道中日記 1-142 日光道中 ( 日本橋 - 粕壁 ) 37.0km

 この度、山と渓谷社から

● 「ちゃんと歩ける日光街道 奥州街道 五街道ウォーク・八木牧夫著」

が出版されました。

出版に際し、日光道中全般を歩き直しました!

本マップに写真の掲載はありません、そこで本マップと一体化させる為にHPでは写真を豊富にアップしました。

是非、出立なさる前に本マップ当HPを照らし合わせ、日光道中ウォークの行程の組立てにご活用下されば幸です。

日光街道は当初、日光海道と呼ばれましたが、正徳六年(1761)幕府道中奉行は日光道中と定めました。

それでは日光道中に旅立ちましょう!


丸一年振りの
街道ウォークです。

実は去年(平成18年)の2月、
交通事故に遭遇してしまいました、もらい事故です。
自転車で車道を走行中、ご婦人の運転する乗用車に接触され転倒し、
顔面打撲と左手首を骨折しました。

お陰様で傷も癒えましたので、街道ウォークの
再開です。

街道ウォークを始めた頃は
ホームページはおろかデジカメなどありませんでした。
従って、今後の
街道ウォークは全て歩き直しのデジカメ道中です、うれしいですね、新しい発見が楽しみです。

今回の
日光道中ウォーク一往復半目の街道ウォークになります。

今回のウエアリングは最新アイテム編に記載してある
デサント・エクスプラスサーモの上下アウター、インナーは新庄のパンツ、上はモンベル・ジオライン EXP ハイネックシャツの計4枚です。

午後は台風並みに発達した
爆弾低気圧の冷たい強風に見舞われましたが、快適そのものでした。

6人の男達が日本橋に集合しました、本日は七草ウォーク日光道中篇です、それでは出立しましょう!

 平成19年01月07日 AM8:14 日本橋出立 千住宿まで8.8km

 五街道の起点は日本橋です。

日本橋及び日本橋橋詰周辺の解説は東海道を歩くHPをご参照下さい。

日本橋の中央に埋め込まれた
日本国道路元標の右側サイドが日光道中ウォークの起点です。

中山道
と同じく北に向かいます、それでは日光道中ウォークの出立です!

左手の
三越デパートは元呉服店越後屋です、呉服の大店(おおだな)でした、この辺りは上方商人の江戸店(だな)が軒を連ねていました、今も老舗店が目白押しです。
日本橋 日本橋詰 日本国道路元標

 右手の三重テラス脇(黄色矢印)を進むと再建された福徳神社が鎮座しています、徳川家康は江戸入府直後に参詣し、慶長十九年(1614)徳川二代将軍秀忠も参詣し「福徳とはめでたい神号だ」と称賛しました。

室町三丁目南交差点を右折します、日光道中の実質上の起点です、日光方面からは最後の分岐です。

往時は
薬種店(だな)が軒を連ねていた筋を進むと昭和通り(白色矢印)に突き当たります、左手にはくすりミュージアムがあります。
福徳神社参道口 福徳神社 室町三丁目南分岐 地下横断歩道

 右手の
地下横断歩道(黄色矢印)にて横断します、以前は地下通路内にホームレスの段ボール小屋が軒を連ねていましたが、今は撤去され歩き易くなりました。

 横断地下道を出ると左手に小津和紙があります、
勢商人の
小津清左衛門長弘は江戸随一の商業地であった大伝馬町(現在地)に承応二年(1653)創業しました、爾来、幾多の事業の変遷を経て紙商小津として現在に至っています。

小津和紙の裏手に回り込むと
於竹大日如来井戸跡があります、於竹愛用の井戸跡です。

寛永十七年(1640)大伝馬町の
馬込家の下女於竹は誠実親切で一粒の米、一切れの野菜も決して粗末にせず貧困者に施しました。

ある時、出羽羽黒山の行者が馬込家を訪れ於竹は
大日如来の化身であると告げました。
小津和紙 小津の起源碑 於竹大日如来井戸跡

 徳川五代将軍
綱吉の母桂昌院の信仰が篤かったといいます。

 そのまま進むと左手に寶田恵比寿神社が鎮座しています、宝田村の鎮守です、江戸城の拡張に伴い、家康の命により宝田村がこの地に移転しました。

毎年十月十九日、
えびす講の供え物であった浅漬け大根べったら市で知られています、この大根を振り回し、着物に麹(こうじ)がべったりと着いたところに由来しています。

小津和紙前に戻り
大伝馬町本町通りを進みます、徳川家康の江戸開府に際し、三河より随行した馬込勘解由がこの地に住み、名主となり御伝馬役を勤めたところから、大伝馬町と称されました。

右手に
旧日光街道本通り碑があります、ここにあったホテルギンモンド東京は廃業し、今は駐車場になっています。
寶田恵比寿神社 大伝馬本町通り 旧道碑

 スグ先の右手日本橋大伝馬町プラザビルを右折すると、先の左手に椙森(すぎのもり)神社が鎮座しています。

文正元年(1466)
太田道灌が雨乞いに霊験があったとして山城國稲荷山五社大神を勧請し祀ったところから椙森稲荷とも呼ばれました。

椙森は江戸城下の三森(烏森、柳森)の一つに数えられ、江戸庶民の信仰を集めました。

境内に大正八年(昭和二十八年再建)建立の
富塚があります、湯島天神谷中天王寺と供に江戸三富の一つです。

江戸城下は度々
火災に見舞われ寺社が焼失しました、その再建の費用捻出のために、有力寺社で当たりくじである富興業が行われました、当社の富も人々に親しまれました、この富くじは落語にもしばしば登場します。
椙森神社 富塚

 街道に戻り左手の三井住友銀行を左折し、小伝馬町交差点を越すと左手に新高野山大安楽寺があります、江戸伝馬町処刑場跡です、境内に刑死者を供養する延命地蔵尊が安置されています。

向いの十思公園は
江戸伝馬町牢屋敷跡です、園内に松陰先生終焉之地碑があります。

密航を企て捕縛されると「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」と詠み、
安政の大獄で投獄され、斬首となると「身はたとひ 武さしの野辺に朽ちぬともとゞめ置かまし大和魂」詠みました。

松陰は処刑の際、役人にご苦労様と挨拶をして端座し、七代目
山田朝右衛門吉利によって斬首されました。
江戸伝馬町刑場跡 松陰先生終焉之地碑 時の鐘

  園内に宝永八年(1711)鋳造の
(こく)町時の鐘が移設されています。処刑はこの鐘を合図に行われました、刑の執行を控えた日は刻限を意図的に遅らせたところから情けの鐘と呼ばれました。

 街道に戻り横山町問屋街を進みます、広重は名所江戸百景大てんま町木綿店でこの界隈を描いています、今も衣料繊維問屋が軒を連ねています。

問屋街の突当りの
清杉通りを左折(白色矢印)します、日光方面からは横山町問屋街標識を右折します。

浅草橋南交差点を越えた左手の東日本橋交番の並びに
郡代屋敷跡(解説)があります。

関東の幕府直轄領(天領)の
年貢の徴収、治水、領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅跡です、代々伊奈氏が世襲しました。

当初、役宅は江戸城の
常盤橋門内にありました。
繊維問屋 横山町問屋街分岐 郡代屋敷跡

 明暦の大火(1657)によって焼失すると、この地に移り
馬喰町郡代屋敷と称されました。

 神田川浅草橋で渡ります、浅草橋は寛永十三年(1636)の架橋で、当初は浅草御門橋と呼ばれました。

神田川の両岸には夥しい数の屋形船遊漁船が係留されています、神田川は三鷹の井の頭恩賜公園内にある井の頭池に源を発し、流末は隅田川に落合います。

新吉原が盛んになると、この辺りから柳橋にかけて船宿が軒を連ね、吉原通いの溜りとなり、猪牙舟(ちょきぶね)と呼ばれる吉原への舟が往来しました。

浅草橋を渡ると左手に
浅草見附跡碑があります、江戸城外の城門で浅草御門と呼ばれました、明暦の大火の時、伝馬町牢屋敷から囚人が脱走したとの誤報を信じた役人がこの門を閉じたため、二万人以上の犠牲者が出ました。
浅草橋 神田川 浅草見附跡

 明暦三年(1657)の
大火振袖火事とも呼ばれます、、恋患いで亡くなった娘の振袖を護摩供養したところ、火焔となって燃え上がり、江戸城をはじめ市街地の大半を焼失し、十万人の犠牲者を出す大火となりました。

 JR総武線高架を浅草橋架道橋でくぐり、スグ先の左手奥に銀杏岡(いちょうがおか)八幡神社が鎮座しています。

永承六年(1051)
源義家は奥州出征の際、隅田川の川上より流れ着いた銀杏の枝を拾い上げ、地面に刺し「朝敵退治のあかつきには枝葉栄うべし」と戦勝を祈願しました、奥州平定後戻ると銀杏が大きく繁茂していました、この神恩に感謝し八幡宮を勧請しました。

