道中日記  4-145 甲州道中 ( 上野原 - 下初狩 ) 27.9km

 今回も前回同様
、旧道検証の旅です、2ヶ所の旧道と思われる道筋と、1ヶ所の確信が得られる旧道を確認しました。

今回最大の
難所はJR上野原駅から上野原宿迄の登坂かもしれません。

地名の
上野原は「この地は四方崖高く、この崖の上の曠野である」上の原を由来としています、正にこれを実感させられる急坂です。

 平成19年04月07日 AM 7:05 上野原宿出立 鶴川宿まで 2.0km

 新町二丁目交差点が上野原宿の起点です、出立しましょう! 

宿並には上野原宿名物の
酒まんじゅうを商う店が多数あります、米麹で発酵させた酒饅頭に集まった商人達に愛され、広く宣伝されました。

宿並の右手には豪壮な
蔵造りの旧商家を残しています。

宿並を挟んで向かいに
牛倉神社があります、上野原村の鎮守です、祭礼郡内三大祭りのひと
酒まんじゅう 蔵造りの旧商家 牛倉神社 旅籠たちばな屋跡

つで、勇壮な
暴れ神輿山車が宿内を練り歩きます。

明誠高校入口交差点を過ぎると、左手吉野スポーツ店の脇に
商人宿たち花や儀兵衛の門を残しています。

宿並右手のホテルルートインコート相模湖上野原は若松屋脇本陣跡です、旅籠屋若松屋市郎兵衛が勤めました。

幕末、
皇女和宮降嫁の際、当家は荷を取扱い、礼として屏風が下賜されました。

上野原のN.Y氏より、この
屏風写真が送付されました、有難うございます。

平成28年6月1日〜8日、上野原市庁舎展示室にて開催された第4回
りんどうの里美術展にて初公開されました。

江戸時代末期の
狩野洞林の作です。
若松屋脇本陣跡 皇女和宮下賜屏風

 本町一丁目バス停の所から上野原市消防団上野原分団第2部中部地区自主防災会本部脇の小路に入ると、正面が上野原宿本陣跡です。

堂々とした
本陣門長塀を残しています、加藤家が本陣を勤めました、明治十三年(1880)明治天皇巡行の際には行在所となりました。

本町交差点を越し、歩道橋手前右手の学校横町に入ると
上野原小学校の敷地内に推定樹齢八百年以上の大ケヤキがあります、元はここに御嶽神社があり、ケヤキは御神木でした。
上野原宿本陣跡 大ケヤキ 上野原本町分岐

 上野原本町歩道橋の所から
三叉路になっています、江戸方面からは歩道橋の左に入ります、この分岐点には案内標識「旧甲州街道 大月・甲府方面」があります、下諏訪方面からは突当りの国道20号線を右折します。

 信号交差点を越えた右手に文政十年(1827)建立の木食白道上人加持水井碑があります、原集落には井戸が無く不自由でしたが、上人が加持祈祷を行い、見事井戸を掘り当てました。

向いには文政十年(1827)建立の
大乗妙典廻国供養塔があります、六十六部達成の記念碑です。

緩い下り坂を進むと左手の玉石擁壁上に文政五年(1822)建立の
馬頭観世音文字塔が祀られています。

右手の原自治会館の手前には
道祖神
加持水井碑 大乗妙典供養塔 馬頭観音 道祖神

が祀られています。


 原自治会館先を斜め右に入ります、この分岐点にはカーブミラーに取り付けた案内標識「旧甲州街道 大月・甲府方面」があります。

下り坂を進むと左手に
墓石が並んでいます。

正面にシュロが聳える
Y字路を右に進むと鶴川入口歩道橋に出ます。

この
歩道橋で国道20号線を跨ぎ、野田尻方面に降り、県道30号線を下ります。
@原分岐 A原分岐 鶴川入口歩道橋 野田尻方面口

 道中からはこれから向かう鶴川宿が遠望できます。

左の舗装された@
大向(おおむかい)旧道に入ります。

旧道を下ると
県道に突き当たります、ここには大向バス停があります、横断歩道を渡り、再びA大向旧道に入り、石段を下ります。

細い舗装路を下り、突き当たりの
県道を右に進みます、下諏訪方面からは青い建物の平賀自動車整備工場手前のB大向旧道に入ります。
鶴川宿遠望 @大向旧道東口 A大向旧道 B大向旧道西口

 AM 7:36 鶴川宿着   野田尻宿まで 4.3km

 鶴川鶴川橋で渡ります、流末は桂川に落合います。

鶴川は甲州道中唯一の川越し河川でした、そして番所役人より川越し人足の方が怖かったといいます、団十郎一座は川に突き落とされました、これは多分に団十郎武田氏の流れを組み、人足達は小山田氏の家臣筋にあたるところからの因縁ともいいます、冬は仮橋が架橋されました。

広重は「鶴川の流れましかけ 橋を渡りて鶴川の駅 此川水増時留るといふ 絶景也」と評しています。

鶴川を渡ると鶴川宿に入ります、
鶴川宿に到着です!

鶴川は
都留川とも書かれました、鶴川宿は小宿でしたが鶴川が一旦川留になると大いに賑わいました、鶴川のが名物でした。
鶴川 鶴川宿碑

 天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると鶴川宿宿内家数は五十七軒、うち本陣一、脇本陣二、問屋一、旅籠八軒(大三、中三、小二)で、宿内人口は二百九十五人(男百五十一人、女百四十四人)でした。

