● 「ちゃんと歩ける日光街道 奥州街道 五街道ウォーク・八木牧夫著」 が出版されました。 出版に際し、日光道中全般を歩き直しました! 本マップに写真の掲載はありません、そこで本マップと一体化させる為にHPでは写真を豊富にアップしました。 是非、出立なさる前に本マップと当HPを照らし合わせ、日光道中ウォークの行程の組立てにご活用下されば幸です。 日光街道は当初、日光海道と呼ばれましたが、正徳六年(1761)幕府道中奉行は日光道中と定めました。 それでは日光道中に旅立ちましょう! 丸一年振りの街道ウォークです。 実は去年(平成18年)の2月、交通事故に遭遇してしまいました、もらい事故です。 自転車で車道を走行中、ご婦人の運転する乗用車に接触され転倒し、顔面打撲と左手首を骨折しました。 お陰様で傷も癒えましたので、街道ウォークの再開です。 街道ウォークを始めた頃はホームページはおろかデジカメなどありませんでした。 従って、今後の街道ウォークは全て歩き直しのデジカメ道中です、うれしいですね、新しい発見が楽しみです。 今回の日光道中ウォークは一往復半目の街道ウォークになります。 今回のウエアリングは最新アイテム編に記載してあるデサント・エクスプラスサーモの上下アウター、インナーは新庄のパンツ、上はモンベル・ジオライン EXP ハイネックシャツの計4枚です。 午後は台風並みに発達した爆弾低気圧の冷たい強風に見舞われましたが、快適そのものでした。 6人の男達が日本橋に集合しました、本日は七草ウォーク日光道中篇です、それでは出立しましょう!
右手の地下横断歩道(黄色矢印)にて横断します、以前は地下通路内にホームレスの段ボール小屋が軒を連ねていましたが、今は撤去され歩き易くなりました。
徳川五代将軍綱吉の母桂昌院の信仰が篤かったといいます。
園内に宝永八年(1711)鋳造の石(こく)町時の鐘が移設されています。処刑はこの鐘を合図に行われました、刑の執行を控えた日は刻限を意図的に遅らせたところから情けの鐘と呼ばれました。
明暦の大火(1657)によって焼失すると、この地に移り馬喰町郡代屋敷と称されました。
明暦三年(1657)の大火は振袖火事とも呼ばれます、、恋患いで亡くなった娘の振袖を護摩供養したところ、火焔となって燃え上がり、江戸城をはじめ市街地の大半を焼失し、十万人の犠牲者を出す大火となりました。
この御蔵が蔵前の地名由来となりました。
山伏は再び榧寺に現れ、自分は秋葉大権現だと告白し、榧の礼に、この寺を火事から守ると約束しました、以来何度も江戸は大火に見舞われたが、寺の門前で火は止まったといいます。
天正十八年(1590)江戸に入府した家康は浅草寺を祈願所と定め、寺領五百石を与えました。
すると娘はこの若者に心惹かれて寝床に入ったのを知らず、姥が石を落し娘は死んでしまった、姥は悪行を悔みこの池に身を投げて果てました。
江戸時代の名残りをとどめる唯一のもので貴重な文化財です、全長二十五間(45.5メートル)で、広重の錦絵にも描かれています。
康平六年(1063)奥州征伐に向かう源頼義、義家父子はこの地に京の石清水八幡を勧請し今戸八幡宮と称しました。
横道を更に進むと正面に曹洞宗東洞雲山東禅寺があります、寛永元年(1624)の創建です。 境内に江戸六地蔵のひとつ、宝永七年(1710)造立の銅造地蔵菩薩坐像(東京都指定有形文化財)が安置されています。
東浅草を抜け、明治通りが交差する所が泪橋です、今は川も橋もありません、この先の小塚原刑場に引き立てられる罪人と身内の者達がここで泪の別れをした所です。
明和八年(1771)蘭学者杉田玄白等は蘭語の解剖書ターヘル・アナトミアを検証するため、ここで刑死者の腑分け(ふわけ)を行い、安政三年(1856)解体新書を著しました。
戻る際に左に入ると真覚山西光寺があります、本尊は笹団子如来と呼ばれます、団子を笹の枝に刺して供えると病に霊験あらたかといいます。