この大イチョウは文化三年(1806)の大火で焼失しました、境内の大イチョウは後世のものです。

街道に戻ってわずかに進むと左手に大正三年(1914)創業の
松根屋があります、老舗扇子店です。
銀杏岡八幡神社 大イチョウ 松根屋

 柳町二丁目交差点を越した先の左手に須賀神社が鎮座しています、推古天皇御代(600)の創建で、祭神はスサノウノミコトです。

蔵前の総鎮守です、病が平癒すると団子を奉納したところから笹団子天王と呼ばれました。

須賀橋交番前交差点を右に進むと、左手に
第六天榊神社が鎮座しています、榊皇大神(さかきのすめおおみかみ)を祭っています。

貫神輿は鳥越神社神輿に次ぐ規模です。

境内に
浅草文庫跡碑があります、明治七年(1874)創立の官立図書館跡です。
須賀神社 第六天榊神社 浅草文庫跡碑

 街道に戻ると蔵前一丁目交差点手前の左手に天文台跡解説があります、伊能忠敬の師匠天文方高橋至時(よしとき)はここで天文観測を行い、正確な暦の作成に従事しました。

葛飾北斎富岳百景の内、鳥越の不二には、背景に富士山を、手前に天体の位置を測定する器具渾天儀(こんてんぎ)を据え付けた浅草天文台が描かれています。

蔵前一丁目交差点手前を右に進むと蔵前橋の手前に
首尾松碑があります、吉原帰りの遊客がここで昨夜の首尾を語り合ったといいます、隅田川を往来する船の目印でした。

目の前の蔵前橋通りの向いに
浅草御蔵(おくら)跡碑があります、天領からの年貢米を貯蔵し、勘定奉行の管轄下に置かれ、主に旗本、御家人の給米に供されました。
天文台跡 首尾松 浅草御蔵跡

 この御蔵が
蔵前の地名由来となりました。

 浅草御蔵跡碑の前を戻り、蔵前一丁目交差点の一本手前を右に入ると左手に楫取(かじとり)稲荷神社が鎮座しています、御蔵造営用の石材を運ぶ船が遠州灘で遭難しかかった時に現れて、船を救った稲荷を祀っています。

蔵前一丁目交差点先の
Y字路を右に進みます。

左手の蔵前二丁目交差点を左折し、二本目を右に入ると左手に
松平西福寺があります、慶長三年(1598)徳川秀忠の開基です、武田信玄の娘で家康の側室となった竹姫(良雲院)の菩提寺です。

境内に市村座主
高木秀吉が密葬した彰義隊士百三十二名の南無阿弥陀仏供養塔があります。
楫取稲荷神社 西福寺 彰義隊士供養塔

 街道に戻って進み、左手の居酒屋土佐丸を左に入り、一本目を右折すると、先の左手に蔵前神社が鎮座しています、徳川五代将軍綱吉が江戸城鬼門除けの守護神として京の石清水八幡宮を勧請したものです。

往時は広かった境内で
勧進大相撲が興業され、両国回向院深川八幡宮が三大勧進相撲興業地でした。

厩橋交差点を左折すると左手に
榧寺(かやでら)があります、本堂の扉には葵の紋があしらわれています。

かつては境内に樹齢千年の
の大木がありました、ある日山伏がやって来て、榧の実を賭けての碁の勝負を申し出ました、榧寺の僧が負けると山伏は榧寺の榧の木の本体を遠江の秋葉山に移してしまった。
蔵前神社 勧進大相撲 榧寺

 山伏は再び榧寺に現れ、自分は
秋葉大権現だと告白し、榧の礼に、この寺を火事から守ると約束しました、以来何度も江戸は大火に見舞われたが、寺の門前で火は止まったといいます。

 駒形一丁目交差点を過ぎると左手に瀟洒な諏訪神社が鎮座しています、承久の乱(1221))後に、諏訪大社(上社)の分霊を勧請したものです。

駒形二丁目交差点を越すと左手に
駒形どぜうがあります、創業亨和元年(1801)どじょう料理の老舗です、嘉永元年(1848)刊の江戸名物酒飯手引草に記された名店です。

文化三年(1806)
大火に見舞われ、それまでのどぢやうの四文字では縁起が悪いとどぜうの三文字に改称しました。

店前には
久保田万太郎句碑「神輿まつ まのどぜう汁 すすりけり」があります。
諏訪神社 駒形どぜう 久保田万太郎句

 駒形橋西詰交差点からは右手に高さ634mのスカイツリーの全容が一望です。

駒形橋西詰交差点の右手に
駒形堂が有ります、天慶五年(942)の創建で、本尊は馬頭観音です。

祈願する際に駒の形をした作りものを奉納したところが寺名の由来になっています。

境内に
戒殺碑があります、犬公方で知られた徳川五代将軍綱吉が元禄六年(1693)に建碑したものです。

駒形堂から十町余の川筋内での
魚介の殺傷を禁じました、この地は浅草寺の観音像が隅田川から示現した霊地でした。
スカイツリー 駒形堂 浅草観音戒殺碑

 駒形橋西詰交差点正面のY字路を左に進むと正面に浅草寺雷門があります。

風袋を担いで天空を駆ける
風神像と虎の褌(ふんどし)を締め、連鼓(れんこ)を打つ雷神像が祀られています。

参拝者で賑わう
仲見世を抜けると浅草寺山門の宝蔵門があります、仁王像を安置しているところから仁王門とも呼ばれます。

宝蔵門をくぐると正面が
浅草寺本堂です、本尊は推古天皇三十六年(628)隅田川で漁網にかかった聖観音像です。
浅草寺雷門 宝蔵門 浅草寺本堂

 天正十八年(1590)江戸に入府した
家康は浅草寺を祈願所と定め、寺領五百石を与えました。

 雷門前に戻ると、正面の左手に浅草文化観光センターがあります、この辺りに浅草の一里塚があったともいいますが正確な位置は不明です、江戸日本橋より数えて一里目です。

雷門前を進むと左手に 明治十三年(1880)創業の
神谷バーがあります、銘酒電氣ブランの蔵元です。

吾妻橋交差点を左折し
Y字路を右に進み、東武スカイツリーライン高架をくぐります、先の東参道交差点を左に入ると右手の花川戸公園内に姥ケ池跡之碑があります。

一軒家に
が住み、旅人を泊めて石枕に寝かせ、夜中に石を落として殺し金品を奪っていました、ある時観音が若者に化身して宿泊しました。
浅草の一里塚跡 電気ブラン 姥ケ池跡之碑

 すると娘はこの若者に心惹かれて寝床に入ったのを知らず、姥が石を落し娘は死んでしまった、姥は悪行を悔みこの池に身を投げて果てました。


 言問橋西交差点を斜め左に進みます。

一本目を左に入り、二本目を右折すると、先の左手に
江戸猿若町市村座跡碑があります、天保十二年(1841)老中水野忠邦天保の改革により、江戸市中にあった芝居小屋が猿若町に集められました、表通りには芝居茶屋が並び賑わいました。

街道に戻り信号交差点を右に入ると左手に
待乳山聖天(まつちやましょうでん)があります、商売繁盛、夫婦和合にご利益があり、水商売の信仰が篤いところから「聖天は娘の拝む神でなし」といわれました。

境内に
築地塀があります。
猿若町市村座跡 待乳山聖天 築地塀

 江戸時代の名残りをとどめる唯一のもので貴重な文化財です、全長二十五間(45.5メートル)で、
広重の錦絵にも描かれています。

 参道口に池波正太郎生誕の地碑があります、大正十二年(1923)旧東京市浅草区聖天町六十一番地で誕生し、時代小説鬼平犯科帳剣客商売等の傑作を著しました。

浅草七丁目交差点を過ぎると街道を斜めに
山谷堀跡が横切っています、今は埋め立てられ山谷堀公園になっています。

吉原への遊客を乗せた猪牙舟(ちょきぶね)は隅田川から山谷堀に入り吉原大門へ着けました、山谷堀は石神井川に源を発していました。

山谷堀に沿って右に進み、二本目を左に入ると、右手に
今戸神社が鎮座しています。
池波正太郎生誕の地 山谷掘跡 今戸神社

 康平六年(1063)奥州征伐に向かう
源頼義義家父子はこの地に京の石清水八幡を勧請し今戸八幡宮と称しました。

 今戸神社は伊弉諾神(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)が祭神です、この二神は夫婦であるところから縁結びの神様で知られ、若い女性の参拝者が絶えません。

境内に
今戸焼発祥之地碑があります、江戸を代表する素焼の陶磁器でした。

社殿に飾られている夫婦の
招き猫は今戸焼です、今戸は招き猫発祥の地といわれます。

並びに新選組一番隊長
沖田総司終焉之地碑があります、労咳を患った総司はこの地で亡くなりました、享年二十五歳でした。
今戸神社社殿 招き猫 今戸焼発祥地 沖田総司終焉

 街道に戻って進み、東浅草交番前交差点先を左折すると右手に浄土宗春慶院があります、寛文十一年(1671)の創建です。

境内に新吉原の名妓二代目
高尾太夫の墓があります、墓石には遺詠「寒風に もろくもくつる 紅葉かな」が刻まれています、万治三年(1660)陸奥仙台藩主伊達綱宗の意に従わなかったために斬殺されました。

一旦街道に戻り、次を左に入り一本目の右路地奥に
駿馬塚があります、康平年間(1058〜65)源義家が陸奥へ出征する際、この地で愛馬の青海原(あおうなばら)」が絶命し、ここに葬りました、祠内には馬頭観音が安置されています。
高野大夫墓 駿馬塚 江戸六地蔵