 鶴川宿碑の先に進むと、左手の大樹の根元に水天宮が祀られています、並びには献灯石塔そして地蔵尊があります。

宿並は右に大きくカーブすると左手の
理法寺の参道口に天和六年(1688)建立の萬霊塔があります、生あるものの全てを供養しています。

次の左手小路口に
鶴川神社案内標識があります、それでは踏み込んでみましょう、朱塗りの大鳥居があり、扁額には牛頭天王宮と刻
水天宮 地蔵尊 萬霊塔 牛頭天王宮

まれています。


 急な石段を上ると牛頭天王社があります、寛文元年(1661)の創建で、旧鶴川村の鎮守でした。

境内に元は宿並にあった
駒つなぎ石があります。

宿並に戻ると右手の川幡家が
柏屋脇本陣跡です、建坪五十七坪で門構え無く玄関付で、問屋を兼ねました。

隣りが
旅籠澤田屋跡です、玄関屋根の棟瓦に澤田屋の屋号を掲げています。
駒つなぎ石 柏屋脇本陣跡 旅籠澤田屋跡 問屋場跡

 宿並を挟んだ向かいの加藤家が
問屋場跡です。

 鶴川バス停先左手の砂利道に入ります、枡形です。

この枡形の右手が
富田本陣跡です、建坪七十坪で門構え無く玄関付でした。

砂利道の上り詰めを左折します、この分岐点にはつる川文化協会の
案内標識「旧甲州街道(野田尻方面)」があります。

先の
Y字路は右に進みます。

左手擁壁上の民家の庭内には
枡形東口 枡形西口 Y字路分岐 石仏石塔群

庚申塔馬頭観音像等が祀られています。

 スグ先右手の車庫脇に馬頭観世音文字塔があります。

左手には古色蒼然とした
土蔵があります、まるで森の中のオブジェの様です!

下諏訪方面からは土蔵先の
Y字路を左に進みます。

竹林や雑木の中の道中を進み、ヘアピンカーブを回り込んだ先に
標識「これより甲州街道鶴川宿←」があります、ここには嘉永二年(1849)建立の馬頭観音像
馬頭観音 Y字路分岐 土蔵 馬頭観音&山王社

等があり、段上には
山王神社が祀られています。

 突当りの中央自動車道を右折して、側道を進みます。

先の
(とび)ケ崎橋にて中央自動車道を跨ぎます、下諏訪方面からは側道を右に進み、一本目を左折します。

鳶ケ崎橋を渡り、緩い上り坂を進むと左手に大椚一里塚跡碑があります、両塚共大椚(おおくぬぎ)村地内で、江戸日本橋より数えて十九里目です。

次いで右手に寛政十二年(1800)建立の
廿三(にじゅうさん)夜塔があります、月を信仰の対象にして陰暦二十三
中央高速分岐 鳶ケ崎橋 大椚一里塚跡 廿三夜塔

日の夜、
月待をする行事で、これを二十三夜待ちといいます。

 左手の玉石擁壁上に石塔がありますが、判読できません。

緩い上り坂を進むと左手防火水そうの所に
大椚宿発祥の地標柱があります、大椚は間の宿でした、傍らに安永六年(1777)建立の秋葉山常夜燈、文政二年(1819)建立の念仏供養塔があります。

右手の大樹の根方には
石仏石塔が多数並んでいます。

左手の
大椚観音堂には大日如来坐像千手観音菩薩坐像が安置
石塔 椚宿発祥の地道標 石仏石塔群 観音堂&吾妻神社

されています、境内の奥に
吾妻(あずま)神社があります、境内にあった大椚(おおくぬぎ)が地名の由来となりましたが、残念ながら枯れてしまいました。

 緩い下り坂を進み、左手の鉄塔を過ぎると、道中は中央自動車道に沿って進みます。

右手の中央自動車道をくぐる
相模湖17トンネルを過ぎると、左手の小公園に芭蕉句碑古池や かわず飛びこむ 水の音」があります、東に濁り池、その北西に殿の井戸がありました。

並びに
長峰砦跡碑があります、武田信玄は甲斐國の東口を北条の侵略から防衛する為、この地に長峰砦を築きました。

先に進み
新栗原橋で中央自動車道を跨ぎます、この分岐点には標識「これより甲州街道野田尻宿→」や木製道標があります。
芭蕉句碑 長峰砦跡碑 新栗原橋

 AM 8:51 野田尻宿着 犬目宿まで 3.5km

 新栗原橋を渡った先を枡形状に進み、切通しを抜けると野田尻宿に到着です!

野田尻宿は
鶴川が一旦川留になると大いに賑わったといいます、広重は「小松屋といへるにとまる。広いばかりにて、きたなき事おびたゞし」と酷評しています。

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると野田尻宿宿内家数は百十八軒、うち本陣一、脇本陣一、問屋一、旅籠九軒(大二、中三、小四)で、宿内人口は六百七人(男三百十三人、女二百九十四人)でした。

宿並は明治十九年(1886)の
大火で灰燼に帰してしまいました。

右手民家の庭内には
牛頭観世音文字塔が祀られています。
野田尻の宿並 牛頭観音

 宿並の右手に明治天皇御小休所址碑があります、宮田本陣跡です、敷地を残しています。

向いに
野田尻宿碑があります、碑の後のお宅は旅籠大黒屋跡です。

宿並右手の
犬嶋神社は野田尻宿の鎮守です。

野田尻宿を出ると、緩い上り坂になり、西光寺手前の左手に
お玉ケ井碑があります、旅籠恵比寿屋の美しい女中お玉は恋が
明治天皇碑 野田尻宿碑 犬嶋神社 お玉ケ井碑

実ると、礼に水不足に悩む
野田尻に澄んだ水を湧き出させました、実はお玉は竜の化身で、長峰の池の竜神と結ばれました。

 正面に臨済宗熊埜山西光寺があります、 天長元年(824)真言宗として創建され、後に臨済宗に改宗し、この辺りの総本山となりました、境内には御膳水碑があります。

西光寺前のY字路を右の
北久保旧道に入ります。

上り坂を進むと右手の段上に
天満宮が祀られています、傍らには馬頭観音像があります。

先に進むと右手に
石仏石塔が一
北久保旧道東口 御膳水 天満宮 石仏石塔群

列に並んでいます。

 先に進み、左手の長久保橋にて中央自動車道を跨ぎます。

ここには
道標「旧甲州街道 大月・甲府方面」があります。

渡り詰めからは
土道になります、旧道は原風景そのもです。

土道を進むと
県道30号大月上野原線に突き当たります、右折します。
この分岐点には
木製道標「犬目・鳥沢方面 旧甲州街道」があります。
北久保橋 旧道風情 北久保旧道西口 嶽大先達碑

