江戸時代初期、日光道中は日光海道と呼ばれました。 正徳六年(1716)の御触(おふれ)により、日光海道は海のない國を通るため、日光道中と改められたと起点の解説に記されています。 寛永十三年(1636)に日光東照宮が完成し、将軍や諸大名の参詣で日光道中の各宿場は賑わい、一段と発展したといいます。 サア、我々も日光東照宮を目指し出立です。
宝暦四年(1754)から文化六年(1809)まで見川家が本陣を勤め名主を兼ねました。
粕壁宿では共同で河岸を利用し、古利根川の水量が多い六月中旬〜八月中旬(旧暦)には小型の高瀬船などで米や生活物資を運搬しました。
供養塔は文化十年(1813)、青面金剛庚申塔は寛政四年(1792)の建立です。
左の道標は宝暦四年(1754)の建立で正面「青面金剛」左面「左日光道」と刻まれています、関宿へは四里八町の道のりでした、関宿は下総國関宿藩の城下町で歴代譜代大名が藩主を勤めました。 ここのY字路は道標に従って左に進みます。
慶安元年(1648)徳川幕府から寺領十石の御朱印を拝領しました。 次の十字路が春日部市と北葛飾郡杉戸町の境です、左手に36度線地球儀モニュメントがあります、杉戸町は北緯36度00分〜36度04分に位置しています。 日本武尊が東征の折、古利根川の杉の茂る湊に上陸すると、ここを杉門と呼び、これが転訛して杉戸となりました。
日光方面からは堤根(南)交差点を右折し、スグに左折します。
鹿島神宮からの勧請です、武神であるところから武家より篤く崇敬されました。
境内に六地蔵があります、明治の世になると本堂は清地学校の仮校舎となりました。
関口酒造脇を入ると左手に真言宗豊山派花光山来迎院(らいこういん)があります、本尊の不動明王像は運慶作と伝わり、奥州藤原氏三代の守護仏でした。
境内には元治元年(1864)建立の見返り狛犬があります。
宿並を進むと左手に大正四年(1915)建立の追分道標があります、久喜方面(黄色矢印)、幸手方面(白色矢印)と刻まれています、古往還奥州道です、正保四年(1647)迄の奥州海道は下高野を経由して日光御成道に通じていました。
山門脇に延宝八年(1680)建立の青面金剛像庚申塔や享保十年(1725)建立の笠付青面金剛像庚申塔等があり、境内には文化七年(1810)建立の日光道中と刻まれた馬頭観音像道標等があります。 明治七年(1874)宝性院を仮校舎として杉戸学校が設立されました。
埼玉トヨタを越して右の横道を進むと左手に八幡神社が鎮座しています、境内に文政十年(1827)建立の手水石や享保五年(1720)建立の笠付青面金剛像庚申塔等があります。
並びに埼玉県指定史跡大島有隣遺跡の恭倹舎(きょうけんしゃ)があります、心学者大島有隣が天明五年(1785)に創建した学舎で村民に心学(神道、仏教、儒教の教えを日常生活に合わせた倫理)を教授しました。
右手の幸手市南公民館前に上高野村道路元標があります、元は日光御成街道沿いの石井酒造前の橋の袂にあったものです。
一本目を右折すると石仏石塔群があります、地蔵尊、無縁塔、天保二年(1831)建立の馬頭観音等が並んでいます。
手前に明治天皇幸手行在所碑、奥に明治大帝行在所御跡碑があります、明治十四年(1881)と同二十九年(1896)の二度、ここにあった右馬之助町の名主を勤めた中村家に宿泊しました、奥の碑の題字は東郷平八郎元帥の揮毫です。
この天神神社は古河公方足利氏の家臣一色氏の館の鬼門に位置し、館の守護神でした、元は裏町天神と呼ばれ、祭神は菅原道真です。 一色氏は学問の神である天神信仰に深く帰依し、幸手地方に多くの天神社を造営しました。
宿並に戻って進むと右手に蔵造りの関薬局本店があります、明治十三年(1880)以降の建築です。
境内には権現堂河岸道と日光道中との追分にあった寛政十二年(1800)建立の馬頭観世音道標「ごんげんどうがし」 「日光道中」が移設されています。
街道に戻り北側用水を筋違橋で渡ります。
権現堂堤は長さ三百五十二間余り、高さ二丈一尺余りで御府内御囲堤と呼ばれました。
参道口に嘉永元年(1848)建立の青面金剛像庚申塔があり、境内には三猿が陽刻された庚申塔があります、延宝三年(1675)の建立で幸手市内最古のものです。
かわつまは現在の茨城県五霞(ごか)村字川妻、前ばやしは茨城県総和町前林のことです。
塚上の弁財天堂は権現堂川から移設し再建されたものです、江戸日本橋より数えて十三里目です。
先に進むとY字路になります、左(白色矢印)に進みます、この分岐点には丸太道標「←炮烙地蔵/会津見送り稲荷→」があります。
国道125号線ガードをくぐり、先のY字路を右に進みます、この分岐点には丸太道標「←会津見送り稲荷/焙烙地蔵→」があります。
※ 栗原の一里塚は存在及び位置共に不明です、江戸日本橋より数えて十四里目です。