 横道を更に進むと正面に曹洞宗東洞雲山
東禅寺があります、寛永元年(1624)の創建です。

境内に
江戸六地蔵のひとつ、宝永七年(1710)造立の銅造地蔵菩薩坐像(東京都指定有形文化財)が安置されています。

 東浅草二丁目交差点を左折して進むと、吉原大門交差点に見返り柳があります、根方には新吉原衣紋坂見返り柳碑があります。

衣紋坂は新吉原に繰り出す遊客が襟を直し、身だしなみを整えたところに由来しています。

見返り柳は新吉原帰りの遊客が後ろ髪を引かれ、この柳の所で遊郭を振り返ったといいます。
きぬぎぬの うしろ髪ひく 柳かな
見返れば 意見か柳 顔をうち

人形町にあった遊郭の吉原(元吉原)は明暦三年(1657)の振袖火事で全焼し、この地に移転し新たに二町四方の廓が形成され新吉原と呼ばれました。
見返り柳 見返り柳碑 泪橋

 
東浅草を抜け、明治通りが交差する所が泪橋です、今は川も橋もありません、この先の小塚原刑場に引き立てられる罪人と身内の者達がここで泪の別れをした所です。

 南千住駅前歩道橋でJR引込線を跨ぐと、左手に浄土宗豊國山延命寺があります、境内が小塚原(こづかっぱら)刑場跡です。

東海道の
鈴ケ森刑場と並ぶ江戸二大刑場跡です、慶安三年(1651)に設置され敷地千八百坪でした。

処刑された屍体は放置され一帯には死臭が漂い、骨が散乱していたところから
骨ケ原とも呼ばれました。

髭文字による日蓮宗の南無妙法蓮華経
題目碑は元禄十一年(1696)の建立です。

首切り地蔵は寛保元年(1741)刑死者供養のために造立されたものです。
南千住駅前歩道橋 小塚原刑場跡

 JR常磐線高架をくぐると左手に小塚原回向院があります、寛文七年(1667)、本所回向院の住職が、行路(こうろ)病死者や刑死者の供養のために開いた寺で、当時は常行堂と称していました。

墓所に
吉田松陰の墓があります、伝馬町牢屋敷で斬首され、罪人として回向院に葬られました。

橋本左内は安政の大獄で開国派として危険視され、同じく斬首されました。

(ねずみ)小僧は大名屋敷を専門に荒らした盗人で義賊と呼ばれました。
小塚原回向院 吉田松陰墓 橋本左内墓 鼠小僧墓

 高橋お傳は夫を毒殺し、男を次々とたぶらかして殺害した稀有の毒婦でした。

市ケ谷監獄で八代目
山田浅右衛門吉豊によって斬首されました これ以降斬首刑は廃止となりました。

腕の喜三郎は江戸時代の侠客で、喧嘩で深手を負った自分の片腕が見苦しいと、子分に鋸で切り落とさせたといいます。

青年将校
磯部浅一の墓があります、二・二六事件の首謀者です。

建物通路内に
観臓記念碑があります。
高橋お傳墓 腕の喜三郎墓 磯部浅一墓 観臓記念碑

 明和八年(1771)蘭学者
杉田玄白等は蘭語の解剖書ターヘル・アナトミアを検証するため、ここで刑死者の腑分け(ふわけ)を行い、安政三年(1856)解体新書を著しました。

 回向院からの道筋は通称、小塚原刑場にちなみコツ(骨)通りと呼ばれました。 

先の信号交差点を左折し、国道4号線の南千住警察署入口交差点を左折すると右手に曹洞宗
円通寺があります、延暦十年(791)坂上田村麻呂の開創です。

境内にある旧上野の
黒門は上野寛永寺の門です、慶応四年(1868)寛永寺に立て籠った彰義隊新政府軍が戦った上野戦争の際の激しさを今に伝える門で、弾痕が数多く残っています。

円通寺の住職が
彰義隊士を火葬し合葬したのが縁で明治四十年(1907)当寺に移設されました。
旧上野の黒門 彰義隊士の墓 西光寺

 戻る際に左に入ると真覚山
西光寺があります、本尊は笹団子如来と呼ばれます、団子を笹の枝に刺して供えると病に霊験あらたかといいます。

 元に戻って進むと街道は国道4号線に合流します、日光方面からは南千住交差点を斜め左に進みます。

南千住交差点を横断すると左手に
素盞雄(すさのお)神社が鎮座しています、延暦十四年(795)の創建です、この地の鎮守で天王様と呼ばれています。

社殿前に
天王社の大銀杏があります、この木の皮を煎じて飲むと乳の出が良くなると伝わっています。

境内に
瑞光石があります、この塚を古塚と呼び、小塚原の地名由来になっています。
素盞雄神社 天王社の大銀杏 瑞光石 芭蕉句碑

 社殿脇に文政三年(1820)芭蕉忌に建立された
芭蕉句碑「行く春や 鳥啼(な)き魚の 目は泪」があります。

 先の左手に浄土宗豊徳山恵心院誓願寺があります、奈良時代末期(780年頃)の創建で、本尊は聖徳太子作阿弥陀如来像です。

境内には天正十九年(1591)
家康がこの地を巡覧した際に腰掛けたというが二本ありました。 

境内には庚申塔の
青面金剛像青面金剛供養塔や親の仇討ちをした子狸の伝承を残す狸塚があります。

千住大橋の手前を左に入ると左手に
熊野神社が鎮座しています、永承五年(1050)源義家の創建です。

奉行
伊奈備前守忠次荒川(現隅田川)に千住大橋を架ける際に、当社に成就を祈願しました。
誓願寺 庚申塔 熊野神社

 文禄三年(1594)無事に橋が完成すると、礼に残材で社殿の修理を行い、以後、大橋の架け替えごとの成就祈願と社殿修理が恒例となりました。


 千住大橋隅田川を渡ります、徳川家康が江戸に入府し、文禄三年(1594)伊奈備前守忠次を普請奉行として、隅田川に最初に架けた橋です。

長さ六十六間(約120m)、幅四間(約7m)の
大橋でした。

隅田川は荒川から分岐し、流末は江戸湾に注いでいます、墨田川角田川とも書かれました。

対岸の千住大橋下の水面に三個の
赤いブイが浮かんでいます、これは木橋時代の橋杭が水中に三本立っている事を示しています。

現在の
鉄橋は昭和二年(1927)に完成した長さ92.5mで、当時としては総アーチ型という最新の橋でした。
千住大橋 隅田川 橋杭跡

 千住大橋を渡ると東京都荒川区南千住から足立区千住に入ります、渡詰めに解説「千住川を大橋で渡ると 千住の風が吹いてくる 此処は大千住の木戸口橋戸町」があります。

渡詰めの公園に
奥の細道矢立初めの地碑があります、芭蕉は深川から舟で千住に着き、奥の細道へ旅立つ際に、矢立初の句「行く春や 鳥啼き魚の 目は泪」を詠みました。

公園脇を左に進むと正面に
橋戸稲荷神社が鎮座しています。
千住大橋渡詰め 奥の細道碑 橋戸神社 白狐

 延徳二年(1490)の創建です、拝殿の前扉に名工
伊豆長八による鏝(こて)絵の白狐が彫刻されています。

 街道に戻って進み足立市場前交差点を横断し、東京都中央卸売市場足立市場前の筋に入ります。

このY字路分岐点のヤマハYSP千住前に小さな
道標「右 国道四号」「左 旧日光道中」があります。

足立市場の並びに
芭蕉像があります、千住は奥の細道への旅立ちの地です、そこで平成十六年(2004)芭蕉生誕三百六十年記念に芭蕉像が造立されました。

京成本線ガード手前の左手に
此処は元やっちゃ場南詰解説があります。
足立市場前分岐 道標 芭蕉像 やっちゃ場南詰

 この先には三十数軒の
青物問屋が軒を連ね「やっちゃいやっちゃい」のセリ声が響いていました。

 先の左手に千住宿歴史プチテラスがあります、門脇に芭蕉句碑「鮎の子の しら魚送る 別哉」があります。

敷地内の蔵は元地漉き(じすき)紙問屋
横山家にあった内蔵を平成五年(1993)に解体移築したものです。

蔵は間口三間半、奥行二間半の
木骨土蔵造りです。

スグ先の左小路脇に
西新井大師道標「旧日光道中」「是より西へ大師道」があります、西新井大師は日本三大大師(佐野大師、川崎大師)の一つです。

道標を左に入り、Y字路を右に進むと
河原稲荷神社が鎮座しています、千住河原町の鎮守で、古くからやっちゃ場の守護神でした。
芭蕉句碑&蔵 道標 河原稲荷神社

 境内の阿吽(あうん)一対の狛犬は足立区内で最大のものです、何でも大きなものが好きなやっちゃ場の旦那衆が寄進したものです。

宿並に戻って進み、墨堤通りを越すと
千住河原町から千住仲町に入ります。

左手に浄土宗稲荷山勝林院
源長寺があります。

将軍鷹狩りの際に
御膳所となり、日光門跡の日光社参や勅使下向の際は脇本陣を勤めました。

境内に
多坂梅里先生追討碑があります、享保年中(1716〜36)千住宿に住いし、医を生業としながら寺子屋を開き、男女少長を問わず教育に尽力しました。
狛犬 源長寺 多坂梅里先生碑

 AM10:08 千住宿着 草加宿まで9.5km

 街道を進むと十字路手前の左手に千住宿高札場跡(標石)があります、ここが千住宿の江戸(東)口です、千住宿に到着です!