 スグ先の右手に
嶽大先達(だいせんだつ)白倉宝行碑があります、富士講の修験者を統率する行者を讃えたものです。

 長閑な道中を進むと右手間知石擁壁上に荻野一里塚跡標柱があり、擁壁の外れに荻野一里塚跡解説があります。

古老の話によると北の塚木は
ヒラマツの老松であったといいます、江戸日本橋より数えて二十里目です。

先に進むと左手の丘上に小さな
赤鳥居があります、祠内には小社が二社が祀られています。

荻野バス停を過ぎると道中は中
荻野一里塚跡 一里塚跡解説 小社 矢坪橋分岐

央自動車道沿いになり、 先の
矢坪橋で中央自動車道を跨ぎます、本日4本目の中央高速跨ぎです。

 矢坪橋先の右手擁壁上に文化十年(1813)建立の大乗妙典日本廻国供養塔があります、六部と呼ばれる行者が全国六十六ケ國を巡礼し、一國一ケ所の霊場に法華経を一部ずつ納めた達成記念碑です。

スグ先の右手
スロープに入ります、矢坪旧道です、右手に矢坪坂の古戦場跡解説があります。

享禄三年(1530)相模國の
北条氏縄の軍勢が甲斐に攻め込み矢坪坂に進出、一方、武田家の家臣小山田越中守の手勢が坂の上で待ち構え、両者は坂を挟んで対峙し、やがて激戦が展開されたが、小山田勢は敗れ、富士吉田方面に敗走しました。

長閑で快適な
矢坪旧道を進みます。
日本廻国供養塔 矢坪旧道東口 旧道風情

 旧道を進むと眼下に宝篋印塔らしき石塔があります、由緒は解りません、墓石かもしれません。

右手に
武甕槌たけみかづち)神社の鳥居があります、社殿は段上に鎮座しています、軍神を祀るところから軍勢神社とも呼ばれます。

雑木林を抜けると右手に
牛馬尊青面金剛像庚申塔が祀られています。

県道30号大月上野原線に沿った擁
の中腹に残された旧道を進みます、南東方向の眺望が開けます。
宝篋印塔 武甕槌神社 牛馬尊&庚申塔 擁壁道

 右手に矢坪金毘羅神社参道標石があります。

先に進むと
座頭転がし標識があります、深い谷を挟んだヘアピンカーブの山道をこう呼びます、先導者の鈴音を頼りに進んできた盲人達が、屈曲している山道を先に回り切ってしまった先導者の鈴音の方に進み、谷底に転がるように落ちてしまったといいます。

右手の段上に
天王様が祀られています。

やがて
蛇木新田の舗装路に出ます、
金比羅神社参道 座頭転がし 天王様 矢坪旧道西口

 ここが
矢坪旧道の西口です。

 蛇木新田は甲州道中開設に伴い、新設された集落です。

右手に
旧甲州街道新田宿尾張の殿様定宿家の表札を掲げた豪壮な旧家があります、当家は代々米山伊左衛門を名乗り、尾張藩主の定宿を勤め庄屋を兼ねました。

米山家を過ぎると右手に
庚申供養塔念佛石經塔が並んで祀られています。

集落の外れで道中が右に大きく曲がると、右手の擁壁上に寛政元年
尾張家殿様定宿跡 石塔 庚申塔&馬頭尊 安達野分岐

(1789)建立の
庚申塔馬頭観音像が祀られています。

下り坂を進むと
県道30号大月上野原線に合流します、安達野分岐です、この分岐点には標識「これより甲州街道犬目宿←」や安達野バス停があります、下諏訪方面からは三叉路左の上り坂に入ります。

 左の道下には棚田の景が望めます。

右手の間知石擁壁上に
馬頭尊文字塔が祀られています。

左手に
犬目の平助(ひょうすけ)の墓案内標識があります、踏み込むと丘上の墓地に甲州郡内騒動頭取犬目村平助之碑があります。

天保四年(1833)の
飢饉から立ち直ることができないのに、天保七年(1836)の大飢饉がやって来ました、その年は、春からの天候不順に加え、台風の襲来などにより、穀物はほとんど実らず、
棚田 擁壁上の馬頭尊 馬頭尊 犬目平助の墓

死者が続出する悲惨な状況となりました。

各村の代表者は救済を
代官所に願い出ても、聞き届けてもらえず、米穀商に穀借りの交渉をしても効き目はないので、犬目村の兵助と下和田村(大月市)の武七を頭取とした一団が、熊野堂村(東山梨郡春日居町)の米穀商小川奥右衛門に対して実力行使に出ました、これを称して甲州一揆、又は甲州郡内騒動といいます。

 AM 9:46 犬目宿着 下鳥沢宿まで 4.1km

 右手の牛頭観世音文字塔を過ぎると、左手に犬目宿碑があります、犬目宿に到着です!