社殿脇に文政三年(1820)芭蕉忌に建立された芭蕉句碑「行く春や 鳥啼(な)き魚の 目は泪」があります。
文禄三年(1594)無事に橋が完成すると、礼に残材で社殿の修理を行い、以後、大橋の架け替えごとの成就祈願と社殿修理が恒例となりました。
延徳二年(1490)の創建です、拝殿の前扉に名工伊豆長八による鏝(こて)絵の白狐が彫刻されています。
この先には三十数軒の青物問屋が軒を連ね「やっちゃいやっちゃい」のセリ声が響いていました。
千住の一里塚跡です、宿口のため片塚で、塚木は榎でした、江戸日本橋より数えて二里目です。
無縁塔は千住宿旅籠屋一同が万延元年(1860)に建立した遊女の供養塔です。
ここに徳川家の御殿が造営され、徳川秀忠、家光、家綱等が鷹狩りの際の休息所とし、日光門主等の本陣を勤めました。
向いに千住絵馬屋・吉田屋があります、吉田家は、江戸中期から代々絵馬、地口行灯(あんどん)、凧等を描いてきた際物(きわもの)問屋です。 千住絵馬は縁取りした経木に、胡粉と美しい色どりの泥絵具で描く小絵馬です、当代の絵馬師は八代目で先代からの独特の絵柄とその手法を踏襲し、江戸時代からの伝統を守り続けています(足立区登録無形民俗文化財保持者)。
やむなくこの松を切ろうとしたとき、見事な枝振りを見た水戸藩主徳川光圀(後の水戸黄門)は切るのを惜しみ、この松に槍を立て掛けて休み 出立の時に槍もちが松の向こう側に行ってから槍を取り直せば、槍を倒したことにはならないと、粋な計らいをしました、以来、この松は槍かけの松と称せられ、以来、ここを通る大名行列は門前で松に槍を立て掛けて休息するようになりました。 樹齢三百五十年の槍かけの松は昭和二十年(1945)頃枯れてしまいました。
小石で叩くと願いが叶うといいます、大部摩耗が進んでいます。
堂内に耳の病に霊験あらたかな石造耳不動尊像が安置されています、堂前には石標「子育八彦尊道 是より二丁行」があります、咳にご利益がある明王院(赤不動)への道標です、、傍らの地蔵尊は荒川の土手にあったものです。
右手の南無妙法蓮華経題目碑の傍らに将軍家御成橋・御成道松並木跡標柱があります。
社殿の右脇には将軍石があります、享保六年(1721)徳川八代将軍吉宗が巡遊の際に腰掛けたといいます。
踏み込むと右手に成田道道標があります、成田山新勝寺への道標です。
竹の塚から保木間に入り、右手の渕江小学校手前を右に入ると左手に保木間氷川神社が鎮座しています、保木間村の鎮守です、淵江領を支配した千葉氏の陣屋跡で、当初守護神の天神社を祀ったものです。
セブンイレブンが左手にある信号交差点を右折します、ここが西保木間旧道の南口です。
しかし剛なる者は蛇の毒臭に冒され亡くなってしまった、水神宮は斬り殺された蛇を祀っています。 突当りの県道49号線を左折します、日光方面からは毛長川先の信号交差点を斜め右に進みます。
堂脇には弘化五年(1848)建立の馬頭観音像が祀られています。 先の右手石関医院辺りに草加の一里塚があったともいいますが位置は不明です、江戸日本橋より数えて四里目です。
元禄十四年(1701)の創建です、境内に旅籠武蔵屋が抱えた遊女の墓があります。
背後の草加小学校の敷地は大川図書の屋敷跡です。
徳川の世になると朋友の伊奈備前守の計らいにより草加の地に土着しました。
右手のおせん公園に木製燈篭モニュメントがあります、燈籠には是従草加宿と刻まれた銘板が取り付けてあります、ここが草加宿の日光(北)口です。
明治十七年(1884)正岡子規は高浜虚子を伴って草加を訪れました。
左手に高浜虚子句碑「順礼や 草加あたりを 帰る雁」、虚子は正岡子規に師事しました。
百代橋(ひゃくたいはし)手前の左手に松尾芭蕉「奥の細道」碑があります、奥の細道草加の章段「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」が刻まれています。