千住宿は飯盛り旅籠が軒を連ね「愛想よき千住女郎衆に袖ひかれわらじとくとく泊る旅人」と詠われ、水戸街道下妻道の分岐を控え大いに賑わいました。

天保十四年(1843)の
日光道中宿村大概帳によれば千住宿宿内家数は二千三百七十軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠五十五軒で宿内人口は九千九百五十六人でした。

千住は荒川で千手観音が漁網にかかったとか、足利義政の愛妾千寿の出生地であった等を地名の由来としています。

十字路手前の右手には
一里塚跡(標石)があります。
千住宿高札場跡 一里塚跡 一里塚跡標石

 千住の一里塚跡です、宿口のため片塚で、塚木はでした、江戸日本橋より数えて二里目です。

 十字路を越えて左に進むと新義真言宗千龍山妙智院慈眼寺(じげんじ)があります、正和三年(1314)の創建で、本尊は弘法大師作の聖観世音菩薩像です。

徳川三代将軍
家光の時、江戸城北方の祈願所として葵の紋の使用が許されました。

宿並に戻る途中を左に入ると正面に新義真言宗白幡山
不動院薬師寺があります、元弘二年(1332)の創建で、本尊は不動明王です。

墓域に
供養塔があります、正面は南無阿弥陀仏、右面には藝州と刻まれています、千住口から戊辰戦争に従軍した芸州藩の軍夫、従属者のうち、千住近在から参加し、戦死した者を永代供養したものです。
慈眼寺 供養塔 無縁塔

 無縁塔は千住宿旅籠屋一同が万延元年(1860)に建立した遊女の供養塔です。

 宿並に戻ると左手の広場前に千住宿問屋場・貫目改所跡(標石)があります、元禄八年(1695)に問屋場が設けられ、寛保三年(1743)に貫目改所が設置されました、問屋の取扱い荷の重量検査が行われました。

宿並を進みトポス先を右に進むと右角に
森鴎外旧居跡があります、鴎外は陸軍軍医に任官し、明治二十七年(1894)からドイツに留学するまで、ここから三宅坂の陸軍病院に通いました。

先の左手に真言宗豊山派氷川山地蔵院
金蔵寺(こんぞうじ)があります、建武二年(1335)の創建で、本尊は閻魔大王です。
問屋場跡 標石 森鴎外旧居跡 金蔵院

 境内に無縁塔があります、天保八年(1837)の大飢饉による餓死者の供養塔です、名主永野長右衛門が世話人となり、天保九年(1838)に建立されました、この地の者八百二十八人が死亡し、内三百七十人が金蔵寺に埋葬されました。

並びの
南無阿弥陀佛名号碑は千住宿の遊女の供養塔です、千住宿には五十五軒の旅籠があり、そのうち三十六軒が食売旅籠(遊女屋)で、江戸近郊の遊里として賑わいました。

宿並に戻って進むと左手奥に
赤門寺という通称で親しまれている浄土宗三宮神山大鷲院専勝寺があります、文応元年(1260)の創建で、本堂には葵の紋が掲げられています。
供養塔 勝専寺赤門 勝専寺本堂

 ここに徳川家の
御殿が造営され、徳川秀忠家光家綱等が鷹狩りの際の休息所とし、日光門主等の本陣を勤めました。

 千住ほんちょう商店街を抜けると十字路になります、右手が北千手駅です、宿並は直進します。

次いで
宿場町通りになります、ゲートの左足元に千住宿本陣跡標石があります。

この北側一帯が
本陣跡です、代々秋葉市郎兵衛が勤め、敷地三百六十一坪、建坪百二十坪でした。

宿場町通りを進むと右手に
お休み処千住街の駅があります、先の右手には趣のある旧商家を残しています。
千住宿本陣跡 本陣跡標石 千住街の駅 旧商家

 旧商家向いのセブンイレブン脇に入ると正面に本氷川神社が鎮座しています。

徳治二年(1307)
牛田(千住曙町)の地に創建されましたが、水害を避けるためにこの地に遷座しました。

旧社殿は昭和五十九年(1984)足立区有形文化財(建造物)に登録されました。

境内に
芭蕉句碑「春もやゝ けしきとゝのふ 月と梅」があります。

当社は
千寿七福神のうち、大黒天を祀っています。
千住本氷川神社 社殿 旧社殿 芭蕉句碑

 宿場町通りを抜けると右手に千住ほんちょう公園があります、園内に高札場由来があります。

寛永二年(1625)
日光東照宮の建立により日光道中初宿として、また江戸四宿の一つとして繁栄し、宿口に高札場が設置されました。

宿並を進むと右手に
横山家住宅があります、江戸時代から戦前にかけて屋号を松屋と称し、地漉(じすき)紙問屋を生業としました。

建物は江戸時代後期の建築です、
上野の戦いに敗れて敗走する彰義隊が切りつけた玄関柱の傷跡や、戦時中に焼夷弾が貫いた屋根など、風雪に耐えてきた百数十年の歴史を物語る建物です。
高札場由来 横山家住宅 千住絵馬屋・吉田家

 向いに
千住絵馬屋吉田屋があります、吉田家は、江戸中期から代々絵馬地口行灯(あんどん)、等を描いてきた際物(きわもの)問屋です。

千住絵馬は縁取りした経木に、胡粉と美しい色どりの泥絵具で描く小絵馬です、当代の絵馬師は八代目で先代からの独特の絵柄とその手法を踏襲し、江戸時代からの伝統を守り続けています(足立区登録無形民俗文化財保持者)。

 次いで左手にかどやがあります、創業昭和二十七年(1952)槍かけだんごの老舗です。

先の十字路の右手(黄色矢印)が
水戸街道です、この分岐点には追分道標「東へ旧水戸佐倉道」「北へ旧日光道中」があります。

水戸街道に入り鉄道のガードをくぐると左手に日蓮宗久栄山
清亮寺(せいりょうじ)があります、元和五年(1619)の創建です。

往時、
清亮寺の松が街道いっぱいに張り出していました、参勤交代の水戸藩がここを通りかかりましたが、槍が松に遮られ通行出来ません、槍持ちはいかなる理由でも槍を横に倒すことは許されませんでした。
槍かけだんご 旧水戸佐倉道追分 追分道標

 やむなくこの松を切ろうとしたとき、見事な枝振りを見た水戸藩主
徳川光圀(後の水戸黄門)は切るのを惜しみ、この松に槍を立て掛けて休み 出立の時に槍もちが松の向こう側に行ってから槍を取り直せば、槍を倒したことにはならないと、粋な計らいをしました、以来、この松は槍かけの松と称せられ、以来、ここを通る大名行列は門前で松に槍を立て掛けて休息するようになりました。

樹齢三百五十年の
槍かけの松は昭和二十年(1945)頃枯れてしまいました。

 宿並を進み一本目を左に入ると正面に真言宗豊山派西林山安養院(元長福寺)があります、鎌倉時代北条時頼の創建です。

境内に昭和二十九年(1954)建立の
芭蕉句碑「ゆく春や 鳥なき魚の 目は泪」があります。

裏参道側に三体の
地蔵尊が並んでいます、右側の二体が仲良し地蔵尊です、右が寛文十年(1670)、中央が寛文四年(1664)の造立です、左が元禄十二年(1699)造立のかんかん地蔵尊です。
安養院 芭蕉句碑 仲良し地蔵尊 かんかん地蔵尊

 
小石で叩くと願いが叶うといいます、大部摩耗が進んでいます。

 宿並に戻って進むと変則Y字路が現れます、下妻道追分です、この辺りが千住宿の日光(西)口です。

以前はこの分岐点に
追分道標「北へ 旧下妻道」「北西へ 旧日光道中」がありましたが、失われています、今は集合住宅のラ ルミエール Tが分岐ポイントです。

下妻道(黄色矢印)を進むと右手に
千住名倉医院があります、江戸時代以来、骨つぎといえば名倉、名倉といえば骨つぎの代名詞になるほど、関東一円に知られた医療機関で、駕籠大八車で運ばれてくる骨折患者でひしめき、門前の広場はこれらの溜り場でした。

江戸時代に建築された医院は足立区登録記念物(史跡)になっています。
下妻道追分 追分道標 名倉医院

  旧道はスグに荒川の堤下に突き当たります、左折します、日光方面からは一本目を斜め右に進みます。

千住新橋をくぐり、先の螺旋階段で千住新橋上に出て、荒川を渡ります。

荒川は大正十三年(1924)に開削された
人工河川です、往時は一面の草原でした。

この草原に
爺ケ茶屋がありました、徳川八代将軍吉宗が鷹狩の際にここで休息し、光沢が見事であると褒めた光茶銚(ちょう、釜)が名物でした。
荒川堤下 千住新橋下 螺旋階段 千住新橋&荒川

 渡詰めを左折し土手道上を進みます。

先の石段を下り、
川田橋交差点を横断して旧道に復帰します、交差点を越すと右手に日蓮宗大光山善立寺があります、応仁二年(1468)の創建です。

梅田村を進みます、この地は海に面した河口でした、そこを埋め立て新田が開かれたところから埋田と呼ばれ、転訛して梅田になりました。

二ツ目の信号交差点を越すと左手に
石不動尊堂があります。
荒川土手道 川田橋分岐 石不動堂 耳石不動尊

 堂内に耳の病に霊験あらたかな
石造耳不動尊像が安置されています、堂前には石標「子育八彦尊道 是より二丁行」があります、咳にご利益がある明王院(赤不動)への道標です、、傍らの地蔵尊は荒川の土手にあったものです。

 先に進みお好み焼き満月の先を左折し、二本目を右折して進むと右手に佐竹稲荷神社が鎮座しています、鳥居脇に佐竹抱屋敷跡標石があります。

この地は
秋田藩の所有地で藩主佐竹侯(かかえ)屋敷がありました、参勤の際の休息所でした、稲荷社は屋敷神として祀られたもので、イボ取りに霊験あらたかなところからいぼ稲荷と呼ばれました。