「この地極めて高き所にて房総の海、富士の眺望奇絶たる所」といわれました。

天保十四年(1943)の
甲州道中宿村大概帳によると犬目宿宿内家数は五十六軒、うち本陣二、問屋一、旅籠十五軒(大三、中五、小七)で、宿内人口は二百五十五人(男百二十五人、女百三十人)でした。

昭和四十五年の
大火で宿並の六割が焼失しました。

宿並の左手に
犬目平助生家解説があります、平助は家族に類が及ぶのを避けるため、書き置きの事や妻への
牛頭観音 犬目宿碑 犬目平助生家

縁状をしたためました。

一揆後、平助は逃亡の旅を重ね、晩年、こっそり
犬目村に帰り、役人の目を逃れて隠れ住み、慶応三年(1867)に七十一歳で没しました。

 犬目平助生家先の右手に明治天皇御小休所址碑があります、御休所上条盛富笹屋本陣跡です、上条家が勤めました。

宿外れ左手辺りが
岡部本陣跡です、岡部家が勤めました。

突当りを右折します、ここに道標らしき
石塔がありますが、残念ながら判読不明です。

右手
宝勝寺の参道階段口の手前に小さな二十三夜塔が祀られています。
明治天皇碑 岡部本陣跡 石塔 二十三夜塔

 曹洞宗龍澤山宝勝寺は甲斐八十八ヶ所第六番札所です、境内には一石から彫られた犬目慈母観音像が聳えています。

葛飾北斎「富嶽三十六景甲州犬目峠」や歌川広重「不二三十六景犬目峠の富士」はこの観音像辺りから写生したものといいます。

道中を進むと右手斜面に鉄製の
があります、陰陽石(男石、女石)が安置されています。

スグ先右手の間知石擁壁の上に
犬目慈母観音 犬目の富士 陰陽石 馬頭観音

馬頭観音像が二体祀られています。

 扇山登山口を過ぎると右手に享和三年(1803)建立の白馬に跨る不動尊像があります。

並びの赤鳥居は
白瀧山白馬不動尊の参道口です、山中には不動院白滝があります。

天平九年(737)夏から秋にかけて
疱瘡(天然痘)が大流行、時の天皇が神の啓示を仰ぐと、犬目の白鳥不動尊を祈願せよとのお告げがありました。

天皇の命により名僧
行基白滝に打たれ祈願すると、諸国の疱瘡が治まったといいます。

右手の奥に茅葺き屋根の
古民家があります、瀧松苑という蕎麦店です、但し完全予約制となっています。
不動尊 白馬不動尊鳥居 瀧松苑

 道なりに進むと、擁壁に設けられたスロープが現れます、ここが君恋坂旧道の東口です、この分岐点には小さな木製標識「甲州道中」があります。

雑木に覆われた
山道を抜け、県道上の土道を進むと君恋温泉前に出ます。

残念ながら近年、君恋温泉は
閉館になりました。

温泉先の左手に
馬頭観世音
君恋坂旧道東口 君恋坂旧道 君恋温泉 馬頭観音

文字塔があります。

 君恋坂日本武尊が東国征伐の帰途、自ら海神の生贄となった妃弟橘姫(おとたちばなひめ)を恋しく思い偲んだところに由来しています。

君恋温泉先で旧道は
T字路に突き当たります、右折(黄色矢印)すると土道の下り坂になります、旧道に間違いありませんが、通り抜け出来ません。

従って
左折(白色矢印)して、県道30号線に合流します、下諏訪方面からはカーブミラーの所からヘアピンカーブの上り坂に入ります。

道中が左にカーブすると、右手に寛政十年(1798)建立の
白滝山不動明王塔があります。
君恋坂旧道西口 白滝山不動明王塔 恋塚の一里塚跡

 更に下ると正面に
恋塚の一里塚が現れます、南塚を残しています、甲州道中宿村大概帳によると両塚共犬目宿地内で左(南)の塚木は杉、右(北)の塚木は松でした、江戸日本橋より数えて二十一里目です。

 ワインディングロードを下ると、左手に弘化二年(1845)建立の聖徳太子塔があります、太子は仏教の振興に勤め、仏教の父と敬愛されました。

道中を挟んだ向かいの
恋塚旧道に入ります、この分岐点の右手には朱塗り鳥居の山住神社があります、参道や境内には石仏石塔が多数あります。

旧道を進むと右手に豪壮な旧家があります、集落の西に位置しているところから屋号を
西といった
聖徳太子塔 恋塚旧道東口 山住神社 馬宿跡

馬宿でした、主の大庭家は組頭、百姓代を勤めました。

 馬宿の先から、土道になり、快適な石畳を残しています、素晴らしい遺産ですね、うれしくなります。

スグ先で旧道は
県道30号線に吸収されます、ここが恋塚旧道西口です。

この分岐点には
木製道標「←至鳥沢 旧甲州街道石畳」や宝暦十一年(1761)建立の馬頭観音像が擁壁上に祀られています。

上野原市から大月市に入り、県道をグングン下ると、右手の間知石擁壁上にが見えます、上り口の右手に
石畳 恋塚旧道西口 馬頭観音 馬頭観世音

馬頭観世音文字塔が祀られています。

 草道を上ると小社があり、脇に石仏石塔が台上に並んでいます。

山谷バス停の所で県道は左ヘアピンカーブになります。

グングン県道を下り、右手のガードレールの切れ目から斜め右の
原田旧道に入ります。

往時はいかなる
急坂であっても直登直下が基本でした、それゆえに諸街道には怖い名を冠した急坂が沢山あります。

しかし
自動車の普及に伴い、急勾配の坂道にはS字状の道を新たに開削し、勾配を緩和させています。

ですから逆にいえば、
S字状の車道脇には直登直下の旧道が隠されている可能性があるのです、この原田旧道は正に好例です。
小社&石仏石塔群 原田旧道東口

 旧道は回り込んできた県道に合流します、下諏訪方面からは消火栓カーブミラーの間から左の原田旧道の上り坂に入ります。

県道30号線をグングン下ると、左手の草地に
石塔がぽつねんと祀られています、残念ながら判読不明です。

右手擁壁上の墓地を過ぎると、左手の玉石擁壁上に
馬頭観世音文字塔が祀られています。

先に進むと、右手の人家脇に
馬頭
原田旧道西口 石塔 馬頭観世音 馬頭観世音

観世音文字塔が祀られています。

 左手の竹林の手前に地蔵尊が祀られています。

かるさわ川坂下橋で渡るとT字路に突当ります、左折します、下諏訪方面からはY字路になっています、右に進み坂下橋を渡ります。

この分岐点の中野神社前バス停の所に宝永四年(1707)建立の
道祖神や享保二年(1717)建立の供養塔等があります。

県道30号線を下ると、右にカー
地蔵尊 坂下橋分岐 石仏石塔群 中野旧道東口

ブしますが、正面に
細道を残しています。

偶然、居合わせたご老人に聞いたところ「アァー、
明治天皇のお駕籠が通ったと聞いているよ」とお墨付きを頂きました、小躍りするくらいの嬉しさです。

直登直下の
中野旧道です!