水環モニュメントは人と自然が環となり治水に取り組む姿をシンボリックに表現したものといいます、並びに標識「草加松原・北端 札場河岸公園から1.5km」があります、草加松原遊歩道はここ迄です、街道は綾瀬川沿いに直進します。
先に進むと左手に草鞋を吊り下げた祠があります、砂利道供養塔が安置されています、宝暦七年(1757)日光道中の大改修が行われ、これを記念して建立されたものです、供養塔が鷲の姿に似ているところから鷲の神様であるぎょうだいさまと呼ばれています。
並びには侯爵大山巌書の忠勇碑、用水完成記念碑等があります。
秋山家の墓所に寛永十四年(1637)建立の御湯殿山千徳丸と刻まれた小さな五輪塔(供養塔)があります。 瓦曽根秋山家の祖は、甲斐國武田氏の家臣秋山信藤(しんどう)であり、その子長藤は天正十年(1582)三月、武田氏滅亡の際、武田勝頼の遺児幼君千徳丸をともなって瓦曽根村に潜居しました、千徳丸は間もなく早世しましたが、それを悲しんだ長藤は照蓮院の住職となってその菩提を弔ったと伝わっています。
宿並に戻り、次の信号交差点を左折すると右手に浅間神社が鎮座しています、中町の鎮守です、鳥居の扁額には不二仙元社と記されています、応永三十二年(1425)銘の懸仏は越谷市指定有形文化財工芸品です、境内のケヤキは樹齢六百年で越谷市指定天然記念物です。 浅間神社前の筋は鳩ケ谷道です、赤山道とも呼ばれ日光御成道の鳩ケ谷宿に通じています。
宿並を進むと右手に市神社が鎮座しています、本町の鎮守で二と七の付く日に六斎市が立ちました。
ここが本陣大松屋福井権右衛門跡です、当初、越ケ谷町の会田八右衛門が本陣を勤めましたが、没落したため大沢町の福井家が本陣を勤め問屋名主を兼ねました。
東武スカイツリーライン高架をくぐり(黄色矢印)、突当りを右(白色矢印)に進みます、ここが旧道復帰点です。
享保五年(1720)の創建です、門前の大乗妙典一千部供養塔は元文五年(1740)の建立、境内の出世大黒天は嘉永元年(1848)の造立です。
駐車場脇に馬頭観音像、地蔵尊、石塔等が多数集められています。
左手に下間久里香取神社が鎮座しています、下間久里村の総鎮守です、例大祭に奉納される獅子舞は太夫獅子、中獅子、女獅子の三頭一組で舞う祈祷獅子の形態を保っています(埼玉県指定無形民俗文化財)。
新方川は元の千間堀です、流末は中川に落合います、新方川を渡ると越谷市から春日部市に入ります。
境内に享保六年(1721)造立の三界萬霊地蔵尊や生信忍譽と刻まれ金精様と呼ばれる男石があります、子宝に恵まれない婦人がこの石に腰掛けると授かるといいます。
大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)は利根川の本流でしたが、江戸時代初期の東遷事業により江戸湾から鹿島灘に注ぐ河川に付け替えられました、大落とは農業排水を落と(流)すの意です。 藤塚橋の位置には三蔵渡しと呼ばれる渡船場がありました、昭和八年(1933)有料の木橋が架けられ賃とり橋と呼ばれました。
境内には文政二年(1819)建立の猿田彦大神塔等があります。
新田義貞の鎌倉攻めに功があった春日部時賢(ときかた)が鎌倉鶴ケ岡八幡宮を勧請したものです、境内の大ケヤキは御神木で樹齢約六百年です。
中宿(仲町)の蓮沼庄兵衛が脇本陣を勤めた後、天保元年(1830)現在地で旅籠を営んでいた高砂屋竹内家が脇本陣を引継ぎ、嘉永二年(1849)から幕末までは五番目の本陣を勤めました、宅地四百十七坪で、明治天皇東北巡幸の際、昼食所になりました。
神社前には下喜蔵河岸(しもきぞうかし)がありました、境内の樹齢六百年のイヌグスは河岸の目印でした。
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