街道に戻って進むと信号交差点があります、
梅田通りとの追分です、この分岐点に道標「右 旧日光道中」「左 東武鉄道旧線路跡」があります。
佐竹稲荷神社 佐竹抱屋敷跡 梅田通り追分 東武鉄道道標

 東武スカイツリーラインの高架梅島駅下をくぐると梅田から梅島に入ります。

梅島三丁目交差点を右に入って進むと左手に
小右衛門稲荷神社が鎮座しています、小右衛門新田を開発した渡辺小右衛門が故あって同僚の高橋伴右衛門を討ち、伴右衛門の霊を慰める為に建立したものといいます。

環七通りを島根交差点で横断すると
梅島から島根に入ります。

島根二丁目交差点の左手に安穏寺参道の
題目碑が対であります。
小右衛門稲荷神社 安穏寺参道口 安穏寺題目碑 御成橋跡

 右手の南無妙法蓮華経題目碑の傍らに
将軍家御成橋・御成道松並木跡標柱があります。

 参道を進むと日蓮宗天下長久山国土安穏寺があります、応永十七年(1410)の創建で、当初、長久山妙覚寺と称しました。

当寺の八世
日芸上人宇都宮城釣天井事件を予言したところから徳川家祈願寺となり葵の紋の使用が許され、寺号の国土安穏寺を賜りました。

将軍専用の
御成門が建てられ、御成道が造られ、松並木が植栽されました。

境内には徳川三代将軍
家光御手植之松があります。
安穏寺御成門 大草鞋 安穏寺 家光手植松

 街道に戻り、一本先の信号交差点を左折すると、先の右手に島根村の名主牛込金武家長屋門があります。

街道を進むと左手に
鷲神社参道社標があります、文保二年(1318)の創建で島根村の鎮守です。

享和二年(1802)建立の
明神型石鳥居は区有形文化財指定、奉納される島根囃子島根神代神楽は区無形文化財指定です。

社殿の左には
富士塚があります。
名主長屋門 鷲神社鳥居 鷲神社社殿 将軍石

 社殿の右脇には
将軍石があります、享保六年(1721)徳川八代将軍吉宗が巡遊の際に腰掛けたといいます。

 島根鷲神社前交差点を境に島根から六月に入ります。

この辺りに
六月の一里塚があったともいいますが位置は不明です、江戸日本橋より数えて三里目です。

六月の炎天下、奥州征伐に向かう
八幡太郎義家は野武士に道を遮られ進退窮まりました、そこで岩清水八幡を祈念すると、にわかに太陽が背に回り、敵は眼がくらみ無事撃破できました、西にゆかりの炎天寺六月八幡神社があります。

六月町郵便局先の右が成田道口です。
六月由来 成田道口 道標 成田道道標

 踏み込むと右手に
成田道道標があります、成田山新勝寺への道標です。

 増田橋交差点手前の右手に増田橋跡標石があります、見沼代用水を水源とする竹ノ塚堀に架橋されていました。

増田橋跡標石には「北へ旧日光道中」「西へ旧赤山道」と刻まれています、
赤山道は川口の赤山を経て日光御成道の鳩ケ谷に通じています。

増田橋は千住宿と草加宿の中間に位置し
立場がありました。

増田橋交差点を越すと
六月から竹の塚に入ります。

竹ノ塚村の世襲名主
河内氏は代々困窮民の救済や用排水路の整備に努め、寛政八年(1796)当主河内久蔵は苗字帯刀の褒賞を受けました。
増田橋 増田橋跡標石 氷川神社

 
竹の塚から保木間に入り、右手の渕江小学校手前を右に入ると左手に保木間氷川神社が鎮座しています、保木間村の鎮守です、淵江領を支配した千葉氏の陣屋跡で、当初守護神の天神社を祀ったものです。

 脇宮の保木間稲荷神社は文化年間(1804〜14)の創建で、祭神の疱瘡大神天然痘に霊験あらたかです。

参道口前の筋は
流山道です、南花畑、内匠橋、六木を経て流山に至ります、更に東進すると成田山に至るところから成田道とも呼ばれました。

参道口前から西に進むと
西新井大師に至るところから大師道と呼ばれました。

街道に戻って進み、左手の梅島工務店脇に入ると
十三仏堂があります、行基作と伝わる虚空蔵菩薩像を安置しています、虚空蔵は無限に宝が入る蔵のことで、知恵と慈愛が尽きない仏です、厨子内の飯綱権現像は明治六年(1873)村東雲の作です。
保木間稲荷神社 十三仏堂 西保木間旧道南

 セブンイレブンが左手にある信号交差点を右折します、ここが
西保木間旧道の南口です。

 西保木間旧道を左に回り込むように進み、竹の塚中学校東交差点で再び県道に合流します、日光方面からは交差点を斜め左に進みます。

スグ先の右手に日蓮宗神壽山
法華寺があります、小塚原刑場の刑死者の菩提を弔っています、境内には無縁塔があります。

毛長川橋前交差点を横断し、国道4号線をくぐると左手に
保木間水神宮が鎮座しています、ある剛なる者が釣をしていると蛇が襲ってきました、これを一刀両断にしました。
西保木間旧道北 法華寺供養塔 水神宮 保木間分岐

 しかし
剛なる者は蛇の毒臭に冒され亡くなってしまった、水神宮は斬り殺されたを祀っています。

突当りの
県道49号線を左折します、日光方面からは毛長川先の信号交差点を斜め右に進みます。

 毛長川水神橋で渡ります、毛長川は江川と前野宿川が合流し、毛長川となり流末は綾瀬川に落合います。

ある女性が嫁いだが折り合わず、実家に帰る途中に川に身を投げました、その後、長い髪の毛が見つかり、これを祭ったのが
毛長神社です、以来、この川は毛長川と呼ばれるようになりました。

毛長川は
東京都足立区埼玉県草加市の境です。

谷津交差点の右手に
瀬崎浅間神社が鎮座しています、瀬崎村の総鎮守です、本殿は天保十三年(1842)の再建です、神殿彫刻は市指定文化財です、社殿裏には富士塚力石があります。
毛長川 浅間神社 力石

 谷塚駅入口交差点を右折すると左手に真言宗豊山派寶光山善福寺があります、本尊の阿弥陀如来像は高さ一尺八寸で運慶作です。

山門前に元禄四年(1691)と正徳三年(1713)建立の
青面金剛像庚申塔、境内には元禄四年(1691)造立の六地蔵があります。

吉町(よしちょう)五丁目交差点手前の右手に
ひあぶり地蔵尊があります、奉公中の娘に母危篤の知らせが届きました、主に暇を願い出たが許されませんでした、そこで主の家が火事になれば仕事が休みになり家に帰れると思い込み放火してしまい、火あぶりの刑に処せられました、村人が憐れみ供養のために安政五年(1858)造立の地蔵尊を祀りました。
善福寺 ひあぶり地蔵尊 馬頭観音

 堂脇には弘化五年(1848)建立の
馬頭観音像が祀られています。

先の右手
石関医院辺りに草加の一里塚があったともいいますが位置は不明です、江戸日本橋より数えて四里目です。

 PM12:22 草加宿着 越ケ谷宿まで7.2km

 先を斜め左に入ります、この分岐点には今様草加宿碑があります、ここが草加宿の江戸(南)口です、草加宿に到着です!

当初、この地一帯は沼地が多く街道は大きく迂回していました、
大川図所(ずしょ)は幕府に願い出て千住〜草加間をほぼ一直線に結ぶ新道を開削し、慶長十二年(1607)草加宿を創設しました。

天保十四年(1843)の
日光道中宿村大概帳によると草加宿の宿内家数は七百二十三軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠六十七軒で宿内人口は三千六百十九人(男千六百九十三人、女千九百二十六人)でした。

宿並は天明四年(1784)と明治三年(1870)の大火で灰燼に帰してしまった。

当初、家康の通行に際して
沼沢地に柳の木や茅を束ね、埋め込んで新道を造りました、家康は「草も役に立つものだ」と褒め、この地を草加と名付けました。
草加宿江戸口 今様草加宿碑

 左手の草加市役所の角に寛文七年(1667)建立の浅古家の地蔵堂があります。

市役所の敷地は幕末から明治にかけての豪商
大和屋跡です、主の浅古半兵衛江戸店(だな)を出し、全国二位の質屋でした。

地蔵堂は屋敷神で
子育地蔵菩薩立像を安置しています。

草加市役所(北)交差点手前の右手に浄土宗草加山
回向院があります、本尊は阿弥陀如来です。
浅古家地蔵堂 浅古家 回向院 遊女墓

 元禄十四年(1701)の創建です、境内に
旅籠武蔵屋が抱えた遊女の墓があります。

 草加市役所(北)交差点手前の左手に草加神社社標があります、天正年間(1573〜92)大宮氷川神社を勧請し、氷川社と称し南草加村の鎮守としました。

交差点を越し、一本目を右折し、突当りの県道49号線を左折すると左手に
三峰神社が鎮座しています、火伏盗賊除の守護神です。

宿並に戻ると右手の埼玉りそな銀行前に
道標「日光街道」「葛西道」があります。

十字路の左手は東武スカイツリーライン
草加駅です、十字路越すと右手に草加町道路元標があります、埼玉縣と刻まれています。
草加神社標 三峰神社 葛西道道標 道路元標