 微妙にうねる旧道を下ると、右手の沢脇に寒念佛供養塔が祀られています。

旧道は中央自動車道の
側道に突き当たります、右折して県道30号線に合流します。

下諏訪方面からは中央自動車道をくぐったら、
十字路を右折し、一本目を左折して中野旧道に入ります。

県道をグングン下ると左手の玉石擁壁上に
馬頭観音地蔵尊道祖神庚申塔等が祀られています。
中野旧道 寒念佛供養塔 中野旧道西口 石仏石塔群

 AM 11:51 鳥沢宿着 猿橋宿まで 2.6km

 石仏石塔群の先で県道は国道20号線のT字路に突き当たります、右折します、この分岐点には大月カントリークラブ入口標識があります、下鳥沢宿に到着です!

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると下鳥沢宿宿内家数は百四十四軒、うち本陣一、脇本陣二、問屋一、旅籠十一軒(大三、中四、小四)で、宿内人口は六百九十九人(男三百六十四人、女三百三十五人)でした、上鳥沢宿とは合宿で毎月上十五日の問屋業務は下鳥沢宿が勤めました。

宿並は明治三十九年(1906)の
大火で灰燼に帰してしまいました。

富浜駐在所を過ぎると右手高台に
福地八幡神社があります、寛平年間(889〜98)の創建で、大木大明神とも称しましたが、明治維新後に現社名に復し指定村社となりました。
鳥沢分岐 福地八幡神社

 市立鳥沢小学校の所に大月市指定天然記念物のコノテガシワが聳えています、子供が手の平を立てたように樹立する巨樹です。

コノテガシワを過ぎると
上鳥沢宿に入ります!

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると上鳥沢宿宿内家数は百五十一軒、うち本陣一、脇本陣二、問屋一、旅籠十三軒(大五、中三、小五)で、宿内人口は六百五十人(男三百三十三人、女三百十七人)でした、下鳥沢宿とは合宿で毎月下十五日の問屋業務は上鳥沢宿が勤めました。