池田鴨之介は並木五郎兵衛と共に、幕府に願い出て、慶長年間(1596〜1614)に下総國栗橋村(現茨城県五霞町元栗橋)より、村民を引き連れ、後の栗橋宿となる上河辺新田を開拓しました。
墓地に並木五郎兵衛の墓があります、池田鴨之介と共に栗橋宿の創設に尽力し、宿名主を勤めました。
並びに文政四年(1821)建立の南無阿弥陀仏と刻まれた徳本名号碑があります。
寛永元年(1624)日光道中唯一の関所が利根川岸に設置されました、東海道の箱根、中山道の碓氷と並んで重要な関所で入り鉄砲に出女を厳しく取り締まりました。
番士は加藤、足立、島田、富田の四家が勤め、明治二年(1869)関所廃止まで約二百五十年間、代々世襲しました。
、利根川は坂東太郎と呼ばれる暴れ川でした、利根川は武蔵(埼玉県)と下総(茨城県)の國境(県境)です。
この房川渡は大正十三年(1924)迄続きました。 当初、中田宿側に房川渡中田御関所がありましたが、やがて対岸の栗橋宿側に移転しました。
当寺には静御前が後鳥羽上皇から賜った蛙獏龍(あまりりゅう)の舞衣(まいぎぬ)等の遺品が保存されています、旱魃が三年も続き、後鳥羽上皇が寿永元年(1182)、京都神泉苑に舞姫百人を選び、雨乞いの舞を命じました、最後に静御前が舞い始めると空がにわかに曇り、激しく雨が降り出し三日三晩も降り続きました、後鳥羽上皇は褒美に蝦蟇龍の錦の舞衣を下賜しました。
台石に関宿境道と刻まれ道標を兼ねています。
境内には大イチョウがあります、季節になると銀杏の実を沢山付けます。
寛永十九年(1642)藩主土井利勝が古河城の鬼門除けとして現在地に遷座させました。 境内の大イチョウは遷座の際に、植栽されたもので、市街地の中心部に残る巨木として価値が高いものです。
旧道に戻ると右手に豪壮な蔵造りの旧商家があります。
法清院は十八歳で利益を生み、四年後の慶安五年(1652)二十二歳で世を去りました。
地蔵尊の体に自分の患部と同じところに塩を塗ると霊験あらたかといいます。 県道261号野木古河線を進むとコジマ先の右手に茨城県古河市標識があります、ここが下総(茨城県)と下野(栃木県)の國(県)境です、往時は西側に大榎がありました。
社前の大ケヤキは推定樹齢六百五十年以上です、境内には芭蕉句碑「一疋の はね馬もなし 河千鳥」があります。
野木宿入口標識の向いには昭和六年(1931)建立の馬頭観音があります。
野木の一里塚跡です、塚木はエノキでした、江戸日本橋より数えて十七里目です。
観音堂には聖観音が安置されています、境内には嘉永三年(1850)建立の十九夜供養塔や寛政十二年(1800)建立の馬頭観世音等があります。
四十一歳であった芭蕉が東海道小夜ノ中山で詠んだ句です、奥の細道紀行の芭蕉は間々田に宿泊しました。
野木町から小山市に入ると左横道に文化十年(1813)建立の馬頭観音道標「是より左 乙女河岸 あしと とちき さのみち」があります、乙女河岸、網戸(あじと)河岸へ至ります。
明治廿二年(1889)の建立で如意輪観音像が陽刻されています。 乙女の一里塚跡について地元のM.W氏よりの情報(H30/07/16) 父の話では、実際はこの地点より約100メートル南の国道東側に塚が残っていたそうです。現在は園芸店(小山園)になっており、父の話によると塚は昭和四十年くらいまで残っていたかなあと話していました。今は跡も何も残っていません。 榎の大木の根元にある石祠は土地所有者のお稲荷さんです。
街道に戻って進むと乙女交差点があります、左が乙女河岸道です、慶長五年(1600)小山評定で石田三成との決戦を決意した家康はここから乗船し、一旦江戸に下りました、日光東照宮造営の際、江戸からの資材はこの河岸に陸揚げされました。
間々田宿は元和四年(1618)宿駅となり、思川の乙女河岸を控え物資の集積地として賑わいました。 天保十四年(1843)の日光道中宿村大概帳によると間々田宿の宿内家数は百七十五軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠五十軒で宿内人口は九百四十七人(男四百四十人、女五百七人)でした。 本日の日光道中ウォークはここまでです! ここまでの街道には山坂はなくフラットですが、それでも緩やかな登りなのでしょう、ふくらはぎに心地よい張りがあります。 サァー、酒宴だ・・・無い、居酒屋なんてどこにもない。 急遽、里人に尋ねると、間々田駅の反対側、梨畑の裏に養老乃瀧(廃業)があるとの情報を得ました。 街道ウォークの後の一杯は格別です、つまみは左程いりません、肴は街道話で十分です。 次回は宇都宮宿までです、ご当地名物のギョーザと地ビールが待っています。
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