 先の右手奥に八幡神社が鎮座しています、享保年間(1716〜36)に稲荷社を祀ったのが始まりで、安永六年(1722)八幡神社が創建されました。

獅子頭雌雄一対は草加市指定有形文化財です、獅子舞用ではなく、獅子頭として供奉されたものです。

宿並を進むと右手に国登録有形文化財の
藤城家住宅店舗・内蔵・外蔵があります、店舗は昭和初期の建築、母屋に組み込まれた、重厚な土蔵造りの内蔵外蔵は明治初期の建築です。

先に進むと左手のくにのべ歯科の前に
木製標柱「三丁目橋」、標石「三町目橋」があります、流れに板橋が架橋されていました。
八幡神社 藤城家 三丁目橋跡

 宿並を進み右手の草加住吉郵便局を右折し、突当りの県道49号線を左折すると右手に明治天皇草加行在所碑があります。

大川図書の子孫で谷古宇村の名主を勤めた
大川弥惣右衛門家に明治天皇は二度宿泊しました。

宿並に戻ると右手のきんざんじや脇に明治四十四年(1911)建立の
明治の道路元標があります。

正面「越ケ谷町へ壹里三拾三町三拾間三尺/千住町へ弐里拾七町五拾三間三尺」、側面に「距谷塚村管轄境貮拾四町貮間三尺」と刻まれています。

ここが
草加宿問屋場跡です。
草加住吉局分岐 名主大川家跡 明治天皇碑 道路元標

 向いに大川本陣跡標石があります、スグ先の右手には清水本陣跡標石があります。

草加宿の開祖
大川家が宝暦四年(1754)まで勤め、次いで清水家が大川家より本陣職を譲り受け、明治初期まで勤めました。

本陣には会津藩
松平容頌(かたのぶ)、仙台藩伊達綱村、盛岡藩南部利視(としみ)、米沢藩上杉治憲(はるのり、鷹山)等が宿泊した記録を残しています。

先の左手奥に
氷川神社が鎮座しています、南草加村渋沼の鎮守でしたが、この地に遷座し四丁目の氏神となりました。
大川本陣跡標石 清水本陣跡 清水本陣跡標石 氷川神社

 背後の草加小学校の敷地は大川図書の
屋敷跡です。

 信号交差点を越して進むと右手におせん茶屋公園があります、公園前の宿並沿いには日光街道道標があります。

先を左に進むと正面に真言宗智山派松寿山不動院
東福寺があります、慶長十一年(1606)大川図書の菩提寺です。

山門の
四脚門は元治二年(1865)、鐘楼は文久二年(1862)の建立で、共に草加市指定有形文化財です。

墓地に草加宿の開祖
大川図書の墓があります、図書は小田原の北条氏に仕えましたが、小田原城の落城により浪人となりました。
おせん茶屋公園 日光街道道標 東福寺 大川図書墓

 徳川の世になると朋友の
伊奈備前守の計らいにより草加の地に土着しました。

 宿並に戻ると左手にそば処大村庵があります、サア、昼食にしましょう。

冬の街道ウォークの定番
鍋焼きうどんです、こりゃー暖まります、堪りません!

それでは午後の部に取り掛かりましょう。

宿外れの左手に
草加宿神明庵があります、お休み処になっています。

安政二年(1855)の
江戸大地震に耐え、明治三年(1870)の大火も免れた、古い形式を今に伝える町屋です。
大村庵 なべ焼きうどん 草加宿神明庵

 神明庵先が右に曲がります、枡形跡です。

枡形内の左手に
神明宮が鎮座しています、与左衛門新田の名主吉十郎の祖先が元和元年(1615)宅地内に小社を祀ったことに始まり、約百年後の正徳三年(1713)この地に遷座し、草加宿の総鎮守となりました。

五と十の付く日に
六斎市が立ち、大いに賑わいました。

突当りの神明町交差点手前の左手に
おせん公園があります、園内に草加せんべい発祥の地碑があります。

草加松原で茶店を営む
おせんさんが通りがかりの旅人に「売れ残った団子はつぶして天日に干し、焼くといい」と教えられたのが草加せんべいの由来です。
神明宮 草加せんべい碑 草加宿燈籠

 右手のおせん公園に
木製燈篭モニュメントがあります、燈籠には是従草加宿と刻まれた銘板が取り付けてあります、ここが草加宿日光(北)です。

 このおせん公園には河合曽良像があります、芭蕉の門人で奥の細道に随行し曽良旅日記を著しました。

神明町交差点を横断し、左に進み
伝右川六丁目橋で渡ります、六丁目橋は長さ十二間、幅三間の板橋でした。

渡詰め右の
札場河岸公園に入ります、園内には望楼が聳えています、内部の螺旋階段を上ると草加が一望できます。

綾瀬川に沿って右に進むと、右手に正岡子規句碑「梅を見て 野を見て行きぬ 草加まで」があります。
河合曽良像 六丁目橋 望楼 正岡子規句碑

 明治十七年(1884)
正岡子規高浜虚子を伴って草加を訪れました。

 先の綾瀬川沿いに札場河岸石段常夜燈が復元されています、札場(ふだば)屋野口甚左衛門の私河岸で江戸との舟運が盛んに行われました。

望楼前に戻ると
松尾芭蕉像があります、深川から舟で千住に着いた芭蕉は見送りの人々に別れを告げ草加に至りました。

綾瀬川に沿う遊歩道を進みます、綾瀬川は大雨の度に川筋が変わるところからあやし川と呼ばれましたが伊那忠次によって堤が整備され流路が安定しました、綾瀬川は隅田川に落合い、江戸に通じる重要な水路でした、この舟運は大正まで続きました。
札場河岸跡 松尾芭蕉像 綾瀬川 高浜虚子句碑

 左手に
高浜虚子句碑「順礼や 草加あたりを 帰る雁」、虚子は正岡子規に師事しました。

 遊歩道を横切る車道を跨ぐ草加松原遊歩道歩道橋(太鼓橋)の矢立橋を渡ります、奥の細道の一節「矢立の初めとして」にちなむ橋名です。

綾瀬川沿いの
草加松並木は天和三年(1683)関東郡代伊那半右衛門綾瀬川を改修した際に植栽したもので千本松原とも呼ばれ名所でした。

右手のハープ橋を過ぎると、左手に
名勝おくのほそ道の風景地草加松原碑があります、文化勲章受章者ドナルド・キーンの揮毫です、草加松原は日本の道100選に選ばれています。
矢立橋 草加松原 名勝草加松原碑 奥の細道碑

 
百代橋(ひゃくたいはし)手前の左手に松尾芭蕉「奥の細道」碑があります、奥の細道草加の章段「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」が刻まれています。

 草加松原遊歩道歩道橋(太鼓橋)の百代(ひゃくたい)を渡ります、奥の細道草加の章段にちなむ橋名です。

百代橋を渡ると左手に
松尾芭蕉文学碑があります、奥の細道の一節「その日ようやく草加という宿にたどり着にけり」が刻まれています。

先に進むと左手に
水原秋桜子句碑「草紅葉 草加煎餅を 干しにけり」、秋桜子(しゅうおうし)は高浜虚子に師事しました。

草加松原の突当りに
水環があります。
百代橋 松尾芭蕉文学碑 水原秋桜子句 水環&草加松原北端

 
水環モニュメントは人と自然が環となり治水に取り組む姿をシンボリックに表現したものといいます、並びに標識「草加松原・北端 札場河岸公園から1.5km」があります、草加松原遊歩道はここ迄です、街道は綾瀬川沿いに直進します。

 左手にコンクリートブロック造りのがあります、祠内の左に水神、中央に寛政七年(1795)建立の六臂馬頭観音像、右に青面金剛像庚申塔が安置されています。

車止めを越え
東京外環自動車ガードを二ケ所くぐります。

左手に奥の細道旅の
芭蕉曽良を描いた壁画が三枚あります。

再び車止めを越えると
茶屋通りになります、蒲生大橋の草加寄りに立場があり出茶屋と呼ばれました。
石仏石塔 東京外環道 芭蕉曽良壁画 茶屋通り

 綾瀬川に沿う茶屋通りを進み、右手の槐戸橋(さいかちどはし)を越えると左手に金明愛宕神社が鎮座しています。

明治四十年(1907)に同町の
旭氷川神社に合祀されました。

蒲生大橋綾瀬川を渡ります、蒲生大橋は大橋土橋と呼ばれ、長さ十二間四尺、幅二間一尺で足立郡(草加市)と埼玉郡(越谷市)の境でした。

親柱の並びに
高浜虚子句碑「舟遊び 綾瀬の月を 領しけり」があります。
槐戸橋 金明愛宕神社 蒲生大橋 親柱&虚子句碑

 蒲生大橋渡詰め正面に蒲生の一里塚東塚が現存しています、江戸日本橋より数えて五里目です。

高さ2m、東西幅5.7m、南北幅7.8mの塚上にムクエノキ、ケヤキ、マツ、イチョウが生い茂り、
愛宕神社が祀られています。

塚下には
六地蔵成田山道標があります、これらの前が旧道痕跡です。

綾瀬川に沿って逆方向に進むと右手に
藤助(とうすけ)河岸跡があります、高橋藤助の私河岸跡です、、江戸への年貢米の積み出しが行われました、維新後も舟運が盛んでした。
蒲生の一里塚 愛宕神社 旧道痕跡 藤助河岸跡

 蒲生の一里塚に戻り綾瀬川沿いに進み、出羽堀蒲生橋で渡ります、出羽堀は越ケ谷の会田出羽が灌漑用として開削したものです。

ここから
綾瀬川は左に反れて行ます。

蒲生郵便局を過ぎると右手の祠内に
石仏が二体安置されています、右が正徳三年(1713)建立の笠付青面金剛像庚申塔です、左は享保十三年(1728)建立の不動明王像です、台石には「是より大さがミ道」と刻まれています、大聖寺(大相模不動)への道標を兼ねています。
蒲生橋 石仏 ぎょうだいさま 砂利道供養塔