右手の文扇堂脇に
標柱「一里塚跡鳥沢」があります、上鳥沢の一里塚跡です、上鳥沢宿地内で片塚、塚木
コノテガシワ 上鳥沢の一里塚跡 一里塚標柱

でした、江戸日本橋より数えて二十二里目です。

 サア、昼食にしましょう、本日は鳥沢の現代版名物喜楽のラーメンです、楽しみにしていました、今回で3回目です。

JR中央本線
鳥沢駅入口の宿並を挟んだ、向かいの御菓子処いろはや脇に入った奥にあります。

この
喜楽は紛れもない隠れ繁盛店なのです、以前は看板も無ければ暖簾も有りませんでした、普通の民家なのです、しかし店内はいつも満員です。

カツオだしであっさりとした
醤油ラーメン(550円)で、香ばしいチャーシューが絶品です、ちなみにチャーシュー麺は750円です、いずれもお奨めです。

例により
ビールで喉を潤し、ラーメンライスで仕上げます!
喜楽 喜楽ラーメン

 宿並に戻ると左手に旅籠叶屋跡があります、明治二十年(1887)の築で、甲府商人定宿世話方でした。

鳥沢郵便局前交差点を左に入ると
福地権現神社があります、福寿明神とも呼ばれました、並びに大木明神社があり、境内には庚申供養塔があります。

上鳥沢桜屋商店前バス停の所に
明治天皇駐蹕地碑があります、井上本陣跡です。
旅籠叶屋跡 福地権現神社 明治天皇碑 西ノ宮神社

 先を右に入ると朱塗りの
西ノ宮神社があります、境内には多数の石仏石塔があります。

 スグ先を斜め右の横吹旧道に入ります、この分岐点には三栄工業株式会社看板があります。

下諏訪方面からは
国道20号線に合流します。

旧道を進むと右手竹林手前の段上に大小の
馬頭観音が祀られています。

相模川水系の
横吹沢を渡ります、 旧道はこの横吹沢高巻道そのものです。

渡って進むと旧道は
国道20号線に合流します、この分岐点には横吹団地入口バス停があります。

下諏訪方面からは斜め左に入ります。
横吹旧道東口 馬頭観音 横吹旧道西口

 小向バス停先右手のなまこ壁の蔵手前を上ると丘上に諏訪神社が鎮座しています、参道階段脇には石仏石塔があります。

先に進み、斜め右の
袴着(はかまぎ)旧道に入ります、この分岐点には郵便ポストがあります。

スグ先の
Y字路は左に進みます、下諏訪方面からは突当りを右折します。

分岐点の左手には永和四年(1378)建立の
道祖神があります。
諏訪神社 袴着旧道東口 @袴着旧道分岐 道祖神

 旧道を進み、突当り左の土道を下ります、この分岐点には風合い満点の薪小屋があります。

急な土道を下ると
国道20号線に合流します、下諏訪方面からは宮谷橋を渡り、左手左カーブ警戒標識の所から、左上り坂の土道に入ります。

往時はここから
桂川に向う、下り坂でしたが宮谷橋の架橋等で消滅してしまいました。

しかし
笹子川沿いには旧道の痕跡を残しています、それでは検証してみましょう。

宮谷橋を渡り、左手の友あゆ販売所の所から斜め左の下り坂に入ります、ここが宮谷旧道東口です。
A袴着旧道分岐 袴着旧道西口 宮谷旧道東口

 下り坂を進み、一本目を左折します、ここには地蔵尊があります、旧道の検証後は再びここに戻ります。

一本目を左折し、先の突当りを左折します、ここから先の筋が
宮谷旧道です。

旧道を進むと右手に
桂川が迫り、左の斜面に富士浅間大神常夜燈百番供養塔等が多数あります、ここは精進場でした。

富士山を目指す
富士講信者水垢離場で賑わった所です。

精進場から江戸方面を見ると旧道をシッカリ残しています、先は袴着旧道に通じていました。
地蔵尊 精進場跡 宮谷旧道江戸方面

 地蔵尊前に戻り、正面の舗装路を上ります。

上り詰めると
宮谷入口交差点に出ます、国道20号線に合流せず、Uターンして左の下り坂に入ります。

道なりに進み、先で
国道20号線に合流します、ここが宮谷西口です、この分岐点には89.9km標識があります、下諏訪方面からは重要な分岐ポイントです。

東町バス停を過ぎると、右手の
東町自治会館の敷地内に稲荷社
宮谷分岐 宮谷入口分岐 宮谷西口 稲荷社

祀られ、
七面大明神常夜燈南無妙法蓮華経題目碑等があります。

 稲荷社の向いタムラ自動車の斜め左の東町旧道に入ります、下諏訪方面からは国道20号線に合流します。

下り坂を進み、一本目を右折します。

旧道は長閑な
草道になります。

左手の
山並を眺めながら進むと、上り坂の舗装路になり、国道20号線に突き当たります。

国道20号線を横断し、
小菅方面に入ります、下諏訪方面からは国道20号線を横断し、斜め右に入ります。
東町旧道東口 東町旧道分岐 東町旧道 東町旧道西口

 左手の眼下に猿橋が望めます、北詰には芭蕉句碑「うき我を 淋しがらせよ かんこ鳥」があります。

名勝猿橋橋脚を使わず、両岸から張り出した四層の刎木(はねぎ)で橋を支えています。

日本三大奇橋(周防の錦帯橋、木曽の桟)のひとつです、現在の猿橋は嘉永四年(1851)の図面を元に昭和五十九年に復元されたものです。

広重は橋を眺めながら「猿橋の向ふ茶屋にて昼喰、やまめの焼きびたし菜びたしなり」と寛いでいます。

甲陽鎮撫隊は敗走時、猿橋の焼き落としを計画したが、春日盛(佐藤彦五郎)は土地人が難渋すると猛
猿橋 芭蕉句碑 刎橋構造の猿橋

反対、これが受け入れられたました。


 猿橋の眼下には美しい桂川の渓谷が望めます、桂川笹子川を吸収して相模國に入ると、相模川と名を変え、流末は馬入川となり相模灘に注いでいます。

捕吏に追い詰められた
国定忠治は傘を差して猿橋から桂川に飛び降りたという伝説があります。

猿橋の南詰には
芭蕉句碑「枯れ枝に 鴉とまりけり 秋の暮」があります。

南詰の広場には
明治天皇御召換所址碑山王宮があります。
桂川 芭蕉句碑 明治天皇碑 山王宮

 PM 1:02 猿橋宿着 駒橋宿まで 2.8km

 猿橋を後にして新猿橋西交差点を右折して国道20号線に合流します。

下諏訪方面からは交差点を左折します。

この交差点辺りが猿橋宿の
東口です、猿橋宿に到着です!

猿橋宿は比較的大きな宿場で芝居小屋などもあったといいます。

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると猿橋宿宿内家数は百三十八軒、うち本陣一、脇本陣二、問屋一、旅籠十軒(大二、中五、小三)で、宿内人口は五百四十二人(男二百六十七人、女二百七十五人)でした。

宿長は三町三十四間(約385m)でした、猿橋警察官駐在所辺りが猿橋宿の西口でした。
新猿橋西分岐 馬頭観音群

 猿橋宿を後にして、幼稚園前バス停を過ぎると、左手に
馬頭観音群があります、大きな馬頭観世音文字塔は運送業者が建立したものです。

 宮下橋南詰交差点を過ぎると右手に日蓮宗円行寺があります、参道口には明治十三年(1880)建立の南無妙法蓮華経題目碑、文久二年(1862)建立の廿三夜塔道祖神等が祀られています。

並びに
三嶋神社があります、殿上(とのうえ)村の産土神で、祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)、御神体は衣冠の立像です。

大月市猿橋町歩道橋の左手がJR中央本線
猿橋駅です。

駅前通りバス停を過ぎると、左手の空地に
青面金剛王庚申塔馬頭観音が祀られています。
円行寺 三嶋神社 庚申塔

 右手に浄土宗法國山光明院阿弥陀寺があります、郡内観音霊場第二十八番札所です、参道口の南無阿弥陀仏名号碑には弾誓上人御舊跡と刻まれています、阿弥陀寺は弾誓(たんせい)上人によって開山されました。

名号碑の傍らに
標柱「一里塚跡 猿橋」があります、両塚共殿上(とのうえ)村地内で塚木はモモノキでした、江戸日本橋より数えて二十三里目です。

山梨中央自動車の所から斜め右
阿弥陀寺 参道口 殿上一里塚跡 殿上分岐

の下り坂に入ります、下諏訪方面からは
国道20号線に合流します。

 喧騒から離れた、長閑な道中を進み相模川水系の熊沢宮田橋で渡ります。

大西商店向いの玉石擁壁上に,万延二年(1861)建立の
庚申塔、他に石塔が二基あります。

大月駒橋郵便局を過ぎると緩い上り坂になります。

駒橋発電所送水管を越したら、斜め左の上り坂に入ります。

JR中央本線を
第五甲州街道踏
熊沢 石塔 送水管分岐 踏切

にて横断します。

 PM 1:29 駒橋宿着 大月宿まで 1.1km

 踏切先の上り坂を進むと一旦、国道20号線に合流しますが、再び横尾橋バス停の所から斜め右に入ります、駒橋宿に到着です!

