM5:31 間々田宿着

間々田宿起点
 スグ先が間々田駅入口交差点です、ここが間々田宿の起点です、間々田宿に到着です!

間々田宿は元和四年(1618)宿駅となり、思川の乙女河岸を控え物資の集積地として賑わいました。

天保十四年(1843)の
日光道中宿村大概帳によると間々田宿宿内家数は百七十五軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠五十軒で宿内人口は九百四十七人(男四百四十人、女五百七人)でした。

本日の日光道中ウォークはここまでです!

ここまでの街道には山坂はなくフラットですが、それでも緩やかな登りなのでしょう、ふくらはぎに心地よい張りがあります。

サァー、酒宴だ・・・無い、
居酒屋なんてどこにもない。

急遽、里人に尋ねると、間々田駅の反対側、梨畑の裏に養老乃瀧(廃業)があるとの情報を得ました。

街道ウォークの後の一杯は格別です、つまみは左程いりません、肴は街道話で十分です。

次回は
宇都宮宿までです、ご当地名物のギョーザ地ビールが待っています。



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