 先に進むと左手に
草鞋を吊り下げた祠があります、砂利道供養塔が安置されています、宝暦七年(1757)日光道中の大改修が行われ、これを記念して建立されたものです、供養塔が鷲の姿に似ているところから鷲の神様であるぎょうだいさまと呼ばれています。

 蒲生茶屋通りを進みます、焼米が名物の立場がありました。

右手に豪壮な
清蔵院冠木門があります、真言宗智山派慈眼山清蔵院は天文三年(1534)の創建で、本尊は十一面観音です。

参道を進むと寛永十五年(1638)建立の
山門があります。

山門の
の彫刻は名人左甚五郎作と伝わっています、このは夜な夜な山門を脱け出し、畑を荒らしたところから金網で囲われています。
清蔵院冠木門 山門 左甚五郎作龍 清蔵院

 街道に戻り突当りの蒲生本町交差点を右折して県道49号足立越谷線を進みます、日光方面から斜め左に進みます。

蒲生駅入口交差点を越し、こしがや腦神経外科を左折し、突当りを右折し二本目を左折すると右手に
久伊豆宮寿神社が鎮座しています、医療、温泉、酒造業者等から篤く信仰されています。

南越谷病院前交差点を過ぎると左手の公園奥に五基の
石碑が並んでいます、明治天皇田植御覧之處碑は明治九年(1876)奥州巡幸の途次、ここで田植え風景を上覧しました。
蒲生本町分岐 久伊豆宮寿神社 石碑群 明治天皇碑

 並びには侯爵
大山巌書の忠勇碑用水完成記念碑等があります。

 JR武蔵野線のガードをくぐって進むと瓦曽根(かわらぞね)に入ります、当初は川原曽根と書かれましたがいつしか瓦曽根となりました、村内には紀州藩の鷹狩り場がありました。

右手の照蓮院駐車場の奥に
窮民救済の碑があります、瓦曽根村の名主中村彦左衛門は飢饉に備え、金子を幕府御貸付所に預け入れ、天明年間(1781〜89)の凶作の際に元利金を払い下げて窮民に分け与えました。

並びに真言宗慈氏山
照蓮寺があります、創建年代は不詳ですが、天正十九年(1591)に徳川家康より寺領五石の御朱印状を拝領した古刹です、木造地蔵菩薩立像は越谷市有形文化財です。
窮民救済の碑 照蓮院 千徳丸供養塔

 
秋山家の墓所に寛永十四年(1637)建立の御湯殿山千徳丸と刻まれた小さな五輪塔(供養塔)があります。

瓦曽根秋山家の祖は、甲斐國武田氏の家臣秋山信藤(しんどう)であり、その子長藤は天正十年(1582)三月、武田氏滅亡の際、武田勝頼の遺児幼君千徳丸をともなって瓦曽根村に潜居しました、千徳丸は間もなく早世しましたが、それを悲しんだ長藤は照蓮院の住職となってその菩提を弔ったと伝わっています。

 PM2:40 越ケ谷宿着 粕壁宿まで11.5km

 照蓮院向いの瓦曽根ロータリー交差点を左に進みます、この分岐点には里程表東京雷門 五里 二十粁 浦和 三里半 十四粁 大宮 五里 二十粁 川口 四里 十六粁 鳩谷 三里 十二粁」があります。

先に進むと栃木銀行越谷支店手前の十字路が
瓦曽根越ケ谷の境です、ここが越ケ谷宿の江戸(南)です、越ケ谷宿に到着です!

越ケ谷宿は二と七の付く日に六斎市が立ち、近郷商圏の中心地でした。

天保十四年(1843)の
日光道中宿村大概帳によると宿内家数は千五軒、うち本陣一、脇本陣四、旅籠五十二軒で宿内人口は四千六百三人(男二千二百七十二人、女二千三百三十一人)でした。

宿長は越ケ谷町から大沢町迄の十八町四十八間(約2.1km)で、宿並は明治七年(1874)と同三十二年(1899)の大火で灰燼に帰してしまった。
瓦曽根ロータリー分岐 里程表

 信号交差点を越し、東京きもの手前を左に入ると正面に新町八幡神社が鎮座しています、文和二年(1353)の創建で越ケ谷宿新町の鎮守です、御神燈は文政七年(1824)の建立です。

越谷二丁目交差点辺りに
越ケ谷の一里塚があったともいいますが位置は不明です、江戸日本橋より六里目です。

次の信号交差点を左折して、一本目を右折すると右側の
有瀧(ありたき)の黒板塀内に樹高17m、幹回り3.7m、樹齢四百年以上のタブノキがあります(越谷市指定天然記念物)。
新町八幡神社 有瀧家のタブノキ 浅間神社 浅間神社のケヤキ

 宿並に戻り、次の信号交差点を左折すると右手に
浅間神社が鎮座しています、中町の鎮守です、鳥居の扁額には不二仙元社と記されています、応永三十二年(1425)銘の懸仏は越谷市指定有形文化財工芸品です、境内のケヤキは樹齢六百年で越谷市指定天然記念物です。

浅間神社前の筋は
鳩ケ谷道です、赤山道とも呼ばれ日光御成道鳩ケ谷宿に通じています。

 信号交差点に戻ると右手が問屋場跡です、会田五郎兵衛が勤めましたが遺構は残されていません。

左手の木下半助商店は
脇本陣四ツ目屋跡です、浜野家が勤めました。

次いで右手に蔵造りの
塗師屋があります、 東講商人鑑には太物荒物店 塗師(ぬし)屋右衛門と記されています、古くは漆を扱い、後に太物(綿、麻織物)を商いました。

並びが明治三十三年(1900)築、蔵造りの
鍛冶忠です。
脇本陣跡 塗師屋 鍛冶忠 市神社

 宿並を進むと右手に
市神社が鎮座しています、本町の鎮守で二と七の付く日に六斎市が立ちました。

 越ケ谷本町交差点を右折(黄色矢印)して、元荒川に沿って進むと、先の右手に越ケ谷御殿跡碑があります。

徳川家康秀忠の鷹狩りの休泊所でした、明暦三年(1657)の振袖火事江戸城が全焼すると、急遽越ケ谷御殿を解体し、江戸城の復興にあてました。

宿並に戻り
荒川の本流であった元荒川大沢橋で渡ります、明暦元年(1655)関東代官伊奈半左衛門によって高欄付の板橋が架橋され境板橋と称しました。

先の左手に
きどころパンがあります。
越ケ谷本町分岐 越ケ谷御殿跡 元荒川 本陣跡

 ここが
本陣大松屋福井権右衛門跡です、当初、越ケ谷町の会田八右衛門が本陣を勤めましたが、没落したため大沢町の福井家が本陣を勤め問屋名主を兼ねました。

 宿並を進むと右手の深野造園が玉屋脇本陣跡です、深野彦右衛門が勤めました。

次いで左手の生そば三枡屋が
虎屋脇本陣跡です、山崎次兵衛が勤めました。

右手の若松屋印刷が
問屋場跡です、江沢太郎兵衛が勤めました、敷地奥に鬼瓦等を残しています。

信号交差点を越すと左手に真言宗智山派梅華山
照光院があります、墓地に本陣を勤めた福井家代々の墓があります、梵鐘は安永八年(1779)の鋳造です、明治十年(1877)大沢小学校が開校されました。
玉屋脇本陣跡 虎屋脇本陣跡 江沢問屋場跡 照光院

 おそば水角屋先を右に進むと左手に香取神社が鎮座しています、応永年間(1394〜1427)に下総國一の宮香取神宮の分霊を勧請し、大沢村の鎮守としました。

慶応二年(1866)建立の
奥殿の外壁に紺屋の作業風景が彫刻されています、越ケ谷は染物業が盛んでした。

左手の東武スカイツリーラインの
北越谷駅を越すと、大沢から北越谷に入ります、この境が越ケ谷宿の日光(北)口です。

東武線高架に沿って進みます。、この先は東武線の敷設によって消滅しました。
香取神社 東武線高架 東武線高架下 旧道復帰

 東武スカイツリーライン高架をくぐり(黄色矢印)、突当りを右(白色矢印)に進みます、ここが
旧道復帰点です。

 旧道復帰点の左手に石塔が三基あります、内一基は三猿が刻まれた青面金剛庚申塔です、側面に「右じおんじ のじま道」と刻まれ道標を兼ねています。

先に進み宝性寺越谷別院入口先左手の砂利道奥に
宮内庁埼玉鴨場があります、鴨の飛来が少なくなった東京浜離宮の代替として明治三十七年(1904)皇室用の遊猟場として建設されました、約11万7000uの敷地の中に約1万2000uの鴨池があります。