駒橋宿には強瀬、岩殿への、桂川の
渡船場がありました。

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると駒橋宿宿内家数は八十五軒、うち問屋一、旅籠四軒(中二、小二)で、宿内人口は二百六十七人(男百二十八人、女百三十九人)でした。

右手に
厄王大権現があります、社殿前には平和祈願之石が祀られています、太平洋戦争の大月空襲で桂川に爆弾が落ち、大石を吹き上げたが、厄王大権現の霊験によりその石は境内に落下し、住民に被害は無かったといいます。
駒橋分岐東口 厄王大権現 平和祈願之石

 宿並の右手に寛政五年(1793)建立の秋葉山常夜燈があり、並びに甲斐特有の丸石道祖神が祀られています。

宿並は
国道20号線に合流します、下諏訪方面からは斜め左に入ります。

コンビニを過ぎると、右手に
旅籠橿屋跡が現存しています、門柱に旧屋号橿屋を掲げています。

道中は
駒橋上宿北京亭前バス
常夜燈&道祖神 駒橋分岐西口 旅籠橿屋跡 大月分岐東口

先の札幌ラーメン満北亭を斜め(白色矢印)に入ります、直進(黄色矢印)すると三嶋神社があります。

 国道20号線左手の三嶋神社は大同元年(806)創建の古社で、大月の総鎮守です。

境内には
大槻紀念碑があります、境内に樹齢千二百年の大槻(おおつき)と呼ばれるケヤキが四本あり、これが大月の地名由来となりました。

大月分岐の戻って進むと、正面に
岩殿山の山容が迫ります、岩殿城は武田二十四将の一人小山田出羽守信茂の居城でした。

天正十年(1582)
織田勢が甲斐に侵攻すると、小山田信茂は織田方に寝返ってしまった。

新府城を落ちのび、岩殿城に向った武田勝頼
三嶋神社 大槻碑 岩殿山

は進退極まり
田野の地で自刃しました、信長は主に弓引いた信茂を切り捨てました。

 PM 1:42 大月宿着 下花咲宿まで 1.8km

 国道139号線高架をくぐると道中はJR中央本線に沿って進み、さつき商店街通りになります。

JR中央本線
大月駅を過ぎると、大月二丁目交差点にて国道20号線に合流します、この辺りが大月宿の東口です、大月宿に到着です!

大月宿は
富士街道との追分を控え、富士講の人々で大いに賑わいました。

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると大月宿宿内家数は九十二軒、うち本陣一、脇本陣二、問屋一、旅籠二軒(中一、小一)で、宿内人口は三百七十三人(男百七十一人、女二百二人)でした。
国道高架 大月分岐西口 明治天皇碑

 大橋屋先の左手に
明治天皇御召換所趾碑があります、ここが溝口本陣跡です、当主は代々溝口五左衛門を襲名しました。

 宿並を進むと大月橋東詰に突き当たります、ここが富士山道の追分です、左折(黄色矢印)が富士山道で、富士講の行者達で大いに賑わいました。

この追分には文久二年(1862)建立の
道標「右甲州道中 左ふじミち」、並びには名号碑道標津島牛頭天王社馬頭観音、文政十三年(1830)建立の常夜燈等があります。

往時、この追分は
T字路でした、甲州道中は右折(白色矢印)でしたが、今日この道筋は消滅してしまいました、左図の通りに迂回しましょう。
大月旧道トレース 富士山道追分

 明治天皇碑前に戻り、標識「富士吉田公共職業安定所大月出張所100m」に従って左折します。

富士急大月線、次いでJR中央本線を跨ぎます。

突当りの
十字路を左折します、この分岐点にはカネデンがあります以前はサンケイ新聞でした。

桂川新大月橋で渡ります、消滅した旧道はこの手前辺りに通じていました、従って新大月橋から先は甲州道中になります。
@迂回路 A迂回路 桂川 花咲分岐

 
らーめんどさん子の先で国道20号線に合流します、下諏訪方面からは斜め左に入ります。

 PM 2:06 下花咲宿着 下初狩宿まで4.4km

 スグ先の左手に下花咲宿標柱があります、下花咲宿に到着です!

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると下花咲宿宿内家数は七十七軒、うち本陣一、脇本陣二、問屋一、旅籠二十二軒(大六、中五、小十一)で、宿内人口は三百七十四人(男二百二人、女百七十二人)でした、上花咲宿合宿問屋業務は月のうち下十五日を勤めました。

標識の後ろには夥しい数の
石仏石塔があります、その中に天保十三年(1842)建立の芭蕉句碑「しばらくは 花の上なる 月夜かな」があります。

並びに復元された
下花咲の一里塚があります、
下花咲宿標柱 芭蕉句碑 下花咲の一里塚

江戸日本橋より数えて二十四里目です。


 宿並を進むとガスト先の右手に下花咲宿星野本陣遺構が現存しています、現在の建物は天保六年(1835)の火災で焼失した後に再建されたものです(国重要文化財)。

星野家は
本陣を勤め、庄屋問屋名主を兼ねました、多数の古文書等を残しています。

建物の前には
明治天皇花咲御小休所碑があります、明治十三年(1880)明治天皇京都巡幸の際、休息所となりました。

藍屋先を右に入ると
稲村神社があります、大同二年(807)の創建で、上下花咲村の鎮守です、永代総代は下花咲宿の本陣を勤めた星野家です。 
下花咲宿星野本陣 明治天皇碑 稲村神社

 上花咲宿着

 大月インター入口交差点を過ぎると、左手に道祖神が祀られています、この辺りが上花咲宿です。

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると上花咲宿宿内家数は七十一軒、うち本陣一、脇本陣二、問屋一、旅籠十三軒(大六、中四、小三)で、宿内人口は三百四人(男百五十人、女百五十四人)でした。

下花咲宿合宿問屋業務は月のうち上十五日を勤めました。

昔、この地に
の大樹があって枝葉が広がり、花が咲くと旅人が木陰に憩い、枝を手折ってかざしたところから花折と呼びこれが地名になったとか、笹子川桂川に合流する地で、両川に挟まれた(はな)の崎にあるところが地名の由来になっています。