先の福田米店手前を左折すると正面に曹洞宗龍華山
大林寺があります。
石塔群 古奥州道道標 宮内庁埼玉鴨場 大林寺

 享保五年(1720)の創建です、門前の
大乗妙典一千部供養塔は元文五年(1740)の建立、境内の出世大黒天は嘉永元年(1848)の造立です。

 信号交差点手前の左手砂利道に入ると正面に大林香取神社が鎮座しています、大林村の鎮守です。

境内に
青面金剛像庚申塔猿田彦大神庚申塔猿田毘古大神庚申塔等があります。

小公園を過ぎると右手の祠内に宝永七年(1710)建立の
青面金剛像庚申塔が安置されています。

東武スカイツリーラインを
東武鉄道踏切「伊 第91号踏切道」で横断します。

左手にダンロップタイヤがあります。
香取神社 庚申塔 東武鉄道踏切 石仏石塔群

 駐車場脇に
馬頭観音像地蔵尊石塔等が多数集められています。

 右手の墓地奥の隅に慶応四年(1868)建立の青面金剛像庚申塔等があります。

大袋交差点にて
越谷春日部バイパス高架をくぐると下間久里に入ります。

下間久里には
下間久里の一里塚があったといいますが、存在位置共に不明です、江戸日本橋より数えて七里目です。

信号交差点を越すと左手に
地蔵堂があります、次いで左手の墓地内に宝篋印塔や、地蔵尊如意輪観音十九夜塔等があります。

松崎ダルマ産業の向いを右に入ります。
庚申塔 大袋駅入口 石仏石塔群 下間久里香取神社

 左手に
下間久里香取神社が鎮座しています、下間久里村の総鎮守です、例大祭に奉納される獅子舞は太夫獅子、中獅子、女獅子の三頭一組で舞う祈祷獅子の形態を保っています(埼玉県指定無形民俗文化財)。

 街道を進むと左手のマンションサンフラワー千間台の並びに松が聳える上原家があります、秋田屋秋田炉跡です。

この辺りは越ケ谷宿と粕壁宿の中間に当たり、
間久里の立場で、八軒の茶屋が軒を連ねていました、元荒川で獲れた鰻の蒲焼が名物でした。

中でも
秋田屋には参勤の秋田藩佐竹侯が必ず立ち寄り名物の鰻の蒲焼に舌鼓を打ちました、秋田屋には藩主専用の座敷秋田炉(しゅうでんろ)がありました。

街道は陸橋入口交差点にて国道4号線に合流(白色矢印)します、日光方面からは斜め右に入ります。

せんげん台交差点を越し、
新方川戸井橋で渡ります。
秋田炉 陸橋入口分岐 新方川

 新方川は元の
千間堀です、流末は中川に落合います、新方川を渡ると越谷市から春日部市に入ります。

 国道4号線をグングン進むと左手に大枝香取神社が鎮座しています、大枝村の鎮守です、五穀豊穣の神として崇められています。

奥に真言宗豊山派
歓喜院(かんきいん)があります、武里観音として広く知られています。

先の武里駅入口交差点を左折して進むと右手に浄土宗大畠山
西光寺があります、参道口に地蔵尊や天保六年(1835)建立の庚申塔があり、境内には宝暦四年(1754)建立の普門品供養塔があります。
大枝香取神社 勧喜院 西光寺 庚申塔

 会之堀川武里橋で渡ると大畑から備後に入ります、弘法大師が備後國から観音像を移す際に行方不明となったが、この辺りで見つかったところから当地を備後と命名しました。

正善小入口交差点を過ぎると右手奥に
建御雷(たけみかづち)神社が鎮座しています、元は雷電社と称していましたが明治初年に現在の社号に改めました、境内に富士浅間宮大権現を祀る富士塚があります。

備後交差点手前の右手奥に浄土宗
称名寺があります。
会之堀川 建御雷神社 称名寺 金精様

 境内に享保六年(1721)造立の
三界萬霊地蔵尊生信忍譽と刻まれ金精様と呼ばれる男石があります、子宝に恵まれない婦人がこの石に腰掛けると授かるといいます。

 左手とんQの向いに地蔵祠があります、二体の地蔵立像が安置されています。

備後(北)交差点の右手に
史跡備後一里塚跡碑があります、江戸日本橋より数えて八里目です。

次いで右手に浄土真宗本願寺派
善巧寺(ぜんぎょうじ)があります、境内に親鸞聖人旅姿像があります、聖人は平安末期の承安三年(1173)京に生まれ、九歳で仏門に入り比叡山で修行し、法然上人の弟子となり、後に浄土真宗の宗祖となりました。

藤塚橋交差点の右手に
藤塚橋があります。
地蔵祠 備後一里塚跡 善巧寺 大落古利根川

 
大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)は利根川の本流でしたが、江戸時代初期の東遷事業により江戸湾から鹿島灘に注ぐ河川に付け替えられました、大落とは農業排水を落と(流)すの意です。

藤塚橋の位置には
三蔵渡しと呼ばれる渡船場がありました、昭和八年(1933)有料の木橋が架けられ賃とり橋と呼ばれました。

 緑町交差点を過ぎると左手に明治三十一年(1898)建立の浅間大神塔があります。

東武野田線ガードをくぐり、粕壁東を進むと左手に
東町大下稲荷神社が鎮座しています、内には庚申塔等があります。

一宮歩道橋の右手に
八坂神社が鎮座しています、明和七年(1770)の火災で社殿が焼失したため、勧請の由来等は不詳です、粕壁宿の市神として信仰され、江戸時代には牛頭天王社と呼ばれました。
浅間大神 東武野田線ガード 東町大下稲荷社 八坂神社

 境内には文政二年(1819)建立の
猿田彦大神塔等があります。

 粕壁宿着

 八坂神社前の一宮交差点辺りが粕壁宿の江戸(南)口です、粕壁宿に到着です!

粕壁宿は
古利根川の舟運により江戸と結ばれ、諸物資の集散地として栄え、毎月四と九の付く日に六斎市が立ち大いに賑わいました。

天保十四年(1843)の
日光道中宿村大概帳によると粕壁宿宿内家数は七百七十三軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠四十五軒で宿内人口は三千七百一人(男千七百九十一人、女千九百十人)でした。

一宮交差点を直進(黄色矢印)し、一本目を右折し東八幡神社表参道を進むと正面に
東八幡神社が鎮座しています、粕壁宿の鎮守です。
粕壁宿江戸口 東八幡神社 大ケヤキ

 
新田義貞の鎌倉攻めに功があった春日部時賢(ときかた)が鎌倉鶴ケ岡八幡宮を勧請したものです、境内の大ケヤキは御神木で樹齢約六百年です。

 宿口に戻ります、一宮交差点の斜め左(白色矢印)が粕壁宿の宿並です。

宿並の右手に曹洞宗医王山
東陽寺があります、山門脇に伝芭蕉宿泊の寺碑があり、本堂前には曽良旅日記の一節「廿七日夜カスカベニ泊ル江戸ヨリ九里余」が刻まれた碑があります。

宿並を挟んで向かいに真宗大谷派慈光山
源徳寺があります、承応年間(1652〜55)の創建です。

宿並左手の金子歯科医院の前に
脇本陣(本陣)跡標柱があります。
東陽寺 曽良旅日記碑 源徳寺 脇本陣跡

 中宿(仲町)の
蓮沼庄兵衛が脇本陣を勤めた後、天保元年(1830)現在地で旅籠を営んでいた高砂屋竹内家が脇本陣を引継ぎ、嘉永二年(1849)から幕末までは五番目の本陣を勤めました、宅地四百十七坪で、明治天皇東北巡幸の際、昼食所になりました。

 先の文化会館交差点の付近には、かつて水路があり、板石三枚の橋が架けられていたところから、この辺りは三枚橋と呼ばれていました。

この交差点を左折すると
春日部市郷土資料館があります。

宿並を進むと左手の群馬銀行辺りが
小沢本陣跡です、文化六年(1809)から嘉永二年(1849)まで小沢家が四番目の本陣を勤めました。

向いに入り突当りの
大落古利根川を左折すると碇神社が鎮座しています。
郷土資料館 小沢本陣跡 碇神社 イヌグス

 神社前には
下喜蔵河岸(しもきぞうかし)がありました、境内の樹齢六百年のイヌグスは河岸の目印でした。

 宿並に戻って進むと右手に旧家門があります、名主関根次郎兵衛跡です。

先のげんき薬局前に
本陣跡標柱があります、二番目の関根助右衛門本陣跡です、宝暦四年(1754)まで勤めました。

粕壁宿の
本陣は五回変遷しています、
@
関根次郎兵衛家→A関根助右衛門家→B見川家→C小沢家→D竹内家

先に進むと右手に蔵造りの
田村本店(本家)があります、店前に天保五年(1834)建立の道標「西南いハつき(岩槻) 北日光 東江戸 右之方陸羽みち」があります。
関根名主跡 本陣跡 田村屋本家 道標

 この道標は名主関根次郎兵衛等によって高札場付近に建てたられたものです。

粕壁東一丁目交差点を過ぎると左手に春日部仲町郵便局があります、この辺りが
関根次郎兵衛本陣跡です、粕壁宿開設当初の一番目の本陣跡です。

スグ先の公園橋(西)交差点手前の右手に
田村荒物店(分家)があります、敷地は大落古利根川まで続き、豪壮な家屋と蔵を残しています。

中宿(仲町)と呼ばれたこの辺りには間口が狭く奥行きの長い敷地の米問屋など蔵造りの
商家旅籠屋などが軒を連ねていました。
関根次郎兵衛本陣跡 公園橋(西)交差点 田村荒物店

 PM5:36 粕壁宿起点到着

 公園橋(西)交差点の左が東武スカイツリーライン、東武野田線の春日部駅です、この交差点が粕壁宿の起点です、本日はここまでです、全員無事到着です!

駅前の
養老乃瀧で打上げです、新年会を兼ねています、達成感が共有できる仲間との街道ウォークは格別です!!

本年もよろしくお願い致します!!!


今年は街道を歩くぞ・・・・・
打上げ & 新年会



次 粕壁 〜 間々田