上花咲バス亭先の
セレモホールはなさきを過ぎると斜め右に入る筋があり
道祖神 上花咲旧道口

ます、
旧道痕跡です。

 踏み込むと右手に明治廿七年(1894)建立の廿三夜塔があります、村内安全と刻まれています。

向いの段上には夥しい数の
石仏石塔が並べられています。

残念ながらこの先は
人家に阻まれて行き止まりです。

中央自動車道高架をくぐると、クロネコヤマト手前の左手に
標識「尾曽後峠(鎌倉街道)」があります、尾曽後峠(おそごとうげ、天神峠)越えの旧鎌倉街道です。
廿三夜燈 石仏石塔群 尾曽後峠標識 真木橋

 大月警察署を過ぎると、
笹子川真木橋で渡ります。

 大月市真木歩道橋の右手に親鸞聖人舊跡太布名号碑があります、ここから北約1.5kmの福正寺には聖人が白布に南無阿弥陀仏と描いた名号布があります。

歩道橋手前を左に入ります、
真木旧道です。

旧道内には趣のある
旧家を残しています。

旧道はスグ先で再び
国道20号線に合流します、下諏訪方面からはGS Mobil先を斜め右に入ります。
親鸞聖人舊跡碑 真木旧道東口 旧道内の旧家 真木旧道西口

 右手の石段を上ると真木諏訪神社が鎮座しています、真木村の産土神、入母屋造りの本殿は文政十年(1827)の再建、見事な彫刻は八王子の藤兵衛によるものです(大月市指定文化財)。

真木川初月橋で渡ります、真木川は小金沢連嶺に源を発し、流末は笹子川に落合います。

初月橋を渡ると右手に
お食事いなだやがあります。

JAクレイン笹子川支店先の
源氏
真木諏訪神社 真木川 いなだや 源氏橋

笹子川を渡ります。

笹子川は笹子山の南谷に源を発し、真木川を吸収し、流末は桂川に落合います。

 源氏橋の渡り詰めを右折(白色矢印)します、渡り詰め(黄色矢印)の筋は旧道痕跡です。

いつの日か長靴と作業着で分け入ってみたいですね、
石畳道馬頭観音があるかもしれません、しかしながら勝手なことも出来ません、検証整備を待ちましょう。

JR中央本線に沿って進むと、
甲州砕石鉱業所内に出ます、道中は直進(白色矢印)しますが、ここをUターン(黄色矢印)すると左手に丸山の石仏石塔群があります。
源氏橋分岐 旧道痕跡 砕石工場内分岐 丸山石仏石塔群

 石仏石塔群脇から丸山に登ると、頂上に古峯神社が祀られ、下初狩宿が一望です。

この石仏石塔群辺りに
丸山の一里塚があったともいいますが、存在、位置共に不明です、江戸日本橋より数えて二十五里目です。

一説によりますとこの
丸山が遠目に一里塚のように見えたともいいます。

道中に戻ると左手の段上に
馬頭観音庚申塔石祠地蔵尊
丸山頂上 古峯神社 石仏石塔 JR中央本線踏切

が並んでいます。

JR中央本線を
第七甲州街道踏切で渡ります。

 踏切を越えた先の右に聖護院道興(どうこう)歌碑「今はとて かすみを分けて かえるさに おぼつかなしや はつかりの里」があります。

道興は
関白近衛房嗣(ふさつぐ)の子で、仏門に入り大僧正となり、天台宗寺門派修験宗(山伏)の総本山聖護院の座主を勤め、諸国を行脚し、各地の霊場や名所を訪ね、その様子を回国雑記に記しています、それによると文明十九年(1487)この地を通過する際に、帰雁(きがん)が鳴く様を地名にちなんで詠んだものです。

碑の先で土石流危険渓流と標識に記された、相模川水系
寒場沢を跨ぎます。

左手のガレージの所に
馬頭尊が祀られています。
道興歌碑 寒場沢 馬頭尊

 PM 3:10 下初狩宿着 

 道中は国道20号線に合流します、下諏訪方面からは100K1標識先を斜め右に進みます、下初狩宿に到着です!

初狩の地名は富士野の狩りをこの辺りから始めたところに由来しています。

天保十四年(1843)の
甲州道中宿村大概帳によると下初狩宿宿内家数は百五十六軒、うち本陣二、脇本陣二、問屋一、旅籠十二軒(大三、中四、小五)で、宿内人口は六百十六人でした。

中初狩宿とは合宿で、問屋業務は月の内十六日から晦日までを勤めました。

宿並右手の道下が
奥脇家本陣跡です、堂々とした門構えを残しています、主屋は慶応年間(1865〜68)の建築です。
下初狩分岐 奥脇家本陣跡

 母屋の玄関にはみどうの屋号が掲げられています。

本陣前に
山本周五郎生誕之地碑があります、周五郎は明治三十六年(1903)六月二十二日、先程通過した寒場沢沿いにあった奥脇家の御堂(みどう)屋敷の長屋で生れました。

明治四十年(1907)
寒場沢土石流で長屋は流失し、周五郎は家族を失いました。

左に
大野脇本陣跡があります。
みどう 山本周五郎碑 大野脇本陣跡 常夜燈&廿三夜塔

 本陣先の右手に
廿三夜塔が祀られています、傍らには修復された明治四十年(1907)九月建立の常夜燈があります。

 スグ先の初狩駅前交差点が下初狩宿の起点です。

空模様が怪しくなり、ぽつりポツリと降り出した雨が、本格的になってきました、交差点にあるローソンで
雨宿りです、3時のおやつとしましょう。

雨が上がる気配がありません、通常の
街道ウォークであれば、サッとポンチョを出し、シューズにレインカバーを装着、肩で風を切って進みます。

しかし今回は
検証ウォークです、首から吊り下げたメモ用紙や、ひ弱なデジカメは雨に耐えられないでしょう、缶チューハイを買って、駅に直行です!
3時のおやつ

※ ローソンは廃業になりました。



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